FRYDAY NIGHT GAME → nightly night love(笹さに)
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笹貫にランチタイムを邪魔された翌日辺りから、地獄のような毎日が始まった。
まず、普段ならばしないようなちょっとしたミスが続いた。上司からは当然叱責されたし、体調不良から帰ってきた先輩にもちょっと嫌味を言われてしまった。後輩は相変わらず働かない。コピー用紙を切らした職員がそれを放置していたため会議資料の印刷すらできなかったし、何故か私が発注作業を請け負ったりもした。
折悪しく繁忙期に入ったこともあり、要領が良くない私は自分の業務をなんとか日付が変わる前に片付け、よろよろと退庁するような日が続いた。すべてとは言わないが、原因の一部は笹貫によって絡まった思考をのせいであるような気がしないでもない。
現実逃避からどこかに飲みに行ってみようかとも考えたが、いつぞやの過ちを思い出してすぐに首を振った。要領は良くないが、同じ轍を踏まないだけの頭はある。なんとか必死に仕事をこなし、歯を食いしばってふんばっていた、ある日。件の過ちの結果のような存在が、窓口にひょっこりと顔を出した。
「げえっ」
「オレってそんなに嫌われちゃってんの?」
ポリポリと頬をかく笹貫に慌てて謝罪を口にする。いくら本心とはいえ、これほど露骨に態度に出すべきではなかった。
「すみませんすみません、どこか行ってください」
「謝られてる感じしないなぁ。……今度こそランチのお誘いに来たんだけど、それどころじゃなさそうだ」
カウンターに頬杖をついた笹貫は眉を八の字にして私のデスクを指さした。普段は整頓を心がけているはずのデスクの上は荒れに荒れている。いくつものファイルが乱雑に積み上がり、ファイリングすらされていない書類がその合間にしおりのように挟まっている。メモ書きも散乱していたし、改めて見ると自分でも嫌気がさすような状態だった。
「でも不思議だねえ。そんなに荒れてるのはあんたのデスクだけだ」
「えっ」
言われて周囲を見渡せば、そもそもオフィスの中にほとんど職員がいなかった。時計を見ればいつの間にか昼休みが半分も過ぎており、なるほど、カウンターまで距離があるはずなのに会話が成立していたのはそのためだと知る。いつもならば声をかけてくれるはずの山姥切長義も、私の過集中ぶりに呆れてランチに誘ってくれなかったと見た。
「やってしまった……」
「また捨てられちゃった?」
「またって何? 捨てられたことなんてないよ」
凝り固まっていた肩と首をグルグルと回し、ぐうと伸びをしてから席を立つ。お弁当を持参した職員が何人か残っているから少し外しても問題ないだろう。近くの同僚にコンビニに行く旨を告げて廊下へ向かう。予想はしていたが、笹貫は当然のように隣に並んで歩き始めた。
「1階だっけ、コンビニ。どこで食べよっか」
「デスクで、1人で、いただきます」
「あのカウンターって飲食オッケー?」
「オッケーなわけないよね」
部外者が窓口でランチをするとはどういう発想なのだろうか。疲れと呆れから覇気のないツッコミを入れると、笹貫は「冗談」と言って笑った。
「お役人ってのは随分と忙しいんだね」
「今は繁忙期だから。私、そんなに仕事早くないし」
「そのさ、自分を卑下するのって癖なの?」
「は?」
唐突な話題の切り替えに、咄嗟についていくことができなかった。はたと足を止めて隣を見れば、笹貫は見慣れてしまった薄ら笑いと共に私を見下ろしている。何故か、背筋の辺りがひやりと寒くなった気がした。
「最初のときもずっと自分なんてって言ってたし、褒め言葉は全部お世辞って断言するし……癖? それとも、誰かにそう言われたとか?」
「え……? いや、そんなことは……」
「そ? ならいいけど」
笹貫は納得したのかしていないのか分からないような相づちを打って前を向いた。困惑したのはこちらの方で、そんなこと、今の今まで気にしたことすらなかった。たった3回会っただけの刀剣男士から指摘されるほど自分を卑下するようなことを言っていたかと自分の言動を思い返してみるが、特に思い当たることもない。何故彼がこんなことを言い出したのか、まったく見当がつかなかった。
