The trap(ぶぜさに)
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
梅雨の合間のよく晴れた日。刀を一振り伴って訪れた万屋街で、見知らぬ審神者と豊前江が目にとまった。申し訳なさそうにしている小柄な女性の隣でたくさんの紙袋を腕に引っかけ、気にするなと言わんばかりに笑う豊前江。気さくで親切なのはどこの豊前も変わらないらしいと、微笑ましい気持ちで彼らを眺める。
仲睦まじい様子ではあるが、あまり甘ったるさは感じない。どちらかと言えば兄と妹のような、特別ではあってもからりと乾いた関係に見える。私の本丸の豊前に比べれば、物理的な距離も近くはない。何せ彼はことあるごとに鼻先20センチの距離から私の顔を覗き込み、時にはどういう仕組みか不快感を与えずに肩を抱き、口説かれているのかと勘違いしてしまいそうな言葉を他意なくするりと口にする。あまりに日常的にそんなことをしてくるものだから、もしかして私たちは付き合っているのではと疑ったこともあった。しかしどれだけ記憶を掘り返しても、そのような事実はない。豊前江という刀はもともと人懐こく、優しく、とにかく距離が近い。そういう刀だった。
(……いや、本当にそうか?)
これまで常識のようにそう考えていたが、今になってふと、その前提に疑問を抱く。件の豊前と審神者の距離感は、私とうちの豊前と比べればずっと遠い。しばらく眺めていても豊前は一定以上の距離を詰めようとはせず、そのまま数件先の事務用品店に入っていった。その他にも何振りか見かけた豊前たちも同様。躊躇なく審神者の顔を覗き込む豊前もいるにはいたが、彼らは明らかに恋仲だと分かるようなやり取りをしていた。
(あれ……? なんでうちの豊前ってああなの……?)
今さらといえば今さらな疑問が頭をよぎった。刀剣男士は顕現した本丸ごとに多少の個体差があるものだと聞いている。他の豊前にはない特徴があったとしても個体差で説明がつきそうなものだが、それにしたって、何故私の豊前江はあんなにも距離が近いのだろうか。
(私の影響……なわけないよね?)
豊前によってだいぶ慣れてきたものの、私のパーソナルスペースはかなり広い。他人に近づかれるのはどちらかと言えば苦手だ。我が本丸の刀たちも必要以上に私に近寄ることはない。そんな環境で豊前だけが遠慮なく距離を詰めてくるのは、彼本来の性質によるものだと思っていたが――もしかして、別の理由があるのだろうか。そしてその理由とは、まさか。
「どーした?」
「ギャー!?」
突然眼前に現れた2つの赤色に、悲鳴を上げて後ろにのけぞった。バクバクと鳴る心臓を胸の上から押さえ、肩で息をしながら目を見開く。いつの間にか戻ってきた豊前江が、きょとんと目を丸くして私を見ていた。
「大丈夫か?」
「ぶっ、豊前……何故……」
「? 用事終わったから急いで戻ってきたんだけど……待たせたか?」
豊前が揺らす紙袋には、万屋街の端にあるCDショップのロゴが印刷されていた。彼が篭手切からのおつかいを済ませてくると言って駆け出していったのが20分程前のこと。全速力で駆けて戻ってきてくれたようだが、まったく気配を感じなかった。未だ心臓はうるさい。豊前は不思議そうにしながらも、ベンチに置いたままだった食べかけの団子を目に止めると「うまそーだな」と口の端を上げた。
「お、おいしかったよ。豊前も食べる?」
平静を取り戻すべく、姿勢を正してベンチに座り直す。皿の上にあるのはツヤツヤと光るゴマ餡と、深い緑色のうぐいす餡。ほのかに甘いこし餡はすでに私のお腹に収まってしまったが、残りは豊前の分も見越して多めに購入したものだった。
「どっちがいい? 私はゴマがおすすめなんだけど」
「んー、こっち」
すっと視界に影がかかった。豊前が私の正面に移動したのだろうと特に気にせず、団子の皿を持ち上げた直後。何の前触れなく顎を掴まれた。斜め上から伸びてきた指先にすくわれるように上向かせられる。誘われるまま顔ごと目線を持ち上げると、至近距離に迫った赤色と視線が絡まった。ひゅっととのどが鳴ったのは生理現象のようなものだった。そのまま呼吸が止まる。体の動きも止まる。大きく目を見開いた私を感情の見えない顔で見つめながら、豊前は顎を掴むのとは逆の手を私の口元に伸ばした。少しだけ力をこめて口の端をなでていった親指はゆっくりと持ち主の元に戻され――彼がぺろりと舐めた指先に小さな小豆色を見つけて、カッと全身が熱くなった。
「……は!?」
「ん、うまい」
「いや……は!?」
「こっちは本丸で食おうぜ! 包んでもらってくる」
団子の皿を持って店内に消えた豊前の背中を呆然と見つめる。なんだ今のは。おかしい。いや、豊前はああいう刀だから特におかしくはないのかもしれない。しかし今日、ここに座ってから見つけた豊前江の中で、あんなことをする豊前はほんの数振りしかいなかった。それも共にいた審神者たちはおそらく恋人だ。でも私たちは恋人ではない。
「ね、今の見た? 絶対付き合ってるよね!」
「豊前って付き合うとああいう感じなんだね。ちょっと意外かも~」
私の前を通り過ぎていった女子2人組の会話が漏れ聞こえ、思わず振り向く。刀剣男士を連れずに審神者同士で遊びにきたらしいティーンの女子たちは、きゃっきゃと色めきだった様子で会話を弾ませながら2件隣の喫茶店に入っていった。
(あなたたちが言う今のって私たちですか……?)
