言葉が持つ力
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[言葉が持つ力]
石畳には街灯の淡い光が落ち、運河には店先の明かりがゆらゆらと揺れている。
任務を終えた街は、夜の光に包まれていた。
教団へ戻る船の出航までは、まだ少し時間があった。
は無言で前を歩いている。
任務が終われば、さっさと帰る。
それが神田らしい。
けれど、今日はそうはいかない。
ミナミは隣に並ぶと、にこりと笑って言った。
「ねえ神田さん」
「……あ?」
「お誕生日おめでとうございます」
神田の眉間が、ぴくりと動いた。
「……だから何だ」
「だから、お祝いします」
「いらねぇ」
「いります」
「いらねぇって言ってんだろ」
「でも、私が祝いたいの」
そう言うと、神田は心底面倒そうに舌打ちした。
「……チッ」
けれどミナミは気にしない。
だって今日は、神田さんのお誕生日なのだから。
祝うに決まっている。
歩いていると、ふと視界の端に琥珀色の灯りが見えた。
落ち着いた木製の扉。
小さな看板。
窓の向こうには、静かなバーのカウンターが見える。
ミナミはぱっと顔を明るくして、看板を指さした。
「神田さん、見て」
「……なんだ」
「素敵なお店」
「寄らねぇぞ」
「一杯飲んで行きませんか?」
「行かねぇ」
即答だった。
でもミナミは、にこにこと笑ったまま神田の腕をぐいっと掴む。
「今日は私が奢ります」
「……誰が飲むって言った」
「神田さんですね」
「勝手に決めんな」
「お誕生日ですもの」
「理由になってねぇ」
「なります」
ミナミは胸を張った。
「今日は、私が神田さんをお祝いします」
神田は黙った。
ミナミはさらに一歩近づいて、扉の方へ視線を向ける。
「だから、一杯だけ。ね?」
「……」
「私、神田さんと乾杯したいです」
そう言うと、神田は苦虫を噛み潰したような顔をした。
けれど、振り払わない。
帰るとも言わない。
ただ深くため息をついて、ミナミより先にバーの扉へ向かった。
「……一杯だけだ」
「はい!」
嬉しくなって、ミナミは少しだけ小走りで後を追う。
神田さんは振り返らない。
でも、扉を開けたまま、ミナミが入るのを待っていてくれた。
ミナミはその横を通り過ぎながら、小さく笑う。
「ありがとうございます、神田さん」
「……うるせぇ」
琥珀色の灯りが、神田の横顔を柔らかく照らしていた。
その瞬間、さっき言った言葉がもう一度、胸の奥で静かに響いた。
"お誕生日おめでとうございます。"
たった一言。
けれど今日は、その一言を何度でも伝えたいと思った。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
バーの中は静かだった。
琥珀色の照明。
磨き上げられた木のカウンター。
遠くで流れるピアノの音。
任務帰りのエクソシストには、少し場違いなくらい落ち着いた空間だった。
ミナミは嬉しくなってメニューを覗き込む。
「わあ……」
「騒ぐな」
「だって見てください。名前が綺麗」
「酒は酒だろ」
「神田さんは夢がないなあ」
神田は舌打ちした。
でも帰ろうとはしない。
ミナミは少しだけ嬉しくなる。
注文した飲み物が置かれた。
神田の前には琥珀色のウイスキー。
ミナミの前には果実酒。
グラス同士を軽く合わせた。
グラスの中の琥珀色が静かに揺れる。
神田はそれを見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
「神田さん?」
ミナミが首を傾げる。
神田はようやくグラスを傾けた。
「……俺の誕生日なんざ、祝うもんじゃねぇだろ」
「え?」
「ただ目を覚ました日だ」
感情を押し殺した声だった。
ミナミは少し困ったように笑う。
「でも私は嬉しいですよ」
「何がだ」
「神田さんが生まれてきてくれたこと」
神田の手が止まった。
ほんの僅か。
本当に僅かだけ。
「生まれてきてくれてありがとう」
「……意味分かんねぇな」
「そうですか?」
ミナミは果実酒のグラスを両手で包む。
「だって神田さんがいなかったら、私は神田さんに会えないじゃない」
あっさりと言う。
何でもないことみたいに。
神田は視線を落とした。
生まれてきたこと。
その言葉は嫌いだった。
自分の体は作られたものだ。
誰かの人生の続きを歩かされただけ。
処分。