「あの……急に、なんで?」
「ん?」
「私、そんなに卑屈なこと言ってた?」
「どうだろうね。オレが気になっただけかも」
「そ、そう。あ、本丸行きのゲート、ここからだと近道だよ」
「へえ、使わせてもらうよ、あとで」
遠回しな「お帰りくださいメッセージ」は華麗にスルーされてしまった。内心で舌を打って、エレベーターのボタンを押す。右手を持ち上げ、人差し指を近づけ――ふと、自分がずいぶんと身軽だということに気が付いた。
「あ、エコバッグ忘れ……あ!? 財布持ってない!?」
「ありゃ」
慌ててポケットを漁るも、当然のようにパスケースもスマホもない。本当に手ぶらで出てきてしまった。これではコーヒーの1本すら買えない。どれほどぼうっとしていたのか、自分で自分に呆れかえる。
「やってしまった……!」
「大丈夫大丈夫、ちゃーんとオレが持ってきてるから。好きなの選びな」
「いや……結構です……」
「いいんだよ? こういうときは甘えて」
「貸しは作らない方がいいかなって」
「そんなに警戒しなくても」
この貸し借りによって弱みを握られたり変な口実を作られたりしてはたまったものではない。笹貫の親切には丁寧にお断り申し上げ、早々に本丸に帰ることを勧めて1人で廊下を戻った。
昼休みも半分を過ぎていたから、早い職員はすでにデスクに戻り始めていた。仕事熱心な同僚はすでにパソコンを開いているし、私に厳しい叱責をくれる上司も書類に目を通している。何も悪くないはずなのに申し訳ない気分になりながら席に戻り、財布を取る。来たときよりは落ち着いた足取りで廊下に出ようとしたところで、ふと上司に呼び止められた。
(お昼まだなのに……)
本心は心の中だけでつぶやき、愛想笑いとともに上司のデスクに歩み寄る。彼の表情が明るくない時点で、楽しいお話でないことは分かっていた。案の定、ミスの指摘だった。
(ああ……それ、私のミスじゃないやつ……)
後輩が作った書類だ。きっと上司は何か勘違いをして私を捕まえている。本人に言ってくださいと言いたい。しかし淀みなく続くご指導に、口を挟むこともできずただ頷くしかない。荒々しい口調ではないのが不幸中の幸いだが、決して気分がいいものではなかった。だんだんと関係のないお叱りまで始まってしまったから余計だ。こうなれば相づちを打つだけ打って流してしまうしかない。
耳も心も閉ざして待つこと10分。ようやく解放されたころには、コンビニに向かう元気も残っていなかった。
(まあ、最近ミス連発してた私も悪いからね……)
昼休みも残り15分。同僚たちからの同情的な視線を背に感じながら、小銭だけを握りしめて自動販売機に向かう。せめてコーヒーの飲むくらいの休憩は許されたかった。
(くそー……後輩のことはいつか絶対報告……できないって分かってるから、つけあがってるんだよなぁ、あいつ)
もう少し先輩として毅然とした態度を取れていれば話は違うのだろうか。でも私自身、そんなに胸を張れるほど仕事ができるわけでもない。とはいえ自分なりに努力をしているという点で後輩と私は明らかに差があったし、その点は上司から指導してもらいたいところだ。とにかく自分ばかりが叱られているような気がして――普段のがんばりが報われないような気がして、気分が滅入ってくる。
(あー、やだやだ。こういうネガティブ、本当に良くない)
すれ違う他部署の職員には見られないよう、こっそり目元をぬぐって顔を上げる。次の角を曲がれば自動販売機だ。狭いが休憩スペースもある。そこで少し休んでから戻ろう。やたらと重たい足を一生懸命動かして廊下を進み、角を曲がったとき。急に、強く二の腕を掴まれた。
「!?」
後ろから追いついてきた誰かは、腕をつかんだまま大股で私を追い抜く。突然のことに転びそうになるが、犯人が配慮してくれる気配はない。崩しかけたバランスをなんとか保ち、ほとんど引きずられるようにして――見覚えのある青い背中だと、ふと気が付く。知人と呼んでも良いのか分からないその男は、どれほど声をかけても止まってくれる気配はない。ただ転びそうになりながら、ついていくしかなかった。
「ちょっと、なに!?」
