本戦2:恋の悩みを知る君は
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バジルの運転によって連れてこられたナポリのオペラハウスは、名前の想像の何倍も大きく豪華な建物だった。
「これがサン・カルロ劇場です。イタリアの三大歌劇場のひとつで、ヨーロッパ最古の現役オペラハウスとして知られています」
「へえ……」
午前中、オペラの演目についての講義を受ける名前の隣で熱心にオペラハウスのパンフレットを読み込んでいたバジルは、得意げにその知識を披露した。バジルの分かりやすい解説を聞きながら、劇場全体をじっくりと観察する。
赤と金を基調に統一された上品な内装に、頭上の遥か遠くにあってもなお美しい天井画。舞台真正面にある特別豪華なボックス席はロイヤルボックスと呼ばれる王族専用の席なのだとバジルが言う。5層まであるパルコと呼ばれるボックス席では、地元住民らしいカジュアルな装いの男女が、談笑しながらオペラの開始を待っている。劇場自体が持つ迫力に、名前は思わず足を止めて周囲に見入った。
「ひとまず座りましょう」
バジルに促され、アリーナ席の中ほどの座席に腰を下ろす。劇場内で最もチケット代が高いのがアリーナ席だ。どうやらバジルのためにと、CEDEFが奮発してくれたらしい。それを知ってか知らずか、えんじ色のイスに座ってからもバジルは劇場の解説を続けた。
「開場は1737年。1816年に火事によって焼失しますがたった10カ月で再建し、その後は今日に至るまでその当時の姿で存在感を放ち続けています」
「1700年代っていうと、日本では江戸時代だ」
「そのころのイタリアはまだ統一されておらず、たくさんの国に分かれていました。南イタリアもまだスペイン領だった時代です。見てください」
バジルは目立たないよう、こっそりと舞台の上部を指さす。天井に近い場所に時計と、紋章のような飾りが鎮座していた。
「あの飾りはブルボン家の紋章です」
「へー……あれ? ブルボン家ってフランスじゃないっけ?」
「フランスのブルボン家出身の人物がスペインを統治し、そのスペインがナポリ王国を統治した……という状況をイメージしていただければ」
「なんて複雑な……」
「もちろん細かい部分では語弊がありますので、鵜呑みにはしないでください。……いかがですか」
「え?」
「名前殿は歴史の勉強がお好きとのことだったので、劇場の美術的価値よりも歴史や当時の社会情勢に興味があるのでは、と踏んでいたのですが……正解でしょうか」
「……正解ですね」
わずかに口角を上げて頷けば、バジルは満足そうに笑って口を閉ざした。どうやら彼はパンフレットの情報のみでなく、名前が好みそうな情報を事前にリサーチしていたらしい。劇場に足を踏み入れてから仕事のことなどすっかり頭から抜け落ちていた自分に苦笑しつつ、名前も意識を切り替える。午前中にラル・ミルチに仕込まれたオペラの内容を頭の中で復習しながら、地元住民たちの心地よい雑談の中で幕が上がるのを静かに待った。
今日の演目は名前も名前だけは知っていたオペラ「カルメン」だった。
「舞台はスペイン・セビリア。とあるジプシーの女が衛兵をたぶらかし、最後は逆恨みされて殺される。基本的にバカしか登場しない、ビゼーの名作オペラだ」
ラル・ミルチの身もふたもない説明に呆れた顔をしたのはオレガノだった。
「もうちょっと言い方があるんじゃない……?」
「誤った知識を教えているつもりはない。俺に言わせればドン・ホセ……衛兵の伍長が一番のバカだな。軍人のくせに女にいいように操られた挙げ句に刃傷沙汰とは、呆れてものも言えん」
「あなたってフィクションでも軍人にはやたらと厳しいところがあるわよね……。それにバカばかりって言ってたけど、ドン・ホセの婚約者は聡明な女性じゃなかった?」
「ミカエラはまあまあマシな方だが、早々にやつを見限るべきだったという意味でバカだ。エスカミーリョなど考える頭すらもない。ああいう男がいるせいでカルメンのようなバカがのさばるんだ」
「あなたカルメンに何の恨みがあるの?」
