本戦2:恋の悩みを知る君は
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梅雨も終わりに近い、けれどじっとりと湿り気を帯びた夜。草壁お気に入りの中華料理屋の、使い古された木製のテーブルの向こう側で、ディーノはただひたすらに満足げな笑顔を浮かべていた。ニコニコ、ニコニコ。あまりに上機嫌な様子に気まずさを覚えた名前は、湯気が昇る焼きたての餃子に伸ばしかけた箸を止めた。
「……なにか?」
「何食べててもかわいいなと思って」
にっこりと笑ってよどみなく、しかし理解しがたい言葉を吐き出すディーノに、名前は頭を抱えたくなる衝動を抑えてひとまずコップを手にとった。結露の不快な感触をやりすごし、冷えた水を一口飲み下す。口から飛び出してしまいそうになった本音も一緒に胃の奥へ――そう意図しての行動だったが、どうにも口が言うことを聞かない。
「頭どうにかしちゃったんですか」
口を引き結ぶ前に端から漏れた本心にも、ディーノはいっそううれしそうに笑った。いよいよこの人の頭はおかしくなってしまったらしい。名前は絶望的な気分で視線をテーブルの上へと落とす。
春先から始まったディーノの奇行は、梅雨の只中に至るまで続いていた。
なんと彼は名前に恋をしたのだと言う。
正直なところ、最初はまったく理解が追い付かなかった。何を言っているのかと戸惑い、彼の意図するところが分からず困惑し――しかし決して自分が、彼の思いに応えることはないという強い確信だけが胸の内に存在していた。
「……無駄なことはやめませんか。何度告白されたとしても、褒められたとしても、ご飯ごちそうしてもらったとしても、私があなたの思う通りに頷くことはありません」
「別にいいさ。何度だって好きだって言いたいのも、かわいいと思ったらすぐに伝えちまうのも、うまいもの食わせてやりてーなって思うのも、全部俺がそうしたいからやってるってだけだからな。何かリターンを求めてるわけじゃない……とまで言いきるには、多少下心はあるが。でも、今すぐイエスが返ってこなくたって構わない」
「今すぐじゃなくても返ってきませんって」
「その辺は俺の努力次第ってことで」
「そもそも、絶対に勘違いですよ、それ」
「どれ?」
「私のこと好きになったとか、そういうの」
一度止めた箸を持ち上げ、食事を再開した。ほとんどどんぶりと呼んでもいいような茶碗に盛られた白米を口の中に詰め込み咀嚼している間も、思考は目の前の男の動機についてぐるぐると回り続けている。
名前には、ディーノが自分のことを好きになるはずがないという確信があった。今、彼がこうして好意を訴えてくるのは別の感情を取り違えているだけだろうと考えていたし、いずれ勘違いに気が付きこの求愛行動のようなものもなくなっていくだろうと予想している。だから彼が決まり文句のように「好きだ」と口にするたびに否定し続けていたのだが、当のディーノは苦笑するばかりで真剣に取り合おうとはしなかった。それどころかそんな名前を見て、さらに戯言を重ねていく。
「相変わらず自分の口の積載量分かってないんだな。そういうちょっと抜けてるところもかわいいぜ」
「……」
少し白米を口に詰めすぎていつまで経っても咀嚼が終わらないというだけでこの様だ。この前日は道路でつまずいた名前を見て「神様が俺の腕の中にかわいい人を放り込もうとしてくれたんだな。ちょっと位置がずれたけど」と笑っていたし、翌日はただインスタントコーヒーを淹れてやっただけで「どんなカフェのコーヒーよりうまい。うちのバリスタになるか?」などと半分本気のような顔で言っていた。それ以外にも思い出そうとすればいくらでも彼の、おそらくイタリア流の口説き文句が頭に浮かぶ。
(ある意味すごいけども)
あの手この手で名前の言動を口説き文句に結びつける手腕は見事なものだ。しかしいちいちそのような言葉を向けられてはさすがに少し鬱陶しい。もしやふざけて名前をからかっているのだろうかと疑心暗鬼になった時期もあったが、そういうふうにも見えなかった。とにかく彼が名前を見る目はいつもどこか慈しむようなぬくもりを携えており、それから何故か、とてつもなく幸せそうに見えた。
(……だからといってあそこまでペラペラ口説き文句並べられればいやにもなる。私にその気はない。きっとあの人も勘違いをしてるだけだ。だって私みたいなのを好きになるわけがない)
そう考えれば考えるほど、ディーノの言葉や行動にうんざりしていった。何度断っても聞く耳を持たず、いくら勘違いをしているだろうと問いかけてもまともに受け止めようとしないディーノにいらつきもした。しかし最早その段階も通り過ぎ、今やただただ頭を抱えながら彼の好きにさせるしかないような状況になっているのが現実だった。かろうじて必ず拒否を示すことだけはしているが――彼が現状に飽き、勘違いを自覚するまで放置するしかないと、半ば諦めているような部分もある。
(……とはいえ、うんざりするものはうんざりするけども)
