毒より甘く
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『毒より甘く』
王宮舞踏会の会場、その重厚な大扉が開く直前。
儀典官が杖を整える音が、やけに大きく響く。
喉を鳴らす、わずかな静寂。
シャンデリアの光が、磨き上げられた床に星みたいに散っている。
その中心で――私は、彼を見た。
神田ユウ。
苛立ちを隠そうともせず、ただ腕組みをして突っ立っている。
無表情。けれど、分かる。
要は――不機嫌。
仕立ての良い漆黒の正装。
普段の団服とは違う、やけに整いすぎた姿。
……なのに、その奥にある無骨さだけは、隠しきれていない。
それでも私は……そんな彼にときめいてしまう。悔しいほどに。
私は扇子をパサリと閉じて、微笑んだ。
「……ユウ。手、早く」
それは命令。
毒みたいに、彼へ落とす。
ぴくり、と彼の眉間が動く。
「……チッ」
聞こえるか聞こえないかの舌打ち。
それでも彼は、抗うこともなく――
ゆっくりと、その手を差し出した。
エスコートのための手。
屈辱と、忠誠と、そのどちらも、混ざったような。
私はそこに自分の指を重ねて、わざと距離を詰める。
「……青酸カリを盛られたいのかしら? それとも、毒物注射?」
小さく囁くと、返ってきたのは淡々とした声。
「好きにしろ。…ここで何か起きれば…、お前が真っ先に疑われるだけだ」
……ほんと、可愛くない。
私はむっとして、ヒールで彼の足を踏んだ。
ギロリ、と睨まれる。
その瞬間――
「――フォレスト伯爵家、ミナミ令嬢。ならびに、護衛騎士・ユウ殿、入場でございます!!」
扉が開いた。
光が、なだれ込む。
視線。
視線。
視線。
――全部、私たちに向く。
私はユウの手を、逃がさないように掴んだまま、歩き出す。
優雅に。堂々と。
(ふふ……この『完璧な騎士』を借りるために、パパがいくら積んだことか……)
ユウが口元を最小限に動かして正面を見たままボソッと言った。
「·····いつから俺はお前の騎士になったんだ」
私も周囲にバレないよう、微笑んだ表情のままボソリと返す。
「7年前からよ」
その瞬間。
ふっと、思い出す。
七年前。
私が、十二だった頃。
父が連れてきた、ティエドール元帥と――
その隣にいた、ひどく不機嫌な少年。
死んだ魚みたいな目。
誰にも興味がないみたいな顔。
――ユウだった。
見た瞬間。
胸の奥に、何かが落ちた。
目が離せない。
息が、浅くなる。
理由なんて、分からないまま。
ただ、思った。
「パパ、私あれが欲しい」
……今思えば、最悪の言い方。
当然、叱られた。
「ミナミ。人は物ではない。それに指を指すなんて」
私はすぐに言い直した。
「……ごめんなさい」
でも、目は逸らさない。
「言い方が悪かったわ。本当はこう言いたかったの。来月の誕生日パーティー、あの方にエスコートしていただきたいの」
――それからずっと。
私の大事な夜には、必ず彼がいた。
どれだけ嫌な顔をされても。
私は――この人を、隣に立たせてきた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
王族の挨拶と、最初の舞踏が終わる。
次々と身分の高い人達から踊っていく。
――次は、私たち。
音楽が切り替わる、その直前に、私は隣を見上げた。
「……ユウ」
声を落とす。
「間違えたら承知しないわよ」
これはただの警告じゃない。
ステップや所作はもちろん。
特に“態度”。
王族の前で、ヘマなんて許されない。
「……チッ」
また舌打ち。
でも、次の瞬間。
彼の手が、当然みたいに私の腰に回る。
ぐっと引き寄せられる。
「……面倒くせぇ注文つけやがって」
吐き捨てる声。
なのに――
その顔は、優しい。
音楽が、静かに満ちる。
一歩。
床を踏み出した瞬間、彼の手がわずかに強くなる。
――逃がさない、というより。
――外から見て隙がないように整える力。
導かれるまま、私は回る。
ドレスの裾が円を描き、視線が一斉に集まるのが分かる。
私が顎を上げたその時、視界のすぐ上で――
彼が、笑った。
あの、作り物の笑顔。
任務のときだけ見せる、完璧に整えられた表情。
柔らかく、穏やかで、隙がなくて。
まるで――最初から私のために用意されていたみたいな顔。
(……なに、それ)
胸の奥が、きゅっと鳴る。
分かっている。
これは演技。
王族の前で、貴族たちの視線の中で、完璧にこなすための“顔”。
それなのに私はまた彼に恋をしてしまう。
彼の手が、私の背を滑る。
腰を支え、次のステップへ導く。
指先の動きは正確で、迷いがなくて。
……なのに、さっきより少しだけ近い。
「……ほら、令嬢」
低い声が、耳元に落ちる。
「ちゃんと踊れよ」
その声音はいつも通り嫌味でぶっきらぼうなのに、笑っている口元との違和感が、余計におかしい。
私は小さく笑った。
「ユウ、やるじゃない」
「……任務だからな」
即答。
でも――
その手は離れない。
むしろ、さっきより強く引き寄せられている。
(……ふふ)
私は彼の胸元に指を添えた。
「じゃあ最後まで頼むわね。――私の騎士」
ほんの一瞬。
彼の笑顔の奥が、わずかに揺れた気がした。
けれど次の瞬間には、また完璧に整えられる。
観客は誰も気づかない。
私は、少しだけ満足して目を細めた。
この男が、こんな顔を見せるのは、今、この瞬間。
私の隣にいるときだけ。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
あの頃の彼は――本当に、ひどかった。
無言。
何を話しかけても、まるでこちらの存在そのものが見えていないかのような、虚無の瞳。
「ユウ、ねえユウ」
何度呼んでも、彼は振り向きもしない。
そのたびに、後ろから穏やかで呆れた声が飛んできた。
「こらユーくん! 無視はいけないよ」
ティエドール元帥。あの人に窘められて、ようやく返ってくるのは――。
「……チッ」
短い舌打ち。
(……あ、意思疎通できるんだ)
その時、私は初めて知った。
この無愛想な少年が、ちゃんと“人間の言葉”を持っていることを。
私は迷わず、その手を掴んだ。
逃げる前に、捕まえる。
それが大事だと、本能で分かっていたから。
「俺に構うな!」
乱暴に振り払われた衝撃で、手の甲が赤く腫れる。
痛い。
でも――
(……面白い)
その時、私の直感は告げていた。この子は、私のものになる。
……あれから、どれほどの毒を飲ませたかしら。
最初は、飲み物にほんの少しの痺れ薬を。
次は、暴れる彼を大人しくさせるための睡眠薬を。
たまに、青酸カリを、1滴。
ふふ、失礼。
死なない程度の量を守りながら、
彼の身体に――“私に逆らえない感覚”を、少しずつ刻み込んでいった
その結果、彼は学習した。
今ではもう、我が家から出されるものは、ペットに毒味をさせてからでなければ口にしない。
青酸カリ入りのサンドイッチをクランチ(我が家のペット)に食べさせようとした時は肝を冷やしたわ。
あれから劇物を使うのはやめたわ。
(それを思えば…ユウ…成長しましたわね)
少しだけ寂しいけれど、それも立派な教育の成果。
それからは、中身を詰め込んだ。
教養、所作、礼儀、ダンス、会話――。
嫌がる彼を引きずり回し、完璧な私の騎士へと磨き上げた。
あの頃の野犬が、今や漆黒の正装に身を包み、全貴族の羨望を浴びる極上の男。
(……ふふ、素晴らしい出来栄えだわ)
恍惚とした満足感に浸り、私はそっと目を細める。
その時だった。
「ミナミ。少しいいかい?」
聞き慣れた声。顔を上げると、父がある書類を抱えて立っていた。
いつもより、少しだけ真剣な……いえ、一切の迷いを捨てた当主の顔をした父の表情。
その異様な空気に、私はわずかに首を傾げた。
「パパ、そんなに怖い顔をしてどうしたの? また新しい毒草の輸入が止まったのかしら」
私が扇子で口元を隠して問うと、父は手元の書類をトントンと整え、低い声で囁いた。
「……“毒”ではなくて、“薬”だね」
父は苦笑いをもらした。娘を諭す時の、あのいつもの柔らかな声音。
私はわざとらしく肩をすくめてみせた。
「同じようなものでしょう? 用量を間違えれば、毒になるわ」
「……そうだね」
父はそれ以上、私の屁理屈を否定はしなかった。
ただ、手元の書類を指先で整える乾いた音だけが、やけに静かな室内に響く。
沈黙·····。
その空白が、いつもよりわずかに長いことに気づき、私の背筋に薄い寒気が走る。
父がふいに、視線を落としたまま問いかけた。
「ミナミ。来月の誕生日で、いくつになる?」
「……二十歳よ」
「そう、二十歳か」
父は噛みしめるように、その数字を繰り返した。
「親友のキャシーやサンドラは?」
「……? 二十歳よ。パパ、急にどうしたの?」
答えながら、私はわずかに眉を寄せた。話の着地点が見えない。
父は顔を上げず、淡々と言葉を重ねる。
「彼女たちは、今どこにいる?」
「えっと……」
言葉が、喉の奥で凍りついた。
その瞬間――ああ、と。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
「……それぞれ、嫁ぎ先に」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さく、震えていた。
父は深く頷く。
反論も慰めも口にせず、ただ一枚の書類を、机を滑らせるようにしてこちらへ差し出した。
無駄のない、あまりに事務的な動作。
躊躇いの欠片もないその紙を、私は受け取った。
指先に残る、紙の重みがやけに生々しい。
目を落とすと、そこには――『釣書(お見合い)』。
形式上はそう記されている。
けれど、そこに並ぶ条件は、選択の余地など微塵も感じさせないほどに完璧だった。
家名、財産、後ろ盾。
我が伯爵家が次に繋がるための、冷徹なまでの最適解。
(……ああ、そう。そういうこと)
理解する。これは、私への確認ではない。
当主としての決定だ。
私は震える指先でその紙を握り込み、ゆっくりと顔を上げた。
「……パパ?」
その一言に、どれだけの拒絶と、あるいは助けを求める縋り付きが含まれていたか。自分でも分からなかった。
父は、静かに私を見据えた。
そこにあるのは、先ほどまでの優しい父の目ではない。
一族を背負い、覚悟を決めた、冷徹な当主の顔。
「……遅いくらいだ」
