小竜さに
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
冬の早朝の空は澄んでいた。ゆっくりと吸いこんだ空気は一瞬で肺を冷やし、まだ半分眠りの中にいた意識を覚醒させる。服で隠すことができない耳元は触れずとも分かるほどに冷たい。それでもこの冬の朝に満ちた冷気と空に浮かぶ白い月が、嫌いではなかった。
年中出したままになっている共用のサンダルを引っかけて、本丸の母屋を出る。建物にそって庭を歩くと、目元と腕をこすりながら廊下を歩き、道々で暖房をつけていく朝食当番たちと何度かすれ違った。木枯らしが吹いてから日課となっている早朝の散歩は、主譲りの寒がりが標準装備の彼らには理解しがたいらしい。朝のあいさつとともに怪訝そうな視線を投げられ、苦笑を返すほかなかった。
最初は、去年の秋口だった。朝食までの短い時間、本丸の敷地内をぐるりと巡るだけの小さな旅を始めた。きっかけは覚えていない。おそらくたまたま早起きをした日に紅葉にでもつられて、時間を潰しがてら庭に出たのだろう。これがことのほかおもしろく、週に1回程度はわざと目覚ましの時間を早めて、庭の赤や黄が徐々に濃くなる様を眺めながら、季節の移ろいを楽しんでいた。習慣として定着したのは、その翌月のこと。こちらははっきりときっかけを覚えている。たった1枚の葉の生を追いかけたいという純粋な思いとは程遠い、よこしまで俗物的な動機があった。
白い息を吐き出しながら、母屋の裏手に回り畑を通り抜ける。大根の群れの合間では、夜露を逃れた青虫が、俺の様子を窺うようにひっそりと息を潜めていた。取って食いやしないと笑いかけるも、物言わぬ彼の体は緑色の葉の陰に隠れて見えなくなる。これが桑名江であったなら、あの青虫の命はなかっただろう。幸運な小さな命に口角を上げて見せ、踵を返した。
この旅路には明確な目的地があるわけではない。どちらかと言えば最初の散歩と同じで、時間を潰す意味合いが強かった。広い本丸の中を歩き回り、昨日の朝との違いを探しながら、母屋から聞こえ始める生活音をBGMに、朝の端に沈む夜を眺める。やがてどこかで足を止め、母屋に背を向けたまま昇り始めた太陽に目を細めた頃。背中越しに名前を呼ばれるのが、お決まりのパターンだった。
「小竜!」
少しのいらだちをはらんだ声に、思わず口元が緩む。しかし彼女がそれを見れば簡単にへそを曲げてしまうと分かっていたから、意識的に普段通りの笑みの形を貼り付けて、もったいぶるようなスピードで振り向いた。
「やあ、主。今年の冬も、早起きは健在のようだね」
「誰のせいだと思ってる?」
余計な一言が気に食わなかったのだろう。ムッと口をへの字に曲げて、主は大股でこちらに歩み寄った。彼女の右手に収まる大きなストールはほかでもない、俺の私物だ。彼女がタンスから勝手に引っ張り出してきたのだろう。主は恨めしさを隠しもしないじとりとした目で俺を見上げ、びしりと左手の人差し指を地面に向けた。
「さっさとしゃがむ」
命令のままに膝を曲げると、細く折りたたまれたストールがふわりと首にかけられた。チャームポイントと自負している覗き竜がすっかり隠れ、首元に人工的なぬくもりがもたらされる。鼻先を真っ赤に染め上げた主は、かじかむ手でもたもたとストールを結ぶと、わざとらしいため息を吐き出した。
「去年も言ったけど、刀剣男士だって風邪は引くんだからね」
「親切なご忠告、感謝するよ」
「そのぺらっぺらなマントは防寒具じゃないし」
「だろうねぇ」
「私だって毎回見つけてあげられるわけじゃないんだからね」
「肝に銘じておくよ」
「……なにニヤニヤ笑ってんの?」
