本戦2:恋の悩みを知る君は
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大嫌いな季節がやってきた。じりじりと肌を焼く強い日差しに、それを跳ね返すようにアスファルトから昇る熱。そこかしこから降る蝉時雨はさらに体感気温を上昇させ、必死に冷却を試みようと噴き出る汗の感覚すら不快感を煽る。こめかみから頬を伝い、顎の先から落ちた雫を、名前はげんなりと見送った。
じめじめと鬱陶しい湿度を連れた雲の群れが遠ざかり、代わりに夏がやってきた。夏は名前にとって、最も苦手な季節だ。一年間で名前が最もおとなしい季節と言い換えてもいい。毎年のことながら夏の暑さは名前からやる気と体力を根こそぎ奪っていくし、まぶしいばかりでやわらかさを失った太陽も、昼も夜も関係なく鳴き続ける蝉も、夏休みに浮かれる世間の雰囲気すら、どうしても好きになれずにいる。今もまた、たった30分の外出を少しでも早く終わらせるべく、小走りでアスファルトの上を抜けていく。
「戻りましたー」
頭が沸騰しそうなほどの熱から逃れるように、名前は早足で財団本部に駆け込んだ。途端にクーラーによって冷えた空気を全身に浴び、肌がひやりと熱をなくす。しかしそれも一瞬だけで、廊下を歩いてもなお熱を残したままの体がどうにも気持ち悪い。人の気配がないのをいいことに襟元をパタパタと動かしながら、名前は上司の執務室へと向かう――予想に反して、上司の執務室は無人だった。おやと思いながら今度は名前の仕事部屋の戸を開ける。目的の人物である雲雀恭弥と草壁哲矢が、書類の上に走らせていた視線を持ち上げて名前を見た。
「なんでこっちにいるんですか」
「あっちより涼しいから」
「じゃあ執務室の冷房切っちゃいますからね。あとアイス買ってきましたよ。いちごと抹茶とクッキー&クリーム」
「クッキー&クリーム」
「はいどうぞ。草壁さんは?」
「では抹茶をもらおう」
水滴をまとったアイスのカップとスプーンを手渡すと、草壁はわずかに頬をゆるめた。梅雨明けから毎日のように猛暑日が続いている。室内にいても伝わる日差しの強さに辟易していたのは名前だけではなかったらしい。雲雀と草壁は書類を畳の上に置くと、少し溶け始めたアイスを早速口に運んだ。名前は作業用の座卓に財布とスマホを置いてから、2人に少し遅れてアイスのふたを開けた。
「それほど好きなわけでもないけど、やたらおいしく感じるのが不思議だ」
「ダウト。雲雀さん、自分で思ってるよりめっちゃアイス好きですからね。なんなら一年中食べてますよ」
「そういう君だって、先月くらいにはアイスが食べたくなることなんてないって豪語していたじゃないか」
「あれはうちに冷蔵庫がないことをみんなが執拗に小馬鹿にしてくるから、つい意地を張っただけです」
「まだ買ってないの。どうかしてるな」
「それ絶対に雲雀さんに言われたくないセリフ」
「しかしこの酷暑で冷蔵庫がないというのはさすがに俺でも心配になるぞ」
「大丈夫ですって。1回は夏越えてるから、2回目もなんとかなるでしょ」
「どうしてお前は仕事以外のこととなると途端に大雑把になるんだ……」
「ため息ついてる間にアイス溶けちゃいますよ。……それ、次の仕事ですか?」
小言が始まりそうな気配を察し、名前は話題を変えることにした。いちご味のアイスをすくったスプーンで、畳の上の書類を指し示す。内容までは見えないが、書式から外部で作られたものだということだけが読み取れた。
「違う。バカンスのお誘いだ」
「雲雀さんの冗談って高度すぎて全然意味分からないです」
あっという間にアイスを食べ終えたらしい雲雀が、空のカップと共に書類を差し出す。名前はようやく口に運んだ最初の一口を丁寧に舌の上で溶かしながら書類だけを受け取り、代わりにコンビニでもらったビニール袋を雲雀へと手渡した。それからさっと書類に目を通し、もう一度雲雀に視線をやる。雲雀はニヤリと口角を持ち上げて名前を見ていた。
「……もう1回聞いていいですか?」
「許可する」
