スポットライトの裏側で
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[スポットライトの裏側で②]
まだ開演前だというのに、会場の外は熱気に包まれていた。
物販列に並ぶ人々。
手作りのうちわを抱えたファン。
友人同士で写真を撮る声。
遠くからでも分かるほど、ドーム全体がひとつの祭りのようにざわめいている。
ミナミはその音を、控え室の奥で聞いていた。
厚い壁の向こうにある歓声。
自分を待ってくれている人たちの気配。
本来なら、胸が高鳴るだけの時間だった。
夢にまで見た、初のドーム公演。
でも今夜は、その輝きの裏側に、冷たい緊張が張りつめていた。
――ドームのステージで、お前を終わらせてやる。
あの脅迫文が届いてから、警備体制は大きく変わった。
入場口のチェックは強化され、スタッフ証の確認も厳重になった。
会場内の導線も何度も見直され、舞台周辺や楽屋周辺にはいつも以上の警備員が配置された。
それでも、ミナミの胸の奥から不安は消えなかった。
怖い。
でも、立ちたい。
その二つの気持ちが、ずっと心臓の中でぶつかり合っている。
「ミナミちゃん、大丈夫? お水、飲む?」
ミランダが控え室の隅から、ペットボトルを持って駆け寄ってくる。
いつも通り少し慌てていて、でも今日はいつもよりずっと顔色が悪い。
ミナミは微笑んで受け取った。
「ありがとうございます」
「あとね、衣装の裾、さっき最終確認してもらったから大丈夫。マイクも予備が二本。イヤモニも確認済み。導線も、ええと、導線は……」
ミランダが手元の資料をめくる。
ページが一枚、ぺらりと床に落ちた。
「あっ」
しゃがもうとして、椅子の脚に膝をぶつける。
「いっ……!」
「ミランダさん」
ミナミが思わず笑うと、ミランダは涙目で顔を上げた。
「わ、笑ってくれた……」
その一言に、ミナミの胸がきゅっとする。
ミランダはきっと、わざと明るくしてくれている。
ミナミ以上に、怖いくせに。
それでも、ミナミに笑ってほしくて、必死にいつもの自分でいてくれる。
「ありがとうございますミランダさん」
ミナミはそう言った。
今度は、自分に言い聞かせるように。
「今日は、ちゃんと楽しみます」
「うん……!」
ミランダが何度も頷く。
その時、控え室の扉が静かに開いた。
アレンだった。
黒いスーツの上から、警備スタッフ用のジャケットを羽織っている。
白い髪が、蛍光灯の光を受けて淡く光っていた。
「ミナミさん」
彼が名前を呼んだだけで、ミナミの胸が落ち着く。
同時に、痛くなる。
「今のところ、会場内に大きな異常はありません」
「……よかった」
「ただ、開演直前は人の流れが一番乱れます。僕はこのまま舞台袖周辺の確認に入ります」
「はい」
アレンはいつも通りだった。
穏やかで、優しくて、仕事中の距離を崩さない。
けれど、目だけは少し鋭い。
今夜は絶対に何かを起こさせない。
その覚悟が、静かな表情の奥にある。
ミナミはそれを見るたびに、飲み込んだ言葉がまた喉元まで上がってくる。
命に代えてなんて言わないで。
傷つかないで。
そばにいて。
でも、言えない。
言ってしまえば、アレンを困らせる。
だからミナミは、いつものように笑った。
「アレンさん」
「はい」
「信じてます」
アレンの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
それでも彼は、すぐに柔らかく微笑む。
「はい。必ず守ります」
その時だった。
アレンのイヤホンに、低い声が入った。
彼の表情が一瞬で変わる。
「……場所は?」
短い問い。
ミナミの背筋が冷えた。
ミランダも、手帳を抱えたまま固まる。
アレンは耳元に指を添えたまま、数秒だけ黙っていた。
「外周北東側、搬入口裏。了解しました」
通信を切る。
控え室の空気が、音もなく凍った。
「アレンさん……?」
ミナミが呼ぶと、アレンは静かにこちらを見た。
「別班から情報が入りました」
アレンの声は落ち着いていているが、低くなった。
「犯人が、ドーム外周の警備が薄いエリアから侵入しようとしている可能性があります」
ミランダが息を飲んだ。
「外周……?」
「はい。会場内ではなく、外側です」
ミナミの手から、ペットボトルが滑りそうになった。
アレンが、そばを離れる。
その事実が、何より先に胸を打った。
「行ってきます」
「え……」
「ミナミさんの周辺には、僕の仲間を追加します。舞台袖と楽屋前の配置もすぐに増員されます。ミランダさん、ミナミさんから離れないでください」
「は、はい!」
ミランダが震えながら頷く。
アレンはもう動き出していた。
迷いがない。
必要な判断をして、必要な場所へ向かう。
それが彼の仕事なのだと分かっている。
分かっているのに、ミナミの胸はまた悲鳴を上げた。
行かないで。
そばにいて。
怖い。
あなたがいなくなるのが、怖い。
「アレンさん!」
気づけば、ミナミは彼の背中を呼び止めていた。
アレンが振り返る。
白い髪が、控え室の光の中で揺れる。
「……怪我、しないでください」
言えたのは、それだけだった。
本当はもっと言いたいことがあった。
無事で帰ってきて。
私、あなたがいないと。
でも、言葉にならなかった。
アレンは一瞬だけ、驚いたように目を見開いた。
そして、困ったように、でもどこか嬉しそうに微笑んだ。
「努力します」
「そこは、約束してください」
ミナミの声が少し震えた。
アレンはほんの少しだけ沈黙した。
それから、まっすぐにミナミを見る。
「約束します」
その言葉を残して、アレンは控え室を出た。
扉が閉まる。
ミナミの中から、音が一つ消えたようだった。
ミランダがそっと隣に来る。
「ミナミちゃん……」
「大丈夫です」
ミナミはまた言った。
でも今度の大丈夫は、ひどく弱かった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
ステージ裏の通路は、開演が近づくにつれて慌ただしさを増していく。
スタッフが走る。
無線が飛び交う。
衣装担当が最後の確認をする。
ダンサーたちが体を温めている。
すべてが本番へ向かって動いている。
ミナミもそこにいなければならない。
アイドルとして、夢のステージに立つ準備をしなければならない。
けれど、心は外へ行っていた。
アレンが向かった、夜のドーム外周へ。
控え室の小さな窓から、月が見えた。
丸く、白く、静かな月。
ドームの屋根の端にかかるように浮かんでいる。
あんなに外は騒がしいはずなのに、その月だけは不思議なほど穏やかだった。
ミナミは窓辺に立つ。
指先で、冷たいガラスに触れた。
「アレンさん……」
声に出した名前は、誰にも届かないほど小さかった。
ミランダは何も言わず、少し離れた場所で見守っている。
ミナミは月を見上げた。
お願い。
どうか、無事でいて。
怪我をしないで。
約束したでしょう。
そう心の中で何度も呟く。
スポットライトを浴びるはずの自分が、今は月明かりに祈っている。
そのことが少しおかしくて、少し切なかった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
月の光は、ドームの裏手にも降り注いでいた。
北東側の外周エリア。
観客の動線から外れた搬入口裏は、表側の賑わいが嘘のように暗かった。
遠くから歓声が地鳴りのように響いてくる。
その下に、車両のエンジン音、無線の雑音、警備員の足音が混ざる。
アレンは通路を駆け抜けていた。
暗がりの中、壁際を選ぶように進みながら、視線だけが周囲を鋭く拾っていく。
搬入口。
非常階段。
フェンス。
積まれた機材ケース。
仮設の照明。
人が隠れられる場所。
侵入に使えそうな経路。
すべてを一瞬で確認する。
通信が入る。
「対象らしき人物、搬入口北側フェンス付近で確認。黒のキャップ、グレーのパーカー。単独。警告に応じず」
「了解」
アレンは短く返した。
その直後、遠くで金属音がした。
フェンスを越える音。
アレンの足がさらに速くなる。
角を曲がった瞬間、彼は見た。
グレーのパーカーを着た男が、警備員の腕を振り払って走り出すところだった。
痩せ型で動きが軽い。
ただの素人ではない。
重心が低く、足運びに迷いがない。
逃げ慣れているというより、体の使い方を知っている。
アレンの目が細くなる。
「止まってください!」
と警備員が叫んだが、男は止まらない。
むしろ、警備員が距離を詰めた瞬間、体を半身にしてかわし、肘を相手の脇腹へ叩き込んだ。
警備員が呻いて膝をつく。
男はその隙に搬入口へ向かって走る。
その先には、舞台裏へ続く導線がある。
アレンは一気に加速した。
「そちらには行かせません」
声と同時に、男の前へ回り込む。
アレンが正面に立つと、男が足を止めた。
月明かりの下、二人の影が向かい合う。
「……誰だよ、お前」
男の声は荒い。
息が上がっているのに、目だけがぎらついている。
アレンは静かに答えた。
「クロノ警備会社の者です」
「邪魔するなよ」
「それはできません」
男の口元が引きつった。
笑っているのか、怒っているのか分からない。
「俺はあいつに会わなきゃいけないんだよ」
「会わせません」
「あの女が邪魔なんだよ」
男の握った警棒が、ぎり、と音を立てた。
「あの女さえいなけりゃ、あの女を消せば俺はヒーローになれる。俺があいつに引導を渡してやるんだ。そうしたら、あいつは永遠に俺のものになる」
アレンの表情から、完全に笑みが消えた。
「それ以上、ミナミさんを困らせないでください」
静かな声だった。
だが、冷たい。
アレンは自身の警棒を右手で振って先を伸ばした。
その音に男が一瞬だけ怯んだ。
しかし男は次の瞬間、地面を蹴る。
その動きは陸上選手のように速い。
男の警棒が横薙ぎに振られる。
アレンは上体を沈めてかわし、懐へ入ろうとする。
だが男はそこで踏みとどまらなかった。
空振りした勢いを利用し、逆手で肘を落としてくる。
アレンは警棒で受けた。
鈍い衝撃。
思ったより重い。
この男は武道をかじっているどころではない。
実戦で相手を壊す動きを知っている。
アレンはすぐに距離を取った。
男が笑う。
「細いな、あんた。SPってもっとゴツいもんだと思ってた」
「よく言われます」
「どけよ」
「それはできません」
二度目の拒絶。
男の顔が歪む。
今度は警棒ではなく、低いタックルだった。
警棒を見せ球にして、足を刈りにくる。
アレンは横へ逃げず、半歩だけ前に出た。
男の肩が腹に入る寸前、首の後ろへ手を添え、体重を流す。
力を真正面から受けない。
相手の勢いをずらす。
男の体がわずかに泳ぐ。
そこへ掌底で、胸骨の少し下へ打ち込み、警棒の先で男の喉元を突く。
「ぐっ……!」
男の呼吸が詰まる。
だが戦い慣れした男は倒れない。
むしろ、痛みでさらに目が血走った。
「邪魔すんなって言ってんだろ!!」
男は警棒を短く持ち替え、接近戦に切り替えた。
振り回すのではなく、突いてくる。
喉。
胸元。
手首。
急所を狙う、嫌な攻撃だった。
アレンはそれを一つずつ捌く。
手首を返す。
肩を引く。
足を滑らせる。
黒いスーツの裾が、月明かりの下で翻る。
一見すると、アレンは防戦一方に見えた。
だが違う。
彼は観察していた。
男の利き手。
踏み込みの癖。
攻撃の間。
怒りで動きが荒くなる瞬間。
どこに刃物を隠している可能性があるか。
周囲に一般人が入り込む危険はないか。
舞台裏への距離はどれだけ残っているか。
すべてを同時に見ていた。
男の警棒が、アレンの肩口をかすめた。
布が裂ける。
鋭い痛みが走る。
アレンの白いシャツに、じわりと赤が滲んだ。
(この人!警棒に刃を仕込んでる!?)
