スポットライトの裏側で
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[スポットライトの裏側で]
「本日もお疲れ様でしたー!」
眩しいライトが落ちた瞬間、スタジオ中に散らばっていた笑顔が、音を立てずにそれぞれの顔へ戻っていく。
カメラの前では、誰もが明るい。
笑って、手を振って、可愛くて、綺麗で、完璧で。
しかし、その光が強ければ強いほど、裏側には濃い影が落ちる。
ミナミはステージ衣装の裾を片手で押さえながら、控室へ続く廊下を歩いていた。
今日も収録は問題なく終わった。
歌も、トークも、ファン向けのコメント撮りも、全部予定通り。
失敗はなかった。
笑顔も崩さなかった。
けれど、控室のドアの前に立った瞬間、ミナミの胸の奥がきゅっと縮む。
スマホには、今朝も届いていた。
知らないアドレスからのメール。
件名はない。
本文だけが、やけに丁寧な文体で並んでいた。
――今日の衣装、似合ってたね。
――でも、あの男のスタッフと話しすぎ。
――僕だけを見てくれないなら、君の世界を壊すよ。
最初は、よくある迷惑メールだと思った。
人気商売をしていれば、多少の悪意や執着は避けられない。
事務所も、スタッフも、そう言った。
「気にしないで。こっちで対応するから」
そう言われるたびに、ミナミも笑って頷いた。
「はい、大丈夫です」
大丈夫。
その言葉は、いつの間にかミナミの口癖になっていた。
でも、本当は少しずつ大丈夫ではなくなっていた。
送られてくる写真が、だんだん近くなっていたから。
駅のホーム。
移動車の後部座席。
楽屋口の前。
そして昨日は、自宅マンションのエントランスが写っていた。
それを見た瞬間、最初に青ざめたのは、担当マネージャーのミランダだった。
「だ、駄目です……!」
いつもなら小さなミス一つで「私が悪いんですぅ……!」と半泣きになる彼女が、その時だけは震える両手でスマホを握りしめ、ミナミの前に立った。
「これは、もう駄目です。気のせいとか、よくあることとか、そんなふうに済ませちゃ駄目です……!」
ミナミは驚いて、ミランダを見上げた。
「ミランダさん……?」
「ミナミちゃんは、いつも大丈夫って言いますけど……!」
ミランダの目は潤んでいた。
怖がっている。
「大丈夫じゃない時は、大丈夫じゃないって言っていいんです……! 言えないなら、私が言います。私が、事務所に言います……!」
そして、その日のうちに、事務所の空気は変わった。
警察への相談。
スケジュールの見直し。
移動ルートの変更。
そして、臨時の民間SPの手配。
「今日からしばらく、専属でついてもらうことになりました」
翌日、控室でミランダは緊張した顔をしていた。
普段から頼りなげな彼女だが、今日はいつにも増して落ち着きがない。
手帳を開いたり閉じたり、ペンを落としたり拾ったり、なぜか同じ資料を三回も確認している。
「ミランダさん、大丈夫ですか?」
ミナミが声をかけると、ミランダはびくっと肩を跳ねさせた。
「は、はい! 大丈夫です! いえ、大丈夫ではないです! 緊張しています!」
「正直ですね」
「だって、ミナミさんの命がかかっているんですもの……!」
そう言うと、ミランダは胸の前でぎゅっと手帳を抱きしめた。
「でも、でもですね。今日来てくださる方は、実績もきちんとあります。私、資料を七回読み返しました」
「七回も?」
「はい。不安で……!」
その時、控室のドアがノックされた。
ミランダが飛び上がる。
「ど、どうぞ!」
扉が開く。
「失礼します」
柔らかな声とともに入ってきたのは、白髪の青年だった。
黒いスーツ。
整った顔立ち。
穏やかに下がった目元。
礼儀正しく頭を下げる姿は、とても綺麗だった。
ミナミは思わず固まった。
白い髪のせいか、どこか人形めいている。
童顔で、優しそうで、にこりと笑うと新人スタッフのようにも見える。
背は、まあ、普通。
けれど、SPと聞いて想像していたような、壁みたいな体格ではなかった。
むしろ、細い。
華奢、という言葉すら浮かぶ。
ミナミは失礼だと分かっていながら、心の中で呟いてしまった。
(もやしみたいだ…)
「初めまして。今日から警護を担当します、アレン・ウォーカーです」
青年は穏やかに微笑んだ。
「よろしくお願いします、ミナミさん」
「あ……はい。よろしくお願いします」
返事をしながらも、ミナミの視線は無意識にアレンの腕へ向かっていた。
細い。
いや、細く見えるだけかもしれない。
でも、細い。
この人が、本当に自分を守れるのだろうか。
刃物を持った相手が来たら?
力任せに押し込まれたら?
この優しそうな人が、そんな相手に立ち向かえるのだろうか。
「……あの」
ミナミは遠慮がちに口を開いた。
「アレンさんって、おいくつなんですか?」
隣でミランダが「ひゃっ」と小さく息を飲んだ。
「ミナミさん……!」
だが、アレンは気を悪くした様子もなく、にこりと笑う。
「今年で二十九です」
「……二十九?」
ミナミは思わず聞き返した。
どう見ても、二十歳そこそこに見える。
下手をすれば、それより年下に見える。
なのに、自分よりかなり上だった。
アレンは慣れているのか、少し困ったように笑った。
「よく言われます。新人に見えるって」
「い、いえ、そんな……」
(ごめんなさいっ!言いました。心の中で、かなりはっきり言いました!)
ミランダが慌てて両手を振る。
「で、でも! ウォーカーさんは本当にすごい方なんです! 経歴も、対応実績も、ええと、あと……あの……と、とにかくすごいんです!」
「ミランダさん、落ち着いてください」
アレンが優しく言う。
「はい! すみません!」
「僕の資料を読んでくださったんですよね」
「はい!」
「ありがとうございます」
アレンがふっと笑う。
そのやり取りに、ミナミの緊張が少しだけ緩んだ。
ミランダはまだ焦っている。
アレンはまだ頼りなさそうに見える。
しかし、この場に流れる空気だけは、少しだけ温かかった。
アレンはミナミへ向き直ると、静かに言った。
「不安にさせてしまったなら、すみません。でも、仕事はきちんとします」
その言い方は、強がりではなかった。
必要以上に自分を大きく見せようともしていない。
ただ、静かに事実を置いただけ。
ミナミはそれ以上何も言えず、小さく頷いた。
「……お願いします」
「はい。最後まで、きちんとお守りします」
その日から、アレンはミナミのそばにいた。
仕事場への移動。
楽屋前での待機。
イベント会場での導線確認。
帰宅時の周辺警戒。
アレンはどこにいても、目立たなかった。
必要以上に話しかけてこない。
近すぎる距離にも踏み込まない。
ただ、ミナミが不安になった時だけ、必ず気づく。
人混みの中で足が止まりそうになると、半歩だけ前に出る。
エレベーターで知らない男性と乗り合わせると、自然にミナミとの間に立つ。
メール通知音に肩が跳ねた時は、何も聞かず、ただ静かに視線を周囲へ走らせる。
ミランダもまた、必死だった。
「ミナミさん、お水です!」
「ありがとうございます」
「あと、次の移動なんですけど、事務所からルート変更の連絡がありまして……あ、でも大丈夫です! ウォーカーさんにも共有済みです! たぶん!」
「たぶん?」
「いえ、共有済みです! 確実に!」
ミランダはいつも少しだけ頼りなかった。
それでも、ミナミの前では必ず笑おうとしてくれた。
ミナミが控室でぼんやりしていると、そっと膝掛けをかけてくれる。
ミナミがスマホを見るのをためらっていると、「私が先に確認しましょうか」と震えながら言ってくれる。
怖いくせに。
本当は、ミランダだって怖いはずなのに。
「ミナミちゃんは、笑うお仕事をされていますけど」
ある日、移動車の中でミランダが言った。
「ずっと笑っていなきゃいけないわけじゃないと思うんです」
ミナミは窓の外から視線を戻した。
ミランダは手帳を胸に抱いたまま、真剣な顔をしていた。
「少なくとも、私の前では……その、泣いても、怒っても、大丈夫です。私は頼りないですけど、そばにはいますから」
その言葉に、ミナミは胸が詰まった。
返事をしようとしたけれど、うまく声が出なかった。
すると、助手席に座っていたアレンがバックミラー越しに視線を向けた。
「ミナミさん」
「……はい」
「大丈夫です」
その声は、不思議だった。
「大丈夫ですよ」と慰めるのではなく。
「大丈夫です」と言い切る。
まるで、その言葉の責任を自分が背負うと決めているみたいに。
ミナミは小さく頷いた。
少しだけ、本当に大丈夫な気がした。
それでも、恐怖が消えたわけではなかった。
ストーカーからのメールは数こそ減ったものの、内容はどんどん不穏になっていた。
――僕を無視しないで。