笹貫が止まったのは休憩スペースに着いたときだった。自動販売機の前の広々とした窓の前に、いくつかのベンチが点々と置いてあるだけの殺風景な場所だ。笹貫は私を無理矢理ベンチに座らせると、無言のまま自動販売機に向かった。ほとんど前髪に隠された横顔で唯一見える口元は、笑ってはいない。引き結ばれた口の端が意外で、少しだけ頭が冷えた気がした。
笹貫は砂糖が入った甘ったるい缶コーヒーを私に握らせると、片膝をついてしゃがみこんだ。比較的上背がある彼でも、さすがに視線は私より下になる。こちらを見上げてくる端正な顔には、普段の薄ら笑いが戻っていた。けれど何故か、笑っているようには見えない。どちらかと言えば怒っているようにも見える表情は、どこか切実に見えた。
「な、なに?」
「拾ってあげるよ、オレ」
「は?」
「あんたのこと、拾ってあげる。あの夜みたいに」
「……はぁ?」
何を言っているのだろうというのが正直な感想だった。
拾う。笹貫が。私を。あの夜のように。
さっぱり意味が分からない。私は誰かに捨てられた覚えがなければ拾われた覚えもない。そんなことをこんなにも真剣に言われる理由も分からない。
しかし笹貫は、缶コーヒーを掴む私の手を両手で包み、低い声で続けた。
「いいだろ? 失敗作同士、仲良くやろうよ」
「な、何の話……?」
「いーよ、とぼけなくて。聞こえたから、さっきの。外で待ってたとき」
「えーと……」
「失敗したって言われてただろ。あんたをこの部署に入れたの、間違いだったかもしれないって」
「へー……」
上司のすべてをシャットアウトしていたから笹貫に言われて今知りました、とは言えない雰囲気だった。私を見上げるアイスブルーが見たことがないくらいに真剣で、言葉がのどの奥に押し戻される。笹貫はまくしたてるように、唸るような声でさらに続ける。
「勝手なこと言ってくれるよな。あっちの都合で勝手に期待して、使えないからって切り捨てて」
「ま、まだ、捨てられては、いないかと……」
「ひどいよなぁ。こんなにがんばって努力して、泣きそうになってもふんばって、ピカピカ光ろうとして……こんな健気でかわいいのに。それでも……捨てられるときは捨てられる」
「いたっ」
突如強い力で手を握りこまれ、思わず顔をしかめる。いつの間にか、目の前の刀から表情は消え失せていた。空っぽの両目が、無感情に私を見る。
「どうせ捨てられるなら、先にオレが拾ったって文句はないよな?」
ぞっと、全身に冷たいものが走り抜けた。夜風にさらされた、刃物の冷たさ。ぼやけて見えなくなりそうなほどの距離で、瞳孔が開いたアイスブルーがきゅうと細められる。人間味のない微笑みは、おぞましくすら見えて息を呑みこんだ。冷や汗が背筋を伝う。絶対に離すまいとする手を振り払えと本能が叫ぶ。けれど動けない。逃げようとすれば、首筋に噛みつかれ、引きちぎられてしまいそうだった。
肉食獣から隠れる小動物のように、呼吸を止めて時が過ぎるのを待つ。それで何かが解決するわけではない。ただ下手に彼を刺激してはいけないという一心で、バクバクといやなふうに鳴っている心臓の音をやりすごす。
動いてはいけない。呼吸をしてはいけない。目をそらしては、いけない。ぞわりぞわりと肌が粟立つ感覚を我慢しながら、色のないアイスブルーを見つめ返す――張りつめた空気に、パンと乾いた音が響き渡った。
「そこまで」
次いで聞こえた声音に視線だけを向ける。山姥切長義が、手を打ち鳴らしたままの体勢で私たちを見ていた。
「休憩時間が終わる。席に戻れ」
ただ毅然と事実を告げる山姥切に、笹貫もじっと視線を返した。突然現れた刀を睨むように見る横顔は、私が知っている彼らしくはない。けれど彼のことはよく知らないのだということを、またしても思い出した。きっと笹貫という刀剣男士は、明るくて調子がいいばかりの刀ではない。その裏に隠された何かの片りんを、今、私は目にしている。
「聞こえなかったかな? 休憩時間が終わるんだ。彼女を真っ当な社会人のままでいさせてやりたいなら、即刻その手を離して俺がテイクアウトしてきてやったカレーを食べる時間を作ってやれ」
「……」
私の手を握る強さが弱まることはない。寧ろ強まったように思う。痛いと漏らしても、彼はこちらを向かない。どうしたものかと山姥切に視線で助けを求める。しかし彼は彼で私を見てはいなかった。よくよく見れば右手で刀を握っており、抜刀準備を整えている。笹貫を警戒していることが見て取れた。