「あのオペラ、見ていてイライラする」
鑑賞した当時のことを思い出したのかそう吐き捨てたラル・ミルチの心底不快そうな顔を思い返しながら、名前は舞台の上に集中する。
昔に比べればイタリア語も上達したが、日常会話に比べると歌や劇の鑑賞は難易度が高い。油断すると前後の意味がつながらなかったり、詩的な言い回しを理解できなかったり、時には聞き取ることすらできないこともある。午前中の事前研修がなければ、ストーリーを理解することばかりに必死になって、せっかくのオペラを楽しむことはできなかっただろう。合理的で手厚い研修に感謝しながら、名前はカルメン役のメゾ・ソプラノが歌い上げる有名なアリアに、じっくりと目と耳を傾けた。
「確かにラルが嫌いそうな展開と登場人物ですね」
カルメンの誘惑に乗ったドン・ホセが軍から離れジプシーの密輸団に加わったところで2幕目が終わった。このオペラは第4幕までで構成されており、1・2幕目後には休憩時間が設けられている。名前がトイレから戻ってくると、バジルは眉を寄せて何やら考え込んでいた。
「ドン・ホセが何故カルメンに好意を持ったのか、そこがよく分かりませんでした。花を投げつけられたときは怒っていたのに」
「あれはひとめぼれだよ、たぶん。理屈じゃないやつ」
「だとしても、拙者はあまり近寄りたくないタイプの女性です。軍人であるドン・ホセならばなおさらではないでしょうか」
「いやな女だって分かっててもブレーキかけられないのが恋愛なんじゃない?」
「名前殿もそういう経験が?」
「さっぱりないから、残りの数日で経験させてもらいたいな」
冗談めかしてバジルの顔を覗き込む。バジルは虚を突かれたようにアイスブルーの瞳を開いたが、それからおもしろがるように笑った。
第3幕以降も流れが分かっていたためか、苦労もなくストーリーを理解することができた。第2幕でカルメンにひとめぼれした闘牛士・エスカミーリョとホセの決闘や、ホセを連れ戻しに来たミカエラの説得、そして終幕の闘牛場。とっくにエスカミーリョに心を移していたカルメンは復縁をせまるドン・ホセを拒絶し、逆上した彼はカルメンに短刀を突き刺した。
「おもしろかったけどさ、正直私も、登場人物の気持ちはよくわからなかった」
暗い展開ではあったが、最後まで自分の生き方を貫き通したカルメンには感心したし、カルメンを手にかけたあとのドン・ホセには多少同情もした。けれどバジルと同様、名前も彼らに感情移入することは最後までできなかった。
「ラルさんじゃないけど、ホセは引き返すべきだったし、ミカエラはホセを見限ればよかったのに」
「そもそもカルメンは何をしたかったのでしょうか」
「明確な目的はなかったんじゃない? 思うがままに自由に生きたってだけ」
出口に向かう人の波にまぎれながら、名前とバジルはあれこれと感想を言い合った。お互いに恋愛にのめりこむタイプではないらしく、2人そろってどの登場人物にも感情移入することはできなかった。しかし役者たちの演技や歌、オーケストラはすばらしく、舞台芸術のおもしろさ自体は体感できたというのが共通の感想だった。
「ラルへ提出するレポートが、登場人物への不満で埋め尽くされてしまいそうです」
「ラルさんだってあれほどこき下ろしてたんだから、納得してくれるんじゃない?」
「いえ、きっと採点者に媚を売るなと叱られます」
「はは、確かに言いそう。せっかく勉強したんだし、建物のこととか書けば?」
「それはいい考えです。……そうだ、オレガノが用意した以外にもパンフレットがあるかもしれません。探してきても?」
「うん。そこで待ってる」
まぶしいくらいに白く明るい壁に囲まれた階段を下りた先、ロビーの端を指さす。特に何があるわけでもなかったが、まっすぐにドアを目指す客がほとんどだったから壁際には存外スペースが空いていた。バジルはすぐに戻ると言い残すと、赤いワンピースの劇場スタッフのもとへ向かった。その背中を見送って、名前は反対側へと人の流れをかきわけて進んでいく。
(意外と進めないな……)
