FRYDAY NIGHT GAME → nightly night love(笹さに)
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時計の長針が12を指した瞬間、パソコンを閉じてデスクの下に手を伸ばした。バッグの中から取り出した財布は適度に重い。よしと気合を入れて立ち上がる。私以外の職員たちも各々、財布や弁当箱を手にしておしゃべりを始めている。苦行でしかない仕事の合間、唯一の癒しの時間。昼休憩が始まった。
「山姥切、早く! 置いてくよ!」
「そんなに焦らずとも、食堂は逃げないと思うけれど」
「食堂は逃げなくても席は埋まるでしょうが!」
庁舎内にある職員専用の食堂はそれほど広くはない。スタートダッシュで出遅れて後悔した過去の経験から私はほどほどに焦っていたが、いつでも優雅に気品ある行動を心がける山姥切長義くんはやれやれと息を吐き、もどかしいくらいにもたもたと腰を上げていた。
「座れなかったらコンビニでも行けばいいだろうに」
「昼くらいあったかいできたてのご飯食べさせてよ」
「自炊すればいいじゃないか」
「何もしなくても二食出てくる寮暮らしは黙ってて」
政府所属の刀剣男士は、政府が用意した寮に住んでいることが多い。休日はさまざまな当番が課されるが朝食と夕食は毎日準備されているらしく、スーパーのお惣菜コーナーが味方の私とは生活レベルが雲泥の差だ。だからこそ昼食へのモチベーションにも温度差が生じる。早く早くとデスクと人の合間を縫って進む私とは正反対に、山姥切はゆったりとした足取りで後ろをついてきていた。
「今日の日替わりはなんだったかな」
カウンター台の横を抜けて廊下に出た辺りでようやく追いついてきた山姥切が、あまり興味なさそうに言った。
「生姜焼き定食かロコモコ丼」
「生姜焼き一択だな。急ぐぞ」
「急にやる気出すじゃん」
「ロコモコ丼も悪くなさそうだけどねえ」
「いやでも今日はどう考えても生姜焼き……」
あれ、と心の中でつぶやいて、スピードを上げた山姥切長義に合わせていた歩幅を少し狭める。
他にも廊下を行き交う職員や刀剣男士はいるが、隣を歩き、言葉を交わしているのは山姥切長義、ひとりだけだ。しかし今、誰かが私たちの会話に混ざってこなかっただろうか。気のせいでなければ、後ろから。自然と足が止まる。背後に人の気配を感じたのはほぼ同時で、服越しでも分かるほど近くに、誰かの体温を感じた。
「ま、オレから逃げてるわけじゃないなら良かったよ」
左耳の鼓膜を直接叩くような至近距離で、低い声がそう囁いた。ぞわりと全身の肌が粟立ち、呼吸を止めて目を大きく開く。一拍置いて口から漏れだした悲鳴とともにその場から飛びのくと、上半身を屈めたままの長身の男が、ぽかんと口を開けて私を見ていた。
「なっ、なん、は!? ……なんで!? どういうこと!?」
「……ふっ、はは、どういうことって……そういうこと?」
男は真ん丸だったアイスブルーを三日月の形を変え、それからひどく楽しげにそう言った。見覚えがありすぎる緑混じりの黒髪。襟を抜いたように羽織っている青色の着物と緩く結われた髪の毛の合間から見える首筋が少しだけ色っぽく見えてしまうのは、封印していたいつぞやの記憶のせいだろう。
「来ちゃった」
二度と会うことはないと拒否してやったはずの刀剣男士・笹貫は、バクバクと鳴り始めた心臓を抑えて動揺を落ち着かせようとしている私に、ニヤリと口の端を上げて見せた。
「ランチ? 奇遇だね。オレもこれからなんだ」
「そっ……そんなん言ったら世の中の大抵の人間が奇遇だと思うんだけど!? ねえ、山姥切……山姥切!?」
「とっくに行っちゃったよ、彼」
笹貫が指さす先には颯爽とエレベーターに乗る山姥切長義がいた。つい先ほどまで1メートルくらい先にいたはずなのに、いつの間に。声を張り上げてみてもこちらを振り向きもしない。面倒に巻き込まれて生姜焼きを逃すのが嫌で逃げたのだろう。なんて薄情な刀なんだ。信じられない。ガーという機械音と共に上階に向けて出発したエレベーターを絶句して見送る。
「仲良さそうに見えたけど、意外とそうでもないのかな?」
「……なんの用?」