恐る恐る辺りを見回しても、豊前江を連れた審神者は見当たらない。客観的に見て、今の私たちは恋人同士にのようだったということだ。
(うそじゃん……豊前なんて最初からこうだったよ……なんにも意外じゃないよ……)
頭を抱えてゆっくりと深い呼吸を繰り返す。未だに心臓はバクバクとうるさい。ようやく豊前のああいう振る舞いに対して平然と振る舞えるようになってきていたのに、何故今さらこんなにも動揺しなければならないのだろう。豊前にとってはきっとなんでもないことのはずなのだ。他の豊前は知らないが、少なくともうちの豊前にとっては特別な言動ではない。そう思いたい。そうじゃないと、困る。
だってもしあれもこれも、豊前にとっての特別だったのだとしたら、それはつまり。
「うし、帰るか!」
「ギャー!?」
背後からぽんと肩を叩かれ、飛び跳ねるようにして立ち上がる。勢いのまま距離をとって振り向けば、豊前は先ほどのようにきょとんとして首を傾げた。
「さっきからどうした? 具合でもわりーのか?」
「ぜっ、全然!」
「でも赤いぜ、顔」
「ひえっ」
間にあったベンチを悠々と乗り越えて、豊前は私の額に手を当てた。そこまでならばまだ分かるが、何故か顔の距離も近い。ものすごく近い。目視20センチはいつもの距離ではあるものの、急にものすごく恥ずかしく思えてきた。
「熱っぽい感じじゃねーな」
「う、うん、そう、だから、大丈夫なので、帰ろう! あとちょっと離れよ!」
「なんで?」
「な、なんで!? だって、なんか、あの……近いって、いうか……?」
視線をあちこちに泳がせながらしどろもどろになる私に、豊前は分かったような分からないような顔で「ふーん?」と言いながらすっと背筋を伸ばした。ひとまず熱はないと判断したらしい。
「よく分かんねーけど、とりあえず帰るか。早く団子食いてーし」
「そ、そうだね」
ニッと歯を見せて笑う豊前にぎこちない笑みを返す。豊前は納得しきれていない様子ではあったが、本丸までの道中ではあまり近寄らず、一定の距離を保ってくれていた。
仲睦まじい様子ではあるが、あまり甘ったるさは感じない。どちらかと言えば兄と妹のような、特別ではあってもからりと乾いた関係に見える。私の本丸の豊前に比べれば、物理的な距離も近くはない。何せ彼はことあるごとに鼻先20センチの距離から私の顔を覗き込み、時にはどういう仕組みか不快感を与えずに肩を抱き、口説かれているのかと勘違いしてしまいそうな言葉を他意なくするりと口にする。あまりに日常的にそんなことをしてくるものだから、もしかして私たちは付き合っているのではと疑ったこともあった。しかしどれだけ記憶を掘り返しても、そのような事実はない。豊前江という刀はもともと人懐こく、優しく、とにかく距離が近い。そういう刀だった。
(……いや、本当にそうか?)
これまで常識のようにそう考えていたが、今になってふと、その前提に疑問を抱く。件の豊前と審神者の距離感は、私とうちの豊前と比べればずっと遠い。しばらく眺めていても豊前は一定以上の距離を詰めようとはせず、そのまま数件先の事務用品店に入っていった。その他にも何振りか見かけた豊前たちも同様。躊躇なく審神者の顔を覗き込む豊前もいるにはいたが、彼らは明らかに恋仲だと分かるようなやり取りをしていた。
(あれ……? なんでうちの豊前ってああなの……?)
今さらといえば今さらな疑問が頭をよぎった。刀剣男士は顕現した本丸ごとに多少の個体差があるものだと聞いている。他の豊前にはない特徴があったとしても個体差で説明がつきそうなものだが、それにしたって、何故私の豊前江はあんなにも距離が近いのだろうか。
(私の影響……なわけないよね?)
