The trap(ぶぜさに)
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味が一切分からないお夕飯は初めてだった。皿から溢れんばかりに盛られたトマトも甘いのか酸っぱいのかよく分からない。2、3個食べて皿を遠ざけた私を見て、桑名ががっかりしたように「豊前のせいで」と口をとがらせた。
「主の好き嫌いと豊前に何の関係が?」
「トマトは主の大好物でしょ。それがのどを通らないってことは」
「ああ、ついに手出した?」
「松井、ついにって何、ついにって」
桑名と松井の会話に割って入ると、松井はよく熟れた真っ赤なトマトを箸でつまみ上げながらわずかに首を傾げた。
「違った?」
「みんなしてなんなの……もしかして篭手切の話、本当だったの……?」
「篭手切はなんて?」
「わ、私と豊前が……その……」
「できてるって?」
「うちの松井ってなんか他と違う感じしない? 他の松井もこうなの?」
「さあ? うちの豊前がああだし、なんとも」
「うぐっ」
松井が視線で指し示す先では、豊前がみそ汁を口に運んでいた。それだけならば日常風景でしかないが、何故か彼はずっと私を目で追っている。鋭い眼光ではなくやわらかさを帯びているのがせめてもの救いだが、それでもまったく落ち着かない。居心地が悪くなって、体を小さくして視線をやりすごす。
「今夜、豊前が部屋で主を待ってるらしいよ」
「ちょっと、桑名……!」
「決着つけよーぜって言われてた」
「ちょっと想像と違ったな。血を流しあう感じなら呼んでもらっても良いけど」
「正直私にもよく分かりません……私はどうなってしまうの……?」
「告白されるか決闘するか、ふたつにひとつだね」
なんだその二択。桑名は口の中に白米を詰め込み、もぐもぐと咀嚼しながらちらりと豊前の方を見やる。つられるように私もそちらを見てしまうが、渦中の男はすでにそこにはいなかった。おやと思うも、ついと後ろから軽く襟首の辺りを引っ張られ、視線はそちらへと動く。振り向いた先には、豊前江がいた。数時間ぶりにのどの奥からかすれた呼吸音が聞こえた。
「約束、忘れんなよ」
私だけに聞こえるような小さな声でそう言って、豊前はさっさと広間をあとにした。顔を見る前に行ってしまったから表情までは分からなかったが、誤魔化しようがないほど彼の耳は赤く染まっていた。
「これは告白だね」
「うん、告白だ。決闘じゃない」
「やめてやめて、どうすればいいの、私」
うんうんと頷きあう桑名と松井に、本日何度目か分からないがまたしても頭を抱える。
薄々、そんな気はしていた。私と豊前の間で決着をつけるべき事項はそれしかない。しかしだからといって、どのようにその瞬間を迎えればいいのか分からない。どんな顔で部屋へ行けばいいのか、そういえば誰の部屋に何時に行けばいいのかも分からない。もう何も分からない。助けて。ううと唸る私に、松井と桑名は軽い口調で続けた。
「思うままにすればいいじゃないか。こっぴどくフッたところで豊前が諦めるとも思えないし」
「何もなかったようなフリして接しながら、次はしっかり外堀埋めにかかるんだろうなぁ」
「豊前はみんなにどう見えてるの? 私のイメージと全然違う……」
「しつこくて負けず嫌い? 普段は頼りになるのに、そういうところは子どもっぽいかもしれないね」
「わりと反射と本能で行動してるとこあるからね。計算高いわけじゃないのが救いかな」
「本能だけでやってる方がタチが悪い気もするけど」
「でも豊前だし」
「まあね」
「ねえ、それどういう結論?」
「主が不安に思う必要ないってこと」
「なんか全然安心できない」
「最終的には豊前が幸せにしてくれるからね、安心して本音で話しておいでよ」
「2人は豊前に命か何か握られてるの!? 正直宗教みたいでちょっと怖いよ!? ていうか最終ってどこから見た何の最終を指してる!?」
「人生?」
「それ豊前に命握られちゃってるじゃん!」
「だから、豊前が主のこと離すわけないんだってば」
「でもちゃんと主の意に沿う形には収めてくれるだろうから大丈夫だよ」
それは豊前の意思を通すことが前提になっているのでは? 何かがおかしい気がするが、桑名と松井はこの話題を打ち切ったらしく、明日の出陣の話を始めている。せめて誰の部屋に行けばいいのかだけ一緒に考えてほしかったが、そのような雰囲気でもなかったので黙って魚をつつくしかなかった。
悶々としたまま食事を終えて、お風呂を済ませて自室に戻る。入浴前に部屋に戻った際は、豊前の気配はどこにも感じなかった。しばらく部屋で待機して何もなければ私の方から豊前の部屋を訪ねるしかない。それはそれで緊張するが、確かに話を先延ばしにするのもよろしくない。昼間と比べれば随分と過ごしやすい気温になった縁側をとぼとぼと進んでいく。
まだ結論めいた結論は出ていない。もし豊前から好きだと言われたとして、私はどのように返せばいいのだろうか。
(私も好き? いや、なんか違うな……そういう目で見てない? ……そういうわけでも、ないような?)
