Dグレ劇場 青ひげ
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[Dグレ劇場青ひげ]
その屋敷は、森の奥にひっそりと建っていた。
昼間でさえ薄暗い針葉樹の森を抜けた先、白い霧の中に浮かび上がるようにして、その邸宅は姿を現す。
黒い鉄柵に蔦の絡まる石造りの門柱。
雨に濡れたような濃い灰色の外壁。
高く尖った屋根の上では、名も知らぬ黒い鳥が一羽、じっと動かずにこちらを見下ろしている。
窓は多いが、どの窓にも厚いカーテンが引かれていて、屋敷の内側にどんな光が灯っているのかは外からでは分からない。
まるで、そこに住む者の心をそのまま形にしたような屋敷だった。
美しく、静かで、どこか近寄りがたい。
けれどミナミにとって、そこは恐ろしい場所ではなかった。
「おかえり、ミナミ」
「ただいま。今日は良い野茨を詰んできたよ。ジャムを作ろうかな。それとも先にお茶にする?」
玄関扉を開ければ、いつも彼がいる。
長い廊下の奥の暖炉の火が揺れる広間に、白いシャツの袖を少し捲り、気怠げにソファへ身を預けながら、彼、ティキ・ミックは柔らかく笑う。
「今日は冷えただろ。こっちにおいで」
その声に呼ばれるだけで、胸の奥がふわりとほどけた。
外の森がどれだけ暗くても、屋敷の外観がどれほど不吉に見えても。
ミナミにとって、この場所は彼の腕の中へ帰るための家だった。
ティキは優しかった。
驚くほどに、甘かった。
朝、目覚めれば髪を撫でてくれる。
食事の席では、ミナミの好きなものをさりげなく皿に乗せてくれる。
寒い夜には、膝掛けごと抱き寄せて、からかうように耳元で囁く。
「そんなにくっついて、寂しかったのか?」
「……ティキが離してくれないだけです」
「はは。そうかもな」
笑う声は低く、穏やかだった。
彼の白い顔。
穏やかな眼差し。
紳士的な仕草。
そのすべてが、ミナミを安心させる。
だが、ティキには時折、ふっと遠くを見る癖があった。
窓の外の森でもなく、暖炉の炎でもなく、もっと深い、誰にも覗けない場所を見ているような目。
その時だけ、彼の横顔は少しだけ知らない人のように見える。
しかし、ミナミが名を呼ぶと、ティキはすぐに振り返る。
「どうした?」
そして、何事もなかったように笑うのだ。
だからミナミも、何も聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
ティキが話さないことなら、きっと話さない理由がある。
それに、彼はミナミを大切にしてくれている。
それだけで十分だと、そう思っていた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
ある霧の濃い朝だった。
屋敷の窓の外は白く霞み、森も門も見えない。
まるで世界からこの屋敷だけが切り離されてしまったような、静かな朝。
ミナミが食堂へ向かうと、ティキはすでにそこにいた。
いつもなら気怠げに椅子へ座っているはずの彼が、黒い外套を肩に掛け、旅支度を整えて、その日は立っていた。
「ティキ?」
ミナミは足を止めた。
「どこかへ行くんですか?」
ティキは振り返り、いつものように微笑む。
「少しな。野暮用だよ」
「野暮用……?」
「数日で戻る」
そう言って、彼はテーブルの上に置いてあった銀の輪を手に取った。
じゃらり、と音が鳴る。
たくさんの鍵が束ねられていた。
大きな鍵。
小さな鍵。
金色の鍵。
古びた鉄の鍵。
装飾の美しい鍵。
見たことのない形の鍵。
ティキはそれを、ミナミの手のひらにそっと乗せた。
ずしりとした重みが伝わる。
「屋敷の鍵だ」
「え……?」
「俺がいない間、退屈だろ。好きに使っていい」
ミナミは手の中の鍵束を見下ろした。
こんなにたくさんの鍵を、一度に持ったことなどない。
屋敷には、普段使っていない部屋がいくつもある。
長い廊下の先。
階段の踊り場の向こう。
鍵の掛かった客間。
書庫。
古い音楽室。
一度も開けたことのない扉。
「本当に、いいんですか?」
「いいよ」
ティキはあっさりと言った。
「好きな部屋に入ればいい。書庫でも、衣装部屋でも、地下のワインセラーでも。欲しいものがあれば使いな」
「でも……」
「ここはお前の家でもあるだろ?」
その言葉に、胸がきゅっと甘く痛んだ。
"ここはお前の家"。
その一言だけで、ミナミはどうしようもなく嬉しくなる。
ティキはそんなミナミの表情を見て、少し目を細めた。
愛おしいものを見るように。
でも、どこか確かめるように。
「ただし」
ふいに、彼の声が低くなった。
ミナミは顔を上げる。
光を吸い込むような、艶のない黒。
「最上階の奥の、黒い扉」
ミナミの指先が、ほんの少し冷えた。
"黒い扉"。
あそこだけは結婚当初から近づいてはいけないと言われてきた。
「そこだけは、開けちゃいけない」
ティキは穏やかに言った。
ただ、優しい声で、いつもと同じ微笑みで。
だからこそ、その言葉は奇妙なほど重かった。
「……どうして?」
聞いた瞬間、自分の声が小さく震えていることに気づいた。
ティキはすぐには答えなかった。
ただミナミの頬に手を伸ばし、親指でそっと撫でる。
「知りたい?」
甘い声だった。
けれど、その奥に何かがある。
白い笑顔の底に、黒い影が揺れている。
ミナミは息を呑んだ。
ティキはふっと笑う。
「駄目だよ、ミナミ」
囁くように、彼は言った。
「秘密がない男なんて、つまらないだろ?」
冗談めかした言い方にミナミは笑えなかった。
ティキの指先が頬から顎へ滑り、軽く持ち上げられる。
視線が絡む。
優しい瞳。
甘やかな微笑み。
「約束して」
「…はい…開けません」
「黒い扉は?」
「開けません」
「いい子だ」
ティキは満足げに微笑むと、ミナミの唇に口づけた。
それはいつもと同じ優しい口づけだった。
やがて彼は屋敷を出ていった。
黒い外套の裾を翻し、霧の中へ溶けるように。
玄関扉が重く閉まる。
屋敷の中に、静寂が戻った。
ミナミはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
手の中には、鍵束。
じゃらり、と少し動かすだけで、音が広い玄関ホールに響く。
まるで屋敷そのものが目を覚ましたようだった。
どこの部屋に入ってもいい。
ただし、最上階の奥にある黒い扉だけは開けてはならない。
ティキの声が、耳の奥に残っている。
ミナミはゆっくりと階段を見上げた。
赤い絨毯の敷かれた大階段は、二階へ、三階へ、そしてその先へと続いている。
普段は気にも留めなかった。
しかし今は、階段の先にある暗がりが、こちらを呼んでいるように見える。
最上階の奥の黒い扉。
「……開けないって、約束したもの」
自分に言い聞かせるように呟く。
そしてその声は、広い屋敷に吸い込まれて、すぐに消えた。
暖炉の火が、ぱちりと小さく爆ぜる。
廊下の奥で、どこかの扉が軋んだ気がした。
ミナミは鍵束を胸に抱く。
ティキのいない屋敷は、こんなにも広かっただろうか。
こんなにも静かだっただろうか。
そして――こんなにも、彼の気配で満ちていただろうか。
優しい旦那様。
甘やかしてくれる、愛しい人。
けれどミナミはまだ知らない。
彼が渡した鍵が、信頼の証なのか。
それとも、試すための罠なのか。
