FRYDAY NIGHT GAME → nightly night love(笹さに)
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土曜日は朝から落ち着かない気分だった。それほど早くベッドに入ったわけではなかったのに早朝に目が覚め、珍しくしっかり朝食を食べた。食器を片付け、洗濯機を回し、掃除機をかけ、午後に着る服を選び、化粧をして――昼食前にやるべきことはすべて終わってしまい、時間を持て余すことになってしまった。普段の私ならば、こんなにもそわそわするのは偉い人が出席する会議の直前くらいのもの。それほどまでに緊張しているのか、あるいは楽しみにしているのか。考え始めるとあまりよくない答えが出そうだったので、思考を止めて少し早めに家を出ることにした。
笹貫が指定したのは庁舎の目と鼻の先にある地下鉄の駅だった。平日と同様に自宅の最寄駅から電車に乗り込み、あとはぼんやりと到着を待つばかりだ。出勤のときはあっという間に過ぎてしまう乗車時間が、今日はやけに長く感じる。何個目の駅で降りるかなど体に染みついているはずなのに、車両のドアが開くたびに顔を上げ、駅名を確認して座席に座り直すという無駄な行動を繰り返してしまった。
(何しようかな……)
少しでも時間を有効に使おうと、意識を切り替えてスマホを取り出す。
笹貫と出かけること自体は実は初めてではない。彼のしつこい、もとい粘り強いお誘いに負けて、何度か万屋街に出かけたことがある。そのときはお互いの要望を出し合って店を巡ったりお茶をしたりしたが、今回はどうやら現世をブラブラするつもりらしい。万屋街ならばどちらも土地勘があるが、現世はそうもいかないだろう。私がリードしなければと、スマホを見ながら合流後のプランを考える。
(オフィス街って土日はお店閉まってるんだよなぁ……笹貫が好きそうなお店もないし……)
夜の飲み会の店は2駅ほど先になる。最後はそこで解散できるようなルートを組まねばならないから、いっそのこと散歩がてら、歩いてその辺りまで行ってもいいかもしれない。
(あとは笹貫に聞いてみて決めよう)
お茶ができそうな店だけは何カ所か当たりをつけてスマホをしまう。ちょうど目的の駅についたところだったので、慌てて電車を降りて改札に向かった。
平日の出勤時間はいやというほど込み合っている駅も、今日は無人と言ってもいいくらいに人気がなかった。案内板を見ながら改札や出口を探している数組の観光客を横目に、普段通り改札に向かう。改札の外にも人気はない。うろうろとさ迷っている観光客に、休日出勤をしているらしい哀れなサラリーマン、それに――肩ほどまである黒髪をかきあげながら、出口につながる通路を見つめる、やたらと体格が良い男性。改札には背を向けるようにして立っているが、それが待ち合わせの相手であることはすぐに分かった。
(早すぎでしょ……)
腕時計を見れば、長針はまだ8を指している。20分前に到着した私よりも早く待ち合わせ場所に立っているとは、どういう了見なのだろう。
(呆れればいいのか、喜べばいいのか)
複雑な心境でため息を飲み込んで改札を出る。彼がこちらに気が付いていないのをいいことに、じっとその背中を見てみることにした。黒いTシャツにシンプルなスキニー、少し派手にも思えるスニーカー。いつもは結っている髪の毛は下ろされ、緑混じりの黒髪があちこちに跳ねているが、あれは計算してセットしたものなのだろう。いかにもこなれた若者といった出で立ちだ。戦闘装束しか見たことはなかったが、現代の服もよく似合っている。というか、驚くほどに違和感がない。まさか彼が人間ではないなどとは、この駅にいる誰もが想像しないだろう。
(ええー……あれの隣歩くの嫌すぎぃ……)
庁舎内や万屋街ならば特に抵抗はない。人間と刀剣男士が並べば、容姿的にはどうあがいても不釣り合いに見えてしまうことが大半だと、みんなが理解しているからだ。しかし現世ではそうはいかない。げんなりしながら自分の服を見下ろす。きっと歩くことになるし、夜は夜で知った顔同士での飲み会だからとラフな格好で来てしまった。
(もうちょっとおしゃれしてくればよかった)
飲み込んだはずのため息が別の意味を伴って口から漏れ出る。しかし今さら帰って着替えることなどできるわけもないので、諦めて後ろからその刀の名前を呼んだ。ピクリと肩を揺らしてからゆっくりと振り向いた笹貫は、かけていたサングラスを半分だけ下ろして私を見た。
「び……っくりした……」
「そんなに?」
「だってまだ……15分くらいあるでしょ?」
「……思ったよりスムーズに着いちゃったの」
「こんなにあっさり後ろ取られちゃったし。これは2回目でも驚くなぁ」
「2回目?」
「ああ、本丸でちょっとね」
「ふーん? ……そっちもかなり早く着いてたんじゃない? 時間間違ったの?」
「いや? 待つのは苦じゃないからね」
「だからって限度が……いつからいたの?」
「んー……あんたがどんな顔して来るのか考えてたらあっという間だったからなぁ……もう出る? って言っても完全ノープランなんだけど」
「……近くに大きい公園あるから、散歩でもする?」
「お、いいねぇ、それ。行こ」