うんうんと唸りながら、何とはなしに庭を見やる。夕方頃からまた雨が降った。今は上がっているものの、庭はしっとりと濡れて月明かりを反射している。盛りになった紫陽花は大きく花を開き、宵闇を明るく彩っていた。
「落ちるぞ」
正面からかけられた声に視線を戻せば、縁側に座る豊前がからかうように笑っていた。気が付かない間に縁側ギリギリのところを歩いていたらしく、豊前が声をかけてくれなければ本当に庭に転がっていただろう。恥ずかしくなって無駄にきょろきょろと辺りを見回す。いつの間にか自室の前まで戻ってきていたようだった。
「もっと待つかと思った」
「……そう?」
「うん。つーか、逃げちまうかと思ってた」
豊前もお風呂から戻ってきたところなのだろう。寝間着の上に濃い色の羽織を肩にかけて縁側に座る姿は、昼間の快活な彼の印象とは少し異なる。薄らと浮かべた微笑みが、雨が濡らしたあとの庭によく似合っていた。
「だからどうやって捕まえっかなって考えてたら、自分から来た」
「……私の部屋、そこだし」
「そーだな。作戦勝ちってやつだ」
「……」
お風呂から持ち帰った着替えを障子戸の隙間から部屋に入れ、間に1人分の距離を置いて豊前の隣に腰を下ろす。しばらくはお互い、無言だった。きっと私から切り出すことではない。だから、豊前が話し出すのをひたすら待つ。
梅雨の夜は、庭だけでなく空気すらが湿っていた。気温が低いからまだマシだが、時折吹き抜ける風は重たさを感じる。体にまとわりつくような湿った空気は、お風呂で汗と汚れを洗い流した体に再びわずかな不快感をもたらす。それでも庭の景色は美しく、草木に残った水滴が、星のように優しく輝いていた。
「……最近、距離とってた理由聞いてもいいか?」
やがてぽつりと落とされた問いかけは、想定していたものと少し違った。共に万屋街に出かけたあの日から、私が思っていた以上に豊前に対する態度は変わってしまっていた。第三者である篭手切が気が付いていたくらいなのだ、豊前が気づいていないわけがない。
「それは……」
「とぼけんのは、なしだかんな」
「う……なんと……言いますか……」
「緊張すると敬語になんの癖なん?」
「いや、なんか……豊前、距離、近くないかなって思って……?」
「へ?」
「ごご、ごめん、勘違いだったら忘れて! でも他の本丸の豊前見てたら、なんかうちの豊前、すごく近い気がして!」
「勘違いじゃねーよ?」
「……えっ」
「好いた女のそばに寄りたいって思うのは当然だろ?」
「ひええ……」
「なんで隠すんだよ」
あまりにも、刺激が強すぎる言葉だった。予想していたセリフたちのさらに上を行く、私では到底考えつかないような理由。豊前は照れもせず、さも当然のようにそれを口にする。思わず右手を顔の横に広げて顔を隠すと、その手を掴まれ軽く引かれた。
「なあ、見して」
「は!?」
「顔、見たい」
「やだよ!? 見せたくないから隠してんじゃん……! 何考えてんの……!?」
「主のことだよ。あんたのこと、ずっと考えてる」
「っ……!」
もう一度、手を引かれた。強引ではないが、決して離すつもりはなさそうな手の強さ。触れ合う素肌の温度は、私のそれと大差ない。ドクドクと脈打つ心臓のうるささも、どうしたって平静を保っていられない表情も、もしかしたらそうなのだろうか。くいとしつこく促す豊前に従って、恐る恐る、手を下ろす。まず、月明かりの下でもなお分かる赤い瞳が、目についた。彼の顔には余裕などかけらもない。頬を淡い桃色に、耳を真っ赤にして、身を乗り出すようにして私の顔を覗き込む。20センチよりは遠い。だが先ほどよりは、近い。
「かわいいな、真っ赤で、目ェキラキラしてて……かわいい」
わずかに口の端を持ち上げて、豊前は言う。嘘やお世辞ではないことは、見れば分かる。だからこそ照れくさくて、恥ずかしい。息をのんで後ずさろうとしたが、それは豊前によって阻まれた。未だ掴まれたままの手を、豊前の胸元まで引き寄せられる。急に縮まった距離に思わず俯いた。板張りの縁側だけが視界を埋める。訳が分からないくらい、頭が熱い。
