FRYDAY NIGHT GAME → nightly night love(笹さに)
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
がらんと空いた斜め後ろの空間に、呆然と口を開けて佇む。つい先ほどまで、彼はそこにいたはずなのだ。少しだけ違和感は感じていたものの、それでも共に歩いていた。しかし視線の先に、あの目立つ風体の男はいない。ぽっかりと空いた場所に、これから居酒屋にでも向かうのであろう男女が笑いながら入り込んだ。
「……」
「笹貫がどうしたって?」
「……」
「もしもし? 聞こえてるか?」
「……うん、あの、本当に悪いんだけど、先にお店行ってて」
「は? ……もしかして、またあの刀絡みのトラブルかな?」
「そんなとこ。ごめん、みんなにも謝っておいて」
「あ、おい!」
電話越しに説明を求める山姥切に心の中で謝罪して通話を終わらせる。スマホを乱雑にポケットに突っ込み、早足で来た道を戻った。
(どこいったの……?)
きょろきょろと辺りを見回しながら、特徴的な緑混じりの黒髪を探す。あんなにも目立つ男がどこにも見当たらない。あの一瞬、目を離した隙に消えてしまった。山姥切の言う通りトラブルなのか、それとも他に理由があって離れざるを得なかったのか。理由は分からない。とにかく早く見つけなくてはと、人の合間を進みながら目を皿のようにしてひたすらあの刀の姿を探す。しかしカフェまで戻ってきても、笹貫を見つけることはできなかった。
(どうしよ、連絡もできないし、心当たりもない)
広い街だ。土曜日の夕食時だから人出も多い。手がかりのひとつでもなければ見つけることなどできないだろう。じわじわと湧き上がる焦燥に、にじんだ汗がひやりと冷える感覚が気持ち悪い。カフェの前で立ちつくし、辺りに視線を走らせる。ふと通りの向こう側に、先ほど歩いていった審神者と同田貫正国を見つけた。
「っ、あの!」
「はっ、はい!?」
上ずった声で返事をした審神者に申し訳なく思いながら、自分も審神者であることを口早に説明する。警戒した様子の同田貫正国には気が付いていたが、詳細な事情は省いて笹貫を見なかったかと問うと、ふたりは顔を見合わせてから首を横に振った。
「見てねえな。はぐれたのか?」
「はい、ちょっと目を離した隙にいなくなって」
「霊力を追えば見つけられませんか? 自分の刀なら、少し離れててもなんとなく分かりますよね?」
「それが……私の刀ではなくて、ちょっといろいろ事情があって、一緒に出掛けてて」
「なら自分の本丸に戻ってるんじゃねえか?」
「でも、何も言わずに消えたから……そういうタイプの刀じゃないし……もし見かけたら、あっちの駅前の……コーヒーショップの前にいてって伝えてくれませんか?」
「もちろん。俺たちも戻りがてら少し探してみます」
「すみません、ありがとうございます」
深く頭を下げて、もう一度駅への道をたどる。早足はいつの間にか小走りになっていた。橙色に染まったビルの陰には暗い夜が迫り、街灯が煌々と道行く人々を照らしている。はぐれた場所を通り過ぎ、駅まで行ってみても笹貫は見つからなかった。
どれほど現代に馴染んでいたとしても、刀剣男士の存在は人目を引く。近くにいれば絶対に分かりそうなものなのに、気配を感じることすらない。人が多いからまぎれてしまったのだろうか。立ち止まって周りを見回す私を、若者のグループが邪魔そうに避ける。慌てて端に寄るが、その途中でも何人かに迷惑そうな視線を向けられ身を縮めた。
(遡行軍を見つけたとか……? それとも、本当に本丸に戻っちゃった……? なんとなく、様子おかしかったし……)
ポケットからスマホを取り出すと、山姥切から店の地図が送られてきていた。それ以外に連絡はない。笹貫はスマホを持っていないから当然だ。だが私から彼の本丸に連絡をする手段はある。本丸に割り振られている番号さえ分かれば、電話をかけることは可能だった。
(はぐれてから……30分。早ければ、もう帰れてる)
面識のない本丸に、それもこんな内容で連絡をとってもいいのか、躊躇する。しかし背に腹は代えられないと、意を決して番号を押した。豊後の2650。緊張とともにスマホを耳に当てると、5回のコール音のあとに「もしもーし」と軽い声が応答した。
「こちら豊後、2650番の加州清光です。どちらさま?」
「あっ、あの、私……」
勢いで電話をしておいて、自分のことをどのように説明すればいいのかと言葉に迷った。政府の、監査室の審神者。そう名乗るのは簡単で、多少警戒はされるだろうが、身元が保証されているという点においては信頼を得られるはずだ。しかし私は今、その立場で電話をしているわけではない。私は今日、プライベートで笹貫と会っていたのだ。
「もしもし? イタズラなら切るけど?」
「すすすすみません! えっと、私……今日、笹貫と一緒に出掛けていた者ですが……!」
「……え、噂の?」
「噂とは……!?」
「えーっと、なんて言ったらいいかな。うちの笹貫が……」
「かっ、片思い云々ってやつならたぶんそれです……!」
まったくもって自分で言うことではなかったが、勢いのままおそらく笹貫が使っていたであろうフレーズを口にする。おそらく気をつかって言葉を選んでくれていた加州清光は「本人にも言ってたんだ、それ」と呆れたようにつぶやいた。
「で? あいつが何か粗相でもした?」
「あの、まだ戻ってないですか?」
「うん、たぶんまだ。そろそろ戻るとは思うけど……何かあった?」
「……」
本当のことを言うべきか、少し迷う。笹貫が姿を消したと分かったら、少なからず大事になるだろう。刀剣男士が現世で姿をくらますとはそういうことだ。最悪の場合、政府にも連絡が入ってしまう。