低い声。揺るぎない響き。
「行き遅れないように、彼と婚約しなさい」
言い切る。一切の余白を残さない、断罪のような通告。
「そろそろ現実を見て、跡を継いでくれないか?」
――“お願い”の形をしているのに、逃げ道なんて最初から用意されていない呪縛の言葉。
私は、何も言えなかった。
ただ、手の中の紙が、私の指の力で少しだけ、無惨に皺になる。
「……ユウは」
反射的に、その名前が口からこぼれた。
完璧に仕立て上げた、私の騎士。
金で買った、私の所有物。
父は無慈悲に、その淡い期待を切り捨てた。
「彼はあくまで『教団からの借り物』だ、ミナミ。……本物の貴族になれるわけではない」
父の言葉が、静かに部屋の空気に溶けていく。
それは事実を羅列しただけの、乾いた声ではない。
そこには、痛いほどの慈しみが混ざっていた。
“本物の貴族になれるわけではない”
そんなこと、分かっている。
最初にあの子を欲しいと強請ったあの日、パパが困ったように笑いながらも、私のために教団へ多額の寄付を積み上げてくれた時から。
私の我儘を叶えるために、パパがどれほど裏で手を尽くして騎士という居場所を彼に与えてきたか、知っていたはずなのに。
「……それが、なに?」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
震えも、怒りも、表には出ない。ただ、喉の奥がひどく熱い。
私は、ゆっくりと皺の寄った紙を机の上に置いた。
指先が、ほんの少しだけ白くなる。
「……ユウは、ユウよ」
視線を落としたまま、独り言のように続ける。
「どこに生まれたとか、何を背負ってるとか……そんなもの、どうでもいい。パパだって、私のために彼を連れてきてくれたじゃない」
一度、息を吸う。上手く空気が入ってこない。
「……私が、あの人を選んだの。私が、ユウを今の姿に仕立て上げたのよ」
顔を上げて父をまっすぐに見つめる。
「それじゃ、ダメなの? パパが認めてくれたから、今があるんでしょう?」
ほんの一瞬、沈黙。
父の瞳が、切なげに、わずかに揺れた。
これまでの二十年間、一度も私の願いを拒まなかった優しい父の目が、今はひどく潤んでいるように見えた。
「……ダメなんだ、ミナミ」
短く、絞り出すような声。
「お前は、フォレスト伯爵家を継ぐ人間だ。……私にはお前しか子供は居ない」
「……知ってるわよ。分かってるわ」
食い気味に返す。
パパが私をどれだけ大切に、この家の跡取りとして誇り高く育ててくれたか。
「だから、何? 私は逃げたりしない。この家を背負う覚悟だってあるわ。……ただ、彼が隣にいてくれればいいだけなのよ」
一歩、踏み出す。
ドレスの裾が床を擦り、乾いた音を立てる。
父は、痛みを堪えるように目を伏せた。
「……ミナミ。お前が当主として立ち、この家を護っていくというのなら……なおさら、彼ではお前を支えきれない。……お前が彼を想う気持ち以上に、私はお前の未来が心配なんだ」
「パパ……。……ユウでは、ダメな理由を言って。……納得させて」
絞り出すように、やっとそれだけを言った。
父は、少しだけ目を細める。
そして、愛娘の頬に触れるかのような、優しく、けれど絶望的に重い口調で、本当の理由を語り始めた。
「理由か」
父は、ほんのわずかに視線を落とした。
その仕草一つに、これまで隠し続けてきた重すぎる真実が滲む。
「……それは、お前が“知らない”ことだよ」
静かな声。
けれど、その一言が、やけに重く私の心臓に圧し掛かる。
「彼が、どれほどの戦場を潜ってきたのか」
ゆっくりと、言葉が一つずつ、冷たい雫のように落ちてくる。
「どれほどの数の敵を斬り、どれほどの凄惨な死線を越えてきたのか」
私は、思わず息を呑んだ。
「お前の知らない場所で」
父の視線が、逃げ道を塞ぐように真っ直ぐに私を射抜く。
「お前の知らない所で、どれだけの血塗られた任務を背負っているのか。……ミナミ、お前は本当に彼を見ていると言い切れるかい?」
「…」
「彼はな、ミナミ」
父の声が、一段と低く沈み込んだ。
「……“一人で戦場を制圧する”とまで言われている男だ。教団にとっては、代えの利かない最高戦力の一つなのだよ」
「……っ」
「味方にすればこれ以上ない頼もしさだろう。だが――」
一拍。
世界が止まったかのような静寂。
「その魂は、あまりに“戦い”という深淵に寄りすぎている」
静かに、そして残酷に言い切る。
「お前の隣で、穏やかに。……家族として、共に老いていくための生き方ではないんだよ」
その瞬間。
頭の奥で、鈍い衝撃音がした。
まるで、見えない金槌で、自分の築き上げてきた世界を叩き壊されたみたいに。
(……知らない)
私は――今になって、ようやく気づいてしまった。
(私、ユウのこと……)
何も、知らない。
戦場が、どれほど泥にまみれ、絶望に満ちた場所なのか。
彼が、どんな冷徹な顔で、刀を振るうのか。
どんな速さで駆け、どれほどの敵を瞬時に斬り伏せているのか。
その背中に、何を背負い、何を見て、孤独に耐えているのか。
(……何ひとつ、見ていなかった)
思い返せば、心当たりはいくらでもあった。
何度か、傷だらけでこの館に現れたことがあった。
高価な絨毯を汚すほどに、濃厚な血の匂いを纏ったまま。
無言で、幽鬼のように立ち尽くしていた、あの姿。
それなのに、私は――。
(……考えたことも、なかった)
ただ、自分の隣に立たせることばかりを執拗に求め、その“外側”にある、彼の真実の世界を。
彼が本当に生きている場所を、一度も、見ようとしなかった。
私は彼を教育していたのではない。
ただ、彼の抱える巨大な闇から目を逸らし、自分に都合の良い騎士の皮を被せていただけだったのだ。
手の中の皺になった釣書が、今度は私の罪悪感の重みで、より一層深く、醜く歪んだ。
「……わかりました。ただ、少しだけ時間をください」
声に出した瞬間、自分でも驚くほど冷静だった。
胸の中で暴れていた感情が、嘘のように凪いでいく。
父はしばらく私を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「いいだろう」
落ち着いた、静かな声だった。
「ちょうど明後日、彼が来る。その時に気持ちの整理をつけなさい」
――彼が来る。
その一言で、胸がざわついた。
嬉しいはずなのに、今はその感情に濁りが混じっている。
「……ええ」
それだけ返して、私は視線を落とした。
明後日。公爵家に招かれた晩餐会。
社交の場としては申し分ない、完璧な夜だ。食後にはダンスもあるだろう。
――きっと、また。
彼は完璧な騎士を演じ、私の手を取る。
戦場で返り血を浴びていることなど微塵も感じさせない、涼やかな顔をして。
何も変わっていないふりをして。
(……違うわ)
私は、拳を強く握りしめた。
変わっていなかったのは、私の方だ。
あの人のことを何も知らないまま、知ろうともしないまま、ただ隣に置いて満足していた。
「……ユウ」
小さく、その名を呟く。
胸の奥が、じくじくと痛む。
あの人は、どんな顔をして戦っているのだろう。
どんな目で、敵を倒しているのだろう。
そして、どんな思いで私の前に立っているのだろう。
(……どうしよう)
胸の奥で、言葉にならない何かが揺れる。
苦しいわけじゃない。
でも、息がうまく吸えない。
さっきまで当たり前だったものが、全部、少しずつ形を変えていく。
ユウのこと、何も知らなかった。
知らなくてもいいと思っていた。
隣にいてくれれば、それでよかったから。
それなのに。
知りたい。
小さく、そう思ってしまう。
あの人が見ているものを。
あの人が立っている場所を。
怖いのに。
知らないままでいる方が、きっと楽なのに。
(……私)
ふと、思考が止まる。
(ユウの居ない未来なんて……)
喉が、ひどく乾いた。
(想像したこと、なかった)
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
当たり前だった。
お金で買った時間だけど、隣にいた。
どれだけ嫌な顔をされても、どれだけ舌打ちをされても。
大事な時には必ず、そこにいた。
だから、……いなくなる、なんて、考えたこともなかった。
「……ユウ」
声に出したつもりはなかったのに、唇がかすかに動いた。
名前を呼ぶだけで、胸が締め付けられる。
本当のユウの顔。
……わからない。
今さらになって、そんなことに気づいてしまうなんて。
私は、そっと拳を握りしめた。
指先が、少し冷たい。
「……ねえ」
誰に向けたわけでもない、小さな声。
「……私、どうしたらいいの」
答えなんて、どこにもない。
それでも、ほんの少しだけ顔を上げる。
……会いたい。
ただ、それだけは確かだった。
理由も、覚悟も、何も追いついていないのに。
「……ユウ」
今度は、はっきりと。
けれど、誰にも聞こえないように。
「……ちゃんと、見せて」
その言葉は、強さじゃない。
願いだった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
公爵家の晩餐会は、息を呑むほどに整っていた。
高い天井に、贅を尽くした燭台の灯り。
磨き上げられた銀食器が、規則正しく並び、静かに光を返している。
耳に入る笑い声も、交わされる会話も、すべてが上品という規律に調整された空間。
フォレスト伯爵家の次期当主として、私が最も愛し、呼吸しやすかったはずの世界。
なのに。
(……息が詰まる)
私はシャンパングラスの細い脚に指先を添えたまま、わずかに視線を落とした。
いつもなら、この甘美な虚飾は嫌いじゃない。
むしろ、自分がその中心にいることに居心地の良さすら感じていたはずなのに。
今日は、そのすべてがひどく遠い。
(……どうして)
理由は、分かっている。パパに突きつけられた、〝 結婚〟と彼の〝 真実〟という毒が、私の中で回り始めているから。
「……おい」
低く、私の鼓膜だけを震わせる声。
すぐ隣のユウが顔を僅かに私に寄せ、囁いた。
「今日はやけに静かじゃねぇか」
私は、ぴくりと肩を揺らした。
ゆっくりと顔を上げる。
そこには、いつも通りのユウがいた。
父が用意したオートクチュールの隙のない漆黒の正装に身を包み、何事もない顔でこちらを見下ろしている。
ただ、その切れ長の視線が、いつもより鋭く私を射抜いていた。
(……気づいて·····る?)