失敗作。
兵器。
そんな言葉なら聞き慣れている。
けれど、
「生まれてきてくれてありがとう」
なんて言葉は知らない。
誰からも言われたことがない。
だから余計に困る。
「……お前な」
「神田さんも私に会えて嬉しいでしょ?」
神田はグラスを持ち上げる。
「……酒飲んでる時くらい静かにしろ」
短く吐き捨てる。
ミナミは少しだけ頬を膨らませたあと、
「いいじゃない、神田さんと2人きりになれるのそうそう無いんだから」
と、結局笑った。
神田は返事をしない。
ただグラスを傾ける。
琥珀色の液体が喉を通る。
それでも耳の奥には、さっきの言葉が残り続けていた。
神田は視線を落とした。
生まれたこと。
そんなものを考えたことはない。
生き延びることだけで精一杯だった。
死ななかった理由ならあった。
あの人に会うため。
その執念だけで何度も立ち上がってきた。
だが、生まれてきたことに意味があるなど、一度も思ったことはなかった。
隣ではミナミが機嫌よくグラスを回している。
その横顔を見つめる。
何も知らない顔だ。
自分の過去も。
積み重ねてきた死も。
この身体の成り立ちも。
それだからか、あんな言葉を平然と言う。
神田は小さく息を吐いた。
(……生まれてきて、か)
もし、本当にそんな意味があるのだとしたら、それは英雄になるためでも、戦うためでもないのかもしれない。
ふと、隣で笑うミナミを見る。
今の自分が好きになった女。
今の自分が守りたいと思った女。
その存在を目にした瞬間だけ、胸の奥にあった重苦しい問いが少しだけ遠のいた。
答えなんて分からない。
きっとこれからも分からないままだろう。
それでも、「生まれてきてくれてありがとう」
そう言った女が、今、自分の隣で笑っている。
神田はグラスを口元へ運んだ。
そして誰にも聞こえないほど小さく、胸の内だけで呟く。
(……いつか、話そう。俺の過去を。いや、今、話す)
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
神田は、グラスを置いた。
カウンターに触れる、乾いた音。
「ミナミ……。少し、話がある」
その声は低く、けれどいつもの不機嫌さとは違っていた。
ミナミは果実酒のグラスを持ったまま、神田を見る。
「はい」
神田はしばらく黙っていた。
言葉を選んでいるようにも見えたし、選ぶこと自体を嫌がっているようにも見えた。
やがて、彼は窓の外へ視線を向けたまま言った。
「俺は、普通に生まれたわけじゃねぇ」
ピアノの音が、急に遠くなる。
周りの客の話し声も、グラスの触れる音も、何もかも薄い膜の向こうへ沈んでいく。
この席だけが、世界から切り離されたみたいだった。
「……俺の身体は、作られたもんだ」
ミナミは、何も言えなかった。
神田は続ける。
「死んだエクソシストの脳を使って、教団が作った。……それが俺だ」
淡々とした声だったがどこか覚悟を決めた様子だった。
その淡々とした響きの奥に、どれほど長い時間沈めてきたものがあるのか、ミナミには分かる気がした。
「だから、俺に誕生日なんてねぇんだよ」
神田は、ほんの少しだけ口元を歪めた。
笑ったのではない。
「俺にとって今日は、生まれた日じゃねぇ。ただ、目を覚ました日だ。溶液から這い上がった日だ」
ミナミはグラスを置いた。
胸の奥が、きゅっと痛む。
「……神田さん」
「最後まで聞け」
短く遮られる。
ミナミは頷いた。
神田は、琥珀色の酒を見つめる。
「俺には、記憶があった」
「記憶……?」
「ああ」
彼の指が、僅かにカウンターを鳴らす。
「俺のもんじゃねぇ記憶だ。前の身体の持ち主の記憶。そこに、あの人…、女がいた。恋人だ」
私は息を呑んだ。
「結果、あの人はアルマだったがな。」
神田の声は、ひどく静かだった。
「あの人に会うためだけに、俺は生きてた。何度死にかけても、何度倒れても、そこに戻るためだけに起き上がった」
その横顔は、今まで見たどんな神田より遠く見えた。
ミナミの知らない時間。
ミナミの知らない痛み。
ミナミの知らない、誰か。
胸の奥が、少しだけもやっとした。
けれど、それ以上に苦しかったのは、神田がそんなものを一人で抱えていたことだった。
「……お前」
不意に、神田がこちらを見る。
黒い瞳が、まっすぐミナミを捉えた。
「ヤキモチ妬かないのか?」
その問いに、私は瞬きをした。
