前哨戦:別れのあいさつ(完結)
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何かが腰の辺りに触れるような感触とともに、深く沈んでいく意識が浮上した。眠りから覚醒に向かう感覚は悪いものではない。少しの心地よさすら感じるはずであったが――ディーノを襲ったのは鈍い痛みであった。
「っつ……」
「! ……大丈夫ですか?」
後頭部に走った痛みに呻きながら目をこじ開ける。わずかに身じろげば、視界の端から知った顔が現れた。
「名前……? ここは……」
「いろいろありまして」
名前はディーノを助け起こすと、これまでのいきさつを簡単に説明した。
昨日、騒ぎを起こしてしまった詫びに訪れたカフェで、名前は男たちの待ち伏せにあった。どうしたものかと考えていたときにディーノが現れ、昏倒し、そのまま2人で男たちの車に乗せられた。男たちはどこかの廃ビルの地下室に2人を閉じ込め、それきり戻ってきてはいない。ディーノのムチは道端に置き去りに、指輪は男たちに回収されてしまった。名前はディーノの隣に座り直しながら、視線だけで室内を見回した。
「ここの詳しい場所までは分からないんですけど、あのカフェを左手に見て、しばらくは道なりに直進しました。そのあと何回か曲がってよく分からなくなったんですけど……沿岸部ではないです。車の時計で、だいたい2時間くらい走りました。私は初めて来る街で、ディーノさんのところより山が近く感じました」
「……ここにはあの3人しかいないのか?」
「カフェの前にいた男が3人。ビルに入ってから2~3人とすれ違いました。他にもいるのは確定です。兄貴って呼ばれてる人とは会ってませんから。武装は誰もしてなかったはずです」
おびえ、取り乱してもおかしくないような状況であるが、名前はひどく冷静に話を締めくくった。ディーノが怖くないのかと問えば、自分の上司のことを知らないのかと返ってくる。
名前の上司、雲雀恭弥。ボンゴレファミリーの雲の守護者にして、少しずつ名が知れ始めた地下財団の元締め。彼の戦闘狂は有名であり、部下に対しても容赦はしない。雲雀はディーノの教え子であるから当然彼の苛烈さは理解していたし、名前もそれは承知のうえでの発言だったのだろう。雲雀以上に恐ろしいものはないと言って、名前は少しだけ笑ってみせた。
状況はあまり良いとは言えなかった。
名前に倣うように室内をぐるりと見回す。明かりのない、薄暗い部屋だ。驚くほどせまいわけではないが、ガラクタばかりが乱雑に積まれた棚と、隅から朽ち始めているいくつかの木箱の存在が、室内をせまく見せている。窓はなく、正面のドアの隙間から漏れ出る光だけが頼りだった。
手首にきつく巻かれたロープは、いくら手首をひねってもほどける気配すらない。会話をしながらも縄抜けを試みていたが、普段ならばするりと解けるロープが、いつまでも固く手首に巻き付いている。特殊な結び方をされたようだとディーノは考えた。
脱出経路は見当たらず、拘束を抜け出すことすらできていない。そして名前がいる。自分1人だけならばあの男たちが戻ってこようと脅威は感じないが、彼女の存在がディーノを慎重にさせ、また、焦らせてもいた。
「……すみません」
「ん?」
「そのロープ、私のせいで」
名前は一度だけ視線をディーノの背後へと寄越す。どうやらディーノが縄を抜けようと試行錯誤していることに気が付いたらしい。
「ディーノさんが気絶してから、この人は置いていった方がいいって言ったんです。いろいろ大変なことになると思うし……とっても強い人で、絶対にあなたたちでは敵わないから連れていかないのが吉だって……こう、かなり強く言ってしまって」
「それで警戒されて、拘束されたってことか」
「……それに、ロープだけじゃなくて、面倒事に巻き込んでしまって。本当にすみません」
宙を泳いでいた視線が、床へと落とされた。膝を抱えてじっと下を見る横顔からは少しの緊張を感じ取ることができる。名前は本気でディーノを巻き込み、危険にさらしてしまった原因が自分であると考えているのだろう。
しかしそれはディーノにとっては事実ではなく、彼女が責任を感じる理由とてない。誰が悪いのかと言えば、間違いなくあの男たちだ。それどころか名前は自身に危害が加えられそうな状況にありながらも、ディーノを助けようとした。そもそも名前に非がないにもかかわらずカテリーナへ謝罪をしようと考えること自体が、稀有な行動だとディーノは考える。それはいかにも善良で真面目な彼女らしい――裏社会に染まりきっていない人間の行いだった。
「……謝るなら俺の方だな」
「そんなことないでしょう」
「いや、顔の傷。俺がつけた」
「ああ……仕方がないことです。気にしてません」
「それに自分のシマのチンピラすら抑えられなかった。不甲斐ないにもほどがある」
「……」
「休暇を満喫中のかわいい妹分をこんな目に合わせるなんて……キャバッローネの名が泣くぜ」
「……すみません」
ディーノの言葉は彼女の気分を軽くさせることはできなかったらしい。名前は膝を抱える腕に力をこめ、さらに体を小さくさせた。
それきりしばらく、無言の時間が流れる。
(早く逃がしてやらねえと……)
荒事に慣れていない名前を、いつまでもこのような場所に置いておくわけにはいかない。ましてやこれ以上あの男たちに危害を加えられるようなことなど、あってはならない。それはドン・キャバッローネとして――それ以上に、これまで彼女の面倒を見てきた身近な大人の1人としての責任だった。
期待を込めて、再度室内の様子を観察する。
ここは地下であると名前は言った。おそらく倉庫として使われていたのだろう、やはり窓はない。壁を覆うように置かれた棚と木箱は置き去りにされて久しいらしく、分厚いホコリをまとっている。右奥の棚の上部に換気扇のダクトがついているが、到底人が通れるような場所でない。唯一の光源にして出入り口であるドアはたてつけが悪いらしく、壁との間に隙間が空いていた。しかしよく目を凝らしてみれば、くすんだ銀のドアノブの下に、つまみがついていることに気が付いた。