――目を開くと、ようやく少し見慣れてきた天井が見えた。一人暮らしを始めたときに購入した安物とは異なる、程よく体が沈むベッドの上。カーテンの隙間から入り込んだ朝の日差しを浴びながら、名前はげっそりした気分で体を起こす。
(夢に見るほどうなされるとは……)
この数カ月間、ひたすらに浴び続けたディーノによる口説き文句がひたすらに繰り返されるばかりの夢を見た。ディーノには悪いが、悪夢と呼んでも差し支えなさそうな内容。寝覚めはすこぶる悪い。まぶたは重いし、頭もはっきりとせず、まったく眠った気がしない。時計を見れば、あと20分でアラームが鳴ろうかという時間だった。
(……二度寝したら確実に時間過ぎる。起きるしかない)
一度だけ大きなあくびを漏らし、名前はひとまずシャワーを浴びることにした。今朝はバジルと近所のカフェで一緒にモーニングを取ることを約束していたから、遅れるわけにはいかない。克明に思い出すことができる夢の残り香を振り払いながら、名前はだるさを感じる手足を引きずるようにシャワールームに向かった。
シャワーを浴び、身支度を整え、すっかり目覚めたつもりの名前だったが、待ち合わせたカフェのテーブルに座ると、バジルは開口一番心配そうに名前の顔を覗き込んだ。
「お疲れのようですね。体調はいかがですか?」
「大丈夫。ちょっと早く目が覚めたから、眠いだけだと思う」
ひらひらと手を振って見せると、バジルは心配そうにしながらもそれ以上深追いしてくることはなかった。
「今日こそは50点を目指したいところですね」
レジでオーダーしてきた大量の焼き立てのクロワッサンといくつかのマフィン、それにフレッシュなオレンジジュースを順番に頬張りながら、バジルは今日の意気込みを語った。前日のオレガノによる採点は30点だった。初日よりはずいぶんと距離が縮まったように見えたが、まだまだ恋人には程遠いというのが採点理由だ。何故かバジルは50点にこだわっており、なんとしてでもその点数を越えたいらしい。昨夜も同じようなセリフを言って、ホテルの前で名前に手を振った。
(そういえば、点数が低いと任務に出られない可能性も、とか言ってたっけ)
パリパリに焼き上げられた生地にチョコレートが練りこまれたクロワッサンにさらに有名なヘーゼルナッツスプレッドをぬりたくるバジルをぼんやりと観察しながら、名前も同じようにクロワッサンを手に取る。おそらく名前には知らされていないだけで、バジルにのみ課せられたミッションも存在しているのだろうとは初日から考えていたことだった。
名前としてはできる限り協力したいところだが、いかんせんその内容が共有されるとも思えない。やはり名前にできるのは恋人の演技に協力することだけで、ひとまず50点を越えたいのならば自分もその努力をするのが筋のような気がした。
「……好きなんだね、食べるの」
そのためにはまずは相手を知るところから。前日の反省を踏まえて質問してみると、バジルはピタリと動きを止めた。それからうろうろと視線を泳がせ始める。何かまずいことを聞いてしまったのかと狼狽えるも、すぐに杞憂だったと結論が出た――どうやらバジルは、照れているらしかった。
「お恥ずかしいのですが、その、いつも人一倍食べてしまって」
もごもごと言葉をつなげる様子は、はっきりとした口調の彼には珍しい姿だった。名前よりも大きいはずの体が小さく見え、思わず名前は笑いを漏らす。
「へえ、意外かも」
「よく言われます。見た目からは想像できないと」
「分かる。私も結構食べる方だから」
「そうなのですか? そのような印象はありませんが……」
「だってほら、お恥ずかしいじゃん?」
先ほどのバジルの言葉を冗談めかしてそのまま返す。バジルはきょとんとしたあと、すぐに表情を崩した。
「さすがに初対面の相手の前で気が済むまで食べるわけにもいかないし」
「分かります。そもそも朝からこの量を食べていると、オレガノたちにすらすごい顔をされてしまって」
「こっちだと朝ってあんまり食べないんだっけ?」
「大抵はビスケットにコーヒーで済ませてしまうようですね。しかしそれではランチ前に空腹になって、結局間食を」
「それで周りからまた食べてる、とか言われたり?」
「まさしく……」
「そこは日本の方がいいかなあ。三食しっかり食べられるのって変じゃないし」
「! 日本の朝食とはどのようなものなのですか? 以前、沢田殿のお母上に振る舞っていただいたことはあるのですが」
そこからはクロワッサンを食べながら、日本の食事についての質問責めにあった。何を食べるのか、イタリアの食卓と何が異なるのか、どのようなメニューがスタンダードな家庭料理なのか。どうやらバジルは日本文化に興味があるらしく、目をキラキラと輝かせて質問を重ねていく。家庭料理の歴史的変遷について聞かれた際には、とうとう名前も苦笑とともに両手をあげた。そこでようやくバジルもハッとして、恥じ入るように口を閉ざす。
「申し訳ありません……どうにも好きなことの話となると熱が入ってしまって……」
「別にいいよ。意外な面が見えた感じがする」
