本戦2:恋の悩みを知る君は
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研修初日の夜。1日のスケジュールをすべてこなし、夕飯とシャワーを済ませた名前は、ぐったりとホテルのベッドに倒れこんだ。
午前9時からスタートした本日の研修は午前中は一般教養に関する座学、午後は座学のおさらいを兼ねた美術館でのデートが行われた。研修内容自体は興味深かったものの、短い期間内に潜入に堪えうる知識を身に着けるべく初日からぎゅうぎゅうに詰め込まれたスケジュールは時差ボケ中の体にはなかなか厳しく、午後はほとんど眠気との戦いとなってしまった。なんとか外面は取り繕って過ごしていたが夕方の抜き打ちテストの結果は散々で、ラル・ミルチによるスパルタ方式の補習が行われた。再テストで合格点が出せたのは18時を回ったころだっただろうか。その後バジルから1日の振り返りに誘われ、ホテルに帰り着いたのが20時過ぎ。オレガノが持たせてくれたテイクアウトのピザがなければ食事もとらずに眠っていたことだろうというくらいには、名前は疲れきっていた。
(疲れた……でもなんとなく、3人の人柄は分かった気がする……)
ふかふかの枕に顔を埋め、昨日からの3人の言動を思い返す。
ラル・ミルチは厳しい女性だ。言動はもちろんだが、妥協や甘えを許さず常にベストを求める。本日の抜き打ちテストや昨日の資料の件からもそのことは容易に知れる。その代わり面倒見はいいのだろう、名前が合格点に達するまでは叱責しながらも付き合ってくれた。軍人のような物言いがなければ、少し厳しい教師のような印象だった。
一方でオレガノは穏やかで気づかい上手な性格をしているらしい。1日中それとなく名前の体調を気にかけ、帰りがけには夕飯だけでなく明日の朝食も持たせてくれた。たださっぱりとした一面もあるようで、今日のバジルと名前の疑似デートに対しては笑いながら100点中20点と非常に低い評価をつけた。見るべきものはしっかりと見ているし、やるべきことはしっかりとやりきるタイプの女性であるらしい。
バジルは沢田の言う通り、まじめな青年だった。教養に関する知識などとうに会得しているだろうに復習になるからと名前の研修に付き合い、午後もしっかりと美術館の展示を見学していた。テストの点数ももちろん満点で、それでもなお振り返りまで行う優等生然としたバジルに、名前は思わず感心してしまった。
「オレガノの20点は、拙者たちの努力につけてくれた点数だそうです」
初日の様子を振り返っている最中、バジルは眉を八の字にしてそう言った。
「つまりまるで恋人同士には見えなかったということになります」
「うーん……どうすれば付き合ってるみたいに見えるんだろうね」
「名前殿がイタリアにいらっしゃる前に事前研修として恋愛映画を10本ほど鑑賞したのですが」
「そ、そうなんだ……10本も……」
「はい。もちろん役者の演技ですので大袈裟な部分はありましたが、確かに恋人関係になる前後では2人の間の雰囲気が異なるように思えました。物理的な距離感だけの問題ではなく、もっと他の何かがあるのだと思いますが……」
それからおよそ30分以上、オレガノに声をかけられるまで反省会は続いた。仕事が絡むことだったので名前も真剣に改善方法を検討したが、バジルはそれ以上に熱心にさまざまな案をホワイトボードに書き込んでいた。ひとまず明日は会話の回数を増やすことを目標に定めたらしく、別れ際にはのどあめを持参するなどと話していた。冗談が冗談に聞こえない辺り、彼の生真面目さの表れのように思えた。
(でも、まあ、なんとかやっていけそうだ……)
1日を終えて、名前は少しだけ安堵していた。バジルに限らず、ラル・ミルチもオレガノもとにかくまじめだ。仕事上割り切るべきものを割り切る冷静さも備えていそうだし、いきなり距離感を縮めてくるような図々しさもない。それらは名前にとって非常に重要なことだ。バジルだけは少々まじめすぎる印象があり、その点で若干の苦手意識を抱いたものの、それでも彼らと10日間行動を共にすることは、想像していたよりも苦ではなさそうだった。
(そうだ、スマホ……)