神田の声は、いつも通りぶっきらぼうだった。
でも、その奥に、ほんのわずかな不安のようなものが滲んでいる気がした。
ミナミはグラスから手を離した。
「……少し、もやっとする」
正直に答えると、神田の眉がわずかに動いた。
「それって、元カノ扱いでいいのかな?」
「知らねぇ。好きにしろ」
即答だったが、そこで終わらなかった。
神田は視線を逸らし、低く続けた。
「……ただ」
その声に、胸が跳ねる。
「俺が今、手ぇ伸ばす相手はお前だ」
一瞬、息が止まった。
「……それじゃ、不満か?」
不機嫌そうに、でも逃げずに、神田はそう言った。
それを聞いたミナミの胸の奥が熱くて、苦しくて、嬉しくて。
さっきまで少しだけ胸を刺していたもやもやが、静かに溶けていく。
「……不満じゃないです」
ミナミがようやくそう言うと、神田は小さく鼻を鳴らした。
「ならいい」
あまりにも短い返事。
でも、ミナミには十分だった。
「そこより……神田さんが、人の手で作られた身体だってところに、頭が追いついていきません……」
ミナミはそっと、カウンターの上に置かれた神田の手に、自分の手を重ねた。
いつも刀を握っている、硬い手。
綺麗な手をしてるくせに、男らしく骨ばっていて、少し乱暴な手。
「……こんなに温かいのに」
ぽつりと呟く。
「お腹から生まれた人と、何も変わらないのに」
神田の指が、ほんの僅かに動いた。
「……嫌か?」
ぶっきらぼうで、でも少しだけ怖がっているみたいな声だった。
ミナミはすぐに首を振る。
「ううん」
本当に、少しも嫌じゃない。
「ただ……不思議だなって思っただけ」
ミナミは彼の手の甲をそっと撫でた。
「神田さんのこと、もっと知りたくなった……」
顔を上げると、黒い瞳と視線がぶつかった。
神田はミナミを見つめたまま動かない。
その視線の強さに、胸が少しだけ騒ぐ。
やがて神田の口元が、ほんの僅かに歪んだ。
意地の悪い顔だった。
獲物を見つけた時みたいな。
「……そうかよ」
そのままウイスキーを一口飲む。
そして、
「なら――」
グラスを置いた。
コトリ、と小さな音。
神田は頬杖をつきながら、こちらを見る。
「どっか泊まってくか?」
「…………え?」
思考が止まった。
神田は平然としている。
平然としているくせに、目だけが面白そうに細められていた。
「もっと知りてぇんだろ」
「そ、それは……!」
顔が熱くなる。
ミナミは慌てて言葉を探した。
けれど神田は逃がさない。
「俺のこと」
綺麗に落ちる声。
「全部」
ドクン。
心臓が跳ねる。
「……神田さん」
「なんだ」
「今、絶対からかいましたよね」
神田は鼻で笑った。
「さあな」
そう言いながらも、黒い瞳はずっとミナミを見ていた。
「……俺の誕生日なんだろ?」
「え?」
「だったら」
色っぽく落ちる声に、心臓が跳ねた。
「お前を寄越せ」
頭が真っ白になった。
理解が追いつかない。
追いついたら最後な気がする。
「…………」
ミナミは神田を見た。
神田は平然としている。
平然としているくせに、さっきから目だけがずっと私を見ている。
逃がさないみたいに。
「…………」
熱い。
顔が熱い。
耳も熱い。
たぶん首まで真っ赤だ。
ミナミは震える手で果実酒のグラスを持ち上げた。
そして――
ごく。
ごくごく。
ごくごくごく。
「おい」
神田の声が聞こえた。
気にしない。
ごくごくごくごく。
「おい」
もう遅い。
思考回路が限界だった。
全部飲み干す。
空になったグラスを置く。
コトン。
そこでミナミの脳みそは完全に停止した。
――ぷしゅう。
ロボットが耳から煙を出すみたいに、ミナミの思考は綺麗にシステムダウンした。
「…………」
「…………」
「…………ミナミ?」
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
冷たい夜風が港を吹き抜ける。
船はすでに出航準備を終え、甲板の灯りが水面に長く揺れていた。
ミナミはふわふわする頭のまま、神田の背中の上で瞬きをした。
「ふぇっ?」
「……起きたか」
見慣れた黒髪が目の前にある。
「あれ? 私……」
「お前が奢るって言ったくせに、なんで俺が払わなきゃなんねぇんだよ」
「ああ! ごめん!」
慌てて謝ると、神田は盛大なため息を吐いた。
「起きたなら自分で歩け」
そう言って、あっさりミナミを地面へ降ろす。
ミナミはふらつきながら地面に足を着けた。