白い微笑みの奥に隠された、黒い愛の正体をまだ、知らない。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
ティキのいない屋敷は、時間の流れ方まで違っていた。
朝になれば、いつも通り使用人の姿もなく、食卓には温かな紅茶と焼きたてのパンが用意されている。
誰が支度をしているのか、ミナミは知らない。
この屋敷では、知らないことが当たり前だった。
廊下の花瓶には新しい花が活けられ、暖炉には火が絶えず、寝室のカーテンは毎朝きちんと開けられている。
ティキがいる時は、不思議だとは思わなかった。
彼が笑ってそばにいてくれるだけで、屋敷に満ちるすべての不可解さは、甘い霧の向こうに溶けてしまっていたから。
だけど、その彼がいない。
たったそれだけで、ミナミの周りにあった優しい世界は、少しずつ輪郭を変えはじめていた。
広間の鏡に映る自分の後ろ。
誰もいないはずの廊下の奥。
夜更けに上階から聞こえる、かすかな床板の軋む音。
風のせいだ。
古い屋敷だから。
そう思おうとするたび、ポケットの中の鍵束がじゃらりと鳴った。
ティキが託していった鍵。
屋敷のすべてを開けられる鍵。
ただ一つ、最上階の奥にある黒い扉を除いて。
「……気にしなければいいだけ」
ミナミは小さく呟いた。
約束したのだから。
ティキはいつも優しい。
ミナミの髪を撫でて、寒がれば上着を掛けてくれて、寂しいと言わなくても抱き寄せてくれる。
退屈そうに見えて、その指先はいつもミナミには甘い。
眠れない夜には、何も聞かずに腕の中へ入れてくれる。
少し泣きそうな顔をするだけで、困ったように笑って、額に口づけてくれる。
ミナミは、そんなティキが好きだった。
好きで、好きで、仕方がなかった。
白いシャツの襟元も。
気怠げに笑う口元も。
ミナミの名前を呼ぶ時だけ、ほんの少し高くなる声も。
何もかもが愛おしかった。
だからこそ、胸の奥に小さな棘が刺さった。
どうして、そこだけは駄目なの。
どうして、私には見せられないの。
私は、ティキの何なの。
彼の心にはミナミの知らない部屋がある。
鍵の掛かった、黒い部屋が。
その事実が、どうしようもなく苦しかった。
いい子でいたかった。
ティキが「駄目だよ」と言ったなら、頷いて待っていたかった。
彼が帰ってきた時に、にこにこと笑って、「ちゃんと約束を守りました」と言いたかった。
そうしたらティキはきっと笑ってくれる。
「偉いな、ミナミ」
そう言って、いつものように頭を撫でてくれる。
その手を想像しただけで、胸が甘く疼いた。
同時に、別の感情が膨らんでいく。
本当にそれでいいの?
優しいティキだけを見て、満足していていいの?
ミナミは鍵束を握りしめた。
冷たい金属の感触が、掌に食い込む。
「……ティキ」
名前を呼ぶだけで、息が震えた。
恋しさが、屋敷の静けさの中で膨らんでいく。
彼に会いたい。
声が聞きたい。
抱きしめてほしい。
そして、彼の秘密が欲しい。
二日目は、気にしないふりをした。
書庫へ入り、古い本を開いた。
けれど文字は目を滑るばかりで、内容など少しも頭に入らない。
ページの隙間に、ティキの笑顔がちらつく。
――どこの部屋に入ってもいい。だけど、あそこだけは駄目だよ。
その声を思い出すたび、ミナミの胸はきゅうっと締めつけられた。
優しい言い方だった。
けれど、どこか楽しんでいるようにも聞こえた。
まるで、ミナミがどうするのかを試しているみたいに。
「……意地悪」
ミナミは本を閉じて、小さく笑った。
嫌ではなかった。
むしろ、そんなティキまで好きだと思った。
三日目は、音楽室へ入った。
白い布を被せられたピアノの蓋をそっと持ち上げると、わずかに埃の匂いがした。
鍵盤に触れる。
ぽん、と頼りない音が響く。
その音は、広い屋敷の中であまりにも寂しく響いた。
ティキがいない。
それだけで、この屋敷はこんなにも空っぽになる。
ミナミは鍵盤の上に指を置いたまま、ぽつりと呟いた。
「私、ちゃんと待ってますよ」
誰に言うでもなく。
でも本当は、ティキに聞かせたかった。
ちゃんと待っている。
ちゃんと寂しがっている。
ちゃんと、あなたのことばかり考えている。
だから早く帰ってきて。
そして、全部教えて。
私がどれだけあなたを好きか、ちゃんと分かって。
四日目の朝。
ミナミは、とうとう最上階へ続く階段の前に立っていた。
自分で来たのではない。
そんな言い訳を、胸の中で何度も繰り返す。
ふと気づいたら、足が向いていた。
何かに呼ばれたように。
何かに手招きされたように。
けれど、本当は分かっていた。
呼んでいるのは扉ではない。
ティキだ。
あの夜、黒い鍵をミナミの手に乗せたティキ。
「開けてはいけない」と言いながら、それでも鍵を預けたティキ。
本当に開けてほしくないなら、鍵なんて渡さなければいい。
隠したいだけなら、存在さえ教えなければいい。
それなのに彼は言った。
最上階の奥に、黒い扉がある、と。
「……試してるんだよね?」
ミナミは階段を見上げながら、静かに呟いた。
胸の奥にあるのは、苦しいほどの愛しさだった。
ティキがミナミを試しているのなら、自分がどこまで彼を愛せるのか、見ようとしているのなら。
それなら応えたい。
いい子で約束を守ることが正解なのか。
それとも、彼の禁忌に手を伸ばすことが正解なのか。
ミナミには分からないことさえ嬉しかった。
ティキに悩まされている。
ティキの言葉ひとつで、心をぐちゃぐちゃにされている。
それがどうしようもなく、彼を愛している証のように思えてしまった。
階段の上は薄暗かった。
下の階には柔らかな光が差し込んでいるのに、そこから先だけが別の屋敷のように沈んでいる。
赤い絨毯は古び、壁の燭台には火が灯っていない。
ミナミは鍵束を胸に抱きしめた。
「見るだけ……」
自分でも呆れるほど弱い声だった。
見るだけ。
開けるわけじゃない。
約束は破らない。
ただ、ティキが隠している扉がどんなものなのか、それだけを確かめるだけ。
そう言い聞かせながらも、胸の奥では別の声が囁いていた。
嘘。
本当は見たい。
本当は知りたい。
本当は、ティキの秘密に触れたい。
一段ずつ、階段を上がる。
足音が大きく響いた。
屋敷全体が息を潜めて、ミナミの行く先を見守っているようだった。
最上階の廊下は、下の階とはまるで違っていた。
空気が冷たい。
息を吸うたび、胸の内側を細い氷で撫でられるような感覚がある。
窓はない。
壁には古びた絵画がいくつか掛けられている。
どれも顔の部分だけが黒く煤けていて、誰を描いたものなのか分からない。
ミナミは思わず目を逸らした。
怖い。
その怖さの中にティキの気配がある。
甘い彼ではない。
もっと深くて、暗くて、触れたら戻れなくなるような彼。
それなのに、ミナミの足は止まらなかった。
廊下の奥。
そこに、黒い扉はあった。
ティキが言っていた通りだった。
他の部屋の扉とは違う。
木製なのか、鉄製なのか、それすら分からないほど暗い。
光を吸い込み、影だけで形作られているような扉。
取っ手も黒い。
蝶番も黒い。
扉の中央には、小さな鍵穴がひとつだけ開いていた。
その穴が、目のようにミナミを見ている。
「……」
ミナミは喉を鳴らした。
近づいてはいけない。
そう思った。
思ったのに、足が一歩、前に出る。
扉の前に立つと、かすかに匂いがした。