男が笑う。
「ほら、当たった」
アレンは傷を見なかった。
代わりに、男の足元を見た。
右足に体重が乗りすぎている。
次は、左から来る。
予測通り、男の警棒が左側から振り上げられた。
アレンは後ろへ下がらず、前に出る。
警棒の根元へ入り、男の手首を警棒で叩き、同時に、肘を掴んで固定。
男が顔色を変えた。
「なっ……」
アレンは体を沈め、相手の腕を巻き込むように回転した。
関節の逃げ道を奪う動き。
男の体が半回転し、フェンスへ叩きつけられる。
金網が大きく揺れた。
「ぐあっ!」
だが男はしぶとかった。
フェンスにぶつかった反動を利用し、頭部でアレンの顔を狙ってくる。
アレンは首を横へ逸らした。
男の髪の毛先がアレンの頬をかすめる。
その隙に男は、腰の後ろへ手を回した。
月明かりに、黒い金属が鈍く光った。
銃だ。
アレンの目が、一瞬で鋭くなる。
「下がってください!」
近づこうとしていた警備員へ、アレンが叫ぶ。
その声に、周囲の足が止まった。
男は笑った。
荒い呼吸の合間に、歪んだ笑みを浮かべる。
「やっと道を開ける気になったかよ」
銃口が、ゆっくりとアレンへ向けられる。
「それを下ろしてください」
アレンは低く言った。
右手には、伸縮式の警棒。
月明かりを受けた黒い警棒が、静かに構えられる。
「嫌だね」
男の指が、引き金にかかる。
その瞬間、アレンは半歩、左へ流れた。
同時に、光のような速さで、男の懐に踏み込み、警棒の先で男の手首を弾く。
乾いた音が響いた。
銃口が夜空へ跳ね、直後、銃声がした。
バンッ、と空気が裂けた。
火薬の匂いが、月夜に混ざる。
警備員たちが息を呑む。
だが、アレンは止まらない。
男の腕が跳ね上がった、その一瞬。
アレンはまた距離を潰した。
警棒を短く持ち替え、男の銃を握る手首へ押し当てる。
関節の外側。
そこは人の力が入らなくなる角度だった。
「ぐっ……!」
男の顔が歪む。
だが、倒れない。
むしろ男は、銃を奪われまいと腕を引いた。
同時に、空いた左拳がアレンの顎を狙って飛ぶ。
動きが速い。
アレンは首を傾けて拳をかわし、警棒を男の肘裏へ滑り込ませた。
押す。
捻る。
男の腕がわずかに開く。
だが男は、歯を剥いて笑った。
「細いくせに、やるじゃねぇか」
次の瞬間、男は膝を蹴り上げた。
アレンの腹を狙う、鋭い膝蹴り。
アレンは警棒で肘を制したまま、体を半身にしてかわす。
膝が脇腹をかすめた。
さっき裂かれた肩の傷に、体をひねった拍子に焼けるような痛みが走る。
息が、一瞬だけ詰まった。
それでもアレンは、手を離さなかった。
ここで離せば、男は銃を構え直す。
銃口がミナミのいる場所へ向く可能性がある。
それだけは、絶対に許さない。
男が無理やり腕を引き抜こうとする。
アレンは警棒を男の手首と銃の間に差し込み、てこのように押し上げた。
銃口が再び逸れる。
男の指が引き金を引く。
二発目。
銃声が再びドーム裏手に響いた。
弾は搬入口の上部照明を砕き、ガラス片がぱらぱらと降った。
周囲が一瞬、暗くなる。
その暗がりの中で、アレンの白い髪だけが月明かりに浮かんだ。
男が舌打ちする。
「ちょこまかと……!」
銃を持つ手を捻られたまま、男は体ごとぶつかってきた。
腕だけではなく、肩と腰で押し潰すような重い突進。
格闘を知っている動きだった。
アレンは前へ出た。
男の胸元へ踏み込み、警棒の中ほどを男の前腕へ噛ませる。
同時に、自分の肩を男の脇下へ入れる。
肩の傷がズキリと痛んだが、銃口を外へ向けたまま、腕を畳ませる。
「離せ!!」
男が怒鳴る。
「お前こそ銃を放せ!」
アレンの声は低く、冷たく、揺るがない。
男が暴れる。
銃口が乱れる。
三発目が撃たれそうになる。
アレンは一瞬だけ、ミナミの顔を思い浮かべた。
怖いだろうに、それでもステージに立とうとしている彼女。
「信じてる」と言った声。
「怪我、しないでください」と震えた瞳。
怪我をしないと約束した。
正確には、傷は増えている。
だけど、守るという約束は、まだ破っていない。
アレンは低く息を吐いた。
男の指が、引き金に力を込める。
その前に、アレンの警棒が動いた。
手首ではなく、親指の付け根。
銃を握る力の要。
そこへ、警棒の柄を叩き込む。
鈍い音がした。
「っあ……!」
男の指が開いた。
銃が落ちる。
だが、地面に落ちるより早く、男は膝で銃を蹴り上げようとした。
アレンはそれを読んでいた。
警棒の先を男の膝よりも速く滑らせ、銃を遠くへ弾く。
金属音を立てて、銃がフェンス際へ転がった。
男の顔から笑みが消える。
「てめぇ……!」
次の瞬間、男は素手で襲いかかってきた。
銃を失っても、動きは止まらない。
むしろ、身軽になった分だけ速い。
拳。
肘。
膝。
低い足払い。
男の攻撃は粗いが、格闘技を知っている者の動きだ。
アレンはその攻撃を警棒で、受けるのではなく流す。
力では敵わない。と見ての判断だ。
拳を警棒の側面で逸らす。
肘を前腕で止める。
膝蹴りを半歩ずれて外す。
足払いには、あえて足を引かず、軸をずらして踏み替える。
男が焦れる。
もう開演時間はとっくに過ぎている。
戦っている間、何度も歓声で空気が揺れた。
だから必ず、強引に突破しようとする。
そして男は、その通りに動いた。
アレンの警棒を掴もうと、真正面から腕を伸ばしてきた。
その瞬間、アレンは警棒をわざと引いた。
男の手が空を掴む。
体が前へ流れる。
アレンはその腕の外側へ回り込み、警棒を男の肘裏に差し込んだ。
そして引いて、同時に、男の膝裏を払う。
男の体勢が崩れた。
「ぐっ……!」
男が地面へ膝をつく。
だが、男は片膝をついたまま、腰から何かを抜こうとした。
刃物か。
それとも別の凶器か。
アレンは迷わなかった。
警棒の先端で短く正確に、男の手の甲を打つ。
男の手から、小型の折り畳みナイフが滑り落ちた。
「まだ持っていましたか」
アレンの声が低くなる。
男が血走った目で睨む。
「うるせぇ……! 俺はあいつに会うんだよ……!」
「会わせません!」
「お前に関係ないだろ!」
「あります!」
アレンは男の背後へ回る。
警棒を男の腕の下へ通し、肩の可動域を奪う。
「僕は、彼女を守るためにここにいます」
男が暴れる。
「ふざけんな!離せ!」
「確保!」
駆けつけた警備員たちが一斉に男を押さえ込む。
手錠がかかる音。
無線で報告する声。
遠くでサイレンが近づいてくる音。
月明かりの下、アレンの声がわずかに深くなった。
「彼女が夢を叶えるために、どれだけの恐怖を飲み込んで立っているのか。あなたには、分からないでしょうね」
アレンはようやく息を吐いた。
胸が上下し、身体が熱い。
手の甲には擦り傷。
肩口には軽い裂傷。
スーツは血と埃で汚れていた。
警棒を握る右手には、まだ男の力の感触が残っている。
アレンが言った。
「ミナミさんの周辺は、無事ですか」
「現時点で異常なし。舞台も問題ありません」
その報告を聞いて、アレンは初めて表情を緩めた。
「……よかった」
その一言は、誰に聞かせるためでもなかった。
本当に、心の底からこぼれた声だった。
男は駆けつけた警察に連行されていく。
アレンはその背中を見送ったあと、ゆっくりと夜空を見上げた。
「月が……綺麗ですね」
白く、静かで、美しい月。
ドームの裏手の薄暗さも、血の匂いも、荒い息も、その月の下ではどこか遠く感じられた。
アレンはふと、ミナミのことを思った。
今頃、歌っているだろうか。
ファンの声援が外まで聞こえてくる。
彼女は怖がっていないだろうか。
それでも彼女は立つ。
彼女もプロなのだから。
何万人もの前に、光を浴びて笑って立つ。
その強さを思うと、胸の奥が熱くなった。
早く、彼女の笑顔が見たい。
"仕事だから。"
そう言い聞かせてきた。
彼女は警護対象で、自分は警護員。
線を引かなければならない。
近づきすぎてはいけない。
彼女の世界を乱してはいけない。
そう分かっていたのに、今、月を見上げながら思うのは、ただひとつだった。
怖い思いをした分だけ、今夜は誰よりも眩しく輝いてほしい。
「……ミナミさん」
名前を呟いた瞬間、胸の奥に柔らかな痛みが走った。
傷の痛みではなく、もっと深いところにある痛み。
もう気づかないふりはできなかった。
自分は、彼女を大切に思っている。
警護対象としてだけではなく。
一人の男として。
アレンは月から視線を下ろした。
ドームが揺れた。
中では盛り上がっているようだ。
行かなければ。
彼女のところへ。
アレンは裂けたジャケットの袖を引きちぎり、肩口の血を止めるためにそこをその袖で縛った。
「ウォーカーさん、医療班が――」
「後でお願いします」
「ですが」
「彼女の姿を確認させて下さい」
そう言って、アレンはドームの内側へ歩き出した。
その頃、ミナミはステージ上にいた。
ミランダが舞台袖で、両手を胸の前で握っている。
「ミナミちゃん……」
ミランダのそれは祈るような声だった。
ステージの上では、ミナミが歌っている。
眩しい照明を浴び、何万人もの光の中心に立っている。
その姿は、誰が見ても完璧なアイドルだった。
笑っている。
歌って踊っている。
ファンに向かって手を伸ばし、揺れるペンライトの海へ、まっすぐに声を届けている。
だが、ミランダには分かっていた。
あの笑顔の奥で、ミナミがどれほど怖さを飲み込んでいるのか。
アレンが外へ向かったあと、ミナミは一度も「怖い」と言わなかった。
震える手を衣装の袖の中で握りしめて、ただ静かに出番を待っていた。
そして、呼ばれた瞬間。
「行ってきます」
そう言って、ステージへ出ていった。
今、その背中が光の中にある。
ミランダは唇を噛んだ。
「どうか……どうか、無事に……」
その時だった。
舞台袖の奥が、わずかに騒がしくなった。
スタッフの一人が振り返る。
無線の声が重なる。
「ミランダさん」
スタッフが小さく呼んだ。
ミランダが振り向く。
その視線の先に、黒いスーツの男が立っていた。
白い髪。
乱れた呼吸。
血と埃に汚れたスーツ。
肩口には、引きちぎった袖がきつく巻かれている。
