Dグレ劇場 青ひげ
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「ミナミ」
ティキの声が、廊下に低く落ちた。
甘いはずの声だった。
何度もミナミの耳元で囁かれた、大好きな声。
でも今は、その温度が違っていた。
「身体…冷たいね。どこに行ってたのかな」
頬に触れていたティキの指が、すっと首筋へ滑る。
その瞬間、ミナミの身体が小さく震えた。
黒い扉の向こう、あの冷凍庫のような部屋に
入った証拠が、今、ミナミの肌に残っている。
誤魔化せない。
ティキはすべて分かっている。
「……ティキ」
名前を呼んでも、彼は笑わなかった。
さっきまでの気怠げな白い顔が、ゆっくりと別のものへ変わっていく。
肌の色が黒く、瞳の色が沈む。
深く。
暗く。
そして次の瞬間、ぞっとするほど鮮やかな金色が、彼の瞳を満たした。
人ではないものの色。
ミナミの愛した優しい旦那様の奥に眠っていた、黒い本性。
廊下の空気が変わった。
寒さとは違う。
殺意に近い、重く禍々しい気配が、ティキの身体から滲み出していた。
それだけで膝が砕けそうになる。
息をするだけで、喉の奥が凍りつく。
「ミナミ。鍵は?」
ティキはゆっくりと首を傾げた。
「……っ」
ミナミの唇が震える。
黒い鍵は、あの部屋の中に落としてきた。
床に転がったままだ。
死者たちの眠る、あの冷たい部屋の中に。
言えなかった。
言えば、すべてが終わる気がした。
けれど黙っていても、もう終わっている。
ティキの金色の目が、ミナミを見下ろしている。
優しさの影など、どこにもない。
あるのは、ひどく静かな失望にも似た冷たさだった。
「……あの部屋を開けたんだな?」
ミナミの呼吸が止まる。
ティキは笑った。
冷たく。
綺麗に。
残酷に。
「お前も、あの子たちみたいに」
彼の指が、ミナミの顎を捕らえた。
逃げられない力で、上を向かされる。
「俺が怖くなっちゃった?」
その言葉に、胸の奥がずきりと痛んだ。
怖い。
怖かった。
今も怖い。
金色の瞳も。
黒い扉の向こうにあったものも。
この人が、自分の知っている優しいティキだけではなかったことも。
何より、彼が簡単にミナミを殺せる存在なのだと分かってしまったことも。
怖くて、怖くて、身体が震えている。
「ごめんなさい……」
ミナミは絞り出すように言った。
ティキの指先が、ぴくりと動く。
「でも……でもっ……」
声が震える。
涙が滲む。
それでも、ミナミは彼から目を逸らさなかった。
「私、ティキのことが大好きで……」
金色の瞳が、わずかに細まる。
「それなのに、私に隠し事をするティキが許せなくて……つい……」
最後の言葉は、ほとんど息のようだった。
謝罪になっていない。
言い訳にもなっていない。
ただ、ミナミの中にあるぐちゃぐちゃの感情が、剥き出しのまま零れ落ちただけだった。
ティキは黙っていた。
その沈黙が怖い。
殺される。
そう思った。
彼の指先に、ほんの少し力が込もるだけで、自分の命など簡単に終わってしまう。
あの部屋の人たちと同じように。
美しく凍らされ、飾られ、過去の一部にされてしまう。
普通なら逃げる場面だった。
泣いて許しを乞う場面だった。
「もう見ません」と言うべきだった。
だが、ミナミの身体は逆に動いた。
「……っ」
彼女はティキの冷たい殺意の中にいることを選んだ。
そして、力いっぱい彼を抱きしめた。
「ミナミ?」
低い声が落ちる。
ミナミは構わず、彼の胸に顔を埋めた。
黒い外套越しに、ティキの身体の硬さが伝わる。
いつもなら抱き返してくれる腕が、今は動かない。
それでもミナミは離さなかった。
離したくなかった。
殺される一歩手前で、怪物の喉元に、自分から頬を寄せた。
「……あれを見て、怖くねぇの?」
ティキの声が、耳の上から降ってくる。
その問いに、ミナミはすぐに答えられなかった。