鉄のような。
古い雨のような。
甘く腐った花のような。
不穏な気配が、扉の隙間から滲み出ている。
それは恐ろしいものだった。
けれど同時に、ミナミの胸の奥を強く掴んだ。
この向こうに、ティキの秘密がある。
彼がミナミに隠したもの。
彼が笑顔の奥に閉じ込めているもの。
優しい旦那様の、黒い部分。
(知りたい)
その思いが、はっきりと形になった瞬間、ミナミは自分の心が怖くなった。
その怖ささえ甘かった。
(彼をもっと知りたい。)
優しいところだけじゃない。
甘い言葉だけじゃない。
綺麗な笑顔だけじゃない。
ティキが何を隠していても、何を抱えていても、全部知りたい。
全部、私だけのものにしたい。
「……だって」
ミナミは唇を震わせた。
「愛してるんだもの」
それは好奇心ではなかった。
少なくとも、ミナミはそう思いたかった。
約束を破るための言い訳ではない。
秘密を暴くための欲ではない。
これは愛だ。
彼を知りたいと願う心。
彼とすべてを共有したいという想い。
彼の白も、黒も、優しさも、残酷さも、全部抱きしめたいという執着。
ティキがミナミを屋敷に閉じ込めるように愛したのなら。
ミナミだって、彼の秘密ごと愛してしまいたかった。
もし、この扉が試しなのだとしたら。
開けずに待つミナミを、ティキは「いい子だ」と褒めるのだろう。
けれど、開けたと知ったら、彼はどんな顔をするのだろう。
怒るだろうか。
笑うだろうか。
それとも、あの白い顔の奥にある黒い目で、満足そうに見下ろすのだろうか。
――やっぱりお前は、そういう子だったんだな。
そんな声が聞こえた気がして、ミナミの胸が熱くなった。
知られたい。
ティキに知られたい。
約束を守るだけの可愛い女ではいないこと。
彼の秘密を欲しがるほど、彼を愛していること。
綺麗な場所で待っているだけでは足りないほど、ティキ・ミックという男に溺れていること。
全部、知られたい。
鍵束の中から、黒い鍵を探す。
指先が震えていた。
いくつもの鍵が触れ合い、じゃら、じゃら、と冷たい音を立てる。
やがて、指先がひとつの鍵に触れた。
艶のない黒。
他のどの鍵よりも冷たい。
まるで、それだけが生きていないもののようだった。
ミナミはそれを摘まみ上げる。
黒い扉の鍵穴に、ゆっくりと近づけた。
その瞬間、背後からティキの声が聞こえた気がした。
――駄目だよ、ミナミ。
ミナミの手が止まる。
耳を澄ませる。
廊下には誰もいない。
あるのは冷たい空気と、黒い扉と、自分の浅い呼吸だけ。
「……ごめんなさい」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。
ティキに。
約束に。
それとも、まだ扉を開ける前の自分に。
けれど、その謝罪の奥で、ミナミは小さく笑っていた。
ごめんなさい。
でも、止まれません。
ごめんなさい。
でも、あなたが悪いんです。
こんな鍵を渡して。
こんな扉を教えて。
こんなふうに私を試すから。
もっと好きになってしまう。
もっと欲しくなってしまう。
黒い鍵を、鍵穴へ差し込む。
かちり。
音は小さかった。
その音は、ミナミの胸の奥で何かが壊れる音に似ていた。
いい子でいるための何かが。
知らないふりをするための何かが。
ティキの優しさだけを見て笑っているための、最後の薄い膜が。
鍵は驚くほど滑らかに回った。
まるで扉の方が、ずっとこの瞬間を待っていたかのように。
まるでティキが、最初からミナミがこうすることを知っていたかのように。
重い錠が外れる音が、廊下に響く。
ミナミは取っ手に手を掛けた。
冷たい。
指先から腕へ、腕から心臓へ、黒い水が流れ込んでくるような冷たさだった。
それでも、もう止まれなかった。
彼を知りたい。
彼のすべてを。
ティキ・ミックという男の、優しさの奥にあるものを。
そしてそのすべてを見た上で、もう一度言いたかった。
好きです、と。
あなたが何者でも。
何を隠していても。
私を試していたのだとしても。
それでも、好きです、と。
ミナミは息を止める。
「ティキ」
愛しい人の名を、最後にもう一度呼ぶ。
まるで扉の向こうにいる彼へ告げるように。
「私、あなたのこと……本当に大好きなんです」
そして、黒い扉を押し開けた。
冷気が、ミナミの全身に噛みついた。
「……っ」
思わず息が止まる。
部屋の中は、まるで冷凍庫のように冷え切っていた。
廊下の冷たさなど比べものにならない。
肌を刺すような寒気が、足先から這い上がり、指先の感覚を鈍らせていく。
吐き出した息が白く曇った。
その白が、黒い空間の中へゆっくり溶けていく。
部屋は広かった。
広いはずなのに、ひどく息苦しい。
壁も床も天井も、影を塗り重ねたような暗い色に沈んでいる。
ただ暗いだけではない。
そこには、何か禍々しいものが染みついていた。
ミナミは一歩、部屋の中へ足を踏み入れる。
靴底が、何か硬いものに触れた。
からり、と小さな音が鳴る。
視線を落とす。
床に転がっていたのは、壊れた仮面の破片だった。
白かったはずのその欠片は、ひび割れ、汚れ、もう元の形を留めていない。
少し先には、砕けたグラスのようなもの。
さらに奥には、黒ずんだ金属片。
何かの装飾品。
千切れた布。
折れた髪飾り。
どれもばらばらに転がっていて、まるで部屋そのものが、何かの残骸を飲み込んで吐き出せずにいるようだった。
そして、その匂いに、ミナミは気づいた。
鉄のような匂い。
古い雨のような匂い。
「……いや……」
声が、勝手に漏れた。
これは見てはいけない部屋だ。
知ってはいけない場所だ。
本能がそう叫んでいるのに、目はもう奥を見てしまっていた。
部屋の最奥。
そこに、それらはあった。
整然と。
静かに。
まるでコレクションのように、人間たちが様々な姿で置かれてあった。
「――っ」
ミナミの喉が引きつる。
美しい男。
美しい女。
皆、まるで蝋人形のような顔をしていた。
肌は青白い。
睫毛には霜のような白さが乗り、指先は氷の彫像のように静かだった。
衣服のまま横たえられている者もいれば、戦闘服のようなものを纏ったままの者もいた。
装飾の細やかなドレスを着た女。
端正な顔立ちの男。
どこか誇り高そうな表情のまま凍りついた者。
神々しいほどに整った容貌の者。
誰も彼も、美しかった。
そして、その美しさが却っておぞましかった。
彼らは皆、死んでいる。
凍りつき、時間から切り離され、それでもなお「並べられて」いた。
ミナミは震える唇で、息を吸うことさえ忘れる。
分かってしまった。
これは偶然ここにある死ではない。
隠された死だ。
捨てられなかった死だ。
手放せなかった死だ。
ティキが、ここへ置いた死だ。
「……ティキ……?」
愛しい人の名を呼んだはずなのに、その声はひどく弱かった。
信じたくない。
だが、目の前の光景がすべてを語っていた。
この人たちは、ただの犠牲者ではない。
かつてティキが“表の顔”で近づき、愛し、微笑みかけた人間たち。
あるいは、彼の前に立ちはだかったエクソシストたち。
けれど、内側に眠る“ノア”の本能が目を覚ました瞬間、愛も、慈しみも、白い笑顔も、何もかも無意味になった。
そして、ティキ自身の手で壊され、殺され、この部屋へ隠された。
愛したからこそ手元に残したのか。
壊したあとでも捨てられなかったのか。
