本戦2:恋の悩みを知る君は
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「あなたたち、今日になって各段に良くなったわね。急にどうしたの?」
4日目の夕方。心底驚いた様子でそう言ったオレガノに、バジルと名前は顔を見合わせどちらともなく互いの拳をぶつけ合った。
前日のモーニングでの会話とそこから始まったゲームは、2人の間の距離を縮めることに大きく貢献をしてくれた。これまでの目的は分かっても手段があやふやなまま交わされるやり取りではなく、やるべきことが具体的に決められた遊びのような会話は存外おもしろい。ゲームに勝つべくこれまでよりも注意深く相手の様子を見るようになったし、自然と言葉や話題も選ぶようになり――今の時点では少なくとも、お互いがカフェで頼むメニューや砂糖やミルクの量はほとんど把握できている。
1日でこれほど他人と打ち解けた経験は名前にとっても初めてだったので、オレガノから告げられた60点には心からの笑顔が浮かんだ。
「一昨日も少しはがんばってたけど、昨日から全然違う。今日なんてただカフェでお茶してただけなのに、2人だけの世界って感じる瞬間が何度かあったわ」
「作戦が功を奏しました」
「どんな作戦?」
「それは企業秘密というものです。タネを明かして、評価から公平性が欠けてしまっても困ります」
「あら、その辺りの分別はわきまえているつもりだけど」
「もちろんオレガノは公明正大な人物だと心得ています。しかしこの件はまだ拙者たちだけの秘密ということで」
「いい気になるなよ、バジル。まだ60点だ。評価で言えばCクラス、できて当たり前という範囲だぞ」
ラル・ミルチの鋭い指摘にも、バジルはただ笑って頷くだけだった。彼女は彼女で名前のペーパーテストの採点を終えたところのようで、解答用紙を名前たちにも見えるような形で持ち上げる。本日はマナーに関する講義とテストだったが、点数自体は満点だった。
「! やりましたね、名前殿!」
「うん、よかった」
「いくらペーパーで良い点が取れようと、実践がついてこなければ意味はない。何度も言うが勘違いするなよ、お前たち。ここでようやく及第点だ。A評価をとれるまで気を緩めるな」
「はい!」
「わかりました」
上機嫌なバジルを一瞥し、ラル・ミルチは鼻を鳴らす。口角が上がっているところを見るに、小馬鹿にしているわけではなく、あれが彼女なりの激励であるらしい。やはりああ見えて情に厚いタイプのようだ。初日に抱いた印象を確信に近づける名前に、ラル・ミルチは不快そうに眉根を寄せる。
「何をじろじろと見ている」
「すみません、仲が良いんだなと思って」
「……チームとしての信頼は寄せているが、仲良しごっこをやっているわけではない。その表現はやめろ」
「すみません」
「……すぐに謝るのもやめろ。外に出たときに軽んじられるぞ」
「そういうものですか。気を付けます」
淡々と指摘を受け入れる名前に、ラル・ミルチは舌を打った。おそらく反抗を示されるよりも素直な反応を返される方が苦手なタイプなのだろう。その心境には名前も共感する部分があったので、気にしないふりをしてオレガノに向き直った。
「明日はオペラ鑑賞ですか?」
「そう! 実は今日の評価が悪かったら予定変更するつもりだったんだけど、その調子ならいけそうね。午前中に簡単にオペラに関する講義を受けて、午後はナポリよ」
「へえ……結構遠出になるんですね」
「とってもすてきなオペラハウスなの。絶対に一度はデートで行っておくべきだわ」
「その翌日はローマに旅行だ。ホテルは押さえてやったから、明日はナポリからそのままローマに行ってこい」
「ローマでのプランは決まってるんですか?」
「バジルが考えた。これが企画書だ」
「へ、へえ……」
名前のテストの下から取り出された10枚程度の書類の束に、名前はわずかに身を引いた。3人の様子からずいぶんとまじめな組織だと薄々は感じていたが、まさか日帰り旅行ひとつに10枚の企画書を準備するとは――それもおそらく、名前との研修が始まってから作成されたものだろう。
(バジルくんだってほとんど私と一緒に行動してるから、1日の振り返りが終わってからか朝早くに作ってるってことだよな……真似できない……)
これがもし財団であったならば「事後報告だけでいい」とすべての仕事をぽいと放り投げられ、あとはすべて名前の裁量のみで進めていたことだろう。どちらが手厚いかと言えばもちろんCEDEFだが、名前に合っているのは雲雀のやり方だった。
「その企画書ですが、少々修正を付け加えようと思います」
自分がこの組織の所属だったらと想像してぞっとしている名前をよそにバジルが言った。この2日間で知った名前の好みをプランに反映させるつもりらしい。
「別に構わんが……明日の朝までに新しい企画書を持ってこい。お前たちがオペラハウスに行っている間に確認してメールで戻す」
「承知しました。では名前殿は、本日はここまでということですね。ホテルまで……」
「なら今日は私たちと食事に行きましょう!」
送る、というバジルのセリフは、オレガノの声によって遮られた。さも良いアイディアを思いついたと言わんばかりのオレガノに対し、ラル・ミルチは露骨に不満そうな顔を作る。どう贔屓目に見ても、行きたくないと全身で語っていた。
(うーん……私もちょっとな……)
正直なところ名前も、ホテルに戻り明日に備えるか、あるいはバジルの企画書修正に付き合えないものかと考えていたのだが、すでにオレガノはがっちりと名前とラル・ミルチの腕をつかんで離す気配もない。
「実は近所にできたスペインバルに行きたかったの。シーフードのパエリアが最高だって話よ」
「ターメリックでも誘え。あいつは酒があればどこだってついていくだろ」
「それが最近、禁酒始めたらしいの。付き合い悪くなっていやになっちゃう。実はもう3人で予約しちゃったし……そろそろ時間だわ。行きましょう」