「離れんなって」
「いや、もう、死ぬほど恥ずかしくて……」
「……それ、脈ありってことでいいんだよな?」
「そんな、聞かれても、分かんない」
「じゃあ、どうしたら分かる?」
「ど、どうって」
「わりーけどさ、もう待てそうにねえんだ。答えがほしい」
俯いた頭のすぐ上くらいに、豊前の気配を感じた。豊前が話すたび、わずかな吐息が髪を揺らしてこそばゆい。
「主が好きだ」
普段よりも落ち着いた声音が、低く鼓膜を震わせた。予想していたはずの言葉がようやく降ってきただけなのに、大げさなほどに肩が跳ねる。
「……だけど嫌がるあんたを無理矢理そばに置いておくつもりもない。今は、逃げても追わない。だから、主の気持ちを聞かせてくれ」
右手はしっかりと握りこんでいるくせに、髪の毛には触れるか触れないかの距離を保って、豊前はそんなことを言う。桑名や松井の言葉が思考の片隅をかすめるが、それを察したかのように右手を掴む力が強まった。彼の手を介して、胸の内から鼓動が伝わる。私と同じ、大きく乱れた心臓の音だった。
(どうしよう、本当にもう、分かんない)
混乱と恥ずかしさから涙がにじむ。どうすればいいのか、本当によく分からなくなってしまった。
(私、豊前のこと好きなの? 本当に? なんか流されてない?)
豊前に多少ほだされているのは事実だ。しかしすべての恋愛が、完璧な両思いから始まるわけではない。一方的な思いから始まる関係だってある。嫌だという気持ちがないのならば、このまま頷いてしまってもいいのかもしれない。いや、けれどここは学校や会社とは違う。私と豊前は主と刀という少しだけ複雑な関係で、あまりに気軽にくっついたり離れたりなどとやっていては他の男士たちに示しもつかない。何が正解なのか、分からない。
「難しく考えんなって」
豊前が体ごと、私の方に少し近づいた。間にあった1人分の距離が埋まり、見えていたはずの縁側が豊前の足に隠れて見えなくなる。
「進んでみねえと分かんねーことだってたくさんあんだろ? それで違うって思ったなら、そんときは別の道に進めばいい。無責任に手離して放り出すつもりだってねーから。だから……」
「……だから?」
「……1回頷いてくれたら、あとは俺がどうにでもする。だから、頷いてくれ、主。頼む」
余裕ぶった声音のわりに縋るような言葉。ぱちりと、一度またたいて、言葉の意味を考える。
「……なに、それ」
「……」
「頷けって……ええ? そんな、ふふ、本気?」
思わずこぼれ落ちたのは笑いだった。我慢しようとしたが、どうにもできない。お腹の辺りから笑いがこみ上げてくる。小さく肩を震わせて笑い声を漏らし始めた私を、豊前が戸惑うように呼ぶ。
「ど、どうした?」
「いや、ごめん、真剣なのは分かるんだけど……ふふ……それ結局、拒否しないで頷けってことじゃん」
「……まあ、それが本音だし」
「わがまますぎるよ、そんなの。本気で私が嫌だって言ったら、どうするの?」
「今は逃がす」
「それ、さっきも言ってた。あとで捕まえるつもりなの? 桑名と松井が言ってた通りじゃん」
「……こげなときに、ほかん男の話せんでくれん?」
「あはは、豊前って意外と……」
「……なん?」
「子どもっぽい」
「はぁ?」
ひとしきり笑って顔を上げる。零れかけた涙を左手でぬぐいながら目の前の男を見やれば、彼は憮然として私を見下ろしていた。幾分か頬の赤さは薄れているが、不服そうな顔はやはり少し子どもっぽい。桑名と松井の言葉が、今になって分かった気がする。豊前は潔いし頼り甲斐もある。けれどふとした瞬間に見える幼さがかわいくて――なんだか、愛おしい。
「なんなん、そん顔」
「ごめん、なんか急に気が抜けちゃった」
「……」