それとも、これはただの蒐集なのか。
もう、ミナミには分からなかった。
ただ一つ分かるのは――
優しい旦那様の黒は、想像していたよりずっと深く、ずっと冷たく、ずっと人間ではないということだった。
足が震えた。
後ずさろうとして、膝から力が抜ける。
「ぁ……っ」
その場に、へたり込んだ。
床の冷たさが、薄い布越しに骨まで突き抜ける。
胃の奥がひっくり返る。
息が浅い。
視界が揺れる。
怖い。
怖い怖い怖い。
さっきまで“知りたい”と願っていた心が、今は悲鳴を上げていた。
知ってしまった。
見てしまった。
ティキの秘密。
ティキの黒。
ティキ・ミックという男の奥底に巣食う、ノアの本性。
そして何より、ミナミはその事実よりも別のことに打ちのめされていた。
この部屋にいる“誰か”は、かつてティキに愛されたのだ。
笑いかけられたのだ。
甘い声で名前を呼ばれたのだ。
抱きしめられたのだ。
自分と同じように。
その先に待っていたのが、この結末だった。
「……いや……いや……」
ミナミは首を振る。
違うと、思いたかった。
ティキは自分には優しかった。
本当に優しかった。
あの手の温度も、声も、眼差しも、嘘ではなかったはずだ。
嘘ではなかったと、信じたい。
なのに、目の前には、ティキに愛されたかもしれない“終わり”が並んでいる。
胸が裂けそうだった。
恐怖と、悲しみと、信じたくなさと、それでもなお消えない愛情がぐちゃぐちゃに混ざって、ミナミの中で暴れていた。
その拍子に、手の中の鍵束が滑り落ちた。
じゃらん、と硬い音が響く。
黒い鍵が床を転がり、冷たい部屋の奥へ少しだけ滑っていく。
その音にさえ、ミナミはひっと息を呑んだ。
まるで死者たちを起こしてしまうみたいだった。
「……っ」
これ以上ここにいたら、自分まで凍ってしまう。
ミナミは床に手をつき、震える足で立ち上がる。
視線がまた一瞬、奥の死体たちをかすめた。
美しい顔。
閉じた瞳。
静かな唇。
そのどれもが、まるでこう囁いているようだった。
次はあなたよ、と。
ミナミは小さく息を呑み、逃げるように扉の外へ飛び出した。
扉を閉めようとして、指が震える。
うまく力が入らない。
それでもなんとか黒い扉を押し戻し、ミナミは数歩よろめくように後退した。
心臓が壊れそうなほど鳴っている。
喉がひりつく。
手が冷たい。
なのに額にはじっとりと汗が滲んでいた。
「ティキ……」
助けを呼ぶみたいに、愛しい人の名を零す。
その名を口にした瞬間、ミナミは自分でぞっとした。
助けてほしい相手の名が、いちばん恐ろしい相手の名でもある。
こんなことがあるだろうか。
好きで、好きで、たまらない人なのに。
その人こそが、この部屋を作ったのだ。
その人こそが、あの死を並べたのだ。
その人こそが――。
こつ。
不意に、音がした。
「ミナミーー!?」
その声を聞いた瞬間、ミナミの身体がびくりと強張った。
こつ、こつ。
硬い靴底が床を打つ音。
この最上階へ続く廊下の向こうから、一定のリズムで近づいてくる。
ティキが帰ってきたのだ。
「ミナミーー? どこかな?お土産あるよー」
いつもの、少し気怠げな声。
からかうように伸ばされた呼び方。
聞き慣れた、大好きな人の声。
ほんの少し前まで、ミナミの背筋を氷の針のように刺していた足音が、その声を聞いた途端、まるで違うものに変わった。
ティキの秘密を知ってしまった怖さよりも先に、胸が跳ねた。
ティキだ。
帰ってきた。
思った瞬間、ミナミの中にあった恐怖も混乱も、全部押し流されてしまった。
会いたかった。
「ティキ!」
ミナミは顔を上げた。
閉ざしたばかりの黒い扉も、床に残る冷気も、震える指先も、その瞬間だけは意識の端へ追いやられる。
廊下の奥に、黒い外套の裾が見えた。
次いで、白い顔。
気怠げに細められた目。
いつもの彼が、そこにいた。
「おかえりなさい!」
ミナミは駆け出していた。
足が震えていることも忘れて。
ついさっきまでへたり込んでいたことも忘れて。
まるで迷子の子供がようやく迎えを見つけたように、彼の方へ真っ直ぐ走った。
「ティキ……っ!」
近づくほどに、胸がいっぱいになる。
怖かった。
見てしまった。
知らない方がよかったのかもしれない。
それでも、彼の顔を見た瞬間、最初に溢れたのは安堵だった。
好きな人が帰ってきた。
大好きな人が、自分の名前を呼んでくれた。
それだけで、ミナミの心はどうしようもなく喜んでしまう。
ティキは、廊下の途中で足を止めた。
「……ミナミ?」
駆け寄ってくるミナミを見て、彼はわずかに目を細める。
その表情はいつも通りにも見えた。
だけど、ほんの一瞬だけ、何かを探るような色が混じった。
ミナミはそれに気づかなかった。
気づけなかった。
ただ彼の胸元へ飛び込むようにして、両手を伸ばす。
「おかえりなさい、ティキ……!」
ティキの外套に触れた瞬間、ミナミは泣きそうになった。
見てしまったすべてが、頭の奥でまだ悲鳴を上げている。
でも、目の前にいる彼が愛しい。
ミナミを見ている。
名前を呼んでくれる。
その事実に、ミナミは縋るように彼を見上げた。
「早かったんですね……嬉しい」
言ってから、自分でもおかしいと思った。
こんな場所で。
黒い扉のすぐそばで。
言うべきことは他にあるはずなのに。
それでも本心だった。
怖いより先に、嬉しかった。
ティキが帰ってきたことが。
ティキの声が聞けたことが。
ティキに会えたことが。
どうしようもなく、嬉しかった。
「……へえ」
ティキの口元が、ゆっくりと笑みの形になる。
優しいようで。
甘いようで。
どこか、底の見えない笑み。
彼の視線が、ミナミの背後へ流れる。
閉ざされた黒い扉。
その前の床。
そして、ミナミの震える手。
ティキはすべてを見た。
見た上で、もう一度、ミナミへ視線を戻す。
「ただいま、ミナミ」
低い声だった。
いつもより少しだけ、甘く。
いつもより少しだけ、冷たい。
ミナミの心臓がどくんと跳ねる。
それでも彼女は逃げなかった。
逃げるどころか、もう一歩近づいた。
「……会いたかったです」
ティキの目が、ほんのわずかに見開かれる。
その一瞬を見て、ミナミは泣きそうに笑った。
「すごく、会いたかった」
黒い扉の向こうを見たあとでも。
彼の秘密を知ったあとでも。
真っ先に出てきた言葉がそれだったことに、ミナミ自身がいちばん驚いていた。
そして同時に、もう誤魔化せないと思った。
私は、この人が好きなのだ。
怖くても。
分からなくても。
たとえこの人の中に、人ではないものが眠っているとしても。
それでも、帰ってきてくれたことが嬉しい。
名前を呼んでくれたことが嬉しい。
今、目の前にいることが嬉しい。
ティキはしばらくミナミを見つめていた。
やがて、ゆっくりと手を動かす。
その指先が、ミナミの頬に触れた。
「……いい子にしてた?」
優しい声だった。
しかし、その問いは刃のように薄く、冷たかった。
ミナミの息が止まる。
頬に触れるティキの指は、いつも通り温かい。
だけど、その奥に潜むものを、もうミナミは知っている。
それでも彼女は、彼の手に頬を寄せた。
まるで、その手を失いたくないと訴えるように。
「……ティキ」
ミナミは小さく彼の名前を呼んだ。
答えはまだ、言えなかった。
けれどその声には、恐怖よりもずっと強いものが滲んでいた。