「あのドア、鍵がかかってますよ」
ディーノの考えを察したらしく、名前が先手を打った。
「内鍵ですけど、外からノブを固定してるみたいです」
「試したのか?」
「まあ、一応。換気扇も通れないし他にドアもないので、あの人たちが戻ってきたときに仕掛ける以外、出る手段はなさそうです」
「なら仕方ねえな。……とりあえず外に連絡してみるか」
「私、荷物もコートも、カフェに置いてきてしまって。スマホもその中に……」
「俺のコートのポケットにスマホが入ってる。出せるか?」
名前はディーノに言われるがまま、コートのポケットから見慣れたスマホを取り出した。ディーノが転倒した際に傷ついた様子もなく、問題なくロック画面が表示される。そのまま暗証番号を告げれば、名前はぎょっとしてディーノを見上げた。
「い、いいんですか、そんな、不用心に」
「何が?」
「暗証番号」
「? お前は悪用なんかしないだろ?」
「……雲雀さんの部下ですよ、私」
「だとしても、俺のスマホに入ってる情報の使い方なんて、見当もつかないだろ」
「……」
名前は頷くことはなかったが、神妙な様子でじっとディーノのスマホを見つめた。ムッと引き結んだ口元が意味するところを、ディーノは知らない。しかし名前は賢い。情報の使い道が分からなくとも、その価値自体は十分に理解しているのだろう。それゆえに気が引けているのかもしれない。
いつまでもそうしているわけにもいかないと考えたのか、名前は小さく息を吐き出してスマホの操作を始めた。日本のものとは操作方法が違うものの、電話をかけるだけならば戸惑うことなく動かすことができるらしい。あっという間にロマーリオの番号を見つけ出しコールするも、通話が始まることはなかった。
「他にかける相手は?」
「あいつが出ないんじゃ、他のやつらもバタバタしてんのかもな。屋敷にかけて、下手に混乱させるのも良くねえし」
「じゃあ、あとでまたロマーリオさんにかけてみます」
「ああ。お前が持ってていいぞ」
「今日の服、ポケットが小さくて。元の場所に戻しますね」
名前は取り出したときの何倍も丁寧に、ディーノのコートにスマホを戻した。
名前がすでに室内はくまなくチェックし、使えそうなものはなかったと言うので、ディーノは縄抜けに集中することにした。そのかたわらで、名前はただじっと膝を抱えて座っている。ディーノに話しかけてくることがなければ、ディーノの動きに気が付くことも、ましてや手伝いをしようともしない。ぼんやりとホコリが降り積もった床とにらめっこをしながら、時折手を握ったり閉じたりという動作を繰り返している。時間を持て余しているのかとも考えたが、すぐにそれは誤りであったと悟る。
よく見れば、名前の頬からは血の気が引いていた。
「……寒いのか?」
「え?」
思いがけない一言だったのか、名前はきょとんと首を傾げた。
1月の地下だ。太陽光も暖房も当然なく、名前はディーノと異なりコートを着ていない。厚手のニットを来ているとはいえ、女性の身で耐えられる寒さではないだろう。今もまた、彼女はしきりに手を動かしながら、指先をこすり合わせるようにして少しでも体を温めようとしている。
何故早くに気が付かなかったのか。焦燥と悔しさを誤魔化すように、ディーノは口を動かした。
「ああ、そうだよな、寒いに決まってる。さっきコート置いてきたって言ってたのに……悪い、全然気づかなかった」
「え、いや、別に……」
「俺のコート着とけ……ってのもできねーんだったか。くそ、ついてねーな」
「大丈夫ですよ」
「自覚ないんだろうか、顔、真っ青だぞ。やっぱ悠長にもしてられねーな……」
「……でもロープ、取れないでしょう?」
「……」
「ディーノさんが寝てる間に私も確認したんですけど、ナイフがないとダメだと思います。もしあのドアが開けば、私が探してくるので」
「……ほんと悪い。じゃあ、せめてコートの中に入っとけ」
少しでも寒気を遮り、体温を戻してやるのが先決だ。ディーノがコートを脱ぐことはできなくとも、名前がディーノの懐に入ることはできる。名前は日本人の標準的な体格だが、ディーノに比較すればやはり小さい。問題なくコートの内側に潜り込めるだろう。そう考えての提案だったが、名前は思いがけない反応を示した。
「は?」
名前が、これまでに見たことのない顔でディーノを見た。片眉を歪め、口がへの字を作る。気のせいでなければ、浮かした腰をそのままディーノから少し遠ざけたように見えた。怪訝そうな、それでいて正気を疑うような表情だとディーノは考えた。
「どうした?」
「……本気ですか?」
「へ……だってそれ以外に暖取る方法ないだろ?」
「……丁重にお断り申し上げます」
「ダメだ。そのままじゃ倒れちまう」
「大丈夫ですってば」
「なんでそんなかたくなに……あっ、あれか……? なんか変なにおいがするとか……」
「違います。なんであなたってそう……いや、まあいいです。自分の体調管理くらい、自分でできますから」
「ったく、お前も意外と頑固なとこあるよな。恭弥譲りか?」
「元からです」
ぷいとそっぽを向くようにして、名前は元の体勢に戻っていった。それでも心配になって横顔を観察すると、先ほどよりもほんの少し頬に血色が戻っていることに気が付く。会話をしたために体が温まったのかもしれない。ならばじっとさせておくよりはと、ディーノは縄抜けを続けながら新たな話題を探した。
「……今日はどういう予定だったんだ?」
「あのカフェに行って、そのあとはノープランです。とりあえずブラブラしようかなと」
「ふーん、散歩ってことか」
「……ディーノさんは、例の事件の絡みですか? 酒場で殺しがどうとかいう……それでカフェに?」
「ん? なんでだ?」
「え?」
「確かに酒場に行った帰り道だが、カテリーナのカフェは事件とは無関係だ。なんでそう思ったんだ?」
「えっ……と……まだご存知、ない?」
「?」
「……どういう事件だったか、聞いてもいいですか?」