劇場を出ていく客の群れは途切れることなく階段の方へと続いている。誰もかれもがおしゃべりに夢中で、周囲に気を配っているわけでもない。加えて今日はヒールをはいていたから、人の足を踏んでしまわないよう注意深く進む必要があった。
(ドレス着てきたのは正解だったけど、歩きにくいのは困るな)
日本から持参したネイビーのワンピースと黒いパンプス。普段はなかなか着る機会がなかったから少しだけ気分が上がっていたが、いざ人波の飲まれてしまうと邪魔でしかない。四苦八苦しながら頭ひとつ分以上背が高いイタリア人たちの合間を進み、ようやっと目的の壁際へたどり着く。ほっと息を吐き出して壁に背を向けようとした、そのときだった。
ぐいと、後ろから腕を引かれた。
「!?」
強い力だった。はきなれないヒールがバランスを崩し、右膝ががくりと折れて体が後ろに傾く。このままでは転ぶ。せめて体を支えようと反射的に動かそうとした右手は、しかし腕ごと背後に固定されていて自由がきかなかった。
(終わった……)
何が起こったかは理解できていない。しかしこれから自分が無様にも後ろ向きに転ぶことだけは疑いようのない現実だ。名前は諦めてぐっと奥歯を噛みしめ――直後にごつと、後頭部が何かに当たる音が聞こえた。
(……いや、床にしては近いな)
ぱちり。まぶたを一度、上下させる。床にしては、ぶつかるのが早かった。それは固いわりに痛くはない。視界は多少傾いてはいるが、真上を見上げているわけでもない。おそらく後ろにいる人物にぶつかってしまったのだろう。
「すみません……」
ほとんど無意識に漏れた謝罪は日本語によるものだった。体勢を整え、後ろを振り返りながら失敗したと考える。ここはイタリアなのだから、日本語が通じるわけがない。未だ右腕は誰かに掴まれたままだったが、深いことは考えずにとにかく再度謝罪を口にしようとして――名前はピタリと、動きを止めた。名前が転ぶことになった原因が、名前を受け止めたのと同一人物であったからではない。その人物が、よく知った男だったからだ。
「なんでここに……」
「……」
ぽかんと口を開ける名前とは対照的に、男は彼には珍しい、険しい顔のまま無言で名前を見下ろしていた。切れた息も、それに合わせて上下する肩も、いつも余裕をにじませて泰然と構えている彼らしくない。しかし名前の思考には何故彼が――ディーノがここにいるのか、それ以上の疑問について考える余裕は残されていなかった。そのくらい、ディーノの登場は予想外すぎた。
(いや、予想もしないでしょ、こんなの)
名前はただ、ラル・ミルチとオレガノの指示に従ってオペラの鑑賞に来ただけだ。研修と仕事の合間のような状況で、CEDEF本部からは少し離れた場所にあるこの地まで、わざわざめかしこんで足を運んできた。それをまさかディーノが同じ時間、同じオペラハウスにいるなど、誰が考えただろうか。
驚きから言葉をなくし、まじまじとディーノを見上げる。普段よりは少しだけフォーマルに近い服装に身を包み、ワックスでしっかりと髪の毛をアレンジしていることが分かる。きっとオペラの鑑賞に来たのだろう。しかし彼が息を切らして名前の腕を引き寄せた理由が、分からない。
ようやく少し呼吸が整ったのか、一度深く息を吐いて、ディーノが口を開いた。
「……さっきの、一緒にいたやつ」
これまた彼らしくない、前置きのない、どこか切羽詰まったような声音だった。それも歯切れ悪く、言葉の合間に迷うように視線を泳がせている。その仕草すらも名前には意外で、言葉の内容があまり頭に入らない。急激に鈍くなった思考を必死に動かそうとするも、唐突に与えられた情報の処理に手いっぱいで、まともな答えが出てこない。名前の無言をどのように理解したのか、ディーノはその端正な顔をぎゅっとしかめ、しかし意を決した様子でまっすぐに名前の両目を見下ろした。
「さっきのって」
「ちょっとディーノ!!!」
甲高い声が、ディーノの言葉を遮って名前の鼓膜を大きく揺らした。何事かとディーノの背後を覗き込むと、カツカツとヒールを踏み鳴らしながらロビーを横断してくる女性が目に入る。キッと吊り上がったまなじりから、彼女がいらだっていることが見てとれた。ディーノは一瞬だけげんなりとした様子で斜め上を見た。その姿すらも名前には新鮮に映ったが、その仕草の理由はやはり分からなかった。