それに、もし他に何か意図があって笹貫が自ら離れたのならば、その状況を自分の本丸の刀や主たちに知られたいだろうか。もし原因が私に関係することならば、とても個人的な理由で自分から隠れてしまったのならば――きっと主や仲間たちには立ち入ってほしくはないだろう。私と笹貫だけで解決すべき問題だ。
(でも、万が一がある)
政府の職員として、理性がそう主張してやまない。遡行軍が出現していたら、何らかの理由で動けなくなっていたら。そう考えると、隠しておくことは得策ではない。ならばどれだけプライベートなことであったとしても、言わねばならない。
「大丈夫? 言いにくいことだったら主呼ぼうか?」
加州清光の気づかうような促しに従いかいつまんで状況を伝えると、彼はしばらくの沈黙ののちに近くにいたらしい刀剣男士を呼び止め、主を呼ぶよう指示した。真剣みを帯びた声音に、こちらの体温もみるみるうちに下がっていく。
「はぐれたの、何分前って言ったっけ?」
「30分くらいです。探したんだけど、全然見当たらなくて……本丸から、彼の状態は分かりますよね? 身体的な異常がないかとか、現世にいるのかとか、交戦中かとか……」
「うん、主に言って調べてもらう。分かったら折り返すから番号聞いてもいい?」
「はい。……すみません、私がついてたのに」
「いやいや、黙ってはぐれた方が悪いって」
謝る必要はないと慰めるように言って電話番号を聞き取ると、加州清光は電話を切った。ツーツーという電子音を聞いていたらなんだか情けない気分になってきて、俯いて目元をこする。
(落ち着け)
今の自分が、自覚している以上に混乱しているのは分かっている。困惑と焦燥でいっぱいで、きっと正しい判断もできていない。とにかく彼を見つけなければという思いが逸ってじっとしていられない。けれど、とにかく思う。一刻も早く彼を見つけなければ。ひとりきりでどこかに置いておいてはいけないと、そればかりを強く思う。
(……急にこんな状況になって不安になるのは当然。焦るのも当然。大丈夫、悪いことじゃない)
心を落ち着けようと、自分自身に何度も言い聞かせながら深く呼吸する。笹貫自身の状態は彼の主がすぐに調べてくれる。私にできることは、直接彼を探すことだけだ。すぐに電話に出られるようにとスマホは握ったまま、すっかり日が落ちてしまった駅前に足を踏み出した。
本丸からの連絡が入ったのは20分後のことだった。折り返しの電話をかけてくれたのは先ほどの加州清光で、笹貫の無事を確認できたと教えてくれた。
「身体的・精神的な異常はなし。敵性反応もなし。ひとまず無事は確認できた」
「連絡は? とれませんか?」
「近くにこんのすけを飛ばすってのもできなくはないけど……主が、一番あり得るのは迷子だろうってさ」
「そんなまさか」
繁華街に繰り出す人々の合間を抜けながら、電話口に異を唱える。まさか迷子だなんて、そんなの最もありえない。笹貫が姿を消してからすでに1時間以上は経過している。本丸に戻ろうと思えば戻れるほどの時間だ。あれだけ帰ることに執着している刀が1時間も迷子をやっている道理はないだろう。しかし加州は落ち着いた口調で「悪いけど」と続けた。すでに緊張感が薄れた口調だった。
「俺も主の説に一票かな。あれでかなり寂しがりっぽいからさぁ」
「寂しがりは寂しがりでしょうけど、なら余計に迷子にはならないのでは……?」
「じゃあ迷子ごっこ?」
「おちょくってます?」
「本気も本気。超がつくほどマジで言ってる」
「……あいつは私がこんなに心配して一生懸命探し回ってるのをどこかから見てせせら笑ってるクソ野郎ってことですか?」
「うちの笹貫、めちゃくちゃ心証悪くない?」
「私だってそんな悪いやつだなんて思いたくないですけど! でもじゃあ迷子ごっこってなんですか!」
「んー……まあとりあえず無事で現世にいるってことは分かったから、あとは任せちゃっていい?」
「はあ!? あなたのとこの笹貫でしょ!?」
事情を伝える前の葛藤を一時頭の隅に追いやって叫ぶように言うと、加州は「まあ心配はしてるけどさ」と少しだけ笑った。
「たぶんあんたに任せた方がうまくいくと思う。ついでに片思いに決着つけちゃったら?」
「片思いしてんのはあっちなんですけど!?」
「でも一線は越えちゃってんでしょ?」
「お宅の本丸の刀って全員デリカシーないの……!?」
「大丈夫大丈夫、さすがにこれは俺と主しか知らないから。じゃ、今日は帰り何時になっても……なんなら朝帰りでもいいから、あとよろしくー」
「おまっ、お前……豊後の2650番……覚えたからな……!」
「何その脅し」
ケラケラと笑いながら加州は受話器を置いたようだった。こちらの不安や焦燥とは対照的な軽い様子に苛立ちが募るが、未だに彼を見つけることができないという事実に、心が不安に塗り替えられる。商業ビルの中や路面店、目抜き通りや細い裏道まで何度も行き来するが空振りに終わる。途中で先ほどの同田貫正国と審神者と行き合ったが、やはり笹貫は見かけなかったと言って眉尻を下げた。礼を言って別れたあとは少し範囲を広げて走り回ったが、あの広い背中は見当たらなかった。
(闇雲に探しても見つからない……)
道路の端に寄って乱れた息を整えながらスマホを取り出す。山姥切たちから何件か連絡が入っていたが、彼の本丸からの着信はあれきりない。時計を見ればすでに2時間以上が経過していた。
(もう近くにいない? それともあっちも私を探して動き回ってる? ……分かんない。はぐれたときの集合場所でも決めておけばよかった。……ん? 集合場所?)