「あの、私、ローマのプランを一緒に……」
「ダメよ、あれはバジルの仕事だからとっちゃいけないわ。それにずっと名前とも話してみたかったの」
「いやー……そんなにおもしろいお話もできないかと……」
「任せてちょうだい、そういうの得意だから!」
にっこりと笑うオレガノの圧に、ラル・ミルチは早々に屈したらしい。まだ抵抗を示そうとする名前に「諦めろ」とだけ言って、自らオレガノのあとに続く。ほとんど引きずられるように歩き出した名前に、バジルが「楽しんできてください」と心からの笑顔を浮かべて手を振ったのが、閉まりゆくドアの隙間から見えた。
歩いて15分ほどの路地裏に、目的のスペインバルはあった。着いて早々ワインボトルとパエリア、それからいくつかの食事の注文を済ませ、先にテーブルに届けられたワインで乾杯をする。オレガノが選んだ白ワインはフルーティーで飲みやすい銘柄だった。
「アルコールは平気?」
すでに2杯目をグラスに注ぎながら、オレガノは名前のワイングラスをちらりと見た。
「少しは飲めます。でも今日は1杯だけ」
「そう? じゃああとでジュースも頼みましょう。ラル、あなたは?」
「自分で適当にやる。ほっとけ」
言いながら、ラル・ミルチも空にしたグラスに手酌でワインを注いだ。2人の早いペースに少し驚いたものの、おそらく日本で言うところの「とりあえずビールで」のようなものなのだろう。草壁がジョッキを空けるスピードや、雲雀が黙々と冷酒を干していく姿を思い起こすと、2人のワインの消費スピードもそれほど不自然ではなかった。
しばらくワインや日本酒の話をしていると、オレガノ最大の目的であるシーフードのパエリアがテーブルの中央に置かれた。50cm以上はありそうな平たいフライパンの上には、サフランによって鮮やかな黄色に色付けされた米と、エビや貝、イカなどの具材がたっぷりと並んでいる。湯気とともに立ち上る独特の香りが、あまり感じていなかった空腹を意識させた。
「おいしそうですね」
「ええ、まちがいなくおいしいわ。パエリアは初めて? 日本でもスペイン料理って食べられるのかしら」
「大抵の国の料理は食べられると思います。パエリアも何度か。……ただ、いつも一緒にご飯に行く人たちが基本的に和食派なので、こういう機会はうれしいです」
「ならよかった」
オレガノが手際よくパエリアをとりわけ、名前とラル・ミルチに手渡した。スプーンを口に運ぶと、ガーリックやサフランの香りと共に魚介の優しい風味が口内に広がる。以前、日本で食べたときよりもしっかりとした味付けが空腹の身にはちょうどよく、自然と口元が緩む。
「おいしいです」
「本当ね! しばらく通っちゃうかもしれない」
「俺は付き合わないからな」
「あら、じゃあ誰と来ればいいの? ターメリックとバジルにはもったいないわ」
「バジルでいいだろ。あいつは量があればなんでもいい」
「だからもったいないって言ってるんじゃない。味が分かる人と楽しみたいの。……そうそう、名前。実際のところ、バジルはどう?」
「どうとは……」
「うまくやってるかってこと。あの子って正直……まじめすぎるでしょう?」
もぐもぐと口を上下させながら肩をすくめるオレガノが言わんとすることを察し、名前は斜め上へと視線を送った。思い返すまでもなく、確かにバジルは素直でまじめな性格をしている。ひとつの仕事、それも女性の扱いを学ぶというともすれば遊びとも取れかねない任務にもああも真剣に取り組む姿はまるで優等生を絵に描いたようだ。無理をしているふうでもないところが彼のまじめぶりをよく表している。それでいて清濁はあわせのめるような言動もするから、名前は未だにバジルの人間性を少し測りかねていた。
「……そうですね、すごくまじめで……私とは対極にいるような人だなと思ってます」
「そうか? よく似ているように見えるが」
おいしいと口には出さないものの、黙々とパエリアを食べ進めていたラル・ミルチが意外そうに言った。
「バカがつくほどまじめで負けず嫌い。お前もそうだろう」
「ま、負けず嫌いは否定しませんけど……バジルくんはなんでも全力投球っぽいですよね。私は抜けるところは抜いていく主義です」
「全然そうは見えないわ。今回の研修も、初日以外はしっかり取り組んでるじゃない」
「初日以外はな」
「初日のことは本当に申し訳なく……全力で取り組むことが最善なときはそうします。でもそうじゃないときは極限まで楽をする感じです」
「ああ、要領がいいタイプってことね。それなら納得」
「良く言えば、そうなるんですかね。まあとにかくそんな感じなので、自分にはできないことをがんばってるバジルくんはすごいなーと思ってます」
「努力自体は俺も認める。だが、努力に結果を伴わせるのが仕事だ。その点の評価を聞いている」
「うーん……」
至極当然の指摘をするラル・ミルチに、名前は再度バジルの言動を思い返した。昨日からのバジルは、迷いが晴れたかのように生き生きとしていた。2日目までの先の見えない暗中模索が、筋道の見える試行錯誤まで変化したためだろう。この2日間は名前自身、バジルと過ごす時間が少し楽しく感じるようになっていた。
「そんなに難しく考えなくていいの。例えばだけど、もしあなたが何も知らない一般人だったとして、バジルに同じように振る舞われたらどう感じる? うれしいとか、鬱陶しいとか……いろいろあるでしょう?」
あ、と名前は内心で声を上げた。オレガノに、ごく自然に会話を誘導された。失念していたが、名前はバジルに与えられた任務――異性を口説き落とせるようになれとの指令を知らないことになっている。オレガノはバジルを評価するために、名前からの印象を聞き出そうとしているのだ。
(知らないことにしておいた方がいいよな……)
わざわざ名前には伏せられていた件だ。それをバジル自ら明かしたとあっては、彼に対する心証も悪くなる。名前はわざとゆっくりとイカを咀嚼しながら、返すべき言葉を探した。