そして、思い出す。
バーでの会話。
神田の過去。
人の手で作られた身体。
そして最後の。
『お前を寄越せ』
ぼんっ、と顔が熱くなった。
「……」
「なんだ」
「だって……」
神田が怪訝そうに眉を寄せる。
ミナミは両手で顔を覆った。
「誕生日プレゼントに私を欲しいなんて言われたの初めてで……!」
沈黙。
港に波の音だけが響く。
数秒後。
「……チッ」
聞き慣れた舌打ち。
けれど、その耳がほんの少しだけ赤い。
「大声で言うな」
「だって!」
「うるせぇ」
「だって!」
「うるせぇって言ってんだろ」
ミナミは少しだけ笑った。
神田は、少しだけ困った顔をしていた。
きっと今日、初めて知ったことがたくさんある。
神田の過去。
神田の痛み。
神田が抱えてきたもの。
全部はまだ知らない。
きっとこれから少しずつ知っていく。
彼の過去を聞いても、それでもミナミは神田の隣を歩いていきたいと思った。
船の汽笛が鳴る。
出航の合図だ。
「急げ!」
神田が走り出す。
ミナミはその後を追う。
すると、不意に神田が振り返って、少年のような顔をして笑った。
勝気な顔。
そして、ミナミの手を掴んだ。
「……わ!」
「乗り遅れたら本当に泊まりになるぞ!」
ミナミは神田に引っ張られながら船の中に乗り込んだ。
船内は夜だから静かだった。
客も少なく、窓の外には黒い海が広がっている。
ミナミは席に腰掛けながら、ふと大きく肩を落とした。
「どうした」
向かいに座っていた神田が怪訝そうに眉を寄せる。
ミナミは少しだけ困ったように笑った。
「結局……」
「?」
「お誕生日なのに、私、何もプレゼントできませんでした。お金、いくらでした?払います…」
そう言ってウエストポーチに手を伸ばす。
「別に構わねぇよ。教団の金だしな」
結局、誕生日だからって誘ったくせに、ちゃんとした贈り物は何一つ渡していない。
「やっぱり、私をプレゼントするべきでしょうか?」
ぽつりと呟くと、神田が小さく鼻を鳴らした。
「馬鹿か」
「え?」
彼は窓の外へ視線を向ける。
揺れる港の灯り。
少しずつ遠ざかっていく街。
そして、ぶっきらぼうな声で言った。
「誕生日プレゼントなら、もう貰った」
ミナミは目を瞬いた。
「え?」
「お前の言葉だ」
窓の向こうで港の灯りが揺れている。
ミナミは目を丸くした。
神田は窓の外を見たままだ。
でも、その横顔は少しだけ柔らかかった。
「……生まれてきてくれてありがとう、だったか」
低い声が夜へ溶ける。
「来年も言えよ」
胸が熱くなる。
嬉しくて。
泣きそうなくらい嬉しくて。
ミナミは思いきり笑った。
「お誕生日おめでとうございます、神田さん」
今夜、三度目の言葉。
けれど今度は、神田も少しだけ口元を緩めた。
「……ああ」
船がゆっくりと動き出す。
止まっていた時間が、再び流れ始める。
けれど、今日交わした言葉だけは、きっと、ずっと、二人の中に残り続けるのだろう。
【終】2026/06/06
〈 ~・ ›› ∋ )≪神威がくこからのお言葉
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
今回は神田ユウの誕生日短編でした。
神田にとって「誕生日」というものは、きっと簡単に祝えるものではないのだろうなと思います。
普通に生まれたわけではなく、過去も身体も、生きる理由さえも複雑に絡み合っている彼にとって、「おめでとう」という言葉は軽く受け取れないものなのかもしれません。
でも、主はそこを難しく考えません。
「神田さんがいるから嬉しい」
「神田さんに会えたから嬉しい」
「だから、お祝いしたい」
その真っ直ぐさが、神田の中にある止まった時間を少しだけ動かしたらいいなと思いながら書きました。
バーで過去を話す神田は、かなり珍しい姿だったと思います。
それでも、主になら話してもいいと思った。
そして主も、その過去を知った上で、やっぱり隣にいたいと思った。
そんな二人の関係が好きです。
あと、誕生日プレゼントに「お前を寄越せ」と言い出す神田は、だいぶ神田でした。
言葉は少ないくせに、欲しいものははっきり欲しがる男。困りますね。でも好きです。
来年も、再来年も。
主が懲りずに「お誕生日おめでとうございます」と言って、神田が舌打ちしながらも隣にいる。
そんな未来が続いていきますように。
神田さん、お誕生日おめでとうございます。