「いや? 早起きは三文の徳というのは本当だなと思って」
「……? ああ、確かに空はきれいかも」
先ほどまで俺が見上げていた先に視線を移し、主は納得したように頷いた。
冬は大気が澄んでいる。夜に空を見上げれば他の季節よりもはっきりと星のまたたきを見ることができるし、日中は天上まで抜けるような青が広がる。早朝もそれは同様で、橙と青が混ざり合う暁の空は、息をのむほどに美しい。寒さに小さくなる体を無理矢理に伸ばして布団を抜け出し、庭に降りるだけの価値がある。
(――でも、それだけじゃない)
折り曲げていた膝を伸ばし、横目で主を見下ろす。彼女はお世辞にも洒落た状態とは言いがたかった。起き抜けの化粧っ気のない横顔に、手ぐしですいただけなのだろう跳ねた毛先。かろうじて寝間着ではなさそうだが、着られるだけ着こんできた服はもこもこと動きづらそうで、冬毛に換わった犬や鳥のように見える。
寒い冬を毛嫌いし、身だしなみにはそれなりに気をつかうはずの彼女がこんな姿で庭に降りてきてくれたのは、1年前の秋と冬の間の季節が最初だった。女性用の赤いチェックのマフラーを片手に慌てて庭に飛び出し、防寒に無頓着な刀に小言を漏らしながらマフラーをまいてやる彼女の姿は、今でも忘れることができない。あのとき首に回されたあたたかさも、同様。首元の竜が熱に埋もれたとき、冬の朝の旅は終わりを告げた。1年経った今も、どうやらそれは変わらずにいられるらしい。
(何度小言を言われようとも、キミがこうしてぬくもりを届けてくれると知っているから。今だけは、キミを独占できると知っているから。だからこの小さな旅を、やめることができない。……なんてね)
くだらない本音を舌に乗せれば、きっと彼女は呆れかえって二度と庭に出てくることはないだろう。元より伝えるつもりもない。だから代わりに、この美しい光景を目に焼きつける。暁に照らされた愛しい人は、この胸の内でくすぶるよこしまな思いになど気づくことなく、じんわりと頬を緩めて青と橙を見つめていた。
年中出したままになっている共用のサンダルを引っかけて、本丸の母屋を出る。建物にそって庭を歩くと、目元と腕をこすりながら廊下を歩き、道々で暖房をつけていく朝食当番たちと何度かすれ違った。木枯らしが吹いてから日課となっている早朝の散歩は、主譲りの寒がりが標準装備の彼らには理解しがたいらしい。朝のあいさつとともに怪訝そうな視線を投げられ、苦笑を返すほかなかった。
最初は、去年の秋口だった。朝食までの短い時間、本丸の敷地内をぐるりと巡るだけの小さな旅を始めた。きっかけは覚えていない。おそらくたまたま早起きをした日に紅葉にでもつられて、時間を潰しがてら庭に出たのだろう。これがことのほかおもしろく、週に1回程度はわざと目覚ましの時間を早めて、庭の赤や黄が徐々に濃くなる様を眺めながら、季節の移ろいを楽しんでいた。習慣として定着したのは、その翌月のこと。こちらははっきりときっかけを覚えている。たった1枚の葉の生を追いかけたいという純粋な思いとは程遠い、よこしまで俗物的な動機があった。
白い息を吐き出しながら、母屋の裏手に回り畑を通り抜ける。大根の群れの合間では、夜露を逃れた青虫が、俺の様子を窺うようにひっそりと息を潜めていた。取って食いやしないと笑いかけるも、物言わぬ彼の体は緑色の葉の陰に隠れて見えなくなる。これが桑名江であったなら、あの青虫の命はなかっただろう。幸運な小さな命に口角を上げて見せ、踵を返した。
