マスカレードの迷子
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[マスカレードの迷子]
今夜の空気は、いつもより少しだけ甘かった。
屋敷中に灯された無数のシャンデリアが、磨き抜かれた床へ金色の光を落としている。
壁を彩る薔薇の装飾も、天井近くをたゆたう淡い香も、今宵ばかりはすべてが夢のために誂えられたようだった。
仮面舞踏会。
それは、少女の頃に絵本の中で夢見た世界そのものだと、ミナミは思った。
胸元に小さなレースをあしらったドレスの裾を、指先でそっと整える。
鏡の前で何度も確認した髪型も、耳元を飾る真珠も、今夜だけは少しだけ自分を大人の女性に見せてくれる気がした。
大広間では、すでに楽団が優雅な旋律を奏ではじめている。
仮面をつけた紳士淑女たちが、色とりどりの衣装を揺らしながら談笑し、笑い声を零し、緩やかに輪を描いていた。誰もが洗練され、誰もが気品に満ち、まるで現実から切り離された舞台の住人のようだ。
ミナミはひとつ息を吸った。
今夜こそ、きっと素敵な出会いがあるかもしれない。
そんな、いかにも夢見がちな期待を胸の奥に灯しながら、大広間へ足を踏み入れる。
けれど、彼女の視線を奪ったのは、優雅にグラスを傾ける貴公子でも、見事なステップで踊る仮面の紳士でもなかった。
それはビュッフェカウンターの前だった。
「……え」
思わず、足が止まる。
そこにいたのは、ひとりの青年だった。いや、少年かもしれない。
銀色の髪。
雪を思わせるほどに白い肌。
すっと通った鼻筋と、伏せられた睫毛の影がやけに長い、驚くほど整った横顔。
黒のタキシードは仕立ての良さこそ本物に見えるのに、着ている本人から漂う空気は、どこかこの場のものではなかった。
上品な仮面舞踏会の客というより、もっと別の場所からふいに迷い込んでしまった異邦人めいている。
――それだけなら、きっとミナミも、少し見惚れて終わっていただろう。
問題は、その青年が今まさにしていることだった。
食べている。
それも、かなりの勢いで。
小さな皿に一口ずつ取り分けて優雅に味わう、などという言葉とはまったく無縁の速度で、彼は目の前の料理を片端から消していた。
ロースト。
テリーヌ。
小さなパイ。
よく分からないが高そうな魚料理。
見た目の繊細なデザートに至るまで、恐るべき集中力で胃へと収めていく。
その動きに一切の迷いがない。
周囲の視線?
そんなもの、彼にとってはパンくず以下の価値しかなさそうだった。
「……すごい」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど素直な感想だった。
だって、あまりにも美しかったのだ。
食べ方は全然優雅ではないのに、どういうわけか品を損ねない。
むしろ、必死さの向こうに切実さが透けて見えて、ミナミは可笑しさと同時に、きゅう、と胸の奥が締まるような感覚を覚えた。
空腹なのだろうか。
そう思った瞬間、青年が次の皿へ手を伸ばす。
その横から、背の高い三つ編みの男がすっと割り込んできて、小声で何かを囁いた。
「アレン、少しは遠慮を――」 「遠慮してたら死にます」 「死にません」 「死にます」 「死にません」
即答だった。
しかも、ものすごく真剣な顔で言っている。
ミナミは危うく吹き出しそうになって、慌てて扇の陰に口元を隠した。
そのやり取りのすぐ後ろで、もうひとり、どこか苦労人めいた顔の青年が「だから言ったんですよ……!」と頭を抱えている。どうやら連れらしい。
けれど銀髪の青年――たしか今、“アレン”と呼ばれていた――は、そんな二人の制止など意にも介さず、目の前のスモークサーモンにフォークを伸ばした。
仮面の奥に覗く灰色の瞳が、料理を見つめる時だけほんの少し真剣すぎるほど真剣になる。
それがまた、おかしかった。
そして、どうしようもなく目を引いた。
高貴な家に生まれ、礼儀作法だの、淑女のたしなみだのと散々教え込まれてきたミナミの周囲には、あんなふうに“生きるために食べる”顔をする人間はいなかった。
皆、余裕がある。
皆、取り繕う。
皆、微笑みの奥に何かを隠している。
なのにあの青年だけは違った。
空腹です。
だから食べます。
今、命がかかっています。
そんな声が聞こえてきそうなほど分かりやすい。
けれど、決して醜くない。
むしろ――だからこそ、美しいのかもしれないと、ミナミは思ってしまった。
胸の鼓動が、ひとつ大きく跳ねる。
「お嬢さま?」
控えていた侍女が小声で呼びかける。
ミナミははっと我に返った。
こんなふうに、ひとりの男性をじっと見つめるなんて。しかも、舞踏会の真ん中で料理に夢中になっている見知らぬ青年を。
はしたない。と侍女は言いたかったんだろう。
たぶん、そう。
けれど、視線を外せない。
青年が新しく手に取ったグラスの中身を、一気に飲み干す。
それからようやく、ほんの少しだけ息をついた。
その横顔に、ミナミの胸はまた妙に騒いだ。
このまま見ているだけで終わってしまったら、きっと後悔する。
そんな予感がした。
この人の素顔が見たい。
「……少し、行ってまいります」
「えっ、お嬢さま?」
侍女の戸惑う声を背中で聞きながら、ミナミは一歩を踏み出した。
シャンデリアの光の下、色とりどりのドレスの波を縫って進む。
心臓がうるさい。
こんなに緊張したのは、いつ以来だろう。
近づくほど、青年の美しさははっきりした。
銀の髪の間から覗く耳、睫毛の影、白い喉元。
そのどれもが、夜会の光の中では少しだけ現実味を失って見える。
けれど次の瞬間、彼はクリームの乗った小さな菓子を一口で食べてしまった。
その現実感が、たまらなくおかしい。
ミナミはとうとう、彼のすぐそばまで来ていた。
青年はまだ気づいていない。
その隣の二股眉毛の男が、先にこちらに気づき、わずかに目を見開く。
けれどミナミは、もう引き返せなかった。
指先がドレスの布をきゅっと摘む。
そして意を決して、声をかける。
「あの……」
青年が、ぴたりと動きを止めた。
振り返る。
灰色のような銀色のような瞳が、まっすぐこちらを見た。
その瞬間。
ミナミは、自分の胸の鼓動がまたひとつ、今までにない音を立てたのを、はっきりと聞いた。
「あの……」
そのひと声で、青年の動きがぴたりと止まった。
フォークの先に刺さっていた一口大のパイも、今まさに口へ運ばれようとしていたグラスも、すべてが宙ぶらりんのまま静止する。
ゆっくりと、彼が振り返る。
仮面の奥から覗く瞳が、ミナミを映した。
そして次の瞬間――。
「……っ!」
青年の顔が、みるみるうちに赤くなった。
耳まで、首筋まで、一気に熱が駆け上がるのが分かるくらい見事だった。
さっきまであれほど料理に夢中だった人物と同一だとは思えないほど、彼はあからさまに狼狽していた。
「あ……その……ぼ、僕……」
言葉がうまく出てこないらしい。
青年は慌てて手にしていた皿をテーブルへ戻し、背筋を正した。
つい数秒前までの、食卓の前での切実な集中力はどこへやら、そこにいたのはすっかり“きちんとした青年”だった。