ふと、ある可能性が頭をよぎった。まさかと思いつつも、足は自然と走り出す。明るい街中を抜け、少しずつ暗くなる脇道を走り、すっかり夜空の濃紺で染められた大きな公園を横切る。不気味にすら見える散歩道を通り過ぎるころには脇腹が痛くなっていたが、それでも足を止めずにビルの合間の細道を走った。大きな道路を渡り、よく知った建物を横目に、目をつぶっても下りられるほど慣れた階段を駆け下りる。まったく人気がない、くすんだライトが光る地下鉄の改札前。
そこに、目的の男は立っていた。
「あれ、来た」
第一声は、どこか気が抜けた独り言のような声だった。驚きから本心が漏れ出てしまったようなつぶやき。ぱちぱちと瞼を上下させる様子から、私の登場は彼にとって意外なものだったらしいと知る。膝に両手を置いて呼吸を整え汗をぬぐう私を見ながら、彼は「光ってなかったのにな」と続けた。
「よく分かったね」
「……」
分からなかったと言いたい。おかげさまで2時間以上街中を走り回るハメになった。恥を忍んで知らない審神者に声をかけ、勇気を振り絞って笹貫の本丸にまで電話した。心配したし不安だった。何かあったらと、そう考えては振り払うように足を目を動かした。私がどれほど泣きそうだったか分かっているのかと、そう言ってやりたい。
けれど何故か、言葉は出てこなかった。
慣れない運動に折り曲げていた背中を伸ばし、まっすぐに笹貫を見据える。彼はまだ驚きに目を丸くしていたが、視線がぶつかると少したじろいだようだった。
「あー……スマホ、鳴ってない?」
あちらこちらに視線を動かしながら、笹貫は気まずそうに私のバッグを指さした。言われてみれば確かにスマホが振動している。目の前の刀を優先させたい気持ちが強かったが、着信が鳴りやむ気配はない。ポケットを上から覗き込むと、またしても山姥切からの連絡だった。無視するわけにもいかず応答する。その間も笹貫からは視線をそらさなかった。
「もしもし」
「もしもしじゃないよ、もしもしじゃ。何度連絡したと思ってるのかな?」
「ごめん、いろいろあった」
おそらく心配して連絡をくれていたのだろう、山姥切の小言を聞き流しながら頭上の電光掲示板を見上げる。あと数分で次の電車が来るようだったので、ICカードを取り出して笹貫に改札の方を指さした。意図は伝わったらしく、彼は困惑しながらも同じようにICカードを手に改札に進む。私もそのあとを追い、ホームに入る前に右手で笹貫の左手をつかんだ。
「えっ」
思わずといった様子で漏れた声は無視して、ホームの定位置へと彼を引っ張る。降車駅の出口に近い車両だった。
「聞いているのかな?」
「うん、聞いてる。ほんとにごめん」
まったく聞いていなかったが心をこめて電話口に謝罪すると、山姥切も多少は満足したようだった。ため息のあとに「それでいつ来るのかな」と、落ち着いた様子で言った。
「俺としては早々に合流してほしいところなんだが」
「何かあった?」
「君の刀が、主を探しに行くと言ってきかないんだ。しかも多少泣いている」
「え、飲ませたの?」
「間違って自分で飲んだんだ。それからずっとしくしくと」
「長義くん、それ主? 主だよね?」
「あっ」
「主、どうしたの? 大丈夫?」
普段の低く色っぽいお声はどうしたのか、ずいぶんと取り乱した様子で山姥切から電話を奪った福島に、少しだけ遠くを見る。お酒は飲まないと断言している彼は、アルコールが入るとだいぶ様子がおかしくなってしまう。いつもは決して口にしないような本心まで思いのままにペラペラと話したり、情緒が不安定になったり、感情表現も非常に豊かになるのだ。それらの言動は決して本人の本意ではないらしく、以前うっかり飲んでしまったとき、翌朝の彼は相当落ち込んでしょぼくれていた。
「どこで何してる? あの笹貫くんと何かあった?」
「うん、まあ、いろいろ」
「だから、だから迎えに行くって言ったじゃないか。こんなに遅い時間に女の子が1人だなんて心配で気が気じゃないよ。そういえばさっき聞いたんだけど、そもそも笹貫くんと一悶着あったのも酒が原因なんだって? やっぱり酒なんてロクなもんじゃない……!」
声量の調整すらできなくなっているのか、大声で嘆く福島の声にスマホを耳から離す。おそらく隣の笹貫にも聞こえていたのだろう。私の手を握る力が少しだけ強くなった気がした。
「福島、ちょっと聞いてほしいんだけど……」
ホームに私たち以外がいないのをいいことに、通話をスピーカーに切り替える。福島は半分泣いているような状態でしきりにお酒がいかに悪いものなのか、いつになったら私が来るのかという話を繰り返していたが、途中で強引に話を遮って本題を切り出した。
「私、今日は帰る」
笹貫がわずかに身じろぎ、腕と腕とが触れ合った。まじまじと私を見る視線には気が付いていたが、あえてそちらを見ることはなく、スマホ越しでも分かるほどに衝撃を受けたらしい福島にゆっくりと語りかける。
「また今度ご飯に行こう」
「……本当にトラブルだった?」
「違うよ」
「じゃあなんで……まさか、酒の失敗がまだ響いてるってこと?」
「失敗じゃない」
右手にぎゅうと力をこめて、はっきりと自分の刀の言葉を否定する。
「別に失敗じゃないよ、福島。私は、そう思ってない」
「……ごめん、言葉が悪かったね」
「ううん、大丈夫」
「でもやっぱり心配だな。小豆くんもそろそろ迎えに行くって言ってて」
「あ、電車来たから切るね」
福島はまだ何か話し続けていたが、線路の奥から見えた光に通話を終了させた。少し遅れて、耳が痛くなるような金属音と共に電車がホームに入ってくる。笹貫の手を引いて無人の車内に乗り込み、並んで椅子に座った。
電車が発車してからはお互いに無言だった。笹貫は何度か私の様子を窺ったり口を開こうとしたようだったが、口を引き結んで窓をにらむ私を見るとおずおずと引き下がっていた。つないだままの手を見下ろす気配もあったが、決して離してはやらなかった。
自宅の最寄り駅までの30分間は、来たときよりもずっと長く感じた。気まずい沈黙は耳に痛く、かと言って会話をする気にもなれない。降車駅について立ち上がるときも彼の手を引くだけで、まともな説明もできなかった。
改札を出て10分程歩くと築30年の何のおもしろみもないアパートに到着した。外階段を上り、片手で鍵を取り出して鍵穴に差し込む。午前中に掃除をしていたおかげで、彼を待たせることも、手を離すこともせずに部屋に入ることができた。笹貫の手を離したのは、内鍵をかけて靴を脱ぎ、電気をつけ、バッグを定位置に放り投げたあとだった。
「……ここ、あんたの家?」
「そう。お風呂入ってきて」
言いながらクローゼットを開け、男性用の衣服と下着、歯ブラシが入った紙袋を彼に押し付ける。
「……これ、誰の?」
「新品。政府所属の審神者は、緊急時に自分の刀を泊まらせることもあるから着替え置いておくのが推奨されてるの。早くお風呂……っていうかシャワー浴びてきて」
「えっと……なんかいまいち、状況分かってないんだけど」
「もう疲れて眠いから早くシャワー行って」
有無を言わせない強い口調で命令し、彼の背中を押してバスルームに向かわせる。笹貫はやはり困惑しきった様子でチラチラと私に視線を寄越したが、無視して脱衣所の扉を閉めた。そのまましばらく扉の前で待つ。やがて笹貫は観念したのか、シャワーの音が聞こえたことを確認してソファに体を沈めた。
1LDKのこのアパートは就職した年から住んでいる。社会人になれば自然と彼氏や友人ができて、この部屋で共に過ごすこともあるのだろうなんて夢を見ていたが、実際はほとんど毎日寝に帰るだけの場所と化していた。おかげさまで物は少なく、リビングにはソファとローテーブル、テレビと小さなキャビネットがあるだけ。寝室はベッドが置いてあるが、今朝まではその周辺に服や洗濯物が散らばり、最も生活感がある場所になっていた。
(掃除しておいてよかった)
半日歩き回った末に2時間も人を探し続け、挙げ句1キロ近く走ったのだから、全身が倦怠感でいっぱいだった。精神的にもかなり疲れている。ソファの上に横になって目を閉じると、そのまま眠れそうなほどに疲れていた。
(……なに、来たって)
暗くなった視界に、私を見つけたときの笹貫の顔が蘇る。驚いていた。困惑もしていたかもしれない。まさか来るとは思わなかったとでも言いたげな表情。しかし確かな喜びも、アイスブルーの中によぎっていた。
(わざとだったってこと? わざと自分からはぐれて、来るわけないって思いながら、ずっとあそこに突っ立ってたの? ひとりで、2時間も?)