恋しさ。
執着。
そして、壊れてしまいそうなほどの愛しさが。
𝙉𝙚𝙭𝙩 ︎ ⇝
その屋敷は、森の奥にひっそりと建っていた。
昼間でさえ薄暗い針葉樹の森を抜けた先、白い霧の中に浮かび上がるようにして、その邸宅は姿を現す。
黒い鉄柵に蔦の絡まる石造りの門柱。
雨に濡れたような濃い灰色の外壁。
高く尖った屋根の上では、名も知らぬ黒い鳥が一羽、じっと動かずにこちらを見下ろしている。
窓は多いが、どの窓にも厚いカーテンが引かれていて、屋敷の内側にどんな光が灯っているのかは外からでは分からない。
まるで、そこに住む者の心をそのまま形にしたような屋敷だった。
美しく、静かで、どこか近寄りがたい。
けれどミナミにとって、そこは恐ろしい場所ではなかった。
「おかえり、ミナミ」
「ただいま。今日は良い野茨を詰んできたよ。ジャムを作ろうかな。それとも先にお茶にする?」
玄関扉を開ければ、いつも彼がいる。
長い廊下の奥の暖炉の火が揺れる広間に、白いシャツの袖を少し捲り、気怠げにソファへ身を預けながら、彼、ティキ・ミックは柔らかく笑う。
「今日は冷えただろ。こっちにおいで」
その声に呼ばれるだけで、胸の奥がふわりとほどけた。
外の森がどれだけ暗くても、屋敷の外観がどれほど不吉に見えても。
ミナミにとって、この場所は彼の腕の中へ帰るための家だった。
ティキは優しかった。
驚くほどに、甘かった。
朝、目覚めれば髪を撫でてくれる。
食事の席では、ミナミの好きなものをさりげなく皿に乗せてくれる。
寒い夜には、膝掛けごと抱き寄せて、からかうように耳元で囁く。
「そんなにくっついて、寂しかったのか?」
「……ティキが離してくれないだけです」
「はは。そうかもな」
笑う声は低く、穏やかだった。
彼の白い顔。
穏やかな眼差し。
紳士的な仕草。
そのすべてが、ミナミを安心させる。
だが、ティキには時折、ふっと遠くを見る癖があった。
窓の外の森でもなく、暖炉の炎でもなく、もっと深い、誰にも覗けない場所を見ているような目。
その時だけ、彼の横顔は少しだけ知らない人のように見える。
しかし、ミナミが名を呼ぶと、ティキはすぐに振り返る。
「どうした?」
そして、何事もなかったように笑うのだ。
だからミナミも、何も聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
ティキが話さないことなら、きっと話さない理由がある。
それに、彼はミナミを大切にしてくれている。
それだけで十分だと、そう思っていた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
ある霧の濃い朝だった。
屋敷の窓の外は白く霞み、森も門も見えない。
まるで世界からこの屋敷だけが切り離されてしまったような、静かな朝。
ミナミが食堂へ向かうと、ティキはすでにそこにいた。
いつもなら気怠げに椅子へ座っているはずの彼が、黒い外套を肩に掛け、旅支度を整えて、その日は立っていた。
「ティキ?」
ミナミは足を止めた。
「どこかへ行くんですか?」
ティキは振り返り、いつものように微笑む。
「少しな。野暮用だよ」
「野暮用……?」
「数日で戻る」
そう言って、彼はテーブルの上に置いてあった銀の輪を手に取った。
じゃらり、と音が鳴る。
たくさんの鍵が束ねられていた。
大きな鍵。
小さな鍵。
金色の鍵。
古びた鉄の鍵。
装飾の美しい鍵。
見たことのない形の鍵。
ティキはそれを、ミナミの手のひらにそっと乗せた。
ずしりとした重みが伝わる。
「屋敷の鍵だ」
「え……?」
「俺がいない間、退屈だろ。好きに使っていい」
ミナミは手の中の鍵束を見下ろした。
こんなにたくさんの鍵を、一度に持ったことなどない。
屋敷には、普段使っていない部屋がいくつもある。
長い廊下の先。
階段の踊り場の向こう。
鍵の掛かった客間。
書庫。
古い音楽室。
一度も開けたことのない扉。
「本当に、いいんですか?」
「いいよ」
ティキはあっさりと言った。
「好きな部屋に入ればいい。書庫でも、衣装部屋でも、地下のワインセラーでも。欲しいものがあれば使いな」
「でも……」
「ここはお前の家でもあるだろ?」
その言葉に、胸がきゅっと甘く痛んだ。
"ここはお前の家"。
その一言だけで、ミナミはどうしようもなく嬉しくなる。
ティキはそんなミナミの表情を見て、少し目を細めた。
愛おしいものを見るように。
でも、どこか確かめるように。
「ただし」
ふいに、彼の声が低くなった。
ミナミは顔を上げる。
光を吸い込むような、艶のない黒。
「最上階の奥の、黒い扉」
ミナミの指先が、ほんの少し冷えた。
"黒い扉"。
あそこだけは結婚当初から近づいてはいけないと言われてきた。
「そこだけは、開けちゃいけない」
ティキは穏やかに言った。
ただ、優しい声で、いつもと同じ微笑みで。
だからこそ、その言葉は奇妙なほど重かった。
「……どうして?」
聞いた瞬間、自分の声が小さく震えていることに気づいた。
ティキはすぐには答えなかった。
ただミナミの頬に手を伸ばし、親指でそっと撫でる。
「知りたい?」
甘い声だった。
けれど、その奥に何かがある。
白い笑顔の底に、黒い影が揺れている。
ミナミは息を呑んだ。
ティキはふっと笑う。
「駄目だよ、ミナミ」
囁くように、彼は言った。
「秘密がない男なんて、つまらないだろ?」
冗談めかした言い方にミナミは笑えなかった。
ティキの指先が頬から顎へ滑り、軽く持ち上げられる。
視線が絡む。
優しい瞳。
甘やかな微笑み。
「約束して」
「…はい…開けません」
「黒い扉は?」
「開けません」
「いい子だ」
ティキは満足げに微笑むと、ミナミの唇に口づけた。
それはいつもと同じ優しい口づけだった。
やがて彼は屋敷を出ていった。
黒い外套の裾を翻し、霧の中へ溶けるように。
玄関扉が重く閉まる。
屋敷の中に、静寂が戻った。
ミナミはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
手の中には、鍵束。
じゃらり、と少し動かすだけで、音が広い玄関ホールに響く。
まるで屋敷そのものが目を覚ましたようだった。
どこの部屋に入ってもいい。
ただし、最上階の奥にある黒い扉だけは開けてはならない。
ティキの声が、耳の奥に残っている。
ミナミはゆっくりと階段を見上げた。
赤い絨毯の敷かれた大階段は、二階へ、三階へ、そしてその先へと続いている。
普段は気にも留めなかった。
しかし今は、階段の先にある暗がりが、こちらを呼んでいるように見える。
最上階の奥の黒い扉。
「……開けないって、約束したもの」
自分に言い聞かせるように呟く。
そしてその声は、広い屋敷に吸い込まれて、すぐに消えた。
暖炉の火が、ぱちりと小さく爆ぜる。
廊下の奥で、どこかの扉が軋んだ気がした。
ミナミは鍵束を胸に抱く。
ティキのいない屋敷は、こんなにも広かっただろうか。
こんなにも静かだっただろうか。
そして――こんなにも、彼の気配で満ちていただろうか。
優しい旦那様。
甘やかしてくれる、愛しい人。
けれどミナミはまだ知らない。
彼が渡した鍵が、信頼の証なのか。
それとも、試すための罠なのか。
白い微笑みの奥に隠された、黒い愛の正体をまだ、知らない。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
