小竜さに
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七夕の夜、軒下から覗き込んだ空には灰色の雲がまばらに浮いていた。思い返せばこの本丸に顕現してからこのかた、恋人たちの逢瀬が賭けられたこの特別な夜に空が澄み渡っていたことは一度もない。今年もまた、いつ雨が降り出してもおかしくないような空模様だった。
「今年も織姫様は、袖を濡らすことになりそうだ」
星々の中で最も有名な恋人たちを憐れむと、背後の部屋から出てきた主がゆるりと口角を上げて隣に並んだ。
「昼間に謙信が言ってたよ。地上でどれだけ雨が降っていたって、雲の上は晴れ渡ってるはずだって」
雨は雲の上じゃなくて下に降るものだからと続ける主に、こちらも少しだけ口の端を上げる。
「謙信にしては現実的だね。でもそうなると、催涙雨の説明がつかない」
「あれは会えなくて流す涙じゃなくて、会えたうれしさで流す涙なんだろうって、小豆が」
「それはそれは、いかにもスイーツ職人らしい考えだ」
「私はちょっと納得した……というか、そうだといいなって思ったんだけど……小竜はそうでもなさそうだね」
「別に彼らの不幸を願ってるわけではないさ。ただ、そう都合のいいことばかりじゃないだろうって思っているだけ。何せ自業自得だからね、彼ら」
「すっごいマジレス……。小竜が彦星だったら、あんなことにはならなそう」
「そうだねえ……確かに、俺ならあんなヘマはしないかな」
元は真面目で仕事熱心な男女が、恋に落ちた途端に自分の責務を放棄し遊び惚けた結果がこれだ。年にたったの1回しか手を取り合うことが許されない彼らを哀れには思うものの、自分を律することなく欲に耽ったことが原因なのだから、いまいち同情しきれないところもある。
もしも自分が牽牛と同じ立場ならばそもそも恋に溺れるようなことはないし、万が一そのような事態になっても、もっとうまくやったはずだ。
「やるべきことはきっちりやる。目上の存在の逆鱗には触れない。たったそれだけのことがなんでできなかったんだか、理解に苦しむよ」
「言うは易し、ってやつじゃない? あと恋は盲目」
「ふうん? でもキミだって、織姫様と同じ心境ってわけでもなさそうじゃないか。キミを盲目にさせるには、俺の魅力が足りなかったかな?」
「それは私にも跳ね返ってくる考え方じゃない?」
「おや、俺はキミに対してだいぶ盲目的だと思っているけれど……どうやら伝わっていなかったらしい」
「またそんな冗談言って」
こちらの本気を見誤っている恋人は、くすくすと笑いながら部屋の中に戻っていった。そのあとに続き、障子戸を閉める。
彼女の私室に、他の刀はいない。この時間、この部屋に出入りを許されているのは自分だけだと自覚するたび、言い様のない充足感が湧き上がる。煌々と照っていた白い照明を消せば、間接照明の淡い橙色がぼんやりと暗闇に浮き上がった。敷いたばかりの布団にもぐり掛布団を持ち上げてやると、彼女は当然のようにそこに入り込んだ。いつもならばそのまま抱き込んで眠りにつくところだが、彼女と鏡合わせになるよう横向きに転がり、視線を合わせてみる。主はくすぐったそうに笑ってから、内緒話をするように「例えば」とささやいた。
「例えばの話だけど、もし私と小竜が偉い人を怒らせて、年に1回しか会えなくなったとして」
「ロマンチックな想像だねえ」
「そしたら小竜、どうする・」
「どう、ね。それほど選択肢は多くなさそうだけれど」
「でもいろいろあるじゃない。彦星と同じように律儀に待つとか、思いを断ち切って次にいくとか」
「俺がそんなに軽薄で潔い男に見えるかい?」
「例えばだってば。……私だったら、とりあえず1年待つだろうなって思って」
なんだかんだと真面目な彼女が、恋人を思いながら1人懸命に仕事をこなし、再会の時を健気に待ち続ける様子が容易に想像できた。きっと毎日が辛く、何度も涙で枕を濡らしただろうに、俺の間に立つときはそんなこと微塵も感じさせずに気丈に振る舞うのだろう。そんなことまでもがリアルに頭に思い浮かぶ。そしてたった1回でもそのような姿を見せられれば――きっと俺は、次を待つことはできなくなるだろう。
「そうだねえ……」
考えごとをするふりをしながら、間近でまたたく暗い色の瞳をじっと覗き込む。頬をなでれば心地よさそうに細められる瞳が愛らしく、指先で触れた唇の熱が、何物にもかえがたい。この、手を伸ばせば触れられる距離を手放すことなど、できるわけがない。
「俺は、待たないかな」
「……じゃあどうするの?」