バカじゃないかと、素直に思う。あれほど心配して走り回った私の気苦労を返してほしいとも思うし、正面から叱ってやりたいとも思う。けれど改札の前でそうだったように、行動に移す気にはなれない。
(私が来なかったらどうするつもりだったの? ああやってずっと待ってて、やっぱり来なかったって勝手にがっかりして、ひとりで帰って……それでまた、なんでもない顔して会いにくるつもりだったの?)
胸の辺りがぎゅうと苦しくなり、深く息を吐き出す。いつの間にか握りこんでいた手を開いて胸元にあてると、少しだけ呼吸が楽になったような気がした。
(なんなの。探してほしかったの? 見つけてほしかったの? そうやって私のこと試したつもりなら、本当にしょうもない。やめてよ、そういうの)
未だに彼の中の理屈はよく分からない。けれどきっと彼は何か不満で、私のことを試したくなったのだと思う。ふざけるなと思う。笹貫を探す間、どれほど私が不安だったか――けれどあの薄暗い地下で来るか分からない相手を待ち続けた彼は、もしかしたら私よりもずっと不安で、ずっと苦しかったのかもしれない。想像するだけで、息が詰まりそうになる。
(……言えばいいじゃん、そんなの。ここが不満だって。あんなことしなくたって……なんで私じゃなくて、自分のこと傷つけるようなことするの。……ほんと、何考えてるのか、全然分かんない。分かんなくて……辛い)
ふいにギシと床を踏む音が聞こえ、目を開いた。視線だけ動かすと、シャワーを浴びた笹貫が戻ってきたところで、体を起こす。彼は居心地悪そうに立ちすくんでいたので、ソファに座るように言い置いて私もお風呂に向かった。
「絶対そこから動かないでよ」
暗に部屋から出るなと念を押すと、彼は困惑したように頷いて、おとなしく私が寝転んでいたソファに腰を下ろした。手早くシャワーと歯みがきを済ませ、髪を乾かしてからリビングに戻ると、彼は行く前とまったく同じ場所に座っていた。ぼんやりと壁を見ていたアイスブルーが私を捉え、眉を八の字にして少しだけ笑う。どうしたらいいのかと問う瞳に返答はしない。ふと彼の髪の毛がまだ濡れていることに気が付き踵を返した。
「床座って」
洗面台から持ってきたドライヤーをコンセントにつなぎ、笹貫をソファの下に座らせる。私はソファに座り、彼の後ろから湿った黒髪に温風を当てた。
うっかり二晩ほど共に過ごしたわりに、こういったふれあいをするのは初めてだった。そもそも私の方が拒否していたから当然だが、少し新鮮な気分になる。あちこちに跳ねる髪の毛の合間に丁寧に風を通し、整えながら乾かしていく。ぺたんと落ち着いていた髪が少しずつ普段のヘアスタイルを取り戻していく様はことのほかおもしろく、やたらと時間をかけてドライヤーを続けた。その間も、笹貫はただじっと、されるがままになっていた。
「寝よう」
ドライヤーを片付けてリビングの電気を消し、間接照明のぼんやりとした灯りを頼りに寝室に向かう。笹貫は素直にベッドに上がったが、横たわる前に頭の位置を下げるように言うとまたしても眉尻を下げた。
「もうちょっと下」
「足、ギリギリなんだけど」
「ギリギリなら大丈夫でしょ」
「無茶苦茶言うねぇ」
苦笑混じりに笹貫は少しだけ頭の位置をずらした。ちょうど枕の下、私の胸元辺りに落ち着いた頭を、断りもなくそっと抱き込む。途端に彼の全身に妙な力が入ったのが分かったが、無視して瞼を下ろした。
「今日はもう寝ます」
「……早くない?」
「明日早起きすればいいよ。どうせお腹空くだろうし」
「作ってくれんの? 朝ごはん」
「先に起きた方が作る」
「……怒ってる?」
「怒ってるよ。でも謝らなくていい」
「……あのさ、もしかしてオレって今、ものすごいかっこ悪い感じになってる?」
「そりゃあね。迷子になって2時間も突っ立ってるやつのどこがかっこいいの?」
「たはは、手厳しいね。……どうしてあそこにいるって分かったの? 霊力ってやつ?」
「なんとなく」
「……かっこ悪いついでに聞いてほしいんだけど」
「なに」
「悪くない気分だったよ、あんたに探されるの」
「……見つけてもらえて、じゃないの?」
「そうやって見透かされんのも、悪い気しないもんだね、案外」
「……」
「……またさ、一緒にどっか行ってもいい?」
「……たまになら」
「たくさんしゃべって、いろんなとこブラブラして……それで、またここに帰ってきたいなぁ、オレ」
「好きにしていいから、もう黙って寝て」
「うん」
「……」
「……ここ、すごく安心する。よく眠れそうだよ」
「……おやすみ」
「おやすみ」
笹貫は私の体に手を回しもぞもぞと体勢を変えていたが、据わりのいい位置を見つけたのか動かなくなった。徐々に体から力が抜けていき、やがて小さな寝息が聞こえ始める。そっと目を開くと、彼は私の胸元に額を埋めるようにして眠っていた。安心しきったあどけない寝顔を、起こさないようにそっと抱き込む。
言ってやりたいことは山のようにあった。責めたい気持ちも、慰めてあげたいような気持ちも、全部本人にぶつけてやりたい。けれどどれだけ言葉を尽くすよりも、こうして一度抱きしめる方が、よっぽど私の気持ちが伝わる気がした。
(……ほんとかっこ悪い。しょうもないことばっかりするし、鬱陶しいし、ときどき怖い。でも、なんだろうな……ほっとけないのかな)
彼と過ごす穏やかな時間は悪いものではなかった。一途と言えば一途な感情を向けられることだって、きっと本音では、それほど悪い気はしていない。余裕があって、自信もありそうで、いつでも悠然と構えていて、強引でしたたかで――けれどふとその裏側を覗いてしまうと、途端にそばにいてやらなければという気分にさせられる。
(ダメ男に引っかかるってこういう感じなんだろうな)
自分自身に呆れながらサイドデスクの照明に手を伸ばす。あと数センチだけ指先が届かず体を浮かせるが、体に巻き付いた腕が私を引き戻し、足まで絡ませてさらに強く抱き込まれた。もしかして起きているのかと軽く髪の毛を引っ張って名前を呼んでみるも、もぞりと動くだけで起きている気配はない。しばらくの間あの手この手で奮闘し続けたが、5分程してから照明を消すことを諦め、今度こそ瞼を下ろして眠りについた。
「……」
「笹貫がどうしたって?」
「……」
「もしもし? 聞こえてるか?」
「……うん、あの、本当に悪いんだけど、先にお店行ってて」
「は? ……もしかして、またあの刀絡みのトラブルかな?」
「そんなとこ。ごめん、みんなにも謝っておいて」
「あ、おい!」
電話越しに説明を求める山姥切に心の中で謝罪して通話を終わらせる。スマホを乱雑にポケットに突っ込み、早足で来た道を戻った。
(どこいったの……?)