女性は時間をかけてディーノのそばまでやって来ると、腰に手を当てて声を張り上げた。
「何よ、急に走り出して! 女性を1人で置いていくなんて、よっぽど大事な用事があったようね!」
「あー……」
「ふん、だんまりなんてまったくイタリア男らしくない! ご機嫌取りのひとつやふたつやみっつやよっつしてみたら……あら、その子は?」
気まずそうに明後日の方向に視線を泳がせるディーノにさらにまくしたてようとしたのだろう、開きかけた口はそのままに、女性は名前を見下ろした。一瞬前までの激昂ぶりはどこへやら、落ち着いた様子で「迷子かしら」などと心配そうに周囲を見回す。それから未だ名前の右腕を掴んだままのディーノの右手を見つけると、今度はニヤリと口角を上げた。出会って数秒しか経過していないが、ずいぶんと感情表現豊かな女性であるらしかった。
「ディーノ、まさかよね? あなたみたいな人が、こんな子どもに」
「……意外だろうが、これで成人してる」
「へえ、ふうん、そう。そうなのね、ディーノ。それともホセと呼んだ方がいい? ねえ、どうかしら、カルメン」
「え……」
先ほどまで見ていたオペラの主人公の名で呼びかけられ、名前は咄嗟に言葉を返すことができなかった。何を聞かれたのかも理解できず、うろと視線を泳がせる。女性はいっそう口角を吊り上げて、訳知り顔でさらに続けた。
「思い出した。この子あれね、さっきアリーナにいた子。ボーイフレンドと楽しそうにしてた」
「……」
「ねえカルメン、エスカミーリョはどこ? はぐれたのなら、一緒に探してあげるけど」
「えっと……私は、カルメンでは……」
「まさかでしょう! だってあなた、私のパートナーに言い寄られてる」
「え……」
名前は目を丸くしてディーノを見上げた。ディーノは咎めるように女性に一言二言何か言ったが、彼女が堪えた様子はない。そのまま早口での応酬が始まったが、早口すぎて名前にはあまり理解できなかった。流れるようなイタリア語を聞き流し、名前は彼女の言葉を思い返す。
(私がこの人のパートナーに言い寄られているということは、状況的にディーノさんがこの人のパートナーってことかな)
美しい女性だ。面立ちや体型ばかりではない。ワインレッドのタイトなドレスを堂々と着こなし、10cmはありそうなヒールをはいてもなおぴしりと伸びた背筋からは自信がにじみ、通りがかりの人々の視線を集めている。派手な容姿のディーノと並んでも見劣りしないどころか、よくつりあって見えた。ディーノも彼女の発言自体は否定していない。
2人がパートナーとしてこのオペラハウスを訪れたこと、そしてディーノが彼女を置いて名前を追いかけてきたことは事実なのだろう。
(パートナー……いろんな意味に取れる言葉だけど……うーん……)
あまり認めたくはないが、確かに名前はこの数か月間、ディーノから言い寄られている。きっと彼女はそこまでは知らず、今の状況だけでディーノをからかっているのだろうが――しかしもしこの女性がディーノの恋人だったとして、ディーノが恋人を差し置いて他の女を口説くなどという不貞行為を働くだろうか。
(それはしなさそうだ。だとすると同伴者って意味かな。でも私がカルメンでディーノさんがドン・ホセだと彼女がミカエラ……婚約者ってことになる。うーん……)
突然現れた女性の存在も、未だ離されることのない右腕も、名前に疑問ばかりを与えてくる。2人の言い合いも終わりそうにない。そういえばディーノが誰かと口論している姿を見るのは初めてのことだ。そのくらい2人は不仲なのか、それとも気安い間柄なのか――ぼんやりと考えていた最中。ふいに右腕の圧迫感が薄れた。意識を目の前に戻すと、ディーノの手を掴む別の手が視界の端に入り込む。その腕をたどって視線を持ち上げていくと、海のような澄んだ青色が、そこにあった。
「失礼。彼女が何か?」
穏やかで丁寧な口調にやわらかな笑み。細められたアイスブルーに、ディーノを咎めるような気配はない。それでいてとげとげしく見えるのはどういう仕組みなのか。純粋に感心してその表情に見入っていた名前に、バジルはパンフレットの束片手に微笑んで見せた。