名前は声のトーンを落として、ディーノを見上げた。こげ茶色の瞳の中には、明確な意思は見えない。相変わらず茫洋とした視線だが、彼女なりに事件に思うところがあるのだろう。いらだちにも、焦りにも似た感情が浮いている。ディーノは告げるべき情報を慎重に探した。
「……殺しだ。カタギがチンピラに殺されて、指輪を奪われた。死んだのは酒場の息子でな、俺のじいさんが先々代の店主にやった指輪だったらしい」
「それは、指輪を狙ってってことですか?」
「おそらくな。指輪のこと、ある程度は知ってるよな」
「一般的に知られてるようなことくらいは、なんとなく。貴重品だし、高く売れるんでしょう?」
「ああ、お前はそういう認識でいい。……だが重要なのはそこじゃねーんだ。俺のシマの住民が、それも何の罪もないカタギが、裏社会の事情で一方的に命を奪われた」
普通に生活していれば、絶対に絶えることのない命だった。それがたかが指輪ひとつが原因で、無残にも未来を断たれることとなった。酒場の息子はどれほど無念だったことだろう。残された両親は、どれほど嘆き、悲しみ、絶望したことだろう。そう考えるたび、胸の奥の方が苦しくなった。呼吸がままならなくなるような感覚とともに、いやに冷たい炎が腹の底で揺らめく。ディーノはその感覚が嫌いだった。
「……俺がもっと早く手を打ってたら、防げたことだ」
「……でも別に、あなたのせいじゃ」
「俺のシマで起こったことは俺の責任だ。今回のお前のこともそうだし、酒場の件も同じだ」
「……よく分かりません。警察の責任じゃないんですか」
「それも間違っちゃいない。ただ、サツにはサツの領分があるように、俺たちには俺たちの領分がある。酒場の犯人は、こっちの領分に入っちまったんだ」
「だから、ディーノさんが責任を取るんですか?」
「そうだ。それが俺からの、住民への誠意だ」
「だから犯人を探し出して……殺す?」
「……」
ディーノは頷くことも、否定することもしなかった。表社会を生きる名前を、こちら側の世界に触れさせたくはない。しかし否定することも、名前やキャバッローネのシマの住民たちに対して不誠実なような気がした。
「……指輪をな、取り戻したいんだ」
ディーノは否定も肯定もせず、しかしもうひとつの事実に触れることにした。
「取られたっていう?」
「ああ。酒場の夫婦から頼まれてる。それがひとつのケジメになるはずだ」
「……どんな指輪なんですか? 炎を灯すようなものなんですか?」
「分からねえ。ただ、わざわざ先々代キャバッローネが云々って大事にしてたくらいだ。うちの紋章くらい刻まれてるかもな」
「へえ……」
「売りさばかれる前に回収しないと、面倒なことになる。犯人たちを逃がすつもりもねえ。やっぱここに長居するわけにはいかないな。……っし、解けた」
「え。……え?」
ぱらり。ロープが床に落ちる音が、名前が漏らした声の合間を縫って室内に響いた。会話をしながらずっと動かし続けていた両手が、ようやくきつい拘束から解放されたのだ。自由になった両手の感触を確かめるべく何度か握りしめ、手首を回す。長時間同じ場所で固定されていた肩の方が鈍い痛みを訴えたが、こちらもぐるぐると動かしてやることですぐに常の調子を取り戻した。
「なんかいつもより時間かかっちまったけど、これでようやく動けるぜ」
「え、ちょっと……なんで? どうやって解いたんですか?」
「世界最高のヒットマンの指導の賜物だ。ほら、これ着とけ」
「いやいやいや、ちょ、うわ」
縄抜けを目にしたのは初めてだったのだろう、呆然とディーノを見上げる名前の頭から、脱いだコートをかぶせる。途端に冬用のパーカー越しに冷たい空気を感じ、やはり名前の言葉はやせ我慢であったのだとディーノは少々呆れた思いがした。
「やっぱ寒いじゃねーか」
「女子は見えてないだけで中に厚着をですね……これじゃディーノさんが寒くなっちゃうし」
「俺とお前じゃ体力が違う。いいから着とけ」
「……すみません」
どこか釈然としない様子で、名前はディーノのコートに袖を通した。一回りも二回りも体格の違うディーノのコートは名前には大きすぎたらしく、体どころか抱えていた膝からつま先まですっぽりと隠れてしまう。袖は何度か折り返しても彼女の手を見つけることはできないくらいに余っていた。
「ちょっとはマシだろ?」
「それは、まあ。……本当に大丈夫なんですか?」
「こういうときは堂々と礼言って、甘えとけばいいんだよ。イタリアじゃ誰でもそうする。寧ろコート貸さない方がおかしいくらいだ」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
本当に借りてしまっていいのか、甘えてしまっていいのか。名前の礼からはそのような葛藤がにじみ出ており、ディーノは苦く笑う。
人に頼る経験が少なかったためか、どうにも彼女は甘え下手なところがある。控えめな性格も相まって他人の厚意を受け取ることができないということは、これまでもあった。だが少し強引に押し付けてしまえば観念して礼を言うのだということも、ディーノは知っている。中学生のころから変わらない彼女にどこか安堵を覚えながら、ディーノは立ち上がった。
名前の言う通り、ドアは固く閉ざされていた。どれほど力をこめても開く気配はない。前後に動かすと外側からカチャカチャと金属がこすれる音が聞こえたから、やはり名前の言った通り、外から固定されているようだった。
「スクーデリアが使えれば、一瞬で出られるんだけどな」
「……持ってるんですか? 匣」
「ああ。ベルトの後ろについてるから、気付かなかったんだろうな。指輪は取ったわりに詰めが甘い……」
そこまで言って、ディーノはふと違和感を覚えた。
このご時世、誘拐してきた相手の武装を解除するならば武器とともに指輪や匣を取り上げるのは当然のことだ。ディーノたちをさらってきた男たちも指輪だけは回収したようだが――その常識はあくまで裏社会の常識だ。彼らはどう見てもマフィアの構成員ではない。ただのチンピラだ。その彼らが何故、指輪を取り上げることを思いついたのか。
(単純に、貴金属として価値のあるものだと思った? あるいは……指輪のことを、正しく理解していた?)