わずかな動揺を悟られ、一瞬、言葉を失った。
けれど、私はすぐに淑女の笑みを貼り付ける。
「なに? 私だって、静かに食事くらいするわよ。……お行儀が良くて驚いたかしら?」
「……ふん」
鼻で笑われる。ただそれだけ。
なのに――胸の奥が、嫌な音を立ててざわついた。
彼の手元に、吸い寄せられるように視線が落ちる。
重厚な銀のナイフとフォーク。
音を立てず、無駄なく、そして冷徹なまでに正確に動く。
その一つひとつの所作が、あまりにも整いすぎていた。
あの頃、反吐が出ると言いたげな彼に、私が何度も叩き込んだ動き。
「騎士らしくしなさい」と、無理やり背筋を伸ばさせた日々。
あんなに嫌がっていたくせに。
何度も舌打ちして、私を睨みつけていたくせに。
彼は、ちゃんと身につけていた。私の望んだ通り、完璧な〝 私の騎士〟を演じてみせている。
(……ちゃんと、できてる。私の教えた通りに)
それだけのことなのに。誇らしいはずのことなのに。
なぜか、心臓を直接掴まれたような痛みが走る。
この完璧な所作の裏で、彼はエクソシストとして刀を振るい、私の知らない血の雨を降らせている。
私が教えた〝騎士の礼儀〟は、彼にとって、本性を隠すためのただの便利な薄皮に過ぎないのではないか。
「……なんだよ」
ぼそりと、低い声が落ちる。
私ははっとして、逃げるように視線を上げた。
「別に」
「見てただろ」
「見てないわよ」
即答。ほんの少しだけ、声が上ずったかもしれない。
ユウの眉が、わずかに、探るように動く。
「……嘘つけ」
「うるさいわね。食事に集中なさい」
言い返しながら、私はグラスを口に運ぶ。
冷たいはずのクリスタルガラスが、指先に妙な熱を持って伝わった。
(……どうして)
この前までなら。“完璧に仕上がってるわ、私の最高傑作”って、優越感に浸りながら笑えたはずなのに。
今は違う。
胸の奥に、棘のような違和感が引っかかる。
この手。この所作。この男。
(……私の知らない時間が、ある。私が触れられない、彼の場所がある)
当たり前のことなのに。今さら、こんなふうに彼を遠いと思うなんて。
これまでは私が彼を飼い慣らしていると思っていた。
でも、本当は。
「……お前」
低く、逃げ場を塞ぐように呼ばれる。
顔を上げると、神田の黒い瞳が、まっすぐにこちらを捉えていた。
その瞳の奥には、教えたはずのない、底知れない静寂が宿っている。
「なんかあったか」
短い言葉。ぶっきらぼうで、素っ気ない。
なのに、私の心の奥底を無理やりこじ開けるような、暴力的なまでの真っ直ぐさ。
「……別に」
反射的に、拒絶を返す。
でも。声が、自分でも情けないほどに掠れた。
神田の視線が、わずかに細くなる。獲物を追い詰める、野性の観察眼。
「……ほんとかよ」
「ほんとよ」
言い切る。言い切ったはずなのに。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
(……言えない。パパからあなたの地獄を聞いたなんて、今はまだ)
何を、どう伝えればいいのか。
自分でも整理がつかない。
ただ。
「……ユウ」
気づけば、縋るようにその名前を呼んでいた。
彼が、わずかに目を丸め、それから深い沈黙を纏う。
「なんだ」
私は、少しだけ視線を逸らした。
煌びやかな会場の光が、今はひどく眩しくて疎ましい。
言葉が、続かない。でも。
「……あとで」
震えを抑え、小さく、けれど確かに告げた。
「話があるの。二人きりで」
それだけ。それだけなのに。自分でも分かるくらい、声が揺れていた。
神田は、しばらくの間、無言で私を見つめていた。
やがて。
「……あぁ」
短く、重厚な承諾が返る。
それだけで、もう逃げ場はなくなった。
私はそっと、グラスに残った酒に口をつけた。
味なんて、全く分からなかった。
ただ。この夜が終わる頃には、
きっと、もう。これまでのように彼を所有しているだけの私ではいられない。
そんな予感だけが、静かに、けれど確実に、私の胸に広がっていた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
晩餐会は、何事もなかったかのように幕を閉じた。
交わされる形式的な微笑。
空疎な社交辞令。
すべてがいつも通りの、完璧な締めくくり。
「本日は誠に――」
口から出る言葉は、教育の成果通りに淀みない。
けれど、中身がどこにも付いてきていないことを、自分自身が一番よく分かっていた。
「……ミナミ」
隣から、低く、芯に響く声。
名を呼ばれて顔を上げると、ユウがいた。
無表情だが、その視線だけが抜き身の刀のように鋭い。
「いつまで頭を下げている。……行くぞ」
私は、わずかに遅れて微笑を作り直した。
ここはまだ公爵邸。
最後の一礼を済ませ、ゆっくりと顔を上げる。
視界の端には、煌びやかなドレスと温かな光の中にまどろむ貴族たち。
(……遠いわ)
数刻前までその輪の中にいたはずなのに、今はまるで別世界の幻影を見ているような心地だった。
「帰るぞ」
短く言われ、腕を取られる。
淀みのないエスコート。
何の違和感もない、私が叩き込んだ完璧な動き。けれど――。
(……近い)
この距離は初めてではないのに、今日は一段と近いように感じる。
触れている部分から、彼の体温が以前よりも強く、生々しく伝わってきて、この温もりから離れたくなくて、私は彼の腕に強く絡みついた。
何も言わないまま、私たちは会場を後にした。
背後で閉まった重厚な扉の音が、終わりの合図のように大きく響いた。
外は、深い夜だった。
「……寒いか?」
ぼそりと落ちる声に、私は首を振る。
「平気よ」
それが本心かどうかも、自分では分からない。
待機していた馬車の前で、御者が恭しく頭を下げる。差し出された手。
けれどそれより早く、ユウの手が私の腰に回った。
「っ……」
軽く持ち上げられ、浮遊感に息が詰まる。
「……段差、気をつけろ」
当たり前のような声。
そのまま私を座席へと促す。
何もなかったかのように。
「……ありがとう」
「……礼はいらねぇ」
けれど、手はすぐには離れなかった。
私が座るのを確かめるように一瞬だけ残った熱が、ようやく遠ざかる。
続いて彼も乗り込み、扉が閉まる。
外の喧騒が遮断され、一気に静寂が満ちた。
馬車が規則的なリズムで揺れ始める。
(……遠い)
座る位置が離れ、物理的な距離以上に、得体の知れない壁が二人の間に横たわっている。
いつもなら私が一方的に喋っているはずなのに、今は言葉が喉の奥で固まって出てこない。
「……おい」
低い声。心臓がびくりと跳ねる。
「体調でも悪いのか」
「……違うわよ」
「お前が静かだと調子が狂う」
タイを緩めながら、間を置かずに返される。
逃がさない、と言わんばかりの圧力。
私は視線を逸らした。
答えたくない。
けれど、言わなければ。
「……ユウは、私のこと、どう思っているの?」
沈黙。
馬車の走行音だけが虚しく流れる。
その中で、ユウが真正面の座席に移動し、私の手首を掴んだ。
「……っ」
驚いて顔を上げると、彼の真っ直ぐな視線に射抜かれた。
「お前、本当にどうした。新たな薬の試作でも失敗したのか?」
抑えているが、わずかに荒い声。
「……違うわ」
私は首を横に振る。
そして、震える唇を無理やり動かした。
「ユウ……私……あなたの世界が、知りたいの」
ユウが、言葉を失った。
(……言わなければよかったかしら)
胸がぎゅっと締め付けられる。
誤魔化す言葉も浮かばない。
私は、本当の意味で覚悟を口にするしかなかった。
「……私を、教団に攫って」
ようやく、それだけを言った。
声が、自分でも驚くほど脆く揺れる。
ユウの目が、一瞬大きく見開かれ、次の瞬間には冷酷なまでに細められた。
「……出来るわけねぇだろ」
短く、切り捨てるような拒絶。
掴まれていた手が、乱暴に離れる。
馬車は夜の道を進んでいく。
逃げ場のない密室で、言葉にできない重苦しい何かを抱えたまま、私はそっと目を伏せた。
(……ユウ)
名前だけが胸の奥で木霊する。
もう、私の心は引き返せない境界線を越えてしまったことだけは、痛いほど分かっていた。
馬車が、屋敷の正面玄関前で静かに止まった。
揺れがやみ、夜の静寂が戻ってくる。
けれど、その静けさは少しも穏やかじゃない。
息をするたびに、胸の奥がひりつく。
御者が扉を開けるより早く、ユウは自分で扉を押し開けた。
そのまま、一人で先に降りる。
こちらを振り返りもしない。
「……ユウ」
思わず呼んでも、返事はない。
黒い正装の上着を乱暴に脱ぎ捨てるみたいに肩から外しながら、彼はそのまま屋敷へ向かって歩き出す。
『任務は終わった。
もう、伯爵令嬢を丁重に扱う必要なんてない』
そんなふうに背中で言われた気がして、私は唇を噛んだ。
馬車の段差に気をつけながら、裾を押さえて降りる。
こんな時でも転べない自分が、少しだけ嫌になる。
けれど、そんなことを考えている暇はない。
遠ざかっていく背中。
このまま、行かせたら。
きっと本当に終わってしまう。
「……ユウ!」
夜気を裂くように、声が飛び出した。
彼の足が止まる。
数歩先で。
屋敷の灯りが届く境目で、ユウはゆっくりと振り返った。
その横顔は暗くて、表情がよく見えない。
それでも私は、叫ばずにはいられなかった。
「わたし、結婚しちゃうんだよ!?」
喉が、焼けるように痛い。
「ユウ以外の人と!」
言葉にした瞬間、自分の胸が抉られるみたいだった。
でも、止まれない。
「それでもいいの!?」
夜が、しんと静まる。
風さえ止まったみたいな沈黙。
そして、返ってきたのは――
「……俺に関係ねぇよ」
低く、乾いた声。
あまりにも短くて、あまりにも冷たい。
その一言で、胸の奥の何かが、音を立ててひび割れた。
「……っ」
呼吸がうまくできない。
涙なんて、こんなところで見せたくないのに。
「……ユウの、バカ!」
絞り出すみたいに叫ぶ。
声が震えているのが、自分でも分かった。
「ユウなんか…シアン化合物の海に溺れちゃえ!」
ひどい言葉。
いつもの私なら、もっと綺麗に、もっと優雅に毒を吐けたはずなのに。
今はそんな余裕なんてなくて、ただ子どもみたいに、傷ついたまま言葉を投げつけることしかできない。
ユウは動かなかった。
反論もしない。
怒りもしない。
ただ、そこに立ち尽くしたまま、こちらを見ている。
雲が切れた月明かりの下で浮かんだその顔は――
何もかもを、諦めたような顔だった。
怒っているわけでもない。
呆れているわけでもない。
ただ、深く、暗く、沈んでいる。
それが、たまらなく苦しかった。
まるでその顔ひとつで、
『どうしようもないんだ』
と、言われているみたいで。
私は、その場にしゃがみこんで子供のように泣いた。
胸の奥で、さっきの言葉が何度も反響する。
結婚しちゃうんだよ。
ユウ以外の人と。
それでもいいの。
――俺に関係ねぇよ。
夜の冷たさが、ようやく肌に追いついてくる。
それなのに、心の中だけがひどく熱く、痛かった。
ドレスの裾が夜露を吸って冷たくなるのも構わず、ただ両手で顔を覆う。
涙なんて、こんなところで流したくなかった。
令嬢らしくない。
みっともない。
分かっているのに、止まらなかった。
肩が小さく震える。
嗚咽を飲み込もうとするほど、余計に苦しくなる。
その時だった。
――じゃり。
砂利を踏む、小さな音。
私ははっとして顔を上げた。
涙でぼやけた視界の向こう、ユウが一歩だけ、こちらへ踏み出していた。
「……」
その横顔は暗くて、表情までは見えない。
それでも、その一歩だけで胸が勝手に跳ねる。
来てくれるの?