「……恥を忍んで伺いたいのですが、意外というのはどの辺りがでしょうか」
バジルは少し声のトーンを落として名前に問いかけた。
「諜報任務では、自分が相手からどのように見られているかを理解したうえで振る舞わなければなりません。しかし拙者は自分自身が他人にどのような人間だと思われているのかが分からず、思ったようにいかないこともあるのです」
「うーん……私もまだ会ったばかりだからなんとも言えないけど……」
名前は視線をテーブルの中央に移して、しばらく思考を巡らせた。まだバジルに関する情報は少ない。けれどいくつか、自分なりに抱いた印象はあったし、初対面のイメージとは異なる部分も見えてきた。それをどのように伝えようかと、言葉を選ぶ。山のように皿に盛られていたはずのクロワッサンは、すでに残り3個となっていた。
「……なんかこう、生真面目な感じ?」
「……それもよく言われます。自分としては単純に任務をまっとうしようとしているだけなのですが、どの言動がそのイメージを生んでいるのか見当もつかず」
「一番は話し方かなぁ」
「口調、ですか」
「その敬語と、ハキハキ話す感じ? すごくまじめそうに見える。あとあんまり感情の起伏が見えないからすごく穏やかなしっかり者に見えて……その相乗効果かな。振る舞い方も大人びた感じがするけど……たぶんそれも大げさなところとかがないからのような気がする」
「なるほど……」
「だからたくさん食べるところとか、うきうき質問してくるところとか、そういうの見ると意外だなって思うんじゃないかな。……違ってたら申し訳ないけど」
「いえ、とても参考になります。問題はそのご指摘をどのように活かすか、という点ですね」
「あー、たぶんだけど、意図的に使い分けられたらやりやすいよね、いろいろと」
オレンジピール入りのクリームが入ったクロワッサンを半分に割りながら、名前は自身のこれまでの仕事のことを思い起こした。偉そうに講釈するほどの経験はないが、それでも名前なりに、意識的に行っていたことがある。
「私も見た目だけならそれなり~におとなしく、それなり~にまじめに見えるんだけど」
「はい。そのようなイメージを持っていますが……違うのですか?」
「違いますね。それで勘違いされて面倒なことになったりもするし。……でもいいこともあるわけで」
「例えば、どのような?」
「油断してもらえる」
半年前のイタリアでの任務は、まさしくその一言に尽きた。匣や指輪の強奪を続けていたチンピラたちはもとより、ディーノですら名前を一般人だと思い込んで疑いすらしなかった。そのあとのドン・ピピストレッロとて同じだろう。名前を人畜無害で隙だらけな少女と認識していたからこそ、あそこまで話を聞き出すことができたのだ。
「私は諜報ってほど本格的な仕事してるわけじゃないけど、でも自分がどういうイメージ持たれるか自覚してるってだけで、かなりやりやすくなる場面がある。バジルくんはその使い分けができたら、もっといろんな仕事できるんじゃないかな」
「使い分け……」
「……ちなみにだけど、ただまじめで一直線なだけの性格じゃないだろうなっていうのも、なんとなく感じてる。きっと私に言ってないことがあって、それを平然と隠し通せるようなところもありそうだし、見た目以上に冷静な人なんだろうなって……今のところ思ってる」
「……それは、どこかで拙者がそのように感じさせてしまったのでしょうか」
「いやいや、だってこれ、私の方も仕事だから。それが当然でしょ」
「では仕事でなければ、そのようには感じませんでしたか?」
「……50点って何回も言ってたから、きっと本当に任務に行けるかどうかがかかってる大切なテスト期間なんだろうな~とは思ったかも」
「完敗です……」
がっくりと肩を落としたバジルに、名前は慌ててクロワッサンを皿に戻した。まさかこんなにも落ち込んでしまうとは予想していなかったのだ。何か励ますような言葉を探し、しかしうまい言葉も見つからず、意味もなく口を上下させる。名前の様子に気が付いているのか否か、バジルは苦く笑って顔を上げた。
「人をだますことに嫌悪を感じる……などということはまるでないのですが、うそをつくことがあまり上手ではないらしく」
「そ、そうなんだ」
「特に女性に対して……俗にいうハニートラップを仕掛けろと言われてもなかなかうまくいかないのです」
「まさかそれで今回の任務が組まれたと……?」
「相手が協力的であってなお心をつかむことができないようでは、今後の仕事に差し支えると、仲間たちが」
「……うん? ってことは私、ハニートラップを仕掛けられていた?」
「そういうわけではないのですが、本気で名前殿を落とすつもりでいけと、オレガノからは言われていました。とはいえどうしたら良いのかが分からずこのざまですが……その最低限の合格点数……名前殿が拙者に心を開いているか否かの基準が、50点というわけです」
「おお……なんという人選ミス……」