この旅路には明確な目的地があるわけではない。どちらかと言えば最初の散歩と同じで、時間を潰す意味合いが強かった。広い本丸の中を歩き回り、昨日の朝との違いを探しながら、母屋から聞こえ始める生活音をBGMに、朝の端に沈む夜を眺める。やがてどこかで足を止め、母屋に背を向けたまま昇り始めた太陽に目を細めた頃。背中越しに名前を呼ばれるのが、お決まりのパターンだった。
「小竜!」
少しのいらだちをはらんだ声に、思わず口元が緩む。しかし彼女がそれを見れば簡単にへそを曲げてしまうと分かっていたから、意識的に普段通りの笑みの形を貼り付けて、もったいぶるようなスピードで振り向いた。
「やあ、主。今年の冬も、早起きは健在のようだね」
「誰のせいだと思ってる?」
余計な一言が気に食わなかったのだろう。ムッと口をへの字に曲げて、主は大股でこちらに歩み寄った。彼女の右手に収まる大きなストールはほかでもない、俺の私物だ。彼女がタンスから勝手に引っ張り出してきたのだろう。主は恨めしさを隠しもしないじとりとした目で俺を見上げ、びしりと左手の人差し指を地面に向けた。
「さっさとしゃがむ」
命令のままに膝を曲げると、細く折りたたまれたストールがふわりと首にかけられた。チャームポイントと自負している覗き竜がすっかり隠れ、首元に人工的なぬくもりがもたらされる。鼻先を真っ赤に染め上げた主は、かじかむ手でもたもたとストールを結ぶと、わざとらしいため息を吐き出した。
「去年も言ったけど、刀剣男士だって風邪は引くんだからね」
「親切なご忠告、感謝するよ」
「そのぺらっぺらなマントは防寒具じゃないし」
「だろうねぇ」
「私だって毎回見つけてあげられるわけじゃないんだからね」
「肝に銘じておくよ」
「……なにニヤニヤ笑ってんの?」
「いや? 早起きは三文の徳というのは本当だなと思って」
「……? ああ、確かに空はきれいかも」
先ほどまで俺が見上げていた先に視線を移し、主は納得したように頷いた。
冬は大気が澄んでいる。夜に空を見上げれば他の季節よりもはっきりと星のまたたきを見ることができるし、日中は天上まで抜けるような青が広がる。早朝もそれは同様で、橙と青が混ざり合う暁の空は、息をのむほどに美しい。寒さに小さくなる体を無理矢理に伸ばして布団を抜け出し、庭に降りるだけの価値がある。
(――でも、それだけじゃない)
折り曲げていた膝を伸ばし、横目で主を見下ろす。彼女はお世辞にも洒落た状態とは言いがたかった。起き抜けの化粧っ気のない横顔に、手ぐしですいただけなのだろう跳ねた毛先。かろうじて寝間着ではなさそうだが、着られるだけ着こんできた服はもこもこと動きづらそうで、冬毛に換わった犬や鳥のように見える。
寒い冬を毛嫌いし、身だしなみにはそれなりに気をつかうはずの彼女がこんな姿で庭に降りてきてくれたのは、1年前の秋と冬の間の季節が最初だった。女性用の赤いチェックのマフラーを片手に慌てて庭に飛び出し、防寒に無頓着な刀に小言を漏らしながらマフラーをまいてやる彼女の姿は、今でも忘れることができない。あのとき首に回されたあたたかさも、同様。首元の竜が熱に埋もれたとき、冬の朝の旅は終わりを告げた。1年経った今も、どうやらそれは変わらずにいられるらしい。
(何度小言を言われようとも、キミがこうしてぬくもりを届けてくれると知っているから。今だけは、キミを独占できると知っているから。だからこの小さな旅を、やめることができない。……なんてね)
くだらない本音を舌に乗せれば、きっと彼女は呆れかえって二度と庭に出てくることはないだろう。元より伝えるつもりもない。だから代わりに、この美しい光景を目に焼きつける。暁に照らされた愛しい人は、この胸の内でくすぶるよこしまな思いになど気づくことなく、じんわりと頬を緩めて青と橙を見つめていた。