生まれてきてくれて、そして出会ってくれてありがとう。
石畳には街灯の淡い光が落ち、運河には店先の明かりがゆらゆらと揺れている。
任務を終えた街は、夜の光に包まれていた。
教団へ戻る船の出航までは、まだ少し時間があった。
は無言で前を歩いている。
任務が終われば、さっさと帰る。
それが神田らしい。
けれど、今日はそうはいかない。
ミナミは隣に並ぶと、にこりと笑って言った。
「ねえ神田さん」
「……あ?」
「お誕生日おめでとうございます」
神田の眉間が、ぴくりと動いた。
「……だから何だ」
「だから、お祝いします」
「いらねぇ」
「いります」
「いらねぇって言ってんだろ」
「でも、私が祝いたいの」
そう言うと、神田は心底面倒そうに舌打ちした。
「……チッ」
けれどミナミは気にしない。
だって今日は、神田さんのお誕生日なのだから。
祝うに決まっている。
歩いていると、ふと視界の端に琥珀色の灯りが見えた。
落ち着いた木製の扉。
小さな看板。
窓の向こうには、静かなバーのカウンターが見える。
ミナミはぱっと顔を明るくして、看板を指さした。
「神田さん、見て」
「……なんだ」
「素敵なお店」
「寄らねぇぞ」
「一杯飲んで行きませんか?」
「行かねぇ」
即答だった。
でもミナミは、にこにこと笑ったまま神田の腕をぐいっと掴む。
「今日は私が奢ります」
「……誰が飲むって言った」
「神田さんですね」
「勝手に決めんな」
「お誕生日ですもの」
「理由になってねぇ」
「なります」
ミナミは胸を張った。
「今日は、私が神田さんをお祝いします」
神田は黙った。
ミナミはさらに一歩近づいて、扉の方へ視線を向ける。
「だから、一杯だけ。ね?」
「……」
「私、神田さんと乾杯したいです」
そう言うと、神田は苦虫を噛み潰したような顔をした。
けれど、振り払わない。
帰るとも言わない。
ただ深くため息をついて、ミナミより先にバーの扉へ向かった。
「……一杯だけだ」
「はい!」
嬉しくなって、ミナミは少しだけ小走りで後を追う。
神田さんは振り返らない。
でも、扉を開けたまま、ミナミが入るのを待っていてくれた。
ミナミはその横を通り過ぎながら、小さく笑う。
「ありがとうございます、神田さん」
「……うるせぇ」
琥珀色の灯りが、神田の横顔を柔らかく照らしていた。
その瞬間、さっき言った言葉がもう一度、胸の奥で静かに響いた。
"お誕生日おめでとうございます。"
たった一言。
けれど今日は、その一言を何度でも伝えたいと思った。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
バーの中は静かだった。
琥珀色の照明。
磨き上げられた木のカウンター。
遠くで流れるピアノの音。
任務帰りのエクソシストには、少し場違いなくらい落ち着いた空間だった。
ミナミは嬉しくなってメニューを覗き込む。
「わあ……」
「騒ぐな」
「だって見てください。名前が綺麗」
「酒は酒だろ」
「神田さんは夢がないなあ」
神田は舌打ちした。
でも帰ろうとはしない。
ミナミは少しだけ嬉しくなる。
注文した飲み物が置かれた。
神田の前には琥珀色のウイスキー。
ミナミの前には果実酒。
グラス同士を軽く合わせた。
グラスの中の琥珀色が静かに揺れる。
神田はそれを見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
「神田さん?」
ミナミが首を傾げる。
神田はようやくグラスを傾けた。
「……俺の誕生日なんざ、祝うもんじゃねぇだろ」
「え?」
「ただ目を覚ました日だ」
感情を押し殺した声だった。
ミナミは少し困ったように笑う。
「でも私は嬉しいですよ」
「何がだ」
「神田さんが生まれてきてくれたこと」
神田の手が止まった。
ほんの僅か。
本当に僅かだけ。
「生まれてきてくれてありがとう」
「……意味分かんねぇな」
「そうですか?」
ミナミは果実酒のグラスを両手で包む。
「だって神田さんがいなかったら、私は神田さんに会えないじゃない」
あっさりと言う。
何でもないことみたいに。
神田は視線を落とした。
生まれてきたこと。
その言葉は嫌いだった。
自分の体は作られたものだ。
誰かの人生の続きを歩かされただけ。
処分。
失敗作。
兵器。
そんな言葉なら聞き慣れている。
けれど、
