FRYDAY NIGHT GAME → nightly night love(笹さに)
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繁忙期を抜けたのは1カ月ほど経ってからだった。上司も後輩も人も刀も関係なく全員で仕事の山を切り崩し、ようやく定時退社ができ始めたのが先週末のこと。1カ月に及ぶ長丁場は全員を疲弊させ、先半月はできるだけ残業しないという取り決めが部署全体で交わされた。山姥切長義もいつまで守れることやらと口では皮肉めいたことを言っていたが、げっそりと隈が浮いたお顔を緩ませていたから満更でもなかったのだろう。
「飲みに行かないか」
珍しく彼の方からお誘いをしてきたのは、金曜日の定時5分前だった。特に断る理由はなかったし打ち上げ的に飲みに行くのは悪くない。即座に頷くと、山姥切は満足そうに口の端を上げた。
刀剣男士が自由に出歩くことができるのは基本的に万屋街だけだ。それは政府所属でも変わらない。ついでに政府所属の審神者も、万屋街を使用することが許されている。現世の飲み屋街よりもずっと治安が良いし空いていることが多いから、私も万屋街を好んでいた。もちろんここには「例の悪い遊びをするまでは」という注意書きがつく。
あの夜からは徹底的に万屋街を避けてきたが、すでに1カ月以上が経過した。あれきりあの笹貫が政府に顔を出すことはなかったし、きっとほとぼりも冷めたのだろう。今夜は山姥切もいるからそう警戒することもない。彼が案内してくれたこじんまりとした居酒屋に足を踏み入れるまでは、浮かれた気分でお酒のことだけを考えていた。しかし暖簾をくぐった瞬間、目に入った顔に回れ右をして店を出た。
「やあ、待ってたよ」
「間違えました」
ふわふわと楽しいことばかりを考えていた頭がすっと冷え、万屋街から逃げ出すための最短経路を考え出す。しかしすぐ後ろにいた山姥切によってぐいぐいと店の中に押し戻され、そのままぴしゃりと引き戸を閉ざされてしまった。何故か山姥切は店の外にいて、閉ざした戸が開かないように外から押さえつけていた。
「は!? なに!?」
「君が気にするようなことは何もないよ。早く席について浴びるように芋焼酎を飲むといい」
「気にするようなことしかないよね!?」
「じゃあさっさと白黒つけるといいさ。俺もこれ以上巻き込まれるのはごめんだ」
どれほどがんばっても戸がガタガタと揺れるばかりで開く気配はない。5分程必死に扉越しの攻防戦を繰り広げたが刀剣男士の腕力に敵うわけもなく、そうなれば私の方が諦めるほかない。聞こえるか聞こえないかの音量で吐けるだけの悪態を吐いて、店の中を見渡した。
5つ程度のカウンター席の後ろに木製の机が2つ並んだだけの、狭い店だった。しかしひとつひとつの小物や店員の雰囲気から、格式の高さのようなものを感じる。最後に万屋街を訪れたときに行った大衆居酒屋と比較せずとも、安い店ではないだろうと容易に知れた。
「終わった?」
「……」
狭い店内に、客はひとりしかいなかった。テーブル席で頬杖をつき、ゆるやかに笑いながら私を見ている。待っていたと、彼は言った。ならばこの状況は、彼と山姥切長義によって作られたということだろう。そのたくらみに乗ってやるのが癪で、もうひとつのテーブル席に、彼と向かい合うようにして座ることにした。
「テーブル、ひとつずれてるよ」
「ここで合ってるのでお構いなく」
「じゃあずれてたのはオレか」
おもしろそうに喉を鳴らしながら、笹貫は立ち上がって私が座るテーブルに移動してきた。机ふたつ分の距離がひとつ分に縮まり、先ほどよりもよく彼の顔が見える。
1カ月前から変わった様子は見られなかった。余裕そうな態度を崩さず、お得意の薄ら笑いを浮かべ、すべてを見透かしたかのような顔で私の様子を窺っている。最後に会ったときは空っぽだった瞳にはしっかりと光が宿って見えるが、それが演技なのか自然な状態なのかは分からなかった。
「あれから、相当忙しかったんだってね。長義くんから聞いたよ」
「……いつの間にお友達になったの?」
「先々週くらい? あんたの顔見に行ったとき、たまたま廊下で出くわしてね」