こほんと軽い咳払いをしてから、できるだけ落ち着いた声で問いかけた。妙な誤魔化しをするなという言外のメッセージは伝わったようで、彼は何度かまたたいてから苦笑に近い笑みを浮かべて、「とりあえず座る?」とエレベーターホールのベンチを指さす。廊下のど真ん中でする話でもなかったので従うと、彼は1人分の隙間を開けて隣に座った。
「何しに来たかって言われると、ランチの誘いに来ただけなんだけど」
「……そういう関係じゃないよね?」
「ふぅん? じゃあどういう関係?」
「ど、どういうって……その……」
「あ、体の関係ってこと?」
「そういうのはっきり言うのやめてもらえる!?」
「照れてる? 意外と初心なんだねぇ」
「こんな誰が聞いてるかも分からない場所でやめろって言ってんの! ほんとに何しに来たの!?」
「……オレとしてはそっちの反応の方が不思議なんだけど」
「は!?」
「なんでなかったことにしようとしてんの?」
柔和に見えていた瞳に、確かな鋭さが横切った。胸の辺りをぐさりと刺すような鋭利な視線に息をのむも、それは一度のまたたきの内にどこかに消え去っている。けれど言葉の中に残されたトゲは、決して隠しきれていなかった。
「ベッドに置き去りにされたの、そこそこ堪えたんだけどなぁ」
「うっ」
「弁解があるなら、ぜひ聞きたいところだねぇ」
「それは……ごめん、悪かったとは思うけど……でも……ああいうのは、そういうものっていうか……暗黙の了解、みたいな……?」
「ああ、なるほどね。どんだけお互い求め合って盛り上がったとしても一晩だけの関係だから朝になったらきれいさっぱり忘れて何もなかったことにして後腐れなく別れましょう、って感じ?」
「まあ、そんな感じ……」
こうして言葉にされると、私の言動はなかなか最低で軽薄だった。おまけにかなり自分勝手。一夜限りの遊びだからといって、あまりに誠意がなさすぎる。胸の奥の辺りがずしりと重たくなり、視線もへなへなと床へ落ちていく。
「すみません、衝動に任せた私が悪かったです……」
「あらら。威勢良かったり落ち込んだり、忙しいねえ」
「悪かったと思ってるし心底反省してるのでなかったことにしてください……」
「え? やだよ、普通に無理」
「なんでだよぉ……」
「気に入っちゃったし……再会しちゃったから。一晩だけと言わず、末永くお付き合いしよ?」
「やだよぉ……」
「はは、ド直球。なんで? 彼氏いんの?」
「いないけど……あなたがどこの誰かも知らないし……」
「なんだ、そんなこと?」
はい、と見せられた身分証には、彼の本丸ナンバーが記されていた。これを見せられたところでどうすればいいのだろう。大切にケースに入れられた身分証を押し戻し、改めて隣の男を見上げる。
偶然にもこの庁舎で再会してしまったあの日、どうしても気になってしまい、笹貫という刀のデータベースを確認した。見知らぬ刀だったのは当然で、各本丸で顕現させられるようになったのがつい最近だったらしい。本丸と審神者の監査を担当する身としてもっと新しい情報に目を向けるようにと上司に叱られたのも記憶に新しい。
刀剣男士としてのベースになったのは、捨てられても刀身を光らせて自身の居所を知らせ戻ってきたという、一種の妖刀のようなエピソードが主だった。身体を得た彼は、これで自分で戻ってこられると喜んだと聞いている。
私が彼について知っているのはせいぜいその程度。あとはあの夜の、アルコールのせいで少しだけぼやけた記憶だけ。どれだけ蓋を閉じてもその隙間から漏れだしてくる彼の記憶は、肌になじむ心地よい熱と眠気すら誘う落ち着いた声音、やわらかなアイスブルーの中に見え隠れする、心臓を貫くような鋭い視線が大半だった。
「なぁに? 見とれちゃった?」
笹貫は先ほどまでとは打って変わって、機嫌良さそうに首を傾げて私を見下ろしていた。ハッと意識を取り戻し、慌てて明後日の方向へ視線を向ける。隠す気がない忍び笑いが羞恥を煽ったが、誤魔化すように口を開いた。
「あ、遊びたいだけなら、他にもたくさんいるでしょう?」
「まあね。でも遊びたいわけじゃないし」
「大体、気に入ったって、何をそんな」
「かわいいなーって思ってさ」
「そういうお世辞いらない……」
「心外だね。本当に思ったんだけどな。やっすい居酒屋で管巻いてたときも、くらーいベッドの上でオレを見上げてるときも、ピカピカしてかわいいなって」
「なにそれ……こわ……」
「怯えられちゃった」