「これがサン・カルロ劇場です。イタリアの三大歌劇場のひとつで、ヨーロッパ最古の現役オペラハウスとして知られています」
「へえ……」
午前中、オペラの演目についての講義を受ける名前の隣で熱心にオペラハウスのパンフレットを読み込んでいたバジルは、得意げにその知識を披露した。バジルの分かりやすい解説を聞きながら、劇場全体をじっくりと観察する。
赤と金を基調に統一された上品な内装に、頭上の遥か遠くにあってもなお美しい天井画。舞台真正面にある特別豪華なボックス席はロイヤルボックスと呼ばれる王族専用の席なのだとバジルが言う。5層まであるパルコと呼ばれるボックス席では、地元住民らしいカジュアルな装いの男女が、談笑しながらオペラの開始を待っている。劇場自体が持つ迫力に、名前は思わず足を止めて周囲に見入った。
「ひとまず座りましょう」
バジルに促され、アリーナ席の中ほどの座席に腰を下ろす。劇場内で最もチケット代が高いのがアリーナ席だ。どうやらバジルのためにと、CEDEFが奮発してくれたらしい。それを知ってか知らずか、えんじ色のイスに座ってからもバジルは劇場の解説を続けた。
「開場は1737年。1816年に火事によって焼失しますがたった10カ月で再建し、その後は今日に至るまでその当時の姿で存在感を放ち続けています」
「1700年代っていうと、日本では江戸時代だ」
「そのころのイタリアはまだ統一されておらず、たくさんの国に分かれていました。南イタリアもまだスペイン領だった時代です。見てください」
バジルは目立たないよう、こっそりと舞台の上部を指さす。天井に近い場所に時計と、紋章のような飾りが鎮座していた。
「あの飾りはブルボン家の紋章です」
「へー……あれ? ブルボン家ってフランスじゃないっけ?」
「フランスのブルボン家出身の人物がスペインを統治し、そのスペインがナポリ王国を統治した……という状況をイメージしていただければ」
「なんて複雑な……」
「もちろん細かい部分では語弊がありますので、鵜呑みにはしないでください。……いかがですか」
「え?」
「名前殿は歴史の勉強がお好きとのことだったので、劇場の美術的価値よりも歴史や当時の社会情勢に興味があるのでは、と踏んでいたのですが……正解でしょうか」
「……正解ですね」
わずかに口角を上げて頷けば、バジルは満足そうに笑って口を閉ざした。どうやら彼はパンフレットの情報のみでなく、名前が好みそうな情報を事前にリサーチしていたらしい。劇場に足を踏み入れてから仕事のことなどすっかり頭から抜け落ちていた自分に苦笑しつつ、名前も意識を切り替える。午前中にラル・ミルチに仕込まれたオペラの内容を頭の中で復習しながら、地元住民たちの心地よい雑談の中で幕が上がるのを静かに待った。
今日の演目は名前も名前だけは知っていたオペラ「カルメン」だった。
「舞台はスペイン・セビリア。とあるジプシーの女が衛兵をたぶらかし、最後は逆恨みされて殺される。基本的にバカしか登場しない、ビゼーの名作オペラだ」
ラル・ミルチの身もふたもない説明に呆れた顔をしたのはオレガノだった。
「もうちょっと言い方があるんじゃない……?」
「誤った知識を教えているつもりはない。俺に言わせればドン・ホセ……衛兵の伍長が一番のバカだな。軍人のくせに女にいいように操られた挙げ句に刃傷沙汰とは、呆れてものも言えん」
「あなたってフィクションでも軍人にはやたらと厳しいところがあるわよね……。それにバカばかりって言ってたけど、ドン・ホセの婚約者は聡明な女性じゃなかった?」
「ミカエラはまあまあマシな方だが、早々にやつを見限るべきだったという意味でバカだ。エスカミーリョなど考える頭すらもない。ああいう男がいるせいでカルメンのようなバカがのさばるんだ」
「あなたカルメンに何の恨みがあるの?」
「あのオペラ、見ていてイライラする」
鑑賞した当時のことを思い出したのかそう吐き捨てたラル・ミルチの心底不快そうな顔を思い返しながら、名前は舞台の上に集中する。