「これ、次の仕事ですか?」
「同じこと言わせるな。バカンスの誘いだ」
「どっこがですか。思いっきり仕事じゃないですか。しかもボンゴレ絡み」
「喜ぶといい。先方は君を名指しで指名してきた」
「ははあ、これはあちらに私を売った裏切り者がいますね。誰だ」
「沢田綱吉」
「あの男……」
わざわざ日本語で作られた依頼文書の差出人を再度確認し、名前は眉根を寄せた。馴染みのないイタリアの会社名。それがある組織のダミー企業のものであるということは、数年前に草壁から教えられた。名前の手にあるのは、ボンゴレファミリー門外顧問機関・CEDEFからの協力依頼――しばらくの期間、名字名前を借り受けたいという要請だった。
「私が何に協力するんですか」
「さあね。詳細は行ってから聞くといい」
「なんでそんな乗り気なんですか。めちゃくちゃに怪しいんですけど」
「実は先ほど、ボンゴレ側からも電話があってな」
名前の疑問には雲雀ではなく、抹茶アイスを半分ほど片付けた草壁が答えた。
「なんでも潜入任務のパートナーに若い女性を探しているらしい」
「そんなのイタリアに腐るほどいるでしょ」
「CEDEFの業務内容に理解はあるが興味はなく、損得が絡まず、いざというときの護身の術を持ち、カタギに見えてカタギではない。そんな人物を沢田氏の友人であるCEDEFの人間が探していたそうで、ならばとお前を紹介したそうだ」
「沢田くんって実は私のことちょっと嫌いだと思うんですよね。どう思います?」
「うちとしても、ここらでCEDEFとのつながりを作っておくのも悪くはない。潜入に必要な知識やスキルは向こうが仕込んでくれるらしいし、研修の一環として行ってくれば」
「そういう回答は求めてなかった。……ほんとマジで心底絶対に行きたくないんですけど、どうすればいいですか」
「業務命令」
「くっそー……分かりましたよ。行けばいいんでしょ、行けば」
むすりと口を引き結んだ名前に雲雀は満足げに頷いて、すっかりぬくもってしまっただろう麦茶入りのコップを傾けた。
門外顧問機関CEDEFは通常、ボンゴレファミリーに所属せず独立して行動している。こうした機会でもなければ、接点を作ることすら難しい組織だ。この機を逃さずにパイプを作っておく重要性は名前もよく理解している。平時ならばそこまでごねることもなく、あっさりとイタリアへ飛んでいたことだろう。
しかし今の名前にとっては、あまり歓迎できない業務だった。
「……ひとつだけ確認しておきますけど、沢田くんとCEDEFのお友達とやらだけが噛んでる話なんですよね」
「沢田綱吉が言うところによればそうらしいね。誰か会いたいやつでもいるわけ?」
「白々しいこと言わないでほしいなあ。キャから始まってネで終わる例のあれですよ」
半分以上溶けたアイスをカップの中でぐるぐるとかき混ぜながら、名前はにらむように書類を見た。端から端まで、すべての単語を確認しても、そこに名前が探す文字列はない。少しだけ安堵しながらピンク色のアイスをすくう――それとほぼ同時に、座卓の上のスマホが着信音とともに小さく震えた。
「……」
「スマホ、君じゃないの」
「……」
雲雀の指摘にあいまいな笑みだけを返し、名前はさらにアイスを食べ進める。急いで戻ってきたものの、体温に近いくらいの外気温にさらされていたため、すでにカップの中は液体の一歩手前のような状態と化している。急いで食べてしまわなければ――しかしまたしても、スマホが震える。今度は3度、メッセージの到着を告げたかと思えば、4度目は別の電子音が鳴り響く。電話の着信だった。
「……」
「出ないのか?」
「……仕事中だし」
「いいよ、別に。学校じゃあるまいし」
「……」
「急ぎの電話だったら困るだろう。確認だけでもしておいたらどうだ?」
「……」
雲雀と草壁、2人から促され、名前は渋々スマホに手を伸ばした。初期設定のままの着信音とともに震えているスマホのディスプレイを、なるべくたくさんの時間をかけてゆっくりと覗く。中央よりも少し上には相手の名前が大きく記され――名前は思わず顔をしかめた。すかさず雲雀が「出なよ」と、からかうように言う。