怖くない。
そう言えたら綺麗だった。
全部受け入れると、迷いなく笑えたら格好よかった。
でも、違う。
怖い。
怖かった。
あの凍った人たちの顔。
彼らがかつてティキに愛されたかもしれないという事実。
そして、その結末があの冷たい部屋だったこと。
全部怖い。
身体が震えている。
息がうまく吸えない。
今でも逃げたい。
けれど――逃げたくない。
ミナミは、自分の中にある感情を必死に見つめた。
恐怖。
嫉妬。
愛しさ。
怒り。
執着。
独占欲。
そのどれもが、ティキへ向かっている。
怖いのに好き。
怖いのに離れたくない。
怖いのに、この人の一番奥まで入りたい。
そして何より、ティキが自分に触れなくなることの方が、ずっと怖い。
あの部屋の人たちは、もう彼に抱きしめてもらえない。
名前を呼んでもらえない。
口づけてもらえない。
愛されたかもしれないのに、もう二度と彼の現在には戻れない。
その事実が、殺されるよりもミナミには恐ろしかった。
ミナミはゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた瞳で、金色のティキを見つめる。
「……怖いよ、ティキ」
声は震えていた。
「身体が震えて止まらないくらい、本当に怖い……」
ティキは黙ったまま、ミナミを見下ろしている。
ミナミは彼の外套を握りしめた。
「でもね」
息を吸う。
胸が痛い。
それでも、言わなければならない。
これが、ミナミの答えだった。
「私の怖いは殺されることじゃない。あの人たちみたいに、ティキが私に触れてくれなくなる方が、もっと怖いの」
ティキの瞳が、わずかに揺れた。
ミナミは続ける。
もう止まらなかった。
「一生、私だけを見て。私だけを愛して。それだけがあれば、私はあなたを裏切らない」
涙が頬を伝う。
けれど唇は、どこか笑っていた。
歪んでいた。
自分でも分かる。
まともではない。
こんな時に、こんな相手に、こんなことを言っている自分は相当狂っている。
しかし、その狂気こそが本音だった。
「大好きよ、ティキ」
その言葉は、懇願ではない。
誓いだった。
そして、脅しでもあった。
「――だけど、もし」
ミナミの声が、静かに低くなる。
ティキの外套を掴む指に、力がこもった。
「あなたが私に飽きて、愛してくれなくなったら……その時は、この部屋の人たちみたいに綺麗に死んであげるなんて思わないでね?」
ティキの表情が止まった。
ミナミは彼を見上げる。
震えながら。
涙を浮かべながら。
それでも、真っ直ぐに。
「あなたが私を裏切るなら、あなたのその綺麗な『黒』も、大切な『白』も、全部めちゃくちゃに壊して、道連れにしてあげるから」
廊下が、しんと静まり返った。
まるで屋敷そのものが息を止めたようだった。
ティキは動かなかった。
瞬きもしなかった。
金色の瞳が、ミナミを見下ろしている。
怪物である男を、目の前の小さな女が脅している。
殺される寸前だというのに、逃げるどころか、抱きついたまま。
愛していると言いながら、裏切ったら壊すと告げている。
普通なら、恐怖に屈するはずだった。
許しを乞うはずだった。
それなのにミナミは、ティキの黒を見た上で、なお彼を欲しがった。
受け入れるだけでは足りない。
捨てられるくらいなら、一緒に壊す。
そのあまりにも歪んだ愛が、ティキの中のノアを深く深く震わせた。
「……」
やがて、ティキの肩が、小さく震えた。
ミナミは息を呑む。
怒ったのかと思った。
けれど違った。
「……は」
掠れた笑いが漏れる。
「はは……」
次の瞬間、ティキは顔を歪めるほどに笑った。
「あはははは!」
冷たい廊下に、彼の笑い声が響き渡る。
狂ったような。
楽しそうな。
心の底から愉快で仕方がないというような声だった。
ミナミは目を見開く。
ティキは片手で顔を覆い、なおも笑い続けた。
「もう!真剣に話してるのに!」