昔に比べればイタリア語も上達したが、日常会話に比べると歌や劇の鑑賞は難易度が高い。油断すると前後の意味がつながらなかったり、詩的な言い回しを理解できなかったり、時には聞き取ることすらできないこともある。午前中の事前研修がなければ、ストーリーを理解することばかりに必死になって、せっかくのオペラを楽しむことはできなかっただろう。合理的で手厚い研修に感謝しながら、名前はカルメン役のメゾ・ソプラノが歌い上げる有名なアリアに、じっくりと目と耳を傾けた。
「確かにラルが嫌いそうな展開と登場人物ですね」
カルメンの誘惑に乗ったドン・ホセが軍から離れジプシーの密輸団に加わったところで2幕目が終わった。このオペラは第4幕までで構成されており、1・2幕目後には休憩時間が設けられている。名前がトイレから戻ってくると、バジルは眉を寄せて何やら考え込んでいた。
「ドン・ホセが何故カルメンに好意を持ったのか、そこがよく分かりませんでした。花を投げつけられたときは怒っていたのに」
「あれはひとめぼれだよ、たぶん。理屈じゃないやつ」
「だとしても、拙者はあまり近寄りたくないタイプの女性です。軍人であるドン・ホセならばなおさらではないでしょうか」
「いやな女だって分かっててもブレーキかけられないのが恋愛なんじゃない?」
「名前殿もそういう経験が?」
「さっぱりないから、残りの数日で経験させてもらいたいな」
冗談めかしてバジルの顔を覗き込む。バジルは虚を突かれたようにアイスブルーの瞳を開いたが、それからおもしろがるように笑った。
第3幕以降も流れが分かっていたためか、苦労もなくストーリーを理解することができた。第2幕でカルメンにひとめぼれした闘牛士・エスカミーリョとホセの決闘や、ホセを連れ戻しに来たミカエラの説得、そして終幕の闘牛場。とっくにエスカミーリョに心を移していたカルメンは復縁をせまるドン・ホセを拒絶し、逆上した彼はカルメンに短刀を突き刺した。
「おもしろかったけどさ、正直私も、登場人物の気持ちはよくわからなかった」
暗い展開ではあったが、最後まで自分の生き方を貫き通したカルメンには感心したし、カルメンを手にかけたあとのドン・ホセには多少同情もした。けれどバジルと同様、名前も彼らに感情移入することは最後までできなかった。
「ラルさんじゃないけど、ホセは引き返すべきだったし、ミカエラはホセを見限ればよかったのに」
「そもそもカルメンは何をしたかったのでしょうか」
「明確な目的はなかったんじゃない? 思うがままに自由に生きたってだけ」
出口に向かう人の波にまぎれながら、名前とバジルはあれこれと感想を言い合った。お互いに恋愛にのめりこむタイプではないらしく、2人そろってどの登場人物にも感情移入することはできなかった。しかし役者たちの演技や歌、オーケストラはすばらしく、舞台芸術のおもしろさ自体は体感できたというのが共通の感想だった。
「ラルへ提出するレポートが、登場人物への不満で埋め尽くされてしまいそうです」
「ラルさんだってあれほどこき下ろしてたんだから、納得してくれるんじゃない?」
「いえ、きっと採点者に媚を売るなと叱られます」
「はは、確かに言いそう。せっかく勉強したんだし、建物のこととか書けば?」
「それはいい考えです。……そうだ、オレガノが用意した以外にもパンフレットがあるかもしれません。探してきても?」
「うん。そこで待ってる」
まぶしいくらいに白く明るい壁に囲まれた階段を下りた先、ロビーの端を指さす。特に何があるわけでもなかったが、まっすぐにドアを目指す客がほとんどだったから壁際には存外スペースが空いていた。バジルはすぐに戻ると言い残すと、赤いワンピースの劇場スタッフのもとへ向かった。その背中を見送って、名前は反対側へと人の流れをかきわけて進んでいく。
(意外と進めないな……)
劇場を出ていく客の群れは途切れることなく階段の方へと続いている。誰もかれもがおしゃべりに夢中で、周囲に気を配っているわけでもない。加えて今日はヒールをはいていたから、人の足を踏んでしまわないよう注意深く進む必要があった。