(いや、これ……出るか? 仕事のことじゃないだろうし……いやでもその可能性もまったくないわけではない……のか? 分からないけどとりあえず出たくないな。でもこの人、絶対出るまで鳴らしてくるよな。……出るしかないか)
数秒の葛藤の末、名前はアイスを置いてスマホの上に人差し指をすべらせた。それからスマホを耳にあて、おそるおそる「もしもし」と答える。1秒も待たずに「チャオ」と、明るいあいさつが返された。
「元気か? 今何してた?」
「……仕事中です。何かご用ですか」
「うん、お前の声が聞きたくて」
「あはは……」
名前は外を歩いていたときの何倍もげっそりとした気分で乾いた笑いを漏らした。電話の向こうで朗らかに笑っているのであろう男・ディーノは、名前の心情などまったく気が付いた様子もなく、とりとめのない世間話を始める。
「そっちはもう雨期は抜けたんだろ? 暑いか?」
「まあ、夏なので」
「だよなあ。日本の夏って湿気がすげーし……こっちも毎日晴れてるけどカラッとしてて、バカンス日和って感じだ。そうそう、バカンスといえばこの間、部下が」
ディーノの口がよく回っていることを確認し、名前は通話をスピーカーに切り替えた。心底楽しそうに近況を語る声が室内に響き渡るが、気にしてはいられない。名前はそのままスマホを部屋の隅に立てかけると、音を立てないよう畳の上を横切り、雲雀と草壁の間にさっと腰を下ろした。
「何をしてるんだ」
「しっ、声が大きいですよ、草壁さん」
人差し指を口の前に構え、呆れた様子の草壁を制止する。草壁はますます呆れたような顔をしたが、やはりそのようなことに構ってはいられない。うつむいて肩を震わせている雲雀を横目に、名前は至極真剣に、2人に助言を請うことにした。
「どうにかならないんですかね、あれ」
「あれとは」
「あの電話の向こうでとっても楽しそうにおしゃべりなさってる人」
「……いや、そもそも何故放置しているんだ。礼儀がなっていないぞ」
「だってときどき相槌だけ打っておけば勝手にしゃべり続けるし……」
「そんなわけないだろう」
「現実見てくださいよ、草壁さん」
あれ、と指さす先では、こちらの状況など微塵も気が付いていない様子のディーノが、スマホ越しにひたすら話し続けている。草壁はさっと視線をそらし、雲雀が笑い声を誤魔化すように軽く咳払いをした。
「……これは怖い話ですけど」
まるで怪談を始めるかのような前置きをして、名前は梅雨が始まる前から続くディーノとのやり取りを思い返した。始まりは桜が散り始めた4月。突然来日したディーノの、急な告白が最初だった。
「……4月に好きだのなんだのと言いに来たじゃないですか、あの人」
「ああ、あれはなかなか良い見世物だった」
しみじみと言う雲雀に対するいらだちを抑えながら名前は続ける。
「あのあとから週に1回くらい、こういう中身のない電話が来るんです」
4月のうちは、仕事にかこつけた電話が主だった。ピピストレッロファミリーの件や、それにまつわる後処理の報告。内容が内容だけに対応しないわけにもいかず、気が進まないなりに名前も電話に付き合っていたのだが――桜が散り、新緑の季節が過ぎ、梅雨に入るころには世間話と口説き文句が入り混じる、妙な電話に様変わりしていた。
「……最初は私も、ほら、それなりに気まずかったりしたんですよ? 一応……告白? されたのを、つっぱねたわけだし。でも週1でこんな電話かかってくれば……ねえ?」
「気持ちは分からんでもないが、ならばはっきりと交際はできないと断るべきだろう」
「断ってますよ、全力で。なのにあの人、全然めげないんです」
好きだ、惚れた、会いたい。そういった類の言葉を、手を替え品を替え投げかけてくるディーノに名前はすっかり辟易していた。
以前ならば、あるいはドキドキと胸を高鳴らせるような状況だったかもしれない。しかし名前は、とうにディーノへの恋心は断ち切ったのだ。それを掘り返すようなディーノの言動にはうんざりしていたし、かといって丸きり無視してしまうほど冷酷にもなれない。