――君を守っている男、邪魔だね。
――あの女のマネージャーも、君を独り占めしている。
――全部、壊してあげる。
その一文を見た瞬間、ミランダの顔から血の気が引いた。
「わ、私のことまで……」
「ミランダさん」
ミナミは思わず彼女の手を握った。
「ごめんなさい……私のせいで」
「違います!」
ミランダはすぐに首を振った。
「違います、ミナミちゃん。悪いのは脅してくる人です。ミナミちゃんじゃありません」
その声は震えていた。
だけど、言葉ははっきりしていた。
アレンも静かに頷く。
「ミランダさんの言う通りです」
「でも……」
「あなたは悪いことなんて、一つもしていません」
アレンの声は優しかったが、甘くはなかった。
ミナミが自分を責めることを、許さない声だった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
転機が訪れたのは、地方イベントの帰りだった。
小さなホールでの握手会。
予定より長引いたイベントを終え、ミナミはミランダとスタッフに囲まれながら裏口へ向かっていた。
外はもう暗い。
雨上がりのアスファルトが、街灯をぼんやり反射している。
「車、正面じゃなくて裏に回してます」
ミランダが手帳を確認しながら言う。
「ウォーカーさん、裏口から車までの導線は……」
「確認済みです」
アレンが静かに答える。
「スタッフさん二名を先に。ミナミさんは僕の前、ミランダさんは左横についてください」
「は、はい!」
ミランダが緊張した顔で頷く。
ミナミも小さく息を吸った。
あと少し。
車に乗れば、今日も終わる。
そう思った、その瞬間だった。
「ミナミ!!」
叫び声が、雨上がりの夜を裂いた。
誰かが制止する声。
スタッフの悲鳴。
ミランダが息を飲む音。
ミナミが振り向くより早く、黒い影が視界の端から飛び込んでくる。
知らない男だった。
目を血走らせ、ぐしゃぐしゃに濡れた髪を振り乱しながら、一直線にミナミへ向かってくる。
手には、何かが握られていた。
刃物かどうかも分からない。
分からないけれど、光った。
ミナミの体が凍りつく。
逃げなきゃ。
そう思うのに、足が動かない。
喉が詰まって、声も出ない。
男の顔が近づく。
怒りと執着が混ざった、知らない顔。
「なんで僕を見ないんだよ!!」
その手が伸びた。
「ミナミちゃん!」
ミランダが叫んだ。
震える体で、ミナミの腕を引こうとする。
その瞬間、ミナミの前に、白い影が入った。
アレンだった。
さっきまで穏やかに傍を歩いていた青年とは、まるで別人だった。
目が違う。
柔らかさの消えた横顔は、冷たいほど静かだった。
男の腕を掴んで、捻る。
そして、踏み込む。
それは本当に一瞬だった。
大きな音を立てて、男の体が地面に叩きつけられる。
「がっ……!」
男が呻く。
アレンはその背中へ膝を乗せ、腕を完全に封じた。
正確に、確実に、相手の動きを奪っていた。
「刃物、確認してください」
アレンの声が低く響く。
「警察へ連絡を。ミナミさんを車へ」
スタッフたちがはっと我に返って動き出す。
ミランダがミナミの肩を抱く。
「ミナミちゃん、こちらへ……!」
ミナミはその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
アレンの横顔から目が離せなかった。
細いと思っていた腕。
頼りないと思っていた背中。
その全てが、今はまったく違って見えた。
怖いほど冷静で。
信じられないほど強くて。
そして、自分の前に立つことを一瞬も迷わなかった。
「ミナミちゃん!」
ミランダの声で、ようやく足が動いた。
車に乗り込んだ瞬間、膝から力が抜けた。
ミランダが隣に座り、震える手でミナミの手を握る。
「大丈夫です、大丈夫です……!」
そう言うミランダの方が、今にも泣きそうだった。
やがて警察が到着し、男が連れていかれる。
男が手にしていたものは金属製のペーパーナイフだったと聞かされた。
それでも、当たりどころが悪ければ怪我では済まなかったかもしれない。
車の中で、ミナミは震える手を膝の上で握りしめていた。
歯がかちかちと鳴りそうになるのを、必死にこらえる。
怖かった。
怖かった。
怖かった。
ステージの上で何万人の前に立つよりも、たった一人の悪意が怖かった。
「ミナミさん」
少しして、車のドアが開いた。
アレンだった。
警察への説明を終えたのか、彼は静かに車内を覗き込む。
その姿を見た瞬間、ミナミの胸が詰まった。
「怪我はありませんか?」
ミナミは頷こうとした。
でも、首が動かなかった。
代わりに、声が震えた。
「……ごめんなさい」
アレンの眉が、ほんの少し寄る。
「どうして謝るんですか」
「だって……私のせいで」
私のせいで、あなたが危ない目に遭った。
私のせいで、ミランダさんも怖い思いをした。
私のせいで、スタッフも巻き込まれた。
私のせいで、みんなに迷惑をかけた。
言葉にしようとしたのに、喉の奥で詰まった。
涙だけが勝手に滲む。
アイドルなのに。
人前で泣く演技には慣れているはずなのに。
これは演技ではなかった。
だから、余計に止められなかった。
「違います……!」
隣でミランダが泣きそうな声を出した。
「ミナミちゃんのせいじゃありません。絶対に違います」
アレンも静かに頷く。
「ミランダさんの言う通りです」
その声は優しいのに揺るがなかった。
「怖かったですよね」
その一言で、ミナミの涙腺が崩れた。
怖かった。
本当は、ずっと怖かった。
メールを見るのも。
外に出るのも。
誰かに笑いかけられるのも。
ファンを信じたいのに、その中に悪意が混ざっているかもしれないと思うことも。
全部、怖かった。
「……怖かった、です」
やっと言えた言葉は、あまりにも小さかった。
アレンはそれを笑わなかった。
大げさだとも言わなかった。
ただ、ミナミの震える手に、自分の手をそっと近づけた。
触れる寸前で止める。
「手、握ってもいいですか」
その確認が、ミナミの胸をまた苦しくさせた。
守る時は一瞬で前に出るのに。
こういう時は迷う。
ミナミは小さく頷いた。
アレンの手が、ミナミの手を包む。
温かかった。
見た目よりも大きくて、しっかりしていて、震えを受け止めるように優しい手だった。
「大丈夫です」
また、その言葉。
でも今度は、ミナミの中にすっと入ってきた。
「僕がいます」
その夜から、ミナミはアレンを見る目が変わった。
もちろん、彼が強い人だと知ったからだけではない。
強さなら、他にも持っている人はいる。
でも、アレンはミナミを“商品”として守らなかった。
人気アイドルとして。
事務所の大切な稼ぎ頭として。
世間に見せるための顔として。
そうではなく、ただ一人の人間として、怖がるミナミを見てくれた。
それが、ミナミにはたまらなく嬉しかった。
事件から数日。
ストーカーは逮捕され、余罪も明らかになった。だが、ストーカー男はストーカーしたことは認めたが、メールの件は否認した。
ミナミを困らせる奴は他にもいる。
それでも仕事は相変わらず忙しい。
朝から雑誌撮影。
昼はラジオ収録。
夜はライブのリハーサル。
「ミナミさん、足元、気をつけてください」
「はい」
「この階段、少し滑ります」
「はい」
「水分、取ってください。今日、まだ半分も飲んでませんよね」
「……見てたんですか?」
「仕事ですから」
そう言って、アレンはにこりと笑う。
その笑顔を見るたびに、ミナミの胸が小さく跳ねるようになった。
『仕事だから。』
それは分かっている。
アレンが優しいのは、仕事だから。
そばにいてくれるのも、仕事だから。
帰り道に歩幅を合わせてくれるのも。
疲れていることに気づいてくれるのも。
怖い夢を見た翌朝、何も聞かずに温かい飲み物を差し出してくれるのも。
全部、彼がプロだから。
そう思わなければいけないのに。
「寒くないですか」
「大丈夫です」
「嘘ですね」
「……なんで分かるんですか」
「肩、上がってます」
アレンはそう言って、自分のコートをミナミの肩にかけた。
ふわりと、彼の匂いがした。
清潔なシャツと、少しだけ甘い紅茶のような匂い。
ミナミはコートの襟元を掴みながら、俯いた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ずるいくらい優しい。
しかしアレンは決してそれ以上、踏み込んでこない。
ミナミがどれだけ彼の横顔を見つめても。
彼の声に安心しても。
彼の手の温度を思い出して眠れなくなっても。
アレンはいつも、きちんと一歩引いていた。
"警護対象と警護員"
その線を、彼は絶対に越えない。
それが彼の誠実さだと分かっている。
分かっているからこそ、ミナミは苦しかった。