(そりゃ、そうだよね。私は山姥切が来たから、安心してたけど)
彼がいればなんとかしてくれるはず。それだけの実績と信頼が彼にはあった。同僚の登場だけで相当緊張がほぐれていたらしく、ガチガチに固まっていた体からも少し力が抜けていた。息苦しかったはずの呼吸だって滞りない。アイスブルーの瞳にかけられた金縛りが解けた、その影響か。
不意にぐうと間の抜けた音が、自分のお腹から聞こえた。
「……」
「……」
「……すみません」
「……」
「……」
「……すみませんすみません、お腹空いたんです、すみません!」
「……いや、こっちが悪かったよ」
はあと乾いたため息を吐き出して、ようやく笹貫は私の手を解放した。これ幸いと、おそらく真っ赤になっているだろう顔を両手で覆う。
さすがにこれは恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。こんなにも緊迫した状況でお腹を鳴らせるやつの気が知れない。しかも一度鳴り出したお腹がまったく止まってくれないから余計に恥ずかしい。空気が読めなさすぎる。少し前の緊張感も忘れ、ひたすら謝罪を口にする。
「本当にすみません……!」
「いやいや、あんたが謝ることじゃないって。あんなに一生懸命仕事してたんだから、早くカレー食ってきな」
頭の上に一度だけ、やわらかい感触が降ってきた。撫でるというよりも軽く叩くような手の動きに、少しの心地よさを覚える。何も返すことができず小さく頷くと、少しだけ笑うような声を残して笹貫の気配が遠ざかった。
「……忠告だけはしておくけれど、彼女は物ではなくれっきとした人間でね。本人の意思を無視して拾うことはできない」
「はは、できないじゃなくて、しちゃいけない、でしょ? オレだってそのくらいは知ってるさ」
「それは結構。君にも現代社会の倫理観が身についていることを祈っているよ」
私のせいで緩んだはずの空気を再び引き締めて言葉でやりあう刀たちを、指の隙間から覗き見る。笹貫はこちらに背を向けていたため表情を知ることはできないが、山姥切の方は何も遮るものがない。山姥切長義は、笑顔だった。それもとびきりの――いけすかない相手を見たときの、殺意を精一杯抑えつけているような笑顔。ひえっと短い悲鳴を上げるも、どちらにも届いてはいない。笹貫の姿が見えなくなるまで、山姥切長義は刀から手を離さなかった。
「……さて、面倒なのもいなくなったし、行くとしようか。カレーが冷める」
「う、うん。顔怖いよ」
「誰のせいかな、誰の」
「うっ……あの、その……ごめん。ありがとう」
「どういたしまして。……冷やすものを持ってこよう」
山姥切は私の手元に目をやると、先に戻るように促して踵を返した。見れば手の甲が全体的に赤く染まっており、開こうとすると少しだけ痺れるような感覚がする。相当強い力でつかまれていたらしい。
(なんだったんだろ……)
たった一夜の関係。お互いのことなんてほとんど知らないし、詳しく知ろうとも思わなかった。あの夜のことすらなかったことにしようとしていたが――彼の方は、違っていた。
(なんであんなに、私に執着するの? 捨てられただの拾うだの……失敗作同士、だの。一方的すぎるでしょ、あんなの)
考えれば考えるほど、笹貫という刀剣男士の謎は深まっていく。答えらしい答えも見えてこないし、困惑は少しずつ、いらだちにすり替わってきている。
(まあ、最初のことは私がかなり自分勝手だったとは思うけど。でも笹貫だって私の意思なんか無視して会いに来たり口説くようなこと言ってみたり忘れてくれなかったり……考えてみたらすごく一方的じゃん。私の何を知ってんのって感じだし)
彼が何を考え、何を感じ、どうしてこのような行動に出たのかがよく分からない。それを知ることができれば、このモヤモヤといらだちを解消することができるのだろうか。それとも、もっと謎が深まるだけなのだろうか。分からない。分からないが――知りたいとは、思う。
(……カレー食べよう)