かろうじて口説き文句にだけははっきりとノーを返し続けていたが、それでもディーノに変化はなかった。それどころかどこかうれしそうに「今はその気がなかったとしても、いつ変わるのか分からないのが女心ってやつだろ?」と返してくるのがすでにお決まりの流れとなりつつある。とにかくディーノに諦めるつもりはまるでなく、この状況すらも楽しんでいるらしいということだけは名前も十分に理解していた。
部屋の隅に置き去りにしたスマホの向こう側では、未だに1人楽しくディーノが話し続けている。名前は頭を抱えて、呻くように本心を絞り出した。
「あのガッツというか人の話を一切聞いてない感じがもういっそ怖い……私の声聞きたいって言ってるくせになんで1人で話し続けてるの……怖すぎ……」
「そういえば彼、先月の僕の出張中に1週間くらいこっちに来てたらしいじゃないか。どうだったの」
「は? 毎日本部の玄関で待ち伏せされて夕飯に連行されましたけど? 1回くらい通報しておけばよかった」
「やめてさしあげろ。……気持ちは、分からんでもないが」
「分かるなら助けてくださいよ!」
「ん? どうかしたか?」
「!」
草壁への抗議に思いのほか大きい声が出たらしく、ディーノが流れるようなトークを止めて問いかけた。名前は慌ててなんでもないと取り繕い、話の続きを促す。特に不審には思わなかったらしく、ディーノは上機嫌でバカンスの話題に戻っていった。再びディーノがペラペラと話し始めたことを確認し、深いため息を吐き出す。嫌悪というよりは疲労の蓄積によるものだった。
「もういやだ。せめて週1の電話をやめてほしい。なのに絶対にやめてくれない。ザイオンス効果でも狙ってるんですかあの人は」
「ザイオンス効果?」
「同じものに接触する回数が増えれば増えるほど良い印象を持ちやすくなるってやつ。ちなみに嫌いな相手に同じことされると嫌いという感情が何度も上書きされる結果になりますけどね」
「ふうん、じゃあ今の君は跳ね馬のこと嫌いなわけ?」
「き……らいでは、ないですけど」
「なら何をそんなにいやがってるの」
「その気がないから以外に理由がありますか」
「さあね。跳ね馬の語るところによれば、女心というやつはころころ変わるものらしいし」
「雲雀さんの気分ほどじゃないですよ。……結構真剣に電話来ないようになってほしいんですけど、マジで何かお知恵を拝借できませんか」
「簡単だ。長期任務に入ればいい」
「それだ」
名前は座卓の上に放置していた書類を手に取り、じっくりと中身に目を通した。期間はおよそ3週間。ディーノが住むイタリアへの出張にはなるが、彼のシマに出向きさえしなければ出くわすこともないだろう。そしてディーノは名前の仕事の邪魔をしてまで個人的な感情を押し付けてくるほど子どもではない。気分が少しだけ軽くなる。折よくディーノが話したいことを話し終えたようだったので、名前は早速任務の件を切り出した。
「私、しばらく出張で不在にしますので」
「え、そうなのか? どのくらい? どこに行くんだ?」
「仕事ですので詳細は教えられませんが、少なくとも3週間。あるいはもっと」
「そっか……声聞けなくなるのは残念だけど、仕事ならしょうがねーな。連絡取れるようになったら教えてくれるか?」
「そうですね、覚えていれば」
「じゃあ連絡待ってる。無理しない程度にがんばれよ」
ディーノの心からの激励を半笑いで受け流し、名前は通話を終了させて左の口角を持ち上げる。
「そして私は3週間後、このやりとりをすっかり忘れてしまうのでした」
「外道か……」
「真相がバレなきゃ大丈夫ですよ」
ひらひらとスマホを振って見せると、草壁は名前以上に深く大きなため息を吐き出した。さすがに呆れているらしい。雲雀は特に名前を咎めることはなく、ただニヤニヤと新しいおもちゃを見つけたかのように笑っていたが――今の名前にとっては、ディーノ以上の脅威ではない。