「ウォーカーさん……!」
ミランダの声が裏返った。
アレンは片手を軽く上げる。
「大丈夫です。犯人は確保されました」
「で、でも、その怪我……!」
「掠っただけです」
どう見ても、掠っただけではなかった。
スーツは裂け、白いシャツには血が滲んでいる。
頬にも小さな擦り傷があり、息はまだわずかに荒い。
それでもアレンの目は、ステージの上だけを見ていた。
「ミナミさんは」
ミランダは涙目で頷いた。
「歌ってます……ちゃんと、歌ってます……!」
アレンの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……よかった」
その声は、戦闘を終えた警護員の声ではなかった。
ただ、大切な人の無事を確かめた男の声だった。
アレンはゆっくりと舞台袖の端まで歩いた。
スタッフたちが思わず道を開ける。
誰も、止められなかった。
ステージの上では、ミナミが曲を歌い終えたところだった。
大きな歓声がドームを揺らす。
ミナミは息を整えながら、客席へ向かって笑った。
「皆さん、今日は来てくれて本当にありがとうございます!」
その声に、さらに大きな歓声が返る。
アレンは暗がりから彼女を見つめた。
光の中にいる彼女は、遠かった。
手を伸ばしても届かない場所にいる。
何万人もの視線を受け止め、誰よりも眩しく笑っている。
でも…。
アレンには、分かってしまった。
その指先がほんの少し震えていること。
笑う前に、一瞬だけ息を飲んだこと。
客席を見ているようで、時々、無意識に舞台袖の方へ視線が流れること。
彼女はまだ、祈っている。
アレンの無事を。
そのことに気づいた瞬間、アレンの胸の奥が苦しくなった。
守らなければと思っていた。
怖がらせてはいけないと思っていた。
彼女には何も背負わせず、自分一人が盾になればいいと思っていた。
けれど違う。
ミナミは、ちゃんと気づいている。
アレンが傷つくことを怖がっている。
アレンがいなくなることを恐れている。
それでも、ステージに立っている。
恐怖も、祈りも、飲み込んで。
プロのアイドルとして。
「……強いですね」
アレンは小さく呟いた。
ミランダが隣で涙を拭く。
「強いです。でも、本当はすごく怖がりなんです」
「はい」
アレンは静かに答えた。
「だから、守りたいんです」
その言葉に、ミランダははっとアレンを見たが、アレンはもう、ステージだけを見ていた。
曲間のMCが続いている。
ミナミは客席へ手を振りながら、明るく笑っていた。
「実は今日、ここに立つまでに、すごく緊張していました」
客席から、あたたかな笑い声が広がる。
「でも、皆さんの顔を見たら……あ、遠くて顔はあんまり見えないんですけど」
笑いが大きくなる。
ミナミも笑った。
「でも、光は見えます。すごく綺麗です」
アレンは黙って彼女を見つめた。
その瞬間、ミナミの視線が舞台袖へ流れた。
一瞬。
本当に、一瞬だけ。
光の中の彼女と、暗がりに立つアレンの目が合った。
ミナミの瞳が揺れる。
アレンの傷に気づいたのかもしれない。
肩口の布。
頬の擦り傷。
少し乱れた呼吸。
それを見たミナミの表情が、ほんのわずかに崩れそうになった。
でも、崩さなかった。
彼女はマイクを握り直した。
そして、泣きそうな顔を笑顔に変えた。
その笑顔が、アレンの胸を射抜いた。
無事でよかった。
戻ってきてくれてよかった。
そう言っているような笑顔だった。
アレンは小さく頷いた。
(大丈夫です。)
声には出さない。
でも、彼女には届いた気がした。
ミナミは一度だけ目を伏せ、次に顔を上げた時には、もう完璧なアイドルの顔になっていた。
「次の曲は、私にとって大切な曲です」
客席が静かになる。
「怖い時も、不安な時も、誰かがそばにいてくれるだけで、前に進めることがあるんだって……最近、そう思いました」
ミランダが息を飲む。
アレンの指が、わずかに動いた。
ミナミは舞台袖を見なかった。
もう見なかった。
見てしまえば、言葉が溢れてしまうから。
「だから今日は、この曲を……ここにいる皆さんと、今そばで支えてくれている人たちに届けたいです」
イントロが流れ始める。
静かなピアノの音。
広いドームに、澄んだ旋律が落ちていく。
ミナミは目を閉じた。
月を思い出す。
控え室の窓から見上げた月。
アレンもきっと、同じ月を見ていた。
傷つきながら。
戦いながら。
それでも自分のために戦ってくれていた。
そう思ったら、胸が熱くなった。
歌い出しの息を吸う。
喉の奥に、言えなかった言葉がまだ残っている。
ステージを降りて、彼のもとへ走っていきたい。
血の滲んだ肩に触れて、無事でよかったと泣きたい。
でも、それは今ではない。
今、自分にできることは応援してくれているファンの前で歌うことだけ。
彼が守ってくれたこの場所で。
彼が戻ってきてくれたことを、噛みしめながら。
ミナミは歌った。
最初の一音が、ドームの空気を震わせる。
その声は、いつもより少しだけ揺れていた。
でも、すぐに真っ直ぐになった。
恐怖を越えて。
祈りを抱いて。
光の中心から、暗がりに立つたった一人へ届くように。
アレンは舞台袖で、その歌を聞いていた。
肩の熱も、拳の痛みも、遠くなる。
ただ、彼女の声だけが胸に届く。
綺麗だと思った。
強いと思った。
そして、どうしようもなく愛おしいと思った。
仕事だから守る。
そう言い聞かせてきた言葉が、今夜、静かに形を失っていく。
守りたい。
彼女の夢を。
彼女の笑顔を。
彼女が泣けない時に飲み込む涙を。
そして、もし許されるのなら。
スポットライトの裏側で震える、ただの女の子の手を、自分が取ってやりたい。
アレンは目を伏せた。
「……戻ってこられて、よかった」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
ステージでは、ミナミが歌っている。
月夜に祈った想いを、光の中で歌に変えている。
その姿を見つめながら、アレンはようやく理解した。
自分はもう、とっくに線を越えていた。
ただし、それを彼女に言う資格があるかどうかは、まだ分からない。
だから今は、黙って見守る。
彼女の歌が終わる、その瞬間まで。
彼女が笑ってステージを降りてくる、その時まで。
その時こそ、必ず最初に言おう。
無事でよかった、と。
あなたの笑顔が見たかった、と。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
夢にまで見た、初めてのドーム公演。
ステージから見えた景色は、泣きたくなるほど綺麗だった。
ステージの照明がゆっくりと落ちていく。
客席のペンライトが少しずつ消えていく。
名残惜しそうな歓声も、スタッフの誘導の声に混ざりながら、遠くへ流れていった。
夢のような時間が、終わっていく。
楽屋へ戻った瞬間、ミランダが泣きながらミナミに抱きついてきた。
「ミナミちゃん……! すごかった……! 本当に、本当にすごかったよぉ……!」
「ミランダさん、泣きすぎです」
「だってぇ……!」
「ありがとうございます」
ミナミは笑いながら、ミランダの背中をそっと撫でた。
スタッフたちも次々に声をかけてくれた。
「お疲れ様!」
「最高だったよ!」
「大成功だ!」
その言葉の一つ一つが、体に染み込んでいく。
事件は無事に解決した。
犯人は確保された。
会場内に混乱は起きなかった。
誰も傷つかなかった。
コンサートは、大成功で幕を閉じた。
それは、喜ぶべきことだった。
間違いなく、幸せな夜だった。
なのに、時間が経つにつれて、ミナミの胸の奥に、別の寂しさが忍び込んできた。
スタッフが機材を片付ける音。
衣装担当が次々に衣装ケースを運ぶ音。
ミランダが関係各所へ電話をしている声。
慌ただしさの中で、ミナミは何度も周囲を見回した。
アレンの姿を探していた。
でも、見つからない。
さっきまで舞台袖にいたはずなのに。
戻ってきてくれたはずなのに。
気がつけば、彼の姿だけがどこにもなかった。
「アレンさんは……?」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。
いや、届かなくてよかったのかもしれない。
聞いてしまえば、答えを知ることになる。
もう役目は終わりました。
警護はここまでです。
彼は先に帰りました。
そんな言葉を聞くのが、怖かった。
アレンは民間のSPだ。
事件があったから来てくれた人。
危険があったから、そばにいてくれた人。
犯人が捕まった今、彼がここに残る理由はもうない。
ドーム公演を守り切った。
警護対象は無事にステージを終えた。
なら、彼の仕事は終わりだ。
その当たり前の事実が、今さらミナミの胸を冷たく締めつけた。
「ミナミちゃん?」
ミランダが心配そうに声をかける。
「少し休む? 顔色が……」
「大丈夫です」
また、そう言ってしまった。
ミナミは笑う。
「少しだけ、ステージを見てきてもいいですか?」
「え? 今?」
「はい。最後に、もう一度だけ」
ミランダは少し迷ったが、すぐに優しく頷いた。
「分かったわ。でも一人で遠くまで行っちゃ駄目だよ。」
「ありがとうございます」
ミナミは衣装のまま、楽屋を出た。
ステージへ続く通路は、さっきまでの熱気が嘘のように静かだった。
壁に貼られた進行表。
床に残るテープの跡。
片付けられていく機材。
さっきまで全てが本番のために動いていたのに、今はもう終わりの気配に包まれている。
夢の後片付け。
そんな言葉が、ふと浮かんだ。
ステージに戻ると、そこには誰もいなかった。
客席も暗い。
ほんの少し前まで、何万人もの人がいた場所とは思えないほど、広く、静かだった。
ペンライトの海は消え、歓声もない。
巨大なドームの空間だけが、ぽっかりと残されている。
ミナミはステージの中央まで歩いた。
衣装の裾が、静かな床をかすめる。
そこに一人で立つと、急に自分がとても小さく感じた。
あんなに眩しかった場所なのに。
あんなに温かかった場所なのに。
光が消えた途端、世界はこんなにも広く、寂しい。