「ああ……悪ぃな」
金色の瞳が、指の隙間から覗く。
その目はもう、さっきまでの冷たい殺意だけではなかった。
熱を帯びていた。
狂喜に近い、歪んだ歓喜。
「お前、最高だよ」
次の瞬間、ティキの腕がミナミを抱きしめ返した。
強く。
あまりにも強く。
骨が軋むほどの力で。
「っ……ティキ……!」
痛い。
苦しい。
けれどミナミは逃げなかった。
逆に彼の背を更に強く抱きしめた。
ティキはミナミの髪に顔を埋める。
低く笑いながら強く抱きしめる。
「怖いって言いながら、逃げねぇのか」
「……なんで?」
「俺を壊すって?」
「ティキが、私を捨てたら」
「ははっ」
ティキは喉の奥で笑った。
「言うなぁ、俺のミナミは」
"俺の"。
その言葉に、ミナミの胸が震えた。
嬉しくて。
怖くて。
苦しくて。
幸せで。
もう何が正しいのか分からなかった。
ティキはミナミの顎を持ち上げる。
金色の瞳が、すぐ近くにある。
もう人間の目ではない。
けれど、そこに映っているのはミナミだけだった。
「お前だけだ」
ティキは囁いた。
「この俺を見て、そんな顔で愛してるなんて言ったのは」
そして、口づけが落ちた。
奪うようで、確かめるようで、逃げ道を塞ぐような口づけだった。
ミナミの息が乱れる。
それでも彼女は、彼の胸元を掴んで離さない。
ティキもまた、離さなかった。
まるで互いが互いの檻になるみたいに。
ようやく唇が離れた時、ティキはミナミの頬に親指を滑らせた。
「お前だけが俺の正解だ」
低い声だった。
白の紳士でも。
黒のノアでもない。
その両方を抱えた、ティキ・ミックの声だった。
「本物だよ、ミナミ」
ミナミの瞳が揺れる。
ティキは甘く笑う。
その笑みは、もう以前のような穏やかなだけのものではなかった。
底のない黒を含んだ、ぞっとするほど美しい笑み。
「一生ここで甘やかしてやる」
彼の手が、ミナミの髪を撫でる。
「外になんか出さねぇ。誰にも見せねぇ。俺だけ見てりゃいい」
普通なら、恐怖する言葉だった。
だがミナミは、涙で濡れた顔のまま笑った。
「……ティキも」
「ん?」
「私だけ見てください」
ティキの目が細まる。
ミナミは彼の胸に額を押しつけた。
「私だけを愛して。私だけに触れて。私だけを、最後まで選んで」
ティキは少しの間、黙っていた。
それから、楽しそうに喉を鳴らす。
「重いなぁ」
「……嫌?」
「まさか」
ティキの腕が、もう一度きつくミナミを抱いた。
「たまんないね」
その言葉に、ミナミは泣きそうに笑った。
黒い扉は、すぐそばにある。
その向こうには、凍った過去が眠っている。
ティキが愛し、壊し、手放せなかったものたち。
それでも今、彼の腕の中にいるのはミナミだ。
殺されなかった。
許されただけでもない。
選ばれたのだ。
そしてミナミもまた、選んだ。
怪物を。
白い人間を。
黒いノアを。
優しくて残酷な、ティキ・ミックという男を。
「ミナミ」
ティキが耳元で囁く。
「もう逃げられねぇよ」
ミナミは彼の背に腕を回したまま、小さく笑った。
「ティキこそ」
その返事に、ティキは一瞬黙り、それからまた楽しそうに笑った。
二人は互いを抱きしめる。
愛の形をした檻の中で。
逃げ道を塞ぎ合いながら。
命がけで離れられないものになっていく。
最悪で。
歪で。
誰にも祝福されない。
だけど二人にとっては、これ以上ないほど幸福な結末だった。
黒い扉の前で、ティキはミナミの額に口づける。
「ただいま、俺のミナミ」
ミナミは目を閉じて、その胸に頬を寄せた。
「おかえりなさい、ティキ」
こうしてミナミは、彼の秘密を知った。
彼の黒を知った。
そして、その黒に飲まれるのではなく、抱きしめ返した。
ティキ・ミックの世界は、その日から完全にミナミを中心に回り始める。
彼女を閉じ込めるために。
彼女に閉じ込められるために。
永遠に。
おわり(`・ω・´)
2026/06/10