「も、申し訳ありません」
深く、丁寧に頭を下げる。
「その……つい、空腹に負けてしまって……。こんな場にふさわしくない振る舞いを、お見せしてしまいました」
声音は礼儀正しく、言葉遣いも柔らかい。
さっきの「死にます」「死にません」と言い合っていた人物とは別人みたいだった。
ミナミは一瞬きょとんとしたあと、思わず笑みをこぼした。
「そんなに謝らなくても大丈夫です」
「で、でも……」
「だって、とても一生懸命で」
そう言ったところで、アレン――と呼ばれていた青年は、さらに困ったように目を伏せる。
「一生懸命……ですか」
「はい」
ミナミは微笑んだ。
「わたくし、少しだけびっくりしましたけれど……でも、なんだか可笑しくて。あと」
そこで言葉を切る。
彼の瞳が、そっとこちらを見た。
「……あと?」
「少し、安心しました」
「安心……?」
「皆さま、今夜はとても綺麗で、完璧で、まるで絵の中の人みたいでしたから」
自分でも不思議なくらい素直に言葉が出てくる。
「でも、あなたはちゃんとここに“いる”方なんだなって思って」
その言葉に、アレンはしばらく黙った。
仮面の奥の目が、少しだけ揺れる。
何か返そうとして、でもすぐには言葉にならない。
そんな顔をしたあとで、彼は小さく息を吐いた。
「……あなたは」
声が、少しだけ掠れている。
「不思議なことをおっしゃるんですね」
それは困ったようにも、救われたようにも聞こえた。
ミナミは首を傾げる。
「そうでしょうか?」
「はい。……普通なら、呆れるか、見なかったことにすると思います」
「そうかもしれません」
「なのに、あなたは声をかけてくれた」
アレンはほんの少しだけ、目元を和らげた。
「ありがとうございます」
その“ありがとう”は、ただ話しかけられたことへの礼以上の響きを持っていた。
ミナミの胸が、また小さく鳴る。
こんなふうに礼を言われるほど、特別なことをしたわけではない。
なのにその声が、心へ触れた。
ちょうどその時、広間の中央で誰かが高く笑った。
楽団の音が少し大きくなり、仮面の人波が揺れる。
華やかで、賑やかで、まぶしい場所。
けれど今の二人には、その光が少しだけ遠かった。
「もし、よろしければ」
ミナミは自分でも驚くほど自然に言っていた。
「少しだけ、あちらへ参りませんか?」
視線で示した先には、庭園に面したテラスへ続くガラス扉がある。
大広間の喧騒から一歩だけ離れた、薄青い夜の気配が見えていた。
アレンは一瞬ためらったようだった。
「……僕が?」
「はい。わたくしと」
その言葉に、彼の睫毛がわずかに震える。
身分のある令嬢と、どこから紛れ込んだとも知れぬ青年。
並んで歩くには、あまりに不釣り合いだと、たぶん彼自身がいちばんよく知っているのだろう。
けれど、ミナミはそれを気にしなかった。
気にする理由が、見つからなかった。
アレンはやがて、ごく静かに頷いた。
「……はい」
それだけで十分だった。
二人は並んで、大広間を後にする。
ガラス扉を抜けた瞬間、ひやりとした夜風が頬を撫でた。
庭園には月の光が淡く降りている。
白い薔薇の垣根。
石造りの欄干。
夜露を含んだ草花が、静かな香りを漂わせていた。
遠くから、ピアノの旋律が聞こえる。
大広間の楽団とは別の、もっとやさしく、もっと物憂げな音色。
誰かが庭園の向こうの小さなサロンで、独りつま弾いているのかもしれない。
その音は、きらびやかな舞踏会から零れ落ちた、夜だけのための歌のようだった。
ミナミのドレスの裾が、風に揺れる。
アレンの銀髪もまた、月光の下でやわらかく流れた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
沈黙が苦しいわけではない。
むしろ、不思議なくらい自然だった。
「……静かですね」
先に口を開いたのは、アレンだった。
「はい」
「中とは、まるで別世界みたいだ」
その声も、さっきより少し落ち着いている。
ミナミは欄干へそっと手を置いた。
「わたくし、こういう場所が好きなんです」
「こういう場所?」
「皆さまが笑っていて、幸せそうなのを見るのも好きですけれど……ずっとそこにいると、少しだけ息がつまってしまうので」
正直にそう言うと、アレンは意外そうに目を瞬いた。
「あなたでも、ですか」
「わたくし“でも”です」
ミナミがくすりと笑う。
「ずっと上手に微笑んでいられるほど、立派ではありませんもの」
アレンはその横顔を見つめたまま、何かを考えるように黙った。
それから、ぽつりと零す。
「……あなたは、優しいですね」
「え?」
「さっきからずっと」
アレンの声は、夜風に少しだけ溶けるように低かった。
「押しつけるでもなく、見下すでもなく、ただ普通に話してくれる」
その言葉に、ミナミは少しだけ息をのむ。
彼が言っているのは、たぶん“今この瞬間”のことだけではない。
もっとずっと前から、たくさんの場所で、たくさんの視線にさらされてきた人の声だと思った。
美しい青年だ。
けれどその美しさは、守られてきたものというより、むしろ風雨の中で研がれた刃のようにも見える。
「わたくしは……」
ミナミは少し考えてから答えた。
「あなたが困っているように見えたから、お話ししたかっただけです」
「困って……」
「少なくとも、空腹ではいらっしゃいましたよね」
その瞬間、アレンは完全に言葉を失った。
そして数秒後、耳まで赤くしながら目を逸らした。
「……はい」
あまりにも素直な肯定に、ミナミは思わずまた笑ってしまう。
その笑い声が、夜の庭に小さく溶けた。
アレンはそんな彼女の声を聞いて、ゆっくりと目を閉じる。
ピアノの音。
夜風。
月の光。
そして、隣で微笑む彼女の声。
どれも静かで、どれもやさしい。
まるで硬く張りつめていた心のどこかに、ひとつずつそっと触れてくるみたいだった。
旅の途中で積もった疲れも、空腹も、警戒も、みっともないところを見せてしまった恥ずかしさも――その全部が、彼女の前では少しずつほどけていく。
こんな感覚は、いつ以来だろう。
思い出せないほど、久しぶりだった。
アレンはそっと、隣に立つミナミを見た。
月明かりを受けた横顔はやわらかく、まるでそのまま音楽になりそうだった。
彼女の声も。
笑い方も。
ときどき言葉の前に置かれる小さな息遣いまでも。
全部が、やさしい音色だった。
「……不思議です」
気づけば、口からそうこぼれていた。
ミナミが振り向く。
「何がですか?」
「あなたといると、安心します」
言ってから、アレンは自分で少し驚いたようだった。
だが、撤回はしなかった。
「さっきまで、あんなにお腹が空いていたのに?」
「はい」
「今は、少しだけ違う気がするんです」
その言葉に、ミナミの胸がふわりと熱を持つ。
「それは……よかったです」
彼女がそう返すと、アレンは本当に小さく笑った。
華やかな舞踏会の夜。
その片隅の静かなテラスで。
銀の髪を夜風に揺らしながら微笑む青年を見て、ミナミは思う。
今夜、胸を弾ませていたのは舞踏会のためだったはずなのに。
いつの間にか、その理由は少しだけ変わってしまったのかもしれない、と。