草壁の小言を聞き流しながら座卓へと戻る。アイスはとうに溶けきり、ただ甘いだけの液体と化していた。捨ててしまおうかと、一瞬だけ考える。しかしそれももったいない気がして、心の中でディーノに苦情を申し立てながらアイスの残骸の処理に取り掛かることにした。
じめじめと鬱陶しい湿度を連れた雲の群れが遠ざかり、代わりに夏がやってきた。夏は名前にとって、最も苦手な季節だ。一年間で名前が最もおとなしい季節と言い換えてもいい。毎年のことながら夏の暑さは名前からやる気と体力を根こそぎ奪っていくし、まぶしいばかりでやわらかさを失った太陽も、昼も夜も関係なく鳴き続ける蝉も、夏休みに浮かれる世間の雰囲気すら、どうしても好きになれずにいる。今もまた、たった30分の外出を少しでも早く終わらせるべく、小走りでアスファルトの上を抜けていく。
「戻りましたー」
頭が沸騰しそうなほどの熱から逃れるように、名前は早足で財団本部に駆け込んだ。途端にクーラーによって冷えた空気を全身に浴び、肌がひやりと熱をなくす。しかしそれも一瞬だけで、廊下を歩いてもなお熱を残したままの体がどうにも気持ち悪い。人の気配がないのをいいことに襟元をパタパタと動かしながら、名前は上司の執務室へと向かう――予想に反して、上司の執務室は無人だった。おやと思いながら今度は名前の仕事部屋の戸を開ける。目的の人物である雲雀恭弥と草壁哲矢が、書類の上に走らせていた視線を持ち上げて名前を見た。
「なんでこっちにいるんですか」
「あっちより涼しいから」
「じゃあ執務室の冷房切っちゃいますからね。あとアイス買ってきましたよ。いちごと抹茶とクッキー&クリーム」
「クッキー&クリーム」
「はいどうぞ。草壁さんは?」
「では抹茶をもらおう」
水滴をまとったアイスのカップとスプーンを手渡すと、草壁はわずかに頬をゆるめた。梅雨明けから毎日のように猛暑日が続いている。室内にいても伝わる日差しの強さに辟易していたのは名前だけではなかったらしい。雲雀と草壁は書類を畳の上に置くと、少し溶け始めたアイスを早速口に運んだ。名前は作業用の座卓に財布とスマホを置いてから、2人に少し遅れてアイスのふたを開けた。
「それほど好きなわけでもないけど、やたらおいしく感じるのが不思議だ」
「ダウト。雲雀さん、自分で思ってるよりめっちゃアイス好きですからね。なんなら一年中食べてますよ」
「そういう君だって、先月くらいにはアイスが食べたくなることなんてないって豪語していたじゃないか」
「あれはうちに冷蔵庫がないことをみんなが執拗に小馬鹿にしてくるから、つい意地を張っただけです」
「まだ買ってないの。どうかしてるな」
「それ絶対に雲雀さんに言われたくないセリフ」
「しかしこの酷暑で冷蔵庫がないというのはさすがに俺でも心配になるぞ」
「大丈夫ですって。1回は夏越えてるから、2回目もなんとかなるでしょ」
「どうしてお前は仕事以外のこととなると途端に大雑把になるんだ……」
「ため息ついてる間にアイス溶けちゃいますよ。……それ、次の仕事ですか?」
小言が始まりそうな気配を察し、名前は話題を変えることにした。いちご味のアイスをすくったスプーンで、畳の上の書類を指し示す。内容までは見えないが、書式から外部で作られたものだということだけが読み取れた。
「違う。バカンスのお誘いだ」
「雲雀さんの冗談って高度すぎて全然意味分からないです」
あっという間にアイスを食べ終えたらしい雲雀が、空のカップと共に書類を差し出す。名前はようやく口に運んだ最初の一口を丁寧に舌の上で溶かしながら書類だけを受け取り、代わりにコンビニでもらったビニール袋を雲雀へと手渡した。それからさっと書類に目を通し、もう一度雲雀に視線をやる。雲雀はニヤリと口角を持ち上げて名前を見ていた。
「……もう1回聞いていいですか?」
「許可する」
「これ、次の仕事ですか?」
「同じこと言わせるな。バカンスの誘いだ」
「どっこがですか。思いっきり仕事じゃないですか。しかもボンゴレ絡み」
「喜ぶといい。先方は君を名指しで指名してきた」