「生まれてきてくれてありがとう」
なんて言葉は知らない。
誰からも言われたことがない。
だから余計に困る。
「……お前な」
「神田さんも私に会えて嬉しいでしょ?」
神田はグラスを持ち上げる。
「……酒飲んでる時くらい静かにしろ」
短く吐き捨てる。
ミナミは少しだけ頬を膨らませたあと、
「いいじゃない、神田さんと2人きりになれるのそうそう無いんだから」
と、結局笑った。
神田は返事をしない。
ただグラスを傾ける。
琥珀色の液体が喉を通る。
それでも耳の奥には、さっきの言葉が残り続けていた。
神田は視線を落とした。
生まれたこと。
そんなものを考えたことはない。
生き延びることだけで精一杯だった。
死ななかった理由ならあった。
あの人に会うため。
その執念だけで何度も立ち上がってきた。
だが、生まれてきたことに意味があるなど、一度も思ったことはなかった。
隣ではミナミが機嫌よくグラスを回している。
その横顔を見つめる。
何も知らない顔だ。
自分の過去も。
積み重ねてきた死も。
この身体の成り立ちも。
それだからか、あんな言葉を平然と言う。
神田は小さく息を吐いた。
(……生まれてきて、か)
もし、本当にそんな意味があるのだとしたら、それは英雄になるためでも、戦うためでもないのかもしれない。
ふと、隣で笑うミナミを見る。
今の自分が好きになった女。
今の自分が守りたいと思った女。
その存在を目にした瞬間だけ、胸の奥にあった重苦しい問いが少しだけ遠のいた。
答えなんて分からない。
きっとこれからも分からないままだろう。
それでも、「生まれてきてくれてありがとう」
そう言った女が、今、自分の隣で笑っている。
神田はグラスを口元へ運んだ。
そして誰にも聞こえないほど小さく、胸の内だけで呟く。
(……いつか、話そう。俺の過去を。いや、今、話す)
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
神田は、グラスを置いた。
カウンターに触れる、乾いた音。
「ミナミ……。少し、話がある」
その声は低く、けれどいつもの不機嫌さとは違っていた。
ミナミは果実酒のグラスを持ったまま、神田を見る。
「はい」
神田はしばらく黙っていた。
言葉を選んでいるようにも見えたし、選ぶこと自体を嫌がっているようにも見えた。
やがて、彼は窓の外へ視線を向けたまま言った。
「俺は、普通に生まれたわけじゃねぇ」
ピアノの音が、急に遠くなる。
周りの客の話し声も、グラスの触れる音も、何もかも薄い膜の向こうへ沈んでいく。
この席だけが、世界から切り離されたみたいだった。
「……俺の身体は、作られたもんだ」
ミナミは、何も言えなかった。
神田は続ける。
「死んだエクソシストの脳を使って、教団が作った。……それが俺だ」
淡々とした声だったがどこか覚悟を決めた様子だった。
その淡々とした響きの奥に、どれほど長い時間沈めてきたものがあるのか、ミナミには分かる気がした。
「だから、俺に誕生日なんてねぇんだよ」
神田は、ほんの少しだけ口元を歪めた。
笑ったのではない。
「俺にとって今日は、生まれた日じゃねぇ。ただ、目を覚ました日だ。溶液から這い上がった日だ」
ミナミはグラスを置いた。
胸の奥が、きゅっと痛む。
「……神田さん」
「最後まで聞け」
短く遮られる。
ミナミは頷いた。
神田は、琥珀色の酒を見つめる。
「俺には、記憶があった」
「記憶……?」
「ああ」
彼の指が、僅かにカウンターを鳴らす。
「俺のもんじゃねぇ記憶だ。前の身体の持ち主の記憶。そこに、あの人…、女がいた。恋人だ」
私は息を呑んだ。
「結果、あの人はアルマだったがな。」
神田の声は、ひどく静かだった。
「あの人に会うためだけに、俺は生きてた。何度死にかけても、何度倒れても、そこに戻るためだけに起き上がった」
その横顔は、今まで見たどんな神田より遠く見えた。
ミナミの知らない時間。
ミナミの知らない痛み。
ミナミの知らない、誰か。
胸の奥が、少しだけもやっとした。
けれど、それ以上に苦しかったのは、神田がそんなものを一人で抱えていたことだった。
「……お前」
不意に、神田がこちらを見る。
黒い瞳が、まっすぐミナミを捉えた。
「ヤキモチ妬かないのか?」
その問いに、私は瞬きをした。
神田の声は、いつも通りぶっきらぼうだった。
でも、その奥に、ほんのわずかな不安のようなものが滲んでいる気がした。