「さらいに行く」
「どうやって?」
「さあ、俺は天の事情には詳しくないからね、具体的な手段まではさすがに分からない。けれど、たかが川じゃないか。越える手段はひとつじゃないだろうし、天には賢人も多くいるだろう。とにかくなんとか川を渡って、キミをさらって……旅に出ようかな。空には羽が生えた天馬もいると聞くし、遠駆けも楽しそうだ」
「ふふ、でもペガスス座は秋の星座だよ」
「じゃあ秋までは、悲しい意味での催涙雨を降らせ続けてもらうしかないな」
「そんなに待たされたら、泣くのに飽きて自力で脱出しちゃうよ」
「それは願ったりかなったりだ。集合場所を決めておこう」
「アンドロメダの西南で、スワンの星座を東南のところ」
「……ん? 位置関係、おかしくないかい?」
「そうなの? そういう歌があるんだけど……脱走したら、確かめなくちゃね」
夢の中でだって実現することはないだろう冗談を言い合っているうちに、主はもぞもぞと布団の中にもぐっていった。俺の腕をぐいぐいと引っ張って背に回し、胸元に額を押し付けてまぶたを下ろす。その安心しきった様子に、胸の辺りがじんわりと熱くなる。いつのころからか、この場所が俺の定位置になっていた。
(1年に1回程度で、満足できるわけがない)
顔を合わせ、言葉を交わし、この熱に触れれば触れるほど、どんどん彼女のことが手放しがたくなっていく。彼女にも、そうであってほしいと願う。年に1度の逢瀬程度では満足できないと、俺を手放すことなどできそうにないと――そう言ってほしいと、願ってしまう。それはまごうことなき独占力であり、俺が彼女に盲目的であることの証左だった。
「……らしくないな」
「脱走?」
「それはまさしくキミらしい行動だと思うよ。ひとまず1年は待ってみるところとか、特に。……キミじゃなくて、俺の話」
「そう? 好きな人をさらって旅に出るなんて、いかにも小竜がやりそうじゃない」
「そこじゃなくて……まあいいか。とにかく今日くらいは俺も、織女と牽牛の幸せを願っておこう」
「さっきまで自業自得って言ってたのに……」
「恋に溺れる先輩方に敬意を払っておくことにしただけさ」
「全然分からない……」
あくびを噛み殺して目元をこする主に苦笑を漏らし、ゆっくりと背中をなでてやる。まったく自分らしからぬ言動に呆れに近い感情を抱くが、愛しい人の輪郭をなぞるうちに、それも些末なことに思えてくる。やがて聞こえ始めた規則正しい寝息は、雨音に邪魔されることなく七夕の夜に溶けていった。
「今年も織姫様は、袖を濡らすことになりそうだ」
星々の中で最も有名な恋人たちを憐れむと、背後の部屋から出てきた主がゆるりと口角を上げて隣に並んだ。
「昼間に謙信が言ってたよ。地上でどれだけ雨が降っていたって、雲の上は晴れ渡ってるはずだって」
雨は雲の上じゃなくて下に降るものだからと続ける主に、こちらも少しだけ口の端を上げる。
「謙信にしては現実的だね。でもそうなると、催涙雨の説明がつかない」
「あれは会えなくて流す涙じゃなくて、会えたうれしさで流す涙なんだろうって、小豆が」
「それはそれは、いかにもスイーツ職人らしい考えだ」
「私はちょっと納得した……というか、そうだといいなって思ったんだけど……小竜はそうでもなさそうだね」
「別に彼らの不幸を願ってるわけではないさ。ただ、そう都合のいいことばかりじゃないだろうって思っているだけ。何せ自業自得だからね、彼ら」
「すっごいマジレス……。小竜が彦星だったら、あんなことにはならなそう」
「そうだねえ……確かに、俺ならあんなヘマはしないかな」
元は真面目で仕事熱心な男女が、恋に落ちた途端に自分の責務を放棄し遊び惚けた結果がこれだ。年にたったの1回しか手を取り合うことが許されない彼らを哀れには思うものの、自分を律することなく欲に耽ったことが原因なのだから、いまいち同情しきれないところもある。
もしも自分が牽牛と同じ立場ならばそもそも恋に溺れるようなことはないし、万が一そのような事態になっても、もっとうまくやったはずだ。
「やるべきことはきっちりやる。目上の存在の逆鱗には触れない。たったそれだけのことがなんでできなかったんだか、理解に苦しむよ」
「言うは易し、ってやつじゃない? あと恋は盲目」
「ふうん? でもキミだって、織姫様と同じ心境ってわけでもなさそうじゃないか。キミを盲目にさせるには、俺の魅力が足りなかったかな?」
「それは私にも跳ね返ってくる考え方じゃない?」
「おや、俺はキミに対してだいぶ盲目的だと思っているけれど……どうやら伝わっていなかったらしい」