「……終わっちゃった」
小さく呟く。
ドーム公演が終わった。
事件も終わった。
そして、アレンとの契約期間も終わる。
そう思った瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが、一気に溢れそうになった。
嫌だ。
終わりたくない。
会えなくなるなんて嫌だ。
もうSPじゃなくてもいい。
警護じゃなくて。
仕事じゃなくて。
ただ、もう一度名前を呼んでほしい。
いつもの声で。
"ミナミさん"と。
ミナミは、胸元をぎゅっと押さえた。
ステージ衣装の胸元には、まだライトの残り香みたいな温かさがある。
なのに、心だけが寒かった。
アレンは、もう帰ってしまったのだろうか。
それとも治療を受けているのだろうか。
一人で、何も言わずに消えてしまったのだろうか。
「……アレンさん」
呼んでも、返事はない。
広すぎるドームに、声が吸い込まれていくだけだった。
その時だった。
暗い客席の奥で、微かな音がした。
ミナミは顔を上げる。
誰もいないはずの客席。
非常灯だけが淡く灯る、広大な闇。
その中に、ぽつんと一つ、人影が浮かび上がっていた。
最初は、見間違いかと思った。
その人影は、ゆっくりと通路を降りてくる。
白い髪。
黒いシャツ。
さっきまでの汚れた黒のスーツではなく、着替えたのだろう。黒のシャツに変わっていた。
頬には小さな傷が残っていて、左肩の動きがわずかに硬い。
ミナミの息が止まった。
「……アレンさん」
その名を呼ぶと、人影が足を止めた。
暗い客席の中で、彼がこちらを見る。
そして、いつもの声で呼んだ。
「ミナミさん」
それだけだった。
たったそれだけで、ミナミの目に涙が溢れた。
体が勝手に動いた。
ステージの端へ向かって走る。
衣装の裾が揺れる。
ヒールが床を叩く。
「ミナミさん、危な――」
アレンが慌てて声を上げる。
ミナミはもう止まれなかった。
ステージ横の階段を駆け下り、暗い客席通路へ向かう。
そして、アレンの前まで来た瞬間。
ミナミは迷わず彼に飛び込んだ。
「アレンさん……!」
アレンの腕が、一瞬だけ宙で止まった。
仕事中なら、きっと受け止めるだけだった。
警護員として、必要な分だけ支えるだけだった。
だけど、もう、ただの警護員として居たくなかった。
ためらいの後、アレンの腕がミナミの背中へ回る。
強く。
壊れ物を抱くみたいに大切に。
ミナミの体を、しっかりと抱きしめた。
「……お疲れ様でした」
低く、優しい声が耳元に落ちる。
「ドーム公演、本当にお疲れ様でした」
その言葉で、ミナミの涙がこぼれた。
「アレンさん……無事で……よかった……」
「約束しましたから」
「怪我、してるじゃないですか……」
「少しだけですよ」
「少しじゃないです」
「少しです。これぐらいどうってことない」
「そういう問題じゃないです……」
泣きながら言うと、アレンが小さく笑った。
その笑い声が、ミナミの胸に染みる。
アレンがここにいる。
それだけで、苦しいくらい嬉しかった。
「怖かったです」
ミナミはアレンの胸元に顔を埋めたまま言った。
「ステージに立つのも怖かった。でも、それより……アレンさんが黙って居なくなるんじゃないかって思う方が、ずっと怖かった」
アレンの腕に、ほんの少し力がこもる。
「勝手に居なくなりません」
「でも、怖がらせました」
「……困ったな」
ミナミは震える息を吐く。
「怖かったです。すごく。だから、もう……命に代えてなんて、言わないでください」
ずっと飲み込んでいた言葉だった。
言ってはいけないと思っていた言葉。
彼の誇りを汚したくなくて、仕事の邪魔をしたくなくて、アイドルとしての立場を守りたくて、ずっと喉の奥に押し込めていた言葉。
でも、今はもう止められなかった。
「私を守るためでも、そんなふうに言わないでください。アレンさんがいなくなったら……私……」
声が詰まる。
アレンは黙って聞いていた。
急かさず、遮らず、ただ抱きしめてくれている。
ミナミは震える指で、アレンのシャツを握った。
「私、アレンさんがいなきゃ嫌です」
広いドームの中に、その声だけが落ちた。
ファンもいない。
スタッフもいない。
スポットライトもない。
だから今のミナミは、アイドルではなかった。
ただ、好きな人を失うのが怖かった一人の女の子だった。
アレンは長く息を吐いた。
それは、何かを諦めるような息ではなく、ずっと抑えていたものを、ようやく認めるような息だった。
「……僕は」
アレンの声が、少し掠れていた。
「あなたのそばにいる間、何度も自分に言い聞かせていました」
ミナミは顔を上げる。
アレンの瞳が、すぐ近くにあった。
優しい瞳なのに、今までよりずっと深く、熱を帯びた目だった。
「これは仕事だ。キミは警護対象で、僕は警護員だと。クライアントにこんな気持ちを持ってはいけないと」
アレンの指が、ミナミの背中でわずかに震える。
「でも、できませんでした」
「……アレンさん」
「キミが怖いと言えずに笑うたびに、胸が痛かった。キミが誰かのために泣くのを我慢するたびに、抱きしめたくなった。キミがステージに立つ姿を見た時……守りたいと思ったんです」
彼は少しだけ言葉を切った。
そして、まっすぐにミナミを見る。
「仕事だからではありません」
ミナミの涙が、また一粒こぼれた。
「一人の男として、あなたを守りたいと思いました」
アレンの声は、静かだった。
その静けさの中に、逃げ場のないほどの想いがあった。
「ドーム公演、お疲れ様でした。あなたは、本当に綺麗でした」
「……そんな」
「いいえ。眩しかった。怖かったはずなのに、最後まで笑って、歌って……僕は、キミから目が離せませんでした」
ミナミは何も言えなくなった。
胸がいっぱいで、息をするのも難しかった。
アレンは少しだけ困ったように笑う。
その表情は、いつもの穏やかなSPの顔ではなかった。
好きな人を前にして、不器用に言葉を探している大人の男の顔だった。
「もう、契約は終わります」
その言葉に、ミナミの体が強張る。
アレンは、抱きしめる腕を緩めなかった。
「だから、これからは仕事ではなく……僕のプライベートでミナミに会いたい」
ミナミは息を飲んだ。
"ミナミさん"ではなく"ミナミ"と呼ばれた。
アレンは少しだけ目を伏せ、それからもう一度まっすぐに見つめてくる。
「SPとしてではなく、一人の男として」
彼の声が、静かなドームに響く。
「あなたのそばにいてもいいですか」
その瞬間、ミナミの中で、張りつめていた糸が切れた。
泣きながら、笑ってしまった。
「……そんなの」
「はい」
「私が、断るわけないじゃないですか……」
アレンの瞳が揺れた。
ミナミは涙で滲む視界の中、必死に彼を見つめる。
「私も、ずっと言いたかったです」
喉の奥が熱い。
それでも、今度は飲み込まない。
「アレンさんが好きです」
言えた。
やっと。
ずっと胸の奥に閉じ込めていた言葉が、静かなドームの空気に溶けていく。
アレンは一瞬、何かに打たれたように動きを止めた。
それから、世界で一番愛おしいものを見るような目で、ミナミを見つめた。
「……僕もです」
たった一言。
その声には、これまで抑えてきた想いが全部詰まっていた。
アレンの手が、ミナミの頬にそっと触れる。
戦っていた時とは違う。
銃口を逸らし、警棒を握っていた手とは思えないほど、優しい触れ方だった。
「好きです、ミナミ」
名前を呼ばれて、胸が震える。
「あなたを守りたい。支えたい。笑っていてほしい。泣きたい時は、僕の前で泣いてほしい」
「アレンさん……」
「もう、大丈夫ですとだけ言わせるつもりはありません」
その言葉に、ミナミはまた泣いた。
こんなふうに見てくれる人がいる。
アイドルとしてではなく。
商品としてではなく。
ステージの上の光としてでもなく。
スポットライトの裏側で震えている自分を、ちゃんと見つけてくれる人がいる。
それが、こんなにも嬉しい。
ミナミはアレンの胸に額を寄せた。
「じゃあ……そばにいてください」
「はい」
「仕事じゃなくて」
「はい」
「私がアイドルでも」
「はい」
「迷惑をかけるかもしれません」
「覚悟しています」
「世間に知られたら、大変かもしれません」
「それでも、あなたの隣にいたいです」
まっすぐな言葉に、ミナミは小さく笑った。
涙でぐしゃぐしゃなのに、心だけは驚くほど温かかった。
「アレンさんって、優しいのに……、すごく強引ですね」
「そうですか?」
「そんな気がします」
「では、今だけ少し強引になります」
𝙉𝙚𝙭𝙩 ︎ ⇝
まだ開演前だというのに、会場の外は熱気に包まれていた。
物販列に並ぶ人々。
手作りのうちわを抱えたファン。
友人同士で写真を撮る声。
遠くからでも分かるほど、ドーム全体がひとつの祭りのようにざわめいている。
ミナミはその音を、控え室の奥で聞いていた。
厚い壁の向こうにある歓声。
自分を待ってくれている人たちの気配。
本来なら、胸が高鳴るだけの時間だった。
夢にまで見た、初のドーム公演。
でも今夜は、その輝きの裏側に、冷たい緊張が張りつめていた。
――ドームのステージで、お前を終わらせてやる。
あの脅迫文が届いてから、警備体制は大きく変わった。
入場口のチェックは強化され、スタッフ証の確認も厳重になった。
会場内の導線も何度も見直され、舞台周辺や楽屋周辺にはいつも以上の警備員が配置された。
それでも、ミナミの胸の奥から不安は消えなかった。
怖い。
でも、立ちたい。
その二つの気持ちが、ずっと心臓の中でぶつかり合っている。
「ミナミちゃん、大丈夫? お水、飲む?」
ミランダが控え室の隅から、ペットボトルを持って駆け寄ってくる。
いつも通り少し慌てていて、でも今日はいつもよりずっと顔色が悪い。
ミナミは微笑んで受け取った。
「ありがとうございます」
「あとね、衣装の裾、さっき最終確認してもらったから大丈夫。マイクも予備が二本。イヤモニも確認済み。導線も、ええと、導線は……」
ミランダが手元の資料をめくる。
ページが一枚、ぺらりと床に落ちた。