(ドレス着てきたのは正解だったけど、歩きにくいのは困るな)
日本から持参したネイビーのワンピースと黒いパンプス。普段はなかなか着る機会がなかったから少しだけ気分が上がっていたが、いざ人波の飲まれてしまうと邪魔でしかない。四苦八苦しながら頭ひとつ分以上背が高いイタリア人たちの合間を進み、ようやっと目的の壁際へたどり着く。ほっと息を吐き出して壁に背を向けようとした、そのときだった。
ぐいと、後ろから腕を引かれた。
「!?」
強い力だった。はきなれないヒールがバランスを崩し、右膝ががくりと折れて体が後ろに傾く。このままでは転ぶ。せめて体を支えようと反射的に動かそうとした右手は、しかし腕ごと背後に固定されていて自由がきかなかった。
(終わった……)
何が起こったかは理解できていない。しかしこれから自分が無様にも後ろ向きに転ぶことだけは疑いようのない現実だ。名前は諦めてぐっと奥歯を噛みしめ――直後にごつと、後頭部が何かに当たる音が聞こえた。
(……いや、床にしては近いな)
ぱちり。まぶたを一度、上下させる。床にしては、ぶつかるのが早かった。それは固いわりに痛くはない。視界は多少傾いてはいるが、真上を見上げているわけでもない。おそらく後ろにいる人物にぶつかってしまったのだろう。
「すみません……」
ほとんど無意識に漏れた謝罪は日本語によるものだった。体勢を整え、後ろを振り返りながら失敗したと考える。ここはイタリアなのだから、日本語が通じるわけがない。未だ右腕は誰かに掴まれたままだったが、深いことは考えずにとにかく再度謝罪を口にしようとして――名前はピタリと、動きを止めた。名前が転ぶことになった原因が、名前を受け止めたのと同一人物であったからではない。その人物が、よく知った男だったからだ。
「なんでここに……」
「……」
ぽかんと口を開ける名前とは対照的に、男は彼には珍しい、険しい顔のまま無言で名前を見下ろしていた。切れた息も、それに合わせて上下する肩も、いつも余裕をにじませて泰然と構えている彼らしくない。しかし名前の思考には何故彼が――ディーノがここにいるのか、それ以上の疑問について考える余裕は残されていなかった。そのくらい、ディーノの登場は予想外すぎた。
(いや、予想もしないでしょ、こんなの)
名前はただ、ラル・ミルチとオレガノの指示に従ってオペラの鑑賞に来ただけだ。研修と仕事の合間のような状況で、CEDEF本部からは少し離れた場所にあるこの地まで、わざわざめかしこんで足を運んできた。それをまさかディーノが同じ時間、同じオペラハウスにいるなど、誰が考えただろうか。
驚きから言葉をなくし、まじまじとディーノを見上げる。普段よりは少しだけフォーマルに近い服装に身を包み、ワックスでしっかりと髪の毛をアレンジしていることが分かる。きっとオペラの鑑賞に来たのだろう。しかし彼が息を切らして名前の腕を引き寄せた理由が、分からない。
ようやく少し呼吸が整ったのか、一度深く息を吐いて、ディーノが口を開いた。
「……さっきの、一緒にいたやつ」
これまた彼らしくない、前置きのない、どこか切羽詰まったような声音だった。それも歯切れ悪く、言葉の合間に迷うように視線を泳がせている。その仕草すらも名前には意外で、言葉の内容があまり頭に入らない。急激に鈍くなった思考を必死に動かそうとするも、唐突に与えられた情報の処理に手いっぱいで、まともな答えが出てこない。名前の無言をどのように理解したのか、ディーノはその端正な顔をぎゅっとしかめ、しかし意を決した様子でまっすぐに名前の両目を見下ろした。
「さっきのって」
「ちょっとディーノ!!!」
甲高い声が、ディーノの言葉を遮って名前の鼓膜を大きく揺らした。何事かとディーノの背後を覗き込むと、カツカツとヒールを踏み鳴らしながらロビーを横断してくる女性が目に入る。キッと吊り上がったまなじりから、彼女がいらだっていることが見てとれた。ディーノは一瞬だけげんなりとした様子で斜め上を見た。その姿すらも名前には新鮮に映ったが、その仕草の理由はやはり分からなかった。