「……正直、豊前が好きかどうかはよく分かんないけど、分かった。なってみよう、特別な関係。それでもいいかもって、思えた」
「……なんか、素直に喜べねーんだけど」
「なんで!?」
「さっきまでかわいかったのに、急に余裕綽々って顔になっちまった」
釈然としない様子で口をとがらせる豊前に、またしても笑みがこみ上げる。私としては急に豊前がかわいく思えてきたのだ。変に振り回されてドキドキするくらいならばこちらの方がずっと良い。この場所に腰を下ろしたときからずっと続いていた緊張がようやくほどけ、舌もよく回り始める。
「どうせ逃がしてくれないなら自分から飛び込んだほうがずっといいし……よく考えたら今までだって付き合ってるみたいな距離感だったんだし、そこに名前がついただけかもって思うと、気も楽っていうか」
「……ふーん?」
「恋人っていっても、前とあんまり変わんないかもね?」
「……わーった」
「何が?」
「俺も子どもじゃねーからさ。……ケジメ、しっかりつけてやんよ」
「えっ?」
あまりの速さに、何が起こったのか瞬時に理解することができなかった。気が付いたら目の前、5センチほどの距離に赤色が見えていた。遅れて感じたのは後頭部を強く引き寄せた手のひらの大きさ。それから触れ合った唇のやわらかさと、熱。反射的に後ろに下がろうとして、いつの間にか背中にも回っていた手の存在を認識する。がっちりと体を抱き込まれ、身動きひとつ取ることができない。ただ目を見開いて、豊前にされるがまま、その行為を受け入れるしかなかった。
どのくらいの時間そうしていたのか、豊前が名残惜しそうに少しだけ体を離す。それでも頭と体に回った手は、私を逃がそうとはしない。額と額をこつりと当てて、豊前は笑みを消し去った真剣な瞳で私を見た。
「前と……なんだっけ?」
「なん、でも、ない、です……」
もごもごとつぶやくように俯くと、そのまま豊前の胸元に抱き寄せられた。頭上で満足げに頷く様子も、こんなことでムキになるところも、やはり少し幼稚だ。直接感じる心音の速さだって、実際は彼にもまったく余裕がないことを伝えている。やっていることはかわいくないが、その中身は愛らしい。油断すればぺろりと平らげられてしまいそうだが、それでも妙に、惹かれている自分がいる。
(なんか、壮大な罠に引っかかったみたいな気分)
桑名や松井に事前に聞いていなければ、なんて計算高い男なのかと愕然としていたかもしれない。けれどこういうことを計算ではなく自然体でできてしまうから、彼は末恐ろしく、同じくらい魅力的に見えるのだ。少しずつ絡めとられている私が言うのだから、間違いない。
(これは、両思いになる日は遠くないかもしれない)
少しずつ落ち着いてきたお互いの微熱と心音が心地よく、そっとまぶたを伏せる。加減なくぎゅうぎゅうと腕に力をこめる豊前はまるで子どもようで、けれどそれを伝えればきっとすねてしまうだろう。だから黙って、彼の胸元に額を押し付ける。いくら涼しいとはいえ、湿度は高い梅雨の夜。お互いの体温としめりけを帯びた空気がじわじわと汗をにじませたが、その感覚すら、どこか心地よかった。
「主の好き嫌いと豊前に何の関係が?」
「トマトは主の大好物でしょ。それがのどを通らないってことは」
「ああ、ついに手出した?」
「松井、ついにって何、ついにって」
桑名と松井の会話に割って入ると、松井はよく熟れた真っ赤なトマトを箸でつまみ上げながらわずかに首を傾げた。
「違った?」
「みんなしてなんなの……もしかして篭手切の話、本当だったの……?」
「篭手切はなんて?」
「わ、私と豊前が……その……」
「できてるって?」
「うちの松井ってなんか他と違う感じしない? 他の松井もこうなの?」
「さあ? うちの豊前がああだし、なんとも」
「うぐっ」