そう思った次の瞬間。
ユウは、ぴたりと止まった。
そして――
すぐに踵を返した。
何事もなかったみたいに。
最初から振り返ってなどいなかったみたいに。
そのまま館の方へ歩いていってしまう。
「……っ」
伸ばしかけた手が、空を切る。
行かないで。
そう言いたかったのに、声にならなかった。
残ったのは、遠ざかる足音だけ。
私はその場で立ち尽くすこともできず、またゆっくりと俯いた。
ああ、本当に。
終わる時は、こんなにもあっけないのね。
次の日の私の顔は、ひどかった。
鏡に映る自分は、まるで一晩で別人になったみたいだった。
腫れた瞼。
赤い目元。
丁寧に冷やしても、粉で隠しても、泣いた痕跡は消えてくれない。
「……最悪」
小さく呟いても、返ってくるのは青白い顔だけ。
けれど、それでも朝は来る。
当たり前みたいに。
何も待ってくれないまま。
私は支度を整え、朝食の席へ向かった。
長い食卓の向こうに、父が座っている。
いつも通りの、落ち着いた顔。
昨日のことなどなかったみたいに、新聞を畳んで私を見た。
「おはよう、ミナミ」
「……おはようございます、パパ」
声は、思ったより普通に出た。
席に着く。
温かなスープの香りがするのに、少しもお腹は空いていなかった。
父は何も言わず、私の様子を見ていた。
私はナイフとフォークに指を添えたまま、しばらく黙っていた。
けれど、やがて――
「……パパ」
自分の声が、やけに静かに響く。
「先日のお話ですけれど」
父は、わずかに目を細めた。
私は視線を落としたまま、続けた。
「お勧めしてくださった方と……結婚します」
食卓の空気が、ほんの一瞬だけ止まった気がした。
それでも私は、顔を上げない。
上げたら、たぶん全部崩れる。
父はすぐには答えなかった。
ただ、その沈黙の重さだけが、静かに胸へ降り積もる。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
不幸は、待ってはくれない。
ひとつ終わったと思ったら、次を連れてくる。
容赦なく。
息をつく暇も与えずに。
その日の夜――
館は、燃えた。
窓の外を赤く染める光に気づいて飛び起きた時には、もう遅かった。
悲鳴。
怒号。
何かが砕ける音。
焦げた匂い。
そして、空を裂くような、不快な機械音。
あれが·····AKUMA。
「……っ!」
喉がひりつく。
廊下へ飛び出した瞬間、熱風が肌を打った。
壁に飾られていた絵画が燃え落ち、磨き上げられた床に火の粉が散っている。
「お嬢様! こちらへ!」
私の専属メイドが、蒼白な顔で私の腕を掴んだ。
私は頷き、裾をたくし上げて走る。
何度も熱に息を詰まらせながら、どうにか館の外へと飛び出した。
燃え盛る炎が、館ごと空を燃やすように赤く染め上げていた。
「……は、ぁ……っ」
肩で息をする。
生ぬるい夜風の代わりに、焼けた空気が肺を灼く。
「……パパ?」
視線が彷徨う。
見えない。
どこにも。
「パパが、いない……」
胸の奥が、ひゅっと冷える。
さっきまで当たり前にあったはずのものが、音もなく消える感覚。
「パパ!?」
私は思わず一歩、館の方へ踏み出した。
中だ。まだ中にいる。
そう思った瞬間には、もう身体が動いていた。
けれど――
「お嬢様!」
メイドに腕を掴まれる。
「なりません!」
「離して! パパが中にいるのよ!」
「お嬢様!!」
振り払おうとした、その時。
背筋がぞくりと粟立った。
嫌な気配。
空気が、上から歪む。
はっと顔を上げる。
黒い翼。
鈍く光る機械の身体。
夜空を汚す、不吉な輪郭。
AKUMAが、こちらを見ていた。
「……っ」
機械音が、耳障りに鳴る。
砲口のようなものが、ゆっくりと私たちへ向いた。
終わる。
そう思った。
私は反射的にメイドを抱き寄せ、目を閉じた。
次の瞬間――
ドガァァァンッ!!
凄まじい爆音が夜を引き裂いた。
空気そのものが震える。
熱と衝撃が、頬を打つ。
けれど――痛くない。
私は恐る恐る、薄く目を開けた。
黒煙の向こう。
砕け散った火花の中心に、ひとつの影が立っていた。
長い髪。
漆黒の背。
赤い光を受けてなお冷たい横顔。
「……ユウ!?」
喉の奥から、ほとんど悲鳴みたいに名前が飛び出した。
振り向いた彼の顔は、怒りに歪んでいた。
「何してやがる!!」
低く、叩きつけるような声。
「早く逃げろ!」
「どうしてここに!? なんで……!」
叫ぶ私に、彼は舌打ち混じりに吐き捨てた。
「っ……用があったんだよ。……いいから!」
その鋭い視線が、今度は私の隣のメイドへ向く。
「早くこいつを連れていけ!」
「待って!」
私は彼の言葉を遮るように叫んだ。
「パパが! パパがまだ中にいるの!」
その瞬間、神田さんの眉が険しく寄る。
「……チッ!」
吐き捨てるような舌打ち。
けれど次の瞬間には、もう動いていた。
彼のイノセンスが、赤い炎の中でひときわ鋭く光る。
空中で旋回していたAKUMAが二体、三体。
機械音を撒き散らしながら一斉に降下してくる。
「下がってろ!!」
ユウが地を蹴った。
速い。
目で追う暇すらない。
炎を裂いて、黒い影が駆け抜ける。
ギィンッ!!
六幻が振るわれるたび、耳をつんざく金属音が夜を裂いた。
一体目のAKUMAの腕が、空中で弾け飛ぶ。
二体目が砲撃を放つ。
ユウはそれを身を捻って避けると、そのまま懐へ潜り込み――
ズバァッ!!
深く、斜めに斬り上げた。
機械の胴体が真っ二つに割れ、赤黒い火花と破片が雨みたいに降る。
「……っ」
私は息を呑んだ。
知っているはずなのに。
傷だらけで戻ってきた姿も、血の匂いも、何度か見てきたはずなのに。
こんなふうに戦う彼を、私は知らなかった。
炎の中で、彼は迷わない。一歩も。
ためらいも、飾りもない。
ただ、斬るためだけに研ぎ澄まされた刃みたいに。
背後から迫った三体目。
ユウは振り向きもせず、六幻を逆手に持ち替えた。
ガキィィン!!
振り下ろされた鋼鉄の爪を受け止める。
火花が散る。
踏み込む足が、燃える床板を軋ませる。
「邪魔だ」
低い声。
次の瞬間、彼は強引に押し返し、そのまま懐へ踏み込んだ。
近すぎて、刀なんて振れない距離。
それでも。
「……失せろ」
ドッ――!!