指輪は、体内にめぐるエネルギーを死ぬ気の炎に変換する。強力な指輪であればあるほど作られる炎も強大なものとなるため価値が高く、マフィア同士での奪い合いにまで発展しているような状況だ。時に高レートで取引されることもある。ゆえに指輪を強奪し、裏ルートに流し、金銭を手にするような輩も現れ始めた――ディーノが追っている、酒場の息子を殺したチンピラたちのように。
(まさか……いや、こんな偶然あるか……? でも、もしあいつらが、例のチンピラグループなんだとしたら)
少々できすぎているような気もするが、しかしありえない話ではない。もしこの仮定が事実なのであれば、今後の行動も変わってくる。いずれにせよ真偽を確かめてからこの場を離れるのが得策だ。名前の存在がネックではあるが、常にそばに置いて連れ歩けば問題ない。戦闘の心得がない名前を1人で行動させる理由は、ディーノにはなかった。
「名前、今後のことなんだが」
「はい」
声をかければ、名前はすっと立ち上がりディーノの方へ寄ってくる。大きなコートがさすがに動きにくいのか袖を折り返していたところらしく、視線は彼女自身の手元へと向いていた。1回ずつあとをつけながら丁寧に袖をまくっていく仕草はいかにも几帳面な彼女らしい。微笑ましくその姿を見守っていたところで、ふと、名前の指先に目がとまった。
ネイルに興味がないわけではないらしいが、彼女の爪はいつもナチュラルなまま短く切りそろえられている。しっかりと整えてもすぐに割れてしまうからだとぼやいていたことがあったから、爪自体があまり強くないのかもしれない。しかし今日に限って、彼女の指先はきれいにマニキュアが塗られていた。赤ワインのような、深いボルドー。淡い色合いの服装はどちらかと言えば幼さを連想させるから、大人っぽい赤色は少しだけ浮いて見える。
さらに右手の指には、こちらも珍しく指輪がはめられていた。シンプルで存在感のない指輪が、中指と薬指に1本ずつ収まっている。
「どうしたんだ、それ」
「え?」
「ネイルと指輪。似合ってるけど、珍しいな」
「……ありがとうございます。ちょっとまあ、いろいろと」
「もしかして、ついに彼氏でもできたか?」
「あはははは……ご冗談を」
「冗談って……真面目なのはお前のいいとこだけど、だからって仕事ばっかじゃダメだぞ? 若いうちにいろんな恋愛しとけって、よくロマーリオが言ってたし」
「してますしてます」
「え、早く言えよ! 誰だ? 俺が知ってるやつ?」
「さあ……指輪は、男の人からのもらいものです」
「へえ、プレゼントか。結構いいセンスだな」
「そうですか? 伝えておきますね、雲雀さんに」
「……へ?」
さらりと言ってのけた名前に、ディーノの動きがピタリと止まる。
雲雀に、伝える。
何故教え子の名前が出てきたのかと考えかけ、それから考えるまでもなく答えは出ていたのだと気が付く。名前の指輪は、あの雲雀恭弥からの贈り物だということだ。
「え、え? 恭弥?」
「そうです」
「でもお前、それって……え? あいつとお前が? マジか? ……え?」
「……それって」
「へ?」
「どういう動揺ですか?」
静かな問いかけに、ディーノの混乱はさらに深まることとなった。
これまで男の気配を見せたことのない名前が恋をしており、なおかつプレゼントを贈ってくるような相手もいた。それ自体は喜ばしいことだ。分かりにくいところもあるが、名前には名前の魅力がある。恋愛経験を重ねることで、それが磨かれていくことだろうと前々から考えていた。
しかしその相手が、まさかあの雲雀恭弥であるなどと、誰が予想しただろうか。
ディーノは何度も雲雀と名前のやりとりを目にしてきたが、2人の間に甘い雰囲気を感じたことはない。そもそも雲雀が他人に好意を寄せる姿など想像したこともないし、できない。自身の持ち物に対する独占力は人一倍強い男だが、かといって誰かに恋愛感情を抱くことなどないだろうとすら考えていた。
その雲雀が、名前に指輪を贈った。
動揺しない関係者がいるだろうか。2人を間近で見守り続けてきたディーノには、なおさら強い衝撃だ。
だからディーノには、名前の問いの意味が分からなかった。どういうも何も、動揺するしかないだろうと。
「そ、そりゃお前、あの恭弥だぞ? しかも名前と恭弥って……なあ?」
「……」
名前はディーノに返答はせず、すっと視線を落とした。袖をまくり上げる作業に集中し始めたようだ。ようやく左の手首が袖から顔を出し、今度は右を折り返す。先ほどよりも幾分か乱雑に折った袖はぐちゃぐちゃと皺になっていたが、作業が面倒になったのだろうとディーノはさして気にしなかった。
名前はそれきりむすりと口を閉ざしてしまったので、ディーノは一方的に今後の行動を告げることとなった。
「脱出を最優先するつもりだったが、確かめなきゃならないことができた。悪いが少し付き合ってくれ」
「……」
「詫びにもならねーが、ちゃんと責任もってホテルまで送り届ける。危ない目にも合わせない。絶対俺から離れるなよ」
名前は頷くことはしなかったが、代わりにちらりとディーノを見上げて視線を合わせた。ディーノはそれを同意と受け取ることにした。
脱出のチャンスは、存外早く訪れた。それほど間を空けずに、ドアの外から足音が聞こえたのだ。人数は2人。それ以外の気配はない。彼らを伸してしまえば、一時的に外に出ることができるだろう。
「俺がドアの陰からあいつらを沈める。お前は離れたところに隠れてろ」
「……いや、ディーノさんの後ろにいます」
努めて感情を押し殺したような声で断言し、名前はディーノの背後に隠れるように立った。さすがに1人で隠れることに不安を覚えているのだろう。下手に動かれて危険にさらすよりはと思考を切り替え、ディーノは名前の意思を尊重することにした。
ガチャガチャと金属を鳴らす音がドア1枚隔てた向こう側から響く。ディーノにとってはムチを使った戦闘が得手であるし好みでもあるのだが、ないものを嘆いても仕方がない。すばやく1人を地に沈め、相手が動揺しているうちにもう1人を倒す。もし武器を持っていようが素人だ。素手でも負けるつもりは一切なかった。
「くそっ、めんどくせーな」
「しょうがねーよ、鍵壊れちまったんだから」
ようやく鍵を開けることができたのか、悪態とともにドアが開かれた。ディーノと名前は一時的にドアの後ろ、男の死角へと入りこむ。
「!? おい、いねーぞ!」
「どうせ奥に隠れてるんだろ」
ドアの真正面に座っていたはずの2人がいなくなったことに真っ先に気がついた男が声を荒げる。もう片方が冷静にそれを宥め、2人そろって室内に足を踏み入れた瞬間。ディーノは息を殺したまますばやく一歩を踏み出し――そのまま足を滑らせて、転倒した。
「うお!?」
「!? テメーらそんなとこにっ……!」
ディーノと床がぶつかる音と、思わず出てしまった声に反応し、男たちが振り向く気配がした。慌てて体を起こそうとするが、したたかに打ち付けた額が割れるように痛み、視界がチカチカと揺れる。これでは自分はおろか、名前にまで危害が及ぶ。無理矢理に両手で体重を持ち上げ、なんとか立ち上がろうとした、そのときだった。