眠気はすぐそばまで迫っているが、今朝ホテルを出てから1度もスマホを見ていないことを思い出しサイドテーブルに手を伸ばした。バッグから出してそのままにしていたスマホを手に取り、ロックを外す。通知はひとつもない。雲雀や草壁――それにディーノからも、連絡はなかったようだ。ほっと胸をなでおろすと、急激にまぶたが重くなる。名前はそのまま意識を手放すようにして眠りに落ちた。
2日目の朝は、初日と比べれば幾分かすっきりと迎えることができた。昨日までの眠気が薄れ、思いのほか手足も軽い。身支度を整え朝食を済ませて部屋を出ると、1階のロビーでバジルと出くわした。
「おはよう。どうしたの?」
「少しでもお話ができればと思いまして」
どうやらバジルは昨日の振り返りで掲げた目標を有言実行するべく名前を迎えに来たらしい。迷惑ではなかったかと不安そうに尋ねるバジルに笑って大丈夫だと返し、名前はフロントにカギを預けてバジルと共に玄関を出た。
「朝食はホテルで?」
「うん。モーニングもついてるんだけど、昨日はオレガノさんがご飯持たせてくれたから」
「もしかしてパニーノですか?」
「よく分かったね」
「近所にオレガノ行きつけのパニノテカが。以前は拙者もよく持たされていました」
「そうなんだ。仲が良いんだね」
「長い付き合いになりますから」
他愛もない話をしていると、あっという間にCEDEFの本部に到着した。まだあまり慣れないロビーを通り抜け、エレベーターで上階へと向かう。本日の研修は昨日の続きで、教養の勉強らしいとバジルは言った。
「午後は昨日とは別の美術館に行くようにと言われています」
「あー……補習ってことかな……」
「はい。拙者たちにとってはリベンジ戦ということにもなります」
20点を超えるべくがんばらねばと意気込むバジルの横顔を見上げながら、名前はぼんやりと頭を動かし始める。昨日は眠気のあまり恋人云々まで考慮できずに過ごしてしまったから、20点というのは納得できる点数だった。しかし時差ボケも薄れてきたのだから、バジルの言う通りできる努力はするべきだろう。まずは午前中の座学をしっかりとこなすべく、名前は気合を入れることにした。
昨日に引き続き美術・芸術をメインとした一般教養の座学を終え、ランチのあとは歩いて美術館に向かった。散歩がてらという名前の提案をバジルが快諾してくれたからだ。
「たくさん話すっていうのは確かに効果的だと思うけど、無闇に世間話したって仕方ないとも思うんだよね。別に会話なんかしなくても、恋人っぽく見える人たちっているわけだし」
「会話にテーマが必要ということですか?」
「そういうわけでもないんだけど……でもまず、恋人っぽいってどういうことなのか知る必要があると思う」
「……確かに。映画10本程度ではまだまだその辺りが不透明です」
「だからこうやって街中歩きながらカップルっぽい人たち探して観察してみるのがいいかな、と」
「しかしオレガノの採点があります。せめて50点くらいまでは伸ばさねば、今回の任務自体が中止ということも」
「……できる限りゆっくり美術館まで行って道中は観察をする。美術館に着いたら観察したことを活かして実践……というのはいかがでしょう」
「なるほど、そのプランでいきましょう」
お互いに頷きあい、早速それぞれに街中に視線を走らせた。平日の昼間ではあるが存外カップルのような男女の組み合わせが見つかる。睦まじい様子で歩道を横切っていく2人がいれば、公園のベンチで身を寄せ合い熱心に指先を絡めているティーンもいた。
(うーん、確かに改めて考えると、付き合うってどういうことなんだろうか。定義が分からない。恋人と友人の違いってなんだ? 身体的接触の有無だけ? でもそれがなくてもカップルに見える人たちもいる)
理屈で考えると存外難しいものだと感心にも似た思いを抱きつつ、名前はさらに周囲の観察を続ける。その間も、おそらく今の自分たちは友人か知人以上の関係には見えないのだろうという自覚は確かに存在していた。
(仲が良い……というか距離が近いのは、私で言うところの山本とかスクアーロさんだよなあ。仲はそこそこだけど絶対恋人には見えないという……あれはお互いその気がないからか。じゃあその気があるって、どういうことなんだろ)
カップル探しを中断して、視線を斜め上へと泳がせる。友人でも恋人でも、特別な存在であることに変わりはない。しかし両者は確かに異なるものだ。名前は山本のことを大切に思ってはいるが恋人になりたいと思ったことはただの一度もなかったし、どちらかといえばそれは違う人物に向けた思いで――そこまで考え、思考を止める。