肘打ちのように叩き込まれた一撃で、AKUMAの身体が吹き飛んだ。
壁に激突し、そのまま爆ぜる。
熱風が渦を巻く。
焼け落ちる柱の音。
火の粉が舞う中で、ユウだけが異様なほど鮮明だった。
「お嬢様、こちらへ!早く!」
メイドが私の腕を引く。
けれど私は、目を離せなかった。
六幻を握る手。
炎を映した横顔。
血か煤かも分からない汚れが頬をかすめているのに、その目だけは爛々と冴えていた。
――これが。
父の言っていた、ユウの世界。
「……ユウ……」
小さくこぼれた名前は、轟音にかき消された。
ユウがさらに踏み込む。
次々と押し寄せるAKUMAを、まるで獣みたいに切り裂いていく。
斬って、薙いで、叩き落とす。
炎よりも凶暴で。
夜よりも冷たい。
なのに――
どうしてこんなにも、目が離せないの。
「お嬢様!」
メイドの声に、私ははっとした。
そうだ。
今は見惚れている場合じゃない。
「パパ……」
館は、まだ燃えている。
その中に、父がいる。
私は唇を噛みしめた。
目の前で戦う彼と、炎の奥にいる父。
どちらも、もう失いたくないのに。
王宮舞踏会の会場、その重厚な大扉が開く直前。
儀典官が杖を整える音が、やけに大きく響く。
喉を鳴らす、わずかな静寂。
シャンデリアの光が、磨き上げられた床に星みたいに散っている。
その中心で――私は、彼を見た。
神田ユウ。
苛立ちを隠そうともせず、ただ腕組みをして突っ立っている。
無表情。けれど、分かる。
要は――不機嫌。
仕立ての良い漆黒の正装。
普段の団服とは違う、やけに整いすぎた姿。
……なのに、その奥にある無骨さだけは、隠しきれていない。
それでも私は……そんな彼にときめいてしまう。悔しいほどに。
私は扇子をパサリと閉じて、微笑んだ。
「……ユウ。手、早く」
それは命令。
毒みたいに、彼へ落とす。
ぴくり、と彼の眉間が動く。
「……チッ」
聞こえるか聞こえないかの舌打ち。
それでも彼は、抗うこともなく――
ゆっくりと、その手を差し出した。
エスコートのための手。
屈辱と、忠誠と、そのどちらも、混ざったような。
私はそこに自分の指を重ねて、わざと距離を詰める。
「……青酸カリを盛られたいのかしら? それとも、毒物注射?」
小さく囁くと、返ってきたのは淡々とした声。
「好きにしろ。…ここで何か起きれば…、お前が真っ先に疑われるだけだ」
……ほんと、可愛くない。
私はむっとして、ヒールで彼の足を踏んだ。
ギロリ、と睨まれる。
その瞬間――
「――フォレスト伯爵家、ミナミ令嬢。ならびに、護衛騎士・ユウ殿、入場でございます!!」
扉が開いた。
光が、なだれ込む。
視線。
視線。
視線。
――全部、私たちに向く。
私はユウの手を、逃がさないように掴んだまま、歩き出す。
優雅に。堂々と。
(ふふ……この『完璧な騎士』を借りるために、パパがいくら積んだことか……)
ユウが口元を最小限に動かして正面を見たままボソッと言った。
「·····いつから俺はお前の騎士になったんだ」
私も周囲にバレないよう、微笑んだ表情のままボソリと返す。
「7年前からよ」
その瞬間。
ふっと、思い出す。
七年前。
私が、十二だった頃。
父が連れてきた、ティエドール元帥と――
その隣にいた、ひどく不機嫌な少年。
死んだ魚みたいな目。
誰にも興味がないみたいな顔。
――ユウだった。
見た瞬間。
胸の奥に、何かが落ちた。
目が離せない。
息が、浅くなる。
理由なんて、分からないまま。
ただ、思った。
「パパ、私あれが欲しい」
……今思えば、最悪の言い方。
当然、叱られた。
「ミナミ。人は物ではない。それに指を指すなんて」
私はすぐに言い直した。
「……ごめんなさい」
でも、目は逸らさない。
「言い方が悪かったわ。本当はこう言いたかったの。来月の誕生日パーティー、あの方にエスコートしていただきたいの」
――それからずっと。
私の大事な夜には、必ず彼がいた。
どれだけ嫌な顔をされても。
私は――この人を、隣に立たせてきた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
王族の挨拶と、最初の舞踏が終わる。
次々と身分の高い人達から踊っていく。
――次は、私たち。
音楽が切り替わる、その直前に、私は隣を見上げた。
「……ユウ」
声を落とす。
「間違えたら承知しないわよ」
これはただの警告じゃない。
ステップや所作はもちろん。
特に“態度”。
王族の前で、ヘマなんて許されない。
「……チッ」
また舌打ち。
でも、次の瞬間。
彼の手が、当然みたいに私の腰に回る。
ぐっと引き寄せられる。
「……面倒くせぇ注文つけやがって」
吐き捨てる声。
なのに――
その顔は、優しい。
音楽が、静かに満ちる。
一歩。
床を踏み出した瞬間、彼の手がわずかに強くなる。
――逃がさない、というより。
――外から見て隙がないように整える力。
導かれるまま、私は回る。
ドレスの裾が円を描き、視線が一斉に集まるのが分かる。
私が顎を上げたその時、視界のすぐ上で――
彼が、笑った。
あの、作り物の笑顔。
任務のときだけ見せる、完璧に整えられた表情。
柔らかく、穏やかで、隙がなくて。
まるで――最初から私のために用意されていたみたいな顔。
(……なに、それ)
胸の奥が、きゅっと鳴る。
分かっている。
これは演技。
王族の前で、貴族たちの視線の中で、完璧にこなすための“顔”。
それなのに私はまた彼に恋をしてしまう。
彼の手が、私の背を滑る。
腰を支え、次のステップへ導く。
指先の動きは正確で、迷いがなくて。
……なのに、さっきより少しだけ近い。
「……ほら、令嬢」
低い声が、耳元に落ちる。
「ちゃんと踊れよ」
その声音はいつも通り嫌味でぶっきらぼうなのに、笑っている口元との違和感が、余計におかしい。
私は小さく笑った。
「ユウ、やるじゃない」
「……任務だからな」
即答。
でも――
その手は離れない。
むしろ、さっきより強く引き寄せられている。
(……ふふ)
私は彼の胸元に指を添えた。
「じゃあ最後まで頼むわね。――私の騎士」
ほんの一瞬。
彼の笑顔の奥が、わずかに揺れた気がした。
けれど次の瞬間には、また完璧に整えられる。
観客は誰も気づかない。
私は、少しだけ満足して目を細めた。
この男が、こんな顔を見せるのは、今、この瞬間。
私の隣にいるときだけ。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
あの頃の彼は――本当に、ひどかった。
無言。
何を話しかけても、まるでこちらの存在そのものが見えていないかのような、虚無の瞳。
「ユウ、ねえユウ」
何度呼んでも、彼は振り向きもしない。
そのたびに、後ろから穏やかで呆れた声が飛んできた。
「こらユーくん! 無視はいけないよ」
ティエドール元帥。あの人に窘められて、ようやく返ってくるのは――。
「……チッ」
短い舌打ち。
(……あ、意思疎通できるんだ)
その時、私は初めて知った。
この無愛想な少年が、ちゃんと“人間の言葉”を持っていることを。
私は迷わず、その手を掴んだ。
逃げる前に、捕まえる。
それが大事だと、本能で分かっていたから。
「俺に構うな!」
乱暴に振り払われた衝撃で、手の甲が赤く腫れる。
痛い。
でも――
(……面白い)
その時、私の直感は告げていた。この子は、私のものになる。
……あれから、どれほどの毒を飲ませたかしら。
最初は、飲み物にほんの少しの痺れ薬を。
次は、暴れる彼を大人しくさせるための睡眠薬を。
たまに、青酸カリを、1滴。
ふふ、失礼。
死なない程度の量を守りながら、
彼の身体に――“私に逆らえない感覚”を、少しずつ刻み込んでいった
その結果、彼は学習した。
今ではもう、我が家から出されるものは、ペットに毒味をさせてからでなければ口にしない。
青酸カリ入りのサンドイッチをクランチ(我が家のペット)に食べさせようとした時は肝を冷やしたわ。
あれから劇物を使うのはやめたわ。
(それを思えば…ユウ…成長しましたわね)
少しだけ寂しいけれど、それも立派な教育の成果。
それからは、中身を詰め込んだ。
教養、所作、礼儀、ダンス、会話――。
嫌がる彼を引きずり回し、完璧な私の騎士へと磨き上げた。
あの頃の野犬が、今や漆黒の正装に身を包み、全貴族の羨望を浴びる極上の男。
(……ふふ、素晴らしい出来栄えだわ)
恍惚とした満足感に浸り、私はそっと目を細める。
その時だった。
「ミナミ。少しいいかい?」
聞き慣れた声。顔を上げると、父がある書類を抱えて立っていた。
いつもより、少しだけ真剣な……いえ、一切の迷いを捨てた当主の顔をした父の表情。
その異様な空気に、私はわずかに首を傾げた。
「パパ、そんなに怖い顔をしてどうしたの? また新しい毒草の輸入が止まったのかしら」
私が扇子で口元を隠して問うと、父は手元の書類をトントンと整え、低い声で囁いた。
「……“毒”ではなくて、“薬”だね」
父は苦笑いをもらした。娘を諭す時の、あのいつもの柔らかな声音。
私はわざとらしく肩をすくめてみせた。
「同じようなものでしょう? 用量を間違えれば、毒になるわ」
「……そうだね」
父はそれ以上、私の屁理屈を否定はしなかった。
ただ、手元の書類を指先で整える乾いた音だけが、やけに静かな室内に響く。
沈黙·····。
その空白が、いつもよりわずかに長いことに気づき、私の背筋に薄い寒気が走る。
父がふいに、視線を落としたまま問いかけた。
「ミナミ。来月の誕生日で、いくつになる?」
「……二十歳よ」
「そう、二十歳か」
父は噛みしめるように、その数字を繰り返した。
「親友のキャシーやサンドラは?」
「……? 二十歳よ。パパ、急にどうしたの?」
答えながら、私はわずかに眉を寄せた。話の着地点が見えない。
父は顔を上げず、淡々と言葉を重ねる。
「彼女たちは、今どこにいる?」
「えっと……」
言葉が、喉の奥で凍りついた。
その瞬間――ああ、と。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
「……それぞれ、嫁ぎ先に」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さく、震えていた。
父は深く頷く。
反論も慰めも口にせず、ただ一枚の書類を、机を滑らせるようにしてこちらへ差し出した。
無駄のない、あまりに事務的な動作。
躊躇いの欠片もないその紙を、私は受け取った。
指先に残る、紙の重みがやけに生々しい。
目を落とすと、そこには――『釣書(お見合い)』。
形式上はそう記されている。
けれど、そこに並ぶ条件は、選択の余地など微塵も感じさせないほどに完璧だった。
家名、財産、後ろ盾。
我が伯爵家が次に繋がるための、冷徹なまでの最適解。
(……ああ、そう。そういうこと)