「うっ……」
ディーノのものではないうめき声とともに、重いものが崩れ落ちるような音が室内に響いた。それも2回、続けざまに。やや痛みが引いた頭を動かし、音の発生源であろう前方を見やる。
部屋に入ってきた男たちが床に伏し、その間に――名前が佇んでいた。
「名前……?」
「……」
「え……お前が……?」
ディーノのつぶやきにいらえる声はなかった。名前は男たちの体を転がし仰向けに寝かせると、彼らのポケットやコートの中を探っていく。やがて見つけた拳銃を慎重に床に置くと、ディーノが縛られていたロープで男たちの腕を後ろ手につなぎ合わせた。
名前の横顔に動揺や躊躇はない。ただ淡々と決められた作業をこなすように行動している。彼女がディーノのもとに戻るまで、1分足らずのできごとだった。名前は未だ視界が揺れているディーノの前に男から取り上げた拳銃を置くと、これまでに聞いたことのないようなきっぱりとした、強い口調で言う。
「別行動しましょう」
「……へ」
「あなた、やりたいことあるんですよね。私は出口探したり、撤退準備しておくので……1時間後にここに集合ってことで。じゃあ、またあとで!」
「え、ちょっと待て!」
一方的に提案したかと思えば、名前はさっと片手を上げて廊下へ飛び出していった。ディーノはふらつきながら立ち上がり、名前のあとを追う。しかしすでに廊下に人の気配はない。突然のことに呆然としながら、ディーノは壁に背を預け、自身の回復を待つほかなかった。
「っつ……」
「! ……大丈夫ですか?」
後頭部に走った痛みに呻きながら目をこじ開ける。わずかに身じろげば、視界の端から知った顔が現れた。
「名前……? ここは……」
「いろいろありまして」
名前はディーノを助け起こすと、これまでのいきさつを簡単に説明した。
昨日、騒ぎを起こしてしまった詫びに訪れたカフェで、名前は男たちの待ち伏せにあった。どうしたものかと考えていたときにディーノが現れ、昏倒し、そのまま2人で男たちの車に乗せられた。男たちはどこかの廃ビルの地下室に2人を閉じ込め、それきり戻ってきてはいない。ディーノのムチは道端に置き去りに、指輪は男たちに回収されてしまった。名前はディーノの隣に座り直しながら、視線だけで室内を見回した。
「ここの詳しい場所までは分からないんですけど、あのカフェを左手に見て、しばらくは道なりに直進しました。そのあと何回か曲がってよく分からなくなったんですけど……沿岸部ではないです。車の時計で、だいたい2時間くらい走りました。私は初めて来る街で、ディーノさんのところより山が近く感じました」
「……ここにはあの3人しかいないのか?」
「カフェの前にいた男が3人。ビルに入ってから2~3人とすれ違いました。他にもいるのは確定です。兄貴って呼ばれてる人とは会ってませんから。武装は誰もしてなかったはずです」
おびえ、取り乱してもおかしくないような状況であるが、名前はひどく冷静に話を締めくくった。ディーノが怖くないのかと問えば、自分の上司のことを知らないのかと返ってくる。
名前の上司、雲雀恭弥。ボンゴレファミリーの雲の守護者にして、少しずつ名が知れ始めた地下財団の元締め。彼の戦闘狂は有名であり、部下に対しても容赦はしない。雲雀はディーノの教え子であるから当然彼の苛烈さは理解していたし、名前もそれは承知のうえでの発言だったのだろう。雲雀以上に恐ろしいものはないと言って、名前は少しだけ笑ってみせた。
状況はあまり良いとは言えなかった。
名前に倣うように室内をぐるりと見回す。明かりのない、薄暗い部屋だ。驚くほどせまいわけではないが、ガラクタばかりが乱雑に積まれた棚と、隅から朽ち始めているいくつかの木箱の存在が、室内をせまく見せている。窓はなく、正面のドアの隙間から漏れ出る光だけが頼りだった。
手首にきつく巻かれたロープは、いくら手首をひねってもほどける気配すらない。会話をしながらも縄抜けを試みていたが、普段ならばするりと解けるロープが、いつまでも固く手首に巻き付いている。特殊な結び方をされたようだとディーノは考えた。
脱出経路は見当たらず、拘束を抜け出すことすらできていない。そして名前がいる。自分1人だけならばあの男たちが戻ってこようと脅威は感じないが、彼女の存在がディーノを慎重にさせ、また、焦らせてもいた。
「……すみません」
「ん?」
「そのロープ、私のせいで」
名前は一度だけ視線をディーノの背後へと寄越す。どうやらディーノが縄を抜けようと試行錯誤していることに気が付いたらしい。
「ディーノさんが気絶してから、この人は置いていった方がいいって言ったんです。いろいろ大変なことになると思うし……とっても強い人で、絶対にあなたたちでは敵わないから連れていかないのが吉だって……こう、かなり強く言ってしまって」
「それで警戒されて、拘束されたってことか」
「……それに、ロープだけじゃなくて、面倒事に巻き込んでしまって。本当にすみません」
宙を泳いでいた視線が、床へと落とされた。膝を抱えてじっと下を見る横顔からは少しの緊張を感じ取ることができる。名前は本気でディーノを巻き込み、危険にさらしてしまった原因が自分であると考えているのだろう。
しかしそれはディーノにとっては事実ではなく、彼女が責任を感じる理由とてない。誰が悪いのかと言えば、間違いなくあの男たちだ。それどころか名前は自身に危害が加えられそうな状況にありながらも、ディーノを助けようとした。そもそも名前に非がないにもかかわらずカテリーナへ謝罪をしようと考えること自体が、稀有な行動だとディーノは考える。それはいかにも善良で真面目な彼女らしい――裏社会に染まりきっていない人間の行いだった。
「……謝るなら俺の方だな」
「そんなことないでしょう」
「いや、顔の傷。俺がつけた」
「ああ……仕方がないことです。気にしてません」
「それに自分のシマのチンピラすら抑えられなかった。不甲斐ないにもほどがある」
「……」
「休暇を満喫中のかわいい妹分をこんな目に合わせるなんて……キャバッローネの名が泣くぜ」
「……すみません」
ディーノの言葉は彼女の気分を軽くさせることはできなかったらしい。名前は膝を抱える腕に力をこめ、さらに体を小さくさせた。
それきりしばらく、無言の時間が流れる。
(早く逃がしてやらねえと……)
荒事に慣れていない名前を、いつまでもこのような場所に置いておくわけにはいかない。ましてやこれ以上あの男たちに危害を加えられるようなことなど、あってはならない。それはドン・キャバッローネとして――それ以上に、これまで彼女の面倒を見てきた身近な大人の1人としての責任だった。
期待を込めて、再度室内の様子を観察する。