豊前によってだいぶ慣れてきたものの、私のパーソナルスペースはかなり広い。他人に近づかれるのはどちらかと言えば苦手だ。我が本丸の刀たちも必要以上に私に近寄ることはない。そんな環境で豊前だけが遠慮なく距離を詰めてくるのは、彼本来の性質によるものだと思っていたが――もしかして、別の理由があるのだろうか。そしてその理由とは、まさか。
「どーした?」
「ギャー!?」
突然眼前に現れた2つの赤色に、悲鳴を上げて後ろにのけぞった。バクバクと鳴る心臓を胸の上から押さえ、肩で息をしながら目を見開く。いつの間にか戻ってきた豊前江が、きょとんと目を丸くして私を見ていた。
「大丈夫か?」
「ぶっ、豊前……何故……」
「? 用事終わったから急いで戻ってきたんだけど……待たせたか?」
豊前が揺らす紙袋には、万屋街の端にあるCDショップのロゴが印刷されていた。彼が篭手切からのおつかいを済ませてくると言って駆け出していったのが20分程前のこと。全速力で駆けて戻ってきてくれたようだが、まったく気配を感じなかった。未だ心臓はうるさい。豊前は不思議そうにしながらも、ベンチに置いたままだった食べかけの団子を目に止めると「うまそーだな」と口の端を上げた。
「お、おいしかったよ。豊前も食べる?」
平静を取り戻すべく、姿勢を正してベンチに座り直す。皿の上にあるのはツヤツヤと光るゴマ餡と、深い緑色のうぐいす餡。ほのかに甘いこし餡はすでに私のお腹に収まってしまったが、残りは豊前の分も見越して多めに購入したものだった。
「どっちがいい? 私はゴマがおすすめなんだけど」
「んー、こっち」
すっと視界に影がかかった。豊前が私の正面に移動したのだろうと特に気にせず、団子の皿を持ち上げた直後。何の前触れなく顎を掴まれた。斜め上から伸びてきた指先にすくわれるように上向かせられる。誘われるまま顔ごと目線を持ち上げると、至近距離に迫った赤色と視線が絡まった。ひゅっととのどが鳴ったのは生理現象のようなものだった。そのまま呼吸が止まる。体の動きも止まる。大きく目を見開いた私を感情の見えない顔で見つめながら、豊前は顎を掴むのとは逆の手を私の口元に伸ばした。少しだけ力をこめて口の端をなでていった親指はゆっくりと持ち主の元に戻され――彼がぺろりと舐めた指先に小さな小豆色を見つけて、カッと全身が熱くなった。
「……は!?」
「ん、うまい」
「いや……は!?」
「こっちは本丸で食おうぜ! 包んでもらってくる」
団子の皿を持って店内に消えた豊前の背中を呆然と見つめる。なんだ今のは。おかしい。いや、豊前はああいう刀だから特におかしくはないのかもしれない。しかし今日、ここに座ってから見つけた豊前江の中で、あんなことをする豊前はほんの数振りしかいなかった。それも共にいた審神者たちはおそらく恋人だ。でも私たちは恋人ではない。
「ね、今の見た? 絶対付き合ってるよね!」
「豊前って付き合うとああいう感じなんだね。ちょっと意外かも~」
私の前を通り過ぎていった女子2人組の会話が漏れ聞こえ、思わず振り向く。刀剣男士を連れずに審神者同士で遊びにきたらしいティーンの女子たちは、きゃっきゃと色めきだった様子で会話を弾ませながら2件隣の喫茶店に入っていった。
(あなたたちが言う今のって私たちですか……?)
恐る恐る辺りを見回しても、豊前江を連れた審神者は見当たらない。客観的に見て、今の私たちは恋人同士にのようだったということだ。
(うそじゃん……豊前なんて最初からこうだったよ……なんにも意外じゃないよ……)
頭を抱えてゆっくりと深い呼吸を繰り返す。未だに心臓はバクバクとうるさい。ようやく豊前のああいう振る舞いに対して平然と振る舞えるようになってきていたのに、何故今さらこんなにも動揺しなければならないのだろう。豊前にとってはきっとなんでもないことのはずなのだ。他の豊前は知らないが、少なくともうちの豊前にとっては特別な言動ではない。そう思いたい。そうじゃないと、困る。
だってもしあれもこれも、豊前にとっての特別だったのだとしたら、それはつまり。
「うし、帰るか!」
「ギャー!?」
背後からぽんと肩を叩かれ、飛び跳ねるようにして立ち上がる。勢いのまま距離をとって振り向けば、豊前は先ほどのようにきょとんとして首を傾げた。
「さっきからどうした? 具合でもわりーのか?」
「ぜっ、全然!」
「でも赤いぜ、顔」
「ひえっ」
間にあったベンチを悠々と乗り越えて、豊前は私の額に手を当てた。そこまでならばまだ分かるが、何故か顔の距離も近い。ものすごく近い。目視20センチはいつもの距離ではあるものの、急にものすごく恥ずかしく思えてきた。
「熱っぽい感じじゃねーな」
「う、うん、そう、だから、大丈夫なので、帰ろう! あとちょっと離れよ!」
「なんで?」
「な、なんで!? だって、なんか、あの……近いって、いうか……?」
視線をあちこちに泳がせながらしどろもどろになる私に、豊前は分かったような分からないような顔で「ふーん?」と言いながらすっと背筋を伸ばした。ひとまず熱はないと判断したらしい。
「よく分かんねーけど、とりあえず帰るか。早く団子食いてーし」
「そ、そうだね」
ニッと歯を見せて笑う豊前にぎこちない笑みを返す。豊前は納得しきれていない様子ではあったが、本丸までの道中ではあまり近寄らず、一定の距離を保ってくれていた。
1/5ページ