きょろきょろと辺りを見回しながら、特徴的な緑混じりの黒髪を探す。あんなにも目立つ男がどこにも見当たらない。あの一瞬、目を離した隙に消えてしまった。山姥切の言う通りトラブルなのか、それとも他に理由があって離れざるを得なかったのか。理由は分からない。とにかく早く見つけなくてはと、人の合間を進みながら目を皿のようにしてひたすらあの刀の姿を探す。しかしカフェまで戻ってきても、笹貫を見つけることはできなかった。
(どうしよ、連絡もできないし、心当たりもない)
広い街だ。土曜日の夕食時だから人出も多い。手がかりのひとつでもなければ見つけることなどできないだろう。じわじわと湧き上がる焦燥に、にじんだ汗がひやりと冷える感覚が気持ち悪い。カフェの前で立ちつくし、辺りに視線を走らせる。ふと通りの向こう側に、先ほど歩いていった審神者と同田貫正国を見つけた。
「っ、あの!」
「はっ、はい!?」
上ずった声で返事をした審神者に申し訳なく思いながら、自分も審神者であることを口早に説明する。警戒した様子の同田貫正国には気が付いていたが、詳細な事情は省いて笹貫を見なかったかと問うと、ふたりは顔を見合わせてから首を横に振った。
「見てねえな。はぐれたのか?」
「はい、ちょっと目を離した隙にいなくなって」
「霊力を追えば見つけられませんか? 自分の刀なら、少し離れててもなんとなく分かりますよね?」
「それが……私の刀ではなくて、ちょっといろいろ事情があって、一緒に出掛けてて」
「なら自分の本丸に戻ってるんじゃねえか?」
「でも、何も言わずに消えたから……そういうタイプの刀じゃないし……もし見かけたら、あっちの駅前の……コーヒーショップの前にいてって伝えてくれませんか?」
「もちろん。俺たちも戻りがてら少し探してみます」
「すみません、ありがとうございます」
深く頭を下げて、もう一度駅への道をたどる。早足はいつの間にか小走りになっていた。橙色に染まったビルの陰には暗い夜が迫り、街灯が煌々と道行く人々を照らしている。はぐれた場所を通り過ぎ、駅まで行ってみても笹貫は見つからなかった。
どれほど現代に馴染んでいたとしても、刀剣男士の存在は人目を引く。近くにいれば絶対に分かりそうなものなのに、気配を感じることすらない。人が多いからまぎれてしまったのだろうか。立ち止まって周りを見回す私を、若者のグループが邪魔そうに避ける。慌てて端に寄るが、その途中でも何人かに迷惑そうな視線を向けられ身を縮めた。
(遡行軍を見つけたとか……? それとも、本当に本丸に戻っちゃった……? なんとなく、様子おかしかったし……)
ポケットからスマホを取り出すと、山姥切から店の地図が送られてきていた。それ以外に連絡はない。笹貫はスマホを持っていないから当然だ。だが私から彼の本丸に連絡をする手段はある。本丸に割り振られている番号さえ分かれば、電話をかけることは可能だった。
(はぐれてから……30分。早ければ、もう帰れてる)
面識のない本丸に、それもこんな内容で連絡をとってもいいのか、躊躇する。しかし背に腹は代えられないと、意を決して番号を押した。豊後の2650。緊張とともにスマホを耳に当てると、5回のコール音のあとに「もしもーし」と軽い声が応答した。
「こちら豊後、2650番の加州清光です。どちらさま?」
「あっ、あの、私……」
勢いで電話をしておいて、自分のことをどのように説明すればいいのかと言葉に迷った。政府の、監査室の審神者。そう名乗るのは簡単で、多少警戒はされるだろうが、身元が保証されているという点においては信頼を得られるはずだ。しかし私は今、その立場で電話をしているわけではない。私は今日、プライベートで笹貫と会っていたのだ。
「もしもし? イタズラなら切るけど?」
「すすすすみません! えっと、私……今日、笹貫と一緒に出掛けていた者ですが……!」
「……え、噂の?」
「噂とは……!?」
「えーっと、なんて言ったらいいかな。うちの笹貫が……」
「かっ、片思い云々ってやつならたぶんそれです……!」
まったくもって自分で言うことではなかったが、勢いのままおそらく笹貫が使っていたであろうフレーズを口にする。おそらく気をつかって言葉を選んでくれていた加州清光は「本人にも言ってたんだ、それ」と呆れたようにつぶやいた。
「で? あいつが何か粗相でもした?」
「あの、まだ戻ってないですか?」
「うん、たぶんまだ。そろそろ戻るとは思うけど……何かあった?」
「……」
本当のことを言うべきか、少し迷う。笹貫が姿を消したと分かったら、少なからず大事になるだろう。刀剣男士が現世で姿をくらますとはそういうことだ。最悪の場合、政府にも連絡が入ってしまう。
それに、もし他に何か意図があって笹貫が自ら離れたのならば、その状況を自分の本丸の刀や主たちに知られたいだろうか。もし原因が私に関係することならば、とても個人的な理由で自分から隠れてしまったのならば――きっと主や仲間たちには立ち入ってほしくはないだろう。私と笹貫だけで解決すべき問題だ。
(でも、万が一がある)
政府の職員として、理性がそう主張してやまない。遡行軍が出現していたら、何らかの理由で動けなくなっていたら。そう考えると、隠しておくことは得策ではない。ならばどれだけプライベートなことであったとしても、言わねばならない。
「大丈夫? 言いにくいことだったら主呼ぼうか?」
加州清光の気づかうような促しに従いかいつまんで状況を伝えると、彼はしばらくの沈黙ののちに近くにいたらしい刀剣男士を呼び止め、主を呼ぶよう指示した。真剣みを帯びた声音に、こちらの体温もみるみるうちに下がっていく。
「はぐれたの、何分前って言ったっけ?」
「30分くらいです。探したんだけど、全然見当たらなくて……本丸から、彼の状態は分かりますよね? 身体的な異常がないかとか、現世にいるのかとか、交戦中かとか……」
「うん、主に言って調べてもらう。分かったら折り返すから番号聞いてもいい?」
「はい。……すみません、私がついてたのに」
「いやいや、黙ってはぐれた方が悪いって」
謝る必要はないと慰めるように言って電話番号を聞き取ると、加州清光は電話を切った。ツーツーという電子音を聞いていたらなんだか情けない気分になってきて、俯いて目元をこする。