(危ない危ない。自分から悩みの種引っ張り出してどうするんだ)
反射的に刻まれた眉間のしわを指先でほぐし、思考を切り替えるべく隣の青年を見上げる。10cmほど上にある青い瞳は、街中を行き交うカップルを見つけては微笑ましげに細められる。もし彼に恋心を抱いていたとしたら、自分はどのように行動するのだろうか。少しだけ思考を巡らせ、名前は小さな笑いをこぼした。
(私を基準で考えちゃいけないな。別に好きになったところで、自分から何かをどうこうするわけじゃない。きっと付き合いたいとすら思わない)
それはひとつ前の恋から学んだ自分の行動パターンだ。名前は誰かを好きになったところで、何かアクションを起こすわけではない。それどころか、恋にのめりこむことすらない。一歩引けば簡単に諦められるような恋心しか抱いたことがなかったし、それが大多数の人間が言うところの恋とは少しずれたものである自覚があった。
ではその、大多数の人間はどうするのだろうか。過去のできごとや知人の言動を思い返し、ふと、中学時代の記憶にたどり着く。当時の先輩の、淡い恋心にまつわる思い出だった。
「一口にカップルといっても、コミュニケーションの方法や関係性はまるで異なるのですね」
5年近く前の記憶を掘り返していると、ふとバジルがそう言った。いつの間にか外していた視線を彼に戻すと、アイスブルーの瞳がどこか遠くを眺めている。その先を追うように真正面を見やると、川にかかった橋の上で肩を寄せ合う男女がいた。2人は会話をするでも、お互いの肌に触れあうでもなく、ただじっと橋の下を見ていた。何かあるのかと背伸びをして川の下を覗き込むも、何ら特別なものは見当たらない。たださらさらと水が流れ、その合間を数羽の水鳥が泳いでいた。
「彼らのように無言で隣り合っているだけでも、確かに2人は特別な関係性なのだということを感じることができます」
「……」
「恋人同士のありかたとは多種多様で、だからこそそれを模倣することは難しい」
たとえ自分たちが彼らと同じ行動をしても、決してカップルには見えないだろう。きっと重要なのは、目に見える行動だけではない。恋人同士の間には確かにそれ特有の空気が流れており、その正体を掴むことが今回の課題のゴールなのだろうとバジルは続けた。
「とはいえ、何か糸口を掴めたわけではないのですが……名前殿は、何か成果が?」
「えっと……成果というほどじゃないけど、ちょっと思い出したことが。昔、先輩が恋をしていたときにいろいろ手伝わされたことがあって……そのとき先輩が、よく言ってた。どんなことでもいいから、とにかく好きな人のことを知りたいって」
「知りたい、ですか?」
「人を好きになるっていうのは、興味を持つってことと近い意味なのかもしれない。相手のことが知りたくて、たくさん会話をしたり体験を共有したりさ」
「そうやって相手を知ることでもっと好意が深まるというわけですね」
「そうそう。で、相手側としても自分に興味を持ってもらえるっていうのは基本的にはうれしいことじゃない?」
「はい。そして好意には好意を返したくなるものです」
「そういうことの積み重ねが、恋人を恋人らしく見せるのでは、という仮説を立ててみたんだけど」
「……となると、出会ったばかりであるうえに10日間のみの仮初の恋人関係である拙者たちには、恋人らしい空気感の醸成は困難ということに」
「……ご、ごめん。今の仮説はなかったことに……」
「……いえ、実はどのカップルにも共通している点に気が付いたのですが」
「え、なに?」
「どのカップルも、一緒にいて居心地が良いのだろうなと思ったんです」
「……確かにそうだ」
あまりにも当然すぎるバジルの指摘に、名前は目からうろこが落ちるような気分になった。彼が言う通り、道行く男女の間に気まずさなど感じない。むしろ2人でいることに安心感や幸福感、居心地の良さを感じていることは明白で――それは今の名前とバジルの間に流れるのとは真逆の空気感だった。
「正直、拙者といても楽しくはないでしょう?」
苦笑とともにずばりと本音を突いてきたバジルに、名前は取り繕うように首を横に振った。
「楽しくないというわけでは……人見知りだから緊張してる。それに、まだバジルくんのこと、よく知らないから。気遣わせてないかなとか思ったり、思わなかったり」