「ははあ、これはあちらに私を売った裏切り者がいますね。誰だ」
「沢田綱吉」
「あの男……」
わざわざ日本語で作られた依頼文書の差出人を再度確認し、名前は眉根を寄せた。馴染みのないイタリアの会社名。それがある組織のダミー企業のものであるということは、数年前に草壁から教えられた。名前の手にあるのは、ボンゴレファミリー門外顧問機関・CEDEFからの協力依頼――しばらくの期間、名字名前を借り受けたいという要請だった。
「私が何に協力するんですか」
「さあね。詳細は行ってから聞くといい」
「なんでそんな乗り気なんですか。めちゃくちゃに怪しいんですけど」
「実は先ほど、ボンゴレ側からも電話があってな」
名前の疑問には雲雀ではなく、抹茶アイスを半分ほど片付けた草壁が答えた。
「なんでも潜入任務のパートナーに若い女性を探しているらしい」
「そんなのイタリアに腐るほどいるでしょ」
「CEDEFの業務内容に理解はあるが興味はなく、損得が絡まず、いざというときの護身の術を持ち、カタギに見えてカタギではない。そんな人物を沢田氏の友人であるCEDEFの人間が探していたそうで、ならばとお前を紹介したそうだ」
「沢田くんって実は私のことちょっと嫌いだと思うんですよね。どう思います?」
「うちとしても、ここらでCEDEFとのつながりを作っておくのも悪くはない。潜入に必要な知識やスキルは向こうが仕込んでくれるらしいし、研修の一環として行ってくれば」
「そういう回答は求めてなかった。……ほんとマジで心底絶対に行きたくないんですけど、どうすればいいですか」
「業務命令」
「くっそー……分かりましたよ。行けばいいんでしょ、行けば」
むすりと口を引き結んだ名前に雲雀は満足げに頷いて、すっかりぬくもってしまっただろう麦茶入りのコップを傾けた。
門外顧問機関CEDEFは通常、ボンゴレファミリーに所属せず独立して行動している。こうした機会でもなければ、接点を作ることすら難しい組織だ。この機を逃さずにパイプを作っておく重要性は名前もよく理解している。平時ならばそこまでごねることもなく、あっさりとイタリアへ飛んでいたことだろう。
しかし今の名前にとっては、あまり歓迎できない業務だった。
「……ひとつだけ確認しておきますけど、沢田くんとCEDEFのお友達とやらだけが噛んでる話なんですよね」
「沢田綱吉が言うところによればそうらしいね。誰か会いたいやつでもいるわけ?」
「白々しいこと言わないでほしいなあ。キャから始まってネで終わる例のあれですよ」
半分以上溶けたアイスをカップの中でぐるぐるとかき混ぜながら、名前はにらむように書類を見た。端から端まで、すべての単語を確認しても、そこに名前が探す文字列はない。少しだけ安堵しながらピンク色のアイスをすくう――それとほぼ同時に、座卓の上のスマホが着信音とともに小さく震えた。
「……」
「スマホ、君じゃないの」
「……」
雲雀の指摘にあいまいな笑みだけを返し、名前はさらにアイスを食べ進める。急いで戻ってきたものの、体温に近いくらいの外気温にさらされていたため、すでにカップの中は液体の一歩手前のような状態と化している。急いで食べてしまわなければ――しかしまたしても、スマホが震える。今度は3度、メッセージの到着を告げたかと思えば、4度目は別の電子音が鳴り響く。電話の着信だった。
「……」
「出ないのか?」
「……仕事中だし」
「いいよ、別に。学校じゃあるまいし」
「……」
「急ぎの電話だったら困るだろう。確認だけでもしておいたらどうだ?」
「……」
雲雀と草壁、2人から促され、名前は渋々スマホに手を伸ばした。初期設定のままの着信音とともに震えているスマホのディスプレイを、なるべくたくさんの時間をかけてゆっくりと覗く。中央よりも少し上には相手の名前が大きく記され――名前は思わず顔をしかめた。すかさず雲雀が「出なよ」と、からかうように言う。
(いや、これ……出るか? 仕事のことじゃないだろうし……いやでもその可能性もまったくないわけではない……のか? 分からないけどとりあえず出たくないな。でもこの人、絶対出るまで鳴らしてくるよな。……出るしかないか)