(落ち着け)
今の自分が、自覚している以上に混乱しているのは分かっている。困惑と焦燥でいっぱいで、きっと正しい判断もできていない。とにかく彼を見つけなければという思いが逸ってじっとしていられない。けれど、とにかく思う。一刻も早く彼を見つけなければ。ひとりきりでどこかに置いておいてはいけないと、そればかりを強く思う。
(……急にこんな状況になって不安になるのは当然。焦るのも当然。大丈夫、悪いことじゃない)
心を落ち着けようと、自分自身に何度も言い聞かせながら深く呼吸する。笹貫自身の状態は彼の主がすぐに調べてくれる。私にできることは、直接彼を探すことだけだ。すぐに電話に出られるようにとスマホは握ったまま、すっかり日が落ちてしまった駅前に足を踏み出した。
本丸からの連絡が入ったのは20分後のことだった。折り返しの電話をかけてくれたのは先ほどの加州清光で、笹貫の無事を確認できたと教えてくれた。
「身体的・精神的な異常はなし。敵性反応もなし。ひとまず無事は確認できた」
「連絡は? とれませんか?」
「近くにこんのすけを飛ばすってのもできなくはないけど……主が、一番あり得るのは迷子だろうってさ」
「そんなまさか」
繁華街に繰り出す人々の合間を抜けながら、電話口に異を唱える。まさか迷子だなんて、そんなの最もありえない。笹貫が姿を消してからすでに1時間以上は経過している。本丸に戻ろうと思えば戻れるほどの時間だ。あれだけ帰ることに執着している刀が1時間も迷子をやっている道理はないだろう。しかし加州は落ち着いた口調で「悪いけど」と続けた。すでに緊張感が薄れた口調だった。
「俺も主の説に一票かな。あれでかなり寂しがりっぽいからさぁ」
「寂しがりは寂しがりでしょうけど、なら余計に迷子にはならないのでは……?」
「じゃあ迷子ごっこ?」
「おちょくってます?」
「本気も本気。超がつくほどマジで言ってる」
「……あいつは私がこんなに心配して一生懸命探し回ってるのをどこかから見てせせら笑ってるクソ野郎ってことですか?」
「うちの笹貫、めちゃくちゃ心証悪くない?」
「私だってそんな悪いやつだなんて思いたくないですけど! でもじゃあ迷子ごっこってなんですか!」
「んー……まあとりあえず無事で現世にいるってことは分かったから、あとは任せちゃっていい?」
「はあ!? あなたのとこの笹貫でしょ!?」
事情を伝える前の葛藤を一時頭の隅に追いやって叫ぶように言うと、加州は「まあ心配はしてるけどさ」と少しだけ笑った。
「たぶんあんたに任せた方がうまくいくと思う。ついでに片思いに決着つけちゃったら?」
「片思いしてんのはあっちなんですけど!?」
「でも一線は越えちゃってんでしょ?」
「お宅の本丸の刀って全員デリカシーないの……!?」
「大丈夫大丈夫、さすがにこれは俺と主しか知らないから。じゃ、今日は帰り何時になっても……なんなら朝帰りでもいいから、あとよろしくー」
「おまっ、お前……豊後の2650番……覚えたからな……!」
「何その脅し」
ケラケラと笑いながら加州は受話器を置いたようだった。こちらの不安や焦燥とは対照的な軽い様子に苛立ちが募るが、未だに彼を見つけることができないという事実に、心が不安に塗り替えられる。商業ビルの中や路面店、目抜き通りや細い裏道まで何度も行き来するが空振りに終わる。途中で先ほどの同田貫正国と審神者と行き合ったが、やはり笹貫は見かけなかったと言って眉尻を下げた。礼を言って別れたあとは少し範囲を広げて走り回ったが、あの広い背中は見当たらなかった。
(闇雲に探しても見つからない……)
道路の端に寄って乱れた息を整えながらスマホを取り出す。山姥切たちから何件か連絡が入っていたが、彼の本丸からの着信はあれきりない。時計を見ればすでに2時間以上が経過していた。
(もう近くにいない? それともあっちも私を探して動き回ってる? ……分かんない。はぐれたときの集合場所でも決めておけばよかった。……ん? 集合場所?)
ふと、ある可能性が頭をよぎった。まさかと思いつつも、足は自然と走り出す。明るい街中を抜け、少しずつ暗くなる脇道を走り、すっかり夜空の濃紺で染められた大きな公園を横切る。不気味にすら見える散歩道を通り過ぎるころには脇腹が痛くなっていたが、それでも足を止めずにビルの合間の細道を走った。大きな道路を渡り、よく知った建物を横目に、目をつぶっても下りられるほど慣れた階段を駆け下りる。まったく人気がない、くすんだライトが光る地下鉄の改札前。
そこに、目的の男は立っていた。
「あれ、来た」
第一声は、どこか気が抜けた独り言のような声だった。驚きから本心が漏れ出てしまったようなつぶやき。ぱちぱちと瞼を上下させる様子から、私の登場は彼にとって意外なものだったらしいと知る。膝に両手を置いて呼吸を整え汗をぬぐう私を見ながら、彼は「光ってなかったのにな」と続けた。
「よく分かったね」
「……」
分からなかったと言いたい。おかげさまで2時間以上街中を走り回るハメになった。恥を忍んで知らない審神者に声をかけ、勇気を振り絞って笹貫の本丸にまで電話した。心配したし不安だった。何かあったらと、そう考えては振り払うように足を目を動かした。私がどれほど泣きそうだったか分かっているのかと、そう言ってやりたい。
けれど何故か、言葉は出てこなかった。
慣れない運動に折り曲げていた背中を伸ばし、まっすぐに笹貫を見据える。彼はまだ驚きに目を丸くしていたが、視線がぶつかると少したじろいだようだった。
「あー……スマホ、鳴ってない?」
あちらこちらに視線を動かしながら、笹貫は気まずそうに私のバッグを指さした。言われてみれば確かにスマホが振動している。目の前の刀を優先させたい気持ちが強かったが、着信が鳴りやむ気配はない。ポケットを上から覗き込むと、またしても山姥切からの連絡だった。無視するわけにもいかず応答する。その間も笹貫からは視線をそらさなかった。
「もしもし」
「もしもしじゃないよ、もしもしじゃ。何度連絡したと思ってるのかな?」
「ごめん、いろいろあった」
おそらく心配して連絡をくれていたのだろう、山姥切の小言を聞き流しながら頭上の電光掲示板を見上げる。あと数分で次の電車が来るようだったので、ICカードを取り出して笹貫に改札の方を指さした。意図は伝わったらしく、彼は困惑しながらも同じようにICカードを手に改札に進む。私もそのあとを追い、ホームに入る前に右手で笹貫の左手をつかんだ。