差し出された左手の上にできる限りの力で右手を振り下ろす。いつの間にか無人になっていた改札前にパンと乾いた音が響き渡ったが、笹貫はまったく怯むことなくそのまま私の手を握ろうとした。慌てて手を引けば笹貫は「残念」と口の端を上げ、駅の出口へと向かう。別の出口の方が公園には近かったが、わざわざ呼び戻すほどでもなかったので早足で隣に並んだ。
階段を上がって大きな道路を渡り、ビルの合間の道を進む。5分とかからず見えてきた公園は、江戸時代は大藩の大名屋敷が置かれた場所だ。広い敷地内には緑が多く、シーズンごとに作られている花壇は見ごたえもある。イベントを開催していることも多いが、今はちょうど入れ替わりのシーズンらしい。賑わってはいるものの、全体的に落ち着いた雰囲気があった。
「へぇ、こんなとこあったんだ」
笹貫はきょろきょろと辺りを見回しながら、少しペースを落として散策を始めた。オフィス街側から入ると、まずは木々が日陰を作る散歩道が伸びている。道々の合間にはテニスコートや池、花壇があるが、笹貫は左に折れて池の方に足を進めた。
「いいね、賑やかで。よく来るの?」
「たまに。公園の向こう側に抜けるときに便利だから」
「なんだ、花よりなんとかってやつ?」
「う……いやいや、花も団子も取りますとも。福島もそう言ってた」
「……顕現して半年って言ってたっけ?」
「うん。でも研修続きだったから、一緒に仕事できるようになったのはわりと最近」
「長義くんもあんたの刀なの?」
「違うよ。山姥切は政府権限で、福島は私が鍛刀で顕現させた。政府の鍛刀場だと全部の刀剣男士呼べるんだよね」
だから各本丸では入手手段が限られている福島光忠も鍛刀することができた。半年前、数時間かけてできあがった刀を見て驚いたのも、すでに懐かしい記憶となっている。
「政府所属でも、私たちみたいな平の審神者が鍛刀するときは刀の指定はできない……まあ、誰が来てくれるかはランダムなんだけど、私は長船の刀と縁があったみたい」
「ふーん」
私の説明に笹貫は分かったような分からないような顔で曖昧に頷いた。何か分かりにくいことを言ってしまったかと思い返すも、口に出した以上のことはない。首を傾げる私を置いて、笹貫は散歩道に置かれたベンチに腰を下ろした。彼の左側には1人分のスペースが空いていたので、少しためらいながら私もベンチに浅く座る。鬱蒼と茂る木々が作る木陰は日差しを遮り過ごしやすい体感温度のはずだったが、何故か少しの居心地の悪さを感じた。
「……笹貫の本丸にも福島光忠はいるの?」
「いるよ。よく本丸中を花で飾って、華やかにしてくれてる。部屋も近いからよく話すよ」
「仲良いんだ」
「それなりにね。気のいい刀が多いから、毎日楽しいよ。……あんたはなんで自分の本丸持たなかったの?」
「んー……あんまり最前線に立つってタイプじゃないから?」
各本丸は文字通り、歴史を守る戦いの最前線に位置している。審神者への適性があると分かり進路の選択を迫られたとき、そのような場所でたくさんの刀を従えて戦う自分の姿は想像できなかった。今考えても誰かをサポートする方が性に合っているから、あのときの選択は間違ってはいなかったのだろう。
「それに政府所属だと公務員になるし」
「? それって何か重要なの?」
「安定してるからね、公務員。まあ本丸の審神者も食いっぱぐれることはないだろうけど……でも、うん。やっぱり今の仕事がいいかな」
「あんなに使えない上司と後輩とコピー機に囲まれてるのに? 前々から思ってたけど、もしかしてそういう趣味?」
「そういう?」
「なに、わざわざ言わせたいの?」
「は?」
「好きでしょ、いじめられるの」
「違う」
ニヤニヤとからかうような笑みを貼り付けた笹貫にピシャリと言い放ち、冷たい視線をお見舞いする。この男はどれだけ人を馬鹿にすれば気が済むのか、眉根を寄せる私を見ると肩を揺らして笑い始めた。
「ごめん、ジョーダン……ってわけでもないけど、そういうことにしといてあげる」
「もうここで解散する?」
「ごめんって」
「冗談でも二度と言わないでよ」
「えー、ベッドでもダメ? 盛り上がったら言っちゃいそう」
「そういう予定、一切ない」
「またまたぁ、それこそ冗談でしょ。毎晩空いてるよ、オレの体。いじめられるの好きじゃないなら、とびきり優しくするし」
「余計なことしか言えないなら本丸に電話して引き取ってもらおうか」
「ごめんごめん! それはマジで勘弁!」
「ならやめてって言ったことはしない」
「了解。しっかり言葉を選ばせてもらいます」
見せつけるように握ったスマホは笹貫によってバッグに戻されてしまった。本当に一度電話してやろうとかと思っていたが、あまりに真剣に謝罪を繰り返されるものだから意地の悪いことをする気も失せてくる。小さく吐いたため息をどう取ったのか、笹貫は慌てた様子で話題を切り替えた。
「このあとどうする? オレとしては、このままここでおしゃべりしてるのも大歓迎なんだけど」
「……ちょっと街の方に出ようかと思って。ブラブラして、お茶して」
「いいね。教えてよ、好きな場所とか好きな店。できればお宅の福島くんも知らないようなところだとなお良い」
「福島?」
「あれ? とぼけてるだけかと思ったけど、もしかして本気で分かってない?」
「……なんか対抗意識燃やしてるのは分かるよ」
「はは、まあまあ正解かな。福島くんともよく出かけたりするわけ?」