数秒の葛藤の末、名前はアイスを置いてスマホの上に人差し指をすべらせた。それからスマホを耳にあて、おそるおそる「もしもし」と答える。1秒も待たずに「チャオ」と、明るいあいさつが返された。
「元気か? 今何してた?」
「……仕事中です。何かご用ですか」
「うん、お前の声が聞きたくて」
「あはは……」
名前は外を歩いていたときの何倍もげっそりとした気分で乾いた笑いを漏らした。電話の向こうで朗らかに笑っているのであろう男・ディーノは、名前の心情などまったく気が付いた様子もなく、とりとめのない世間話を始める。
「そっちはもう雨期は抜けたんだろ? 暑いか?」
「まあ、夏なので」
「だよなあ。日本の夏って湿気がすげーし……こっちも毎日晴れてるけどカラッとしてて、バカンス日和って感じだ。そうそう、バカンスといえばこの間、部下が」
ディーノの口がよく回っていることを確認し、名前は通話をスピーカーに切り替えた。心底楽しそうに近況を語る声が室内に響き渡るが、気にしてはいられない。名前はそのままスマホを部屋の隅に立てかけると、音を立てないよう畳の上を横切り、雲雀と草壁の間にさっと腰を下ろした。
「何をしてるんだ」
「しっ、声が大きいですよ、草壁さん」
人差し指を口の前に構え、呆れた様子の草壁を制止する。草壁はますます呆れたような顔をしたが、やはりそのようなことに構ってはいられない。うつむいて肩を震わせている雲雀を横目に、名前は至極真剣に、2人に助言を請うことにした。
「どうにかならないんですかね、あれ」
「あれとは」
「あの電話の向こうでとっても楽しそうにおしゃべりなさってる人」
「……いや、そもそも何故放置しているんだ。礼儀がなっていないぞ」
「だってときどき相槌だけ打っておけば勝手にしゃべり続けるし……」
「そんなわけないだろう」
「現実見てくださいよ、草壁さん」
あれ、と指さす先では、こちらの状況など微塵も気が付いていない様子のディーノが、スマホ越しにひたすら話し続けている。草壁はさっと視線をそらし、雲雀が笑い声を誤魔化すように軽く咳払いをした。
「……これは怖い話ですけど」
まるで怪談を始めるかのような前置きをして、名前は梅雨が始まる前から続くディーノとのやり取りを思い返した。始まりは桜が散り始めた4月。突然来日したディーノの、急な告白が最初だった。
「……4月に好きだのなんだのと言いに来たじゃないですか、あの人」
「ああ、あれはなかなか良い見世物だった」
しみじみと言う雲雀に対するいらだちを抑えながら名前は続ける。
「あのあとから週に1回くらい、こういう中身のない電話が来るんです」
4月のうちは、仕事にかこつけた電話が主だった。ピピストレッロファミリーの件や、それにまつわる後処理の報告。内容が内容だけに対応しないわけにもいかず、気が進まないなりに名前も電話に付き合っていたのだが――桜が散り、新緑の季節が過ぎ、梅雨に入るころには世間話と口説き文句が入り混じる、妙な電話に様変わりしていた。
「……最初は私も、ほら、それなりに気まずかったりしたんですよ? 一応……告白? されたのを、つっぱねたわけだし。でも週1でこんな電話かかってくれば……ねえ?」
「気持ちは分からんでもないが、ならばはっきりと交際はできないと断るべきだろう」
「断ってますよ、全力で。なのにあの人、全然めげないんです」
好きだ、惚れた、会いたい。そういった類の言葉を、手を替え品を替え投げかけてくるディーノに名前はすっかり辟易していた。
以前ならば、あるいはドキドキと胸を高鳴らせるような状況だったかもしれない。しかし名前は、とうにディーノへの恋心は断ち切ったのだ。それを掘り返すようなディーノの言動にはうんざりしていたし、かといって丸きり無視してしまうほど冷酷にもなれない。