「えっ」
思わずといった様子で漏れた声は無視して、ホームの定位置へと彼を引っ張る。降車駅の出口に近い車両だった。
「聞いているのかな?」
「うん、聞いてる。ほんとにごめん」
まったく聞いていなかったが心をこめて電話口に謝罪すると、山姥切も多少は満足したようだった。ため息のあとに「それでいつ来るのかな」と、落ち着いた様子で言った。
「俺としては早々に合流してほしいところなんだが」
「何かあった?」
「君の刀が、主を探しに行くと言ってきかないんだ。しかも多少泣いている」
「え、飲ませたの?」
「間違って自分で飲んだんだ。それからずっとしくしくと」
「長義くん、それ主? 主だよね?」
「あっ」
「主、どうしたの? 大丈夫?」
普段の低く色っぽいお声はどうしたのか、ずいぶんと取り乱した様子で山姥切から電話を奪った福島に、少しだけ遠くを見る。お酒は飲まないと断言している彼は、アルコールが入るとだいぶ様子がおかしくなってしまう。いつもは決して口にしないような本心まで思いのままにペラペラと話したり、情緒が不安定になったり、感情表現も非常に豊かになるのだ。それらの言動は決して本人の本意ではないらしく、以前うっかり飲んでしまったとき、翌朝の彼は相当落ち込んでしょぼくれていた。
「どこで何してる? あの笹貫くんと何かあった?」
「うん、まあ、いろいろ」
「だから、だから迎えに行くって言ったじゃないか。こんなに遅い時間に女の子が1人だなんて心配で気が気じゃないよ。そういえばさっき聞いたんだけど、そもそも笹貫くんと一悶着あったのも酒が原因なんだって? やっぱり酒なんてロクなもんじゃない……!」
声量の調整すらできなくなっているのか、大声で嘆く福島の声にスマホを耳から離す。おそらく隣の笹貫にも聞こえていたのだろう。私の手を握る力が少しだけ強くなった気がした。
「福島、ちょっと聞いてほしいんだけど……」
ホームに私たち以外がいないのをいいことに、通話をスピーカーに切り替える。福島は半分泣いているような状態でしきりにお酒がいかに悪いものなのか、いつになったら私が来るのかという話を繰り返していたが、途中で強引に話を遮って本題を切り出した。
「私、今日は帰る」
笹貫がわずかに身じろぎ、腕と腕とが触れ合った。まじまじと私を見る視線には気が付いていたが、あえてそちらを見ることはなく、スマホ越しでも分かるほどに衝撃を受けたらしい福島にゆっくりと語りかける。
「また今度ご飯に行こう」
「……本当にトラブルだった?」
「違うよ」
「じゃあなんで……まさか、酒の失敗がまだ響いてるってこと?」
「失敗じゃない」
右手にぎゅうと力をこめて、はっきりと自分の刀の言葉を否定する。
「別に失敗じゃないよ、福島。私は、そう思ってない」
「……ごめん、言葉が悪かったね」
「ううん、大丈夫」
「でもやっぱり心配だな。小豆くんもそろそろ迎えに行くって言ってて」
「あ、電車来たから切るね」
福島はまだ何か話し続けていたが、線路の奥から見えた光に通話を終了させた。少し遅れて、耳が痛くなるような金属音と共に電車がホームに入ってくる。笹貫の手を引いて無人の車内に乗り込み、並んで椅子に座った。
電車が発車してからはお互いに無言だった。笹貫は何度か私の様子を窺ったり口を開こうとしたようだったが、口を引き結んで窓をにらむ私を見るとおずおずと引き下がっていた。つないだままの手を見下ろす気配もあったが、決して離してはやらなかった。
自宅の最寄り駅までの30分間は、来たときよりもずっと長く感じた。気まずい沈黙は耳に痛く、かと言って会話をする気にもなれない。降車駅について立ち上がるときも彼の手を引くだけで、まともな説明もできなかった。
改札を出て10分程歩くと築30年の何のおもしろみもないアパートに到着した。外階段を上り、片手で鍵を取り出して鍵穴に差し込む。午前中に掃除をしていたおかげで、彼を待たせることも、手を離すこともせずに部屋に入ることができた。笹貫の手を離したのは、内鍵をかけて靴を脱ぎ、電気をつけ、バッグを定位置に放り投げたあとだった。
「……ここ、あんたの家?」
「そう。お風呂入ってきて」
言いながらクローゼットを開け、男性用の衣服と下着、歯ブラシが入った紙袋を彼に押し付ける。
「……これ、誰の?」
「新品。政府所属の審神者は、緊急時に自分の刀を泊まらせることもあるから着替え置いておくのが推奨されてるの。早くお風呂……っていうかシャワー浴びてきて」
「えっと……なんかいまいち、状況分かってないんだけど」
「もう疲れて眠いから早くシャワー行って」
有無を言わせない強い口調で命令し、彼の背中を押してバスルームに向かわせる。笹貫はやはり困惑しきった様子でチラチラと私に視線を寄越したが、無視して脱衣所の扉を閉めた。そのまましばらく扉の前で待つ。やがて笹貫は観念したのか、シャワーの音が聞こえたことを確認してソファに体を沈めた。
1LDKのこのアパートは就職した年から住んでいる。社会人になれば自然と彼氏や友人ができて、この部屋で共に過ごすこともあるのだろうなんて夢を見ていたが、実際はほとんど毎日寝に帰るだけの場所と化していた。おかげさまで物は少なく、リビングにはソファとローテーブル、テレビと小さなキャビネットがあるだけ。寝室はベッドが置いてあるが、今朝まではその周辺に服や洗濯物が散らばり、最も生活感がある場所になっていた。
(掃除しておいてよかった)
半日歩き回った末に2時間も人を探し続け、挙げ句1キロ近く走ったのだから、全身が倦怠感でいっぱいだった。精神的にもかなり疲れている。ソファの上に横になって目を閉じると、そのまま眠れそうなほどに疲れていた。
(……なに、来たって)
暗くなった視界に、私を見つけたときの笹貫の顔が蘇る。驚いていた。困惑もしていたかもしれない。まさか来るとは思わなかったとでも言いたげな表情。しかし確かな喜びも、アイスブルーの中によぎっていた。
(わざとだったってこと? わざと自分からはぐれて、来るわけないって思いながら、ずっとあそこに突っ立ってたの? ひとりで、2時間も?)