一度思考を切り替え、立ち上がる。このままでは本当に昼休みが終わってしまう。まずは急いで戻ってカレーを胃に入れてしまわなければ。そして午後も集中して仕事を片付け、今日こそ定時で帰ってみせる。達成されることはないだろう高い目標を掲げ、甘い缶コーヒーを抱えて廊下を急いだ。
まず、普段ならばしないようなちょっとしたミスが続いた。上司からは当然叱責されたし、体調不良から帰ってきた先輩にもちょっと嫌味を言われてしまった。後輩は相変わらず働かない。コピー用紙を切らした職員がそれを放置していたため会議資料の印刷すらできなかったし、何故か私が発注作業を請け負ったりもした。
折悪しく繁忙期に入ったこともあり、要領が良くない私は自分の業務をなんとか日付が変わる前に片付け、よろよろと退庁するような日が続いた。すべてとは言わないが、原因の一部は笹貫によって絡まった思考をのせいであるような気がしないでもない。
現実逃避からどこかに飲みに行ってみようかとも考えたが、いつぞやの過ちを思い出してすぐに首を振った。要領は良くないが、同じ轍を踏まないだけの頭はある。なんとか必死に仕事をこなし、歯を食いしばってふんばっていた、ある日。件の過ちの結果のような存在が、窓口にひょっこりと顔を出した。
「げえっ」
「オレってそんなに嫌われちゃってんの?」
ポリポリと頬をかく笹貫に慌てて謝罪を口にする。いくら本心とはいえ、これほど露骨に態度に出すべきではなかった。
「すみませんすみません、どこか行ってください」
「謝られてる感じしないなぁ。……今度こそランチのお誘いに来たんだけど、それどころじゃなさそうだ」
カウンターに頬杖をついた笹貫は眉を八の字にして私のデスクを指さした。普段は整頓を心がけているはずのデスクの上は荒れに荒れている。いくつものファイルが乱雑に積み上がり、ファイリングすらされていない書類がその合間にしおりのように挟まっている。メモ書きも散乱していたし、改めて見ると自分でも嫌気がさすような状態だった。
「でも不思議だねえ。そんなに荒れてるのはあんたのデスクだけだ」
「えっ」
言われて周囲を見渡せば、そもそもオフィスの中にほとんど職員がいなかった。時計を見ればいつの間にか昼休みが半分も過ぎており、なるほど、カウンターまで距離があるはずなのに会話が成立していたのはそのためだと知る。いつもならば声をかけてくれるはずの山姥切長義も、私の過集中ぶりに呆れてランチに誘ってくれなかったと見た。
「やってしまった……」
「また捨てられちゃった?」
「またって何? 捨てられたことなんてないよ」
凝り固まっていた肩と首をグルグルと回し、ぐうと伸びをしてから席を立つ。お弁当を持参した職員が何人か残っているから少し外しても問題ないだろう。近くの同僚にコンビニに行く旨を告げて廊下へ向かう。予想はしていたが、笹貫は当然のように隣に並んで歩き始めた。
「1階だっけ、コンビニ。どこで食べよっか」
「デスクで、1人で、いただきます」
「あのカウンターって飲食オッケー?」
「オッケーなわけないよね」
部外者が窓口でランチをするとはどういう発想なのだろうか。疲れと呆れから覇気のないツッコミを入れると、笹貫は「冗談」と言って笑った。
「お役人ってのは随分と忙しいんだね」
「今は繁忙期だから。私、そんなに仕事早くないし」
「そのさ、自分を卑下するのって癖なの?」
「は?」
唐突な話題の切り替えに、咄嗟についていくことができなかった。はたと足を止めて隣を見れば、笹貫は見慣れてしまった薄ら笑いと共に私を見下ろしている。何故か、背筋の辺りがひやりと寒くなった気がした。
「最初のときもずっと自分なんてって言ってたし、褒め言葉は全部お世辞って断言するし……癖? それとも、誰かにそう言われたとか?」
「え……? いや、そんなことは……」
「そ? ならいいけど」
笹貫は納得したのかしていないのか分からないような相づちを打って前を向いた。困惑したのはこちらの方で、そんなこと、今の今まで気にしたことすらなかった。たった3回会っただけの刀剣男士から指摘されるほど自分を卑下するようなことを言っていたかと自分の言動を思い返してみるが、特に思い当たることもない。何故彼がこんなことを言い出したのか、まったく見当がつかなかった。
「あの……急に、なんで?」
「ん?」
「私、そんなに卑屈なこと言ってた?」
「どうだろうね。オレが気になっただけかも」