ここは地下であると名前は言った。おそらく倉庫として使われていたのだろう、やはり窓はない。壁を覆うように置かれた棚と木箱は置き去りにされて久しいらしく、分厚いホコリをまとっている。右奥の棚の上部に換気扇のダクトがついているが、到底人が通れるような場所でない。唯一の光源にして出入り口であるドアはたてつけが悪いらしく、壁との間に隙間が空いていた。しかしよく目を凝らしてみれば、くすんだ銀のドアノブの下に、つまみがついていることに気が付いた。
「あのドア、鍵がかかってますよ」
ディーノの考えを察したらしく、名前が先手を打った。
「内鍵ですけど、外からノブを固定してるみたいです」
「試したのか?」
「まあ、一応。換気扇も通れないし他にドアもないので、あの人たちが戻ってきたときに仕掛ける以外、出る手段はなさそうです」
「なら仕方ねえな。……とりあえず外に連絡してみるか」
「私、荷物もコートも、カフェに置いてきてしまって。スマホもその中に……」
「俺のコートのポケットにスマホが入ってる。出せるか?」
名前はディーノに言われるがまま、コートのポケットから見慣れたスマホを取り出した。ディーノが転倒した際に傷ついた様子もなく、問題なくロック画面が表示される。そのまま暗証番号を告げれば、名前はぎょっとしてディーノを見上げた。
「い、いいんですか、そんな、不用心に」
「何が?」
「暗証番号」
「? お前は悪用なんかしないだろ?」
「……雲雀さんの部下ですよ、私」
「だとしても、俺のスマホに入ってる情報の使い方なんて、見当もつかないだろ」
「……」
名前は頷くことはなかったが、神妙な様子でじっとディーノのスマホを見つめた。ムッと引き結んだ口元が意味するところを、ディーノは知らない。しかし名前は賢い。情報の使い道が分からなくとも、その価値自体は十分に理解しているのだろう。それゆえに気が引けているのかもしれない。
いつまでもそうしているわけにもいかないと考えたのか、名前は小さく息を吐き出してスマホの操作を始めた。日本のものとは操作方法が違うものの、電話をかけるだけならば戸惑うことなく動かすことができるらしい。あっという間にロマーリオの番号を見つけ出しコールするも、通話が始まることはなかった。
「他にかける相手は?」
「あいつが出ないんじゃ、他のやつらもバタバタしてんのかもな。屋敷にかけて、下手に混乱させるのも良くねえし」
「じゃあ、あとでまたロマーリオさんにかけてみます」
「ああ。お前が持ってていいぞ」
「今日の服、ポケットが小さくて。元の場所に戻しますね」
名前は取り出したときの何倍も丁寧に、ディーノのコートにスマホを戻した。
名前がすでに室内はくまなくチェックし、使えそうなものはなかったと言うので、ディーノは縄抜けに集中することにした。そのかたわらで、名前はただじっと膝を抱えて座っている。ディーノに話しかけてくることがなければ、ディーノの動きに気が付くことも、ましてや手伝いをしようともしない。ぼんやりとホコリが降り積もった床とにらめっこをしながら、時折手を握ったり閉じたりという動作を繰り返している。時間を持て余しているのかとも考えたが、すぐにそれは誤りであったと悟る。
よく見れば、名前の頬からは血の気が引いていた。
「……寒いのか?」
「え?」
思いがけない一言だったのか、名前はきょとんと首を傾げた。
1月の地下だ。太陽光も暖房も当然なく、名前はディーノと異なりコートを着ていない。厚手のニットを来ているとはいえ、女性の身で耐えられる寒さではないだろう。今もまた、彼女はしきりに手を動かしながら、指先をこすり合わせるようにして少しでも体を温めようとしている。
何故早くに気が付かなかったのか。焦燥と悔しさを誤魔化すように、ディーノは口を動かした。
「ああ、そうだよな、寒いに決まってる。さっきコート置いてきたって言ってたのに……悪い、全然気づかなかった」
「え、いや、別に……」
「俺のコート着とけ……ってのもできねーんだったか。くそ、ついてねーな」
「大丈夫ですよ」
「自覚ないんだろうか、顔、真っ青だぞ。やっぱ悠長にもしてられねーな……」
「……でもロープ、取れないでしょう?」
「……」
「ディーノさんが寝てる間に私も確認したんですけど、ナイフがないとダメだと思います。もしあのドアが開けば、私が探してくるので」
「……ほんと悪い。じゃあ、せめてコートの中に入っとけ」
少しでも寒気を遮り、体温を戻してやるのが先決だ。ディーノがコートを脱ぐことはできなくとも、名前がディーノの懐に入ることはできる。名前は日本人の標準的な体格だが、ディーノに比較すればやはり小さい。問題なくコートの内側に潜り込めるだろう。そう考えての提案だったが、名前は思いがけない反応を示した。
「は?」
名前が、これまでに見たことのない顔でディーノを見た。片眉を歪め、口がへの字を作る。気のせいでなければ、浮かした腰をそのままディーノから少し遠ざけたように見えた。怪訝そうな、それでいて正気を疑うような表情だとディーノは考えた。
「どうした?」
「……本気ですか?」
「へ……だってそれ以外に暖取る方法ないだろ?」
「……丁重にお断り申し上げます」
「ダメだ。そのままじゃ倒れちまう」
「大丈夫ですってば」
「なんでそんなかたくなに……あっ、あれか……? なんか変なにおいがするとか……」
「違います。なんであなたってそう……いや、まあいいです。自分の体調管理くらい、自分でできますから」
「ったく、お前も意外と頑固なとこあるよな。恭弥譲りか?」
「元からです」
ぷいとそっぽを向くようにして、名前は元の体勢に戻っていった。それでも心配になって横顔を観察すると、先ほどよりもほんの少し頬に血色が戻っていることに気が付く。会話をしたために体が温まったのかもしれない。ならばじっとさせておくよりはと、ディーノは縄抜けを続けながら新たな話題を探した。
「……今日はどういう予定だったんだ?」
「あのカフェに行って、そのあとはノープランです。とりあえずブラブラしようかなと」
「ふーん、散歩ってことか」
「……ディーノさんは、例の事件の絡みですか? 酒場で殺しがどうとかいう……それでカフェに?」
「ん? なんでだ?」
「え?」
「確かに酒場に行った帰り道だが、カテリーナのカフェは事件とは無関係だ。なんでそう思ったんだ?」
「えっ……と……まだご存知、ない?」
「?」
「……どういう事件だったか、聞いてもいいですか?」
名前は声のトーンを落として、ディーノを見上げた。こげ茶色の瞳の中には、明確な意思は見えない。相変わらず茫洋とした視線だが、彼女なりに事件に思うところがあるのだろう。いらだちにも、焦りにも似た感情が浮いている。ディーノは告げるべき情報を慎重に探した。
「……殺しだ。カタギがチンピラに殺されて、指輪を奪われた。死んだのは酒場の息子でな、俺のじいさんが先々代の店主にやった指輪だったらしい」
「それは、指輪を狙ってってことですか?」
「おそらくな。指輪のこと、ある程度は知ってるよな」
「一般的に知られてるようなことくらいは、なんとなく。貴重品だし、高く売れるんでしょう?」
「ああ、お前はそういう認識でいい。……だが重要なのはそこじゃねーんだ。俺のシマの住民が、それも何の罪もないカタギが、裏社会の事情で一方的に命を奪われた」