そして、その変化に気づいたのは、やはりマネージャーのミランダだった。
ある日の楽屋。
ミナミがメイクを直している間、アレンは廊下で待機していた。
鏡越しにその背中を見てしまう。
白い髪。
黒いスーツ。
すぐそこにいるのに、遠い人。
ミナミが無意識に目で追っていると、隣でスケジュール帳を開いていたミランダが、そっと声を落とした。
「ミナミさん」
「はい?」
「私、間違っていたらごめんなさい」
「え?」
ミランダは少し迷ってから、小さく言った。
「最近、ウォーカーさんのお話になると……少しだけ、泣きそうなお顔をされます」
ミナミの手が止まった。
口紅のキャップを閉める音が、やけに大きく響いた。
「……そんな顔、してますか?」
「はい」
ミランダは困ったように、でも優しく頷いた。
「とても大切なものを、見ているみたいなお顔です」
ミナミは何も言えなかった。
否定したかった。
でも、できなかった。
ミランダは慌てて手を振る。
「あ、あの、すみません! 私、余計なことを……」
「いいえ」
ミナミは小さく笑った。
「ミランダさんって、時々すごく鋭いですよね」
「えっ。そ、そうでしょうか。普段はよく転ぶのに……」
「転ぶのは関係ないです」
ミナミがそう言うと、ミランダは少しだけ笑った。
その笑顔を見て、ミナミも少しだけ肩の力が抜けた。
しかし、胸の奥の痛みは消えなかった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
ある日の夜。
音楽番組の収録を終えた帰り道、ミナミは事務所の会議室に呼ばれた。
ミランダと、事務所の幹部。
そして、警備会社の担当者。
そこにはアレンもいた。
いつものように静かな顔で、ミナミの少し後ろに立っている。
「今回の件ですが、警察からも一応の収束という判断が出ました」
幹部が言った。
「もちろん警戒は続けます。ただ、現在の専属警護体制については、今月末を目処に段階的に解除する方向で考えています」
今月末。
その言葉が、ミナミの胸に落ちた。
重く。
冷たく。
ゆっくりと沈んでいく。
「……解除」
ミナミの沈んだ表情を見て、ミランダが異議を唱える。
「しかし!まだ、ミナミちゃん本人のスマホへの嫌がらせは続いています!」
「そんなの男女のアレじゃないの?別れる時にちゃんと円満に別れたの?」
事務所の責任者が間抜けなことを言う。
ミランダはテーブルを叩いた。
「ミナミちゃんは異性と付き合ったことなどありません!」
「そんなの君がいないところではどうか分からないじゃないか」
ミランダが上司と言い合っている傍で、ミナミは『契約期間』という言葉で、ようやく思い出した。
アレンは、ずっとそばにいる人ではない。
事件があったから来てくれた人。
危険があったから守ってくれた人。
それがなくなれば、彼は去る。
当たり前だ。
当たり前なのに、どうしてこんなに胸が痛いのだろう。
隣でミランダが、心配そうにミナミを見た。
「ミナミちゃん……?」
ミナミは慌てて笑った。
アイドルの顔を作る。
何度も練習してきた、明るくて、聞き分けが良くて、誰にも迷惑をかけない顔。
「私は大丈夫です。皆さんにずっとご迷惑をおかけしていたので」
声は、ちゃんと出た。
笑顔も、たぶん崩れていない。
「アレンさんにも、たくさん助けていただきました。ありがとうございます」
ミナミは振り返り、アレンに頭を下げた。
アレンは一瞬だけ、何か言いたそうにした。
しかし、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。
「……いえ。まだ契約期間は残っています。最後まで、きちんとお守りします」
最後まで。
その言葉が、優しい刃のように胸を刺した。
会議が終わったあと、ミランダはエレベーターの前でミナミにそっと近づいた。
「ミナミちゃん」
「はい」
「無理に笑わなくても、大丈夫ですよ」
ミナミは一瞬、息を止めた。
ミランダは泣きそうな顔で、それでも柔らかく微笑んだ。
「私の前だけでも」
その優しさに、ミナミは泣きそうになった。
廊下の先にはアレンがいる。
いつものように、少し離れた場所でミナミを待っている。
だからミナミは、また笑った。
「大丈夫です」
その言葉を聞いたミランダは、何も言わなかった。
ただ、少しだけ悲しそうに眉を下げた。
その日から、時間の流れが変わった。
同じ一日なのに。
同じ現場なのに。
アレンが隣にいる時間が、少しずつ削られていくものに思えた。
車に乗る時、ドアを開けてくれる手。
人混みで半歩前に出る背中。
「お疲れ様です」と差し出される水。
収録終わりに向けられる、柔らかな微笑み。
全部が、終わりに向かっている。
あと何回、この声を聞けるのだろう。
あと何回、この人の隣を歩けるのだろう。
そんなことばかり考えるようになった。
でも、言えなかった。
行かないで、なんて。
そばにいて、なんて。
そんなことを言ったら、アレンを困らせる。
彼には彼の仕事がある。
人生がある。
自分は、ただの警護対象だ。
人気アイドルという立場で、彼を縛るようなことはしたくなかった。
ミナミは今日も笑う。
ライトの下で、完璧に。
「皆さん、今日は来てくれてありがとうございます!楽しもうね!」
歓声が上がる。
名前を呼ぶ声。
振られるペンライト。
無数の光が、ミナミを照らす。
その眩しさの向こう。
舞台袖の暗がりに、アレンが立っていた。
いつものように静かに周囲を見ている。
少し離れた場所には、ミランダもいる。
両手でスケジュール帳を抱きしめながら、心配そうに、でも誇らしそうにミナミを見守っている。
ミナミは二人を見た。
自分を商品としてではなく、一人の人間として見てくれる人たち。
その存在が、どれほど自分を支えていたのか。
今さらのように、胸に迫る。
舞台袖のアレンと目が合った。
彼は小さく頷く。
大丈夫です。
声は聞こえない。
ただ、そう言われた気がした。
ミナミは笑った。
今までで一番綺麗に。
誰にも気づかれないように、胸の奥の痛みを隠して。
スポットライトの中で、ミナミはアイドルだった。
でも、その裏側で、たった一人の青年に恋をしている、ただの女の子でもあった。
時が教えてくれた。
守られることの温かさを。
誰かがそばにいるだけで、夜が怖くなくなることを。
そして、終わりが近づいて初めて、自分がどれほどその人を失いたくないのかを。
ミナミは歌いながら、舞台袖のアレンを見た。
優しい目。
頼りなさそうに見えて、誰よりも確かな背中。
最初は、本当に大丈夫かと思った。
けれど今は違う。
大丈夫じゃなくなるのは、彼がいなくなった後の自分の方だ。
そう気づいた瞬間、ミナミの胸に、切ない痛みが広がった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
初のドーム公演が決まったのは1年前。
まだストーカーからの脅迫が、ここまで深刻化する前。
事務所の大きな会議室で、分厚い資料と一緒にその話を聞かされた時、ミナミはしばらく声が出なかった。
「ミナミちゃん、ドームだよ……!」
隣で、担当マネージャーのミランダが先に泣いた。
「すごいわ……本当に、本当に頑張ってきたもの……!」
「ミランダさん、まだ泣くの早いです」
そう言いながら、ミナミは笑っていた。
胸の奥が熱くて、足元がふわふわして、現実感がなかった。
デビューした頃は、夢だと口にすることすら少し恥ずかしかった場所。
何万人もの人が集まる、巨大なステージ。
憧れていた先輩たちが立ってきた場所。
そこに、自分が立つ。
ドーム公演。
それは、ミナミにとってアイドルとしての一つの到達点だった。
発表に向けて、リハーサルも、衣装合わせも、楽曲制作も、ずっと前から動いていた。
巨大スクリーン用の映像撮影。
新曲の振り入れ。
客席の見え方を想定した立ち位置の確認。
何もかもが、普段のライブとは規模が違った。
その大きな夢へ向かって進んでいる最中に、ストーカーからの脅迫は少しずつ悪化していった。
最初は、気味の悪いメール。
次は、移動先で撮られた写真。
そして、自宅マンションのエントランス。
事務所が危険だと判断し、臨時の民間SPを雇ったのは、ドーム公演の準備が本格化してからのことだった。
その時、ミナミの前に現れたのが、アレン・ウォーカーだった。
色白で、童顔で、お世辞にも屈強には見えない青年。
初めて会った時、ミナミは正直に思った。
――本当に、大丈夫かな。
暴漢が襲いかかってきたあの日、アレンは一瞬で男を取り押さえた。
頼りなさそうに見えていた背中は、誰よりも強かった。
それからドーム公演が近づくたびに、ミナミの胸には二つの感情が積もっていった。
夢に近づいている喜びと、アレンとの契約終了が近づいている寂しさ。