きっとその瞬間、相当緊迫した空気が流れたことだろう。山姥切はあの一件について、私よりも怒っていた。軽く腫れるほど女性の手を握りこみ、望んでもいない相手に執拗に迫るという行為が許せなかったらしい。案の定、笹貫は「叱られちゃった」と肩をすくめた。
「手、腫れちゃったんだってね。ごめん」
「……あんまり誠意を感じないのは気のせい?」
「バレちゃった? 痕消えちゃって残念って、実は思ってる」
「普通に怖いんだけど……」
「いやいや、あれってオレからの愛の証だから。……って言ったら長義くんにしこたま叱られて追い返されたんだっけ」
「当然すぎるよね」
「痛い思いさせたのは悪かったって思ってるよ」
絶妙に噛み合わない会話はおそらくわざとなのだろう。彼が注文していたらしい焼き鳥とビールがそれぞれの前に置かれる。笹貫の登場によりすっかり忘れていたが、そもそも今日はおいしいお酒と料理を食べるためにここまで来たのだ。癪ではあるが、飲まない理由もない。乾杯もせずにグラスに口をつけると、笹貫は吹き出すようにして笑った。
「良い飲みっぷり。あの日のこと思い出すよ」
「……あのさ、なんでそんなに、私に執着するの?」
半分ほど減ったグラスをテーブルに置き、まっすぐに笹貫を見た。
私自身が望んだ状況ではないものの、白黒つけろと言われたからにはそうするしかない。それにそういえば1カ月前、私は彼のことが知りたいと思ったのだ。何を考え、何故あのようなことを言ったのか。何故、私に執着するのか。答えが知りたいと、確かに思った。今はその絶好の機会だった。
アルコールに支配される前にと切り出した本題に、笹貫は迷いなく「似てると思ったから」と言った。
「似てると思ったんだ、あのとき」
「何が?」
「上司からひどいことたくさん言われて、ムカつく後輩がいて、最低なコピー機まであって。それでも捨てられないように一生懸命がんばっててさ」
「……それ、私のこと?」
「似てるだろ、オレたち」
「……いや、なんか、別に、似てないと思う……」
口調こそ軽いが、笹貫はいたって真剣なようだった。
あの夜。確かに彼には職場の愚痴をたくさん零した。厳しい上司がいる。嫌な後輩がいる。扱いづらいコピー機もある。そんな状況でダメな自分なりにどれだけがんばっているか、ぐだぐだと、取り留めもなく話したと思う。今の私だってあのときと同じだ。話そうと思えばいくらでも愚痴は出てくるだろう。
けれど、それでもがんばっているのは、職場から捨てられないためではない。自分がここで働きたいと思ったからやっているだけだ。本当に心の底から嫌になって逃げたくなれば、いつでも逃げ出すことできる。
だから、失敗作だと呼ばれて藪に投げ捨てられた笹貫とは――自らの足でどこかに行くことができなかった彼とは、少し違う。
しかし当の本人は「そんなことない」と、私の言葉を否定した。
「似てるよ、オレたち。自分を大事にしてくれない場所に必死に戻ろうとするバカみたいなところなんて、ほんとそっくり」
「……笹貫は自分が嫌いなの?」
「嫌いってか、自分の価値を知ってるってだけ。でもあんたのことは好きだよ」
「そうやって、自分のことも好きになりたいとか? そういうこと?」
「なんか難しいこと言うね。でも生憎、そんなにいろんなこと考えてないよ。ただ、健気にがんばるあんたはかわいいなって思って、バカなところはオレと似てるなっても思って、そんであんたが捨てられて傷つく前に、オレがもらっといてあげようかなって思っただけ。それだけだよ、ほんと」
それだけと言うわりには、もっと大きくて複雑な思いが隠されている気がした。軽い口調はそれを覆い隠すための盾のようなもので、もしかしたら剥いで崩してしまってはいけないものなのかもしれないと、咄嗟に考える。
(でも、それはそうだよね。物だからって、何も感じないわけない)
この笹貫という刀が、失敗作だと投げ捨てられ、海にまで沈められた過去と、そのときにできたのであろう傷を抱えているのは当然で、それを癒したいと思うのも自然なことだ。そのために私を利用しているのかもしれないというのは、考えすぎだろうか。ずきりと、あばらの辺りが少しだけ痛む。そうでなければいいと、私はそう思っているのかもしれない。