理解する。これは、私への確認ではない。
当主としての決定だ。
私は震える指先でその紙を握り込み、ゆっくりと顔を上げた。
「……パパ?」
その一言に、どれだけの拒絶と、あるいは助けを求める縋り付きが含まれていたか。自分でも分からなかった。
父は、静かに私を見据えた。
そこにあるのは、先ほどまでの優しい父の目ではない。
一族を背負い、覚悟を決めた、冷徹な当主の顔。
「……遅いくらいだ」
低い声。揺るぎない響き。
「行き遅れないように、彼と婚約しなさい」
言い切る。一切の余白を残さない、断罪のような通告。
「そろそろ現実を見て、跡を継いでくれないか?」
――“お願い”の形をしているのに、逃げ道なんて最初から用意されていない呪縛の言葉。
私は、何も言えなかった。
ただ、手の中の紙が、私の指の力で少しだけ、無惨に皺になる。
「……ユウは」
反射的に、その名前が口からこぼれた。
完璧に仕立て上げた、私の騎士。
金で買った、私の所有物。
父は無慈悲に、その淡い期待を切り捨てた。
「彼はあくまで『教団からの借り物』だ、ミナミ。……本物の貴族になれるわけではない」
父の言葉が、静かに部屋の空気に溶けていく。
それは事実を羅列しただけの、乾いた声ではない。
そこには、痛いほどの慈しみが混ざっていた。
“本物の貴族になれるわけではない”
そんなこと、分かっている。
最初にあの子を欲しいと強請ったあの日、パパが困ったように笑いながらも、私のために教団へ多額の寄付を積み上げてくれた時から。
私の我儘を叶えるために、パパがどれほど裏で手を尽くして騎士という居場所を彼に与えてきたか、知っていたはずなのに。
「……それが、なに?」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
震えも、怒りも、表には出ない。ただ、喉の奥がひどく熱い。
私は、ゆっくりと皺の寄った紙を机の上に置いた。
指先が、ほんの少しだけ白くなる。
「……ユウは、ユウよ」
視線を落としたまま、独り言のように続ける。
「どこに生まれたとか、何を背負ってるとか……そんなもの、どうでもいい。パパだって、私のために彼を連れてきてくれたじゃない」
一度、息を吸う。上手く空気が入ってこない。
「……私が、あの人を選んだの。私が、ユウを今の姿に仕立て上げたのよ」
顔を上げて父をまっすぐに見つめる。
「それじゃ、ダメなの? パパが認めてくれたから、今があるんでしょう?」
ほんの一瞬、沈黙。
父の瞳が、切なげに、わずかに揺れた。
これまでの二十年間、一度も私の願いを拒まなかった優しい父の目が、今はひどく潤んでいるように見えた。
「……ダメなんだ、ミナミ」
短く、絞り出すような声。
「お前は、フォレスト伯爵家を継ぐ人間だ。……私にはお前しか子供は居ない」
「……知ってるわよ。分かってるわ」
食い気味に返す。
パパが私をどれだけ大切に、この家の跡取りとして誇り高く育ててくれたか。
「だから、何? 私は逃げたりしない。この家を背負う覚悟だってあるわ。……ただ、彼が隣にいてくれればいいだけなのよ」
一歩、踏み出す。
ドレスの裾が床を擦り、乾いた音を立てる。
父は、痛みを堪えるように目を伏せた。
「……ミナミ。お前が当主として立ち、この家を護っていくというのなら……なおさら、彼ではお前を支えきれない。……お前が彼を想う気持ち以上に、私はお前の未来が心配なんだ」
「パパ……。……ユウでは、ダメな理由を言って。……納得させて」
絞り出すように、やっとそれだけを言った。
父は、少しだけ目を細める。
そして、愛娘の頬に触れるかのような、優しく、けれど絶望的に重い口調で、本当の理由を語り始めた。
「理由か」
父は、ほんのわずかに視線を落とした。
その仕草一つに、これまで隠し続けてきた重すぎる真実が滲む。
「……それは、お前が“知らない”ことだよ」
静かな声。
けれど、その一言が、やけに重く私の心臓に圧し掛かる。
「彼が、どれほどの戦場を潜ってきたのか」
ゆっくりと、言葉が一つずつ、冷たい雫のように落ちてくる。
「どれほどの数の敵を斬り、どれほどの凄惨な死線を越えてきたのか」
私は、思わず息を呑んだ。
「お前の知らない場所で」
父の視線が、逃げ道を塞ぐように真っ直ぐに私を射抜く。
「お前の知らない所で、どれだけの血塗られた任務を背負っているのか。……ミナミ、お前は本当に彼を見ていると言い切れるかい?」
「…」
「彼はな、ミナミ」
父の声が、一段と低く沈み込んだ。
「……“一人で戦場を制圧する”とまで言われている男だ。教団にとっては、代えの利かない最高戦力の一つなのだよ」
「……っ」
「味方にすればこれ以上ない頼もしさだろう。だが――」
一拍。
世界が止まったかのような静寂。
「その魂は、あまりに“戦い”という深淵に寄りすぎている」
静かに、そして残酷に言い切る。
「お前の隣で、穏やかに。……家族として、共に老いていくための生き方ではないんだよ」
その瞬間。
頭の奥で、鈍い衝撃音がした。
まるで、見えない金槌で、自分の築き上げてきた世界を叩き壊されたみたいに。
(……知らない)
私は――今になって、ようやく気づいてしまった。
(私、ユウのこと……)
何も、知らない。
戦場が、どれほど泥にまみれ、絶望に満ちた場所なのか。
彼が、どんな冷徹な顔で、刀を振るうのか。
どんな速さで駆け、どれほどの敵を瞬時に斬り伏せているのか。
その背中に、何を背負い、何を見て、孤独に耐えているのか。
(……何ひとつ、見ていなかった)
思い返せば、心当たりはいくらでもあった。
何度か、傷だらけでこの館に現れたことがあった。
高価な絨毯を汚すほどに、濃厚な血の匂いを纏ったまま。
無言で、幽鬼のように立ち尽くしていた、あの姿。
それなのに、私は――。
(……考えたことも、なかった)
ただ、自分の隣に立たせることばかりを執拗に求め、その“外側”にある、彼の真実の世界を。
彼が本当に生きている場所を、一度も、見ようとしなかった。
私は彼を教育していたのではない。
ただ、彼の抱える巨大な闇から目を逸らし、自分に都合の良い騎士の皮を被せていただけだったのだ。
手の中の皺になった釣書が、今度は私の罪悪感の重みで、より一層深く、醜く歪んだ。
「……わかりました。ただ、少しだけ時間をください」
声に出した瞬間、自分でも驚くほど冷静だった。
胸の中で暴れていた感情が、嘘のように凪いでいく。
父はしばらく私を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「いいだろう」
落ち着いた、静かな声だった。
「ちょうど明後日、彼が来る。その時に気持ちの整理をつけなさい」
――彼が来る。
その一言で、胸がざわついた。
嬉しいはずなのに、今はその感情に濁りが混じっている。
「……ええ」
それだけ返して、私は視線を落とした。
明後日。公爵家に招かれた晩餐会。
社交の場としては申し分ない、完璧な夜だ。食後にはダンスもあるだろう。
――きっと、また。
彼は完璧な騎士を演じ、私の手を取る。
戦場で返り血を浴びていることなど微塵も感じさせない、涼やかな顔をして。
何も変わっていないふりをして。
(……違うわ)
私は、拳を強く握りしめた。
変わっていなかったのは、私の方だ。
あの人のことを何も知らないまま、知ろうともしないまま、ただ隣に置いて満足していた。
「……ユウ」
小さく、その名を呟く。
胸の奥が、じくじくと痛む。
あの人は、どんな顔をして戦っているのだろう。
どんな目で、敵を倒しているのだろう。
そして、どんな思いで私の前に立っているのだろう。
(……どうしよう)
胸の奥で、言葉にならない何かが揺れる。
苦しいわけじゃない。
でも、息がうまく吸えない。
さっきまで当たり前だったものが、全部、少しずつ形を変えていく。
ユウのこと、何も知らなかった。
知らなくてもいいと思っていた。
隣にいてくれれば、それでよかったから。
それなのに。
知りたい。
小さく、そう思ってしまう。
あの人が見ているものを。
あの人が立っている場所を。
怖いのに。
知らないままでいる方が、きっと楽なのに。
(……私)
ふと、思考が止まる。
(ユウの居ない未来なんて……)
喉が、ひどく乾いた。
(想像したこと、なかった)
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
当たり前だった。
お金で買った時間だけど、隣にいた。
どれだけ嫌な顔をされても、どれだけ舌打ちをされても。
大事な時には必ず、そこにいた。
だから、……いなくなる、なんて、考えたこともなかった。
「……ユウ」
声に出したつもりはなかったのに、唇がかすかに動いた。
名前を呼ぶだけで、胸が締め付けられる。
本当のユウの顔。
……わからない。
今さらになって、そんなことに気づいてしまうなんて。
私は、そっと拳を握りしめた。
指先が、少し冷たい。
「……ねえ」
誰に向けたわけでもない、小さな声。
「……私、どうしたらいいの」
答えなんて、どこにもない。
それでも、ほんの少しだけ顔を上げる。
……会いたい。
ただ、それだけは確かだった。
理由も、覚悟も、何も追いついていないのに。
「……ユウ」
今度は、はっきりと。
けれど、誰にも聞こえないように。
「……ちゃんと、見せて」
その言葉は、強さじゃない。
願いだった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
公爵家の晩餐会は、息を呑むほどに整っていた。
高い天井に、贅を尽くした燭台の灯り。
磨き上げられた銀食器が、規則正しく並び、静かに光を返している。
耳に入る笑い声も、交わされる会話も、すべてが上品という規律に調整された空間。
フォレスト伯爵家の次期当主として、私が最も愛し、呼吸しやすかったはずの世界。
なのに。
(……息が詰まる)
私はシャンパングラスの細い脚に指先を添えたまま、わずかに視線を落とした。
いつもなら、この甘美な虚飾は嫌いじゃない。
むしろ、自分がその中心にいることに居心地の良さすら感じていたはずなのに。
今日は、そのすべてがひどく遠い。
(……どうして)
理由は、分かっている。パパに突きつけられた、〝 結婚〟と彼の〝 真実〟という毒が、私の中で回り始めているから。
「……おい」
低く、私の鼓膜だけを震わせる声。
すぐ隣のユウが顔を僅かに私に寄せ、囁いた。
「今日はやけに静かじゃねぇか」
私は、ぴくりと肩を揺らした。
ゆっくりと顔を上げる。
そこには、いつも通りのユウがいた。
父が用意したオートクチュールの隙のない漆黒の正装に身を包み、何事もない顔でこちらを見下ろしている。
ただ、その切れ長の視線が、いつもより鋭く私を射抜いていた。
(……気づいて·····る?)