「よくってほどでは……福島とは基本的に職場での付き合いだけだし、あとはみんなと一緒に飲みに行くときくらい?」
言いながら考えるが、思えば福島とはプライベートで会ったことはなかったかもしれない。研修中以外はほぼ1日中行動を共にしているのだ、わざわざそれ以外でまで顔を合わせる理由も特になかった。
「ビジネスライクな付き合いってことね」
「そうそう。福島がどこか行きたいって言うなら付き合うけど、まだそういうのあんまり言ってくれないし」
「ふーん。うちの主は出かけるときは絶対誰か誘うし、もっと刀との距離近い感じするけど……やっぱ本丸と政府じゃ違うのかね」
「本丸は生活がベース、政府は仕事がベースだから、感覚は違うかも。あとは個人の差としか……私も山姥切とか小豆とはちょくちょく出かけるよ」
「小豆……ああ、この間、電話が云々って言ってたっけ」
「うん、小豆長光。小豆も長船の太刀だね」
「……じゃ、そんな彼らも知らないあんたのお気に入りにご案内いただこうかな」
笹貫の芝居がかった口調に呆れながら腕時計を見下ろす。電車の中で考えてきた計画ではもう少し公園をうろつく予定だったが、すでに立ち上がった笹貫を引き留めるほどの理由も特にない。この先の時間をうまく潰すことができるか、少し不安になりながら公園の出口を目指した。
私の不安はすぐに杞憂へと変わった。というか、笹貫が変えてくれた。薄々感づいていたことではあるが、笹貫はコミュニケーションがうまい。目的地に向けて歩く最中の会話はほとんど途切れなかったし、目についた店に立ち寄ってもその場にあるものを素直に楽しむことができる。チラリと視線を向けただけだったコスメショップにも目ざとく気が付き、入店を提案してくれた。
「オフィスメイクっていうの? 地味めなやつの方が見慣れてるけど、今日みたいな華やかなのも似合うよ」
そう言いながら何故か笹貫が店員さんを呼び止め、勝手に私にタッチアップを始めたときには、もう好きにしてくれと場をすべて委ねてしまった。散々いろいろなコスメを試した挙げ句「今度買いに来ます、彼女に内緒で」などとそれっぽいことを言ってスムーズに店を出る姿は、現代を生きる色男でしかなかったように思う。どこでこんな手練手管を覚えるのかと素直に尋ねると心底不思議そうにしていたから、きっと彼は口から先に鍛刀されたのだろう。頭の回転があまりよろしくない私には羨ましい限りだった。
街を歩いていたらなんだかんだと時間が流れ、お茶の時間を少し過ぎる頃にお気に入りのカフェにたどり着いた。裏通りからさらに奥まったところにあるが、休日であっても空いていることが多い。薄暗く落ち着いた雰囲気の店内にはオレンジ色の間接照明が置かれ、テーブルの木目をぼんやりと照らしていた。
窓際のテーブル席に案内されコーヒーを2つ注文すると、笹貫はゆったりと口の端を上げて椅子に背を預けた。
「ここが、あんた以外は知らないお気に入り?」
「そう。満足してもらえた?」
「まだ足りないかな。どこがお気に入りなのか教えてもらわないと」
「空いてるから」
「……それだけ? 味がいいとか雰囲気がいいとか、そういうのじゃなくて?」
「味は普通かな。雰囲気は悪くないけど……いっつも空いてるし、長居しても嫌な顔されないからよく来てる」
「情緒ないねぇ」
「……悪い?」
「まさか。嫌いじゃないよ、そういうとこ。かく言うオレも、味とかあんまり分かんないし」
「嫌いなものとかないの?」
「ないよ。全部好き」
「……それって全部嫌いって言ってるのと同じじゃない?」
「そ? でも何食べてもおもしろいから、食事に対してマイナスの感情はないよ」
「食事っておもしろいとかおもしろくないとかだっけ……?」
「お待たせしました」
一方的に見知った店員さんが淹れたてのコーヒーをひとつずつテーブルに並べた。にこやかな様子から、私たちの会話が聞こえていたわけではないらしいと胸をなでおろす。よく来ているくせに味は普通だの雰囲気は悪くないだの、あまりに偉そうな言い分だった。心の中で謝罪して感じがいい店員さんの背中を見送ると、笹貫がシュガーポットとミルクをこちらに押しやった。
「使う?」
「大丈夫。いただきます」
マグカップになみなみと注がれたコーヒーを少しだけ口に含むと、想像した通りの可もなく不可もない、無難な味が舌の上に広がった。笹貫も同じようにマグカップを口に運んだが、首を傾げているところを見るに本当に味の違いが分からないらしい。思わず笑みを零すと、彼はバツが悪そうに笑いながらマグをテーブルに置いた。
それからもとりとめのない会話は続いた。笹貫の本丸であったこと、私の職場であったこと、お互いの好きなものや嫌いなもの。会話が途切れてもすぐに笹貫が次の話題を切り出し、店内を流れるボサノバに隠れながら、なんでもないようなおしゃべりを続けた。
(こういうのでいいんだけどな)
先日の演練で見かけた別の本丸の自分の話を楽しげにする笹貫を正面から見ながら、ふと思う。難しいことはいらない。心に爪を立てるような激しい感情もいらない。笹貫がお決まりの軽口のように言う体の関係だって、それほど重要ではない。ただこうして穏やかに、お互いの顔を見ながら言葉を交わすひとときは心地よく、夜が更けるまでここにいてもいいかもしれないと思ってしまう。