「なんか今日は積極的だねぇ。ようやくオレに興味持ってくれた感じ?」
あっという間に空にしたグラスの淵をなぞりながら、笹貫はカラカラと笑った。
「……前よりは、興味あると思うよ」
「お、うれしいねぇ。今日はどこのホテル泊まろっか」
「そういうのなければもっと興味持てると思う」
「おっと、失言。……でもオレさあ、別にあんたに嫌われててもいいんだけど」
「……よくないでしょ」
「いいの。でも……なかったことにされんのは、わりと嫌だな」
「……」
「0になるくらいなら、マイナスの方がはるかにマシ。だから絶対、忘れさせてやらない」
いつぞや、彼は同じことを言った。確か、昼時のエレベーターホール。あのときは鋭く、まっすぐに私を射貫いた視線が、今はぼんやりとグラスの淵をなぞっている。頼りなさげな瞳は保護者を見失った迷子のようで、心もとない。あの日とは伴っている感情こそ違うかもしれないが、これが彼の本心であることは疑いようがなかった。
(なんか、変な感じ)
ぞっとするほど冷えた重苦しい執着心と、ふとしたことでバランスを崩れてしまいそうな危うさ。それらを身の内に収めて、彼はただ浜辺に寄せては返す波のように、ゆるやかに、穏やかに笑う。恐ろしい刀だと、ただ一言で片づけて拒絶することもできる。けれどそれができず、結局はこうして彼の言葉に耳を傾けている自分が不思議だった。
「まあ、あんま乱暴にすると長義くんと主に叱られるからさ、俺もいろいろ考えたわけ。あんたがオレをそばに置いておきたくなる方法」
「……思いついたの?」
「ぜーんぜん。いくら誘惑しても拒否られそうだし、押しまくったら逃げられそうだし。……オレって、どうしたらあんたのものになれる?」
笹貫は言いながら焼き鳥を串から外し、私の前に小皿を置いた。こういう気遣いは自然とできるのに、何故そんなことが分からないのだろうか。彼が欲する答えは、きっと誰だってすぐに見つけることができる。
(好かれればいいんだよ、私に)
たったそれだけの発想が出てこないのが、なんだか不思議だった。
私が彼のことを好きになればその願いはきっと叶う。嫌われていてもいいだなんて、そんなことを言っている場合ではない。全力で私に好かれるための努力をすればいい。それだけのことが、何故思い浮かばないのだろう――もしかして、自分が人から好かれるという前提が、そもそもないのだろうか。どうにもこの笹貫という刀剣男士は、言葉と行動と表情がちぐはぐに見えてしまう。
「手足があるのは楽しいけど、心ってのはなかなかうまくいかないね」
「……」
なんでも器用にこなしてしまいそうなのに、何でもないような顔をしながらそんなことで悩んでいるのがなんだかおかしい。寂しくて悲しい。けれど健気で、いじらしくて、なんだか――愛おしい。
自分の眉尻が下がったのが分かった。それに反して上向いた口角の意味は、よく分からない。ただ目の前の欲深くしたたかで計算高い大の男が、ほんの少しだけかわいいと、そんなことを考える。
「なーに、その笑い。オレの気持ち弄んで楽しんでる?」
「そこまで人でなしじゃないよ。……ええと、なんて言えばいいかな……うーんと……とりあえずほっといて」
「ひど。全然手元に置いてくれる気ないじゃん」
「あなたは自分の主の手元にいなくちゃでしょ」
「戻る場所は何カ所あってもいいって当の主が言ってたからねぇ」
「……とにかく、私のそばにいたいなら、私が嫌だって言ったことはしない。約束もなくいきなり会いにこない。自分の気持ちを一方的に押しつけない。この間みたいなことがあっても、無理矢理どうこうとかはしない」
「えー、じゃあどうすればいいわけ?」
「ほっとくか、私が言うこと否定しないで相づち打ちながら話聞いて」
「……それだけ? たぶんオレ、優しく慰めるのとか得意よ?」
「いいの。私はそれが一番うれしいから」
「ふーん? 他には?」
「えっ、ほ、他……?」
「それしかないの? 意外と簡単だねぇ」