この公演が終われば、専属警護体制は段階的に解除される。
ストーカー事件が収束に向かっている以上、それは当然のことだった。
アレンは、事件があったからミナミのそばにいる。
危険があったから、守ってくれている。
危険がなくなれば、彼は去る。
その当たり前の事実が、ミナミにはどうしようもなく苦しかった。
「ミナミさん」
リハーサル終わりの廊下で、アレンが声をかけた。
「少し顔色が悪いです。休憩を取りましょう」
「大丈夫です」
反射的にそう答えてから、ミナミは自分で少し苦笑した。
また言ってしまった。
大丈夫。
本当は少しも大丈夫ではないくせに。
アレンは何も責めなかった。
ただ、いつものように静かにミナミを見つめる。
「では、五分だけ座ってください。大丈夫な人でも、五分は座れます」
その言い方が少しおかしくて、ミナミは小さく笑ってしまった。
「それ、命令ですか?」
「お願いです」
「SPさんのお願いは断りにくいですね」
「それは助かります」
アレンはにこりと笑った。
柔らかくて、穏やかで、いつも通りの笑顔。
その笑顔を見るたびに、ミナミの胸は苦しくなる。
この人は、あと少しでいなくなる。
そう思うだけで、リハーサルで酷使した喉よりも、胸の奥の方が痛んだ。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
ドーム公演まで、あと少し。
事件は、その夜に起きた。
レッスンを終えたミナミが控室に戻ると、そこには異様な空気が流れていた。
ミランダが青ざめた顔でスマホを握っている。
事務所のスタッフが数人、低い声で話し合っている。
アレンは壁際に立ち、いつもの穏やかな表情を消していた。
その瞬間、ミナミは分かってしまった。
まただ。
「……何か、ありましたか?」
問いかける声が、自分でも驚くほど乾いていた。
ミランダがびくりと肩を揺らす。
「ミナミちゃん……」
彼女は何かを言おうとして、唇を震わせた。
言葉にならない。
代わりに、アレンが一歩前に出た。
「脅迫文が届きました」
ミナミの指先が冷たくなる。
「……内容は?」
「ミナミさん」
アレンの声が、少しだけ低くなった。
「無理に見る必要はありません」
その言葉で、逆に分かってしまった。
見せられないほどの内容なのだと。
ミナミは小さく息を吸った。
「見ます」
「ミナミちゃん……!」
ミランダが泣きそうな声で呼ぶ。
ミナミは彼女に向かって、できるだけ優しく笑った。
「大丈夫です」
また、その言葉。
ミランダを安心させるための、下手な嘘だった。
アレンは少しの沈黙のあと、スタッフからタブレットを受け取り、画面をミナミに向けた。
そこには、短い文章があった。
その短さがかえって生々しかった。
――今すぐライブを中止しろ。さもないとドームのステージで、お前を終わらせてやる。
ミナミの視界が、一瞬だけ白くなった。
音が遠のく。
控室のざわめきも、空調の音も、誰かが息を飲む気配も、全部が膜の向こう側へ消えていく。
ドームのステージで。
お前を。
終わらせてやる。
それは、ただの悪口ではなかった。
明確な犯行予告だった。
自分の夢だった場所が、突然、恐怖の場所へ塗り替えられていく。
舞台の真ん中で、自分が倒れる姿を想像してしまい、ミナミは胃の奥が冷たくなるのを感じた。
「公演は……」
誰かが言った。
「中止も視野に入れるべきです」
その一言に、ミナミは顔を上げた。
中止。
頭では、分かっていた。
当然の判断だ。
危険があるなら、止めるべきだ。
観客にも、スタッフにも、迷惑をかけられない。
それなのに、胸の奥で、何かがぎゅっと縮んだ。
ずっと夢だった。
何度も泣いて、何度も倒れそうになって、それでも笑って立ち続けて、やっと届いた場所だった。
ファンも楽しみにしてくれている。
ミランダも泣いて喜んでくれた。
アレンにも、見てほしかった。
でも、もし誰かが傷ついたら。
もしアレンが…。
そこまで考えた瞬間、ミナミは自分の体から血の気が引くのを感じた。
「警察への共有は済ませています」
アレンが静かに言った。
「会場警備の増員、導線の再確認、入場時のチェック強化。できる対策はすべて取ります」
「しかし、万が一があった場合……」
スタッフの言葉に、控室の空気がさらに重くなる。
ミランダは両手で口元を押さえていた。
泣き出しそうなのに、必死でこらえている。
ミナミは、その姿を見るのがつらかった。
自分の夢が、誰かの不安になっている。
自分のステージが、誰かを危険にさらすかもしれない。
そう思うと、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。
「私……」
ミナミが口を開いた時だった。
アレンが、静かにミナミの前に立った。
視線が合う。
いつもの柔らかな目の奥には決して揺れないものがあった。
「ミナミさん」
「……はい」
「あなたは、どうしたいですか」
控室の全員が黙った。
その問いは、残酷なほどまっすぐだった。
事務所の判断でもなく。
警察の判断でもなく。
スタッフの不安でもなく。
ミナミ自身がどうしたいのか。
そんなことを聞かれるとは思っていなかった。
ミナミは唇を噛む。
どうしたいかなんて、決まっている。
ドームに立ちたい。
歌いたい。
待ってくれている人たちに会いたい。
ここまで連れてきてくれた全ての人に、笑顔でありがとうと言いたい。
けれど、それを言うことが、わがままに思えた。
危険があるのに。
誰かを巻き込むかもしれないのに。
それでも立ちたいなんて。
「……立ちたいです」
声は震えていた。
「怖いです。でも……立ちたい」
ミランダが涙をこぼした。
「ミナミちゃん……」
ミナミは彼女を見た。
「ごめんなさい、ミランダさん。怖い思いをさせてるのに」
「違うの……!」
ミランダは首を振る。
「違うの、ミナミちゃん。怖いけど……怖いけど、私、ミナミちゃんがそのステージに立つところ、見たい……!」
その言葉に、ミナミの目にも涙が滲んだ。
ミランダは泣きながら、それでも手帳を抱きしめていた。
「だから、私も頑張る。転ばないようにする。スケジュールも導線も、何回でも確認する。だから……ミナミちゃんは、ミナミちゃんの夢を諦めないで」
その瞬間、ミナミは少しだけ息ができた。
アレンは二人を見て、ほんのわずかに表情を和らげる。
そして、いつもの優しい笑顔で言った。
「大丈夫ですよ、ミナミさん」
その声に、ミナミは顔を上げた。
「僕が命に代えても、あなたを守りますから」
時間が止まったようだった。
命に代えても。
その言葉は、優しかった。
力強くて、頼もしくて、安心できるはずの言葉だった。
でも、ミナミの胸には鋭く刺さった。
どうしてそんなことを、そんな穏やかな顔で言えるのだろう。
どうして自分の命を、そんなふうに差し出すみたいに言えるのだろう。
アレンがどんな道を歩いてきたのか、ミナミは全部を知っているわけではない。
彼の過去を、詳しく聞いたことはなかったが、分かることはあった。
この人は、きっと何度も誰かを守ってきた。
そのために傷つくことを、当たり前にしてきた。
自分が痛むことより、誰かが助かることを選んできた。
だから今も、こんなに優しく笑って言える。
命に代えても、と。
ミナミの喉が熱くなった。
言いたかった。
命に代えてなんて言わないで。
そんな守られ方、私は望んでいない。
私のために傷つかないで。
私のために、いなくならないで。
ドームに立てなくてもいい。
アイドルじゃなくなってもいい。
だから、あなたが無事でいて。
私、アレンさんがいなきゃ――。
そこまで言葉が胸の奥からせり上がってきて、ミナミはぎゅっと拳を握った。
言ってはいけない。
アレンは仕事としてここにいる。
警護員として、自分を守ろうとしている。
その覚悟に、私情をぶつけてはいけない。
彼の誇りを、汚したくない。
それに、自分はアイドルだ。
明後日には、何万人もの人の前に立つ。
自分の言葉一つで、周囲を揺らしてしまう立場にいる。
好きだから。
失いたくないから。
そんな理由で、彼を引き止めてはいけない。
泣きついてはいけない。
困らせてはいけない。
ミナミは唇の内側を噛んだ。
痛みで、涙を押し戻す。
「……ミナミさん?」
アレンが気づいたように声をかける。
その優しさが、また苦しかった。
ミナミは顔を上げた。
笑わなければ。
アイドルとして。
警護対象として。
アレンの前で、ちゃんと立たなければ。
「私はみんなを信じてる」
やっと出した声は、少し掠れていた。
アレンの瞳が、ほんのわずかに揺れた。
ミナミが何かを飲み込んだことに、彼は気づいたのかもしれない。
だけど、聞かなかった。
聞かないでいてくれた。