(いつものあの押せ押せ感はうんざりするけど、こういう時間を重ねていったら、きっと彼のことが……好きになる)
コーヒーにはほとんど手をつけず、私のどうでもいい話に相槌を打つ男の満たされたような顔を見たら、誰だってほだされるに決まってる。いや、もしかしたら、もうすでに。
(……こんな大の男がかわいいだなんて思えた時点で、もう)
頭の片隅で浮かび上がった仮定に、小さく口の端を上げる。ちょうど言葉が途切れたのをいいことに、視線をわずかに窓の方に向けた。奥まった道ではあるが、通行人がまったくいないわけではない。友人同士や夫婦が楽しげに歩く姿に目を細めると、笹貫が「楽しい?」と問いかけた。
「人が歩いてるだけでしょ? それも知らないやつらばっか」
「うん。でもいろんな人がいて、楽しそうにしてて、おもしろいよ」
「変わった趣味してるね。オレには全部同じ顔に見えるよ」
「うそでしょ」
「ほんと。政府行っても全然顔の区別つかないし」
「じゃあどうやって私のこと識別してるの?」
「あんたは分かるよ。目の形も鼻の位置も、唇の味とかも」
「そういうの挟まないといられない呪いか何か? ほんといい加減にして」
「おっかないねぇ。……おっと、これは驚いた。知った顔だ」
「え?」
あれと笹貫が指さす先を歩くのは若い男性と一振りの刀――刀剣男士だった。打刀、同田貫正国。おそらく隣を歩くのは審神者なのだろう、つまらなさそうな顔をしながらしきりに何かを訴える同田貫に、審神者は苦笑を浮かべながら言葉を返していた。あっという間に通り過ぎた審神者と刀が見えなくなるまで、なんとなく目で追う。これまで監査で関わったことがある本丸ではなさそうだった。
「演練でも思ったけど、知った顔なのに知らない刀ってのは変な感覚だね」
すっかり冷めているだろうコーヒーを飲み込んでから笹貫は言った。
「あんたはそんなことばっかりか」
「まあね。でもなんとなく見分けはつくよ」
「同じ刀でも?」
「うん。なんだろ、こう……雰囲気が違うっていうか。本丸ごとに……霊力の違いなのかな? とにかく分かるよ、なんとなく」
「へえ……そういえば最初に再会したときも、すぐオレだって分かってたっけ」
「……い、いや、あれは……人違いだったから……」
「今さらそんな苦しい言い訳してんの?」
ケラケラと笑う笹貫に、気まずさを誤魔化すように私もコーヒーに手を伸ばす。笹貫は細い指でマグカップのふちをなぞりながら目だけを私に向けた。
「じゃ、あんたはたくさん笹貫が並んでたとしても、その中からたった一振りのオレを探し当ててくれるってわけだ」
「……できるかできないかで言えば、たぶんできる。……たぶん」
「そこは断言してくれないと」
「うーん……自分の刀だったら断言できるけど、やっぱり人の刀だからね」
状況によっては難しいかもと付け加えると、カップのふちをぐるぐると回っていた指がピタリと動きを止めた。次いで端正なお顔に、胡散臭い薄ら笑いが浮かび上がる。あ、と思ったのも束の間、彼は視線を私からコーヒーへと移してしまった。長いまつげが伏し目を覆い、その中の色が見えなくなる。途端に背中のあたりがざわついたのは何故だったのだろうか。直感的に何か言葉をかけなければと口を開くが、何を言えばいいのか分からずそのまま閉ざす。軽快なおしゃべりが行き交っていたはずのテーブルが、スピーカーから流れるボサノバに浸食される。薄笑いと共にすっかり黙ってしまった笹貫をただ見つめることしかできない私に、彼はふと顔を上げて、普段通りに微笑んで見せた。
「時間、大丈夫?」
「え……」
「飲みに行くんでしょ?」
「あ、ああ、うん……」
促されるまま腕時計を見下ろせば、待ち合わせの時間まであと15分程になっていた。言葉にせずとも察したらしい笹貫が先に立ち上がり、そのまま伝票を持ってレジに向かった。慌てて荷物をまとめてあとを追うもすでに会計は済んでおり、取り出そうとした財布は笹貫によって止められてしまった。
「かっこつけさせてよ」
そんなことを言われてしまえば従うしかない。渋々バッグを閉じて店を出ると、笹貫は狭い道路を戻り始めた。来たときと同じようにお互いに話題を振るが、二言三言返すとすぐに沈黙が落ちてしまう。あんなにも弾んでいた会話が、何故か今は少しだけ重苦しい。私が何か悪いことをしてしまったのだろうか。しかしこれといって原因には思い至らない。理由が分からなければ謝罪もできない。どうしたものかと焦る私をよそに、笹貫は表面上はなんでもないような顔でちらりと私を見下ろした。
「飲み会って、友達と?」
「え? いや、職場の仲良い人だけ……山姥切とか福島とか、小豆も来るかな」
「ふーん。じゃあ上司のご機嫌取りするようなつまんない宴会ってわけじゃないんだ」
「そ、そうだね」
「どこで待ち合わせ?」
「もうちょっと行ったところの駅。その駅から地下鉄乗ると、待ち合わせした駅に行けるから、笹貫はそこから……あ、ちょっとごめん」
バッグから震動を感じ、スマホを取り出す。小さいディスプレイに映し出された名前は、山姥切長義。不思議に思いながら通話を始めると、山姥切は少しイラついたような口調で開口一番「遅い」と私をなじってきた。
「えっ、まだ時間じゃないよね」
「我らが監査室の面々は10分前行動が体に染みついているようでね。君以外はすでに全員そろっている」
「うそ、ごめん」