「いや、いやいやいや。そんなことはない。ええっと……まあ、そういうことの積み重ね? そういうやり取りをお互い続けてたら、もしかしたらいつか、そういう日も、来るかも?」
「そういう日」
「そう。私があなたを……」
「そばに置きたくなる日?」
「……好きになる日」
「好き?」
笹貫はぱちりとまぶたを上下させ、まじまじと私を見た。知らない言語を聞いたときのような戸惑いと動揺が、アイスブルーの中に渦巻く。私の方には不思議と緊張感はなかった。恥ずかしさや照れもない。頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしただけ。平然と、正面から彼を見据えるだけの余裕があった。
少しの間をおいて、彼は表情を崩した。眉尻が下がった、情けない笑み。瞳の中を漂っていた感情はなりをひそめ、笑みを貼り付けていた頬が紅潮しているのは気のせいではないだろう。彼は困惑と、おそらく照れくささを押し隠しながら両手を挙げ、「参った」と、テーブルの上に視線を滑らせた。
「なるほど、好きにね。次はあんたがオレを好きになる、と」
「……違った?」
「いいや、ドンピシャ。その通り。……あんたの勝ち」
「えっ、今何の勝負してたの」
「しかも土俵にも乗ってないときた。これがひとり相撲ってやつかな。簡単じゃないねえ、人間関係」
「あ、そうだよ。本当にそう。今の言葉、心に刻み付けて。人と人との関係なんて一朝一夕に作れるものじゃないんだから」
「そう? 体の関係作るのは一晩で済んだのに」
「それ二度と言わないで」
「なかったことにしないでくれるなら、口に出すのは控えるよ」
「……分かった……それでいいよ……」
あの一件は本当に私が悪いから、強いことはあまり言えない。苦渋の選択で笹貫のお願いを飲み込むと、彼はうれしそうに笑って追加のビールを注文した。私も彼に倣い、グラスを空けて芋焼酎を注文する。
(ちょっとモヤモヤとかイライラがなくなった気がする)
少しだけ彼のことが知れた。言いたかったことも言えた。彼の余裕をひっぺがし、隠された本心に指先を掠めることができた。そのおかげで気分も晴れ晴れとしていたと思う。笹貫の方も悩んでいたのは事実だったのだろう、幾分かすっきりした様子でお酒を干していた。気のせいでなければ少し浮かれていたようにも思う。
それからは初対面の日のようにお互いに楽しくお酒を飲み交わした。料理をつまみ、おしゃべりに花を咲かせ――そして気が付けば翌朝、さわやかな日差しが入り込むベッドの上で、端正で満足げな笑顔を呆然と見下ろしていた。
「何故……?」
「盛り上がったから?」
「いや、こんな、舌の根も乾かないうちに、なんでこんなこと……」
「まあまあ、そんなに落ち込まない。終わっちゃったことは仕方ないって」
「終わっちゃったというか始まっちゃったことに後悔してるんだけど!?」
「たはは、後悔ときたか。でも別にこういう関係が継続してても良くない?」
「良くない! どういう倫理観してんの!? 山姥切に言われたこともう忘れた!?」
「だってあんたがオレを好きになる前に他の野郎に手出されちゃったらやだし」
「知らんし!」
「飲みながらいろいろ考えたんだけどさ、先に末永くお付き合いするってことにしといて、それに向けて良い関係作っていけば効率いいんじゃない?」
「そういうのが一方的な押しつけって言ってるんだけど!?」
「いやいや、あんたも納得してたじゃん。そういうのも悪くないかぁってふにゃふにゃ笑ってさ」
「うぐっ……それは、その……酔って……!」
「でも酔って前後不覚になったり記憶なくすタイプじゃないよね」
「うう……く、くそっ、どこまで計算のうえで……!?」
「信用ないのね、オレ」
落ち込むようなフリすらせず、笹貫は機嫌よくベッドの上で体を起こした。咄嗟に体ごと顔を背け、胸元まで布団を引き寄せる。
確かにすべて記憶にある。多少はアルコールに思考が溶かされていたとはいえ、判断能力もあった。というか、おそらくそれほどアルコールが入っていなくてもオッケーしていたかもしれないという、嫌な可能性が自分の中に芽生えつつある。
(なに? 私ってもしかしてもう笹貫のこと好きになってたの?)