「そ、そう。あ、本丸行きのゲート、ここからだと近道だよ」
「へえ、使わせてもらうよ、あとで」
遠回しな「お帰りくださいメッセージ」は華麗にスルーされてしまった。内心で舌を打って、エレベーターのボタンを押す。右手を持ち上げ、人差し指を近づけ――ふと、自分がずいぶんと身軽だということに気が付いた。
「あ、エコバッグ忘れ……あ!? 財布持ってない!?」
「ありゃ」
慌ててポケットを漁るも、当然のようにパスケースもスマホもない。本当に手ぶらで出てきてしまった。これではコーヒーの1本すら買えない。どれほどぼうっとしていたのか、自分で自分に呆れかえる。
「やってしまった……!」
「大丈夫大丈夫、ちゃーんとオレが持ってきてるから。好きなの選びな」
「いや……結構です……」
「いいんだよ? こういうときは甘えて」
「貸しは作らない方がいいかなって」
「そんなに警戒しなくても」
この貸し借りによって弱みを握られたり変な口実を作られたりしてはたまったものではない。笹貫の親切には丁寧にお断り申し上げ、早々に本丸に帰ることを勧めて1人で廊下を戻った。
昼休みも半分を過ぎていたから、早い職員はすでにデスクに戻り始めていた。仕事熱心な同僚はすでにパソコンを開いているし、私に厳しい叱責をくれる上司も書類に目を通している。何も悪くないはずなのに申し訳ない気分になりながら席に戻り、財布を取る。来たときよりは落ち着いた足取りで廊下に出ようとしたところで、ふと上司に呼び止められた。
(お昼まだなのに……)
本心は心の中だけでつぶやき、愛想笑いとともに上司のデスクに歩み寄る。彼の表情が明るくない時点で、楽しいお話でないことは分かっていた。案の定、ミスの指摘だった。
(ああ……それ、私のミスじゃないやつ……)
後輩が作った書類だ。きっと上司は何か勘違いをして私を捕まえている。本人に言ってくださいと言いたい。しかし淀みなく続くご指導に、口を挟むこともできずただ頷くしかない。荒々しい口調ではないのが不幸中の幸いだが、決して気分がいいものではなかった。だんだんと関係のないお叱りまで始まってしまったから余計だ。こうなれば相づちを打つだけ打って流してしまうしかない。
耳も心も閉ざして待つこと10分。ようやく解放されたころには、コンビニに向かう元気も残っていなかった。
(まあ、最近ミス連発してた私も悪いからね……)
昼休みも残り15分。同僚たちからの同情的な視線を背に感じながら、小銭だけを握りしめて自動販売機に向かう。せめてコーヒーの飲むくらいの休憩は許されたかった。
(くそー……後輩のことはいつか絶対報告……できないって分かってるから、つけあがってるんだよなぁ、あいつ)
もう少し先輩として毅然とした態度を取れていれば話は違うのだろうか。でも私自身、そんなに胸を張れるほど仕事ができるわけでもない。とはいえ自分なりに努力をしているという点で後輩と私は明らかに差があったし、その点は上司から指導してもらいたいところだ。とにかく自分ばかりが叱られているような気がして――普段のがんばりが報われないような気がして、気分が滅入ってくる。
(あー、やだやだ。こういうネガティブ、本当に良くない)
すれ違う他部署の職員には見られないよう、こっそり目元をぬぐって顔を上げる。次の角を曲がれば自動販売機だ。狭いが休憩スペースもある。そこで少し休んでから戻ろう。やたらと重たい足を一生懸命動かして廊下を進み、角を曲がったとき。急に、強く二の腕を掴まれた。
「!?」
後ろから追いついてきた誰かは、腕をつかんだまま大股で私を追い抜く。突然のことに転びそうになるが、犯人が配慮してくれる気配はない。崩しかけたバランスをなんとか保ち、ほとんど引きずられるようにして――見覚えのある青い背中だと、ふと気が付く。知人と呼んでも良いのか分からないその男は、どれほど声をかけても止まってくれる気配はない。ただ転びそうになりながら、ついていくしかなかった。
「ちょっと、なに!?」
笹貫が止まったのは休憩スペースに着いたときだった。自動販売機の前の広々とした窓の前に、いくつかのベンチが点々と置いてあるだけの殺風景な場所だ。笹貫は私を無理矢理ベンチに座らせると、無言のまま自動販売機に向かった。ほとんど前髪に隠された横顔で唯一見える口元は、笑ってはいない。引き結ばれた口の端が意外で、少しだけ頭が冷えた気がした。