「あっ」
しゃがもうとして、椅子の脚に膝をぶつける。
「いっ……!」
「ミランダさん」
ミナミが思わず笑うと、ミランダは涙目で顔を上げた。
「わ、笑ってくれた……」
その一言に、ミナミの胸がきゅっとする。
ミランダはきっと、わざと明るくしてくれている。
ミナミ以上に、怖いくせに。
それでも、ミナミに笑ってほしくて、必死にいつもの自分でいてくれる。
「ありがとうございますミランダさん」
ミナミはそう言った。
今度は、自分に言い聞かせるように。
「今日は、ちゃんと楽しみます」
「うん……!」
ミランダが何度も頷く。
その時、控え室の扉が静かに開いた。
アレンだった。
黒いスーツの上から、警備スタッフ用のジャケットを羽織っている。
白い髪が、蛍光灯の光を受けて淡く光っていた。
「ミナミさん」
彼が名前を呼んだだけで、ミナミの胸が落ち着く。
同時に、痛くなる。
「今のところ、会場内に大きな異常はありません」
「……よかった」
「ただ、開演直前は人の流れが一番乱れます。僕はこのまま舞台袖周辺の確認に入ります」
「はい」
アレンはいつも通りだった。
穏やかで、優しくて、仕事中の距離を崩さない。
けれど、目だけは少し鋭い。
今夜は絶対に何かを起こさせない。
その覚悟が、静かな表情の奥にある。
ミナミはそれを見るたびに、飲み込んだ言葉がまた喉元まで上がってくる。
命に代えてなんて言わないで。
傷つかないで。
そばにいて。
でも、言えない。
言ってしまえば、アレンを困らせる。
だからミナミは、いつものように笑った。
「アレンさん」
「はい」
「信じてます」
アレンの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
それでも彼は、すぐに柔らかく微笑む。
「はい。必ず守ります」
その時だった。
アレンのイヤホンに、低い声が入った。
彼の表情が一瞬で変わる。
「……場所は?」
短い問い。
ミナミの背筋が冷えた。
ミランダも、手帳を抱えたまま固まる。
アレンは耳元に指を添えたまま、数秒だけ黙っていた。
「外周北東側、搬入口裏。了解しました」
通信を切る。
控え室の空気が、音もなく凍った。
「アレンさん……?」
ミナミが呼ぶと、アレンは静かにこちらを見た。
「別班から情報が入りました」
アレンの声は落ち着いていているが、低くなった。
「犯人が、ドーム外周の警備が薄いエリアから侵入しようとしている可能性があります」
ミランダが息を飲んだ。
「外周……?」
「はい。会場内ではなく、外側です」
ミナミの手から、ペットボトルが滑りそうになった。
アレンが、そばを離れる。
その事実が、何より先に胸を打った。
「行ってきます」
「え……」
「ミナミさんの周辺には、僕の仲間を追加します。舞台袖と楽屋前の配置もすぐに増員されます。ミランダさん、ミナミさんから離れないでください」
「は、はい!」
ミランダが震えながら頷く。
アレンはもう動き出していた。
迷いがない。
必要な判断をして、必要な場所へ向かう。
それが彼の仕事なのだと分かっている。
分かっているのに、ミナミの胸はまた悲鳴を上げた。
行かないで。
そばにいて。
怖い。
あなたがいなくなるのが、怖い。
「アレンさん!」
気づけば、ミナミは彼の背中を呼び止めていた。
アレンが振り返る。
白い髪が、控え室の光の中で揺れる。
「……怪我、しないでください」
言えたのは、それだけだった。
本当はもっと言いたいことがあった。
無事で帰ってきて。
私、あなたがいないと。
でも、言葉にならなかった。
アレンは一瞬だけ、驚いたように目を見開いた。
そして、困ったように、でもどこか嬉しそうに微笑んだ。
「努力します」
「そこは、約束してください」
ミナミの声が少し震えた。
アレンはほんの少しだけ沈黙した。
それから、まっすぐにミナミを見る。
「約束します」
その言葉を残して、アレンは控え室を出た。
扉が閉まる。
ミナミの中から、音が一つ消えたようだった。
ミランダがそっと隣に来る。
「ミナミちゃん……」
「大丈夫です」
ミナミはまた言った。
でも今度の大丈夫は、ひどく弱かった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
ステージ裏の通路は、開演が近づくにつれて慌ただしさを増していく。
スタッフが走る。
無線が飛び交う。
衣装担当が最後の確認をする。
ダンサーたちが体を温めている。
すべてが本番へ向かって動いている。
ミナミもそこにいなければならない。
アイドルとして、夢のステージに立つ準備をしなければならない。
けれど、心は外へ行っていた。
アレンが向かった、夜のドーム外周へ。
控え室の小さな窓から、月が見えた。
丸く、白く、静かな月。
ドームの屋根の端にかかるように浮かんでいる。
あんなに外は騒がしいはずなのに、その月だけは不思議なほど穏やかだった。
ミナミは窓辺に立つ。
指先で、冷たいガラスに触れた。
「アレンさん……」
声に出した名前は、誰にも届かないほど小さかった。
ミランダは何も言わず、少し離れた場所で見守っている。
ミナミは月を見上げた。
お願い。
どうか、無事でいて。
怪我をしないで。
約束したでしょう。
そう心の中で何度も呟く。
スポットライトを浴びるはずの自分が、今は月明かりに祈っている。
そのことが少しおかしくて、少し切なかった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
月の光は、ドームの裏手にも降り注いでいた。
北東側の外周エリア。
観客の動線から外れた搬入口裏は、表側の賑わいが嘘のように暗かった。
遠くから歓声が地鳴りのように響いてくる。
その下に、車両のエンジン音、無線の雑音、警備員の足音が混ざる。
アレンは通路を駆け抜けていた。
暗がりの中、壁際を選ぶように進みながら、視線だけが周囲を鋭く拾っていく。
搬入口。
非常階段。
フェンス。
積まれた機材ケース。
仮設の照明。
人が隠れられる場所。
侵入に使えそうな経路。
すべてを一瞬で確認する。
通信が入る。
「対象らしき人物、搬入口北側フェンス付近で確認。黒のキャップ、グレーのパーカー。単独。警告に応じず」
「了解」
アレンは短く返した。
その直後、遠くで金属音がした。
フェンスを越える音。
アレンの足がさらに速くなる。
角を曲がった瞬間、彼は見た。
グレーのパーカーを着た男が、警備員の腕を振り払って走り出すところだった。
痩せ型で動きが軽い。
ただの素人ではない。
重心が低く、足運びに迷いがない。
逃げ慣れているというより、体の使い方を知っている。
アレンの目が細くなる。
「止まってください!」
と警備員が叫んだが、男は止まらない。
むしろ、警備員が距離を詰めた瞬間、体を半身にしてかわし、肘を相手の脇腹へ叩き込んだ。
警備員が呻いて膝をつく。
男はその隙に搬入口へ向かって走る。
その先には、舞台裏へ続く導線がある。
アレンは一気に加速した。
「そちらには行かせません」
声と同時に、男の前へ回り込む。
アレンが正面に立つと、男が足を止めた。
月明かりの下、二人の影が向かい合う。
「……誰だよ、お前」
男の声は荒い。
息が上がっているのに、目だけがぎらついている。
アレンは静かに答えた。
「クロノ警備会社の者です」
「邪魔するなよ」
「それはできません」
男の口元が引きつった。
笑っているのか、怒っているのか分からない。
「俺はあいつに会わなきゃいけないんだよ」
「会わせません」
「あの女が邪魔なんだよ」
男の握った警棒が、ぎり、と音を立てた。
「あの女さえいなけりゃ、あの女を消せば俺はヒーローになれる。俺があいつに引導を渡してやるんだ。そうしたら、あいつは永遠に俺のものになる」
アレンの表情から、完全に笑みが消えた。
「それ以上、ミナミさんを困らせないでください」
静かな声だった。
だが、冷たい。
アレンは自身の警棒を右手で振って先を伸ばした。
その音に男が一瞬だけ怯んだ。
しかし男は次の瞬間、地面を蹴る。
その動きは陸上選手のように速い。
男の警棒が横薙ぎに振られる。
アレンは上体を沈めてかわし、懐へ入ろうとする。
だが男はそこで踏みとどまらなかった。
空振りした勢いを利用し、逆手で肘を落としてくる。
アレンは警棒で受けた。
鈍い衝撃。
思ったより重い。
この男は武道をかじっているどころではない。
実戦で相手を壊す動きを知っている。
アレンはすぐに距離を取った。
男が笑う。
「細いな、あんた。SPってもっとゴツいもんだと思ってた」
「よく言われます」
「どけよ」
「それはできません」
二度目の拒絶。
男の顔が歪む。
今度は警棒ではなく、低いタックルだった。
警棒を見せ球にして、足を刈りにくる。
アレンは横へ逃げず、半歩だけ前に出た。
男の肩が腹に入る寸前、首の後ろへ手を添え、体重を流す。
力を真正面から受けない。
相手の勢いをずらす。
男の体がわずかに泳ぐ。
そこへ掌底で、胸骨の少し下へ打ち込み、警棒の先で男の喉元を突く。
「ぐっ……!」
男の呼吸が詰まる。
だが戦い慣れした男は倒れない。
むしろ、痛みでさらに目が血走った。
「邪魔すんなって言ってんだろ!!」
男は警棒を短く持ち替え、接近戦に切り替えた。
振り回すのではなく、突いてくる。
喉。
胸元。
手首。
急所を狙う、嫌な攻撃だった。
アレンはそれを一つずつ捌く。
手首を返す。
肩を引く。
足を滑らせる。
黒いスーツの裾が、月明かりの下で翻る。
一見すると、アレンは防戦一方に見えた。
だが違う。
彼は観察していた。
男の利き手。
踏み込みの癖。
攻撃の間。
怒りで動きが荒くなる瞬間。
どこに刃物を隠している可能性があるか。
周囲に一般人が入り込む危険はないか。
舞台裏への距離はどれだけ残っているか。
すべてを同時に見ていた。
男の警棒が、アレンの肩口をかすめた。
布が裂ける。
鋭い痛みが走る。
アレンの白いシャツに、じわりと赤が滲んだ。
(この人!警棒に刃を仕込んでる!?)