わずかな動揺を悟られ、一瞬、言葉を失った。
けれど、私はすぐに淑女の笑みを貼り付ける。
「なに? 私だって、静かに食事くらいするわよ。……お行儀が良くて驚いたかしら?」
「……ふん」
鼻で笑われる。ただそれだけ。
なのに――胸の奥が、嫌な音を立ててざわついた。
彼の手元に、吸い寄せられるように視線が落ちる。
重厚な銀のナイフとフォーク。
音を立てず、無駄なく、そして冷徹なまでに正確に動く。
その一つひとつの所作が、あまりにも整いすぎていた。
あの頃、反吐が出ると言いたげな彼に、私が何度も叩き込んだ動き。
「騎士らしくしなさい」と、無理やり背筋を伸ばさせた日々。
あんなに嫌がっていたくせに。
何度も舌打ちして、私を睨みつけていたくせに。
彼は、ちゃんと身につけていた。私の望んだ通り、完璧な〝 私の騎士〟を演じてみせている。
(……ちゃんと、できてる。私の教えた通りに)
それだけのことなのに。誇らしいはずのことなのに。
なぜか、心臓を直接掴まれたような痛みが走る。
この完璧な所作の裏で、彼はエクソシストとして刀を振るい、私の知らない血の雨を降らせている。
私が教えた〝騎士の礼儀〟は、彼にとって、本性を隠すためのただの便利な薄皮に過ぎないのではないか。
「……なんだよ」
ぼそりと、低い声が落ちる。
私ははっとして、逃げるように視線を上げた。
「別に」
「見てただろ」
「見てないわよ」
即答。ほんの少しだけ、声が上ずったかもしれない。
ユウの眉が、わずかに、探るように動く。
「……嘘つけ」
「うるさいわね。食事に集中なさい」
言い返しながら、私はグラスを口に運ぶ。
冷たいはずのクリスタルガラスが、指先に妙な熱を持って伝わった。
(……どうして)
この前までなら。“完璧に仕上がってるわ、私の最高傑作”って、優越感に浸りながら笑えたはずなのに。
今は違う。
胸の奥に、棘のような違和感が引っかかる。
この手。この所作。この男。
(……私の知らない時間が、ある。私が触れられない、彼の場所がある)
当たり前のことなのに。今さら、こんなふうに彼を遠いと思うなんて。
これまでは私が彼を飼い慣らしていると思っていた。
でも、本当は。
「……お前」
低く、逃げ場を塞ぐように呼ばれる。
顔を上げると、神田の黒い瞳が、まっすぐにこちらを捉えていた。
その瞳の奥には、教えたはずのない、底知れない静寂が宿っている。
「なんかあったか」
短い言葉。ぶっきらぼうで、素っ気ない。
なのに、私の心の奥底を無理やりこじ開けるような、暴力的なまでの真っ直ぐさ。
「……別に」
反射的に、拒絶を返す。
でも。声が、自分でも情けないほどに掠れた。
神田の視線が、わずかに細くなる。獲物を追い詰める、野性の観察眼。
「……ほんとかよ」
「ほんとよ」
言い切る。言い切ったはずなのに。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
(……言えない。パパからあなたの地獄を聞いたなんて、今はまだ)
何を、どう伝えればいいのか。
自分でも整理がつかない。
ただ。
「……ユウ」
気づけば、縋るようにその名前を呼んでいた。
彼が、わずかに目を丸め、それから深い沈黙を纏う。
「なんだ」
私は、少しだけ視線を逸らした。
煌びやかな会場の光が、今はひどく眩しくて疎ましい。
言葉が、続かない。でも。
「……あとで」
震えを抑え、小さく、けれど確かに告げた。
「話があるの。二人きりで」
それだけ。それだけなのに。自分でも分かるくらい、声が揺れていた。
神田は、しばらくの間、無言で私を見つめていた。
やがて。
「……あぁ」
短く、重厚な承諾が返る。
それだけで、もう逃げ場はなくなった。
私はそっと、グラスに残った酒に口をつけた。
味なんて、全く分からなかった。
ただ。この夜が終わる頃には、
きっと、もう。これまでのように彼を所有しているだけの私ではいられない。
そんな予感だけが、静かに、けれど確実に、私の胸に広がっていた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
晩餐会は、何事もなかったかのように幕を閉じた。
交わされる形式的な微笑。
空疎な社交辞令。
すべてがいつも通りの、完璧な締めくくり。
「本日は誠に――」
口から出る言葉は、教育の成果通りに淀みない。
けれど、中身がどこにも付いてきていないことを、自分自身が一番よく分かっていた。
「……ミナミ」
隣から、低く、芯に響く声。
名を呼ばれて顔を上げると、ユウがいた。
無表情だが、その視線だけが抜き身の刀のように鋭い。
「いつまで頭を下げている。……行くぞ」
私は、わずかに遅れて微笑を作り直した。
ここはまだ公爵邸。
最後の一礼を済ませ、ゆっくりと顔を上げる。
視界の端には、煌びやかなドレスと温かな光の中にまどろむ貴族たち。
(……遠いわ)
数刻前までその輪の中にいたはずなのに、今はまるで別世界の幻影を見ているような心地だった。
「帰るぞ」
短く言われ、腕を取られる。
淀みのないエスコート。
何の違和感もない、私が叩き込んだ完璧な動き。けれど――。
(……近い)
この距離は初めてではないのに、今日は一段と近いように感じる。
触れている部分から、彼の体温が以前よりも強く、生々しく伝わってきて、この温もりから離れたくなくて、私は彼の腕に強く絡みついた。
何も言わないまま、私たちは会場を後にした。
背後で閉まった重厚な扉の音が、終わりの合図のように大きく響いた。
外は、深い夜だった。
「……寒いか?」
ぼそりと落ちる声に、私は首を振る。
「平気よ」
それが本心かどうかも、自分では分からない。
待機していた馬車の前で、御者が恭しく頭を下げる。差し出された手。
けれどそれより早く、ユウの手が私の腰に回った。
「っ……」
軽く持ち上げられ、浮遊感に息が詰まる。
「……段差、気をつけろ」
当たり前のような声。
そのまま私を座席へと促す。
何もなかったかのように。
「……ありがとう」
「……礼はいらねぇ」
けれど、手はすぐには離れなかった。
私が座るのを確かめるように一瞬だけ残った熱が、ようやく遠ざかる。
続いて彼も乗り込み、扉が閉まる。
外の喧騒が遮断され、一気に静寂が満ちた。
馬車が規則的なリズムで揺れ始める。
(……遠い)
座る位置が離れ、物理的な距離以上に、得体の知れない壁が二人の間に横たわっている。
いつもなら私が一方的に喋っているはずなのに、今は言葉が喉の奥で固まって出てこない。
「……おい」
低い声。心臓がびくりと跳ねる。
「体調でも悪いのか」
「……違うわよ」
「お前が静かだと調子が狂う」
タイを緩めながら、間を置かずに返される。
逃がさない、と言わんばかりの圧力。
私は視線を逸らした。
答えたくない。
けれど、言わなければ。
「……ユウは、私のこと、どう思っているの?」
沈黙。
馬車の走行音だけが虚しく流れる。
その中で、ユウが真正面の座席に移動し、私の手首を掴んだ。
「……っ」
驚いて顔を上げると、彼の真っ直ぐな視線に射抜かれた。
「お前、本当にどうした。新たな薬の試作でも失敗したのか?」
抑えているが、わずかに荒い声。
「……違うわ」
私は首を横に振る。
そして、震える唇を無理やり動かした。
「ユウ……私……あなたの世界が、知りたいの」
ユウが、言葉を失った。
(……言わなければよかったかしら)
胸がぎゅっと締め付けられる。
誤魔化す言葉も浮かばない。
私は、本当の意味で覚悟を口にするしかなかった。
「……私を、教団に攫って」
ようやく、それだけを言った。
声が、自分でも驚くほど脆く揺れる。
ユウの目が、一瞬大きく見開かれ、次の瞬間には冷酷なまでに細められた。
「……出来るわけねぇだろ」
短く、切り捨てるような拒絶。
掴まれていた手が、乱暴に離れる。
馬車は夜の道を進んでいく。
逃げ場のない密室で、言葉にできない重苦しい何かを抱えたまま、私はそっと目を伏せた。
(……ユウ)
名前だけが胸の奥で木霊する。
もう、私の心は引き返せない境界線を越えてしまったことだけは、痛いほど分かっていた。
馬車が、屋敷の正面玄関前で静かに止まった。
揺れがやみ、夜の静寂が戻ってくる。
けれど、その静けさは少しも穏やかじゃない。
息をするたびに、胸の奥がひりつく。
御者が扉を開けるより早く、ユウは自分で扉を押し開けた。
そのまま、一人で先に降りる。
こちらを振り返りもしない。
「……ユウ」
思わず呼んでも、返事はない。
黒い正装の上着を乱暴に脱ぎ捨てるみたいに肩から外しながら、彼はそのまま屋敷へ向かって歩き出す。
『任務は終わった。
もう、伯爵令嬢を丁重に扱う必要なんてない』
そんなふうに背中で言われた気がして、私は唇を噛んだ。
馬車の段差に気をつけながら、裾を押さえて降りる。
こんな時でも転べない自分が、少しだけ嫌になる。
けれど、そんなことを考えている暇はない。
遠ざかっていく背中。
このまま、行かせたら。
きっと本当に終わってしまう。
「……ユウ!」
夜気を裂くように、声が飛び出した。
彼の足が止まる。
数歩先で。
屋敷の灯りが届く境目で、ユウはゆっくりと振り返った。
その横顔は暗くて、表情がよく見えない。
それでも私は、叫ばずにはいられなかった。
「わたし、結婚しちゃうんだよ!?」
喉が、焼けるように痛い。
「ユウ以外の人と!」
言葉にした瞬間、自分の胸が抉られるみたいだった。
でも、止まれない。
「それでもいいの!?」
夜が、しんと静まる。
風さえ止まったみたいな沈黙。
そして、返ってきたのは――
「……俺に関係ねぇよ」
低く、乾いた声。
あまりにも短くて、あまりにも冷たい。
その一言で、胸の奥の何かが、音を立ててひび割れた。
「……っ」
呼吸がうまくできない。
涙なんて、こんなところで見せたくないのに。
「……ユウの、バカ!」
絞り出すみたいに叫ぶ。
声が震えているのが、自分でも分かった。
「ユウなんか…シアン化合物の海に溺れちゃえ!」
ひどい言葉。
いつもの私なら、もっと綺麗に、もっと優雅に毒を吐けたはずなのに。
今はそんな余裕なんてなくて、ただ子どもみたいに、傷ついたまま言葉を投げつけることしかできない。
ユウは動かなかった。
反論もしない。
怒りもしない。
ただ、そこに立ち尽くしたまま、こちらを見ている。
雲が切れた月明かりの下で浮かんだその顔は――
何もかもを、諦めたような顔だった。
怒っているわけでもない。
呆れているわけでもない。
ただ、深く、暗く、沈んでいる。
それが、たまらなく苦しかった。
まるでその顔ひとつで、
『どうしようもないんだ』
と、言われているみたいで。
私は、その場にしゃがみこんで子供のように泣いた。
胸の奥で、さっきの言葉が何度も反響する。
結婚しちゃうんだよ。
ユウ以外の人と。
それでもいいの。
――俺に関係ねぇよ。
夜の冷たさが、ようやく肌に追いついてくる。
それなのに、心の中だけがひどく熱く、痛かった。
ドレスの裾が夜露を吸って冷たくなるのも構わず、ただ両手で顔を覆う。
涙なんて、こんなところで流したくなかった。
令嬢らしくない。
みっともない。
分かっているのに、止まらなかった。
肩が小さく震える。
嗚咽を飲み込もうとするほど、余計に苦しくなる。
その時だった。
――じゃり。
砂利を踏む、小さな音。
私ははっとして顔を上げた。
涙でぼやけた視界の向こう、ユウが一歩だけ、こちらへ踏み出していた。
「……」
その横顔は暗くて、表情までは見えない。
それでも、その一歩だけで胸が勝手に跳ねる。
来てくれるの?