「拙者も同じことを考えていました。まだ2日目ですし、名前殿が無理をなさっているかどうかすら分からない。人となりもなんとなくしか見えていませんから、どうすればリラックスして楽しんでいただけるかも、正直なところまったく。……しかし一緒にいてずっと緊張しっぱなしのカップルなどいません」
はっきりと断言するバジルに、名前も正論だと頷いて返す。今のバジルと名前の間には悪い意味での緊張感がただよっており、それが2人の関係性をそのまま物語っているのだろう。だからカップルになど見えないし、もしかしたら友人にすら見えていないかもしれない。ならば居心地の良い関係を作ればいいというだけの話だが、それは容易ではないだろうとバジルは続けた。
「拙者も名前殿も、仕事が仕事ですから。外部組織の人間に対し心から警戒を解くことなど不可能です」
強い断定に、名前は少し意外な気持ちでバジルを見上げた。バジルは裏社会の人間らしからぬ、丁寧でやわらかな雰囲気の人物だ。暗にそう簡単に他人を信用することはできないと断言する姿は見た目から受ける清廉潔白そうな印象とはかけ離れており――しかしひどく現実的な物言いに、名前は彼に対する苦手意識が少し薄れたような気がした。
「しかし名前殿の仮説を聞いて思ったのですが、お互いを知り、何かひとつでも信頼できるポイントを見つけることができれば……好意を抱くことはなくとも、緊張感は軽減されるのではないか、と」
「……一理あると思う。別にお互いを好きになることが目的じゃないし、とにかく人となりが分かればそれだけで安心感につながるよね。闇雲な会話よりも相手を知ろうとする会話の方がよっぽど有意義だし……そのくらいなら、残り8日間でもできるかもしれない」
「短期目標を修正しましょう。会話を増やす、ではなく、お互いのことを知るための会話を増やす。これが先数日間の目標ということでいいでしょうか」
「うん。それなら具体的でがんばれそう」
ただなんとなくの会話から、明確な目的を持った会話へ。たったそれだけの変化によって、あちらこちらを行ったり来たりしていた思考がすんなりと落ち着く。もともと他人の人柄を知ること自体は好んでいる。早速バジルのことを探るべくいくつかの質問を投げかけようとしたがそれよりも早くバジルからの質問攻めが始まり、それに答えているうちに美術館に到着してしまった。
午前9時からスタートした本日の研修は午前中は一般教養に関する座学、午後は座学のおさらいを兼ねた美術館でのデートが行われた。研修内容自体は興味深かったものの、短い期間内に潜入に堪えうる知識を身に着けるべく初日からぎゅうぎゅうに詰め込まれたスケジュールは時差ボケ中の体にはなかなか厳しく、午後はほとんど眠気との戦いとなってしまった。なんとか外面は取り繕って過ごしていたが夕方の抜き打ちテストの結果は散々で、ラル・ミルチによるスパルタ方式の補習が行われた。再テストで合格点が出せたのは18時を回ったころだっただろうか。その後バジルから1日の振り返りに誘われ、ホテルに帰り着いたのが20時過ぎ。オレガノが持たせてくれたテイクアウトのピザがなければ食事もとらずに眠っていたことだろうというくらいには、名前は疲れきっていた。
(疲れた……でもなんとなく、3人の人柄は分かった気がする……)
ふかふかの枕に顔を埋め、昨日からの3人の言動を思い返す。
ラル・ミルチは厳しい女性だ。言動はもちろんだが、妥協や甘えを許さず常にベストを求める。本日の抜き打ちテストや昨日の資料の件からもそのことは容易に知れる。その代わり面倒見はいいのだろう、名前が合格点に達するまでは叱責しながらも付き合ってくれた。軍人のような物言いがなければ、少し厳しい教師のような印象だった。
一方でオレガノは穏やかで気づかい上手な性格をしているらしい。1日中それとなく名前の体調を気にかけ、帰りがけには夕飯だけでなく明日の朝食も持たせてくれた。たださっぱりとした一面もあるようで、今日のバジルと名前の疑似デートに対しては笑いながら100点中20点と非常に低い評価をつけた。見るべきものはしっかりと見ているし、やるべきことはしっかりとやりきるタイプの女性であるらしい。
バジルは沢田の言う通り、まじめな青年だった。教養に関する知識などとうに会得しているだろうに復習になるからと名前の研修に付き合い、午後もしっかりと美術館の展示を見学していた。テストの点数ももちろん満点で、それでもなお振り返りまで行う優等生然としたバジルに、名前は思わず感心してしまった。