「……今、プライベートで呆れるほど鬱陶しいことが起きているので、バジルくんくらいの気づかいがちょうどいいですね」
嚥下に少しの心配もいらないほどやわらかくなったイカを飲み込み、名前はオレガノとラル・ミルチに笑ってみせた。これは名前の、率直な感想だった。
どこかの誰かと比べれば、昨日からのバジルの気遣いは決して大げさではなく、困惑を生むようなものでもない。カフェに行けば飲み物が切れるのを見計らって新たに注文してくれたり、道を歩けばさりげなく車道側を歩いてくれたり――誰にでもできそうなさりげない気遣いを、バジルは嫌味なく残していく。何より彼は、名前がやめてほしいと言ったことは強行しない。その点は、どこかの誰かに比べればかなり評価が高かった。
「それに、すごく私のことを知ろうとしてくれてるのを感じるので……もしかしたら他の子だったら、何か勘違いしてたかもしれません」
「あなたはそうは感じないってこと?」
「仕事ですから」
名前の返答に、オレガノはあっさりと納得した様子だった。それもそうかと頷いて、いつの間にかテーブルの端に置かれていたオリーブをかじる。それからふと、表情をかえた。過去を懐かしむような、それでいて困ったような横顔。どこか遠くを見るオレガノに、名前は少し落ち着かない気分で次の言葉を待った。
「……あの子、本当にまじめでしょう? 子どものときからずっとそうなの」
「長いお付き合いなんですね」
「ええ。昔から聞き分けが良くて、素直で、まじめで……大人としてはある意味扱いやすかったけど、その分、遊びを知らないのがずっと心配だった」
「遊びですか」
「勉強だけじゃ人間は人間にならない。自由な遊びや体験を通して、人は人として成長していく。遊びの中には恋愛も含まれるわ。……でもあの子ったら、全然。何か遊びに誘っても、全部修行だと勘違いして」
「あれは家光の悪影響だ」
「親方様には親方様の考えがあるの! それに奇跡的なほどまっすぐな子に育ったでしょう!」
「俺にキレるな。……だがまあ、バジルの人生経験は極端に偏っているという点は同意する。本来なら生活の中で自然と経験し、学ぶべきことが欠落しているときがある」
「欠落、ですか?」
「そう。学校生活とか想像してもらえるといいかしら。ああいう場所で、同年代の子たちと過ごす経験がほとんどなかった。できるだけ私たちがそれを補おうとがんばったんだけど、ほら、恋愛に関してはどうにもならないじゃない? それで恋愛経験が限りなく薄いまま、あの子の10代が過ぎ去ってしまった……」
「そもそもあいつに女がいたことがあったのか? CEDEFの人間以外と談笑しているところすら見たことがない」
「ラル、さすがに0ではないと思うわ。1年くらい前にターメリックとこそこそやってた時期があったもの。……玉砕したみたいだけど」
「……というわけで、うちのやつらはどいつもこいつもバジルには甘い。今回の任務も甘やかしの極みだ。女の扱い方を学ぶなどと言えば聞こえはいいが、結局のところは疑似恋愛体験のようなことまでさせて……仕事でやらせることではないと、何度家光に言ったことか」
「でもこうでもしないと、いずれ任務に差し障ることは事実だし」
「……最初にも言ったが、こいつらの子育てに巻き込まれたことには同情している。だがそれはそれ、これはこれだ。任務として命令が下ったからには俺も本気でお前たちを指導するし、手を抜くつもりも、抜かせるつもりもない。それだけは理解しておけ」
ラル・ミルチの冷静な意見に、名前は静かに頷いた。思いがけずバジルの、あまり公にすべきではなさそうな情報を得てしまったことには動揺したが、彼女の言う通りバジルの生い立ちと仕事は関係がない。特に名前にとっては、深入りすべき話題ではないことは明白だった。おそらくラル・ミルチもそれを伝えたいのだろう――先入観と同情を任務に持ち込むなと、そう言いたかったに違いない。
「今のお話は、アルコールと一緒に忘れることにします」
「あ……そうね、ごめんなさい。つい口がすべっちゃった。……じゃあ仕事の話はこれでおしまい! 楽しい話をしましょう!」
軽く両手を合わせて、オレガノはわざとらしく明るい声を上げた。それから新たなボトルと名前のためのフルーツジュースを追加で注文し、残っていた白ワインをすべて自身のグラスに注ぐ。さすがに飲みすぎではないかと心配になったが、ラル・ミルチが窘めることなく平然と新しいボトルに手を伸ばしたのを横目で確認し、彼女たちと自分の体質の差を思い知ることとなった。
ようやく1杯目のワインを飲み干し、名前もオリーブに手を伸ばす。たった1杯とはいえ、すでに少し酔いが回ってきている。鈍くなってきた思考の回転にうんざりしながら、名前はオリーブを噛み砕いた。
「名前はどうなの? さすがにバジルほど壊滅的じゃないわよね?」
「人生経験ですか?」
「恋愛経験! 恋人はいないって言ってたけど、好きな人は?」
先ほどまでとは打って変わって、オレガノは身を乗り出すような勢いで問いかけた。理知的なはずの瞳がきらきらと輝いて見えるのは、決して見間違いではないだろう。どうやら恋愛の話は、万国共通で盛り上がる話題であるらしい。
「好きな人もいません」
「じゃあさっきの鬱陶しいっていうのは? 話の流れ的に異性のことだと思ったんだけど」
「あー……あれは……まあ、異性と言えば異性ですが」
「もしかしてアプローチされてるとか?」
「そうと言えば、そうなんですけど……」
「煮え切らんな。簡潔に言え」
「えっと……なんと説明すればいいのやら……」
ディーノの件は、あまり話題に上げたいことではなかった。他人に話したところで何か解決するわけでもないし、自分の口から説明するとおこがましさのようなものを感じる気もする。
(あ、でも、あの人と同じ国の女性に聞いてみるのはいいかも……?)