そもそも相手が悪かったと、名前は自分のことながらバジルに同情するほかなかった。いくらバジルの「本気」が拙いものであったとしても、相手が名前だ。現在進行形で元初恋の人物に迫られてもうんざりしているような女に、赤の他人の口説き文句など効果があるわけがない。
申し訳ない気分になりながら、名前は何かバジルのためになることはないかと必死に思考を巡らせる。
(えーと……要はバジルくんが好きでもない女を口説き落とせるようになればいいわけだよな。その取っ掛かりになるような練習台になってあげればいいと。でも本当に私の心を開くというのは雲雀さんくらいにしかできない芸当なわけで……うーん……かといってバジルくんに何か教えるほどの技術が私にあるわけでもなし……)
もしこれが自分の任務であったらと、名前は考える。意図的に異性に近づき、思わせぶりな態度をとって、情報を引き出す。あるいは自分の思うままに操る。そのために必要なスキルとはなんだろうかと、これまで得た知識と経験に照らしていく。
ふと思い当たったのは、昨日の会話と半年前の自分自身だった。
「あのさ、昨日の居心地の良さって話があったでしょ」
「恋人らしさのお話ですね」
「そうそう。私たちはお互いを知ることで緊張感をなくそうって話になったけども……もうちょっと具体的に言うと、相手のことを知るだけじゃなくて、受け止めることが重要だと思うんですよ」
「受け止める、ですか?」
「例えば……うーん……あ、私はバジルくんが大食いだってさっき知ったよね。でも口に出さなかったら、バジルくんはそれに気が付かなかった」
「はい」
「私がそれを指摘して、どう思った?」
「え? は、恥ずかしいなと。しかしそのあと名前殿はバカにしたり笑ったりしなかったので、少し安心もしました」
「それそれ。それですよ」
「え?」
「そうやって素の自分のことを否定されないで受け止めてもらうとさ、この人は自分のこと分かってくれるし、もう少し自分のことさらけだしてみようかな~って……安心してくれるんじゃないかなって思ったんだけど」
それはまさしく名前がディーノに対し、無意識に感じたことだったのだろう。
話すつもりがなかった過去の話。いつも心の中だけに留めている自分だけの現実。3月の公園でそれを彼に打ち明けてしまったのは、彼が名前の話を否定せずに聞いてくれたことが要因として大きい。今になって思えば、そもそもは自分のありのままに近い姿を否定されなかったこと自体に、大きな安心感も抱いていたのかもしれない。この人なら受け止めてくれると、もしかしたら頭のどこかで考えていたのだろう。
(あれは仕事じゃなかったけど)
しかしもし仕事としてあの経験を活かすならば、意図的にディーノのような振る舞いをすることは不可能ではない。
「……私がハニトラをする側だったら、とにかく相手の気持ちを全部肯定するな。どんなこと考えてようと、自分の価値観とはまるで違ってても、ひたすら肯定し続ける」
「それで相手が心を開くのを待つわけですね。肯定されて不快な気分になる人間などいない」
「そしてその合間にゲットした個人情報でとにかくもてなす。好きな食べ物とか覚えておいて一緒に食べに行ったり、好みのブランドのものプレゼントしたり。あ、私の話覚えててくれたんだ~ってなるよね、絶対」
「なりますね。そしてそのうち相手の思考パターンなども読めるようになり、先回りして気をつかうこともできるようになる、と。それが分かるまでは一般的なマナーでやりすごしておけば問題ありませんし……これですべてがうまくいくわけではないでしょうが、何かの助けにはなるような気がします」
背負っていたどんよりとした空気が霧散し、バジルはパッと明るい表情を見せた。名前の話を聞き、何かの気づきを得たらしい。名前は内心でほっと胸をなでおろし、食べかけのクロワッサンを手に取る。
「まあ今の私たちがこの練習をしたところで目的が丸わかりだから本当に心を開くことにつながるわけではないし、警戒心云々の話は昨日バジルくんが言った通りだとは思うけど」
「……ではゲームのように考えるのはいかがでしょう」
「ゲーム?」
意外な提案に視線を持ち上げると、同じくクロワッサンを手に取ったバジルが朗らかに頷く。
「お互いの心を開くゲームです」
「なにそれ」
「この10日間……すでに数日過ぎてしまいましたが……共に過ごす時間を少しでも楽しめれば、と思ったんです。いったいどういう言動が相手に響くのか探り、実行していく。ゲーム感覚ならおもしろそうではないですか? ……名前殿、実は負けず嫌いでしょう?」
「え、なんで?」
「初日のテストのときから、なんとなく。正解ですか?」
「……どうかな」
「かく言う拙者もこれでかなりの負けず嫌いなんです。勝負と参りましょう」
挑戦的に細められるアイスブルーにしばし逡巡する。確かに名前は根っからの負けず嫌いだではあるが、勝負事ならばなんでも熱くなるというわけでもない。しかしせっかくバジルが気をきかせてくれたのだから、無下にする理由もない。
「いいね。結果報告は、最終日のパーティーの帰り道でということで」
「承知しました」