笹貫は砂糖が入った甘ったるい缶コーヒーを私に握らせると、片膝をついてしゃがみこんだ。比較的上背がある彼でも、さすがに視線は私より下になる。こちらを見上げてくる端正な顔には、普段の薄ら笑いが戻っていた。けれど何故か、笑っているようには見えない。どちらかと言えば怒っているようにも見える表情は、どこか切実に見えた。
「な、なに?」
「拾ってあげるよ、オレ」
「は?」
「あんたのこと、拾ってあげる。あの夜みたいに」
「……はぁ?」
何を言っているのだろうというのが正直な感想だった。
拾う。笹貫が。私を。あの夜のように。
さっぱり意味が分からない。私は誰かに捨てられた覚えがなければ拾われた覚えもない。そんなことをこんなにも真剣に言われる理由も分からない。
しかし笹貫は、缶コーヒーを掴む私の手を両手で包み、低い声で続けた。
「いいだろ? 失敗作同士、仲良くやろうよ」
「な、何の話……?」
「いーよ、とぼけなくて。聞こえたから、さっきの。外で待ってたとき」
「えーと……」
「失敗したって言われてただろ。あんたをこの部署に入れたの、間違いだったかもしれないって」
「へー……」
上司のすべてをシャットアウトしていたから笹貫に言われて今知りました、とは言えない雰囲気だった。私を見上げるアイスブルーが見たことがないくらいに真剣で、言葉がのどの奥に押し戻される。笹貫はまくしたてるように、唸るような声でさらに続ける。
「勝手なこと言ってくれるよな。あっちの都合で勝手に期待して、使えないからって切り捨てて」
「ま、まだ、捨てられては、いないかと……」
「ひどいよなぁ。こんなにがんばって努力して、泣きそうになってもふんばって、ピカピカ光ろうとして……こんな健気でかわいいのに。それでも……捨てられるときは捨てられる」
「いたっ」
突如強い力で手を握りこまれ、思わず顔をしかめる。いつの間にか、目の前の刀から表情は消え失せていた。空っぽの両目が、無感情に私を見る。
「どうせ捨てられるなら、先にオレが拾ったって文句はないよな?」
ぞっと、全身に冷たいものが走り抜けた。夜風にさらされた、刃物の冷たさ。ぼやけて見えなくなりそうなほどの距離で、瞳孔が開いたアイスブルーがきゅうと細められる。人間味のない微笑みは、おぞましくすら見えて息を呑みこんだ。冷や汗が背筋を伝う。絶対に離すまいとする手を振り払えと本能が叫ぶ。けれど動けない。逃げようとすれば、首筋に噛みつかれ、引きちぎられてしまいそうだった。
肉食獣から隠れる小動物のように、呼吸を止めて時が過ぎるのを待つ。それで何かが解決するわけではない。ただ下手に彼を刺激してはいけないという一心で、バクバクといやなふうに鳴っている心臓の音をやりすごす。
動いてはいけない。呼吸をしてはいけない。目をそらしては、いけない。ぞわりぞわりと肌が粟立つ感覚を我慢しながら、色のないアイスブルーを見つめ返す――張りつめた空気に、パンと乾いた音が響き渡った。
「そこまで」
次いで聞こえた声音に視線だけを向ける。山姥切長義が、手を打ち鳴らしたままの体勢で私たちを見ていた。
「休憩時間が終わる。席に戻れ」
ただ毅然と事実を告げる山姥切に、笹貫もじっと視線を返した。突然現れた刀を睨むように見る横顔は、私が知っている彼らしくはない。けれど彼のことはよく知らないのだということを、またしても思い出した。きっと笹貫という刀剣男士は、明るくて調子がいいばかりの刀ではない。その裏に隠された何かの片りんを、今、私は目にしている。
「聞こえなかったかな? 休憩時間が終わるんだ。彼女を真っ当な社会人のままでいさせてやりたいなら、即刻その手を離して俺がテイクアウトしてきてやったカレーを食べる時間を作ってやれ」
「……」
私の手を握る強さが弱まることはない。寧ろ強まったように思う。痛いと漏らしても、彼はこちらを向かない。どうしたものかと山姥切に視線で助けを求める。しかし彼は彼で私を見てはいなかった。よくよく見れば右手で刀を握っており、抜刀準備を整えている。笹貫を警戒していることが見て取れた。
(そりゃ、そうだよね。私は山姥切が来たから、安心してたけど)