「またそんな冗談言って」
こちらの本気を見誤っている恋人は、くすくすと笑いながら部屋の中に戻っていった。そのあとに続き、障子戸を閉める。
彼女の私室に、他の刀はいない。この時間、この部屋に出入りを許されているのは自分だけだと自覚するたび、言い様のない充足感が湧き上がる。煌々と照っていた白い照明を消せば、間接照明の淡い橙色がぼんやりと暗闇に浮き上がった。敷いたばかりの布団にもぐり掛布団を持ち上げてやると、彼女は当然のようにそこに入り込んだ。いつもならばそのまま抱き込んで眠りにつくところだが、彼女と鏡合わせになるよう横向きに転がり、視線を合わせてみる。主はくすぐったそうに笑ってから、内緒話をするように「例えば」とささやいた。
「例えばの話だけど、もし私と小竜が偉い人を怒らせて、年に1回しか会えなくなったとして」
「ロマンチックな想像だねえ」
「そしたら小竜、どうする・」
「どう、ね。それほど選択肢は多くなさそうだけれど」
「でもいろいろあるじゃない。彦星と同じように律儀に待つとか、思いを断ち切って次にいくとか」
「俺がそんなに軽薄で潔い男に見えるかい?」
「例えばだってば。……私だったら、とりあえず1年待つだろうなって思って」
なんだかんだと真面目な彼女が、恋人を思いながら1人懸命に仕事をこなし、再会の時を健気に待ち続ける様子が容易に想像できた。きっと毎日が辛く、何度も涙で枕を濡らしただろうに、俺の間に立つときはそんなこと微塵も感じさせずに気丈に振る舞うのだろう。そんなことまでもがリアルに頭に思い浮かぶ。そしてたった1回でもそのような姿を見せられれば――きっと俺は、次を待つことはできなくなるだろう。
「そうだねえ……」
考えごとをするふりをしながら、間近でまたたく暗い色の瞳をじっと覗き込む。頬をなでれば心地よさそうに細められる瞳が愛らしく、指先で触れた唇の熱が、何物にもかえがたい。この、手を伸ばせば触れられる距離を手放すことなど、できるわけがない。
「俺は、待たないかな」
「……じゃあどうするの?」
「さらいに行く」
「どうやって?」
「さあ、俺は天の事情には詳しくないからね、具体的な手段まではさすがに分からない。けれど、たかが川じゃないか。越える手段はひとつじゃないだろうし、天には賢人も多くいるだろう。とにかくなんとか川を渡って、キミをさらって……旅に出ようかな。空には羽が生えた天馬もいると聞くし、遠駆けも楽しそうだ」
「ふふ、でもペガスス座は秋の星座だよ」
「じゃあ秋までは、悲しい意味での催涙雨を降らせ続けてもらうしかないな」
「そんなに待たされたら、泣くのに飽きて自力で脱出しちゃうよ」
「それは願ったりかなったりだ。集合場所を決めておこう」
「アンドロメダの西南で、スワンの星座を東南のところ」
「……ん? 位置関係、おかしくないかい?」
「そうなの? そういう歌があるんだけど……脱走したら、確かめなくちゃね」
夢の中でだって実現することはないだろう冗談を言い合っているうちに、主はもぞもぞと布団の中にもぐっていった。俺の腕をぐいぐいと引っ張って背に回し、胸元に額を押し付けてまぶたを下ろす。その安心しきった様子に、胸の辺りがじんわりと熱くなる。いつのころからか、この場所が俺の定位置になっていた。
(1年に1回程度で、満足できるわけがない)
顔を合わせ、言葉を交わし、この熱に触れれば触れるほど、どんどん彼女のことが手放しがたくなっていく。彼女にも、そうであってほしいと願う。年に1度の逢瀬程度では満足できないと、俺を手放すことなどできそうにないと――そう言ってほしいと、願ってしまう。それはまごうことなき独占力であり、俺が彼女に盲目的であることの証左だった。
「……らしくないな」
「脱走?」
「それはまさしくキミらしい行動だと思うよ。ひとまず1年は待ってみるところとか、特に。……キミじゃなくて、俺の話」
「そう? 好きな人をさらって旅に出るなんて、いかにも小竜がやりそうじゃない」
「そこじゃなくて……まあいいか。とにかく今日くらいは俺も、織女と牽牛の幸せを願っておこう」
「さっきまで自業自得って言ってたのに……」
「恋に溺れる先輩方に敬意を払っておくことにしただけさ」
「全然分からない……」
あくびを噛み殺して目元をこする主に苦笑を漏らし、ゆっくりと背中をなでてやる。まったく自分らしからぬ言動に呆れに近い感情を抱くが、愛しい人の輪郭をなぞるうちに、それも些末なことに思えてくる。やがて聞こえ始めた規則正しい寝息は、雨音に邪魔されることなく七夕の夜に溶けていった。