軽く笑って頷いてみせると、バジルはうれしそうにクロワッサンを口に運んだ。いつの間に胃に収めていたのか、残っているのは名前の手元のひとつだけで、名前はほんの少しだけ呆れた気分になりながらすっかり水滴まみれになってしまったコップに手を伸ばした。
「……なにか?」
「何食べててもかわいいなと思って」
にっこりと笑ってよどみなく、しかし理解しがたい言葉を吐き出すディーノに、名前は頭を抱えたくなる衝動を抑えてひとまずコップを手にとった。結露の不快な感触をやりすごし、冷えた水を一口飲み下す。口から飛び出してしまいそうになった本音も一緒に胃の奥へ――そう意図しての行動だったが、どうにも口が言うことを聞かない。
「頭どうにかしちゃったんですか」
口を引き結ぶ前に端から漏れた本心にも、ディーノはいっそううれしそうに笑った。いよいよこの人の頭はおかしくなってしまったらしい。名前は絶望的な気分で視線をテーブルの上へと落とす。
春先から始まったディーノの奇行は、梅雨の只中に至るまで続いていた。
なんと彼は名前に恋をしたのだと言う。
正直なところ、最初はまったく理解が追い付かなかった。何を言っているのかと戸惑い、彼の意図するところが分からず困惑し――しかし決して自分が、彼の思いに応えることはないという強い確信だけが胸の内に存在していた。
「……無駄なことはやめませんか。何度告白されたとしても、褒められたとしても、ご飯ごちそうしてもらったとしても、私があなたの思う通りに頷くことはありません」
「別にいいさ。何度だって好きだって言いたいのも、かわいいと思ったらすぐに伝えちまうのも、うまいもの食わせてやりてーなって思うのも、全部俺がそうしたいからやってるってだけだからな。何かリターンを求めてるわけじゃない……とまで言いきるには、多少下心はあるが。でも、今すぐイエスが返ってこなくたって構わない」
「今すぐじゃなくても返ってきませんって」
「その辺は俺の努力次第ってことで」
「そもそも、絶対に勘違いですよ、それ」
「どれ?」
「私のこと好きになったとか、そういうの」
一度止めた箸を持ち上げ、食事を再開した。ほとんどどんぶりと呼んでもいいような茶碗に盛られた白米を口の中に詰め込み咀嚼している間も、思考は目の前の男の動機についてぐるぐると回り続けている。
名前には、ディーノが自分のことを好きになるはずがないという確信があった。今、彼がこうして好意を訴えてくるのは別の感情を取り違えているだけだろうと考えていたし、いずれ勘違いに気が付きこの求愛行動のようなものもなくなっていくだろうと予想している。だから彼が決まり文句のように「好きだ」と口にするたびに否定し続けていたのだが、当のディーノは苦笑するばかりで真剣に取り合おうとはしなかった。それどころかそんな名前を見て、さらに戯言を重ねていく。
「相変わらず自分の口の積載量分かってないんだな。そういうちょっと抜けてるところもかわいいぜ」
「……」
少し白米を口に詰めすぎていつまで経っても咀嚼が終わらないというだけでこの様だ。この前日は道路でつまずいた名前を見て「神様が俺の腕の中にかわいい人を放り込もうとしてくれたんだな。ちょっと位置がずれたけど」と笑っていたし、翌日はただインスタントコーヒーを淹れてやっただけで「どんなカフェのコーヒーよりうまい。うちのバリスタになるか?」などと半分本気のような顔で言っていた。それ以外にも思い出そうとすればいくらでも彼の、おそらくイタリア流の口説き文句が頭に浮かぶ。
(ある意味すごいけども)
あの手この手で名前の言動を口説き文句に結びつける手腕は見事なものだ。しかしいちいちそのような言葉を向けられてはさすがに少し鬱陶しい。もしやふざけて名前をからかっているのだろうかと疑心暗鬼になった時期もあったが、そういうふうにも見えなかった。とにかく彼が名前を見る目はいつもどこか慈しむようなぬくもりを携えており、それから何故か、とてつもなく幸せそうに見えた。
(……だからといってあそこまでペラペラ口説き文句並べられればいやにもなる。私にその気はない。きっとあの人も勘違いをしてるだけだ。だって私みたいなのを好きになるわけがない)
そう考えれば考えるほど、ディーノの言葉や行動にうんざりしていった。何度断っても聞く耳を持たず、いくら勘違いをしているだろうと問いかけてもまともに受け止めようとしないディーノにいらつきもした。しかし最早その段階も通り過ぎ、今やただただ頭を抱えながら彼の好きにさせるしかないような状況になっているのが現実だった。かろうじて必ず拒否を示すことだけはしているが――彼が現状に飽き、勘違いを自覚するまで放置するしかないと、半ば諦めているような部分もある。
(……とはいえ、うんざりするものはうんざりするけども)
――目を開くと、ようやく少し見慣れてきた天井が見えた。一人暮らしを始めたときに購入した安物とは異なる、程よく体が沈むベッドの上。カーテンの隙間から入り込んだ朝の日差しを浴びながら、名前はげっそりした気分で体を起こす。
(夢に見るほどうなされるとは……)