ディーノの言動は名前にとってあまりに不可解だ。それほど自覚はなかったものの、夢に見るほど悩んでもいる。彼が勘違いに気が付くまで放置するつもりでいたが――2人から助言をもらうことで、何か解決への糸口が見つかるかもしれない。
もごもごと言いよどんでいた口をはっきりと開き、名前は2人に現状を伝えてみることにした。
「ええと……確かに今、アプローチしてくれている男性がいます。その人は私の初恋の人で」
「え! 両想い!?」
「半年くらい前になんやかんやあって諦めた人だったんです」
「それは……なんてタイミングが悪い男なの……」
「本当に……。で、何度も付き合う気はないし、心変わりもしないって断ってるのに、めげずにガンガン押してくるんですよね……」
「……それは例えば、頼んでもいないのに強引に食事に連れていったり、気が狂いそうになるほどメールや電話が来たり、普通の会話の5秒に1回口説き文句を挟んできたり……そういうことか?」
「すごいですね、まさにその通りです」
「あれはイタリア男だけの習性だと思っていたが、違ったのか……」
「そうね、日本人の男の子ってシャイなイメージがあったから、意外だわ」
「あはは」
その人イタリア人ですという本音を飲み込み、名前は乾いた笑いを浮かべる。
「というかラルもずいぶんと熱烈なアプローチをされてたのね。初耳だわ」
「……俺のことはどうでもいい。それで、その半ストーカー男をどうするんだ。訴えようと思えばおそらく勝てるぞ」
「そ、そこまではさすがに……。でもそれがまさに悩みの種で、いったいどうしたら諦めてくれるのかと」
「どうして? 付き合ってみればいいじゃない」
オレガノはあっけらかんとしてそう言った。
「元は名前だって好きだったんでしょ? なら一度付き合ってみて、それでダメなら別れれば?」
「意外と……フットワーク軽いですね」
「正直に無鉄砲と言ってやれ。仕事では慎重なくせに、プライベートとなると途端にこれだ。今までそのやり方で何度失敗して泣きを見たか忘れたのか」
「つ、付き合ったからダメな男だって分かって離れられたの。別に方法が悪いわけじゃない」
「そうだな、悪いのはお前の男を見る目だ」
「う……じゃ、じゃあラルならどうするの?」
「自分の本心に従う」
あっさりとした、しかし確信に満ちた声音。思わず視線を向けると、ラル・ミルチも同様に名前を見ていた。まるで値踏みでもするように、いつも不機嫌そうなつり目が名前の瞳を覗き込む。
「何故、そいつの好意を拒む。そいつのことを嫌っているのか」
「別に嫌いなわけではないです。尊敬している部分もあります」
「そうなの? だったらなおさら、付き合わない理由が分からないわね」
「いやー……だってあれ、間違いなく何か勘違いしてますもん」
「……勘違い?」
「あの人が私のことなんか好きになるわけない……ってくらい、こう、すてきな感じの人なので」
「? でも好きだって本人が言ってるんでしょう?」
「あれは何か別の感情を取り違えてるんだと思います。そのくらい……ありえないことです」
「……それがお前の本心なら特に言うことはない。だが違うというのなら……後悔しない選択をすることだ。いくら悔いても、取り戻せないものもある」
「……何か、後悔したことが?」
「……俺の話はどうでもいい」
吐き捨てるようなラル・ミルチの言葉に、名前もそれ以上の深追いはしなかった。彼女は誰にでも愛想をふりまくタイプではない。それがわざわざ名前にこのような忠告をするとは、よほど名前のことを気に入ったのか、あるいは――名前の状況と彼女の過去の経験を重ね、思うところがあったからだろうか。自分自身に対する助言よりもラル・ミルチに対する興味が湧く。しかし彼女の、それ以上踏むこむことは許さないと言わんばかりの冷えた瞳に射貫かれ、口を閉ざすことにした。
客足がピークを迎えた店内がにわかに騒がしくなり、数秒の無言の間を埋める。しかしすぐに気を取り直したオレガノが、今度は名前の過去の恋愛について質問を始めた。どうやらオレガノは恋愛に関して一家言あるらしく恋愛トークは彼女による恋愛講座へと発展し、ほとんど聞き流しているふうのラル・ミルチに代わり、名前はひたすらに相槌を打つこととなった。
4日目の夕方。心底驚いた様子でそう言ったオレガノに、バジルと名前は顔を見合わせどちらともなく互いの拳をぶつけ合った。
前日のモーニングでの会話とそこから始まったゲームは、2人の間の距離を縮めることに大きく貢献をしてくれた。これまでの目的は分かっても手段があやふやなまま交わされるやり取りではなく、やるべきことが具体的に決められた遊びのような会話は存外おもしろい。ゲームに勝つべくこれまでよりも注意深く相手の様子を見るようになったし、自然と言葉や話題も選ぶようになり――今の時点では少なくとも、お互いがカフェで頼むメニューや砂糖やミルクの量はほとんど把握できている。
1日でこれほど他人と打ち解けた経験は名前にとっても初めてだったので、オレガノから告げられた60点には心からの笑顔が浮かんだ。
「一昨日も少しはがんばってたけど、昨日から全然違う。今日なんてただカフェでお茶してただけなのに、2人だけの世界って感じる瞬間が何度かあったわ」
「作戦が功を奏しました」
「どんな作戦?」
「それは企業秘密というものです。タネを明かして、評価から公平性が欠けてしまっても困ります」
「あら、その辺りの分別はわきまえているつもりだけど」