思い返せば昨夜、彼が私に好かれたいのだと気が付いた時点で、この男が少しだけかわいく見えていたような気がしなくもない。今だってきっと、どちらかと言えば照れ隠しというか、引っ込みがつかなくなってこんな態度を取ってしまっている。
だけど自分がそんなに簡単なやつだったなんて信じられない。信じたくない。そんなことあってほしくない。
さまざまな思いがぐるぐると巡り続ける頭を抱え、ううんと唸る。この葛藤を知ってか知らずか、後ろからすり寄ってきた一筋縄ではいかない曲者は、まるで自分のものを触るかのように遠慮なく私の首筋に指を這わせた。
「次、これが消えないうちに会お?」
「こんなん明日には消えてるっつーの……!」
「んー……じゃあ明後日にしとく? アポ取ればいいんだよね」
「そういう問題じゃないっての!」
首筋から下に降りてきた手を払い落とすも、笹貫は機嫌よく笑うばかりだった。カラカラと笑う声に昨夜のしおらしさはなく、かと言って1カ月前の重たさがあるわけでもない。ただ楽しくて、うれしくて、幸せだと語る笑い声を、これ以上責める気にもなれない。
鬱陶しいくらいまとわりついてくる人の形をした刀を適当にやりすごし、カーテンの隙間から入り込む日差しを眺める。あまりキャパシティが大きくない私の頭は現状をなんとかすることをすっかり諦め、週明けに山姥切にどのような言い訳もとい報告をすべきか、ひたすらにそれを考えるほかなかった。
「飲みに行かないか」
珍しく彼の方からお誘いをしてきたのは、金曜日の定時5分前だった。特に断る理由はなかったし打ち上げ的に飲みに行くのは悪くない。即座に頷くと、山姥切は満足そうに口の端を上げた。
刀剣男士が自由に出歩くことができるのは基本的に万屋街だけだ。それは政府所属でも変わらない。ついでに政府所属の審神者も、万屋街を使用することが許されている。現世の飲み屋街よりもずっと治安が良いし空いていることが多いから、私も万屋街を好んでいた。もちろんここには「例の悪い遊びをするまでは」という注意書きがつく。
あの夜からは徹底的に万屋街を避けてきたが、すでに1カ月以上が経過した。あれきりあの笹貫が政府に顔を出すことはなかったし、きっとほとぼりも冷めたのだろう。今夜は山姥切もいるからそう警戒することもない。彼が案内してくれたこじんまりとした居酒屋に足を踏み入れるまでは、浮かれた気分でお酒のことだけを考えていた。しかし暖簾をくぐった瞬間、目に入った顔に回れ右をして店を出た。
「やあ、待ってたよ」
「間違えました」
ふわふわと楽しいことばかりを考えていた頭がすっと冷え、万屋街から逃げ出すための最短経路を考え出す。しかしすぐ後ろにいた山姥切によってぐいぐいと店の中に押し戻され、そのままぴしゃりと引き戸を閉ざされてしまった。何故か山姥切は店の外にいて、閉ざした戸が開かないように外から押さえつけていた。
「は!? なに!?」
「君が気にするようなことは何もないよ。早く席について浴びるように芋焼酎を飲むといい」
「気にするようなことしかないよね!?」
「じゃあさっさと白黒つけるといいさ。俺もこれ以上巻き込まれるのはごめんだ」
どれほどがんばっても戸がガタガタと揺れるばかりで開く気配はない。5分程必死に扉越しの攻防戦を繰り広げたが刀剣男士の腕力に敵うわけもなく、そうなれば私の方が諦めるほかない。聞こえるか聞こえないかの音量で吐けるだけの悪態を吐いて、店の中を見渡した。
5つ程度のカウンター席の後ろに木製の机が2つ並んだだけの、狭い店だった。しかしひとつひとつの小物や店員の雰囲気から、格式の高さのようなものを感じる。最後に万屋街を訪れたときに行った大衆居酒屋と比較せずとも、安い店ではないだろうと容易に知れた。
「終わった?」
「……」
狭い店内に、客はひとりしかいなかった。テーブル席で頬杖をつき、ゆるやかに笑いながら私を見ている。待っていたと、彼は言った。ならばこの状況は、彼と山姥切長義によって作られたということだろう。そのたくらみに乗ってやるのが癪で、もうひとつのテーブル席に、彼と向かい合うようにして座ることにした。
「テーブル、ひとつずれてるよ」
「ここで合ってるのでお構いなく」
「じゃあずれてたのはオレか」
おもしろそうに喉を鳴らしながら、笹貫は立ち上がって私が座るテーブルに移動してきた。机ふたつ分の距離がひとつ分に縮まり、先ほどよりもよく彼の顔が見える。
1カ月前から変わった様子は見られなかった。余裕そうな態度を崩さず、お得意の薄ら笑いを浮かべ、すべてを見透かしたかのような顔で私の様子を窺っている。最後に会ったときは空っぽだった瞳にはしっかりと光が宿って見えるが、それが演技なのか自然な状態なのかは分からなかった。