ピアノの音は、まだ遠くで続いていた。
夜の庭園を吹き抜ける風は涼やかで、けれど二人の間に流れる空気だけが、どこかやわらかく温かい。
ミナミは欄干に手を添えたまま、隣に立つアレンの横顔をそっと見上げた。
ほんの少し前まで、あれほど恥ずかしそうにしていたのに、今の彼はもう落ち着いている。
いや、落ち着いて見せようとしている、という方が正しいのかもしれない。
ときどき、ふいに目を伏せる。
笑ったあと、ほんの一瞬だけ、どこか遠くを見る。
そのたびに、彼の中には自分の知らない影があるのだと、ミナミは感じていた。
「……アレンさんは」
ミナミが静かに口を開く。
「普段は何をなさっているんですか?」
アレンはすぐには答えなかった。
月明かりの下、銀の睫毛がわずかに震える。
「旅をしています」
彼は苦笑した。
「旅と言っても綺麗なものじゃありません」
その声に、さっきまでの柔らかさとは違う響きが混じる。
ミナミは黙って、その先を待った。
彼が自分から話そうとしてくれることを、急かしたくなかった。
しばらくして、アレンは欄干へ目を落としたまま言った。
「僕は……立ち止まれないんです」
夜風が吹く。
その風が、二人の間に流れた沈黙をやさしく揺らした。
「どこかひとつの場所に居続けることも、誰かのそばにいることも、たぶん、許されない」
その言葉は静かだった。
だからこそ、余計に胸へ落ちる。
「明日にはもう、ここにはいないかもしれません。……いえ、たぶん、いられないんでしょうね」
ミナミは思わず指先を握りしめた。
仮面舞踏会の夜。
月の下の静かなテラス。
こんなにも穏やかな時間の中で、その言葉だけが異質なくらい冷たかった。
「どうして……?」
問いかける声は、無意識のうちに小さくなる。
アレンは少しだけ笑った。
けれど、その笑みはひどく頼りなかった。
「うまく言えません。……言ってしまったら、今夜のことまで壊してしまいそうで」
その一言で十分だった。
彼が抱えているものは、軽いものではない。
ミナミにも、それくらいは分かった。
美しい舞踏会の中で出会った、少し変わった銀髪の青年。
それだけでは終わらない何かが、この人にはある。
けれど、それを知ったからといって、今ここで彼を怖いと思うことはなかった。
むしろ逆だった。
どうしてこの人は、こんなに静かに孤独を抱えているのだろう。
どうして誰にも見せないように、こんなふうに笑うのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥に生まれたのは恐れではなく、ただやさしい痛みだった。
アレンは、ふっと息をついた。
「……名前…聞いてもいいですか?」
「え?」
「せっかく、あなたとこうして話せているのに。あなたの名前…知らないなって思って」
彼は少し俯き、低く続ける。
「嫌なら別に…」
ミナミは首を横に振った。
「嫌じゃないです」
言葉を探しながら、そっと彼の方へ向き直る。
「ミナミと言います。」
アレンの瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
「ミナミ…。いい名前ですね」
その中にある影は消えていない。
けれど、いまミナミを見ている目だけは、まっすぐだった。
ミナミは少しだけ勇気を出した。
「わたくしも、知りたいです」
自分でも驚くほど、素直な言葉だった。
「……あなたのこと。名前の他に…」
アレンは何も言わない。
その沈黙のあとで、彼の喉が小さく上下した。
そして、まるで何かを堪えきれなくなったように、ひどく静かな声で言う。
「ミナミさん」
名前を呼ばれて、ミナミの胸がやわらかく跳ねた。
「僕は……」
月の光が、アレンの横顔を白く照らしている。
仮面の奥の灰色の瞳は、今にも壊れてしまいそうなほど繊細に揺れていた。
「明日には、どこへ消えるかもわからない旅の者です」
その言葉は、まるで自分で自分に言い聞かせるようだった。
「だから、あなたとこうしている今が、きっと……とてもいけないことなんです」
ミナミは息をのむ。
いけない。
そう言われるほど、心は逆に強く惹かれてしまう。
アレンはほんの少しだけ目を伏せ、それから意を決したように顔を上げた。
「けれど」
彼の声が、かすかに震える。
「もし、許されるなら」
夜風が、二人のあいだを抜ける。
ミナミは気づけば、祈るような気持ちでその続きを待っていた。
「今夜だけは」
アレンの瞳が、まっすぐミナミを射抜いた。
「あなたのその優しい声で……僕の名前を、ただの“アレン”として呼んでくれませんか」
一瞬、世界から音が消えたような気がした。
ピアノの音も。
風の音も。
遠くの笑い声も。
何もかもが遠のいて、ただその願いだけが、
ミナミの胸の真ん中へ落ちてくる。
――ただの“アレン”。
その言葉に込められたものの重さを、ミナミは全部は知らない。
知らないけれど、分かることがひとつだけある。
この人はきっと、ずっと何かの名前で呼ばれてきたのだ。
役目とか、立場とか、事情とか、そういうもので縛られた呼ばれ方ばかりを。
だから今、こんなふうに願うのだ。
自分を、自分として呼んでほしいと。
ミナミの胸が、きゅう、と痛んだ。
「……アレン」
声にした途端、その名前がとても大切なもののように思えた。
アレンの瞳が、わずかに見開かれる。
ミナミはもう一度、今度はもっとやわらかく呼んだ。
「アレン」
その響きは、夜の庭にそっと溶けていく。
アレンは、まるでその一音一音を逃さないように、静かに目を閉じた。
ミナミは、ためらいながら手を伸ばす。
彼の仮面に、そっと触れた。
月に照らされた肌は少し冷たくて、その冷たさがかえって胸を締めつけた。
「アレン」
三度目に呼ぶと、彼の睫毛が震えた。
ミナミは慈しむように、やさしく仮面を剥がした。
「今夜だけじゃなくても」
そこまで言いかけて、でも言葉を止めた。
未来を約束できるほど、自分は彼のことを知らない。
軽々しく縋っていい相手でもないのだろう。
だから代わりに、今この瞬間に持てるすべてを込めて、もう一度だけ呼ぶ。
「アレン」
それだけでよかった。
アレンは、ほんの少しだけ顔を傾け、ミナミの仮面を外した。
その仕草は、あまりにも静かで、あまりにも切なくて。
ミナミの胸は、どうしようもなくいっぱいになる。
「……ありがとうございます」
アレンがそう言った時、声は少し掠れていた。
けれどその表情は、さっきまでよりずっとやわらかかった。
張りつめていたものがほどけていくのが、目に見えるようだった。
ミナミは小さく首を振る。
「お礼を言われるようなことではありません」
「いえ」
アレンは目を細める。
「僕にとっては……たぶん、ずっと忘れられないことです」
その言葉に、ミナミの胸の奥がまた熱を持つ。
最初で最後になるかもしれない。
そんな予感が、月光みたいに静かに降りてくる。
だからこそ、今だけは。
ミナミは彼の名前を、何度も何度も呼んだ。
アレン。
アレン、と。
ただひとりの、彼として。