松井が視線で指し示す先では、豊前がみそ汁を口に運んでいた。それだけならば日常風景でしかないが、何故か彼はずっと私を目で追っている。鋭い眼光ではなくやわらかさを帯びているのがせめてもの救いだが、それでもまったく落ち着かない。居心地が悪くなって、体を小さくして視線をやりすごす。
「今夜、豊前が部屋で主を待ってるらしいよ」
「ちょっと、桑名……!」
「決着つけよーぜって言われてた」
「ちょっと想像と違ったな。血を流しあう感じなら呼んでもらっても良いけど」
「正直私にもよく分かりません……私はどうなってしまうの……?」
「告白されるか決闘するか、ふたつにひとつだね」
なんだその二択。桑名は口の中に白米を詰め込み、もぐもぐと咀嚼しながらちらりと豊前の方を見やる。つられるように私もそちらを見てしまうが、渦中の男はすでにそこにはいなかった。おやと思うも、ついと後ろから軽く襟首の辺りを引っ張られ、視線はそちらへと動く。振り向いた先には、豊前江がいた。数時間ぶりにのどの奥からかすれた呼吸音が聞こえた。
「約束、忘れんなよ」
私だけに聞こえるような小さな声でそう言って、豊前はさっさと広間をあとにした。顔を見る前に行ってしまったから表情までは分からなかったが、誤魔化しようがないほど彼の耳は赤く染まっていた。
「これは告白だね」
「うん、告白だ。決闘じゃない」
「やめてやめて、どうすればいいの、私」
うんうんと頷きあう桑名と松井に、本日何度目か分からないがまたしても頭を抱える。
薄々、そんな気はしていた。私と豊前の間で決着をつけるべき事項はそれしかない。しかしだからといって、どのようにその瞬間を迎えればいいのか分からない。どんな顔で部屋へ行けばいいのか、そういえば誰の部屋に何時に行けばいいのかも分からない。もう何も分からない。助けて。ううと唸る私に、松井と桑名は軽い口調で続けた。
「思うままにすればいいじゃないか。こっぴどくフッたところで豊前が諦めるとも思えないし」
「何もなかったようなフリして接しながら、次はしっかり外堀埋めにかかるんだろうなぁ」
「豊前はみんなにどう見えてるの? 私のイメージと全然違う……」
「しつこくて負けず嫌い? 普段は頼りになるのに、そういうところは子どもっぽいかもしれないね」
「わりと反射と本能で行動してるとこあるからね。計算高いわけじゃないのが救いかな」
「本能だけでやってる方がタチが悪い気もするけど」
「でも豊前だし」
「まあね」
「ねえ、それどういう結論?」
「主が不安に思う必要ないってこと」
「なんか全然安心できない」
「最終的には豊前が幸せにしてくれるからね、安心して本音で話しておいでよ」
「2人は豊前に命か何か握られてるの!? 正直宗教みたいでちょっと怖いよ!? ていうか最終ってどこから見た何の最終を指してる!?」
「人生?」
「それ豊前に命握られちゃってるじゃん!」
「だから、豊前が主のこと離すわけないんだってば」
「でもちゃんと主の意に沿う形には収めてくれるだろうから大丈夫だよ」
それは豊前の意思を通すことが前提になっているのでは? 何かがおかしい気がするが、桑名と松井はこの話題を打ち切ったらしく、明日の出陣の話を始めている。せめて誰の部屋に行けばいいのかだけ一緒に考えてほしかったが、そのような雰囲気でもなかったので黙って魚をつつくしかなかった。
悶々としたまま食事を終えて、お風呂を済ませて自室に戻る。入浴前に部屋に戻った際は、豊前の気配はどこにも感じなかった。しばらく部屋で待機して何もなければ私の方から豊前の部屋を訪ねるしかない。それはそれで緊張するが、確かに話を先延ばしにするのもよろしくない。昼間と比べれば随分と過ごしやすい気温になった縁側をとぼとぼと進んでいく。
まだ結論めいた結論は出ていない。もし豊前から好きだと言われたとして、私はどのように返せばいいのだろうか。
(私も好き? いや、なんか違うな……そういう目で見てない? ……そういうわけでも、ないような?)