バカじゃないかと、素直に思う。あれほど心配して走り回った私の気苦労を返してほしいとも思うし、正面から叱ってやりたいとも思う。けれど改札の前でそうだったように、行動に移す気にはなれない。
(私が来なかったらどうするつもりだったの? ああやってずっと待ってて、やっぱり来なかったって勝手にがっかりして、ひとりで帰って……それでまた、なんでもない顔して会いにくるつもりだったの?)
胸の辺りがぎゅうと苦しくなり、深く息を吐き出す。いつの間にか握りこんでいた手を開いて胸元にあてると、少しだけ呼吸が楽になったような気がした。
(なんなの。探してほしかったの? 見つけてほしかったの? そうやって私のこと試したつもりなら、本当にしょうもない。やめてよ、そういうの)
未だに彼の中の理屈はよく分からない。けれどきっと彼は何か不満で、私のことを試したくなったのだと思う。ふざけるなと思う。笹貫を探す間、どれほど私が不安だったか――けれどあの薄暗い地下で来るか分からない相手を待ち続けた彼は、もしかしたら私よりもずっと不安で、ずっと苦しかったのかもしれない。想像するだけで、息が詰まりそうになる。
(……言えばいいじゃん、そんなの。ここが不満だって。あんなことしなくたって……なんで私じゃなくて、自分のこと傷つけるようなことするの。……ほんと、何考えてるのか、全然分かんない。分かんなくて……辛い)
ふいにギシと床を踏む音が聞こえ、目を開いた。視線だけ動かすと、シャワーを浴びた笹貫が戻ってきたところで、体を起こす。彼は居心地悪そうに立ちすくんでいたので、ソファに座るように言い置いて私もお風呂に向かった。
「絶対そこから動かないでよ」
暗に部屋から出るなと念を押すと、彼は困惑したように頷いて、おとなしく私が寝転んでいたソファに腰を下ろした。手早くシャワーと歯みがきを済ませ、髪を乾かしてからリビングに戻ると、彼は行く前とまったく同じ場所に座っていた。ぼんやりと壁を見ていたアイスブルーが私を捉え、眉を八の字にして少しだけ笑う。どうしたらいいのかと問う瞳に返答はしない。ふと彼の髪の毛がまだ濡れていることに気が付き踵を返した。
「床座って」
洗面台から持ってきたドライヤーをコンセントにつなぎ、笹貫をソファの下に座らせる。私はソファに座り、彼の後ろから湿った黒髪に温風を当てた。
うっかり二晩ほど共に過ごしたわりに、こういったふれあいをするのは初めてだった。そもそも私の方が拒否していたから当然だが、少し新鮮な気分になる。あちこちに跳ねる髪の毛の合間に丁寧に風を通し、整えながら乾かしていく。ぺたんと落ち着いていた髪が少しずつ普段のヘアスタイルを取り戻していく様はことのほかおもしろく、やたらと時間をかけてドライヤーを続けた。その間も、笹貫はただじっと、されるがままになっていた。
「寝よう」
ドライヤーを片付けてリビングの電気を消し、間接照明のぼんやりとした灯りを頼りに寝室に向かう。笹貫は素直にベッドに上がったが、横たわる前に頭の位置を下げるように言うとまたしても眉尻を下げた。
「もうちょっと下」
「足、ギリギリなんだけど」
「ギリギリなら大丈夫でしょ」
「無茶苦茶言うねぇ」
苦笑混じりに笹貫は少しだけ頭の位置をずらした。ちょうど枕の下、私の胸元辺りに落ち着いた頭を、断りもなくそっと抱き込む。途端に彼の全身に妙な力が入ったのが分かったが、無視して瞼を下ろした。
「今日はもう寝ます」
「……早くない?」
「明日早起きすればいいよ。どうせお腹空くだろうし」
「作ってくれんの? 朝ごはん」
「先に起きた方が作る」
「……怒ってる?」
「怒ってるよ。でも謝らなくていい」
「……あのさ、もしかしてオレって今、ものすごいかっこ悪い感じになってる?」
「そりゃあね。迷子になって2時間も突っ立ってるやつのどこがかっこいいの?」
「たはは、手厳しいね。……どうしてあそこにいるって分かったの? 霊力ってやつ?」
「なんとなく」
「……かっこ悪いついでに聞いてほしいんだけど」
「なに」
「悪くない気分だったよ、あんたに探されるの」
「……見つけてもらえて、じゃないの?」
「そうやって見透かされんのも、悪い気しないもんだね、案外」
「……」
「……またさ、一緒にどっか行ってもいい?」
「……たまになら」
「たくさんしゃべって、いろんなとこブラブラして……それで、またここに帰ってきたいなぁ、オレ」
「好きにしていいから、もう黙って寝て」
「うん」
「……」
「……ここ、すごく安心する。よく眠れそうだよ」
「……おやすみ」
「おやすみ」
笹貫は私の体に手を回しもぞもぞと体勢を変えていたが、据わりのいい位置を見つけたのか動かなくなった。徐々に体から力が抜けていき、やがて小さな寝息が聞こえ始める。そっと目を開くと、彼は私の胸元に額を埋めるようにして眠っていた。安心しきったあどけない寝顔を、起こさないようにそっと抱き込む。
言ってやりたいことは山のようにあった。責めたい気持ちも、慰めてあげたいような気持ちも、全部本人にぶつけてやりたい。けれどどれだけ言葉を尽くすよりも、こうして一度抱きしめる方が、よっぽど私の気持ちが伝わる気がした。
(……ほんとかっこ悪い。しょうもないことばっかりするし、鬱陶しいし、ときどき怖い。でも、なんだろうな……ほっとけないのかな)
彼と過ごす穏やかな時間は悪いものではなかった。一途と言えば一途な感情を向けられることだって、きっと本音では、それほど悪い気はしていない。余裕があって、自信もありそうで、いつでも悠然と構えていて、強引でしたたかで――けれどふとその裏側を覗いてしまうと、途端にそばにいてやらなければという気分にさせられる。
(ダメ男に引っかかるってこういう感じなんだろうな)
自分自身に呆れながらサイドデスクの照明に手を伸ばす。あと数センチだけ指先が届かず体を浮かせるが、体に巻き付いた腕が私を引き戻し、足まで絡ませてさらに強く抱き込まれた。もしかして起きているのかと軽く髪の毛を引っ張って名前を呼んでみるも、もぞりと動くだけで起きている気配はない。しばらくの間あの手この手で奮闘し続けたが、5分程してから照明を消すことを諦め、今度こそ瞼を下ろして眠りについた。