この数カ月間、ひたすらに浴び続けたディーノによる口説き文句がひたすらに繰り返されるばかりの夢を見た。ディーノには悪いが、悪夢と呼んでも差し支えなさそうな内容。寝覚めはすこぶる悪い。まぶたは重いし、頭もはっきりとせず、まったく眠った気がしない。時計を見れば、あと20分でアラームが鳴ろうかという時間だった。
(……二度寝したら確実に時間過ぎる。起きるしかない)
一度だけ大きなあくびを漏らし、名前はひとまずシャワーを浴びることにした。今朝はバジルと近所のカフェで一緒にモーニングを取ることを約束していたから、遅れるわけにはいかない。克明に思い出すことができる夢の残り香を振り払いながら、名前はだるさを感じる手足を引きずるようにシャワールームに向かった。
シャワーを浴び、身支度を整え、すっかり目覚めたつもりの名前だったが、待ち合わせたカフェのテーブルに座ると、バジルは開口一番心配そうに名前の顔を覗き込んだ。
「お疲れのようですね。体調はいかがですか?」
「大丈夫。ちょっと早く目が覚めたから、眠いだけだと思う」
ひらひらと手を振って見せると、バジルは心配そうにしながらもそれ以上深追いしてくることはなかった。
「今日こそは50点を目指したいところですね」
レジでオーダーしてきた大量の焼き立てのクロワッサンといくつかのマフィン、それにフレッシュなオレンジジュースを順番に頬張りながら、バジルは今日の意気込みを語った。前日のオレガノによる採点は30点だった。初日よりはずいぶんと距離が縮まったように見えたが、まだまだ恋人には程遠いというのが採点理由だ。何故かバジルは50点にこだわっており、なんとしてでもその点数を越えたいらしい。昨夜も同じようなセリフを言って、ホテルの前で名前に手を振った。
(そういえば、点数が低いと任務に出られない可能性も、とか言ってたっけ)
パリパリに焼き上げられた生地にチョコレートが練りこまれたクロワッサンにさらに有名なヘーゼルナッツスプレッドをぬりたくるバジルをぼんやりと観察しながら、名前も同じようにクロワッサンを手に取る。おそらく名前には知らされていないだけで、バジルにのみ課せられたミッションも存在しているのだろうとは初日から考えていたことだった。
名前としてはできる限り協力したいところだが、いかんせんその内容が共有されるとも思えない。やはり名前にできるのは恋人の演技に協力することだけで、ひとまず50点を越えたいのならば自分もその努力をするのが筋のような気がした。
「……好きなんだね、食べるの」
そのためにはまずは相手を知るところから。前日の反省を踏まえて質問してみると、バジルはピタリと動きを止めた。それからうろうろと視線を泳がせ始める。何かまずいことを聞いてしまったのかと狼狽えるも、すぐに杞憂だったと結論が出た――どうやらバジルは、照れているらしかった。
「お恥ずかしいのですが、その、いつも人一倍食べてしまって」
もごもごと言葉をつなげる様子は、はっきりとした口調の彼には珍しい姿だった。名前よりも大きいはずの体が小さく見え、思わず名前は笑いを漏らす。
「へえ、意外かも」
「よく言われます。見た目からは想像できないと」
「分かる。私も結構食べる方だから」
「そうなのですか? そのような印象はありませんが……」
「だってほら、お恥ずかしいじゃん?」
先ほどのバジルの言葉を冗談めかしてそのまま返す。バジルはきょとんとしたあと、すぐに表情を崩した。
「さすがに初対面の相手の前で気が済むまで食べるわけにもいかないし」
「分かります。そもそも朝からこの量を食べていると、オレガノたちにすらすごい顔をされてしまって」
「こっちだと朝ってあんまり食べないんだっけ?」
「大抵はビスケットにコーヒーで済ませてしまうようですね。しかしそれではランチ前に空腹になって、結局間食を」
「それで周りからまた食べてる、とか言われたり?」
「まさしく……」
「そこは日本の方がいいかなあ。三食しっかり食べられるのって変じゃないし」
「! 日本の朝食とはどのようなものなのですか? 以前、沢田殿のお母上に振る舞っていただいたことはあるのですが」
そこからはクロワッサンを食べながら、日本の食事についての質問責めにあった。何を食べるのか、イタリアの食卓と何が異なるのか、どのようなメニューがスタンダードな家庭料理なのか。どうやらバジルは日本文化に興味があるらしく、目をキラキラと輝かせて質問を重ねていく。家庭料理の歴史的変遷について聞かれた際には、とうとう名前も苦笑とともに両手をあげた。そこでようやくバジルもハッとして、恥じ入るように口を閉ざす。
「申し訳ありません……どうにも好きなことの話となると熱が入ってしまって……」
「別にいいよ。意外な面が見えた感じがする」
「……恥を忍んで伺いたいのですが、意外というのはどの辺りがでしょうか」
バジルは少し声のトーンを落として名前に問いかけた。