「オレガノの20点は、拙者たちの努力につけてくれた点数だそうです」
初日の様子を振り返っている最中、バジルは眉を八の字にしてそう言った。
「つまりまるで恋人同士には見えなかったということになります」
「うーん……どうすれば付き合ってるみたいに見えるんだろうね」
「名前殿がイタリアにいらっしゃる前に事前研修として恋愛映画を10本ほど鑑賞したのですが」
「そ、そうなんだ……10本も……」
「はい。もちろん役者の演技ですので大袈裟な部分はありましたが、確かに恋人関係になる前後では2人の間の雰囲気が異なるように思えました。物理的な距離感だけの問題ではなく、もっと他の何かがあるのだと思いますが……」
それからおよそ30分以上、オレガノに声をかけられるまで反省会は続いた。仕事が絡むことだったので名前も真剣に改善方法を検討したが、バジルはそれ以上に熱心にさまざまな案をホワイトボードに書き込んでいた。ひとまず明日は会話の回数を増やすことを目標に定めたらしく、別れ際にはのどあめを持参するなどと話していた。冗談が冗談に聞こえない辺り、彼の生真面目さの表れのように思えた。
(でも、まあ、なんとかやっていけそうだ……)
1日を終えて、名前は少しだけ安堵していた。バジルに限らず、ラル・ミルチもオレガノもとにかくまじめだ。仕事上割り切るべきものを割り切る冷静さも備えていそうだし、いきなり距離感を縮めてくるような図々しさもない。それらは名前にとって非常に重要なことだ。バジルだけは少々まじめすぎる印象があり、その点で若干の苦手意識を抱いたものの、それでも彼らと10日間行動を共にすることは、想像していたよりも苦ではなさそうだった。
(そうだ、スマホ……)
眠気はすぐそばまで迫っているが、今朝ホテルを出てから1度もスマホを見ていないことを思い出しサイドテーブルに手を伸ばした。バッグから出してそのままにしていたスマホを手に取り、ロックを外す。通知はひとつもない。雲雀や草壁――それにディーノからも、連絡はなかったようだ。ほっと胸をなでおろすと、急激にまぶたが重くなる。名前はそのまま意識を手放すようにして眠りに落ちた。
2日目の朝は、初日と比べれば幾分かすっきりと迎えることができた。昨日までの眠気が薄れ、思いのほか手足も軽い。身支度を整え朝食を済ませて部屋を出ると、1階のロビーでバジルと出くわした。
「おはよう。どうしたの?」
「少しでもお話ができればと思いまして」
どうやらバジルは昨日の振り返りで掲げた目標を有言実行するべく名前を迎えに来たらしい。迷惑ではなかったかと不安そうに尋ねるバジルに笑って大丈夫だと返し、名前はフロントにカギを預けてバジルと共に玄関を出た。
「朝食はホテルで?」
「うん。モーニングもついてるんだけど、昨日はオレガノさんがご飯持たせてくれたから」
「もしかしてパニーノですか?」
「よく分かったね」
「近所にオレガノ行きつけのパニノテカが。以前は拙者もよく持たされていました」
「そうなんだ。仲が良いんだね」
「長い付き合いになりますから」
他愛もない話をしていると、あっという間にCEDEFの本部に到着した。まだあまり慣れないロビーを通り抜け、エレベーターで上階へと向かう。本日の研修は昨日の続きで、教養の勉強らしいとバジルは言った。
「午後は昨日とは別の美術館に行くようにと言われています」
「あー……補習ってことかな……」
「はい。拙者たちにとってはリベンジ戦ということにもなります」
20点を超えるべくがんばらねばと意気込むバジルの横顔を見上げながら、名前はぼんやりと頭を動かし始める。昨日は眠気のあまり恋人云々まで考慮できずに過ごしてしまったから、20点というのは納得できる点数だった。しかし時差ボケも薄れてきたのだから、バジルの言う通りできる努力はするべきだろう。まずは午前中の座学をしっかりとこなすべく、名前は気合を入れることにした。
昨日に引き続き美術・芸術をメインとした一般教養の座学を終え、ランチのあとは歩いて美術館に向かった。散歩がてらという名前の提案をバジルが快諾してくれたからだ。
「たくさん話すっていうのは確かに効果的だと思うけど、無闇に世間話したって仕方ないとも思うんだよね。別に会話なんかしなくても、恋人っぽく見える人たちっているわけだし」