そう思った次の瞬間。
ユウは、ぴたりと止まった。
そして――
すぐに踵を返した。
何事もなかったみたいに。
最初から振り返ってなどいなかったみたいに。
そのまま館の方へ歩いていってしまう。
「……っ」
伸ばしかけた手が、空を切る。
行かないで。
そう言いたかったのに、声にならなかった。
残ったのは、遠ざかる足音だけ。
私はその場で立ち尽くすこともできず、またゆっくりと俯いた。
ああ、本当に。
終わる時は、こんなにもあっけないのね。
次の日の私の顔は、ひどかった。
鏡に映る自分は、まるで一晩で別人になったみたいだった。
腫れた瞼。
赤い目元。
丁寧に冷やしても、粉で隠しても、泣いた痕跡は消えてくれない。
「……最悪」
小さく呟いても、返ってくるのは青白い顔だけ。
けれど、それでも朝は来る。
当たり前みたいに。
何も待ってくれないまま。
私は支度を整え、朝食の席へ向かった。
長い食卓の向こうに、父が座っている。
いつも通りの、落ち着いた顔。
昨日のことなどなかったみたいに、新聞を畳んで私を見た。
「おはよう、ミナミ」
「……おはようございます、パパ」
声は、思ったより普通に出た。
席に着く。
温かなスープの香りがするのに、少しもお腹は空いていなかった。
父は何も言わず、私の様子を見ていた。
私はナイフとフォークに指を添えたまま、しばらく黙っていた。
けれど、やがて――
「……パパ」
自分の声が、やけに静かに響く。
「先日のお話ですけれど」
父は、わずかに目を細めた。
私は視線を落としたまま、続けた。
「お勧めしてくださった方と……結婚します」
食卓の空気が、ほんの一瞬だけ止まった気がした。
それでも私は、顔を上げない。
上げたら、たぶん全部崩れる。
父はすぐには答えなかった。
ただ、その沈黙の重さだけが、静かに胸へ降り積もる。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
不幸は、待ってはくれない。
ひとつ終わったと思ったら、次を連れてくる。
容赦なく。
息をつく暇も与えずに。
その日の夜――
館は、燃えた。
窓の外を赤く染める光に気づいて飛び起きた時には、もう遅かった。
悲鳴。
怒号。
何かが砕ける音。
焦げた匂い。
そして、空を裂くような、不快な機械音。
あれが·····AKUMA。
「……っ!」
喉がひりつく。
廊下へ飛び出した瞬間、熱風が肌を打った。
壁に飾られていた絵画が燃え落ち、磨き上げられた床に火の粉が散っている。
「お嬢様! こちらへ!」
私の専属メイドが、蒼白な顔で私の腕を掴んだ。
私は頷き、裾をたくし上げて走る。
何度も熱に息を詰まらせながら、どうにか館の外へと飛び出した。
燃え盛る炎が、館ごと空を燃やすように赤く染め上げていた。
「……は、ぁ……っ」
肩で息をする。
生ぬるい夜風の代わりに、焼けた空気が肺を灼く。
「……パパ?」
視線が彷徨う。
見えない。
どこにも。
「パパが、いない……」
胸の奥が、ひゅっと冷える。
さっきまで当たり前にあったはずのものが、音もなく消える感覚。
「パパ!?」
私は思わず一歩、館の方へ踏み出した。
中だ。まだ中にいる。
そう思った瞬間には、もう身体が動いていた。
けれど――
「お嬢様!」
メイドに腕を掴まれる。
「なりません!」
「離して! パパが中にいるのよ!」
「お嬢様!!」
振り払おうとした、その時。
背筋がぞくりと粟立った。
嫌な気配。
空気が、上から歪む。
はっと顔を上げる。
黒い翼。
鈍く光る機械の身体。
夜空を汚す、不吉な輪郭。
AKUMAが、こちらを見ていた。
「……っ」
機械音が、耳障りに鳴る。
砲口のようなものが、ゆっくりと私たちへ向いた。
終わる。
そう思った。
私は反射的にメイドを抱き寄せ、目を閉じた。
次の瞬間――
ドガァァァンッ!!
凄まじい爆音が夜を引き裂いた。
空気そのものが震える。
熱と衝撃が、頬を打つ。
けれど――痛くない。
私は恐る恐る、薄く目を開けた。
黒煙の向こう。
砕け散った火花の中心に、ひとつの影が立っていた。
長い髪。
漆黒の背。
赤い光を受けてなお冷たい横顔。
「……ユウ!?」
喉の奥から、ほとんど悲鳴みたいに名前が飛び出した。
振り向いた彼の顔は、怒りに歪んでいた。
「何してやがる!!」
低く、叩きつけるような声。
「早く逃げろ!」
「どうしてここに!? なんで……!」
叫ぶ私に、彼は舌打ち混じりに吐き捨てた。
「っ……用があったんだよ。……いいから!」
その鋭い視線が、今度は私の隣のメイドへ向く。
「早くこいつを連れていけ!」
「待って!」
私は彼の言葉を遮るように叫んだ。
「パパが! パパがまだ中にいるの!」
その瞬間、神田さんの眉が険しく寄る。
「……チッ!」
吐き捨てるような舌打ち。
けれど次の瞬間には、もう動いていた。
彼のイノセンスが、赤い炎の中でひときわ鋭く光る。
空中で旋回していたAKUMAが二体、三体。
機械音を撒き散らしながら一斉に降下してくる。
「下がってろ!!」
ユウが地を蹴った。
速い。
目で追う暇すらない。
炎を裂いて、黒い影が駆け抜ける。
ギィンッ!!
六幻が振るわれるたび、耳をつんざく金属音が夜を裂いた。
一体目のAKUMAの腕が、空中で弾け飛ぶ。
二体目が砲撃を放つ。
ユウはそれを身を捻って避けると、そのまま懐へ潜り込み――
ズバァッ!!
深く、斜めに斬り上げた。
機械の胴体が真っ二つに割れ、赤黒い火花と破片が雨みたいに降る。
「……っ」
私は息を呑んだ。
知っているはずなのに。
傷だらけで戻ってきた姿も、血の匂いも、何度か見てきたはずなのに。
こんなふうに戦う彼を、私は知らなかった。
炎の中で、彼は迷わない。一歩も。
ためらいも、飾りもない。
ただ、斬るためだけに研ぎ澄まされた刃みたいに。
背後から迫った三体目。
ユウは振り向きもせず、六幻を逆手に持ち替えた。
ガキィィン!!
振り下ろされた鋼鉄の爪を受け止める。
火花が散る。
踏み込む足が、燃える床板を軋ませる。
「邪魔だ」
低い声。
次の瞬間、彼は強引に押し返し、そのまま懐へ踏み込んだ。
近すぎて、刀なんて振れない距離。
それでも。
「……失せろ」
ドッ――!!
肘打ちのように叩き込まれた一撃で、AKUMAの身体が吹き飛んだ。
壁に激突し、そのまま爆ぜる。
熱風が渦を巻く。
焼け落ちる柱の音。
火の粉が舞う中で、ユウだけが異様なほど鮮明だった。
「お嬢様、こちらへ!早く!」
メイドが私の腕を引く。
けれど私は、目を離せなかった。
六幻を握る手。
炎を映した横顔。
血か煤かも分からない汚れが頬をかすめているのに、その目だけは爛々と冴えていた。
――これが。
父の言っていた、ユウの世界。
「……ユウ……」
小さくこぼれた名前は、轟音にかき消された。
ユウがさらに踏み込む。
次々と押し寄せるAKUMAを、まるで獣みたいに切り裂いていく。
斬って、薙いで、叩き落とす。
炎よりも凶暴で。
夜よりも冷たい。
なのに――
どうしてこんなにも、目が離せないの。
「お嬢様!」
メイドの声に、私ははっとした。
そうだ。
今は見惚れている場合じゃない。
「パパ……」
館は、まだ燃えている。
その中に、父がいる。
私は唇を噛みしめた。
目の前で戦う彼と、炎の奥にいる父。
どちらも、もう失いたくないのに。