男が笑う。
「ほら、当たった」
アレンは傷を見なかった。
代わりに、男の足元を見た。
右足に体重が乗りすぎている。
次は、左から来る。
予測通り、男の警棒が左側から振り上げられた。
アレンは後ろへ下がらず、前に出る。
警棒の根元へ入り、男の手首を警棒で叩き、同時に、肘を掴んで固定。
男が顔色を変えた。
「なっ……」
アレンは体を沈め、相手の腕を巻き込むように回転した。
関節の逃げ道を奪う動き。
男の体が半回転し、フェンスへ叩きつけられる。
金網が大きく揺れた。
「ぐあっ!」
だが男はしぶとかった。
フェンスにぶつかった反動を利用し、頭部でアレンの顔を狙ってくる。
アレンは首を横へ逸らした。
男の髪の毛先がアレンの頬をかすめる。
その隙に男は、腰の後ろへ手を回した。
月明かりに、黒い金属が鈍く光った。
銃だ。
アレンの目が、一瞬で鋭くなる。
「下がってください!」
近づこうとしていた警備員へ、アレンが叫ぶ。
その声に、周囲の足が止まった。
男は笑った。
荒い呼吸の合間に、歪んだ笑みを浮かべる。
「やっと道を開ける気になったかよ」
銃口が、ゆっくりとアレンへ向けられる。
「それを下ろしてください」
アレンは低く言った。
右手には、伸縮式の警棒。
月明かりを受けた黒い警棒が、静かに構えられる。
「嫌だね」
男の指が、引き金にかかる。
その瞬間、アレンは半歩、左へ流れた。
同時に、光のような速さで、男の懐に踏み込み、警棒の先で男の手首を弾く。
乾いた音が響いた。
銃口が夜空へ跳ね、直後、銃声がした。
バンッ、と空気が裂けた。
火薬の匂いが、月夜に混ざる。
警備員たちが息を呑む。
だが、アレンは止まらない。
男の腕が跳ね上がった、その一瞬。
アレンはまた距離を潰した。
警棒を短く持ち替え、男の銃を握る手首へ押し当てる。
関節の外側。
そこは人の力が入らなくなる角度だった。
「ぐっ……!」
男の顔が歪む。
だが、倒れない。
むしろ男は、銃を奪われまいと腕を引いた。
同時に、空いた左拳がアレンの顎を狙って飛ぶ。
動きが速い。
アレンは首を傾けて拳をかわし、警棒を男の肘裏へ滑り込ませた。
押す。
捻る。
男の腕がわずかに開く。
だが男は、歯を剥いて笑った。
「細いくせに、やるじゃねぇか」
次の瞬間、男は膝を蹴り上げた。
アレンの腹を狙う、鋭い膝蹴り。
アレンは警棒で肘を制したまま、体を半身にしてかわす。
膝が脇腹をかすめた。
さっき裂かれた肩の傷に、体をひねった拍子に焼けるような痛みが走る。
息が、一瞬だけ詰まった。
それでもアレンは、手を離さなかった。
ここで離せば、男は銃を構え直す。
銃口がミナミのいる場所へ向く可能性がある。
それだけは、絶対に許さない。
男が無理やり腕を引き抜こうとする。
アレンは警棒を男の手首と銃の間に差し込み、てこのように押し上げた。
銃口が再び逸れる。
男の指が引き金を引く。
二発目。
銃声が再びドーム裏手に響いた。
弾は搬入口の上部照明を砕き、ガラス片がぱらぱらと降った。
周囲が一瞬、暗くなる。
その暗がりの中で、アレンの白い髪だけが月明かりに浮かんだ。
男が舌打ちする。
「ちょこまかと……!」
銃を持つ手を捻られたまま、男は体ごとぶつかってきた。
腕だけではなく、肩と腰で押し潰すような重い突進。
格闘を知っている動きだった。
アレンは前へ出た。
男の胸元へ踏み込み、警棒の中ほどを男の前腕へ噛ませる。
同時に、自分の肩を男の脇下へ入れる。
肩の傷がズキリと痛んだが、銃口を外へ向けたまま、腕を畳ませる。
「離せ!!」
男が怒鳴る。
「お前こそ銃を放せ!」
アレンの声は低く、冷たく、揺るがない。
男が暴れる。
銃口が乱れる。
三発目が撃たれそうになる。
アレンは一瞬だけ、ミナミの顔を思い浮かべた。
怖いだろうに、それでもステージに立とうとしている彼女。
「信じてる」と言った声。
「怪我、しないでください」と震えた瞳。
怪我をしないと約束した。
正確には、傷は増えている。
だけど、守るという約束は、まだ破っていない。
アレンは低く息を吐いた。
男の指が、引き金に力を込める。
その前に、アレンの警棒が動いた。
手首ではなく、親指の付け根。
銃を握る力の要。
そこへ、警棒の柄を叩き込む。
鈍い音がした。
「っあ……!」
男の指が開いた。
銃が落ちる。
だが、地面に落ちるより早く、男は膝で銃を蹴り上げようとした。
アレンはそれを読んでいた。
警棒の先を男の膝よりも速く滑らせ、銃を遠くへ弾く。
金属音を立てて、銃がフェンス際へ転がった。
男の顔から笑みが消える。
「てめぇ……!」
次の瞬間、男は素手で襲いかかってきた。
銃を失っても、動きは止まらない。
むしろ、身軽になった分だけ速い。
拳。
肘。
膝。
低い足払い。
男の攻撃は粗いが、格闘技を知っている者の動きだ。
アレンはその攻撃を警棒で、受けるのではなく流す。
力では敵わない。と見ての判断だ。
拳を警棒の側面で逸らす。
肘を前腕で止める。
膝蹴りを半歩ずれて外す。
足払いには、あえて足を引かず、軸をずらして踏み替える。
男が焦れる。
もう開演時間はとっくに過ぎている。
戦っている間、何度も歓声で空気が揺れた。
だから必ず、強引に突破しようとする。
そして男は、その通りに動いた。
アレンの警棒を掴もうと、真正面から腕を伸ばしてきた。
その瞬間、アレンは警棒をわざと引いた。
男の手が空を掴む。
体が前へ流れる。
アレンはその腕の外側へ回り込み、警棒を男の肘裏に差し込んだ。
そして引いて、同時に、男の膝裏を払う。
男の体勢が崩れた。
「ぐっ……!」
男が地面へ膝をつく。
だが、男は片膝をついたまま、腰から何かを抜こうとした。
刃物か。
それとも別の凶器か。
アレンは迷わなかった。
警棒の先端で短く正確に、男の手の甲を打つ。
男の手から、小型の折り畳みナイフが滑り落ちた。
「まだ持っていましたか」
アレンの声が低くなる。
男が血走った目で睨む。
「うるせぇ……! 俺はあいつに会うんだよ……!」
「会わせません!」
「お前に関係ないだろ!」
「あります!」
アレンは男の背後へ回る。
警棒を男の腕の下へ通し、肩の可動域を奪う。
「僕は、彼女を守るためにここにいます」
男が暴れる。
「ふざけんな!離せ!」
「確保!」
駆けつけた警備員たちが一斉に男を押さえ込む。
手錠がかかる音。
無線で報告する声。
遠くでサイレンが近づいてくる音。
月明かりの下、アレンの声がわずかに深くなった。
「彼女が夢を叶えるために、どれだけの恐怖を飲み込んで立っているのか。あなたには、分からないでしょうね」
アレンはようやく息を吐いた。
胸が上下し、身体が熱い。
手の甲には擦り傷。
肩口には軽い裂傷。
スーツは血と埃で汚れていた。
警棒を握る右手には、まだ男の力の感触が残っている。
アレンが言った。
「ミナミさんの周辺は、無事ですか」
「現時点で異常なし。舞台も問題ありません」
その報告を聞いて、アレンは初めて表情を緩めた。
「……よかった」
その一言は、誰に聞かせるためでもなかった。
本当に、心の底からこぼれた声だった。
男は駆けつけた警察に連行されていく。
アレンはその背中を見送ったあと、ゆっくりと夜空を見上げた。
「月が……綺麗ですね」
白く、静かで、美しい月。
ドームの裏手の薄暗さも、血の匂いも、荒い息も、その月の下ではどこか遠く感じられた。
アレンはふと、ミナミのことを思った。
今頃、歌っているだろうか。
ファンの声援が外まで聞こえてくる。
彼女は怖がっていないだろうか。
それでも彼女は立つ。
彼女もプロなのだから。
何万人もの前に、光を浴びて笑って立つ。
その強さを思うと、胸の奥が熱くなった。
早く、彼女の笑顔が見たい。
"仕事だから。"
そう言い聞かせてきた。
彼女は警護対象で、自分は警護員。
線を引かなければならない。
近づきすぎてはいけない。
彼女の世界を乱してはいけない。
そう分かっていたのに、今、月を見上げながら思うのは、ただひとつだった。
怖い思いをした分だけ、今夜は誰よりも眩しく輝いてほしい。
「……ミナミさん」
名前を呟いた瞬間、胸の奥に柔らかな痛みが走った。
傷の痛みではなく、もっと深いところにある痛み。
もう気づかないふりはできなかった。
自分は、彼女を大切に思っている。
警護対象としてだけではなく。
一人の男として。
アレンは月から視線を下ろした。
ドームが揺れた。
中では盛り上がっているようだ。
行かなければ。
彼女のところへ。
アレンは裂けたジャケットの袖を引きちぎり、肩口の血を止めるためにそこをその袖で縛った。
「ウォーカーさん、医療班が――」
「後でお願いします」
「ですが」
「彼女の姿を確認させて下さい」
そう言って、アレンはドームの内側へ歩き出した。
その頃、ミナミはステージ上にいた。
ミランダが舞台袖で、両手を胸の前で握っている。
「ミナミちゃん……」
ミランダのそれは祈るような声だった。
ステージの上では、ミナミが歌っている。
眩しい照明を浴び、何万人もの光の中心に立っている。
その姿は、誰が見ても完璧なアイドルだった。
笑っている。
歌って踊っている。
ファンに向かって手を伸ばし、揺れるペンライトの海へ、まっすぐに声を届けている。
だが、ミランダには分かっていた。
あの笑顔の奥で、ミナミがどれほど怖さを飲み込んでいるのか。
アレンが外へ向かったあと、ミナミは一度も「怖い」と言わなかった。
震える手を衣装の袖の中で握りしめて、ただ静かに出番を待っていた。
そして、呼ばれた瞬間。
「行ってきます」