ミナミはグラスから手を離した。
「……少し、もやっとする」
正直に答えると、神田の眉がわずかに動いた。
「それって、元カノ扱いでいいのかな?」
「知らねぇ。好きにしろ」
即答だったが、そこで終わらなかった。
神田は視線を逸らし、低く続けた。
「……ただ」
その声に、胸が跳ねる。
「俺が今、手ぇ伸ばす相手はお前だ」
一瞬、息が止まった。
「……それじゃ、不満か?」
不機嫌そうに、でも逃げずに、神田はそう言った。
それを聞いたミナミの胸の奥が熱くて、苦しくて、嬉しくて。
さっきまで少しだけ胸を刺していたもやもやが、静かに溶けていく。
「……不満じゃないです」
ミナミがようやくそう言うと、神田は小さく鼻を鳴らした。
「ならいい」
あまりにも短い返事。
でも、ミナミには十分だった。
「そこより……神田さんが、人の手で作られた身体だってところに、頭が追いついていきません……」
ミナミはそっと、カウンターの上に置かれた神田の手に、自分の手を重ねた。
いつも刀を握っている、硬い手。
綺麗な手をしてるくせに、男らしく骨ばっていて、少し乱暴な手。
「……こんなに温かいのに」
ぽつりと呟く。
「お腹から生まれた人と、何も変わらないのに」
神田の指が、ほんの僅かに動いた。
「……嫌か?」
ぶっきらぼうで、でも少しだけ怖がっているみたいな声だった。
ミナミはすぐに首を振る。
「ううん」
本当に、少しも嫌じゃない。
「ただ……不思議だなって思っただけ」
ミナミは彼の手の甲をそっと撫でた。
「神田さんのこと、もっと知りたくなった……」
顔を上げると、黒い瞳と視線がぶつかった。
神田はミナミを見つめたまま動かない。
その視線の強さに、胸が少しだけ騒ぐ。
やがて神田の口元が、ほんの僅かに歪んだ。
意地の悪い顔だった。
獲物を見つけた時みたいな。
「……そうかよ」
そのままウイスキーを一口飲む。
そして、
「なら――」
グラスを置いた。
コトリ、と小さな音。
神田は頬杖をつきながら、こちらを見る。
「どっか泊まってくか?」
「…………え?」
思考が止まった。
神田は平然としている。
平然としているくせに、目だけが面白そうに細められていた。
「もっと知りてぇんだろ」
「そ、それは……!」
顔が熱くなる。
ミナミは慌てて言葉を探した。
けれど神田は逃がさない。
「俺のこと」
綺麗に落ちる声。
「全部」
ドクン。
心臓が跳ねる。
「……神田さん」
「なんだ」
「今、絶対からかいましたよね」
神田は鼻で笑った。
「さあな」
そう言いながらも、黒い瞳はずっとミナミを見ていた。
「……俺の誕生日なんだろ?」
「え?」
「だったら」
色っぽく落ちる声に、心臓が跳ねた。
「お前を寄越せ」
頭が真っ白になった。
理解が追いつかない。
追いついたら最後な気がする。
「…………」
ミナミは神田を見た。
神田は平然としている。
平然としているくせに、さっきから目だけがずっと私を見ている。
逃がさないみたいに。
「…………」
熱い。
顔が熱い。
耳も熱い。
たぶん首まで真っ赤だ。
ミナミは震える手で果実酒のグラスを持ち上げた。
そして――
ごく。
ごくごく。
ごくごくごく。
「おい」
神田の声が聞こえた。
気にしない。
ごくごくごくごく。
「おい」
もう遅い。
思考回路が限界だった。
全部飲み干す。
空になったグラスを置く。
コトン。
そこでミナミの脳みそは完全に停止した。
――ぷしゅう。
ロボットが耳から煙を出すみたいに、ミナミの思考は綺麗にシステムダウンした。
「…………」
「…………」
「…………ミナミ?」
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
冷たい夜風が港を吹き抜ける。
船はすでに出航準備を終え、甲板の灯りが水面に長く揺れていた。
ミナミはふわふわする頭のまま、神田の背中の上で瞬きをした。
「ふぇっ?」
「……起きたか」
見慣れた黒髪が目の前にある。
「あれ? 私……」
「お前が奢るって言ったくせに、なんで俺が払わなきゃなんねぇんだよ」
「ああ! ごめん!」
慌てて謝ると、神田は盛大なため息を吐いた。
「起きたなら自分で歩け」
そう言って、あっさりミナミを地面へ降ろす。
ミナミはふらつきながら地面に足を着けた。
そして、思い出す。
バーでの会話。
神田の過去。