「今どこにいる? 福島が迎えに行くと言ってるけど」
「あ、いや、それは平気。あと10分くらいで着くと思うけど、今ちょっと……笹貫と一緒に……あれ?」
話しながら隣を見るも、そこには誰もいなかった。そのまま後ろを振り向くが、頭の中に思い描いていた男の姿はどこにも見当たらない。メインストリートが近づき人気が多くなった道路のどこにも、笹貫は見当たらなかった。
笹貫が指定したのは庁舎の目と鼻の先にある地下鉄の駅だった。平日と同様に自宅の最寄駅から電車に乗り込み、あとはぼんやりと到着を待つばかりだ。出勤のときはあっという間に過ぎてしまう乗車時間が、今日はやけに長く感じる。何個目の駅で降りるかなど体に染みついているはずなのに、車両のドアが開くたびに顔を上げ、駅名を確認して座席に座り直すという無駄な行動を繰り返してしまった。
(何しようかな……)
少しでも時間を有効に使おうと、意識を切り替えてスマホを取り出す。
笹貫と出かけること自体は実は初めてではない。彼のしつこい、もとい粘り強いお誘いに負けて、何度か万屋街に出かけたことがある。そのときはお互いの要望を出し合って店を巡ったりお茶をしたりしたが、今回はどうやら現世をブラブラするつもりらしい。万屋街ならばどちらも土地勘があるが、現世はそうもいかないだろう。私がリードしなければと、スマホを見ながら合流後のプランを考える。
(オフィス街って土日はお店閉まってるんだよなぁ……笹貫が好きそうなお店もないし……)
夜の飲み会の店は2駅ほど先になる。最後はそこで解散できるようなルートを組まねばならないから、いっそのこと散歩がてら、歩いてその辺りまで行ってもいいかもしれない。
(あとは笹貫に聞いてみて決めよう)
お茶ができそうな店だけは何カ所か当たりをつけてスマホをしまう。ちょうど目的の駅についたところだったので、慌てて電車を降りて改札に向かった。
平日の出勤時間はいやというほど込み合っている駅も、今日は無人と言ってもいいくらいに人気がなかった。案内板を見ながら改札や出口を探している数組の観光客を横目に、普段通り改札に向かう。改札の外にも人気はない。うろうろとさ迷っている観光客に、休日出勤をしているらしい哀れなサラリーマン、それに――肩ほどまである黒髪をかきあげながら、出口につながる通路を見つめる、やたらと体格が良い男性。改札には背を向けるようにして立っているが、それが待ち合わせの相手であることはすぐに分かった。
(早すぎでしょ……)
腕時計を見れば、長針はまだ8を指している。20分前に到着した私よりも早く待ち合わせ場所に立っているとは、どういう了見なのだろう。
(呆れればいいのか、喜べばいいのか)
複雑な心境でため息を飲み込んで改札を出る。彼がこちらに気が付いていないのをいいことに、じっとその背中を見てみることにした。黒いTシャツにシンプルなスキニー、少し派手にも思えるスニーカー。いつもは結っている髪の毛は下ろされ、緑混じりの黒髪があちこちに跳ねているが、あれは計算してセットしたものなのだろう。いかにもこなれた若者といった出で立ちだ。戦闘装束しか見たことはなかったが、現代の服もよく似合っている。というか、驚くほどに違和感がない。まさか彼が人間ではないなどとは、この駅にいる誰もが想像しないだろう。
(ええー……あれの隣歩くの嫌すぎぃ……)
庁舎内や万屋街ならば特に抵抗はない。人間と刀剣男士が並べば、容姿的にはどうあがいても不釣り合いに見えてしまうことが大半だと、みんなが理解しているからだ。しかし現世ではそうはいかない。げんなりしながら自分の服を見下ろす。きっと歩くことになるし、夜は夜で知った顔同士での飲み会だからとラフな格好で来てしまった。
(もうちょっとおしゃれしてくればよかった)
飲み込んだはずのため息が別の意味を伴って口から漏れ出る。しかし今さら帰って着替えることなどできるわけもないので、諦めて後ろからその刀の名前を呼んだ。ピクリと肩を揺らしてからゆっくりと振り向いた笹貫は、かけていたサングラスを半分だけ下ろして私を見た。
「び……っくりした……」
「そんなに?」
「だってまだ……15分くらいあるでしょ?」
「……思ったよりスムーズに着いちゃったの」
「こんなにあっさり後ろ取られちゃったし。これは2回目でも驚くなぁ」
「2回目?」
「ああ、本丸でちょっとね」
「ふーん? ……そっちもかなり早く着いてたんじゃない? 時間間違ったの?」
「いや? 待つのは苦じゃないからね」
「だからって限度が……いつからいたの?」
「んー……あんたがどんな顔して来るのか考えてたらあっという間だったからなぁ……もう出る? って言っても完全ノープランなんだけど」
「……近くに大きい公園あるから、散歩でもする?」
「お、いいねぇ、それ。行こ」
差し出された左手の上にできる限りの力で右手を振り下ろす。いつの間にか無人になっていた改札前にパンと乾いた音が響き渡ったが、笹貫はまったく怯むことなくそのまま私の手を握ろうとした。慌てて手を引けば笹貫は「残念」と口の端を上げ、駅の出口へと向かう。別の出口の方が公園には近かったが、わざわざ呼び戻すほどでもなかったので早足で隣に並んだ。