うんうんと唸りながら、何とはなしに庭を見やる。夕方頃からまた雨が降った。今は上がっているものの、庭はしっとりと濡れて月明かりを反射している。盛りになった紫陽花は大きく花を開き、宵闇を明るく彩っていた。
「落ちるぞ」
正面からかけられた声に視線を戻せば、縁側に座る豊前がからかうように笑っていた。気が付かない間に縁側ギリギリのところを歩いていたらしく、豊前が声をかけてくれなければ本当に庭に転がっていただろう。恥ずかしくなって無駄にきょろきょろと辺りを見回す。いつの間にか自室の前まで戻ってきていたようだった。
「もっと待つかと思った」
「……そう?」
「うん。つーか、逃げちまうかと思ってた」
豊前もお風呂から戻ってきたところなのだろう。寝間着の上に濃い色の羽織を肩にかけて縁側に座る姿は、昼間の快活な彼の印象とは少し異なる。薄らと浮かべた微笑みが、雨が濡らしたあとの庭によく似合っていた。
「だからどうやって捕まえっかなって考えてたら、自分から来た」
「……私の部屋、そこだし」
「そーだな。作戦勝ちってやつだ」
「……」
お風呂から持ち帰った着替えを障子戸の隙間から部屋に入れ、間に1人分の距離を置いて豊前の隣に腰を下ろす。しばらくはお互い、無言だった。きっと私から切り出すことではない。だから、豊前が話し出すのをひたすら待つ。
梅雨の夜は、庭だけでなく空気すらが湿っていた。気温が低いからまだマシだが、時折吹き抜ける風は重たさを感じる。体にまとわりつくような湿った空気は、お風呂で汗と汚れを洗い流した体に再びわずかな不快感をもたらす。それでも庭の景色は美しく、草木に残った水滴が、星のように優しく輝いていた。
「……最近、距離とってた理由聞いてもいいか?」
やがてぽつりと落とされた問いかけは、想定していたものと少し違った。共に万屋街に出かけたあの日から、私が思っていた以上に豊前に対する態度は変わってしまっていた。第三者である篭手切が気が付いていたくらいなのだ、豊前が気づいていないわけがない。
「それは……」
「とぼけんのは、なしだかんな」
「う……なんと……言いますか……」
「緊張すると敬語になんの癖なん?」
「いや、なんか……豊前、距離、近くないかなって思って……?」
「へ?」
「ごご、ごめん、勘違いだったら忘れて! でも他の本丸の豊前見てたら、なんかうちの豊前、すごく近い気がして!」
「勘違いじゃねーよ?」
「……えっ」
「好いた女のそばに寄りたいって思うのは当然だろ?」
「ひええ……」
「なんで隠すんだよ」
あまりにも、刺激が強すぎる言葉だった。予想していたセリフたちのさらに上を行く、私では到底考えつかないような理由。豊前は照れもせず、さも当然のようにそれを口にする。思わず右手を顔の横に広げて顔を隠すと、その手を掴まれ軽く引かれた。
「なあ、見して」
「は!?」
「顔、見たい」
「やだよ!? 見せたくないから隠してんじゃん……! 何考えてんの……!?」
「主のことだよ。あんたのこと、ずっと考えてる」
「っ……!」
もう一度、手を引かれた。強引ではないが、決して離すつもりはなさそうな手の強さ。触れ合う素肌の温度は、私のそれと大差ない。ドクドクと脈打つ心臓のうるささも、どうしたって平静を保っていられない表情も、もしかしたらそうなのだろうか。くいとしつこく促す豊前に従って、恐る恐る、手を下ろす。まず、月明かりの下でもなお分かる赤い瞳が、目についた。彼の顔には余裕などかけらもない。頬を淡い桃色に、耳を真っ赤にして、身を乗り出すようにして私の顔を覗き込む。20センチよりは遠い。だが先ほどよりは、近い。