仮面を外したあとのアレンの顔を、ミナミはまだ見つめていた。
月光の下にさらされた素顔は、先ほどまでよりもずっと幼く、ずっと無防備に見える。
それなのに、瞳の奥には消えない疲れと、たやすく触れてはいけない影が残っていた。
アレンもまた、ミナミを見ていた。
仮面越しでは隠されていた睫毛の震えも、頬の淡い紅も、今は何ひとつ隠すものがない。
素顔で見つめ合う、それだけのことが、どうしてこんなにも胸を満たすのだろうと、ミナミは思う。
言葉はいらなかった。
名前を呼ぶことも、手に触れることも、今はもう十分すぎるほど深く、互いを近くしていた。
「額…どうしたの?怪我をしているの?」
「あ…これは…」
――このまま、時が止まってしまえばいいのに。
そう願った瞬間だった。
「アレーーーン!!」
庭園の奥から、切羽詰まった大声が響いた。
ミナミの肩がびくりと揺れる。
続いて、砂利を踏む足音。
ひとつではない。
もう一人、いや、二人分。
アレンの表情が一変した。
「……っ」
夢から叩き起こされたみたいに、彼ははっと息を呑む。
その顔から、一瞬前までの静かな安堵が引いていく。
現実だ。
自分探しの旅。
追われる身。
自分の中に潜むもの。
そして、ここに長くいてはいけない理由。
全部が、たった一声で戻ってきてしまったのだ。
「アレン?」
ミナミが呼ぶ。
けれど彼は、今度はすぐに答えられなかった。
数歩ぶんだけ、距離を取る。
手のぬくもりが、急に遠くなる。
「……すみません」
アレンは掠れた声で言った。
「僕、」
続きを言おうとして、でも飲み込む。
謝るべきなのか。
礼を言うべきなのか。
それとも、何も言わずに去るべきなのか。
たぶん彼自身にも分からないのだろう。
ただ、その灰色の瞳に滲んだ焦燥だけが、今の彼のすべてを物語っていた。
ミナミはその顔を見て、悟った。
ああ、この人は行ってしまうのだ、と。
引き止めてはいけない。
引き止めたところで、きっと困らせるだけだ。
それでも、何かひとつだけでも、この人の手に残したい。
ミナミは迷わなかった。
「待って」
アレンが目を上げる。
その前で、ミナミは自分の髪に手を伸ばした。
今夜のために結い上げられた豊かな髪を飾っていた、小さな宝石付きの髪飾り。
高価な細工が施された、令嬢としての装いの一部。
それを、ためらいなく引き抜く。
「ミナミさん?」
「これを」
アレンが何か言うより早く、ミナミは彼の手を取った。
驚いたように開かれかけた指を、半ば無理やりこじ開ける。
その掌の上に、冷たい宝石の感触を押し込んだ。
「旅銀にしてください」
アレンの目が見開かれる。
「そんな、できません」
「できます」
きっぱりと、ミナミは言った。
その声はもう、舞踏会の最中の夢見る令嬢のものではなかった。
高貴な家に生まれ、施されるだけではなく、何かを与えることを教えられてきた娘の声音だった。
「あなたがこれからどこへ行くのか、わたくしには分かりません。でも」
ミナミは、彼の手を包み込むようにして、髪飾りを握らせる。
「少しでも、あなたの行く先が健やかであるように」
その言葉に、アレンは何も返せない。
こんなふうに、何かを託されたことがあっただろうか。
ただ哀れまれるのでもなく、ただ憐れまれるのでもなく。
彼がこれから先も生きることを当たり前のように願って、こうして差し出されるものが。
「……僕は」
ようやく出た声は、ひどく弱かった。
「僕は、あなたに何も返せません」
「返さなくていいんです」
ミナミは微笑んだ。
少しだけ、泣きそうな顔で。
「生きていてくだされば、それで」
その瞬間、アレンの胸のどこかが、静かに痛んだ。
彼はゆっくりと指を閉じる。
髪飾りを包む。
そして、もう片方の手には、自分が外したミナミの仮面を握りしめた。
仮面と髪飾り。
今夜の夢の名残みたいな、その二つを。
庭園の奥から、また声がした。
「アレン!! どこですか!!」
今度は、少し近い。
もう、本当に行かなくてはならない。
アレンはミナミを見た。
まっすぐに。
今度は逃げずに、その顔をしっかりと目に焼きつけるみたいに。
「……必ず」
低い声だった。
「必ず、生きます」
それは約束だった。
甘い囁きではなく、飾った言葉でもなく。
ただ、この夜に出会ったたった一人の令嬢へ捧げる、彼なりの誓いだった。
ミナミは小さく頷いた。
「はい」
それ以上は言わない。
言えば、きっと何かが壊れてしまう気がした。
アレンは一度だけ目を細めた。
それが笑ったのか、泣きそうだったのか、ミナミには分からない。
次の瞬間には、彼の身体は東屋の影へ溶けるように退いていた。
夜の庭。
月の光。
薔薇の香り。
そのどれにも馴染まないまま、それでも今夜だけ確かにここにいた銀髪の青年は、静かに闇へ消えていく。
ミナミはその背を、見えなくなるまで見送った。
手のひらには彼が付けていた仮面。
そして胸の奥に残ったぬくもりは、なかなか消えなかった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
夜の路地裏は、舞踏会の華やかさとは別世界だった。
石畳は冷え、灯りは少なく、さっきまでの音楽も笑い声も、ここには届かない。
その薄暗がりの中で、ようやくジョニーとリンクに追いついたアレンは、短く息をついた。
「アレン! どこ行ってたんですかあ!」
ジョニーが半泣きで駆け寄ってくる。
「心配したんですよ!? もう、ほんとに!」
「……すみません」
「本当に反省してます!?」
「してます」
「顔がちょっと違いますよ!? 何かあった顔ですよね!?」
そこへ、リンクの視線がすっと落ちた。
アレンの手元。
固く握られたその中から、わずかに宝石のきらめきが覗いている。
「ウォーカー」
「はい?」
「それは何です」
アレンが一瞬だけ固まる。
リンクは容赦がない。
「まさか、盗ん――」
「盗んでません!!」
即答だった。
ジョニーがびくっとする。
「えっ、ち、違うの?」
「違います!」
「でもすごく高そうだよ!?」
「もうジョニーまで!違いますって!」
「何が“違う”のです」
「その……!」
アレンは一瞬、言葉に詰まった。
説明しようとすればするほど、今夜のことが壊れてしまいそうだった。
あの静かなテラスも。
月の光も。
やさしい声で呼ばれた自分の名前も。
だから結局、何も詳しくは言えなかった。
ただ、手の中の髪飾りをそっと見下ろす。
月明かりの代わりに、路地裏の乏しい灯りを受けて、それは小さく光っていた。
高価な宝石。
けれど、彼にとって大事なのは値打ちではない。
自分のために。
生きてほしいと願って。
あの人が、あの手で握らせてくれたこと。
それがすべてだった。
アレンの表情が、ほんの少しだけやわらぐ。
「……これは」
静かに言う。
「僕の宝物です」
ジョニーがぱちぱちと瞬きをし、リンクはその横顔をじっと見た。
何があったのかまでは聞かない。
聞けない何かがあるのだと、その一言で十分だった。
夜の路地裏を、冷たい風が吹き抜ける。
けれどアレンの掌の中だけは、まだほんのりと温かかった。