「あれから、相当忙しかったんだってね。長義くんから聞いたよ」
「……いつの間にお友達になったの?」
「先々週くらい? あんたの顔見に行ったとき、たまたま廊下で出くわしてね」
きっとその瞬間、相当緊迫した空気が流れたことだろう。山姥切はあの一件について、私よりも怒っていた。軽く腫れるほど女性の手を握りこみ、望んでもいない相手に執拗に迫るという行為が許せなかったらしい。案の定、笹貫は「叱られちゃった」と肩をすくめた。
「手、腫れちゃったんだってね。ごめん」
「……あんまり誠意を感じないのは気のせい?」
「バレちゃった? 痕消えちゃって残念って、実は思ってる」
「普通に怖いんだけど……」
「いやいや、あれってオレからの愛の証だから。……って言ったら長義くんにしこたま叱られて追い返されたんだっけ」
「当然すぎるよね」
「痛い思いさせたのは悪かったって思ってるよ」
絶妙に噛み合わない会話はおそらくわざとなのだろう。彼が注文していたらしい焼き鳥とビールがそれぞれの前に置かれる。笹貫の登場によりすっかり忘れていたが、そもそも今日はおいしいお酒と料理を食べるためにここまで来たのだ。癪ではあるが、飲まない理由もない。乾杯もせずにグラスに口をつけると、笹貫は吹き出すようにして笑った。
「良い飲みっぷり。あの日のこと思い出すよ」
「……あのさ、なんでそんなに、私に執着するの?」
半分ほど減ったグラスをテーブルに置き、まっすぐに笹貫を見た。
私自身が望んだ状況ではないものの、白黒つけろと言われたからにはそうするしかない。それにそういえば1カ月前、私は彼のことが知りたいと思ったのだ。何を考え、何故あのようなことを言ったのか。何故、私に執着するのか。答えが知りたいと、確かに思った。今はその絶好の機会だった。
アルコールに支配される前にと切り出した本題に、笹貫は迷いなく「似てると思ったから」と言った。
「似てると思ったんだ、あのとき」
「何が?」
「上司からひどいことたくさん言われて、ムカつく後輩がいて、最低なコピー機まであって。それでも捨てられないように一生懸命がんばっててさ」
「……それ、私のこと?」
「似てるだろ、オレたち」
「……いや、なんか、別に、似てないと思う……」
口調こそ軽いが、笹貫はいたって真剣なようだった。
あの夜。確かに彼には職場の愚痴をたくさん零した。厳しい上司がいる。嫌な後輩がいる。扱いづらいコピー機もある。そんな状況でダメな自分なりにどれだけがんばっているか、ぐだぐだと、取り留めもなく話したと思う。今の私だってあのときと同じだ。話そうと思えばいくらでも愚痴は出てくるだろう。
けれど、それでもがんばっているのは、職場から捨てられないためではない。自分がここで働きたいと思ったからやっているだけだ。本当に心の底から嫌になって逃げたくなれば、いつでも逃げ出すことできる。
だから、失敗作だと呼ばれて藪に投げ捨てられた笹貫とは――自らの足でどこかに行くことができなかった彼とは、少し違う。
しかし当の本人は「そんなことない」と、私の言葉を否定した。
「似てるよ、オレたち。自分を大事にしてくれない場所に必死に戻ろうとするバカみたいなところなんて、ほんとそっくり」
「……笹貫は自分が嫌いなの?」
「嫌いってか、自分の価値を知ってるってだけ。でもあんたのことは好きだよ」
「そうやって、自分のことも好きになりたいとか? そういうこと?」
「なんか難しいこと言うね。でも生憎、そんなにいろんなこと考えてないよ。ただ、健気にがんばるあんたはかわいいなって思って、バカなところはオレと似てるなっても思って、そんであんたが捨てられて傷つく前に、オレがもらっといてあげようかなって思っただけ。それだけだよ、ほんと」
それだけと言うわりには、もっと大きくて複雑な思いが隠されている気がした。軽い口調はそれを覆い隠すための盾のようなもので、もしかしたら剥いで崩してしまってはいけないものなのかもしれないと、咄嗟に考える。
(でも、それはそうだよね。物だからって、何も感じないわけない)
この笹貫という刀が、失敗作だと投げ捨てられ、海にまで沈められた過去と、そのときにできたのであろう傷を抱えているのは当然で、それを癒したいと思うのも自然なことだ。そのために私を利用しているのかもしれないというのは、考えすぎだろうか。ずきりと、あばらの辺りが少しだけ痛む。そうでなければいいと、私はそう思っているのかもしれない。
「なんか今日は積極的だねぇ。ようやくオレに興味持ってくれた感じ?」
あっという間に空にしたグラスの淵をなぞりながら、笹貫はカラカラと笑った。
「……前よりは、興味あると思うよ」