「もちろんオレガノは公明正大な人物だと心得ています。しかしこの件はまだ拙者たちだけの秘密ということで」
「いい気になるなよ、バジル。まだ60点だ。評価で言えばCクラス、できて当たり前という範囲だぞ」
ラル・ミルチの鋭い指摘にも、バジルはただ笑って頷くだけだった。彼女は彼女で名前のペーパーテストの採点を終えたところのようで、解答用紙を名前たちにも見えるような形で持ち上げる。本日はマナーに関する講義とテストだったが、点数自体は満点だった。
「! やりましたね、名前殿!」
「うん、よかった」
「いくらペーパーで良い点が取れようと、実践がついてこなければ意味はない。何度も言うが勘違いするなよ、お前たち。ここでようやく及第点だ。A評価をとれるまで気を緩めるな」
「はい!」
「わかりました」
上機嫌なバジルを一瞥し、ラル・ミルチは鼻を鳴らす。口角が上がっているところを見るに、小馬鹿にしているわけではなく、あれが彼女なりの激励であるらしい。やはりああ見えて情に厚いタイプのようだ。初日に抱いた印象を確信に近づける名前に、ラル・ミルチは不快そうに眉根を寄せる。
「何をじろじろと見ている」
「すみません、仲が良いんだなと思って」
「……チームとしての信頼は寄せているが、仲良しごっこをやっているわけではない。その表現はやめろ」
「すみません」
「……すぐに謝るのもやめろ。外に出たときに軽んじられるぞ」
「そういうものですか。気を付けます」
淡々と指摘を受け入れる名前に、ラル・ミルチは舌を打った。おそらく反抗を示されるよりも素直な反応を返される方が苦手なタイプなのだろう。その心境には名前も共感する部分があったので、気にしないふりをしてオレガノに向き直った。
「明日はオペラ鑑賞ですか?」
「そう! 実は今日の評価が悪かったら予定変更するつもりだったんだけど、その調子ならいけそうね。午前中に簡単にオペラに関する講義を受けて、午後はナポリよ」
「へえ……結構遠出になるんですね」
「とってもすてきなオペラハウスなの。絶対に一度はデートで行っておくべきだわ」
「その翌日はローマに旅行だ。ホテルは押さえてやったから、明日はナポリからそのままローマに行ってこい」
「ローマでのプランは決まってるんですか?」
「バジルが考えた。これが企画書だ」
「へ、へえ……」
名前のテストの下から取り出された10枚程度の書類の束に、名前はわずかに身を引いた。3人の様子からずいぶんとまじめな組織だと薄々は感じていたが、まさか日帰り旅行ひとつに10枚の企画書を準備するとは――それもおそらく、名前との研修が始まってから作成されたものだろう。
(バジルくんだってほとんど私と一緒に行動してるから、1日の振り返りが終わってからか朝早くに作ってるってことだよな……真似できない……)
これがもし財団であったならば「事後報告だけでいい」とすべての仕事をぽいと放り投げられ、あとはすべて名前の裁量のみで進めていたことだろう。どちらが手厚いかと言えばもちろんCEDEFだが、名前に合っているのは雲雀のやり方だった。
「その企画書ですが、少々修正を付け加えようと思います」
自分がこの組織の所属だったらと想像してぞっとしている名前をよそにバジルが言った。この2日間で知った名前の好みをプランに反映させるつもりらしい。
「別に構わんが……明日の朝までに新しい企画書を持ってこい。お前たちがオペラハウスに行っている間に確認してメールで戻す」
「承知しました。では名前殿は、本日はここまでということですね。ホテルまで……」
「なら今日は私たちと食事に行きましょう!」
送る、というバジルのセリフは、オレガノの声によって遮られた。さも良いアイディアを思いついたと言わんばかりのオレガノに対し、ラル・ミルチは露骨に不満そうな顔を作る。どう贔屓目に見ても、行きたくないと全身で語っていた。
(うーん……私もちょっとな……)
正直なところ名前も、ホテルに戻り明日に備えるか、あるいはバジルの企画書修正に付き合えないものかと考えていたのだが、すでにオレガノはがっちりと名前とラル・ミルチの腕をつかんで離す気配もない。
「実は近所にできたスペインバルに行きたかったの。シーフードのパエリアが最高だって話よ」
「ターメリックでも誘え。あいつは酒があればどこだってついていくだろ」
「それが最近、禁酒始めたらしいの。付き合い悪くなっていやになっちゃう。実はもう3人で予約しちゃったし……そろそろ時間だわ。行きましょう」
「あの、私、ローマのプランを一緒に……」
「ダメよ、あれはバジルの仕事だからとっちゃいけないわ。それにずっと名前とも話してみたかったの」
「いやー……そんなにおもしろいお話もできないかと……」
「任せてちょうだい、そういうの得意だから!」
にっこりと笑うオレガノの圧に、ラル・ミルチは早々に屈したらしい。まだ抵抗を示そうとする名前に「諦めろ」とだけ言って、自らオレガノのあとに続く。ほとんど引きずられるように歩き出した名前に、バジルが「楽しんできてください」と心からの笑顔を浮かべて手を振ったのが、閉まりゆくドアの隙間から見えた。
歩いて15分ほどの路地裏に、目的のスペインバルはあった。着いて早々ワインボトルとパエリア、それからいくつかの食事の注文を済ませ、先にテーブルに届けられたワインで乾杯をする。オレガノが選んだ白ワインはフルーティーで飲みやすい銘柄だった。