およそ凡人では口に出すことすら許されない口説き文句に立った鳥肌をさすっている私を横目に、笹貫はたははと笑って立ち上がった。長い足が視界の端を踏み、エレベーターへと向かう。顔を上げれば、彼は上階行きのボタンを押してから、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「うちの本丸、結構自由でね。刀剣男士だって一度きりの生なんだから、遊びでも恋愛でも好きにやれって……主が言ってくれてるんだ」
「……良い主さんだね」
「でしょ? オレとしても主の思いには応えてやりたいし、この人を模した身も謳歌しておきたいなって思うわけ」
一歩、二歩、三歩。ゆったりとした仕草で、けれど床を踏みしめるようなしっかりとした足取りで、彼は迷いなく私の正面にたどり着く。膝を折り、少しだけ背中を丸めてようやく高さが合ったアイスブルーから、彼の本心は読み取れない。悠然と浮かべている笑みは、彼が意図的にそうしているのか、それとも癖のようなものなのか、それすらも私は知らない。何せ会うのは3回目だ。あちらだって私のことなど何ひとつ知らないだろうに、笹貫という刀は、すべて見透かしたような顔で口角を上げて私の両目を覗き込む。
「だからさ、どれだけあんたが望んでも、忘れてやらないし、忘れさせてやらない」
私の話を丸っきり無視するような宣言に、ムッとして言い返そうと口を開きかける。しかし彼は笑みを深めて膝と背中をすっと伸ばした。まだ何かあるのかと身構えるが、笹貫は予想に反してあっさりと私に背を向けて歩き出す。
「ランチはまた今度でいいや。じゃあね」
「にっ、二度と来ないで……!」
絞り出すような別れの言葉に、彼が笑ったのが分かった。肩を揺らしながら片手をひらひらと振る仕草はいかにも余裕を感じさせ、癪に障る。もっと何か否定の言葉を投げてやろうかとも思ったが、折悪しく、チンと軽快な音がエレベーターの到着を告げたためにそれは叶わなかった。
いらだちと自己嫌悪と混乱によって頭の中がこんがらがったまま向かった食堂は、当然のように満席な上に生姜焼き定食も売り切れていた。
「遅かったね」
「おかげさまでね……!」
モリモリと生姜焼きを頬張る山姥切長義にちょっとした殺意を抱いたが、彼に当たっても仕方がない。深いため息を吐き出してから、彼のアドバイスに従ってテイクアウト用のロコモコ丼を注文すべくトボトボとレジに向かった。
「山姥切、早く! 置いてくよ!」
「そんなに焦らずとも、食堂は逃げないと思うけれど」
「食堂は逃げなくても席は埋まるでしょうが!」
庁舎内にある職員専用の食堂はそれほど広くはない。スタートダッシュで出遅れて後悔した過去の経験から私はほどほどに焦っていたが、いつでも優雅に気品ある行動を心がける山姥切長義くんはやれやれと息を吐き、もどかしいくらいにもたもたと腰を上げていた。
「座れなかったらコンビニでも行けばいいだろうに」
「昼くらいあったかいできたてのご飯食べさせてよ」
「自炊すればいいじゃないか」
「何もしなくても二食出てくる寮暮らしは黙ってて」
政府所属の刀剣男士は、政府が用意した寮に住んでいることが多い。休日はさまざまな当番が課されるが朝食と夕食は毎日準備されているらしく、スーパーのお惣菜コーナーが味方の私とは生活レベルが雲泥の差だ。だからこそ昼食へのモチベーションにも温度差が生じる。早く早くとデスクと人の合間を縫って進む私とは正反対に、山姥切はゆったりとした足取りで後ろをついてきていた。
「今日の日替わりはなんだったかな」
カウンター台の横を抜けて廊下に出た辺りでようやく追いついてきた山姥切が、あまり興味なさそうに言った。
「生姜焼き定食かロコモコ丼」
「生姜焼き一択だな。急ぐぞ」
「急にやる気出すじゃん」
「ロコモコ丼も悪くなさそうだけどねえ」
「いやでも今日はどう考えても生姜焼き……」
あれ、と心の中でつぶやいて、スピードを上げた山姥切長義に合わせていた歩幅を少し狭める。
他にも廊下を行き交う職員や刀剣男士はいるが、隣を歩き、言葉を交わしているのは山姥切長義、ひとりだけだ。しかし今、誰かが私たちの会話に混ざってこなかっただろうか。気のせいでなければ、後ろから。自然と足が止まる。背後に人の気配を感じたのはほぼ同時で、服越しでも分かるほど近くに、誰かの体温を感じた。