「お、うれしいねぇ。今日はどこのホテル泊まろっか」
「そういうのなければもっと興味持てると思う」
「おっと、失言。……でもオレさあ、別にあんたに嫌われててもいいんだけど」
「……よくないでしょ」
「いいの。でも……なかったことにされんのは、わりと嫌だな」
「……」
「0になるくらいなら、マイナスの方がはるかにマシ。だから絶対、忘れさせてやらない」
いつぞや、彼は同じことを言った。確か、昼時のエレベーターホール。あのときは鋭く、まっすぐに私を射貫いた視線が、今はぼんやりとグラスの淵をなぞっている。頼りなさげな瞳は保護者を見失った迷子のようで、心もとない。あの日とは伴っている感情こそ違うかもしれないが、これが彼の本心であることは疑いようがなかった。
(なんか、変な感じ)
ぞっとするほど冷えた重苦しい執着心と、ふとしたことでバランスを崩れてしまいそうな危うさ。それらを身の内に収めて、彼はただ浜辺に寄せては返す波のように、ゆるやかに、穏やかに笑う。恐ろしい刀だと、ただ一言で片づけて拒絶することもできる。けれどそれができず、結局はこうして彼の言葉に耳を傾けている自分が不思議だった。
「まあ、あんま乱暴にすると長義くんと主に叱られるからさ、俺もいろいろ考えたわけ。あんたがオレをそばに置いておきたくなる方法」
「……思いついたの?」
「ぜーんぜん。いくら誘惑しても拒否られそうだし、押しまくったら逃げられそうだし。……オレって、どうしたらあんたのものになれる?」
笹貫は言いながら焼き鳥を串から外し、私の前に小皿を置いた。こういう気遣いは自然とできるのに、何故そんなことが分からないのだろうか。彼が欲する答えは、きっと誰だってすぐに見つけることができる。
(好かれればいいんだよ、私に)
たったそれだけの発想が出てこないのが、なんだか不思議だった。
私が彼のことを好きになればその願いはきっと叶う。嫌われていてもいいだなんて、そんなことを言っている場合ではない。全力で私に好かれるための努力をすればいい。それだけのことが、何故思い浮かばないのだろう――もしかして、自分が人から好かれるという前提が、そもそもないのだろうか。どうにもこの笹貫という刀剣男士は、言葉と行動と表情がちぐはぐに見えてしまう。
「手足があるのは楽しいけど、心ってのはなかなかうまくいかないね」
「……」
なんでも器用にこなしてしまいそうなのに、何でもないような顔をしながらそんなことで悩んでいるのがなんだかおかしい。寂しくて悲しい。けれど健気で、いじらしくて、なんだか――愛おしい。
自分の眉尻が下がったのが分かった。それに反して上向いた口角の意味は、よく分からない。ただ目の前の欲深くしたたかで計算高い大の男が、ほんの少しだけかわいいと、そんなことを考える。
「なーに、その笑い。オレの気持ち弄んで楽しんでる?」
「そこまで人でなしじゃないよ。……ええと、なんて言えばいいかな……うーんと……とりあえずほっといて」
「ひど。全然手元に置いてくれる気ないじゃん」
「あなたは自分の主の手元にいなくちゃでしょ」
「戻る場所は何カ所あってもいいって当の主が言ってたからねぇ」
「……とにかく、私のそばにいたいなら、私が嫌だって言ったことはしない。約束もなくいきなり会いにこない。自分の気持ちを一方的に押しつけない。この間みたいなことがあっても、無理矢理どうこうとかはしない」
「えー、じゃあどうすればいいわけ?」
「ほっとくか、私が言うこと否定しないで相づち打ちながら話聞いて」
「……それだけ? たぶんオレ、優しく慰めるのとか得意よ?」
「いいの。私はそれが一番うれしいから」
「ふーん? 他には?」
「えっ、ほ、他……?」
「それしかないの? 意外と簡単だねぇ」
「いや、いやいやいや。そんなことはない。ええっと……まあ、そういうことの積み重ね? そういうやり取りをお互い続けてたら、もしかしたらいつか、そういう日も、来るかも?」
「そういう日」
「そう。私があなたを……」
「そばに置きたくなる日?」
「……好きになる日」
「好き?」
笹貫はぱちりとまぶたを上下させ、まじまじと私を見た。知らない言語を聞いたときのような戸惑いと動揺が、アイスブルーの中に渦巻く。私の方には不思議と緊張感はなかった。恥ずかしさや照れもない。頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしただけ。平然と、正面から彼を見据えるだけの余裕があった。
少しの間をおいて、彼は表情を崩した。眉尻が下がった、情けない笑み。瞳の中を漂っていた感情はなりをひそめ、笑みを貼り付けていた頬が紅潮しているのは気のせいではないだろう。彼は困惑と、おそらく照れくささを押し隠しながら両手を挙げ、「参った」と、テーブルの上に視線を滑らせた。