「会話にテーマが必要ということですか?」
「そういうわけでもないんだけど……でもまず、恋人っぽいってどういうことなのか知る必要があると思う」
「……確かに。映画10本程度ではまだまだその辺りが不透明です」
「だからこうやって街中歩きながらカップルっぽい人たち探して観察してみるのがいいかな、と」
「しかしオレガノの採点があります。せめて50点くらいまでは伸ばさねば、今回の任務自体が中止ということも」
「……できる限りゆっくり美術館まで行って道中は観察をする。美術館に着いたら観察したことを活かして実践……というのはいかがでしょう」
「なるほど、そのプランでいきましょう」
お互いに頷きあい、早速それぞれに街中に視線を走らせた。平日の昼間ではあるが存外カップルのような男女の組み合わせが見つかる。睦まじい様子で歩道を横切っていく2人がいれば、公園のベンチで身を寄せ合い熱心に指先を絡めているティーンもいた。
(うーん、確かに改めて考えると、付き合うってどういうことなんだろうか。定義が分からない。恋人と友人の違いってなんだ? 身体的接触の有無だけ? でもそれがなくてもカップルに見える人たちもいる)
理屈で考えると存外難しいものだと感心にも似た思いを抱きつつ、名前はさらに周囲の観察を続ける。その間も、おそらく今の自分たちは友人か知人以上の関係には見えないのだろうという自覚は確かに存在していた。
(仲が良い……というか距離が近いのは、私で言うところの山本とかスクアーロさんだよなあ。仲はそこそこだけど絶対恋人には見えないという……あれはお互いその気がないからか。じゃあその気があるって、どういうことなんだろ)
カップル探しを中断して、視線を斜め上へと泳がせる。友人でも恋人でも、特別な存在であることに変わりはない。しかし両者は確かに異なるものだ。名前は山本のことを大切に思ってはいるが恋人になりたいと思ったことはただの一度もなかったし、どちらかといえばそれは違う人物に向けた思いで――そこまで考え、思考を止める。
(危ない危ない。自分から悩みの種引っ張り出してどうするんだ)
反射的に刻まれた眉間のしわを指先でほぐし、思考を切り替えるべく隣の青年を見上げる。10cmほど上にある青い瞳は、街中を行き交うカップルを見つけては微笑ましげに細められる。もし彼に恋心を抱いていたとしたら、自分はどのように行動するのだろうか。少しだけ思考を巡らせ、名前は小さな笑いをこぼした。
(私を基準で考えちゃいけないな。別に好きになったところで、自分から何かをどうこうするわけじゃない。きっと付き合いたいとすら思わない)
それはひとつ前の恋から学んだ自分の行動パターンだ。名前は誰かを好きになったところで、何かアクションを起こすわけではない。それどころか、恋にのめりこむことすらない。一歩引けば簡単に諦められるような恋心しか抱いたことがなかったし、それが大多数の人間が言うところの恋とは少しずれたものである自覚があった。
ではその、大多数の人間はどうするのだろうか。過去のできごとや知人の言動を思い返し、ふと、中学時代の記憶にたどり着く。当時の先輩の、淡い恋心にまつわる思い出だった。
「一口にカップルといっても、コミュニケーションの方法や関係性はまるで異なるのですね」
5年近く前の記憶を掘り返していると、ふとバジルがそう言った。いつの間にか外していた視線を彼に戻すと、アイスブルーの瞳がどこか遠くを眺めている。その先を追うように真正面を見やると、川にかかった橋の上で肩を寄せ合う男女がいた。2人は会話をするでも、お互いの肌に触れあうでもなく、ただじっと橋の下を見ていた。何かあるのかと背伸びをして川の下を覗き込むも、何ら特別なものは見当たらない。たださらさらと水が流れ、その合間を数羽の水鳥が泳いでいた。
「彼らのように無言で隣り合っているだけでも、確かに2人は特別な関係性なのだということを感じることができます」
「……」
「恋人同士のありかたとは多種多様で、だからこそそれを模倣することは難しい」
たとえ自分たちが彼らと同じ行動をしても、決してカップルには見えないだろう。きっと重要なのは、目に見える行動だけではない。恋人同士の間には確かにそれ特有の空気が流れており、その正体を掴むことが今回の課題のゴールなのだろうとバジルは続けた。