まるで、あの令嬢の優しい声が、そこに残っているみたいに。
… 𝗍𝗁𝖾 𝖾𝗇𝖽 2026/05/17
今夜の空気は、いつもより少しだけ甘かった。
屋敷中に灯された無数のシャンデリアが、磨き抜かれた床へ金色の光を落としている。
壁を彩る薔薇の装飾も、天井近くをたゆたう淡い香も、今宵ばかりはすべてが夢のために誂えられたようだった。
仮面舞踏会。
それは、少女の頃に絵本の中で夢見た世界そのものだと、ミナミは思った。
胸元に小さなレースをあしらったドレスの裾を、指先でそっと整える。
鏡の前で何度も確認した髪型も、耳元を飾る真珠も、今夜だけは少しだけ自分を大人の女性に見せてくれる気がした。
大広間では、すでに楽団が優雅な旋律を奏ではじめている。
仮面をつけた紳士淑女たちが、色とりどりの衣装を揺らしながら談笑し、笑い声を零し、緩やかに輪を描いていた。誰もが洗練され、誰もが気品に満ち、まるで現実から切り離された舞台の住人のようだ。
ミナミはひとつ息を吸った。
今夜こそ、きっと素敵な出会いがあるかもしれない。
そんな、いかにも夢見がちな期待を胸の奥に灯しながら、大広間へ足を踏み入れる。
けれど、彼女の視線を奪ったのは、優雅にグラスを傾ける貴公子でも、見事なステップで踊る仮面の紳士でもなかった。
それはビュッフェカウンターの前だった。
「……え」
思わず、足が止まる。
そこにいたのは、ひとりの青年だった。いや、少年かもしれない。
銀色の髪。
雪を思わせるほどに白い肌。
すっと通った鼻筋と、伏せられた睫毛の影がやけに長い、驚くほど整った横顔。
黒のタキシードは仕立ての良さこそ本物に見えるのに、着ている本人から漂う空気は、どこかこの場のものではなかった。
上品な仮面舞踏会の客というより、もっと別の場所からふいに迷い込んでしまった異邦人めいている。
――それだけなら、きっとミナミも、少し見惚れて終わっていただろう。
問題は、その青年が今まさにしていることだった。
食べている。
それも、かなりの勢いで。
小さな皿に一口ずつ取り分けて優雅に味わう、などという言葉とはまったく無縁の速度で、彼は目の前の料理を片端から消していた。
ロースト。
テリーヌ。
小さなパイ。
よく分からないが高そうな魚料理。
見た目の繊細なデザートに至るまで、恐るべき集中力で胃へと収めていく。
その動きに一切の迷いがない。
周囲の視線?
そんなもの、彼にとってはパンくず以下の価値しかなさそうだった。
「……すごい」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど素直な感想だった。
だって、あまりにも美しかったのだ。
食べ方は全然優雅ではないのに、どういうわけか品を損ねない。
むしろ、必死さの向こうに切実さが透けて見えて、ミナミは可笑しさと同時に、きゅう、と胸の奥が締まるような感覚を覚えた。
空腹なのだろうか。
そう思った瞬間、青年が次の皿へ手を伸ばす。
その横から、背の高い三つ編みの男がすっと割り込んできて、小声で何かを囁いた。
「アレン、少しは遠慮を――」 「遠慮してたら死にます」 「死にません」 「死にます」 「死にません」
即答だった。
しかも、ものすごく真剣な顔で言っている。
ミナミは危うく吹き出しそうになって、慌てて扇の陰に口元を隠した。
そのやり取りのすぐ後ろで、もうひとり、どこか苦労人めいた顔の青年が「だから言ったんですよ……!」と頭を抱えている。どうやら連れらしい。
けれど銀髪の青年――たしか今、“アレン”と呼ばれていた――は、そんな二人の制止など意にも介さず、目の前のスモークサーモンにフォークを伸ばした。
仮面の奥に覗く灰色の瞳が、料理を見つめる時だけほんの少し真剣すぎるほど真剣になる。
それがまた、おかしかった。
そして、どうしようもなく目を引いた。
高貴な家に生まれ、礼儀作法だの、淑女のたしなみだのと散々教え込まれてきたミナミの周囲には、あんなふうに“生きるために食べる”顔をする人間はいなかった。
皆、余裕がある。
皆、取り繕う。
皆、微笑みの奥に何かを隠している。
なのにあの青年だけは違った。
空腹です。
だから食べます。
今、命がかかっています。
そんな声が聞こえてきそうなほど分かりやすい。
けれど、決して醜くない。
むしろ――だからこそ、美しいのかもしれないと、ミナミは思ってしまった。
胸の鼓動が、ひとつ大きく跳ねる。
「お嬢さま?」
控えていた侍女が小声で呼びかける。
ミナミははっと我に返った。
こんなふうに、ひとりの男性をじっと見つめるなんて。しかも、舞踏会の真ん中で料理に夢中になっている見知らぬ青年を。
はしたない。と侍女は言いたかったんだろう。
たぶん、そう。
けれど、視線を外せない。
青年が新しく手に取ったグラスの中身を、一気に飲み干す。
それからようやく、ほんの少しだけ息をついた。
その横顔に、ミナミの胸はまた妙に騒いだ。
このまま見ているだけで終わってしまったら、きっと後悔する。
そんな予感がした。
この人の素顔が見たい。
「……少し、行ってまいります」
「えっ、お嬢さま?」
侍女の戸惑う声を背中で聞きながら、ミナミは一歩を踏み出した。
シャンデリアの光の下、色とりどりのドレスの波を縫って進む。
心臓がうるさい。
こんなに緊張したのは、いつ以来だろう。
近づくほど、青年の美しさははっきりした。
銀の髪の間から覗く耳、睫毛の影、白い喉元。
そのどれもが、夜会の光の中では少しだけ現実味を失って見える。
けれど次の瞬間、彼はクリームの乗った小さな菓子を一口で食べてしまった。
その現実感が、たまらなくおかしい。
ミナミはとうとう、彼のすぐそばまで来ていた。
青年はまだ気づいていない。
その隣の二股眉毛の男が、先にこちらに気づき、わずかに目を見開く。
けれどミナミは、もう引き返せなかった。
指先がドレスの布をきゅっと摘む。
そして意を決して、声をかける。
「あの……」
青年が、ぴたりと動きを止めた。
振り返る。
灰色のような銀色のような瞳が、まっすぐこちらを見た。
その瞬間。
ミナミは、自分の胸の鼓動がまたひとつ、今までにない音を立てたのを、はっきりと聞いた。
「あの……」
そのひと声で、青年の動きがぴたりと止まった。
フォークの先に刺さっていた一口大のパイも、今まさに口へ運ばれようとしていたグラスも、すべてが宙ぶらりんのまま静止する。
ゆっくりと、彼が振り返る。
仮面の奥から覗く瞳が、ミナミを映した。
そして次の瞬間――。
「……っ!」
青年の顔が、みるみるうちに赤くなった。
耳まで、首筋まで、一気に熱が駆け上がるのが分かるくらい見事だった。
さっきまであれほど料理に夢中だった人物と同一だとは思えないほど、彼はあからさまに狼狽していた。
「あ……その……ぼ、僕……」
言葉がうまく出てこないらしい。
青年は慌てて手にしていた皿をテーブルへ戻し、背筋を正した。
つい数秒前までの、食卓の前での切実な集中力はどこへやら、そこにいたのはすっかり“きちんとした青年”だった。
「も、申し訳ありません」
深く、丁寧に頭を下げる。