ティキのいない屋敷は、時間の流れ方まで違っていた。
朝になれば、いつも通り使用人の姿もなく、食卓には温かな紅茶と焼きたてのパンが用意されている。
誰が支度をしているのか、ミナミは知らない。
この屋敷では、知らないことが当たり前だった。
廊下の花瓶には新しい花が活けられ、暖炉には火が絶えず、寝室のカーテンは毎朝きちんと開けられている。
ティキがいる時は、不思議だとは思わなかった。
彼が笑ってそばにいてくれるだけで、屋敷に満ちるすべての不可解さは、甘い霧の向こうに溶けてしまっていたから。
だけど、その彼がいない。
たったそれだけで、ミナミの周りにあった優しい世界は、少しずつ輪郭を変えはじめていた。
広間の鏡に映る自分の後ろ。
誰もいないはずの廊下の奥。
夜更けに上階から聞こえる、かすかな床板の軋む音。
風のせいだ。
古い屋敷だから。
そう思おうとするたび、ポケットの中の鍵束がじゃらりと鳴った。
ティキが託していった鍵。
屋敷のすべてを開けられる鍵。
ただ一つ、最上階の奥にある黒い扉を除いて。
「……気にしなければいいだけ」
ミナミは小さく呟いた。
約束したのだから。
ティキはいつも優しい。
ミナミの髪を撫でて、寒がれば上着を掛けてくれて、寂しいと言わなくても抱き寄せてくれる。
退屈そうに見えて、その指先はいつもミナミには甘い。
眠れない夜には、何も聞かずに腕の中へ入れてくれる。
少し泣きそうな顔をするだけで、困ったように笑って、額に口づけてくれる。
ミナミは、そんなティキが好きだった。
好きで、好きで、仕方がなかった。
白いシャツの襟元も。
気怠げに笑う口元も。
ミナミの名前を呼ぶ時だけ、ほんの少し高くなる声も。
何もかもが愛おしかった。
だからこそ、胸の奥に小さな棘が刺さった。
どうして、そこだけは駄目なの。
どうして、私には見せられないの。
私は、ティキの何なの。
彼の心にはミナミの知らない部屋がある。
鍵の掛かった、黒い部屋が。
その事実が、どうしようもなく苦しかった。
いい子でいたかった。
ティキが「駄目だよ」と言ったなら、頷いて待っていたかった。
彼が帰ってきた時に、にこにこと笑って、「ちゃんと約束を守りました」と言いたかった。
そうしたらティキはきっと笑ってくれる。
「偉いな、ミナミ」
そう言って、いつものように頭を撫でてくれる。
その手を想像しただけで、胸が甘く疼いた。
同時に、別の感情が膨らんでいく。
本当にそれでいいの?
優しいティキだけを見て、満足していていいの?
ミナミは鍵束を握りしめた。
冷たい金属の感触が、掌に食い込む。
「……ティキ」
名前を呼ぶだけで、息が震えた。
恋しさが、屋敷の静けさの中で膨らんでいく。
彼に会いたい。
声が聞きたい。
抱きしめてほしい。
そして、彼の秘密が欲しい。
二日目は、気にしないふりをした。
書庫へ入り、古い本を開いた。
けれど文字は目を滑るばかりで、内容など少しも頭に入らない。
ページの隙間に、ティキの笑顔がちらつく。
――どこの部屋に入ってもいい。だけど、あそこだけは駄目だよ。
その声を思い出すたび、ミナミの胸はきゅうっと締めつけられた。
優しい言い方だった。
けれど、どこか楽しんでいるようにも聞こえた。
まるで、ミナミがどうするのかを試しているみたいに。
「……意地悪」
ミナミは本を閉じて、小さく笑った。
嫌ではなかった。
むしろ、そんなティキまで好きだと思った。
三日目は、音楽室へ入った。
白い布を被せられたピアノの蓋をそっと持ち上げると、わずかに埃の匂いがした。
鍵盤に触れる。
ぽん、と頼りない音が響く。
その音は、広い屋敷の中であまりにも寂しく響いた。
ティキがいない。
それだけで、この屋敷はこんなにも空っぽになる。
ミナミは鍵盤の上に指を置いたまま、ぽつりと呟いた。
「私、ちゃんと待ってますよ」
誰に言うでもなく。
でも本当は、ティキに聞かせたかった。
ちゃんと待っている。
ちゃんと寂しがっている。
ちゃんと、あなたのことばかり考えている。
だから早く帰ってきて。
そして、全部教えて。
私がどれだけあなたを好きか、ちゃんと分かって。
四日目の朝。
ミナミは、とうとう最上階へ続く階段の前に立っていた。
自分で来たのではない。
そんな言い訳を、胸の中で何度も繰り返す。
ふと気づいたら、足が向いていた。
何かに呼ばれたように。
何かに手招きされたように。
けれど、本当は分かっていた。
呼んでいるのは扉ではない。
ティキだ。
あの夜、黒い鍵をミナミの手に乗せたティキ。
「開けてはいけない」と言いながら、それでも鍵を預けたティキ。
本当に開けてほしくないなら、鍵なんて渡さなければいい。
隠したいだけなら、存在さえ教えなければいい。
それなのに彼は言った。
最上階の奥に、黒い扉がある、と。
「……試してるんだよね?」
ミナミは階段を見上げながら、静かに呟いた。
胸の奥にあるのは、苦しいほどの愛しさだった。
ティキがミナミを試しているのなら、自分がどこまで彼を愛せるのか、見ようとしているのなら。
それなら応えたい。
いい子で約束を守ることが正解なのか。
それとも、彼の禁忌に手を伸ばすことが正解なのか。
ミナミには分からないことさえ嬉しかった。
ティキに悩まされている。
ティキの言葉ひとつで、心をぐちゃぐちゃにされている。
それがどうしようもなく、彼を愛している証のように思えてしまった。
階段の上は薄暗かった。
下の階には柔らかな光が差し込んでいるのに、そこから先だけが別の屋敷のように沈んでいる。
赤い絨毯は古び、壁の燭台には火が灯っていない。
ミナミは鍵束を胸に抱きしめた。
「見るだけ……」
自分でも呆れるほど弱い声だった。
見るだけ。
開けるわけじゃない。
約束は破らない。
ただ、ティキが隠している扉がどんなものなのか、それだけを確かめるだけ。
そう言い聞かせながらも、胸の奥では別の声が囁いていた。
嘘。
本当は見たい。
本当は知りたい。
本当は、ティキの秘密に触れたい。
一段ずつ、階段を上がる。
足音が大きく響いた。
屋敷全体が息を潜めて、ミナミの行く先を見守っているようだった。
最上階の廊下は、下の階とはまるで違っていた。
空気が冷たい。
息を吸うたび、胸の内側を細い氷で撫でられるような感覚がある。
窓はない。
壁には古びた絵画がいくつか掛けられている。
どれも顔の部分だけが黒く煤けていて、誰を描いたものなのか分からない。
ミナミは思わず目を逸らした。
怖い。
その怖さの中にティキの気配がある。
甘い彼ではない。
もっと深くて、暗くて、触れたら戻れなくなるような彼。
それなのに、ミナミの足は止まらなかった。
廊下の奥。
そこに、黒い扉はあった。
ティキが言っていた通りだった。
他の部屋の扉とは違う。
木製なのか、鉄製なのか、それすら分からないほど暗い。
光を吸い込み、影だけで形作られているような扉。
取っ手も黒い。
蝶番も黒い。
扉の中央には、小さな鍵穴がひとつだけ開いていた。
その穴が、目のようにミナミを見ている。
「……」
ミナミは喉を鳴らした。
近づいてはいけない。
そう思った。
思ったのに、足が一歩、前に出る。
扉の前に立つと、かすかに匂いがした。
鉄のような。
古い雨のような。
甘く腐った花のような。