普通に生活していれば、絶対に絶えることのない命だった。それがたかが指輪ひとつが原因で、無残にも未来を断たれることとなった。酒場の息子はどれほど無念だったことだろう。残された両親は、どれほど嘆き、悲しみ、絶望したことだろう。そう考えるたび、胸の奥の方が苦しくなった。呼吸がままならなくなるような感覚とともに、いやに冷たい炎が腹の底で揺らめく。ディーノはその感覚が嫌いだった。
「……俺がもっと早く手を打ってたら、防げたことだ」
「……でも別に、あなたのせいじゃ」
「俺のシマで起こったことは俺の責任だ。今回のお前のこともそうだし、酒場の件も同じだ」
「……よく分かりません。警察の責任じゃないんですか」
「それも間違っちゃいない。ただ、サツにはサツの領分があるように、俺たちには俺たちの領分がある。酒場の犯人は、こっちの領分に入っちまったんだ」
「だから、ディーノさんが責任を取るんですか?」
「そうだ。それが俺からの、住民への誠意だ」
「だから犯人を探し出して……殺す?」
「……」
ディーノは頷くことも、否定することもしなかった。表社会を生きる名前を、こちら側の世界に触れさせたくはない。しかし否定することも、名前やキャバッローネのシマの住民たちに対して不誠実なような気がした。
「……指輪をな、取り戻したいんだ」
ディーノは否定も肯定もせず、しかしもうひとつの事実に触れることにした。
「取られたっていう?」
「ああ。酒場の夫婦から頼まれてる。それがひとつのケジメになるはずだ」
「……どんな指輪なんですか? 炎を灯すようなものなんですか?」
「分からねえ。ただ、わざわざ先々代キャバッローネが云々って大事にしてたくらいだ。うちの紋章くらい刻まれてるかもな」
「へえ……」
「売りさばかれる前に回収しないと、面倒なことになる。犯人たちを逃がすつもりもねえ。やっぱここに長居するわけにはいかないな。……っし、解けた」
「え。……え?」
ぱらり。ロープが床に落ちる音が、名前が漏らした声の合間を縫って室内に響いた。会話をしながらずっと動かし続けていた両手が、ようやくきつい拘束から解放されたのだ。自由になった両手の感触を確かめるべく何度か握りしめ、手首を回す。長時間同じ場所で固定されていた肩の方が鈍い痛みを訴えたが、こちらもぐるぐると動かしてやることですぐに常の調子を取り戻した。
「なんかいつもより時間かかっちまったけど、これでようやく動けるぜ」
「え、ちょっと……なんで? どうやって解いたんですか?」
「世界最高のヒットマンの指導の賜物だ。ほら、これ着とけ」
「いやいやいや、ちょ、うわ」
縄抜けを目にしたのは初めてだったのだろう、呆然とディーノを見上げる名前の頭から、脱いだコートをかぶせる。途端に冬用のパーカー越しに冷たい空気を感じ、やはり名前の言葉はやせ我慢であったのだとディーノは少々呆れた思いがした。
「やっぱ寒いじゃねーか」
「女子は見えてないだけで中に厚着をですね……これじゃディーノさんが寒くなっちゃうし」
「俺とお前じゃ体力が違う。いいから着とけ」
「……すみません」
どこか釈然としない様子で、名前はディーノのコートに袖を通した。一回りも二回りも体格の違うディーノのコートは名前には大きすぎたらしく、体どころか抱えていた膝からつま先まですっぽりと隠れてしまう。袖は何度か折り返しても彼女の手を見つけることはできないくらいに余っていた。
「ちょっとはマシだろ?」
「それは、まあ。……本当に大丈夫なんですか?」
「こういうときは堂々と礼言って、甘えとけばいいんだよ。イタリアじゃ誰でもそうする。寧ろコート貸さない方がおかしいくらいだ」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
本当に借りてしまっていいのか、甘えてしまっていいのか。名前の礼からはそのような葛藤がにじみ出ており、ディーノは苦く笑う。
人に頼る経験が少なかったためか、どうにも彼女は甘え下手なところがある。控えめな性格も相まって他人の厚意を受け取ることができないということは、これまでもあった。だが少し強引に押し付けてしまえば観念して礼を言うのだということも、ディーノは知っている。中学生のころから変わらない彼女にどこか安堵を覚えながら、ディーノは立ち上がった。
名前の言う通り、ドアは固く閉ざされていた。どれほど力をこめても開く気配はない。前後に動かすと外側からカチャカチャと金属がこすれる音が聞こえたから、やはり名前の言った通り、外から固定されているようだった。
「スクーデリアが使えれば、一瞬で出られるんだけどな」
「……持ってるんですか? 匣」
「ああ。ベルトの後ろについてるから、気付かなかったんだろうな。指輪は取ったわりに詰めが甘い……」
そこまで言って、ディーノはふと違和感を覚えた。
このご時世、誘拐してきた相手の武装を解除するならば武器とともに指輪や匣を取り上げるのは当然のことだ。ディーノたちをさらってきた男たちも指輪だけは回収したようだが――その常識はあくまで裏社会の常識だ。彼らはどう見てもマフィアの構成員ではない。ただのチンピラだ。その彼らが何故、指輪を取り上げることを思いついたのか。
(単純に、貴金属として価値のあるものだと思った? あるいは……指輪のことを、正しく理解していた?)
指輪は、体内にめぐるエネルギーを死ぬ気の炎に変換する。強力な指輪であればあるほど作られる炎も強大なものとなるため価値が高く、マフィア同士での奪い合いにまで発展しているような状況だ。時に高レートで取引されることもある。ゆえに指輪を強奪し、裏ルートに流し、金銭を手にするような輩も現れ始めた――ディーノが追っている、酒場の息子を殺したチンピラたちのように。
(まさか……いや、こんな偶然あるか……? でも、もしあいつらが、例のチンピラグループなんだとしたら)
少々できすぎているような気もするが、しかしありえない話ではない。もしこの仮定が事実なのであれば、今後の行動も変わってくる。いずれにせよ真偽を確かめてからこの場を離れるのが得策だ。名前の存在がネックではあるが、常にそばに置いて連れ歩けば問題ない。戦闘の心得がない名前を1人で行動させる理由は、ディーノにはなかった。
「名前、今後のことなんだが」
「はい」
声をかければ、名前はすっと立ち上がりディーノの方へ寄ってくる。大きなコートがさすがに動きにくいのか袖を折り返していたところらしく、視線は彼女自身の手元へと向いていた。1回ずつあとをつけながら丁寧に袖をまくっていく仕草はいかにも几帳面な彼女らしい。微笑ましくその姿を見守っていたところで、ふと、名前の指先に目がとまった。
ネイルに興味がないわけではないらしいが、彼女の爪はいつもナチュラルなまま短く切りそろえられている。しっかりと整えてもすぐに割れてしまうからだとぼやいていたことがあったから、爪自体があまり強くないのかもしれない。しかし今日に限って、彼女の指先はきれいにマニキュアが塗られていた。赤ワインのような、深いボルドー。淡い色合いの服装はどちらかと言えば幼さを連想させるから、大人っぽい赤色は少しだけ浮いて見える。