「その……つい、空腹に負けてしまって……。こんな場にふさわしくない振る舞いを、お見せしてしまいました」
声音は礼儀正しく、言葉遣いも柔らかい。
さっきの「死にます」「死にません」と言い合っていた人物とは別人みたいだった。
ミナミは一瞬きょとんとしたあと、思わず笑みをこぼした。
「そんなに謝らなくても大丈夫です」
「で、でも……」
「だって、とても一生懸命で」
そう言ったところで、アレン――と呼ばれていた青年は、さらに困ったように目を伏せる。
「一生懸命……ですか」
「はい」
ミナミは微笑んだ。
「わたくし、少しだけびっくりしましたけれど……でも、なんだか可笑しくて。あと」
そこで言葉を切る。
彼の瞳が、そっとこちらを見た。
「……あと?」
「少し、安心しました」
「安心……?」
「皆さま、今夜はとても綺麗で、完璧で、まるで絵の中の人みたいでしたから」
自分でも不思議なくらい素直に言葉が出てくる。
「でも、あなたはちゃんとここに“いる”方なんだなって思って」
その言葉に、アレンはしばらく黙った。
仮面の奥の目が、少しだけ揺れる。
何か返そうとして、でもすぐには言葉にならない。
そんな顔をしたあとで、彼は小さく息を吐いた。
「……あなたは」
声が、少しだけ掠れている。
「不思議なことをおっしゃるんですね」
それは困ったようにも、救われたようにも聞こえた。
ミナミは首を傾げる。
「そうでしょうか?」
「はい。……普通なら、呆れるか、見なかったことにすると思います」
「そうかもしれません」
「なのに、あなたは声をかけてくれた」
アレンはほんの少しだけ、目元を和らげた。
「ありがとうございます」
その“ありがとう”は、ただ話しかけられたことへの礼以上の響きを持っていた。
ミナミの胸が、また小さく鳴る。
こんなふうに礼を言われるほど、特別なことをしたわけではない。
なのにその声が、心へ触れた。
ちょうどその時、広間の中央で誰かが高く笑った。
楽団の音が少し大きくなり、仮面の人波が揺れる。
華やかで、賑やかで、まぶしい場所。
けれど今の二人には、その光が少しだけ遠かった。
「もし、よろしければ」
ミナミは自分でも驚くほど自然に言っていた。
「少しだけ、あちらへ参りませんか?」
視線で示した先には、庭園に面したテラスへ続くガラス扉がある。
大広間の喧騒から一歩だけ離れた、薄青い夜の気配が見えていた。
アレンは一瞬ためらったようだった。
「……僕が?」
「はい。わたくしと」
その言葉に、彼の睫毛がわずかに震える。
身分のある令嬢と、どこから紛れ込んだとも知れぬ青年。
並んで歩くには、あまりに不釣り合いだと、たぶん彼自身がいちばんよく知っているのだろう。
けれど、ミナミはそれを気にしなかった。
気にする理由が、見つからなかった。
アレンはやがて、ごく静かに頷いた。
「……はい」
それだけで十分だった。
二人は並んで、大広間を後にする。
ガラス扉を抜けた瞬間、ひやりとした夜風が頬を撫でた。
庭園には月の光が淡く降りている。
白い薔薇の垣根。
石造りの欄干。
夜露を含んだ草花が、静かな香りを漂わせていた。
遠くから、ピアノの旋律が聞こえる。
大広間の楽団とは別の、もっとやさしく、もっと物憂げな音色。
誰かが庭園の向こうの小さなサロンで、独りつま弾いているのかもしれない。
その音は、きらびやかな舞踏会から零れ落ちた、夜だけのための歌のようだった。
ミナミのドレスの裾が、風に揺れる。
アレンの銀髪もまた、月光の下でやわらかく流れた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
沈黙が苦しいわけではない。
むしろ、不思議なくらい自然だった。
「……静かですね」
先に口を開いたのは、アレンだった。
「はい」
「中とは、まるで別世界みたいだ」
その声も、さっきより少し落ち着いている。
ミナミは欄干へそっと手を置いた。
「わたくし、こういう場所が好きなんです」
「こういう場所?」
「皆さまが笑っていて、幸せそうなのを見るのも好きですけれど……ずっとそこにいると、少しだけ息がつまってしまうので」
正直にそう言うと、アレンは意外そうに目を瞬いた。
「あなたでも、ですか」
「わたくし“でも”です」
ミナミがくすりと笑う。
「ずっと上手に微笑んでいられるほど、立派ではありませんもの」
アレンはその横顔を見つめたまま、何かを考えるように黙った。
それから、ぽつりと零す。
「……あなたは、優しいですね」
「え?」
「さっきからずっと」
アレンの声は、夜風に少しだけ溶けるように低かった。
「押しつけるでもなく、見下すでもなく、ただ普通に話してくれる」
その言葉に、ミナミは少しだけ息をのむ。
彼が言っているのは、たぶん“今この瞬間”のことだけではない。
もっとずっと前から、たくさんの場所で、たくさんの視線にさらされてきた人の声だと思った。
美しい青年だ。
けれどその美しさは、守られてきたものというより、むしろ風雨の中で研がれた刃のようにも見える。
「わたくしは……」
ミナミは少し考えてから答えた。
「あなたが困っているように見えたから、お話ししたかっただけです」
「困って……」
「少なくとも、空腹ではいらっしゃいましたよね」
その瞬間、アレンは完全に言葉を失った。
そして数秒後、耳まで赤くしながら目を逸らした。
「……はい」
あまりにも素直な肯定に、ミナミは思わずまた笑ってしまう。
その笑い声が、夜の庭に小さく溶けた。
アレンはそんな彼女の声を聞いて、ゆっくりと目を閉じる。
ピアノの音。
夜風。
月の光。
そして、隣で微笑む彼女の声。
どれも静かで、どれもやさしい。
まるで硬く張りつめていた心のどこかに、ひとつずつそっと触れてくるみたいだった。
旅の途中で積もった疲れも、空腹も、警戒も、みっともないところを見せてしまった恥ずかしさも――その全部が、彼女の前では少しずつほどけていく。
こんな感覚は、いつ以来だろう。
思い出せないほど、久しぶりだった。
アレンはそっと、隣に立つミナミを見た。
月明かりを受けた横顔はやわらかく、まるでそのまま音楽になりそうだった。
彼女の声も。
笑い方も。
ときどき言葉の前に置かれる小さな息遣いまでも。
全部が、やさしい音色だった。
「……不思議です」
気づけば、口からそうこぼれていた。
ミナミが振り向く。
「何がですか?」
「あなたといると、安心します」
言ってから、アレンは自分で少し驚いたようだった。
だが、撤回はしなかった。
「さっきまで、あんなにお腹が空いていたのに?」
「はい」
「今は、少しだけ違う気がするんです」
その言葉に、ミナミの胸がふわりと熱を持つ。
「それは……よかったです」
彼女がそう返すと、アレンは本当に小さく笑った。
華やかな舞踏会の夜。
その片隅の静かなテラスで。
銀の髪を夜風に揺らしながら微笑む青年を見て、ミナミは思う。
今夜、胸を弾ませていたのは舞踏会のためだったはずなのに。
いつの間にか、その理由は少しだけ変わってしまったのかもしれない、と。
ピアノの音は、まだ遠くで続いていた。