「アルコールは平気?」
すでに2杯目をグラスに注ぎながら、オレガノは名前のワイングラスをちらりと見た。
「少しは飲めます。でも今日は1杯だけ」
「そう? じゃああとでジュースも頼みましょう。ラル、あなたは?」
「自分で適当にやる。ほっとけ」
言いながら、ラル・ミルチも空にしたグラスに手酌でワインを注いだ。2人の早いペースに少し驚いたものの、おそらく日本で言うところの「とりあえずビールで」のようなものなのだろう。草壁がジョッキを空けるスピードや、雲雀が黙々と冷酒を干していく姿を思い起こすと、2人のワインの消費スピードもそれほど不自然ではなかった。
しばらくワインや日本酒の話をしていると、オレガノ最大の目的であるシーフードのパエリアがテーブルの中央に置かれた。50cm以上はありそうな平たいフライパンの上には、サフランによって鮮やかな黄色に色付けされた米と、エビや貝、イカなどの具材がたっぷりと並んでいる。湯気とともに立ち上る独特の香りが、あまり感じていなかった空腹を意識させた。
「おいしそうですね」
「ええ、まちがいなくおいしいわ。パエリアは初めて? 日本でもスペイン料理って食べられるのかしら」
「大抵の国の料理は食べられると思います。パエリアも何度か。……ただ、いつも一緒にご飯に行く人たちが基本的に和食派なので、こういう機会はうれしいです」
「ならよかった」
オレガノが手際よくパエリアをとりわけ、名前とラル・ミルチに手渡した。スプーンを口に運ぶと、ガーリックやサフランの香りと共に魚介の優しい風味が口内に広がる。以前、日本で食べたときよりもしっかりとした味付けが空腹の身にはちょうどよく、自然と口元が緩む。
「おいしいです」
「本当ね! しばらく通っちゃうかもしれない」
「俺は付き合わないからな」
「あら、じゃあ誰と来ればいいの? ターメリックとバジルにはもったいないわ」
「バジルでいいだろ。あいつは量があればなんでもいい」
「だからもったいないって言ってるんじゃない。味が分かる人と楽しみたいの。……そうそう、名前。実際のところ、バジルはどう?」
「どうとは……」
「うまくやってるかってこと。あの子って正直……まじめすぎるでしょう?」
もぐもぐと口を上下させながら肩をすくめるオレガノが言わんとすることを察し、名前は斜め上へと視線を送った。思い返すまでもなく、確かにバジルは素直でまじめな性格をしている。ひとつの仕事、それも女性の扱いを学ぶというともすれば遊びとも取れかねない任務にもああも真剣に取り組む姿はまるで優等生を絵に描いたようだ。無理をしているふうでもないところが彼のまじめぶりをよく表している。それでいて清濁はあわせのめるような言動もするから、名前は未だにバジルの人間性を少し測りかねていた。
「……そうですね、すごくまじめで……私とは対極にいるような人だなと思ってます」
「そうか? よく似ているように見えるが」
おいしいと口には出さないものの、黙々とパエリアを食べ進めていたラル・ミルチが意外そうに言った。
「バカがつくほどまじめで負けず嫌い。お前もそうだろう」
「ま、負けず嫌いは否定しませんけど……バジルくんはなんでも全力投球っぽいですよね。私は抜けるところは抜いていく主義です」
「全然そうは見えないわ。今回の研修も、初日以外はしっかり取り組んでるじゃない」
「初日以外はな」
「初日のことは本当に申し訳なく……全力で取り組むことが最善なときはそうします。でもそうじゃないときは極限まで楽をする感じです」
「ああ、要領がいいタイプってことね。それなら納得」
「良く言えば、そうなるんですかね。まあとにかくそんな感じなので、自分にはできないことをがんばってるバジルくんはすごいなーと思ってます」
「努力自体は俺も認める。だが、努力に結果を伴わせるのが仕事だ。その点の評価を聞いている」
「うーん……」
至極当然の指摘をするラル・ミルチに、名前は再度バジルの言動を思い返した。昨日からのバジルは、迷いが晴れたかのように生き生きとしていた。2日目までの先の見えない暗中模索が、筋道の見える試行錯誤まで変化したためだろう。この2日間は名前自身、バジルと過ごす時間が少し楽しく感じるようになっていた。
「そんなに難しく考えなくていいの。例えばだけど、もしあなたが何も知らない一般人だったとして、バジルに同じように振る舞われたらどう感じる? うれしいとか、鬱陶しいとか……いろいろあるでしょう?」
あ、と名前は内心で声を上げた。オレガノに、ごく自然に会話を誘導された。失念していたが、名前はバジルに与えられた任務――異性を口説き落とせるようになれとの指令を知らないことになっている。オレガノはバジルを評価するために、名前からの印象を聞き出そうとしているのだ。
(知らないことにしておいた方がいいよな……)
わざわざ名前には伏せられていた件だ。それをバジル自ら明かしたとあっては、彼に対する心証も悪くなる。名前はわざとゆっくりとイカを咀嚼しながら、返すべき言葉を探した。
「……今、プライベートで呆れるほど鬱陶しいことが起きているので、バジルくんくらいの気づかいがちょうどいいですね」
嚥下に少しの心配もいらないほどやわらかくなったイカを飲み込み、名前はオレガノとラル・ミルチに笑ってみせた。これは名前の、率直な感想だった。