階段を上がって大きな道路を渡り、ビルの合間の道を進む。5分とかからず見えてきた公園は、江戸時代は大藩の大名屋敷が置かれた場所だ。広い敷地内には緑が多く、シーズンごとに作られている花壇は見ごたえもある。イベントを開催していることも多いが、今はちょうど入れ替わりのシーズンらしい。賑わってはいるものの、全体的に落ち着いた雰囲気があった。
「へぇ、こんなとこあったんだ」
笹貫はきょろきょろと辺りを見回しながら、少しペースを落として散策を始めた。オフィス街側から入ると、まずは木々が日陰を作る散歩道が伸びている。道々の合間にはテニスコートや池、花壇があるが、笹貫は左に折れて池の方に足を進めた。
「いいね、賑やかで。よく来るの?」
「たまに。公園の向こう側に抜けるときに便利だから」
「なんだ、花よりなんとかってやつ?」
「う……いやいや、花も団子も取りますとも。福島もそう言ってた」
「……顕現して半年って言ってたっけ?」
「うん。でも研修続きだったから、一緒に仕事できるようになったのはわりと最近」
「長義くんもあんたの刀なの?」
「違うよ。山姥切は政府権限で、福島は私が鍛刀で顕現させた。政府の鍛刀場だと全部の刀剣男士呼べるんだよね」
だから各本丸では入手手段が限られている福島光忠も鍛刀することができた。半年前、数時間かけてできあがった刀を見て驚いたのも、すでに懐かしい記憶となっている。
「政府所属でも、私たちみたいな平の審神者が鍛刀するときは刀の指定はできない……まあ、誰が来てくれるかはランダムなんだけど、私は長船の刀と縁があったみたい」
「ふーん」
私の説明に笹貫は分かったような分からないような顔で曖昧に頷いた。何か分かりにくいことを言ってしまったかと思い返すも、口に出した以上のことはない。首を傾げる私を置いて、笹貫は散歩道に置かれたベンチに腰を下ろした。彼の左側には1人分のスペースが空いていたので、少しためらいながら私もベンチに浅く座る。鬱蒼と茂る木々が作る木陰は日差しを遮り過ごしやすい体感温度のはずだったが、何故か少しの居心地の悪さを感じた。
「……笹貫の本丸にも福島光忠はいるの?」
「いるよ。よく本丸中を花で飾って、華やかにしてくれてる。部屋も近いからよく話すよ」
「仲良いんだ」
「それなりにね。気のいい刀が多いから、毎日楽しいよ。……あんたはなんで自分の本丸持たなかったの?」
「んー……あんまり最前線に立つってタイプじゃないから?」
各本丸は文字通り、歴史を守る戦いの最前線に位置している。審神者への適性があると分かり進路の選択を迫られたとき、そのような場所でたくさんの刀を従えて戦う自分の姿は想像できなかった。今考えても誰かをサポートする方が性に合っているから、あのときの選択は間違ってはいなかったのだろう。
「それに政府所属だと公務員になるし」
「? それって何か重要なの?」
「安定してるからね、公務員。まあ本丸の審神者も食いっぱぐれることはないだろうけど……でも、うん。やっぱり今の仕事がいいかな」
「あんなに使えない上司と後輩とコピー機に囲まれてるのに? 前々から思ってたけど、もしかしてそういう趣味?」
「そういう?」
「なに、わざわざ言わせたいの?」
「は?」
「好きでしょ、いじめられるの」
「違う」
ニヤニヤとからかうような笑みを貼り付けた笹貫にピシャリと言い放ち、冷たい視線をお見舞いする。この男はどれだけ人を馬鹿にすれば気が済むのか、眉根を寄せる私を見ると肩を揺らして笑い始めた。
「ごめん、ジョーダン……ってわけでもないけど、そういうことにしといてあげる」
「もうここで解散する?」
「ごめんって」
「冗談でも二度と言わないでよ」
「えー、ベッドでもダメ? 盛り上がったら言っちゃいそう」
「そういう予定、一切ない」
「またまたぁ、それこそ冗談でしょ。毎晩空いてるよ、オレの体。いじめられるの好きじゃないなら、とびきり優しくするし」
「余計なことしか言えないなら本丸に電話して引き取ってもらおうか」
「ごめんごめん! それはマジで勘弁!」
「ならやめてって言ったことはしない」
「了解。しっかり言葉を選ばせてもらいます」
見せつけるように握ったスマホは笹貫によってバッグに戻されてしまった。本当に一度電話してやろうとかと思っていたが、あまりに真剣に謝罪を繰り返されるものだから意地の悪いことをする気も失せてくる。小さく吐いたため息をどう取ったのか、笹貫は慌てた様子で話題を切り替えた。
「このあとどうする? オレとしては、このままここでおしゃべりしてるのも大歓迎なんだけど」
「……ちょっと街の方に出ようかと思って。ブラブラして、お茶して」
「いいね。教えてよ、好きな場所とか好きな店。できればお宅の福島くんも知らないようなところだとなお良い」
「福島?」
「あれ? とぼけてるだけかと思ったけど、もしかして本気で分かってない?」
「……なんか対抗意識燃やしてるのは分かるよ」
「はは、まあまあ正解かな。福島くんともよく出かけたりするわけ?」
「よくってほどでは……福島とは基本的に職場での付き合いだけだし、あとはみんなと一緒に飲みに行くときくらい?」
言いながら考えるが、思えば福島とはプライベートで会ったことはなかったかもしれない。研修中以外はほぼ1日中行動を共にしているのだ、わざわざそれ以外でまで顔を合わせる理由も特になかった。
「ビジネスライクな付き合いってことね」