さらに右手の指には、こちらも珍しく指輪がはめられていた。シンプルで存在感のない指輪が、中指と薬指に1本ずつ収まっている。
「どうしたんだ、それ」
「え?」
「ネイルと指輪。似合ってるけど、珍しいな」
「……ありがとうございます。ちょっとまあ、いろいろと」
「もしかして、ついに彼氏でもできたか?」
「あはははは……ご冗談を」
「冗談って……真面目なのはお前のいいとこだけど、だからって仕事ばっかじゃダメだぞ? 若いうちにいろんな恋愛しとけって、よくロマーリオが言ってたし」
「してますしてます」
「え、早く言えよ! 誰だ? 俺が知ってるやつ?」
「さあ……指輪は、男の人からのもらいものです」
「へえ、プレゼントか。結構いいセンスだな」
「そうですか? 伝えておきますね、雲雀さんに」
「……へ?」
さらりと言ってのけた名前に、ディーノの動きがピタリと止まる。
雲雀に、伝える。
何故教え子の名前が出てきたのかと考えかけ、それから考えるまでもなく答えは出ていたのだと気が付く。名前の指輪は、あの雲雀恭弥からの贈り物だということだ。
「え、え? 恭弥?」
「そうです」
「でもお前、それって……え? あいつとお前が? マジか? ……え?」
「……それって」
「へ?」
「どういう動揺ですか?」
静かな問いかけに、ディーノの混乱はさらに深まることとなった。
これまで男の気配を見せたことのない名前が恋をしており、なおかつプレゼントを贈ってくるような相手もいた。それ自体は喜ばしいことだ。分かりにくいところもあるが、名前には名前の魅力がある。恋愛経験を重ねることで、それが磨かれていくことだろうと前々から考えていた。
しかしその相手が、まさかあの雲雀恭弥であるなどと、誰が予想しただろうか。
ディーノは何度も雲雀と名前のやりとりを目にしてきたが、2人の間に甘い雰囲気を感じたことはない。そもそも雲雀が他人に好意を寄せる姿など想像したこともないし、できない。自身の持ち物に対する独占力は人一倍強い男だが、かといって誰かに恋愛感情を抱くことなどないだろうとすら考えていた。
その雲雀が、名前に指輪を贈った。
動揺しない関係者がいるだろうか。2人を間近で見守り続けてきたディーノには、なおさら強い衝撃だ。
だからディーノには、名前の問いの意味が分からなかった。どういうも何も、動揺するしかないだろうと。
「そ、そりゃお前、あの恭弥だぞ? しかも名前と恭弥って……なあ?」
「……」
名前はディーノに返答はせず、すっと視線を落とした。袖をまくり上げる作業に集中し始めたようだ。ようやく左の手首が袖から顔を出し、今度は右を折り返す。先ほどよりも幾分か乱雑に折った袖はぐちゃぐちゃと皺になっていたが、作業が面倒になったのだろうとディーノはさして気にしなかった。
名前はそれきりむすりと口を閉ざしてしまったので、ディーノは一方的に今後の行動を告げることとなった。
「脱出を最優先するつもりだったが、確かめなきゃならないことができた。悪いが少し付き合ってくれ」
「……」
「詫びにもならねーが、ちゃんと責任もってホテルまで送り届ける。危ない目にも合わせない。絶対俺から離れるなよ」
名前は頷くことはしなかったが、代わりにちらりとディーノを見上げて視線を合わせた。ディーノはそれを同意と受け取ることにした。
脱出のチャンスは、存外早く訪れた。それほど間を空けずに、ドアの外から足音が聞こえたのだ。人数は2人。それ以外の気配はない。彼らを伸してしまえば、一時的に外に出ることができるだろう。
「俺がドアの陰からあいつらを沈める。お前は離れたところに隠れてろ」
「……いや、ディーノさんの後ろにいます」
努めて感情を押し殺したような声で断言し、名前はディーノの背後に隠れるように立った。さすがに1人で隠れることに不安を覚えているのだろう。下手に動かれて危険にさらすよりはと思考を切り替え、ディーノは名前の意思を尊重することにした。
ガチャガチャと金属を鳴らす音がドア1枚隔てた向こう側から響く。ディーノにとってはムチを使った戦闘が得手であるし好みでもあるのだが、ないものを嘆いても仕方がない。すばやく1人を地に沈め、相手が動揺しているうちにもう1人を倒す。もし武器を持っていようが素人だ。素手でも負けるつもりは一切なかった。
「くそっ、めんどくせーな」
「しょうがねーよ、鍵壊れちまったんだから」
ようやく鍵を開けることができたのか、悪態とともにドアが開かれた。ディーノと名前は一時的にドアの後ろ、男の死角へと入りこむ。
「!? おい、いねーぞ!」
「どうせ奥に隠れてるんだろ」
ドアの真正面に座っていたはずの2人がいなくなったことに真っ先に気がついた男が声を荒げる。もう片方が冷静にそれを宥め、2人そろって室内に足を踏み入れた瞬間。ディーノは息を殺したまますばやく一歩を踏み出し――そのまま足を滑らせて、転倒した。
「うお!?」
「!? テメーらそんなとこにっ……!」
ディーノと床がぶつかる音と、思わず出てしまった声に反応し、男たちが振り向く気配がした。慌てて体を起こそうとするが、したたかに打ち付けた額が割れるように痛み、視界がチカチカと揺れる。これでは自分はおろか、名前にまで危害が及ぶ。無理矢理に両手で体重を持ち上げ、なんとか立ち上がろうとした、そのときだった。
「うっ……」
ディーノのものではないうめき声とともに、重いものが崩れ落ちるような音が室内に響いた。それも2回、続けざまに。やや痛みが引いた頭を動かし、音の発生源であろう前方を見やる。
部屋に入ってきた男たちが床に伏し、その間に――名前が佇んでいた。
「名前……?」
「……」
「え……お前が……?」
ディーノのつぶやきにいらえる声はなかった。名前は男たちの体を転がし仰向けに寝かせると、彼らのポケットやコートの中を探っていく。やがて見つけた拳銃を慎重に床に置くと、ディーノが縛られていたロープで男たちの腕を後ろ手につなぎ合わせた。
名前の横顔に動揺や躊躇はない。ただ淡々と決められた作業をこなすように行動している。彼女がディーノのもとに戻るまで、1分足らずのできごとだった。名前は未だ視界が揺れているディーノの前に男から取り上げた拳銃を置くと、これまでに聞いたことのないようなきっぱりとした、強い口調で言う。
「別行動しましょう」
「……へ」
「あなた、やりたいことあるんですよね。私は出口探したり、撤退準備しておくので……1時間後にここに集合ってことで。じゃあ、またあとで!」
「え、ちょっと待て!」
一方的に提案したかと思えば、名前はさっと片手を上げて廊下へ飛び出していった。ディーノはふらつきながら立ち上がり、名前のあとを追う。しかしすでに廊下に人の気配はない。突然のことに呆然としながら、ディーノは壁に背を預け、自身の回復を待つほかなかった。