不穏な気配が、扉の隙間から滲み出ている。
それは恐ろしいものだった。
けれど同時に、ミナミの胸の奥を強く掴んだ。
この向こうに、ティキの秘密がある。
彼がミナミに隠したもの。
彼が笑顔の奥に閉じ込めているもの。
優しい旦那様の、黒い部分。
(知りたい)
その思いが、はっきりと形になった瞬間、ミナミは自分の心が怖くなった。
その怖ささえ甘かった。
(彼をもっと知りたい。)
優しいところだけじゃない。
甘い言葉だけじゃない。
綺麗な笑顔だけじゃない。
ティキが何を隠していても、何を抱えていても、全部知りたい。
全部、私だけのものにしたい。
「……だって」
ミナミは唇を震わせた。
「愛してるんだもの」
それは好奇心ではなかった。
少なくとも、ミナミはそう思いたかった。
約束を破るための言い訳ではない。
秘密を暴くための欲ではない。
これは愛だ。
彼を知りたいと願う心。
彼とすべてを共有したいという想い。
彼の白も、黒も、優しさも、残酷さも、全部抱きしめたいという執着。
ティキがミナミを屋敷に閉じ込めるように愛したのなら。
ミナミだって、彼の秘密ごと愛してしまいたかった。
もし、この扉が試しなのだとしたら。
開けずに待つミナミを、ティキは「いい子だ」と褒めるのだろう。
けれど、開けたと知ったら、彼はどんな顔をするのだろう。
怒るだろうか。
笑うだろうか。
それとも、あの白い顔の奥にある黒い目で、満足そうに見下ろすのだろうか。
――やっぱりお前は、そういう子だったんだな。
そんな声が聞こえた気がして、ミナミの胸が熱くなった。
知られたい。
ティキに知られたい。
約束を守るだけの可愛い女ではいないこと。
彼の秘密を欲しがるほど、彼を愛していること。
綺麗な場所で待っているだけでは足りないほど、ティキ・ミックという男に溺れていること。
全部、知られたい。
鍵束の中から、黒い鍵を探す。
指先が震えていた。
いくつもの鍵が触れ合い、じゃら、じゃら、と冷たい音を立てる。
やがて、指先がひとつの鍵に触れた。
艶のない黒。
他のどの鍵よりも冷たい。
まるで、それだけが生きていないもののようだった。
ミナミはそれを摘まみ上げる。
黒い扉の鍵穴に、ゆっくりと近づけた。
その瞬間、背後からティキの声が聞こえた気がした。
――駄目だよ、ミナミ。
ミナミの手が止まる。
耳を澄ませる。
廊下には誰もいない。
あるのは冷たい空気と、黒い扉と、自分の浅い呼吸だけ。
「……ごめんなさい」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。
ティキに。
約束に。
それとも、まだ扉を開ける前の自分に。
けれど、その謝罪の奥で、ミナミは小さく笑っていた。
ごめんなさい。
でも、止まれません。
ごめんなさい。
でも、あなたが悪いんです。
こんな鍵を渡して。
こんな扉を教えて。
こんなふうに私を試すから。
もっと好きになってしまう。
もっと欲しくなってしまう。
黒い鍵を、鍵穴へ差し込む。
かちり。
音は小さかった。
その音は、ミナミの胸の奥で何かが壊れる音に似ていた。
いい子でいるための何かが。
知らないふりをするための何かが。
ティキの優しさだけを見て笑っているための、最後の薄い膜が。
鍵は驚くほど滑らかに回った。
まるで扉の方が、ずっとこの瞬間を待っていたかのように。
まるでティキが、最初からミナミがこうすることを知っていたかのように。
重い錠が外れる音が、廊下に響く。
ミナミは取っ手に手を掛けた。
冷たい。
指先から腕へ、腕から心臓へ、黒い水が流れ込んでくるような冷たさだった。
それでも、もう止まれなかった。
彼を知りたい。
彼のすべてを。
ティキ・ミックという男の、優しさの奥にあるものを。
そしてそのすべてを見た上で、もう一度言いたかった。
好きです、と。
あなたが何者でも。
何を隠していても。
私を試していたのだとしても。
それでも、好きです、と。
ミナミは息を止める。
「ティキ」
愛しい人の名を、最後にもう一度呼ぶ。
まるで扉の向こうにいる彼へ告げるように。
「私、あなたのこと……本当に大好きなんです」
そして、黒い扉を押し開けた。
冷気が、ミナミの全身に噛みついた。
「……っ」
思わず息が止まる。
部屋の中は、まるで冷凍庫のように冷え切っていた。
廊下の冷たさなど比べものにならない。
肌を刺すような寒気が、足先から這い上がり、指先の感覚を鈍らせていく。
吐き出した息が白く曇った。
その白が、黒い空間の中へゆっくり溶けていく。
部屋は広かった。
広いはずなのに、ひどく息苦しい。
壁も床も天井も、影を塗り重ねたような暗い色に沈んでいる。
ただ暗いだけではない。
そこには、何か禍々しいものが染みついていた。
ミナミは一歩、部屋の中へ足を踏み入れる。
靴底が、何か硬いものに触れた。
からり、と小さな音が鳴る。
視線を落とす。
床に転がっていたのは、壊れた仮面の破片だった。
白かったはずのその欠片は、ひび割れ、汚れ、もう元の形を留めていない。
少し先には、砕けたグラスのようなもの。
さらに奥には、黒ずんだ金属片。
何かの装飾品。
千切れた布。
折れた髪飾り。
どれもばらばらに転がっていて、まるで部屋そのものが、何かの残骸を飲み込んで吐き出せずにいるようだった。
そして、その匂いに、ミナミは気づいた。
鉄のような匂い。
古い雨のような匂い。
「……いや……」
声が、勝手に漏れた。
これは見てはいけない部屋だ。
知ってはいけない場所だ。
本能がそう叫んでいるのに、目はもう奥を見てしまっていた。
部屋の最奥。
そこに、それらはあった。
整然と。
静かに。
まるでコレクションのように、人間たちが様々な姿で置かれてあった。
「――っ」
ミナミの喉が引きつる。
美しい男。
美しい女。
皆、まるで蝋人形のような顔をしていた。
肌は青白い。
睫毛には霜のような白さが乗り、指先は氷の彫像のように静かだった。
衣服のまま横たえられている者もいれば、戦闘服のようなものを纏ったままの者もいた。
装飾の細やかなドレスを着た女。
端正な顔立ちの男。
どこか誇り高そうな表情のまま凍りついた者。
神々しいほどに整った容貌の者。
誰も彼も、美しかった。
そして、その美しさが却っておぞましかった。
彼らは皆、死んでいる。
凍りつき、時間から切り離され、それでもなお「並べられて」いた。
ミナミは震える唇で、息を吸うことさえ忘れる。
分かってしまった。
これは偶然ここにある死ではない。
隠された死だ。
捨てられなかった死だ。
手放せなかった死だ。
ティキが、ここへ置いた死だ。
「……ティキ……?」
愛しい人の名を呼んだはずなのに、その声はひどく弱かった。
信じたくない。
だが、目の前の光景がすべてを語っていた。
この人たちは、ただの犠牲者ではない。
かつてティキが“表の顔”で近づき、愛し、微笑みかけた人間たち。
あるいは、彼の前に立ちはだかったエクソシストたち。
けれど、内側に眠る“ノア”の本能が目を覚ました瞬間、愛も、慈しみも、白い笑顔も、何もかも無意味になった。
そして、ティキ自身の手で壊され、殺され、この部屋へ隠された。
愛したからこそ手元に残したのか。
壊したあとでも捨てられなかったのか。
それとも、これはただの蒐集なのか。
もう、ミナミには分からなかった。