そう言って、ステージへ出ていった。
今、その背中が光の中にある。
ミランダは唇を噛んだ。
「どうか……どうか、無事に……」
その時だった。
舞台袖の奥が、わずかに騒がしくなった。
スタッフの一人が振り返る。
無線の声が重なる。
「ミランダさん」
スタッフが小さく呼んだ。
ミランダが振り向く。
その視線の先に、黒いスーツの男が立っていた。
白い髪。
乱れた呼吸。
血と埃に汚れたスーツ。
肩口には、引きちぎった袖がきつく巻かれている。
「ウォーカーさん……!」
ミランダの声が裏返った。
アレンは片手を軽く上げる。
「大丈夫です。犯人は確保されました」
「で、でも、その怪我……!」
「掠っただけです」
どう見ても、掠っただけではなかった。
スーツは裂け、白いシャツには血が滲んでいる。
頬にも小さな擦り傷があり、息はまだわずかに荒い。
それでもアレンの目は、ステージの上だけを見ていた。
「ミナミさんは」
ミランダは涙目で頷いた。
「歌ってます……ちゃんと、歌ってます……!」
アレンの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……よかった」
その声は、戦闘を終えた警護員の声ではなかった。
ただ、大切な人の無事を確かめた男の声だった。
アレンはゆっくりと舞台袖の端まで歩いた。
スタッフたちが思わず道を開ける。
誰も、止められなかった。
ステージの上では、ミナミが曲を歌い終えたところだった。
大きな歓声がドームを揺らす。
ミナミは息を整えながら、客席へ向かって笑った。
「皆さん、今日は来てくれて本当にありがとうございます!」
その声に、さらに大きな歓声が返る。
アレンは暗がりから彼女を見つめた。
光の中にいる彼女は、遠かった。
手を伸ばしても届かない場所にいる。
何万人もの視線を受け止め、誰よりも眩しく笑っている。
でも…。
アレンには、分かってしまった。
その指先がほんの少し震えていること。
笑う前に、一瞬だけ息を飲んだこと。
客席を見ているようで、時々、無意識に舞台袖の方へ視線が流れること。
彼女はまだ、祈っている。
アレンの無事を。
そのことに気づいた瞬間、アレンの胸の奥が苦しくなった。
守らなければと思っていた。
怖がらせてはいけないと思っていた。
彼女には何も背負わせず、自分一人が盾になればいいと思っていた。
けれど違う。
ミナミは、ちゃんと気づいている。
アレンが傷つくことを怖がっている。
アレンがいなくなることを恐れている。
それでも、ステージに立っている。
恐怖も、祈りも、飲み込んで。
プロのアイドルとして。
「……強いですね」
アレンは小さく呟いた。
ミランダが隣で涙を拭く。
「強いです。でも、本当はすごく怖がりなんです」
「はい」
アレンは静かに答えた。
「だから、守りたいんです」
その言葉に、ミランダははっとアレンを見たが、アレンはもう、ステージだけを見ていた。
曲間のMCが続いている。
ミナミは客席へ手を振りながら、明るく笑っていた。
「実は今日、ここに立つまでに、すごく緊張していました」
客席から、あたたかな笑い声が広がる。
「でも、皆さんの顔を見たら……あ、遠くて顔はあんまり見えないんですけど」
笑いが大きくなる。
ミナミも笑った。
「でも、光は見えます。すごく綺麗です」
アレンは黙って彼女を見つめた。
その瞬間、ミナミの視線が舞台袖へ流れた。
一瞬。
本当に、一瞬だけ。
光の中の彼女と、暗がりに立つアレンの目が合った。
ミナミの瞳が揺れる。
アレンの傷に気づいたのかもしれない。
肩口の布。
頬の擦り傷。
少し乱れた呼吸。
それを見たミナミの表情が、ほんのわずかに崩れそうになった。
でも、崩さなかった。
彼女はマイクを握り直した。
そして、泣きそうな顔を笑顔に変えた。
その笑顔が、アレンの胸を射抜いた。
無事でよかった。
戻ってきてくれてよかった。
そう言っているような笑顔だった。
アレンは小さく頷いた。
(大丈夫です。)
声には出さない。
でも、彼女には届いた気がした。
ミナミは一度だけ目を伏せ、次に顔を上げた時には、もう完璧なアイドルの顔になっていた。
「次の曲は、私にとって大切な曲です」
客席が静かになる。
「怖い時も、不安な時も、誰かがそばにいてくれるだけで、前に進めることがあるんだって……最近、そう思いました」
ミランダが息を飲む。
アレンの指が、わずかに動いた。
ミナミは舞台袖を見なかった。
もう見なかった。
見てしまえば、言葉が溢れてしまうから。
「だから今日は、この曲を……ここにいる皆さんと、今そばで支えてくれている人たちに届けたいです」
イントロが流れ始める。
静かなピアノの音。
広いドームに、澄んだ旋律が落ちていく。
ミナミは目を閉じた。
月を思い出す。
控え室の窓から見上げた月。
アレンもきっと、同じ月を見ていた。
傷つきながら。
戦いながら。
それでも自分のために戦ってくれていた。
そう思ったら、胸が熱くなった。
歌い出しの息を吸う。
喉の奥に、言えなかった言葉がまだ残っている。
ステージを降りて、彼のもとへ走っていきたい。
血の滲んだ肩に触れて、無事でよかったと泣きたい。
でも、それは今ではない。
今、自分にできることは応援してくれているファンの前で歌うことだけ。
彼が守ってくれたこの場所で。
彼が戻ってきてくれたことを、噛みしめながら。
ミナミは歌った。
最初の一音が、ドームの空気を震わせる。
その声は、いつもより少しだけ揺れていた。
でも、すぐに真っ直ぐになった。
恐怖を越えて。
祈りを抱いて。
光の中心から、暗がりに立つたった一人へ届くように。
アレンは舞台袖で、その歌を聞いていた。
肩の熱も、拳の痛みも、遠くなる。
ただ、彼女の声だけが胸に届く。
綺麗だと思った。
強いと思った。
そして、どうしようもなく愛おしいと思った。
仕事だから守る。
そう言い聞かせてきた言葉が、今夜、静かに形を失っていく。
守りたい。
彼女の夢を。
彼女の笑顔を。
彼女が泣けない時に飲み込む涙を。
そして、もし許されるのなら。
スポットライトの裏側で震える、ただの女の子の手を、自分が取ってやりたい。
アレンは目を伏せた。
「……戻ってこられて、よかった」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
ステージでは、ミナミが歌っている。
月夜に祈った想いを、光の中で歌に変えている。
その姿を見つめながら、アレンはようやく理解した。
自分はもう、とっくに線を越えていた。
ただし、それを彼女に言う資格があるかどうかは、まだ分からない。
だから今は、黙って見守る。
彼女の歌が終わる、その瞬間まで。
彼女が笑ってステージを降りてくる、その時まで。
その時こそ、必ず最初に言おう。
無事でよかった、と。
あなたの笑顔が見たかった、と。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
夢にまで見た、初めてのドーム公演。
ステージから見えた景色は、泣きたくなるほど綺麗だった。
ステージの照明がゆっくりと落ちていく。
客席のペンライトが少しずつ消えていく。
名残惜しそうな歓声も、スタッフの誘導の声に混ざりながら、遠くへ流れていった。
夢のような時間が、終わっていく。
楽屋へ戻った瞬間、ミランダが泣きながらミナミに抱きついてきた。
「ミナミちゃん……! すごかった……! 本当に、本当にすごかったよぉ……!」
「ミランダさん、泣きすぎです」
「だってぇ……!」
「ありがとうございます」
ミナミは笑いながら、ミランダの背中をそっと撫でた。
スタッフたちも次々に声をかけてくれた。
「お疲れ様!」
「最高だったよ!」
「大成功だ!」
その言葉の一つ一つが、体に染み込んでいく。
事件は無事に解決した。
犯人は確保された。
会場内に混乱は起きなかった。
誰も傷つかなかった。
コンサートは、大成功で幕を閉じた。
それは、喜ぶべきことだった。
間違いなく、幸せな夜だった。
なのに、時間が経つにつれて、ミナミの胸の奥に、別の寂しさが忍び込んできた。
スタッフが機材を片付ける音。
衣装担当が次々に衣装ケースを運ぶ音。
ミランダが関係各所へ電話をしている声。
慌ただしさの中で、ミナミは何度も周囲を見回した。
アレンの姿を探していた。
でも、見つからない。
さっきまで舞台袖にいたはずなのに。
戻ってきてくれたはずなのに。
気がつけば、彼の姿だけがどこにもなかった。
「アレンさんは……?」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。
いや、届かなくてよかったのかもしれない。
聞いてしまえば、答えを知ることになる。
もう役目は終わりました。
警護はここまでです。
彼は先に帰りました。
そんな言葉を聞くのが、怖かった。
アレンは民間のSPだ。
事件があったから来てくれた人。
危険があったから、そばにいてくれた人。
犯人が捕まった今、彼がここに残る理由はもうない。
ドーム公演を守り切った。
警護対象は無事にステージを終えた。
なら、彼の仕事は終わりだ。
その当たり前の事実が、今さらミナミの胸を冷たく締めつけた。
「ミナミちゃん?」
ミランダが心配そうに声をかける。
「少し休む? 顔色が……」
「大丈夫です」
また、そう言ってしまった。
ミナミは笑う。
「少しだけ、ステージを見てきてもいいですか?」
「え? 今?」
「はい。最後に、もう一度だけ」
ミランダは少し迷ったが、すぐに優しく頷いた。