アレンは静かに頷く。
「大丈夫です」
その声は、いつも通り優しかった。
𝙉𝙚𝙭𝙩 ︎ ⇝
「本日もお疲れ様でしたー!」
眩しいライトが落ちた瞬間、スタジオ中に散らばっていた笑顔が、音を立てずにそれぞれの顔へ戻っていく。
カメラの前では、誰もが明るい。
笑って、手を振って、可愛くて、綺麗で、完璧で。
しかし、その光が強ければ強いほど、裏側には濃い影が落ちる。
ミナミはステージ衣装の裾を片手で押さえながら、控室へ続く廊下を歩いていた。
今日も収録は問題なく終わった。
歌も、トークも、ファン向けのコメント撮りも、全部予定通り。
失敗はなかった。
笑顔も崩さなかった。
けれど、控室のドアの前に立った瞬間、ミナミの胸の奥がきゅっと縮む。
スマホには、今朝も届いていた。
知らないアドレスからのメール。
件名はない。
本文だけが、やけに丁寧な文体で並んでいた。
――今日の衣装、似合ってたね。
――でも、あの男のスタッフと話しすぎ。
――僕だけを見てくれないなら、君の世界を壊すよ。
最初は、よくある迷惑メールだと思った。
人気商売をしていれば、多少の悪意や執着は避けられない。
事務所も、スタッフも、そう言った。
「気にしないで。こっちで対応するから」
そう言われるたびに、ミナミも笑って頷いた。
「はい、大丈夫です」
大丈夫。
その言葉は、いつの間にかミナミの口癖になっていた。
でも、本当は少しずつ大丈夫ではなくなっていた。
送られてくる写真が、だんだん近くなっていたから。
駅のホーム。
移動車の後部座席。
楽屋口の前。
そして昨日は、自宅マンションのエントランスが写っていた。
それを見た瞬間、最初に青ざめたのは、担当マネージャーのミランダだった。
「だ、駄目です……!」
いつもなら小さなミス一つで「私が悪いんですぅ……!」と半泣きになる彼女が、その時だけは震える両手でスマホを握りしめ、ミナミの前に立った。
「これは、もう駄目です。気のせいとか、よくあることとか、そんなふうに済ませちゃ駄目です……!」
ミナミは驚いて、ミランダを見上げた。
「ミランダさん……?」
「ミナミちゃんは、いつも大丈夫って言いますけど……!」
ミランダの目は潤んでいた。
怖がっている。
「大丈夫じゃない時は、大丈夫じゃないって言っていいんです……! 言えないなら、私が言います。私が、事務所に言います……!」
そして、その日のうちに、事務所の空気は変わった。
警察への相談。
スケジュールの見直し。
移動ルートの変更。
そして、臨時の民間SPの手配。
「今日からしばらく、専属でついてもらうことになりました」
翌日、控室でミランダは緊張した顔をしていた。
普段から頼りなげな彼女だが、今日はいつにも増して落ち着きがない。
手帳を開いたり閉じたり、ペンを落としたり拾ったり、なぜか同じ資料を三回も確認している。
「ミランダさん、大丈夫ですか?」
ミナミが声をかけると、ミランダはびくっと肩を跳ねさせた。
「は、はい! 大丈夫です! いえ、大丈夫ではないです! 緊張しています!」
「正直ですね」
「だって、ミナミさんの命がかかっているんですもの……!」
そう言うと、ミランダは胸の前でぎゅっと手帳を抱きしめた。
「でも、でもですね。今日来てくださる方は、実績もきちんとあります。私、資料を七回読み返しました」
「七回も?」
「はい。不安で……!」
その時、控室のドアがノックされた。
ミランダが飛び上がる。
「ど、どうぞ!」
扉が開く。
「失礼します」
柔らかな声とともに入ってきたのは、白髪の青年だった。
黒いスーツ。
整った顔立ち。
穏やかに下がった目元。
礼儀正しく頭を下げる姿は、とても綺麗だった。
ミナミは思わず固まった。
白い髪のせいか、どこか人形めいている。
童顔で、優しそうで、にこりと笑うと新人スタッフのようにも見える。
背は、まあ、普通。
けれど、SPと聞いて想像していたような、壁みたいな体格ではなかった。
むしろ、細い。
華奢、という言葉すら浮かぶ。
ミナミは失礼だと分かっていながら、心の中で呟いてしまった。
(もやしみたいだ…)
「初めまして。今日から警護を担当します、アレン・ウォーカーです」
青年は穏やかに微笑んだ。
「よろしくお願いします、ミナミさん」
「あ……はい。よろしくお願いします」
返事をしながらも、ミナミの視線は無意識にアレンの腕へ向かっていた。
細い。
いや、細く見えるだけかもしれない。
でも、細い。
この人が、本当に自分を守れるのだろうか。
刃物を持った相手が来たら?
力任せに押し込まれたら?
この優しそうな人が、そんな相手に立ち向かえるのだろうか。
「……あの」
ミナミは遠慮がちに口を開いた。
「アレンさんって、おいくつなんですか?」
隣でミランダが「ひゃっ」と小さく息を飲んだ。
「ミナミさん……!」
だが、アレンは気を悪くした様子もなく、にこりと笑う。
「今年で二十九です」
「……二十九?」
ミナミは思わず聞き返した。
どう見ても、二十歳そこそこに見える。
下手をすれば、それより年下に見える。
なのに、自分よりかなり上だった。
アレンは慣れているのか、少し困ったように笑った。
「よく言われます。新人に見えるって」
「い、いえ、そんな……」
(ごめんなさいっ!言いました。心の中で、かなりはっきり言いました!)
ミランダが慌てて両手を振る。
「で、でも! ウォーカーさんは本当にすごい方なんです! 経歴も、対応実績も、ええと、あと……あの……と、とにかくすごいんです!」
「ミランダさん、落ち着いてください」
アレンが優しく言う。
「はい! すみません!」
「僕の資料を読んでくださったんですよね」
「はい!」
「ありがとうございます」
アレンがふっと笑う。
そのやり取りに、ミナミの緊張が少しだけ緩んだ。
ミランダはまだ焦っている。
アレンはまだ頼りなさそうに見える。
しかし、この場に流れる空気だけは、少しだけ温かかった。
アレンはミナミへ向き直ると、静かに言った。
「不安にさせてしまったなら、すみません。でも、仕事はきちんとします」
その言い方は、強がりではなかった。
必要以上に自分を大きく見せようともしていない。
ただ、静かに事実を置いただけ。
ミナミはそれ以上何も言えず、小さく頷いた。
「……お願いします」
「はい。最後まで、きちんとお守りします」
その日から、アレンはミナミのそばにいた。
仕事場への移動。
楽屋前での待機。
イベント会場での導線確認。
帰宅時の周辺警戒。
アレンはどこにいても、目立たなかった。
必要以上に話しかけてこない。
近すぎる距離にも踏み込まない。
ただ、ミナミが不安になった時だけ、必ず気づく。
人混みの中で足が止まりそうになると、半歩だけ前に出る。
エレベーターで知らない男性と乗り合わせると、自然にミナミとの間に立つ。
メール通知音に肩が跳ねた時は、何も聞かず、ただ静かに視線を周囲へ走らせる。
ミランダもまた、必死だった。
「ミナミさん、お水です!」
「ありがとうございます」
「あと、次の移動なんですけど、事務所からルート変更の連絡がありまして……あ、でも大丈夫です! ウォーカーさんにも共有済みです! たぶん!」
「たぶん?」
「いえ、共有済みです! 確実に!」
ミランダはいつも少しだけ頼りなかった。
それでも、ミナミの前では必ず笑おうとしてくれた。
ミナミが控室でぼんやりしていると、そっと膝掛けをかけてくれる。
ミナミがスマホを見るのをためらっていると、「私が先に確認しましょうか」と震えながら言ってくれる。
怖いくせに。
本当は、ミランダだって怖いはずなのに。
「ミナミちゃんは、笑うお仕事をされていますけど」
ある日、移動車の中でミランダが言った。
「ずっと笑っていなきゃいけないわけじゃないと思うんです」
ミナミは窓の外から視線を戻した。
ミランダは手帳を胸に抱いたまま、真剣な顔をしていた。
「少なくとも、私の前では……その、泣いても、怒っても、大丈夫です。私は頼りないですけど、そばにはいますから」
その言葉に、ミナミは胸が詰まった。
返事をしようとしたけれど、うまく声が出なかった。
すると、助手席に座っていたアレンがバックミラー越しに視線を向けた。
「ミナミさん」
「……はい」
「大丈夫です」
その声は、不思議だった。
「大丈夫ですよ」と慰めるのではなく。
「大丈夫です」と言い切る。
まるで、その言葉の責任を自分が背負うと決めているみたいに。
ミナミは小さく頷いた。
少しだけ、本当に大丈夫な気がした。
それでも、恐怖が消えたわけではなかった。
ストーカーからのメールは数こそ減ったものの、内容はどんどん不穏になっていた。
――僕を無視しないで。
――君を守っている男、邪魔だね。
――あの女のマネージャーも、君を独り占めしている。