人の手で作られた身体。
そして最後の。
『お前を寄越せ』
ぼんっ、と顔が熱くなった。
「……」
「なんだ」
「だって……」
神田が怪訝そうに眉を寄せる。
ミナミは両手で顔を覆った。
「誕生日プレゼントに私を欲しいなんて言われたの初めてで……!」
沈黙。
港に波の音だけが響く。
数秒後。
「……チッ」
聞き慣れた舌打ち。
けれど、その耳がほんの少しだけ赤い。
「大声で言うな」
「だって!」
「うるせぇ」
「だって!」
「うるせぇって言ってんだろ」
ミナミは少しだけ笑った。
神田は、少しだけ困った顔をしていた。
きっと今日、初めて知ったことがたくさんある。
神田の過去。
神田の痛み。
神田が抱えてきたもの。
全部はまだ知らない。
きっとこれから少しずつ知っていく。
彼の過去を聞いても、それでもミナミは神田の隣を歩いていきたいと思った。
船の汽笛が鳴る。
出航の合図だ。
「急げ!」
神田が走り出す。
ミナミはその後を追う。
すると、不意に神田が振り返って、少年のような顔をして笑った。
勝気な顔。
そして、ミナミの手を掴んだ。
「……わ!」
「乗り遅れたら本当に泊まりになるぞ!」
ミナミは神田に引っ張られながら船の中に乗り込んだ。
船内は夜だから静かだった。
客も少なく、窓の外には黒い海が広がっている。
ミナミは席に腰掛けながら、ふと大きく肩を落とした。
「どうした」
向かいに座っていた神田が怪訝そうに眉を寄せる。
ミナミは少しだけ困ったように笑った。
「結局……」
「?」
「お誕生日なのに、私、何もプレゼントできませんでした。お金、いくらでした?払います…」
そう言ってウエストポーチに手を伸ばす。
「別に構わねぇよ。教団の金だしな」
結局、誕生日だからって誘ったくせに、ちゃんとした贈り物は何一つ渡していない。
「やっぱり、私をプレゼントするべきでしょうか?」
ぽつりと呟くと、神田が小さく鼻を鳴らした。
「馬鹿か」
「え?」
彼は窓の外へ視線を向ける。
揺れる港の灯り。
少しずつ遠ざかっていく街。
そして、ぶっきらぼうな声で言った。
「誕生日プレゼントなら、もう貰った」
ミナミは目を瞬いた。
「え?」
「お前の言葉だ」
窓の向こうで港の灯りが揺れている。
ミナミは目を丸くした。
神田は窓の外を見たままだ。
でも、その横顔は少しだけ柔らかかった。
「……生まれてきてくれてありがとう、だったか」
低い声が夜へ溶ける。
「来年も言えよ」
胸が熱くなる。
嬉しくて。
泣きそうなくらい嬉しくて。
ミナミは思いきり笑った。
「お誕生日おめでとうございます、神田さん」
今夜、三度目の言葉。
けれど今度は、神田も少しだけ口元を緩めた。
「……ああ」
船がゆっくりと動き出す。
止まっていた時間が、再び流れ始める。
けれど、今日交わした言葉だけは、きっと、ずっと、二人の中に残り続けるのだろう。
【終】2026/06/06
〈 ~・ ›› ∋ )≪神威がくこからのお言葉
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
今回は神田ユウの誕生日短編でした。
神田にとって「誕生日」というものは、きっと簡単に祝えるものではないのだろうなと思います。
普通に生まれたわけではなく、過去も身体も、生きる理由さえも複雑に絡み合っている彼にとって、「おめでとう」という言葉は軽く受け取れないものなのかもしれません。
でも、主はそこを難しく考えません。
「神田さんがいるから嬉しい」
「神田さんに会えたから嬉しい」
「だから、お祝いしたい」
その真っ直ぐさが、神田の中にある止まった時間を少しだけ動かしたらいいなと思いながら書きました。
バーで過去を話す神田は、かなり珍しい姿だったと思います。
それでも、主になら話してもいいと思った。
そして主も、その過去を知った上で、やっぱり隣にいたいと思った。
そんな二人の関係が好きです。
あと、誕生日プレゼントに「お前を寄越せ」と言い出す神田は、だいぶ神田でした。
言葉は少ないくせに、欲しいものははっきり欲しがる男。困りますね。でも好きです。
来年も、再来年も。
主が懲りずに「お誕生日おめでとうございます」と言って、神田が舌打ちしながらも隣にいる。
そんな未来が続いていきますように。
神田さん、お誕生日おめでとうございます。
生まれてきてくれて、そして出会ってくれてありがとう。