女性は時間をかけてディーノのそばまでやって来ると、腰に手を当てて声を張り上げた。
「何よ、急に走り出して! 女性を1人で置いていくなんて、よっぽど大事な用事があったようね!」
「あー……」
「ふん、だんまりなんてまったくイタリア男らしくない! ご機嫌取りのひとつやふたつやみっつやよっつしてみたら……あら、その子は?」
気まずそうに明後日の方向に視線を泳がせるディーノにさらにまくしたてようとしたのだろう、開きかけた口はそのままに、女性は名前を見下ろした。一瞬前までの激昂ぶりはどこへやら、落ち着いた様子で「迷子かしら」などと心配そうに周囲を見回す。それから未だ名前の右腕を掴んだままのディーノの右手を見つけると、今度はニヤリと口角を上げた。出会って数秒しか経過していないが、ずいぶんと感情表現豊かな女性であるらしかった。
「ディーノ、まさかよね? あなたみたいな人が、こんな子どもに」
「……意外だろうが、これで成人してる」
「へえ、ふうん、そう。そうなのね、ディーノ。それともホセと呼んだ方がいい? ねえ、どうかしら、カルメン」
「え……」
先ほどまで見ていたオペラの主人公の名で呼びかけられ、名前は咄嗟に言葉を返すことができなかった。何を聞かれたのかも理解できず、うろと視線を泳がせる。女性はいっそう口角を吊り上げて、訳知り顔でさらに続けた。
「思い出した。この子あれね、さっきアリーナにいた子。ボーイフレンドと楽しそうにしてた」
「……」
「ねえカルメン、エスカミーリョはどこ? はぐれたのなら、一緒に探してあげるけど」
「えっと……私は、カルメンでは……」
「まさかでしょう! だってあなた、私のパートナーに言い寄られてる」
「え……」
名前は目を丸くしてディーノを見上げた。ディーノは咎めるように女性に一言二言何か言ったが、彼女が堪えた様子はない。そのまま早口での応酬が始まったが、早口すぎて名前にはあまり理解できなかった。流れるようなイタリア語を聞き流し、名前は彼女の言葉を思い返す。
(私がこの人のパートナーに言い寄られているということは、状況的にディーノさんがこの人のパートナーってことかな)
美しい女性だ。面立ちや体型ばかりではない。ワインレッドのタイトなドレスを堂々と着こなし、10cmはありそうなヒールをはいてもなおぴしりと伸びた背筋からは自信がにじみ、通りがかりの人々の視線を集めている。派手な容姿のディーノと並んでも見劣りしないどころか、よくつりあって見えた。ディーノも彼女の発言自体は否定していない。
2人がパートナーとしてこのオペラハウスを訪れたこと、そしてディーノが彼女を置いて名前を追いかけてきたことは事実なのだろう。
(パートナー……いろんな意味に取れる言葉だけど……うーん……)
あまり認めたくはないが、確かに名前はこの数か月間、ディーノから言い寄られている。きっと彼女はそこまでは知らず、今の状況だけでディーノをからかっているのだろうが――しかしもしこの女性がディーノの恋人だったとして、ディーノが恋人を差し置いて他の女を口説くなどという不貞行為を働くだろうか。
(それはしなさそうだ。だとすると同伴者って意味かな。でも私がカルメンでディーノさんがドン・ホセだと彼女がミカエラ……婚約者ってことになる。うーん……)
突然現れた女性の存在も、未だ離されることのない右腕も、名前に疑問ばかりを与えてくる。2人の言い合いも終わりそうにない。そういえばディーノが誰かと口論している姿を見るのは初めてのことだ。そのくらい2人は不仲なのか、それとも気安い間柄なのか――ぼんやりと考えていた最中。ふいに右腕の圧迫感が薄れた。意識を目の前に戻すと、ディーノの手を掴む別の手が視界の端に入り込む。その腕をたどって視線を持ち上げていくと、海のような澄んだ青色が、そこにあった。
「失礼。彼女が何か?」
穏やかで丁寧な口調にやわらかな笑み。細められたアイスブルーに、ディーノを咎めるような気配はない。それでいてとげとげしく見えるのはどういう仕組みなのか。純粋に感心してその表情に見入っていた名前に、バジルはパンフレットの束片手に微笑んで見せた。