どこかの誰かと比べれば、昨日からのバジルの気遣いは決して大げさではなく、困惑を生むようなものでもない。カフェに行けば飲み物が切れるのを見計らって新たに注文してくれたり、道を歩けばさりげなく車道側を歩いてくれたり――誰にでもできそうなさりげない気遣いを、バジルは嫌味なく残していく。何より彼は、名前がやめてほしいと言ったことは強行しない。その点は、どこかの誰かに比べればかなり評価が高かった。
「それに、すごく私のことを知ろうとしてくれてるのを感じるので……もしかしたら他の子だったら、何か勘違いしてたかもしれません」
「あなたはそうは感じないってこと?」
「仕事ですから」
名前の返答に、オレガノはあっさりと納得した様子だった。それもそうかと頷いて、いつの間にかテーブルの端に置かれていたオリーブをかじる。それからふと、表情をかえた。過去を懐かしむような、それでいて困ったような横顔。どこか遠くを見るオレガノに、名前は少し落ち着かない気分で次の言葉を待った。
「……あの子、本当にまじめでしょう? 子どものときからずっとそうなの」
「長いお付き合いなんですね」
「ええ。昔から聞き分けが良くて、素直で、まじめで……大人としてはある意味扱いやすかったけど、その分、遊びを知らないのがずっと心配だった」
「遊びですか」
「勉強だけじゃ人間は人間にならない。自由な遊びや体験を通して、人は人として成長していく。遊びの中には恋愛も含まれるわ。……でもあの子ったら、全然。何か遊びに誘っても、全部修行だと勘違いして」
「あれは家光の悪影響だ」
「親方様には親方様の考えがあるの! それに奇跡的なほどまっすぐな子に育ったでしょう!」
「俺にキレるな。……だがまあ、バジルの人生経験は極端に偏っているという点は同意する。本来なら生活の中で自然と経験し、学ぶべきことが欠落しているときがある」
「欠落、ですか?」
「そう。学校生活とか想像してもらえるといいかしら。ああいう場所で、同年代の子たちと過ごす経験がほとんどなかった。できるだけ私たちがそれを補おうとがんばったんだけど、ほら、恋愛に関してはどうにもならないじゃない? それで恋愛経験が限りなく薄いまま、あの子の10代が過ぎ去ってしまった……」
「そもそもあいつに女がいたことがあったのか? CEDEFの人間以外と談笑しているところすら見たことがない」
「ラル、さすがに0ではないと思うわ。1年くらい前にターメリックとこそこそやってた時期があったもの。……玉砕したみたいだけど」
「……というわけで、うちのやつらはどいつもこいつもバジルには甘い。今回の任務も甘やかしの極みだ。女の扱い方を学ぶなどと言えば聞こえはいいが、結局のところは疑似恋愛体験のようなことまでさせて……仕事でやらせることではないと、何度家光に言ったことか」
「でもこうでもしないと、いずれ任務に差し障ることは事実だし」
「……最初にも言ったが、こいつらの子育てに巻き込まれたことには同情している。だがそれはそれ、これはこれだ。任務として命令が下ったからには俺も本気でお前たちを指導するし、手を抜くつもりも、抜かせるつもりもない。それだけは理解しておけ」
ラル・ミルチの冷静な意見に、名前は静かに頷いた。思いがけずバジルの、あまり公にすべきではなさそうな情報を得てしまったことには動揺したが、彼女の言う通りバジルの生い立ちと仕事は関係がない。特に名前にとっては、深入りすべき話題ではないことは明白だった。おそらくラル・ミルチもそれを伝えたいのだろう――先入観と同情を任務に持ち込むなと、そう言いたかったに違いない。
「今のお話は、アルコールと一緒に忘れることにします」
「あ……そうね、ごめんなさい。つい口がすべっちゃった。……じゃあ仕事の話はこれでおしまい! 楽しい話をしましょう!」
軽く両手を合わせて、オレガノはわざとらしく明るい声を上げた。それから新たなボトルと名前のためのフルーツジュースを追加で注文し、残っていた白ワインをすべて自身のグラスに注ぐ。さすがに飲みすぎではないかと心配になったが、ラル・ミルチが窘めることなく平然と新しいボトルに手を伸ばしたのを横目で確認し、彼女たちと自分の体質の差を思い知ることとなった。
ようやく1杯目のワインを飲み干し、名前もオリーブに手を伸ばす。たった1杯とはいえ、すでに少し酔いが回ってきている。鈍くなってきた思考の回転にうんざりしながら、名前はオリーブを噛み砕いた。
「名前はどうなの? さすがにバジルほど壊滅的じゃないわよね?」
「人生経験ですか?」
「恋愛経験! 恋人はいないって言ってたけど、好きな人は?」
先ほどまでとは打って変わって、オレガノは身を乗り出すような勢いで問いかけた。理知的なはずの瞳がきらきらと輝いて見えるのは、決して見間違いではないだろう。どうやら恋愛の話は、万国共通で盛り上がる話題であるらしい。
「好きな人もいません」
「じゃあさっきの鬱陶しいっていうのは? 話の流れ的に異性のことだと思ったんだけど」
「あー……あれは……まあ、異性と言えば異性ですが」
「もしかしてアプローチされてるとか?」
「そうと言えば、そうなんですけど……」
「煮え切らんな。簡潔に言え」
「えっと……なんと説明すればいいのやら……」
ディーノの件は、あまり話題に上げたいことではなかった。他人に話したところで何か解決するわけでもないし、自分の口から説明するとおこがましさのようなものを感じる気もする。
(あ、でも、あの人と同じ国の女性に聞いてみるのはいいかも……?)