「そうそう。福島がどこか行きたいって言うなら付き合うけど、まだそういうのあんまり言ってくれないし」
「ふーん。うちの主は出かけるときは絶対誰か誘うし、もっと刀との距離近い感じするけど……やっぱ本丸と政府じゃ違うのかね」
「本丸は生活がベース、政府は仕事がベースだから、感覚は違うかも。あとは個人の差としか……私も山姥切とか小豆とはちょくちょく出かけるよ」
「小豆……ああ、この間、電話が云々って言ってたっけ」
「うん、小豆長光。小豆も長船の太刀だね」
「……じゃ、そんな彼らも知らないあんたのお気に入りにご案内いただこうかな」
笹貫の芝居がかった口調に呆れながら腕時計を見下ろす。電車の中で考えてきた計画ではもう少し公園をうろつく予定だったが、すでに立ち上がった笹貫を引き留めるほどの理由も特にない。この先の時間をうまく潰すことができるか、少し不安になりながら公園の出口を目指した。
私の不安はすぐに杞憂へと変わった。というか、笹貫が変えてくれた。薄々感づいていたことではあるが、笹貫はコミュニケーションがうまい。目的地に向けて歩く最中の会話はほとんど途切れなかったし、目についた店に立ち寄ってもその場にあるものを素直に楽しむことができる。チラリと視線を向けただけだったコスメショップにも目ざとく気が付き、入店を提案してくれた。
「オフィスメイクっていうの? 地味めなやつの方が見慣れてるけど、今日みたいな華やかなのも似合うよ」
そう言いながら何故か笹貫が店員さんを呼び止め、勝手に私にタッチアップを始めたときには、もう好きにしてくれと場をすべて委ねてしまった。散々いろいろなコスメを試した挙げ句「今度買いに来ます、彼女に内緒で」などとそれっぽいことを言ってスムーズに店を出る姿は、現代を生きる色男でしかなかったように思う。どこでこんな手練手管を覚えるのかと素直に尋ねると心底不思議そうにしていたから、きっと彼は口から先に鍛刀されたのだろう。頭の回転があまりよろしくない私には羨ましい限りだった。
街を歩いていたらなんだかんだと時間が流れ、お茶の時間を少し過ぎる頃にお気に入りのカフェにたどり着いた。裏通りからさらに奥まったところにあるが、休日であっても空いていることが多い。薄暗く落ち着いた雰囲気の店内にはオレンジ色の間接照明が置かれ、テーブルの木目をぼんやりと照らしていた。
窓際のテーブル席に案内されコーヒーを2つ注文すると、笹貫はゆったりと口の端を上げて椅子に背を預けた。
「ここが、あんた以外は知らないお気に入り?」
「そう。満足してもらえた?」
「まだ足りないかな。どこがお気に入りなのか教えてもらわないと」
「空いてるから」
「……それだけ? 味がいいとか雰囲気がいいとか、そういうのじゃなくて?」
「味は普通かな。雰囲気は悪くないけど……いっつも空いてるし、長居しても嫌な顔されないからよく来てる」
「情緒ないねぇ」
「……悪い?」
「まさか。嫌いじゃないよ、そういうとこ。かく言うオレも、味とかあんまり分かんないし」
「嫌いなものとかないの?」
「ないよ。全部好き」
「……それって全部嫌いって言ってるのと同じじゃない?」
「そ? でも何食べてもおもしろいから、食事に対してマイナスの感情はないよ」
「食事っておもしろいとかおもしろくないとかだっけ……?」
「お待たせしました」
一方的に見知った店員さんが淹れたてのコーヒーをひとつずつテーブルに並べた。にこやかな様子から、私たちの会話が聞こえていたわけではないらしいと胸をなでおろす。よく来ているくせに味は普通だの雰囲気は悪くないだの、あまりに偉そうな言い分だった。心の中で謝罪して感じがいい店員さんの背中を見送ると、笹貫がシュガーポットとミルクをこちらに押しやった。
「使う?」
「大丈夫。いただきます」
マグカップになみなみと注がれたコーヒーを少しだけ口に含むと、想像した通りの可もなく不可もない、無難な味が舌の上に広がった。笹貫も同じようにマグカップを口に運んだが、首を傾げているところを見るに本当に味の違いが分からないらしい。思わず笑みを零すと、彼はバツが悪そうに笑いながらマグをテーブルに置いた。
それからもとりとめのない会話は続いた。笹貫の本丸であったこと、私の職場であったこと、お互いの好きなものや嫌いなもの。会話が途切れてもすぐに笹貫が次の話題を切り出し、店内を流れるボサノバに隠れながら、なんでもないようなおしゃべりを続けた。
(こういうのでいいんだけどな)
先日の演練で見かけた別の本丸の自分の話を楽しげにする笹貫を正面から見ながら、ふと思う。難しいことはいらない。心に爪を立てるような激しい感情もいらない。笹貫がお決まりの軽口のように言う体の関係だって、それほど重要ではない。ただこうして穏やかに、お互いの顔を見ながら言葉を交わすひとときは心地よく、夜が更けるまでここにいてもいいかもしれないと思ってしまう。
(いつものあの押せ押せ感はうんざりするけど、こういう時間を重ねていったら、きっと彼のことが……好きになる)
コーヒーにはほとんど手をつけず、私のどうでもいい話に相槌を打つ男の満たされたような顔を見たら、誰だってほだされるに決まってる。いや、もしかしたら、もうすでに。
(……こんな大の男がかわいいだなんて思えた時点で、もう)