彼がいればなんとかしてくれるはず。それだけの実績と信頼が彼にはあった。同僚の登場だけで相当緊張がほぐれていたらしく、ガチガチに固まっていた体からも少し力が抜けていた。息苦しかったはずの呼吸だって滞りない。アイスブルーの瞳にかけられた金縛りが解けた、その影響か。
不意にぐうと間の抜けた音が、自分のお腹から聞こえた。
「……」
「……」
「……すみません」
「……」
「……」
「……すみませんすみません、お腹空いたんです、すみません!」
「……いや、こっちが悪かったよ」
はあと乾いたため息を吐き出して、ようやく笹貫は私の手を解放した。これ幸いと、おそらく真っ赤になっているだろう顔を両手で覆う。
さすがにこれは恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。こんなにも緊迫した状況でお腹を鳴らせるやつの気が知れない。しかも一度鳴り出したお腹がまったく止まってくれないから余計に恥ずかしい。空気が読めなさすぎる。少し前の緊張感も忘れ、ひたすら謝罪を口にする。
「本当にすみません……!」
「いやいや、あんたが謝ることじゃないって。あんなに一生懸命仕事してたんだから、早くカレー食ってきな」
頭の上に一度だけ、やわらかい感触が降ってきた。撫でるというよりも軽く叩くような手の動きに、少しの心地よさを覚える。何も返すことができず小さく頷くと、少しだけ笑うような声を残して笹貫の気配が遠ざかった。
「……忠告だけはしておくけれど、彼女は物ではなくれっきとした人間でね。本人の意思を無視して拾うことはできない」
「はは、できないじゃなくて、しちゃいけない、でしょ? オレだってそのくらいは知ってるさ」
「それは結構。君にも現代社会の倫理観が身についていることを祈っているよ」
私のせいで緩んだはずの空気を再び引き締めて言葉でやりあう刀たちを、指の隙間から覗き見る。笹貫はこちらに背を向けていたため表情を知ることはできないが、山姥切の方は何も遮るものがない。山姥切長義は、笑顔だった。それもとびきりの――いけすかない相手を見たときの、殺意を精一杯抑えつけているような笑顔。ひえっと短い悲鳴を上げるも、どちらにも届いてはいない。笹貫の姿が見えなくなるまで、山姥切長義は刀から手を離さなかった。
「……さて、面倒なのもいなくなったし、行くとしようか。カレーが冷める」
「う、うん。顔怖いよ」
「誰のせいかな、誰の」
「うっ……あの、その……ごめん。ありがとう」
「どういたしまして。……冷やすものを持ってこよう」
山姥切は私の手元に目をやると、先に戻るように促して踵を返した。見れば手の甲が全体的に赤く染まっており、開こうとすると少しだけ痺れるような感覚がする。相当強い力でつかまれていたらしい。
(なんだったんだろ……)
たった一夜の関係。お互いのことなんてほとんど知らないし、詳しく知ろうとも思わなかった。あの夜のことすらなかったことにしようとしていたが――彼の方は、違っていた。
(なんであんなに、私に執着するの? 捨てられただの拾うだの……失敗作同士、だの。一方的すぎるでしょ、あんなの)
考えれば考えるほど、笹貫という刀剣男士の謎は深まっていく。答えらしい答えも見えてこないし、困惑は少しずつ、いらだちにすり替わってきている。
(まあ、最初のことは私がかなり自分勝手だったとは思うけど。でも笹貫だって私の意思なんか無視して会いに来たり口説くようなこと言ってみたり忘れてくれなかったり……考えてみたらすごく一方的じゃん。私の何を知ってんのって感じだし)
彼が何を考え、何を感じ、どうしてこのような行動に出たのかがよく分からない。それを知ることができれば、このモヤモヤといらだちを解消することができるのだろうか。それとも、もっと謎が深まるだけなのだろうか。分からない。分からないが――知りたいとは、思う。
(……カレー食べよう)
一度思考を切り替え、立ち上がる。このままでは本当に昼休みが終わってしまう。まずは急いで戻ってカレーを胃に入れてしまわなければ。そして午後も集中して仕事を片付け、今日こそ定時で帰ってみせる。達成されることはないだろう高い目標を掲げ、甘い缶コーヒーを抱えて廊下を急いだ。