「かわいいな、真っ赤で、目ェキラキラしてて……かわいい」
わずかに口の端を持ち上げて、豊前は言う。嘘やお世辞ではないことは、見れば分かる。だからこそ照れくさくて、恥ずかしい。息をのんで後ずさろうとしたが、それは豊前によって阻まれた。未だ掴まれたままの手を、豊前の胸元まで引き寄せられる。急に縮まった距離に思わず俯いた。板張りの縁側だけが視界を埋める。訳が分からないくらい、頭が熱い。
「離れんなって」
「いや、もう、死ぬほど恥ずかしくて……」
「……それ、脈ありってことでいいんだよな?」
「そんな、聞かれても、分かんない」
「じゃあ、どうしたら分かる?」
「ど、どうって」
「わりーけどさ、もう待てそうにねえんだ。答えがほしい」
俯いた頭のすぐ上くらいに、豊前の気配を感じた。豊前が話すたび、わずかな吐息が髪を揺らしてこそばゆい。
「主が好きだ」
普段よりも落ち着いた声音が、低く鼓膜を震わせた。予想していたはずの言葉がようやく降ってきただけなのに、大げさなほどに肩が跳ねる。
「……だけど嫌がるあんたを無理矢理そばに置いておくつもりもない。今は、逃げても追わない。だから、主の気持ちを聞かせてくれ」
右手はしっかりと握りこんでいるくせに、髪の毛には触れるか触れないかの距離を保って、豊前はそんなことを言う。桑名や松井の言葉が思考の片隅をかすめるが、それを察したかのように右手を掴む力が強まった。彼の手を介して、胸の内から鼓動が伝わる。私と同じ、大きく乱れた心臓の音だった。
(どうしよう、本当にもう、分かんない)
混乱と恥ずかしさから涙がにじむ。どうすればいいのか、本当によく分からなくなってしまった。
(私、豊前のこと好きなの? 本当に? なんか流されてない?)
豊前に多少ほだされているのは事実だ。しかしすべての恋愛が、完璧な両思いから始まるわけではない。一方的な思いから始まる関係だってある。嫌だという気持ちがないのならば、このまま頷いてしまってもいいのかもしれない。いや、けれどここは学校や会社とは違う。私と豊前は主と刀という少しだけ複雑な関係で、あまりに気軽にくっついたり離れたりなどとやっていては他の男士たちに示しもつかない。何が正解なのか、分からない。
「難しく考えんなって」
豊前が体ごと、私の方に少し近づいた。間にあった1人分の距離が埋まり、見えていたはずの縁側が豊前の足に隠れて見えなくなる。
「進んでみねえと分かんねーことだってたくさんあんだろ? それで違うって思ったなら、そんときは別の道に進めばいい。無責任に手離して放り出すつもりだってねーから。だから……」
「……だから?」
「……1回頷いてくれたら、あとは俺がどうにでもする。だから、頷いてくれ、主。頼む」
余裕ぶった声音のわりに縋るような言葉。ぱちりと、一度またたいて、言葉の意味を考える。
「……なに、それ」
「……」
「頷けって……ええ? そんな、ふふ、本気?」
思わずこぼれ落ちたのは笑いだった。我慢しようとしたが、どうにもできない。お腹の辺りから笑いがこみ上げてくる。小さく肩を震わせて笑い声を漏らし始めた私を、豊前が戸惑うように呼ぶ。
「ど、どうした?」
「いや、ごめん、真剣なのは分かるんだけど……ふふ……それ結局、拒否しないで頷けってことじゃん」
「……まあ、それが本音だし」
「わがまますぎるよ、そんなの。本気で私が嫌だって言ったら、どうするの?」
「今は逃がす」
「それ、さっきも言ってた。あとで捕まえるつもりなの? 桑名と松井が言ってた通りじゃん」
「……こげなときに、ほかん男の話せんでくれん?」
「あはは、豊前って意外と……」
「……なん?」