頭の片隅で浮かび上がった仮定に、小さく口の端を上げる。ちょうど言葉が途切れたのをいいことに、視線をわずかに窓の方に向けた。奥まった道ではあるが、通行人がまったくいないわけではない。友人同士や夫婦が楽しげに歩く姿に目を細めると、笹貫が「楽しい?」と問いかけた。
「人が歩いてるだけでしょ? それも知らないやつらばっか」
「うん。でもいろんな人がいて、楽しそうにしてて、おもしろいよ」
「変わった趣味してるね。オレには全部同じ顔に見えるよ」
「うそでしょ」
「ほんと。政府行っても全然顔の区別つかないし」
「じゃあどうやって私のこと識別してるの?」
「あんたは分かるよ。目の形も鼻の位置も、唇の味とかも」
「そういうの挟まないといられない呪いか何か? ほんといい加減にして」
「おっかないねぇ。……おっと、これは驚いた。知った顔だ」
「え?」
あれと笹貫が指さす先を歩くのは若い男性と一振りの刀――刀剣男士だった。打刀、同田貫正国。おそらく隣を歩くのは審神者なのだろう、つまらなさそうな顔をしながらしきりに何かを訴える同田貫に、審神者は苦笑を浮かべながら言葉を返していた。あっという間に通り過ぎた審神者と刀が見えなくなるまで、なんとなく目で追う。これまで監査で関わったことがある本丸ではなさそうだった。
「演練でも思ったけど、知った顔なのに知らない刀ってのは変な感覚だね」
すっかり冷めているだろうコーヒーを飲み込んでから笹貫は言った。
「あんたはそんなことばっかりか」
「まあね。でもなんとなく見分けはつくよ」
「同じ刀でも?」
「うん。なんだろ、こう……雰囲気が違うっていうか。本丸ごとに……霊力の違いなのかな? とにかく分かるよ、なんとなく」
「へえ……そういえば最初に再会したときも、すぐオレだって分かってたっけ」
「……い、いや、あれは……人違いだったから……」
「今さらそんな苦しい言い訳してんの?」
ケラケラと笑う笹貫に、気まずさを誤魔化すように私もコーヒーに手を伸ばす。笹貫は細い指でマグカップのふちをなぞりながら目だけを私に向けた。
「じゃ、あんたはたくさん笹貫が並んでたとしても、その中からたった一振りのオレを探し当ててくれるってわけだ」
「……できるかできないかで言えば、たぶんできる。……たぶん」
「そこは断言してくれないと」
「うーん……自分の刀だったら断言できるけど、やっぱり人の刀だからね」
状況によっては難しいかもと付け加えると、カップのふちをぐるぐると回っていた指がピタリと動きを止めた。次いで端正なお顔に、胡散臭い薄ら笑いが浮かび上がる。あ、と思ったのも束の間、彼は視線を私からコーヒーへと移してしまった。長いまつげが伏し目を覆い、その中の色が見えなくなる。途端に背中のあたりがざわついたのは何故だったのだろうか。直感的に何か言葉をかけなければと口を開くが、何を言えばいいのか分からずそのまま閉ざす。軽快なおしゃべりが行き交っていたはずのテーブルが、スピーカーから流れるボサノバに浸食される。薄笑いと共にすっかり黙ってしまった笹貫をただ見つめることしかできない私に、彼はふと顔を上げて、普段通りに微笑んで見せた。
「時間、大丈夫?」
「え……」
「飲みに行くんでしょ?」
「あ、ああ、うん……」
促されるまま腕時計を見下ろせば、待ち合わせの時間まであと15分程になっていた。言葉にせずとも察したらしい笹貫が先に立ち上がり、そのまま伝票を持ってレジに向かった。慌てて荷物をまとめてあとを追うもすでに会計は済んでおり、取り出そうとした財布は笹貫によって止められてしまった。
「かっこつけさせてよ」
そんなことを言われてしまえば従うしかない。渋々バッグを閉じて店を出ると、笹貫は狭い道路を戻り始めた。来たときと同じようにお互いに話題を振るが、二言三言返すとすぐに沈黙が落ちてしまう。あんなにも弾んでいた会話が、何故か今は少しだけ重苦しい。私が何か悪いことをしてしまったのだろうか。しかしこれといって原因には思い至らない。理由が分からなければ謝罪もできない。どうしたものかと焦る私をよそに、笹貫は表面上はなんでもないような顔でちらりと私を見下ろした。
「飲み会って、友達と?」
「え? いや、職場の仲良い人だけ……山姥切とか福島とか、小豆も来るかな」
「ふーん。じゃあ上司のご機嫌取りするようなつまんない宴会ってわけじゃないんだ」
「そ、そうだね」
「どこで待ち合わせ?」
「もうちょっと行ったところの駅。その駅から地下鉄乗ると、待ち合わせした駅に行けるから、笹貫はそこから……あ、ちょっとごめん」
バッグから震動を感じ、スマホを取り出す。小さいディスプレイに映し出された名前は、山姥切長義。不思議に思いながら通話を始めると、山姥切は少しイラついたような口調で開口一番「遅い」と私をなじってきた。
「えっ、まだ時間じゃないよね」
「我らが監査室の面々は10分前行動が体に染みついているようでね。君以外はすでに全員そろっている」
「うそ、ごめん」
「今どこにいる? 福島が迎えに行くと言ってるけど」
「あ、いや、それは平気。あと10分くらいで着くと思うけど、今ちょっと……笹貫と一緒に……あれ?」
話しながら隣を見るも、そこには誰もいなかった。そのまま後ろを振り向くが、頭の中に思い描いていた男の姿はどこにも見当たらない。メインストリートが近づき人気が多くなった道路のどこにも、笹貫は見当たらなかった。