夜の庭園を吹き抜ける風は涼やかで、けれど二人の間に流れる空気だけが、どこかやわらかく温かい。
ミナミは欄干に手を添えたまま、隣に立つアレンの横顔をそっと見上げた。
ほんの少し前まで、あれほど恥ずかしそうにしていたのに、今の彼はもう落ち着いている。
いや、落ち着いて見せようとしている、という方が正しいのかもしれない。
ときどき、ふいに目を伏せる。
笑ったあと、ほんの一瞬だけ、どこか遠くを見る。
そのたびに、彼の中には自分の知らない影があるのだと、ミナミは感じていた。
「……アレンさんは」
ミナミが静かに口を開く。
「普段は何をなさっているんですか?」
アレンはすぐには答えなかった。
月明かりの下、銀の睫毛がわずかに震える。
「旅をしています」
彼は苦笑した。
「旅と言っても綺麗なものじゃありません」
その声に、さっきまでの柔らかさとは違う響きが混じる。
ミナミは黙って、その先を待った。
彼が自分から話そうとしてくれることを、急かしたくなかった。
しばらくして、アレンは欄干へ目を落としたまま言った。
「僕は……立ち止まれないんです」
夜風が吹く。
その風が、二人の間に流れた沈黙をやさしく揺らした。
「どこかひとつの場所に居続けることも、誰かのそばにいることも、たぶん、許されない」
その言葉は静かだった。
だからこそ、余計に胸へ落ちる。
「明日にはもう、ここにはいないかもしれません。……いえ、たぶん、いられないんでしょうね」
ミナミは思わず指先を握りしめた。
仮面舞踏会の夜。
月の下の静かなテラス。
こんなにも穏やかな時間の中で、その言葉だけが異質なくらい冷たかった。
「どうして……?」
問いかける声は、無意識のうちに小さくなる。
アレンは少しだけ笑った。
けれど、その笑みはひどく頼りなかった。
「うまく言えません。……言ってしまったら、今夜のことまで壊してしまいそうで」
その一言で十分だった。
彼が抱えているものは、軽いものではない。
ミナミにも、それくらいは分かった。
美しい舞踏会の中で出会った、少し変わった銀髪の青年。
それだけでは終わらない何かが、この人にはある。
けれど、それを知ったからといって、今ここで彼を怖いと思うことはなかった。
むしろ逆だった。
どうしてこの人は、こんなに静かに孤独を抱えているのだろう。
どうして誰にも見せないように、こんなふうに笑うのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥に生まれたのは恐れではなく、ただやさしい痛みだった。
アレンは、ふっと息をついた。
「……名前…聞いてもいいですか?」
「え?」
「せっかく、あなたとこうして話せているのに。あなたの名前…知らないなって思って」
彼は少し俯き、低く続ける。
「嫌なら別に…」
ミナミは首を横に振った。
「嫌じゃないです」
言葉を探しながら、そっと彼の方へ向き直る。
「ミナミと言います。」
アレンの瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
「ミナミ…。いい名前ですね」
その中にある影は消えていない。
けれど、いまミナミを見ている目だけは、まっすぐだった。
ミナミは少しだけ勇気を出した。
「わたくしも、知りたいです」
自分でも驚くほど、素直な言葉だった。
「……あなたのこと。名前の他に…」
アレンは何も言わない。
その沈黙のあとで、彼の喉が小さく上下した。
そして、まるで何かを堪えきれなくなったように、ひどく静かな声で言う。
「ミナミさん」
名前を呼ばれて、ミナミの胸がやわらかく跳ねた。
「僕は……」
月の光が、アレンの横顔を白く照らしている。
仮面の奥の灰色の瞳は、今にも壊れてしまいそうなほど繊細に揺れていた。
「明日には、どこへ消えるかもわからない旅の者です」
その言葉は、まるで自分で自分に言い聞かせるようだった。
「だから、あなたとこうしている今が、きっと……とてもいけないことなんです」
ミナミは息をのむ。
いけない。
そう言われるほど、心は逆に強く惹かれてしまう。
アレンはほんの少しだけ目を伏せ、それから意を決したように顔を上げた。
「けれど」
彼の声が、かすかに震える。
「もし、許されるなら」
夜風が、二人のあいだを抜ける。
ミナミは気づけば、祈るような気持ちでその続きを待っていた。
「今夜だけは」
アレンの瞳が、まっすぐミナミを射抜いた。
「あなたのその優しい声で……僕の名前を、ただの“アレン”として呼んでくれませんか」
一瞬、世界から音が消えたような気がした。
ピアノの音も。
風の音も。
遠くの笑い声も。
何もかもが遠のいて、ただその願いだけが、
ミナミの胸の真ん中へ落ちてくる。
――ただの“アレン”。
その言葉に込められたものの重さを、ミナミは全部は知らない。
知らないけれど、分かることがひとつだけある。
この人はきっと、ずっと何かの名前で呼ばれてきたのだ。
役目とか、立場とか、事情とか、そういうもので縛られた呼ばれ方ばかりを。
だから今、こんなふうに願うのだ。
自分を、自分として呼んでほしいと。
ミナミの胸が、きゅう、と痛んだ。
「……アレン」
声にした途端、その名前がとても大切なもののように思えた。
アレンの瞳が、わずかに見開かれる。
ミナミはもう一度、今度はもっとやわらかく呼んだ。
「アレン」
その響きは、夜の庭にそっと溶けていく。
アレンは、まるでその一音一音を逃さないように、静かに目を閉じた。
ミナミは、ためらいながら手を伸ばす。
彼の仮面に、そっと触れた。
月に照らされた肌は少し冷たくて、その冷たさがかえって胸を締めつけた。
「アレン」
三度目に呼ぶと、彼の睫毛が震えた。
ミナミは慈しむように、やさしく仮面を剥がした。
「今夜だけじゃなくても」
そこまで言いかけて、でも言葉を止めた。
未来を約束できるほど、自分は彼のことを知らない。
軽々しく縋っていい相手でもないのだろう。
だから代わりに、今この瞬間に持てるすべてを込めて、もう一度だけ呼ぶ。
「アレン」
それだけでよかった。
アレンは、ほんの少しだけ顔を傾け、ミナミの仮面を外した。
その仕草は、あまりにも静かで、あまりにも切なくて。
ミナミの胸は、どうしようもなくいっぱいになる。
「……ありがとうございます」
アレンがそう言った時、声は少し掠れていた。
けれどその表情は、さっきまでよりずっとやわらかかった。
張りつめていたものがほどけていくのが、目に見えるようだった。
ミナミは小さく首を振る。
「お礼を言われるようなことではありません」
「いえ」
アレンは目を細める。
「僕にとっては……たぶん、ずっと忘れられないことです」
その言葉に、ミナミの胸の奥がまた熱を持つ。
最初で最後になるかもしれない。
そんな予感が、月光みたいに静かに降りてくる。
だからこそ、今だけは。
ミナミは彼の名前を、何度も何度も呼んだ。
アレン。
アレン、と。
ただひとりの、彼として。
仮面を外したあとのアレンの顔を、ミナミはまだ見つめていた。
月光の下にさらされた素顔は、先ほどまでよりもずっと幼く、ずっと無防備に見える。