――全部、壊してあげる。
その一文を見た瞬間、ミランダの顔から血の気が引いた。
「わ、私のことまで……」
「ミランダさん」
ミナミは思わず彼女の手を握った。
「ごめんなさい……私のせいで」
「違います!」
ミランダはすぐに首を振った。
「違います、ミナミちゃん。悪いのは脅してくる人です。ミナミちゃんじゃありません」
その声は震えていた。
だけど、言葉ははっきりしていた。
アレンも静かに頷く。
「ミランダさんの言う通りです」
「でも……」
「あなたは悪いことなんて、一つもしていません」
アレンの声は優しかったが、甘くはなかった。
ミナミが自分を責めることを、許さない声だった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
転機が訪れたのは、地方イベントの帰りだった。
小さなホールでの握手会。
予定より長引いたイベントを終え、ミナミはミランダとスタッフに囲まれながら裏口へ向かっていた。
外はもう暗い。
雨上がりのアスファルトが、街灯をぼんやり反射している。
「車、正面じゃなくて裏に回してます」
ミランダが手帳を確認しながら言う。
「ウォーカーさん、裏口から車までの導線は……」
「確認済みです」
アレンが静かに答える。
「スタッフさん二名を先に。ミナミさんは僕の前、ミランダさんは左横についてください」
「は、はい!」
ミランダが緊張した顔で頷く。
ミナミも小さく息を吸った。
あと少し。
車に乗れば、今日も終わる。
そう思った、その瞬間だった。
「ミナミ!!」
叫び声が、雨上がりの夜を裂いた。
誰かが制止する声。
スタッフの悲鳴。
ミランダが息を飲む音。
ミナミが振り向くより早く、黒い影が視界の端から飛び込んでくる。
知らない男だった。
目を血走らせ、ぐしゃぐしゃに濡れた髪を振り乱しながら、一直線にミナミへ向かってくる。
手には、何かが握られていた。
刃物かどうかも分からない。
分からないけれど、光った。
ミナミの体が凍りつく。
逃げなきゃ。
そう思うのに、足が動かない。
喉が詰まって、声も出ない。
男の顔が近づく。
怒りと執着が混ざった、知らない顔。
「なんで僕を見ないんだよ!!」
その手が伸びた。
「ミナミちゃん!」
ミランダが叫んだ。
震える体で、ミナミの腕を引こうとする。
その瞬間、ミナミの前に、白い影が入った。
アレンだった。
さっきまで穏やかに傍を歩いていた青年とは、まるで別人だった。
目が違う。
柔らかさの消えた横顔は、冷たいほど静かだった。
男の腕を掴んで、捻る。
そして、踏み込む。
それは本当に一瞬だった。
大きな音を立てて、男の体が地面に叩きつけられる。
「がっ……!」
男が呻く。
アレンはその背中へ膝を乗せ、腕を完全に封じた。
正確に、確実に、相手の動きを奪っていた。
「刃物、確認してください」
アレンの声が低く響く。
「警察へ連絡を。ミナミさんを車へ」
スタッフたちがはっと我に返って動き出す。
ミランダがミナミの肩を抱く。
「ミナミちゃん、こちらへ……!」
ミナミはその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
アレンの横顔から目が離せなかった。
細いと思っていた腕。
頼りないと思っていた背中。
その全てが、今はまったく違って見えた。
怖いほど冷静で。
信じられないほど強くて。
そして、自分の前に立つことを一瞬も迷わなかった。
「ミナミちゃん!」
ミランダの声で、ようやく足が動いた。
車に乗り込んだ瞬間、膝から力が抜けた。
ミランダが隣に座り、震える手でミナミの手を握る。
「大丈夫です、大丈夫です……!」
そう言うミランダの方が、今にも泣きそうだった。
やがて警察が到着し、男が連れていかれる。
男が手にしていたものは金属製のペーパーナイフだったと聞かされた。
それでも、当たりどころが悪ければ怪我では済まなかったかもしれない。
車の中で、ミナミは震える手を膝の上で握りしめていた。
歯がかちかちと鳴りそうになるのを、必死にこらえる。
怖かった。
怖かった。
怖かった。
ステージの上で何万人の前に立つよりも、たった一人の悪意が怖かった。
「ミナミさん」
少しして、車のドアが開いた。
アレンだった。
警察への説明を終えたのか、彼は静かに車内を覗き込む。
その姿を見た瞬間、ミナミの胸が詰まった。
「怪我はありませんか?」
ミナミは頷こうとした。
でも、首が動かなかった。
代わりに、声が震えた。
「……ごめんなさい」
アレンの眉が、ほんの少し寄る。
「どうして謝るんですか」
「だって……私のせいで」
私のせいで、あなたが危ない目に遭った。
私のせいで、ミランダさんも怖い思いをした。
私のせいで、スタッフも巻き込まれた。
私のせいで、みんなに迷惑をかけた。
言葉にしようとしたのに、喉の奥で詰まった。
涙だけが勝手に滲む。
アイドルなのに。
人前で泣く演技には慣れているはずなのに。
これは演技ではなかった。
だから、余計に止められなかった。
「違います……!」
隣でミランダが泣きそうな声を出した。
「ミナミちゃんのせいじゃありません。絶対に違います」
アレンも静かに頷く。
「ミランダさんの言う通りです」
その声は優しいのに揺るがなかった。
「怖かったですよね」
その一言で、ミナミの涙腺が崩れた。
怖かった。
本当は、ずっと怖かった。
メールを見るのも。
外に出るのも。
誰かに笑いかけられるのも。
ファンを信じたいのに、その中に悪意が混ざっているかもしれないと思うことも。
全部、怖かった。
「……怖かった、です」
やっと言えた言葉は、あまりにも小さかった。
アレンはそれを笑わなかった。
大げさだとも言わなかった。
ただ、ミナミの震える手に、自分の手をそっと近づけた。
触れる寸前で止める。
「手、握ってもいいですか」
その確認が、ミナミの胸をまた苦しくさせた。
守る時は一瞬で前に出るのに。
こういう時は迷う。
ミナミは小さく頷いた。
アレンの手が、ミナミの手を包む。
温かかった。
見た目よりも大きくて、しっかりしていて、震えを受け止めるように優しい手だった。
「大丈夫です」
また、その言葉。
でも今度は、ミナミの中にすっと入ってきた。
「僕がいます」
その夜から、ミナミはアレンを見る目が変わった。
もちろん、彼が強い人だと知ったからだけではない。
強さなら、他にも持っている人はいる。
でも、アレンはミナミを“商品”として守らなかった。
人気アイドルとして。
事務所の大切な稼ぎ頭として。
世間に見せるための顔として。
そうではなく、ただ一人の人間として、怖がるミナミを見てくれた。
それが、ミナミにはたまらなく嬉しかった。
事件から数日。
ストーカーは逮捕され、余罪も明らかになった。だが、ストーカー男はストーカーしたことは認めたが、メールの件は否認した。
ミナミを困らせる奴は他にもいる。
それでも仕事は相変わらず忙しい。
朝から雑誌撮影。
昼はラジオ収録。
夜はライブのリハーサル。
「ミナミさん、足元、気をつけてください」
「はい」
「この階段、少し滑ります」
「はい」
「水分、取ってください。今日、まだ半分も飲んでませんよね」
「……見てたんですか?」
「仕事ですから」
そう言って、アレンはにこりと笑う。
その笑顔を見るたびに、ミナミの胸が小さく跳ねるようになった。
『仕事だから。』
それは分かっている。
アレンが優しいのは、仕事だから。
そばにいてくれるのも、仕事だから。
帰り道に歩幅を合わせてくれるのも。
疲れていることに気づいてくれるのも。
怖い夢を見た翌朝、何も聞かずに温かい飲み物を差し出してくれるのも。
全部、彼がプロだから。
そう思わなければいけないのに。
「寒くないですか」
「大丈夫です」
「嘘ですね」
「……なんで分かるんですか」
「肩、上がってます」
アレンはそう言って、自分のコートをミナミの肩にかけた。
ふわりと、彼の匂いがした。
清潔なシャツと、少しだけ甘い紅茶のような匂い。
ミナミはコートの襟元を掴みながら、俯いた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ずるいくらい優しい。
しかしアレンは決してそれ以上、踏み込んでこない。
ミナミがどれだけ彼の横顔を見つめても。
彼の声に安心しても。
彼の手の温度を思い出して眠れなくなっても。
アレンはいつも、きちんと一歩引いていた。
"警護対象と警護員"
その線を、彼は絶対に越えない。
それが彼の誠実さだと分かっている。
分かっているからこそ、ミナミは苦しかった。
そして、その変化に気づいたのは、やはりマネージャーのミランダだった。
ある日の楽屋。