「なるほど、好きにね。次はあんたがオレを好きになる、と」
「……違った?」
「いいや、ドンピシャ。その通り。……あんたの勝ち」
「えっ、今何の勝負してたの」
「しかも土俵にも乗ってないときた。これがひとり相撲ってやつかな。簡単じゃないねえ、人間関係」
「あ、そうだよ。本当にそう。今の言葉、心に刻み付けて。人と人との関係なんて一朝一夕に作れるものじゃないんだから」
「そう? 体の関係作るのは一晩で済んだのに」
「それ二度と言わないで」
「なかったことにしないでくれるなら、口に出すのは控えるよ」
「……分かった……それでいいよ……」
あの一件は本当に私が悪いから、強いことはあまり言えない。苦渋の選択で笹貫のお願いを飲み込むと、彼はうれしそうに笑って追加のビールを注文した。私も彼に倣い、グラスを空けて芋焼酎を注文する。
(ちょっとモヤモヤとかイライラがなくなった気がする)
少しだけ彼のことが知れた。言いたかったことも言えた。彼の余裕をひっぺがし、隠された本心に指先を掠めることができた。そのおかげで気分も晴れ晴れとしていたと思う。笹貫の方も悩んでいたのは事実だったのだろう、幾分かすっきりした様子でお酒を干していた。気のせいでなければ少し浮かれていたようにも思う。
それからは初対面の日のようにお互いに楽しくお酒を飲み交わした。料理をつまみ、おしゃべりに花を咲かせ――そして気が付けば翌朝、さわやかな日差しが入り込むベッドの上で、端正で満足げな笑顔を呆然と見下ろしていた。
「何故……?」
「盛り上がったから?」
「いや、こんな、舌の根も乾かないうちに、なんでこんなこと……」
「まあまあ、そんなに落ち込まない。終わっちゃったことは仕方ないって」
「終わっちゃったというか始まっちゃったことに後悔してるんだけど!?」
「たはは、後悔ときたか。でも別にこういう関係が継続してても良くない?」
「良くない! どういう倫理観してんの!? 山姥切に言われたこともう忘れた!?」
「だってあんたがオレを好きになる前に他の野郎に手出されちゃったらやだし」
「知らんし!」
「飲みながらいろいろ考えたんだけどさ、先に末永くお付き合いするってことにしといて、それに向けて良い関係作っていけば効率いいんじゃない?」
「そういうのが一方的な押しつけって言ってるんだけど!?」
「いやいや、あんたも納得してたじゃん。そういうのも悪くないかぁってふにゃふにゃ笑ってさ」
「うぐっ……それは、その……酔って……!」
「でも酔って前後不覚になったり記憶なくすタイプじゃないよね」
「うう……く、くそっ、どこまで計算のうえで……!?」
「信用ないのね、オレ」
落ち込むようなフリすらせず、笹貫は機嫌よくベッドの上で体を起こした。咄嗟に体ごと顔を背け、胸元まで布団を引き寄せる。
確かにすべて記憶にある。多少はアルコールに思考が溶かされていたとはいえ、判断能力もあった。というか、おそらくそれほどアルコールが入っていなくてもオッケーしていたかもしれないという、嫌な可能性が自分の中に芽生えつつある。
(なに? 私ってもしかしてもう笹貫のこと好きになってたの?)
思い返せば昨夜、彼が私に好かれたいのだと気が付いた時点で、この男が少しだけかわいく見えていたような気がしなくもない。今だってきっと、どちらかと言えば照れ隠しというか、引っ込みがつかなくなってこんな態度を取ってしまっている。
だけど自分がそんなに簡単なやつだったなんて信じられない。信じたくない。そんなことあってほしくない。
さまざまな思いがぐるぐると巡り続ける頭を抱え、ううんと唸る。この葛藤を知ってか知らずか、後ろからすり寄ってきた一筋縄ではいかない曲者は、まるで自分のものを触るかのように遠慮なく私の首筋に指を這わせた。
「次、これが消えないうちに会お?」
「こんなん明日には消えてるっつーの……!」
「んー……じゃあ明後日にしとく? アポ取ればいいんだよね」
「そういう問題じゃないっての!」
首筋から下に降りてきた手を払い落とすも、笹貫は機嫌よく笑うばかりだった。カラカラと笑う声に昨夜のしおらしさはなく、かと言って1カ月前の重たさがあるわけでもない。ただ楽しくて、うれしくて、幸せだと語る笑い声を、これ以上責める気にもなれない。
鬱陶しいくらいまとわりついてくる人の形をした刀を適当にやりすごし、カーテンの隙間から入り込む日差しを眺める。あまりキャパシティが大きくない私の頭は現状をなんとかすることをすっかり諦め、週明けに山姥切にどのような言い訳もとい報告をすべきか、ひたすらにそれを考えるほかなかった。