「ま、オレから逃げてるわけじゃないなら良かったよ」
左耳の鼓膜を直接叩くような至近距離で、低い声がそう囁いた。ぞわりと全身の肌が粟立ち、呼吸を止めて目を大きく開く。一拍置いて口から漏れだした悲鳴とともにその場から飛びのくと、上半身を屈めたままの長身の男が、ぽかんと口を開けて私を見ていた。
「なっ、なん、は!? ……なんで!? どういうこと!?」
「……ふっ、はは、どういうことって……そういうこと?」
男は真ん丸だったアイスブルーを三日月の形を変え、それからひどく楽しげにそう言った。見覚えがありすぎる緑混じりの黒髪。襟を抜いたように羽織っている青色の着物と緩く結われた髪の毛の合間から見える首筋が少しだけ色っぽく見えてしまうのは、封印していたいつぞやの記憶のせいだろう。
「来ちゃった」
二度と会うことはないと拒否してやったはずの刀剣男士・笹貫は、バクバクと鳴り始めた心臓を抑えて動揺を落ち着かせようとしている私に、ニヤリと口の端を上げて見せた。
「ランチ? 奇遇だね。オレもこれからなんだ」
「そっ……そんなん言ったら世の中の大抵の人間が奇遇だと思うんだけど!? ねえ、山姥切……山姥切!?」
「とっくに行っちゃったよ、彼」
笹貫が指さす先には颯爽とエレベーターに乗る山姥切長義がいた。つい先ほどまで1メートルくらい先にいたはずなのに、いつの間に。声を張り上げてみてもこちらを振り向きもしない。面倒に巻き込まれて生姜焼きを逃すのが嫌で逃げたのだろう。なんて薄情な刀なんだ。信じられない。ガーという機械音と共に上階に向けて出発したエレベーターを絶句して見送る。
「仲良さそうに見えたけど、意外とそうでもないのかな?」
「……なんの用?」
こほんと軽い咳払いをしてから、できるだけ落ち着いた声で問いかけた。妙な誤魔化しをするなという言外のメッセージは伝わったようで、彼は何度かまたたいてから苦笑に近い笑みを浮かべて、「とりあえず座る?」とエレベーターホールのベンチを指さす。廊下のど真ん中でする話でもなかったので従うと、彼は1人分の隙間を開けて隣に座った。
「何しに来たかって言われると、ランチの誘いに来ただけなんだけど」
「……そういう関係じゃないよね?」
「ふぅん? じゃあどういう関係?」
「ど、どういうって……その……」
「あ、体の関係ってこと?」
「そういうのはっきり言うのやめてもらえる!?」
「照れてる? 意外と初心なんだねぇ」
「こんな誰が聞いてるかも分からない場所でやめろって言ってんの! ほんとに何しに来たの!?」
「……オレとしてはそっちの反応の方が不思議なんだけど」
「は!?」
「なんでなかったことにしようとしてんの?」
柔和に見えていた瞳に、確かな鋭さが横切った。胸の辺りをぐさりと刺すような鋭利な視線に息をのむも、それは一度のまたたきの内にどこかに消え去っている。けれど言葉の中に残されたトゲは、決して隠しきれていなかった。
「ベッドに置き去りにされたの、そこそこ堪えたんだけどなぁ」
「うっ」
「弁解があるなら、ぜひ聞きたいところだねぇ」
「それは……ごめん、悪かったとは思うけど……でも……ああいうのは、そういうものっていうか……暗黙の了解、みたいな……?」
「ああ、なるほどね。どんだけお互い求め合って盛り上がったとしても一晩だけの関係だから朝になったらきれいさっぱり忘れて何もなかったことにして後腐れなく別れましょう、って感じ?」
「まあ、そんな感じ……」
こうして言葉にされると、私の言動はなかなか最低で軽薄だった。おまけにかなり自分勝手。一夜限りの遊びだからといって、あまりに誠意がなさすぎる。胸の奥の辺りがずしりと重たくなり、視線もへなへなと床へ落ちていく。
「すみません、衝動に任せた私が悪かったです……」
「あらら。威勢良かったり落ち込んだり、忙しいねえ」
「悪かったと思ってるし心底反省してるのでなかったことにしてください……」
「え? やだよ、普通に無理」
「なんでだよぉ……」
「気に入っちゃったし……再会しちゃったから。一晩だけと言わず、末永くお付き合いしよ?」
「やだよぉ……」
「はは、ド直球。なんで? 彼氏いんの?」
「いないけど……あなたがどこの誰かも知らないし……」
「なんだ、そんなこと?」