「諜報任務では、自分が相手からどのように見られているかを理解したうえで振る舞わなければなりません。しかし拙者は自分自身が他人にどのような人間だと思われているのかが分からず、思ったようにいかないこともあるのです」
「うーん……私もまだ会ったばかりだからなんとも言えないけど……」
名前は視線をテーブルの中央に移して、しばらく思考を巡らせた。まだバジルに関する情報は少ない。けれどいくつか、自分なりに抱いた印象はあったし、初対面のイメージとは異なる部分も見えてきた。それをどのように伝えようかと、言葉を選ぶ。山のように皿に盛られていたはずのクロワッサンは、すでに残り3個となっていた。
「……なんかこう、生真面目な感じ?」
「……それもよく言われます。自分としては単純に任務をまっとうしようとしているだけなのですが、どの言動がそのイメージを生んでいるのか見当もつかず」
「一番は話し方かなぁ」
「口調、ですか」
「その敬語と、ハキハキ話す感じ? すごくまじめそうに見える。あとあんまり感情の起伏が見えないからすごく穏やかなしっかり者に見えて……その相乗効果かな。振る舞い方も大人びた感じがするけど……たぶんそれも大げさなところとかがないからのような気がする」
「なるほど……」
「だからたくさん食べるところとか、うきうき質問してくるところとか、そういうの見ると意外だなって思うんじゃないかな。……違ってたら申し訳ないけど」
「いえ、とても参考になります。問題はそのご指摘をどのように活かすか、という点ですね」
「あー、たぶんだけど、意図的に使い分けられたらやりやすいよね、いろいろと」
オレンジピール入りのクリームが入ったクロワッサンを半分に割りながら、名前は自身のこれまでの仕事のことを思い起こした。偉そうに講釈するほどの経験はないが、それでも名前なりに、意識的に行っていたことがある。
「私も見た目だけならそれなり~におとなしく、それなり~にまじめに見えるんだけど」
「はい。そのようなイメージを持っていますが……違うのですか?」
「違いますね。それで勘違いされて面倒なことになったりもするし。……でもいいこともあるわけで」
「例えば、どのような?」
「油断してもらえる」
半年前のイタリアでの任務は、まさしくその一言に尽きた。匣や指輪の強奪を続けていたチンピラたちはもとより、ディーノですら名前を一般人だと思い込んで疑いすらしなかった。そのあとのドン・ピピストレッロとて同じだろう。名前を人畜無害で隙だらけな少女と認識していたからこそ、あそこまで話を聞き出すことができたのだ。
「私は諜報ってほど本格的な仕事してるわけじゃないけど、でも自分がどういうイメージ持たれるか自覚してるってだけで、かなりやりやすくなる場面がある。バジルくんはその使い分けができたら、もっといろんな仕事できるんじゃないかな」
「使い分け……」
「……ちなみにだけど、ただまじめで一直線なだけの性格じゃないだろうなっていうのも、なんとなく感じてる。きっと私に言ってないことがあって、それを平然と隠し通せるようなところもありそうだし、見た目以上に冷静な人なんだろうなって……今のところ思ってる」
「……それは、どこかで拙者がそのように感じさせてしまったのでしょうか」
「いやいや、だってこれ、私の方も仕事だから。それが当然でしょ」
「では仕事でなければ、そのようには感じませんでしたか?」
「……50点って何回も言ってたから、きっと本当に任務に行けるかどうかがかかってる大切なテスト期間なんだろうな~とは思ったかも」
「完敗です……」
がっくりと肩を落としたバジルに、名前は慌ててクロワッサンを皿に戻した。まさかこんなにも落ち込んでしまうとは予想していなかったのだ。何か励ますような言葉を探し、しかしうまい言葉も見つからず、意味もなく口を上下させる。名前の様子に気が付いているのか否か、バジルは苦く笑って顔を上げた。
「人をだますことに嫌悪を感じる……などということはまるでないのですが、うそをつくことがあまり上手ではないらしく」
「そ、そうなんだ」
「特に女性に対して……俗にいうハニートラップを仕掛けろと言われてもなかなかうまくいかないのです」
「まさかそれで今回の任務が組まれたと……?」
「相手が協力的であってなお心をつかむことができないようでは、今後の仕事に差し支えると、仲間たちが」
「……うん? ってことは私、ハニートラップを仕掛けられていた?」
「そういうわけではないのですが、本気で名前殿を落とすつもりでいけと、オレガノからは言われていました。とはいえどうしたら良いのかが分からずこのざまですが……その最低限の合格点数……名前殿が拙者に心を開いているか否かの基準が、50点というわけです」
「おお……なんという人選ミス……」
そもそも相手が悪かったと、名前は自分のことながらバジルに同情するほかなかった。いくらバジルの「本気」が拙いものであったとしても、相手が名前だ。現在進行形で元初恋の人物に迫られてもうんざりしているような女に、赤の他人の口説き文句など効果があるわけがない。
申し訳ない気分になりながら、名前は何かバジルのためになることはないかと必死に思考を巡らせる。