「子どもっぽい」
「はぁ?」
ひとしきり笑って顔を上げる。零れかけた涙を左手でぬぐいながら目の前の男を見やれば、彼は憮然として私を見下ろしていた。幾分か頬の赤さは薄れているが、不服そうな顔はやはり少し子どもっぽい。桑名と松井の言葉が、今になって分かった気がする。豊前は潔いし頼り甲斐もある。けれどふとした瞬間に見える幼さがかわいくて――なんだか、愛おしい。
「なんなん、そん顔」
「ごめん、なんか急に気が抜けちゃった」
「……」
「……正直、豊前が好きかどうかはよく分かんないけど、分かった。なってみよう、特別な関係。それでもいいかもって、思えた」
「……なんか、素直に喜べねーんだけど」
「なんで!?」
「さっきまでかわいかったのに、急に余裕綽々って顔になっちまった」
釈然としない様子で口をとがらせる豊前に、またしても笑みがこみ上げる。私としては急に豊前がかわいく思えてきたのだ。変に振り回されてドキドキするくらいならばこちらの方がずっと良い。この場所に腰を下ろしたときからずっと続いていた緊張がようやくほどけ、舌もよく回り始める。
「どうせ逃がしてくれないなら自分から飛び込んだほうがずっといいし……よく考えたら今までだって付き合ってるみたいな距離感だったんだし、そこに名前がついただけかもって思うと、気も楽っていうか」
「……ふーん?」
「恋人っていっても、前とあんまり変わんないかもね?」
「……わーった」
「何が?」
「俺も子どもじゃねーからさ。……ケジメ、しっかりつけてやんよ」
「えっ?」
あまりの速さに、何が起こったのか瞬時に理解することができなかった。気が付いたら目の前、5センチほどの距離に赤色が見えていた。遅れて感じたのは後頭部を強く引き寄せた手のひらの大きさ。それから触れ合った唇のやわらかさと、熱。反射的に後ろに下がろうとして、いつの間にか背中にも回っていた手の存在を認識する。がっちりと体を抱き込まれ、身動きひとつ取ることができない。ただ目を見開いて、豊前にされるがまま、その行為を受け入れるしかなかった。
どのくらいの時間そうしていたのか、豊前が名残惜しそうに少しだけ体を離す。それでも頭と体に回った手は、私を逃がそうとはしない。額と額をこつりと当てて、豊前は笑みを消し去った真剣な瞳で私を見た。
「前と……なんだっけ?」
「なん、でも、ない、です……」
もごもごとつぶやくように俯くと、そのまま豊前の胸元に抱き寄せられた。頭上で満足げに頷く様子も、こんなことでムキになるところも、やはり少し幼稚だ。直接感じる心音の速さだって、実際は彼にもまったく余裕がないことを伝えている。やっていることはかわいくないが、その中身は愛らしい。油断すればぺろりと平らげられてしまいそうだが、それでも妙に、惹かれている自分がいる。
(なんか、壮大な罠に引っかかったみたいな気分)
桑名や松井に事前に聞いていなければ、なんて計算高い男なのかと愕然としていたかもしれない。けれどこういうことを計算ではなく自然体でできてしまうから、彼は末恐ろしく、同じくらい魅力的に見えるのだ。少しずつ絡めとられている私が言うのだから、間違いない。
(これは、両思いになる日は遠くないかもしれない)
少しずつ落ち着いてきたお互いの微熱と心音が心地よく、そっとまぶたを伏せる。加減なくぎゅうぎゅうと腕に力をこめる豊前はまるで子どもようで、けれどそれを伝えればきっとすねてしまうだろう。だから黙って、彼の胸元に額を押し付ける。いくら涼しいとはいえ、湿度は高い梅雨の夜。お互いの体温としめりけを帯びた空気がじわじわと汗をにじませたが、その感覚すら、どこか心地よかった。