ミナミがメイクを直している間、アレンは廊下で待機していた。
鏡越しにその背中を見てしまう。
白い髪。
黒いスーツ。
すぐそこにいるのに、遠い人。
ミナミが無意識に目で追っていると、隣でスケジュール帳を開いていたミランダが、そっと声を落とした。
「ミナミさん」
「はい?」
「私、間違っていたらごめんなさい」
「え?」
ミランダは少し迷ってから、小さく言った。
「最近、ウォーカーさんのお話になると……少しだけ、泣きそうなお顔をされます」
ミナミの手が止まった。
口紅のキャップを閉める音が、やけに大きく響いた。
「……そんな顔、してますか?」
「はい」
ミランダは困ったように、でも優しく頷いた。
「とても大切なものを、見ているみたいなお顔です」
ミナミは何も言えなかった。
否定したかった。
でも、できなかった。
ミランダは慌てて手を振る。
「あ、あの、すみません! 私、余計なことを……」
「いいえ」
ミナミは小さく笑った。
「ミランダさんって、時々すごく鋭いですよね」
「えっ。そ、そうでしょうか。普段はよく転ぶのに……」
「転ぶのは関係ないです」
ミナミがそう言うと、ミランダは少しだけ笑った。
その笑顔を見て、ミナミも少しだけ肩の力が抜けた。
しかし、胸の奥の痛みは消えなかった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
ある日の夜。
音楽番組の収録を終えた帰り道、ミナミは事務所の会議室に呼ばれた。
ミランダと、事務所の幹部。
そして、警備会社の担当者。
そこにはアレンもいた。
いつものように静かな顔で、ミナミの少し後ろに立っている。
「今回の件ですが、警察からも一応の収束という判断が出ました」
幹部が言った。
「もちろん警戒は続けます。ただ、現在の専属警護体制については、今月末を目処に段階的に解除する方向で考えています」
今月末。
その言葉が、ミナミの胸に落ちた。
重く。
冷たく。
ゆっくりと沈んでいく。
「……解除」
ミナミの沈んだ表情を見て、ミランダが異議を唱える。
「しかし!まだ、ミナミちゃん本人のスマホへの嫌がらせは続いています!」
「そんなの男女のアレじゃないの?別れる時にちゃんと円満に別れたの?」
事務所の責任者が間抜けなことを言う。
ミランダはテーブルを叩いた。
「ミナミちゃんは異性と付き合ったことなどありません!」
「そんなの君がいないところではどうか分からないじゃないか」
ミランダが上司と言い合っている傍で、ミナミは『契約期間』という言葉で、ようやく思い出した。
アレンは、ずっとそばにいる人ではない。
事件があったから来てくれた人。
危険があったから守ってくれた人。
それがなくなれば、彼は去る。
当たり前だ。
当たり前なのに、どうしてこんなに胸が痛いのだろう。
隣でミランダが、心配そうにミナミを見た。
「ミナミちゃん……?」
ミナミは慌てて笑った。
アイドルの顔を作る。
何度も練習してきた、明るくて、聞き分けが良くて、誰にも迷惑をかけない顔。
「私は大丈夫です。皆さんにずっとご迷惑をおかけしていたので」
声は、ちゃんと出た。
笑顔も、たぶん崩れていない。
「アレンさんにも、たくさん助けていただきました。ありがとうございます」
ミナミは振り返り、アレンに頭を下げた。
アレンは一瞬だけ、何か言いたそうにした。
しかし、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。
「……いえ。まだ契約期間は残っています。最後まで、きちんとお守りします」
最後まで。
その言葉が、優しい刃のように胸を刺した。
会議が終わったあと、ミランダはエレベーターの前でミナミにそっと近づいた。
「ミナミちゃん」
「はい」
「無理に笑わなくても、大丈夫ですよ」
ミナミは一瞬、息を止めた。
ミランダは泣きそうな顔で、それでも柔らかく微笑んだ。
「私の前だけでも」
その優しさに、ミナミは泣きそうになった。
廊下の先にはアレンがいる。
いつものように、少し離れた場所でミナミを待っている。
だからミナミは、また笑った。
「大丈夫です」
その言葉を聞いたミランダは、何も言わなかった。
ただ、少しだけ悲しそうに眉を下げた。
その日から、時間の流れが変わった。
同じ一日なのに。
同じ現場なのに。
アレンが隣にいる時間が、少しずつ削られていくものに思えた。
車に乗る時、ドアを開けてくれる手。
人混みで半歩前に出る背中。
「お疲れ様です」と差し出される水。
収録終わりに向けられる、柔らかな微笑み。
全部が、終わりに向かっている。
あと何回、この声を聞けるのだろう。
あと何回、この人の隣を歩けるのだろう。
そんなことばかり考えるようになった。
でも、言えなかった。
行かないで、なんて。
そばにいて、なんて。
そんなことを言ったら、アレンを困らせる。
彼には彼の仕事がある。
人生がある。
自分は、ただの警護対象だ。
人気アイドルという立場で、彼を縛るようなことはしたくなかった。
ミナミは今日も笑う。
ライトの下で、完璧に。
「皆さん、今日は来てくれてありがとうございます!楽しもうね!」
歓声が上がる。
名前を呼ぶ声。
振られるペンライト。
無数の光が、ミナミを照らす。
その眩しさの向こう。
舞台袖の暗がりに、アレンが立っていた。
いつものように静かに周囲を見ている。
少し離れた場所には、ミランダもいる。
両手でスケジュール帳を抱きしめながら、心配そうに、でも誇らしそうにミナミを見守っている。
ミナミは二人を見た。
自分を商品としてではなく、一人の人間として見てくれる人たち。
その存在が、どれほど自分を支えていたのか。
今さらのように、胸に迫る。
舞台袖のアレンと目が合った。
彼は小さく頷く。
大丈夫です。
声は聞こえない。
ただ、そう言われた気がした。
ミナミは笑った。
今までで一番綺麗に。
誰にも気づかれないように、胸の奥の痛みを隠して。
スポットライトの中で、ミナミはアイドルだった。
でも、その裏側で、たった一人の青年に恋をしている、ただの女の子でもあった。
時が教えてくれた。
守られることの温かさを。
誰かがそばにいるだけで、夜が怖くなくなることを。
そして、終わりが近づいて初めて、自分がどれほどその人を失いたくないのかを。
ミナミは歌いながら、舞台袖のアレンを見た。
優しい目。
頼りなさそうに見えて、誰よりも確かな背中。
最初は、本当に大丈夫かと思った。
けれど今は違う。
大丈夫じゃなくなるのは、彼がいなくなった後の自分の方だ。
そう気づいた瞬間、ミナミの胸に、切ない痛みが広がった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
初のドーム公演が決まったのは1年前。
まだストーカーからの脅迫が、ここまで深刻化する前。
事務所の大きな会議室で、分厚い資料と一緒にその話を聞かされた時、ミナミはしばらく声が出なかった。
「ミナミちゃん、ドームだよ……!」
隣で、担当マネージャーのミランダが先に泣いた。
「すごいわ……本当に、本当に頑張ってきたもの……!」
「ミランダさん、まだ泣くの早いです」
そう言いながら、ミナミは笑っていた。
胸の奥が熱くて、足元がふわふわして、現実感がなかった。
デビューした頃は、夢だと口にすることすら少し恥ずかしかった場所。
何万人もの人が集まる、巨大なステージ。
憧れていた先輩たちが立ってきた場所。
そこに、自分が立つ。
ドーム公演。
それは、ミナミにとってアイドルとしての一つの到達点だった。
発表に向けて、リハーサルも、衣装合わせも、楽曲制作も、ずっと前から動いていた。
巨大スクリーン用の映像撮影。
新曲の振り入れ。
客席の見え方を想定した立ち位置の確認。
何もかもが、普段のライブとは規模が違った。
その大きな夢へ向かって進んでいる最中に、ストーカーからの脅迫は少しずつ悪化していった。
最初は、気味の悪いメール。
次は、移動先で撮られた写真。
そして、自宅マンションのエントランス。
事務所が危険だと判断し、臨時の民間SPを雇ったのは、ドーム公演の準備が本格化してからのことだった。
その時、ミナミの前に現れたのが、アレン・ウォーカーだった。
色白で、童顔で、お世辞にも屈強には見えない青年。
初めて会った時、ミナミは正直に思った。
――本当に、大丈夫かな。
暴漢が襲いかかってきたあの日、アレンは一瞬で男を取り押さえた。
頼りなさそうに見えていた背中は、誰よりも強かった。
それからドーム公演が近づくたびに、ミナミの胸には二つの感情が積もっていった。
夢に近づいている喜びと、アレンとの契約終了が近づいている寂しさ。
この公演が終われば、専属警護体制は段階的に解除される。