(えーと……要はバジルくんが好きでもない女を口説き落とせるようになればいいわけだよな。その取っ掛かりになるような練習台になってあげればいいと。でも本当に私の心を開くというのは雲雀さんくらいにしかできない芸当なわけで……うーん……かといってバジルくんに何か教えるほどの技術が私にあるわけでもなし……)
もしこれが自分の任務であったらと、名前は考える。意図的に異性に近づき、思わせぶりな態度をとって、情報を引き出す。あるいは自分の思うままに操る。そのために必要なスキルとはなんだろうかと、これまで得た知識と経験に照らしていく。
ふと思い当たったのは、昨日の会話と半年前の自分自身だった。
「あのさ、昨日の居心地の良さって話があったでしょ」
「恋人らしさのお話ですね」
「そうそう。私たちはお互いを知ることで緊張感をなくそうって話になったけども……もうちょっと具体的に言うと、相手のことを知るだけじゃなくて、受け止めることが重要だと思うんですよ」
「受け止める、ですか?」
「例えば……うーん……あ、私はバジルくんが大食いだってさっき知ったよね。でも口に出さなかったら、バジルくんはそれに気が付かなかった」
「はい」
「私がそれを指摘して、どう思った?」
「え? は、恥ずかしいなと。しかしそのあと名前殿はバカにしたり笑ったりしなかったので、少し安心もしました」
「それそれ。それですよ」
「え?」
「そうやって素の自分のことを否定されないで受け止めてもらうとさ、この人は自分のこと分かってくれるし、もう少し自分のことさらけだしてみようかな~って……安心してくれるんじゃないかなって思ったんだけど」
それはまさしく名前がディーノに対し、無意識に感じたことだったのだろう。
話すつもりがなかった過去の話。いつも心の中だけに留めている自分だけの現実。3月の公園でそれを彼に打ち明けてしまったのは、彼が名前の話を否定せずに聞いてくれたことが要因として大きい。今になって思えば、そもそもは自分のありのままに近い姿を否定されなかったこと自体に、大きな安心感も抱いていたのかもしれない。この人なら受け止めてくれると、もしかしたら頭のどこかで考えていたのだろう。
(あれは仕事じゃなかったけど)
しかしもし仕事としてあの経験を活かすならば、意図的にディーノのような振る舞いをすることは不可能ではない。
「……私がハニトラをする側だったら、とにかく相手の気持ちを全部肯定するな。どんなこと考えてようと、自分の価値観とはまるで違ってても、ひたすら肯定し続ける」
「それで相手が心を開くのを待つわけですね。肯定されて不快な気分になる人間などいない」
「そしてその合間にゲットした個人情報でとにかくもてなす。好きな食べ物とか覚えておいて一緒に食べに行ったり、好みのブランドのものプレゼントしたり。あ、私の話覚えててくれたんだ~ってなるよね、絶対」
「なりますね。そしてそのうち相手の思考パターンなども読めるようになり、先回りして気をつかうこともできるようになる、と。それが分かるまでは一般的なマナーでやりすごしておけば問題ありませんし……これですべてがうまくいくわけではないでしょうが、何かの助けにはなるような気がします」
背負っていたどんよりとした空気が霧散し、バジルはパッと明るい表情を見せた。名前の話を聞き、何かの気づきを得たらしい。名前は内心でほっと胸をなでおろし、食べかけのクロワッサンを手に取る。
「まあ今の私たちがこの練習をしたところで目的が丸わかりだから本当に心を開くことにつながるわけではないし、警戒心云々の話は昨日バジルくんが言った通りだとは思うけど」
「……ではゲームのように考えるのはいかがでしょう」
「ゲーム?」
意外な提案に視線を持ち上げると、同じくクロワッサンを手に取ったバジルが朗らかに頷く。
「お互いの心を開くゲームです」
「なにそれ」
「この10日間……すでに数日過ぎてしまいましたが……共に過ごす時間を少しでも楽しめれば、と思ったんです。いったいどういう言動が相手に響くのか探り、実行していく。ゲーム感覚ならおもしろそうではないですか? ……名前殿、実は負けず嫌いでしょう?」
「え、なんで?」
「初日のテストのときから、なんとなく。正解ですか?」
「……どうかな」
「かく言う拙者もこれでかなりの負けず嫌いなんです。勝負と参りましょう」
挑戦的に細められるアイスブルーにしばし逡巡する。確かに名前は根っからの負けず嫌いだではあるが、勝負事ならばなんでも熱くなるというわけでもない。しかしせっかくバジルが気をきかせてくれたのだから、無下にする理由もない。
「いいね。結果報告は、最終日のパーティーの帰り道でということで」
「承知しました」
軽く笑って頷いてみせると、バジルはうれしそうにクロワッサンを口に運んだ。いつの間に胃に収めていたのか、残っているのは名前の手元のひとつだけで、名前はほんの少しだけ呆れた気分になりながらすっかり水滴まみれになってしまったコップに手を伸ばした。