ただ一つ分かるのは――
優しい旦那様の黒は、想像していたよりずっと深く、ずっと冷たく、ずっと人間ではないということだった。
足が震えた。
後ずさろうとして、膝から力が抜ける。
「ぁ……っ」
その場に、へたり込んだ。
床の冷たさが、薄い布越しに骨まで突き抜ける。
胃の奥がひっくり返る。
息が浅い。
視界が揺れる。
怖い。
怖い怖い怖い。
さっきまで“知りたい”と願っていた心が、今は悲鳴を上げていた。
知ってしまった。
見てしまった。
ティキの秘密。
ティキの黒。
ティキ・ミックという男の奥底に巣食う、ノアの本性。
そして何より、ミナミはその事実よりも別のことに打ちのめされていた。
この部屋にいる“誰か”は、かつてティキに愛されたのだ。
笑いかけられたのだ。
甘い声で名前を呼ばれたのだ。
抱きしめられたのだ。
自分と同じように。
その先に待っていたのが、この結末だった。
「……いや……いや……」
ミナミは首を振る。
違うと、思いたかった。
ティキは自分には優しかった。
本当に優しかった。
あの手の温度も、声も、眼差しも、嘘ではなかったはずだ。
嘘ではなかったと、信じたい。
なのに、目の前には、ティキに愛されたかもしれない“終わり”が並んでいる。
胸が裂けそうだった。
恐怖と、悲しみと、信じたくなさと、それでもなお消えない愛情がぐちゃぐちゃに混ざって、ミナミの中で暴れていた。
その拍子に、手の中の鍵束が滑り落ちた。
じゃらん、と硬い音が響く。
黒い鍵が床を転がり、冷たい部屋の奥へ少しだけ滑っていく。
その音にさえ、ミナミはひっと息を呑んだ。
まるで死者たちを起こしてしまうみたいだった。
「……っ」
これ以上ここにいたら、自分まで凍ってしまう。
ミナミは床に手をつき、震える足で立ち上がる。
視線がまた一瞬、奥の死体たちをかすめた。
美しい顔。
閉じた瞳。
静かな唇。
そのどれもが、まるでこう囁いているようだった。
次はあなたよ、と。
ミナミは小さく息を呑み、逃げるように扉の外へ飛び出した。
扉を閉めようとして、指が震える。
うまく力が入らない。
それでもなんとか黒い扉を押し戻し、ミナミは数歩よろめくように後退した。
心臓が壊れそうなほど鳴っている。
喉がひりつく。
手が冷たい。
なのに額にはじっとりと汗が滲んでいた。
「ティキ……」
助けを呼ぶみたいに、愛しい人の名を零す。
その名を口にした瞬間、ミナミは自分でぞっとした。
助けてほしい相手の名が、いちばん恐ろしい相手の名でもある。
こんなことがあるだろうか。
好きで、好きで、たまらない人なのに。
その人こそが、この部屋を作ったのだ。
その人こそが、あの死を並べたのだ。
その人こそが――。
こつ。
不意に、音がした。
「ミナミーー!?」
その声を聞いた瞬間、ミナミの身体がびくりと強張った。
こつ、こつ。
硬い靴底が床を打つ音。
この最上階へ続く廊下の向こうから、一定のリズムで近づいてくる。
ティキが帰ってきたのだ。
「ミナミーー? どこかな?お土産あるよー」
いつもの、少し気怠げな声。
からかうように伸ばされた呼び方。
聞き慣れた、大好きな人の声。
ほんの少し前まで、ミナミの背筋を氷の針のように刺していた足音が、その声を聞いた途端、まるで違うものに変わった。
ティキの秘密を知ってしまった怖さよりも先に、胸が跳ねた。
ティキだ。
帰ってきた。
思った瞬間、ミナミの中にあった恐怖も混乱も、全部押し流されてしまった。
会いたかった。
「ティキ!」
ミナミは顔を上げた。
閉ざしたばかりの黒い扉も、床に残る冷気も、震える指先も、その瞬間だけは意識の端へ追いやられる。
廊下の奥に、黒い外套の裾が見えた。
次いで、白い顔。
気怠げに細められた目。
いつもの彼が、そこにいた。
「おかえりなさい!」
ミナミは駆け出していた。
足が震えていることも忘れて。
ついさっきまでへたり込んでいたことも忘れて。
まるで迷子の子供がようやく迎えを見つけたように、彼の方へ真っ直ぐ走った。
「ティキ……っ!」
近づくほどに、胸がいっぱいになる。
怖かった。
見てしまった。
知らない方がよかったのかもしれない。
それでも、彼の顔を見た瞬間、最初に溢れたのは安堵だった。
好きな人が帰ってきた。
大好きな人が、自分の名前を呼んでくれた。
それだけで、ミナミの心はどうしようもなく喜んでしまう。
ティキは、廊下の途中で足を止めた。
「……ミナミ?」
駆け寄ってくるミナミを見て、彼はわずかに目を細める。
その表情はいつも通りにも見えた。
だけど、ほんの一瞬だけ、何かを探るような色が混じった。
ミナミはそれに気づかなかった。
気づけなかった。
ただ彼の胸元へ飛び込むようにして、両手を伸ばす。
「おかえりなさい、ティキ……!」
ティキの外套に触れた瞬間、ミナミは泣きそうになった。
見てしまったすべてが、頭の奥でまだ悲鳴を上げている。
でも、目の前にいる彼が愛しい。
ミナミを見ている。
名前を呼んでくれる。
その事実に、ミナミは縋るように彼を見上げた。
「早かったんですね……嬉しい」
言ってから、自分でもおかしいと思った。
こんな場所で。
黒い扉のすぐそばで。
言うべきことは他にあるはずなのに。
それでも本心だった。
怖いより先に、嬉しかった。
ティキが帰ってきたことが。
ティキの声が聞けたことが。
ティキに会えたことが。
どうしようもなく、嬉しかった。
「……へえ」
ティキの口元が、ゆっくりと笑みの形になる。
優しいようで。
甘いようで。
どこか、底の見えない笑み。
彼の視線が、ミナミの背後へ流れる。
閉ざされた黒い扉。
その前の床。
そして、ミナミの震える手。
ティキはすべてを見た。
見た上で、もう一度、ミナミへ視線を戻す。
「ただいま、ミナミ」
低い声だった。
いつもより少しだけ、甘く。
いつもより少しだけ、冷たい。
ミナミの心臓がどくんと跳ねる。
それでも彼女は逃げなかった。
逃げるどころか、もう一歩近づいた。
「……会いたかったです」
ティキの目が、ほんのわずかに見開かれる。
その一瞬を見て、ミナミは泣きそうに笑った。
「すごく、会いたかった」
黒い扉の向こうを見たあとでも。
彼の秘密を知ったあとでも。
真っ先に出てきた言葉がそれだったことに、ミナミ自身がいちばん驚いていた。
そして同時に、もう誤魔化せないと思った。
私は、この人が好きなのだ。
怖くても。
分からなくても。
たとえこの人の中に、人ではないものが眠っているとしても。
それでも、帰ってきてくれたことが嬉しい。
名前を呼んでくれたことが嬉しい。
今、目の前にいることが嬉しい。
ティキはしばらくミナミを見つめていた。
やがて、ゆっくりと手を動かす。
その指先が、ミナミの頬に触れた。
「……いい子にしてた?」
優しい声だった。
しかし、その問いは刃のように薄く、冷たかった。
ミナミの息が止まる。
頬に触れるティキの指は、いつも通り温かい。
だけど、その奥に潜むものを、もうミナミは知っている。
それでも彼女は、彼の手に頬を寄せた。
まるで、その手を失いたくないと訴えるように。
「……ティキ」
ミナミは小さく彼の名前を呼んだ。
答えはまだ、言えなかった。
けれどその声には、恐怖よりもずっと強いものが滲んでいた。
恋しさ。
執着。
そして、壊れてしまいそうなほどの愛しさが。
𝙉𝙚𝙭𝙩 ︎ ⇝