ストーカー事件が収束に向かっている以上、それは当然のことだった。
アレンは、事件があったからミナミのそばにいる。
危険があったから、守ってくれている。
危険がなくなれば、彼は去る。
その当たり前の事実が、ミナミにはどうしようもなく苦しかった。
「ミナミさん」
リハーサル終わりの廊下で、アレンが声をかけた。
「少し顔色が悪いです。休憩を取りましょう」
「大丈夫です」
反射的にそう答えてから、ミナミは自分で少し苦笑した。
また言ってしまった。
大丈夫。
本当は少しも大丈夫ではないくせに。
アレンは何も責めなかった。
ただ、いつものように静かにミナミを見つめる。
「では、五分だけ座ってください。大丈夫な人でも、五分は座れます」
その言い方が少しおかしくて、ミナミは小さく笑ってしまった。
「それ、命令ですか?」
「お願いです」
「SPさんのお願いは断りにくいですね」
「それは助かります」
アレンはにこりと笑った。
柔らかくて、穏やかで、いつも通りの笑顔。
その笑顔を見るたびに、ミナミの胸は苦しくなる。
この人は、あと少しでいなくなる。
そう思うだけで、リハーサルで酷使した喉よりも、胸の奥の方が痛んだ。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
ドーム公演まで、あと少し。
事件は、その夜に起きた。
レッスンを終えたミナミが控室に戻ると、そこには異様な空気が流れていた。
ミランダが青ざめた顔でスマホを握っている。
事務所のスタッフが数人、低い声で話し合っている。
アレンは壁際に立ち、いつもの穏やかな表情を消していた。
その瞬間、ミナミは分かってしまった。
まただ。
「……何か、ありましたか?」
問いかける声が、自分でも驚くほど乾いていた。
ミランダがびくりと肩を揺らす。
「ミナミちゃん……」
彼女は何かを言おうとして、唇を震わせた。
言葉にならない。
代わりに、アレンが一歩前に出た。
「脅迫文が届きました」
ミナミの指先が冷たくなる。
「……内容は?」
「ミナミさん」
アレンの声が、少しだけ低くなった。
「無理に見る必要はありません」
その言葉で、逆に分かってしまった。
見せられないほどの内容なのだと。
ミナミは小さく息を吸った。
「見ます」
「ミナミちゃん……!」
ミランダが泣きそうな声で呼ぶ。
ミナミは彼女に向かって、できるだけ優しく笑った。
「大丈夫です」
また、その言葉。
ミランダを安心させるための、下手な嘘だった。
アレンは少しの沈黙のあと、スタッフからタブレットを受け取り、画面をミナミに向けた。
そこには、短い文章があった。
その短さがかえって生々しかった。
――今すぐライブを中止しろ。さもないとドームのステージで、お前を終わらせてやる。
ミナミの視界が、一瞬だけ白くなった。
音が遠のく。
控室のざわめきも、空調の音も、誰かが息を飲む気配も、全部が膜の向こう側へ消えていく。
ドームのステージで。
お前を。
終わらせてやる。
それは、ただの悪口ではなかった。
明確な犯行予告だった。
自分の夢だった場所が、突然、恐怖の場所へ塗り替えられていく。
舞台の真ん中で、自分が倒れる姿を想像してしまい、ミナミは胃の奥が冷たくなるのを感じた。
「公演は……」
誰かが言った。
「中止も視野に入れるべきです」
その一言に、ミナミは顔を上げた。
中止。
頭では、分かっていた。
当然の判断だ。
危険があるなら、止めるべきだ。
観客にも、スタッフにも、迷惑をかけられない。
それなのに、胸の奥で、何かがぎゅっと縮んだ。
ずっと夢だった。
何度も泣いて、何度も倒れそうになって、それでも笑って立ち続けて、やっと届いた場所だった。
ファンも楽しみにしてくれている。
ミランダも泣いて喜んでくれた。
アレンにも、見てほしかった。
でも、もし誰かが傷ついたら。
もしアレンが…。
そこまで考えた瞬間、ミナミは自分の体から血の気が引くのを感じた。
「警察への共有は済ませています」
アレンが静かに言った。
「会場警備の増員、導線の再確認、入場時のチェック強化。できる対策はすべて取ります」
「しかし、万が一があった場合……」
スタッフの言葉に、控室の空気がさらに重くなる。
ミランダは両手で口元を押さえていた。
泣き出しそうなのに、必死でこらえている。
ミナミは、その姿を見るのがつらかった。
自分の夢が、誰かの不安になっている。
自分のステージが、誰かを危険にさらすかもしれない。
そう思うと、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。
「私……」
ミナミが口を開いた時だった。
アレンが、静かにミナミの前に立った。
視線が合う。
いつもの柔らかな目の奥には決して揺れないものがあった。
「ミナミさん」
「……はい」
「あなたは、どうしたいですか」
控室の全員が黙った。
その問いは、残酷なほどまっすぐだった。
事務所の判断でもなく。
警察の判断でもなく。
スタッフの不安でもなく。
ミナミ自身がどうしたいのか。
そんなことを聞かれるとは思っていなかった。
ミナミは唇を噛む。
どうしたいかなんて、決まっている。
ドームに立ちたい。
歌いたい。
待ってくれている人たちに会いたい。
ここまで連れてきてくれた全ての人に、笑顔でありがとうと言いたい。
けれど、それを言うことが、わがままに思えた。
危険があるのに。
誰かを巻き込むかもしれないのに。
それでも立ちたいなんて。
「……立ちたいです」
声は震えていた。
「怖いです。でも……立ちたい」
ミランダが涙をこぼした。
「ミナミちゃん……」
ミナミは彼女を見た。
「ごめんなさい、ミランダさん。怖い思いをさせてるのに」
「違うの……!」
ミランダは首を振る。
「違うの、ミナミちゃん。怖いけど……怖いけど、私、ミナミちゃんがそのステージに立つところ、見たい……!」
その言葉に、ミナミの目にも涙が滲んだ。
ミランダは泣きながら、それでも手帳を抱きしめていた。
「だから、私も頑張る。転ばないようにする。スケジュールも導線も、何回でも確認する。だから……ミナミちゃんは、ミナミちゃんの夢を諦めないで」
その瞬間、ミナミは少しだけ息ができた。
アレンは二人を見て、ほんのわずかに表情を和らげる。
そして、いつもの優しい笑顔で言った。
「大丈夫ですよ、ミナミさん」
その声に、ミナミは顔を上げた。
「僕が命に代えても、あなたを守りますから」
時間が止まったようだった。
命に代えても。
その言葉は、優しかった。
力強くて、頼もしくて、安心できるはずの言葉だった。
でも、ミナミの胸には鋭く刺さった。
どうしてそんなことを、そんな穏やかな顔で言えるのだろう。
どうして自分の命を、そんなふうに差し出すみたいに言えるのだろう。
アレンがどんな道を歩いてきたのか、ミナミは全部を知っているわけではない。
彼の過去を、詳しく聞いたことはなかったが、分かることはあった。
この人は、きっと何度も誰かを守ってきた。
そのために傷つくことを、当たり前にしてきた。
自分が痛むことより、誰かが助かることを選んできた。
だから今も、こんなに優しく笑って言える。
命に代えても、と。
ミナミの喉が熱くなった。
言いたかった。
命に代えてなんて言わないで。
そんな守られ方、私は望んでいない。
私のために傷つかないで。
私のために、いなくならないで。
ドームに立てなくてもいい。
アイドルじゃなくなってもいい。
だから、あなたが無事でいて。
私、アレンさんがいなきゃ――。
そこまで言葉が胸の奥からせり上がってきて、ミナミはぎゅっと拳を握った。
言ってはいけない。
アレンは仕事としてここにいる。
警護員として、自分を守ろうとしている。
その覚悟に、私情をぶつけてはいけない。
彼の誇りを、汚したくない。
それに、自分はアイドルだ。
明後日には、何万人もの人の前に立つ。
自分の言葉一つで、周囲を揺らしてしまう立場にいる。
好きだから。
失いたくないから。
そんな理由で、彼を引き止めてはいけない。
泣きついてはいけない。
困らせてはいけない。
ミナミは唇の内側を噛んだ。
痛みで、涙を押し戻す。
「……ミナミさん?」
アレンが気づいたように声をかける。
その優しさが、また苦しかった。
ミナミは顔を上げた。
笑わなければ。
アイドルとして。
警護対象として。
アレンの前で、ちゃんと立たなければ。
「私はみんなを信じてる」
やっと出した声は、少し掠れていた。
アレンの瞳が、ほんのわずかに揺れた。
ミナミが何かを飲み込んだことに、彼は気づいたのかもしれない。
だけど、聞かなかった。
聞かないでいてくれた。
アレンは静かに頷く。
「大丈夫です」
その声は、いつも通り優しかった。
𝙉𝙚𝙭𝙩 ︎ ⇝