かろうじて口説き文句にだけははっきりとノーを返し続けていたが、それでもディーノに変化はなかった。それどころかどこかうれしそうに「今はその気がなかったとしても、いつ変わるのか分からないのが女心ってやつだろ?」と返してくるのがすでにお決まりの流れとなりつつある。とにかくディーノに諦めるつもりはまるでなく、この状況すらも楽しんでいるらしいということだけは名前も十分に理解していた。
部屋の隅に置き去りにしたスマホの向こう側では、未だに1人楽しくディーノが話し続けている。名前は頭を抱えて、呻くように本心を絞り出した。
「あのガッツというか人の話を一切聞いてない感じがもういっそ怖い……私の声聞きたいって言ってるくせになんで1人で話し続けてるの……怖すぎ……」
「そういえば彼、先月の僕の出張中に1週間くらいこっちに来てたらしいじゃないか。どうだったの」
「は? 毎日本部の玄関で待ち伏せされて夕飯に連行されましたけど? 1回くらい通報しておけばよかった」
「やめてさしあげろ。……気持ちは、分からんでもないが」
「分かるなら助けてくださいよ!」
「ん? どうかしたか?」
「!」
草壁への抗議に思いのほか大きい声が出たらしく、ディーノが流れるようなトークを止めて問いかけた。名前は慌ててなんでもないと取り繕い、話の続きを促す。特に不審には思わなかったらしく、ディーノは上機嫌でバカンスの話題に戻っていった。再びディーノがペラペラと話し始めたことを確認し、深いため息を吐き出す。嫌悪というよりは疲労の蓄積によるものだった。
「もういやだ。せめて週1の電話をやめてほしい。なのに絶対にやめてくれない。ザイオンス効果でも狙ってるんですかあの人は」
「ザイオンス効果?」
「同じものに接触する回数が増えれば増えるほど良い印象を持ちやすくなるってやつ。ちなみに嫌いな相手に同じことされると嫌いという感情が何度も上書きされる結果になりますけどね」
「ふうん、じゃあ今の君は跳ね馬のこと嫌いなわけ?」
「き……らいでは、ないですけど」
「なら何をそんなにいやがってるの」
「その気がないから以外に理由がありますか」
「さあね。跳ね馬の語るところによれば、女心というやつはころころ変わるものらしいし」
「雲雀さんの気分ほどじゃないですよ。……結構真剣に電話来ないようになってほしいんですけど、マジで何かお知恵を拝借できませんか」
「簡単だ。長期任務に入ればいい」
「それだ」
名前は座卓の上に放置していた書類を手に取り、じっくりと中身に目を通した。期間はおよそ3週間。ディーノが住むイタリアへの出張にはなるが、彼のシマに出向きさえしなければ出くわすこともないだろう。そしてディーノは名前の仕事の邪魔をしてまで個人的な感情を押し付けてくるほど子どもではない。気分が少しだけ軽くなる。折よくディーノが話したいことを話し終えたようだったので、名前は早速任務の件を切り出した。
「私、しばらく出張で不在にしますので」
「え、そうなのか? どのくらい? どこに行くんだ?」
「仕事ですので詳細は教えられませんが、少なくとも3週間。あるいはもっと」
「そっか……声聞けなくなるのは残念だけど、仕事ならしょうがねーな。連絡取れるようになったら教えてくれるか?」
「そうですね、覚えていれば」
「じゃあ連絡待ってる。無理しない程度にがんばれよ」
ディーノの心からの激励を半笑いで受け流し、名前は通話を終了させて左の口角を持ち上げる。
「そして私は3週間後、このやりとりをすっかり忘れてしまうのでした」
「外道か……」
「真相がバレなきゃ大丈夫ですよ」
ひらひらとスマホを振って見せると、草壁は名前以上に深く大きなため息を吐き出した。さすがに呆れているらしい。雲雀は特に名前を咎めることはなく、ただニヤニヤと新しいおもちゃを見つけたかのように笑っていたが――今の名前にとっては、ディーノ以上の脅威ではない。
草壁の小言を聞き流しながら座卓へと戻る。アイスはとうに溶けきり、ただ甘いだけの液体と化していた。捨ててしまおうかと、一瞬だけ考える。しかしそれももったいない気がして、心の中でディーノに苦情を申し立てながらアイスの残骸の処理に取り掛かることにした。