はい、と見せられた身分証には、彼の本丸ナンバーが記されていた。これを見せられたところでどうすればいいのだろう。大切にケースに入れられた身分証を押し戻し、改めて隣の男を見上げる。
偶然にもこの庁舎で再会してしまったあの日、どうしても気になってしまい、笹貫という刀のデータベースを確認した。見知らぬ刀だったのは当然で、各本丸で顕現させられるようになったのがつい最近だったらしい。本丸と審神者の監査を担当する身としてもっと新しい情報に目を向けるようにと上司に叱られたのも記憶に新しい。
刀剣男士としてのベースになったのは、捨てられても刀身を光らせて自身の居所を知らせ戻ってきたという、一種の妖刀のようなエピソードが主だった。身体を得た彼は、これで自分で戻ってこられると喜んだと聞いている。
私が彼について知っているのはせいぜいその程度。あとはあの夜の、アルコールのせいで少しだけぼやけた記憶だけ。どれだけ蓋を閉じてもその隙間から漏れだしてくる彼の記憶は、肌になじむ心地よい熱と眠気すら誘う落ち着いた声音、やわらかなアイスブルーの中に見え隠れする、心臓を貫くような鋭い視線が大半だった。
「なぁに? 見とれちゃった?」
笹貫は先ほどまでとは打って変わって、機嫌良さそうに首を傾げて私を見下ろしていた。ハッと意識を取り戻し、慌てて明後日の方向へ視線を向ける。隠す気がない忍び笑いが羞恥を煽ったが、誤魔化すように口を開いた。
「あ、遊びたいだけなら、他にもたくさんいるでしょう?」
「まあね。でも遊びたいわけじゃないし」
「大体、気に入ったって、何をそんな」
「かわいいなーって思ってさ」
「そういうお世辞いらない……」
「心外だね。本当に思ったんだけどな。やっすい居酒屋で管巻いてたときも、くらーいベッドの上でオレを見上げてるときも、ピカピカしてかわいいなって」
「なにそれ……こわ……」
「怯えられちゃった」
およそ凡人では口に出すことすら許されない口説き文句に立った鳥肌をさすっている私を横目に、笹貫はたははと笑って立ち上がった。長い足が視界の端を踏み、エレベーターへと向かう。顔を上げれば、彼は上階行きのボタンを押してから、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「うちの本丸、結構自由でね。刀剣男士だって一度きりの生なんだから、遊びでも恋愛でも好きにやれって……主が言ってくれてるんだ」
「……良い主さんだね」
「でしょ? オレとしても主の思いには応えてやりたいし、この人を模した身も謳歌しておきたいなって思うわけ」
一歩、二歩、三歩。ゆったりとした仕草で、けれど床を踏みしめるようなしっかりとした足取りで、彼は迷いなく私の正面にたどり着く。膝を折り、少しだけ背中を丸めてようやく高さが合ったアイスブルーから、彼の本心は読み取れない。悠然と浮かべている笑みは、彼が意図的にそうしているのか、それとも癖のようなものなのか、それすらも私は知らない。何せ会うのは3回目だ。あちらだって私のことなど何ひとつ知らないだろうに、笹貫という刀は、すべて見透かしたような顔で口角を上げて私の両目を覗き込む。
「だからさ、どれだけあんたが望んでも、忘れてやらないし、忘れさせてやらない」
私の話を丸っきり無視するような宣言に、ムッとして言い返そうと口を開きかける。しかし彼は笑みを深めて膝と背中をすっと伸ばした。まだ何かあるのかと身構えるが、笹貫は予想に反してあっさりと私に背を向けて歩き出す。
「ランチはまた今度でいいや。じゃあね」
「にっ、二度と来ないで……!」
絞り出すような別れの言葉に、彼が笑ったのが分かった。肩を揺らしながら片手をひらひらと振る仕草はいかにも余裕を感じさせ、癪に障る。もっと何か否定の言葉を投げてやろうかとも思ったが、折悪しく、チンと軽快な音がエレベーターの到着を告げたためにそれは叶わなかった。
いらだちと自己嫌悪と混乱によって頭の中がこんがらがったまま向かった食堂は、当然のように満席な上に生姜焼き定食も売り切れていた。
「遅かったね」
「おかげさまでね……!」
モリモリと生姜焼きを頬張る山姥切長義にちょっとした殺意を抱いたが、彼に当たっても仕方がない。深いため息を吐き出してから、彼のアドバイスに従ってテイクアウト用のロコモコ丼を注文すべくトボトボとレジに向かった。