ディーノの言動は名前にとってあまりに不可解だ。それほど自覚はなかったものの、夢に見るほど悩んでもいる。彼が勘違いに気が付くまで放置するつもりでいたが――2人から助言をもらうことで、何か解決への糸口が見つかるかもしれない。
もごもごと言いよどんでいた口をはっきりと開き、名前は2人に現状を伝えてみることにした。
「ええと……確かに今、アプローチしてくれている男性がいます。その人は私の初恋の人で」
「え! 両想い!?」
「半年くらい前になんやかんやあって諦めた人だったんです」
「それは……なんてタイミングが悪い男なの……」
「本当に……。で、何度も付き合う気はないし、心変わりもしないって断ってるのに、めげずにガンガン押してくるんですよね……」
「……それは例えば、頼んでもいないのに強引に食事に連れていったり、気が狂いそうになるほどメールや電話が来たり、普通の会話の5秒に1回口説き文句を挟んできたり……そういうことか?」
「すごいですね、まさにその通りです」
「あれはイタリア男だけの習性だと思っていたが、違ったのか……」
「そうね、日本人の男の子ってシャイなイメージがあったから、意外だわ」
「あはは」
その人イタリア人ですという本音を飲み込み、名前は乾いた笑いを浮かべる。
「というかラルもずいぶんと熱烈なアプローチをされてたのね。初耳だわ」
「……俺のことはどうでもいい。それで、その半ストーカー男をどうするんだ。訴えようと思えばおそらく勝てるぞ」
「そ、そこまではさすがに……。でもそれがまさに悩みの種で、いったいどうしたら諦めてくれるのかと」
「どうして? 付き合ってみればいいじゃない」
オレガノはあっけらかんとしてそう言った。
「元は名前だって好きだったんでしょ? なら一度付き合ってみて、それでダメなら別れれば?」
「意外と……フットワーク軽いですね」
「正直に無鉄砲と言ってやれ。仕事では慎重なくせに、プライベートとなると途端にこれだ。今までそのやり方で何度失敗して泣きを見たか忘れたのか」
「つ、付き合ったからダメな男だって分かって離れられたの。別に方法が悪いわけじゃない」
「そうだな、悪いのはお前の男を見る目だ」
「う……じゃ、じゃあラルならどうするの?」
「自分の本心に従う」
あっさりとした、しかし確信に満ちた声音。思わず視線を向けると、ラル・ミルチも同様に名前を見ていた。まるで値踏みでもするように、いつも不機嫌そうなつり目が名前の瞳を覗き込む。
「何故、そいつの好意を拒む。そいつのことを嫌っているのか」
「別に嫌いなわけではないです。尊敬している部分もあります」
「そうなの? だったらなおさら、付き合わない理由が分からないわね」
「いやー……だってあれ、間違いなく何か勘違いしてますもん」
「……勘違い?」
「あの人が私のことなんか好きになるわけない……ってくらい、こう、すてきな感じの人なので」
「? でも好きだって本人が言ってるんでしょう?」
「あれは何か別の感情を取り違えてるんだと思います。そのくらい……ありえないことです」
「……それがお前の本心なら特に言うことはない。だが違うというのなら……後悔しない選択をすることだ。いくら悔いても、取り戻せないものもある」
「……何か、後悔したことが?」
「……俺の話はどうでもいい」
吐き捨てるようなラル・ミルチの言葉に、名前もそれ以上の深追いはしなかった。彼女は誰にでも愛想をふりまくタイプではない。それがわざわざ名前にこのような忠告をするとは、よほど名前のことを気に入ったのか、あるいは――名前の状況と彼女の過去の経験を重ね、思うところがあったからだろうか。自分自身に対する助言よりもラル・ミルチに対する興味が湧く。しかし彼女の、それ以上踏むこむことは許さないと言わんばかりの冷えた瞳に射貫かれ、口を閉ざすことにした。
客足がピークを迎えた店内がにわかに騒がしくなり、数秒の無言の間を埋める。しかしすぐに気を取り直したオレガノが、今度は名前の過去の恋愛について質問を始めた。どうやらオレガノは恋愛に関して一家言あるらしく恋愛トークは彼女による恋愛講座へと発展し、ほとんど聞き流しているふうのラル・ミルチに代わり、名前はひたすらに相槌を打つこととなった。