「とはいえ、何か糸口を掴めたわけではないのですが……名前殿は、何か成果が?」
「えっと……成果というほどじゃないけど、ちょっと思い出したことが。昔、先輩が恋をしていたときにいろいろ手伝わされたことがあって……そのとき先輩が、よく言ってた。どんなことでもいいから、とにかく好きな人のことを知りたいって」
「知りたい、ですか?」
「人を好きになるっていうのは、興味を持つってことと近い意味なのかもしれない。相手のことが知りたくて、たくさん会話をしたり体験を共有したりさ」
「そうやって相手を知ることでもっと好意が深まるというわけですね」
「そうそう。で、相手側としても自分に興味を持ってもらえるっていうのは基本的にはうれしいことじゃない?」
「はい。そして好意には好意を返したくなるものです」
「そういうことの積み重ねが、恋人を恋人らしく見せるのでは、という仮説を立ててみたんだけど」
「……となると、出会ったばかりであるうえに10日間のみの仮初の恋人関係である拙者たちには、恋人らしい空気感の醸成は困難ということに」
「……ご、ごめん。今の仮説はなかったことに……」
「……いえ、実はどのカップルにも共通している点に気が付いたのですが」
「え、なに?」
「どのカップルも、一緒にいて居心地が良いのだろうなと思ったんです」
「……確かにそうだ」
あまりにも当然すぎるバジルの指摘に、名前は目からうろこが落ちるような気分になった。彼が言う通り、道行く男女の間に気まずさなど感じない。むしろ2人でいることに安心感や幸福感、居心地の良さを感じていることは明白で――それは今の名前とバジルの間に流れるのとは真逆の空気感だった。
「正直、拙者といても楽しくはないでしょう?」
苦笑とともにずばりと本音を突いてきたバジルに、名前は取り繕うように首を横に振った。
「楽しくないというわけでは……人見知りだから緊張してる。それに、まだバジルくんのこと、よく知らないから。気遣わせてないかなとか思ったり、思わなかったり」
「拙者も同じことを考えていました。まだ2日目ですし、名前殿が無理をなさっているかどうかすら分からない。人となりもなんとなくしか見えていませんから、どうすればリラックスして楽しんでいただけるかも、正直なところまったく。……しかし一緒にいてずっと緊張しっぱなしのカップルなどいません」
はっきりと断言するバジルに、名前も正論だと頷いて返す。今のバジルと名前の間には悪い意味での緊張感がただよっており、それが2人の関係性をそのまま物語っているのだろう。だからカップルになど見えないし、もしかしたら友人にすら見えていないかもしれない。ならば居心地の良い関係を作ればいいというだけの話だが、それは容易ではないだろうとバジルは続けた。
「拙者も名前殿も、仕事が仕事ですから。外部組織の人間に対し心から警戒を解くことなど不可能です」
強い断定に、名前は少し意外な気持ちでバジルを見上げた。バジルは裏社会の人間らしからぬ、丁寧でやわらかな雰囲気の人物だ。暗にそう簡単に他人を信用することはできないと断言する姿は見た目から受ける清廉潔白そうな印象とはかけ離れており――しかしひどく現実的な物言いに、名前は彼に対する苦手意識が少し薄れたような気がした。
「しかし名前殿の仮説を聞いて思ったのですが、お互いを知り、何かひとつでも信頼できるポイントを見つけることができれば……好意を抱くことはなくとも、緊張感は軽減されるのではないか、と」
「……一理あると思う。別にお互いを好きになることが目的じゃないし、とにかく人となりが分かればそれだけで安心感につながるよね。闇雲な会話よりも相手を知ろうとする会話の方がよっぽど有意義だし……そのくらいなら、残り8日間でもできるかもしれない」
「短期目標を修正しましょう。会話を増やす、ではなく、お互いのことを知るための会話を増やす。これが先数日間の目標ということでいいでしょうか」
「うん。それなら具体的でがんばれそう」
ただなんとなくの会話から、明確な目的を持った会話へ。たったそれだけの変化によって、あちらこちらを行ったり来たりしていた思考がすんなりと落ち着く。もともと他人の人柄を知ること自体は好んでいる。早速バジルのことを探るべくいくつかの質問を投げかけようとしたがそれよりも早くバジルからの質問攻めが始まり、それに答えているうちに美術館に到着してしまった。