それなのに、瞳の奥には消えない疲れと、たやすく触れてはいけない影が残っていた。
アレンもまた、ミナミを見ていた。
仮面越しでは隠されていた睫毛の震えも、頬の淡い紅も、今は何ひとつ隠すものがない。
素顔で見つめ合う、それだけのことが、どうしてこんなにも胸を満たすのだろうと、ミナミは思う。
言葉はいらなかった。
名前を呼ぶことも、手に触れることも、今はもう十分すぎるほど深く、互いを近くしていた。
「額…どうしたの?怪我をしているの?」
「あ…これは…」
――このまま、時が止まってしまえばいいのに。
そう願った瞬間だった。
「アレーーーン!!」
庭園の奥から、切羽詰まった大声が響いた。
ミナミの肩がびくりと揺れる。
続いて、砂利を踏む足音。
ひとつではない。
もう一人、いや、二人分。
アレンの表情が一変した。
「……っ」
夢から叩き起こされたみたいに、彼ははっと息を呑む。
その顔から、一瞬前までの静かな安堵が引いていく。
現実だ。
自分探しの旅。
追われる身。
自分の中に潜むもの。
そして、ここに長くいてはいけない理由。
全部が、たった一声で戻ってきてしまったのだ。
「アレン?」
ミナミが呼ぶ。
けれど彼は、今度はすぐに答えられなかった。
数歩ぶんだけ、距離を取る。
手のぬくもりが、急に遠くなる。
「……すみません」
アレンは掠れた声で言った。
「僕、」
続きを言おうとして、でも飲み込む。
謝るべきなのか。
礼を言うべきなのか。
それとも、何も言わずに去るべきなのか。
たぶん彼自身にも分からないのだろう。
ただ、その灰色の瞳に滲んだ焦燥だけが、今の彼のすべてを物語っていた。
ミナミはその顔を見て、悟った。
ああ、この人は行ってしまうのだ、と。
引き止めてはいけない。
引き止めたところで、きっと困らせるだけだ。
それでも、何かひとつだけでも、この人の手に残したい。
ミナミは迷わなかった。
「待って」
アレンが目を上げる。
その前で、ミナミは自分の髪に手を伸ばした。
今夜のために結い上げられた豊かな髪を飾っていた、小さな宝石付きの髪飾り。
高価な細工が施された、令嬢としての装いの一部。
それを、ためらいなく引き抜く。
「ミナミさん?」
「これを」
アレンが何か言うより早く、ミナミは彼の手を取った。
驚いたように開かれかけた指を、半ば無理やりこじ開ける。
その掌の上に、冷たい宝石の感触を押し込んだ。
「旅銀にしてください」
アレンの目が見開かれる。
「そんな、できません」
「できます」
きっぱりと、ミナミは言った。
その声はもう、舞踏会の最中の夢見る令嬢のものではなかった。
高貴な家に生まれ、施されるだけではなく、何かを与えることを教えられてきた娘の声音だった。
「あなたがこれからどこへ行くのか、わたくしには分かりません。でも」
ミナミは、彼の手を包み込むようにして、髪飾りを握らせる。
「少しでも、あなたの行く先が健やかであるように」
その言葉に、アレンは何も返せない。
こんなふうに、何かを託されたことがあっただろうか。
ただ哀れまれるのでもなく、ただ憐れまれるのでもなく。
彼がこれから先も生きることを当たり前のように願って、こうして差し出されるものが。
「……僕は」
ようやく出た声は、ひどく弱かった。
「僕は、あなたに何も返せません」
「返さなくていいんです」
ミナミは微笑んだ。
少しだけ、泣きそうな顔で。
「生きていてくだされば、それで」
その瞬間、アレンの胸のどこかが、静かに痛んだ。
彼はゆっくりと指を閉じる。
髪飾りを包む。
そして、もう片方の手には、自分が外したミナミの仮面を握りしめた。
仮面と髪飾り。
今夜の夢の名残みたいな、その二つを。
庭園の奥から、また声がした。
「アレン!! どこですか!!」
今度は、少し近い。
もう、本当に行かなくてはならない。
アレンはミナミを見た。
まっすぐに。
今度は逃げずに、その顔をしっかりと目に焼きつけるみたいに。
「……必ず」
低い声だった。
「必ず、生きます」
それは約束だった。
甘い囁きではなく、飾った言葉でもなく。
ただ、この夜に出会ったたった一人の令嬢へ捧げる、彼なりの誓いだった。
ミナミは小さく頷いた。
「はい」
それ以上は言わない。
言えば、きっと何かが壊れてしまう気がした。
アレンは一度だけ目を細めた。
それが笑ったのか、泣きそうだったのか、ミナミには分からない。
次の瞬間には、彼の身体は東屋の影へ溶けるように退いていた。
夜の庭。
月の光。
薔薇の香り。
そのどれにも馴染まないまま、それでも今夜だけ確かにここにいた銀髪の青年は、静かに闇へ消えていく。
ミナミはその背を、見えなくなるまで見送った。
手のひらには彼が付けていた仮面。
そして胸の奥に残ったぬくもりは、なかなか消えなかった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
夜の路地裏は、舞踏会の華やかさとは別世界だった。
石畳は冷え、灯りは少なく、さっきまでの音楽も笑い声も、ここには届かない。
その薄暗がりの中で、ようやくジョニーとリンクに追いついたアレンは、短く息をついた。
「アレン! どこ行ってたんですかあ!」
ジョニーが半泣きで駆け寄ってくる。
「心配したんですよ!? もう、ほんとに!」
「……すみません」
「本当に反省してます!?」
「してます」
「顔がちょっと違いますよ!? 何かあった顔ですよね!?」
そこへ、リンクの視線がすっと落ちた。
アレンの手元。
固く握られたその中から、わずかに宝石のきらめきが覗いている。
「ウォーカー」
「はい?」
「それは何です」
アレンが一瞬だけ固まる。
リンクは容赦がない。
「まさか、盗ん――」
「盗んでません!!」
即答だった。
ジョニーがびくっとする。
「えっ、ち、違うの?」
「違います!」
「でもすごく高そうだよ!?」
「もうジョニーまで!違いますって!」
「何が“違う”のです」
「その……!」
アレンは一瞬、言葉に詰まった。
説明しようとすればするほど、今夜のことが壊れてしまいそうだった。
あの静かなテラスも。
月の光も。
やさしい声で呼ばれた自分の名前も。
だから結局、何も詳しくは言えなかった。
ただ、手の中の髪飾りをそっと見下ろす。
月明かりの代わりに、路地裏の乏しい灯りを受けて、それは小さく光っていた。
高価な宝石。
けれど、彼にとって大事なのは値打ちではない。
自分のために。
生きてほしいと願って。
あの人が、あの手で握らせてくれたこと。
それがすべてだった。
アレンの表情が、ほんの少しだけやわらぐ。
「……これは」
静かに言う。
「僕の宝物です」
ジョニーがぱちぱちと瞬きをし、リンクはその横顔をじっと見た。
何があったのかまでは聞かない。
聞けない何かがあるのだと、その一言で十分だった。
夜の路地裏を、冷たい風が吹き抜ける。
けれどアレンの掌の中だけは、まだほんのりと温かかった。
まるで、あの令嬢の優しい声が、そこに残っているみたいに。
… 𝗍𝗁𝖾 𝖾𝗇𝖽 2026/05/17