「分かったわ。でも一人で遠くまで行っちゃ駄目だよ。」
「ありがとうございます」
ミナミは衣装のまま、楽屋を出た。
ステージへ続く通路は、さっきまでの熱気が嘘のように静かだった。
壁に貼られた進行表。
床に残るテープの跡。
片付けられていく機材。
さっきまで全てが本番のために動いていたのに、今はもう終わりの気配に包まれている。
夢の後片付け。
そんな言葉が、ふと浮かんだ。
ステージに戻ると、そこには誰もいなかった。
客席も暗い。
ほんの少し前まで、何万人もの人がいた場所とは思えないほど、広く、静かだった。
ペンライトの海は消え、歓声もない。
巨大なドームの空間だけが、ぽっかりと残されている。
ミナミはステージの中央まで歩いた。
衣装の裾が、静かな床をかすめる。
そこに一人で立つと、急に自分がとても小さく感じた。
あんなに眩しかった場所なのに。
あんなに温かかった場所なのに。
光が消えた途端、世界はこんなにも広く、寂しい。
「……終わっちゃった」
小さく呟く。
ドーム公演が終わった。
事件も終わった。
そして、アレンとの契約期間も終わる。
そう思った瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが、一気に溢れそうになった。
嫌だ。
終わりたくない。
会えなくなるなんて嫌だ。
もうSPじゃなくてもいい。
警護じゃなくて。
仕事じゃなくて。
ただ、もう一度名前を呼んでほしい。
いつもの声で。
"ミナミさん"と。
ミナミは、胸元をぎゅっと押さえた。
ステージ衣装の胸元には、まだライトの残り香みたいな温かさがある。
なのに、心だけが寒かった。
アレンは、もう帰ってしまったのだろうか。
それとも治療を受けているのだろうか。
一人で、何も言わずに消えてしまったのだろうか。
「……アレンさん」
呼んでも、返事はない。
広すぎるドームに、声が吸い込まれていくだけだった。
その時だった。
暗い客席の奥で、微かな音がした。
ミナミは顔を上げる。
誰もいないはずの客席。
非常灯だけが淡く灯る、広大な闇。
その中に、ぽつんと一つ、人影が浮かび上がっていた。
最初は、見間違いかと思った。
その人影は、ゆっくりと通路を降りてくる。
白い髪。
黒いシャツ。
さっきまでの汚れた黒のスーツではなく、着替えたのだろう。黒のシャツに変わっていた。
頬には小さな傷が残っていて、左肩の動きがわずかに硬い。
ミナミの息が止まった。
「……アレンさん」
その名を呼ぶと、人影が足を止めた。
暗い客席の中で、彼がこちらを見る。
そして、いつもの声で呼んだ。
「ミナミさん」
それだけだった。
たったそれだけで、ミナミの目に涙が溢れた。
体が勝手に動いた。
ステージの端へ向かって走る。
衣装の裾が揺れる。
ヒールが床を叩く。
「ミナミさん、危な――」
アレンが慌てて声を上げる。
ミナミはもう止まれなかった。
ステージ横の階段を駆け下り、暗い客席通路へ向かう。
そして、アレンの前まで来た瞬間。
ミナミは迷わず彼に飛び込んだ。
「アレンさん……!」
アレンの腕が、一瞬だけ宙で止まった。
仕事中なら、きっと受け止めるだけだった。
警護員として、必要な分だけ支えるだけだった。
だけど、もう、ただの警護員として居たくなかった。
ためらいの後、アレンの腕がミナミの背中へ回る。
強く。
壊れ物を抱くみたいに大切に。
ミナミの体を、しっかりと抱きしめた。
「……お疲れ様でした」
低く、優しい声が耳元に落ちる。
「ドーム公演、本当にお疲れ様でした」
その言葉で、ミナミの涙がこぼれた。
「アレンさん……無事で……よかった……」
「約束しましたから」
「怪我、してるじゃないですか……」
「少しだけですよ」
「少しじゃないです」
「少しです。これぐらいどうってことない」
「そういう問題じゃないです……」
泣きながら言うと、アレンが小さく笑った。
その笑い声が、ミナミの胸に染みる。
アレンがここにいる。
それだけで、苦しいくらい嬉しかった。
「怖かったです」
ミナミはアレンの胸元に顔を埋めたまま言った。
「ステージに立つのも怖かった。でも、それより……アレンさんが黙って居なくなるんじゃないかって思う方が、ずっと怖かった」
アレンの腕に、ほんの少し力がこもる。
「勝手に居なくなりません」
「でも、怖がらせました」
「……困ったな」
ミナミは震える息を吐く。
「怖かったです。すごく。だから、もう……命に代えてなんて、言わないでください」
ずっと飲み込んでいた言葉だった。
言ってはいけないと思っていた言葉。
彼の誇りを汚したくなくて、仕事の邪魔をしたくなくて、アイドルとしての立場を守りたくて、ずっと喉の奥に押し込めていた言葉。
でも、今はもう止められなかった。
「私を守るためでも、そんなふうに言わないでください。アレンさんがいなくなったら……私……」
声が詰まる。
アレンは黙って聞いていた。
急かさず、遮らず、ただ抱きしめてくれている。
ミナミは震える指で、アレンのシャツを握った。
「私、アレンさんがいなきゃ嫌です」
広いドームの中に、その声だけが落ちた。
ファンもいない。
スタッフもいない。
スポットライトもない。
だから今のミナミは、アイドルではなかった。
ただ、好きな人を失うのが怖かった一人の女の子だった。
アレンは長く息を吐いた。
それは、何かを諦めるような息ではなく、ずっと抑えていたものを、ようやく認めるような息だった。
「……僕は」
アレンの声が、少し掠れていた。
「あなたのそばにいる間、何度も自分に言い聞かせていました」
ミナミは顔を上げる。
アレンの瞳が、すぐ近くにあった。
優しい瞳なのに、今までよりずっと深く、熱を帯びた目だった。
「これは仕事だ。キミは警護対象で、僕は警護員だと。クライアントにこんな気持ちを持ってはいけないと」
アレンの指が、ミナミの背中でわずかに震える。
「でも、できませんでした」
「……アレンさん」
「キミが怖いと言えずに笑うたびに、胸が痛かった。キミが誰かのために泣くのを我慢するたびに、抱きしめたくなった。キミがステージに立つ姿を見た時……守りたいと思ったんです」
彼は少しだけ言葉を切った。
そして、まっすぐにミナミを見る。
「仕事だからではありません」
ミナミの涙が、また一粒こぼれた。
「一人の男として、あなたを守りたいと思いました」
アレンの声は、静かだった。
その静けさの中に、逃げ場のないほどの想いがあった。
「ドーム公演、お疲れ様でした。あなたは、本当に綺麗でした」
「……そんな」
「いいえ。眩しかった。怖かったはずなのに、最後まで笑って、歌って……僕は、キミから目が離せませんでした」
ミナミは何も言えなくなった。
胸がいっぱいで、息をするのも難しかった。
アレンは少しだけ困ったように笑う。
その表情は、いつもの穏やかなSPの顔ではなかった。
好きな人を前にして、不器用に言葉を探している大人の男の顔だった。
「もう、契約は終わります」
その言葉に、ミナミの体が強張る。
アレンは、抱きしめる腕を緩めなかった。
「だから、これからは仕事ではなく……僕のプライベートでミナミに会いたい」
ミナミは息を飲んだ。
"ミナミさん"ではなく"ミナミ"と呼ばれた。
アレンは少しだけ目を伏せ、それからもう一度まっすぐに見つめてくる。
「SPとしてではなく、一人の男として」
彼の声が、静かなドームに響く。
「あなたのそばにいてもいいですか」
その瞬間、ミナミの中で、張りつめていた糸が切れた。
泣きながら、笑ってしまった。
「……そんなの」
「はい」
「私が、断るわけないじゃないですか……」
アレンの瞳が揺れた。
ミナミは涙で滲む視界の中、必死に彼を見つめる。
「私も、ずっと言いたかったです」
喉の奥が熱い。
それでも、今度は飲み込まない。
「アレンさんが好きです」
言えた。
やっと。
ずっと胸の奥に閉じ込めていた言葉が、静かなドームの空気に溶けていく。
アレンは一瞬、何かに打たれたように動きを止めた。
それから、世界で一番愛おしいものを見るような目で、ミナミを見つめた。
「……僕もです」
たった一言。
その声には、これまで抑えてきた想いが全部詰まっていた。
アレンの手が、ミナミの頬にそっと触れる。
戦っていた時とは違う。
銃口を逸らし、警棒を握っていた手とは思えないほど、優しい触れ方だった。
「好きです、ミナミ」
名前を呼ばれて、胸が震える。
「あなたを守りたい。支えたい。笑っていてほしい。泣きたい時は、僕の前で泣いてほしい」
「アレンさん……」
「もう、大丈夫ですとだけ言わせるつもりはありません」
その言葉に、ミナミはまた泣いた。
こんなふうに見てくれる人がいる。
アイドルとしてではなく。
商品としてではなく。
ステージの上の光としてでもなく。
スポットライトの裏側で震えている自分を、ちゃんと見つけてくれる人がいる。
それが、こんなにも嬉しい。
ミナミはアレンの胸に額を寄せた。
「じゃあ……そばにいてください」
「はい」
「仕事じゃなくて」
「はい」
「私がアイドルでも」
「はい」
「迷惑をかけるかもしれません」
「覚悟しています」
「世間に知られたら、大変かもしれません」
「それでも、あなたの隣にいたいです」
まっすぐな言葉に、ミナミは小さく笑った。
涙でぐしゃぐしゃなのに、心だけは驚くほど温かかった。
「アレンさんって、優しいのに……、すごく強引ですね」
「そうですか?」
「そんな気がします」
「では、今だけ少し強引になります」
𝙉𝙚𝙭𝙩 ︎ ⇝