小竜さに
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始まりは、1枚の小さな白い花びらだった。
あたたかい空気を逃がさぬよう、しっかりと閉めきっていたはずの執務室。書類が重なる文机の上で静かに横たわるその花弁は、風に流され自然に入り込んだものではない。ほんの10分程度席を外している間に現れた花の名前すら知らなかった私は、通りかかった小夜左文字に声をかけられるまで、慎重に手のひらの上に運んだそれを無意味に眺め続けることしかできなかった。
その後も似たようなことが何度かあった。まぶしいくらい鮮やかな黄色の菜の花や青と紫がまざりあったような紫陽花の花びら。やわらかなオフホワイトのコスモスに、サルスベリの名前からは想像できないかわいらしい桃色の花弁。秋田藤四郎から借りた植物図鑑を一生懸命めくりながら花々の名前を探し、まったく使っていない辞書の間にそれを挟み込むということを続けてまもなく1年。今日もまた、最初と同じ白梅を一枝、文机の上で見つけた。
「贈り主がどなたなのか、主君はご存知なんですか?」
一輪挿しを準備してくれた秋田に首を振ると、知りたくはないのかと彼はわずかに首を傾けた。
「そういうわけじゃないけど、知られたくないならそれでいいかなって思って。……見て、秋田。きれいにできてる」
1年間溜め続けた押し花を見て、秋田は「わあ!」と目を輝かせた。少し退色しているものの、きれいに水分が抜けてぺちゃんこになった草花を白い紙の上に丁寧に並べていく。春の花、夏の花、秋の花、冬の花。およそ1カ月に1回届けられた花ひとつひとつを見れば、容易にこれらを見つけた瞬間を思い出すことができる。それは秋田も同じようで、桃色の花びらを指先で慎重につまみながら口元をほころばせた。
「サルスベリがこんな花を咲かせるなんて、知りませんでした。梅の花の甘い香りも、紫陽花の色が土地によって違う理由も……この1年間で、もっと花に詳しくなったような気がします」
「私も。……ずっと、花を見る余裕なんかなかったもんね」
1年前といえば刀剣男士の数がぐっと増え、本丸運営の方法を大幅に見直していた時期だった。出陣や遠征に加えて書類整理やマニュアルの作成、本丸の配置変更や大掃除等、古参の刀たちの手も借りて毎日遅くまで作業していた。目の下に隈をこさえて「遠くに行きたい」とぼやくのが口癖のようになっていた時期でもあり、今思うと、それを聞いていた誰かが慰めに四季折々の贈り物をしてくれたのだろう。
「誰かさんに、お礼ができたらいいんだけど」
届いたばかりの梅の花を1つだけ枝から外し、空になった辞書にはさんでそっと閉じる。
定期的に届く花の贈り物は、慌ただしく過ぎる日常の中でささやかな楽しみになっていた。文机の上に鮮やかな色彩を見つけると心がパッと明るくなったし、きっと出陣先で見つけたのだろう花を私のために持ち帰り、言葉もなく置いていくというだけのささやかな気遣いがうれしかった。
贈り主が誰なのかは、別に知らなくともいい。それでもこの誰かが与えてくれた感情のあたたかさを、お礼とともに伝えたい。
「何かいい方法ないかな」
辞書を元の場所に戻し、一輪挿しを文机の端に寄せる。その間、腕を組んでむむむと唸っていた短刀は、パッと空色の目を開いて手紙を書くのはどうかと言った。妙案に思えたが、唯一にして最大の課題がすぐに浮かぶ。
「手紙かぁ……どうやって渡せばいいのかな」
「うーん……あっ、文机に置いたままにしておくというのはどうでしょうか」
「それだと自分宛てだって分からないかも。それに、他の子が開けちゃうかもしれない」
「そっか、贈り主は正体を知られたくないわけだから……贈り主だけに伝わるようにお手紙を置いておく方法……」
自分のことのように考え込む秋田にくすりと笑みをこぼして、畳の上の懐紙に並んだ押し花をひとつずつ手に取る。朽ちてしまうことが惜しくて押し花にしてみたが、特に使い道を考えていたわけではない。栞にするのが定番だが、残念ながら私はほとんど本を読まない。作ったところで引き出しの肥やしになるだけだろう。ならばフォトフレームでも買ってきて、机の上にかざってみようか。それともやはり栞にして、誰かのプレゼントしてもいいかもしれない。
「……あ、そうか。ねえ、秋田。こういうのはどうかな」
押し花の使い道をあれこれと検討しているうちに思いついたアイディアを、早速近侍に提案してみる。彼は顔を明るくさせて「とても良いお考えです!」と全面的に同意を示し、兄弟から道具を借りてくると言ってすぐさま執務室を飛び出した。
「あっ、秋田」
急に飛び出したうえに走っては危ない。制止しようとしたが時すでに遅く、私が障子戸の間から顔を出したときには衝突事故が起きていた。縁側の角から現れた小竜景光に、秋田が真正面からぶつかったようだった。
「おっと」
「わっ、す、すみません、小竜さん……!」
「別に構わないよ。随分とお急ぎのようだね、近侍殿」
「はい! 主君と贈り主のために、大切なお仕事があるんです!」
「ふうん? よく分からないけど、がんばって」
「ありがとうございます!」
使命感に燃えている秋田は元気よく礼を言って、小竜が来た道を駆けていった。その背中を見送ったあと、ゆるんだ口元はそのままに小竜はこちらに視線を寄越す。人懐こい秋田とは正反対に、小竜は私とは距離を置いた付き合いを好んでいる。そのままどこかに行ってしまうだろうと見越して手を振ってから引っ込んだが、意外にも彼はひょこと執務室を覗き込んできた。
「ずいぶんと張り切っていたね」
「うん、栞づくりを手伝ってくれるって」
「栞?」
「そう。押し花がたくさんできたから」
視線で文机を指すと、小竜は紫色の瞳をぱちりとまたたかせた。気のせいでなければ、少し呆気にとられているようにも見える。常に余裕たっぷりな笑みを携え、怪我を負ったときですら隙を見せない彼には珍しい表情だった。私が押し花を作るのがそれほど予想外だったのだろうか。そう考えると、多少おもしろくない気持ちになる。
「私だって、たまにはこういうこともするよ」
「え? ……ああ、違う違う。キミにこんな趣味があるだなんて夢にも思わなかった、なんて思ったわけじゃないさ。またたくさん集めたなと……驚いてね」
「全部もらったの。プレゼントは大切にするものでしょう?」
「プレゼント? そんな、花びら1枚が?」
「花びら1枚でも、もらえばうれしいじゃない」
理解できないとでも言いたげな小竜から視線を外し、彼が言う花びら1枚を手のひらに乗せる。ちょうど1年程前、この梅花のかけらを同じように見つめた。あのときは本当にうれしかったのだ。誰かが私を思ってこの花びらを拾い上げ、ここまで届けてくれたことが。直接手渡すことだってできたのに、ただ文机の上にこれを残した――きっと打算も何もなく、ただ私のことだけを思ってしてくれたこの行為が、心の底からうれしかった。今も、この白い花びらを見ているだけであたたかい気持ちが蘇る。じんわりとゆるんだ頬も、わずかに上がった体温も、顔も知らない贈り主がくれたものだ。
「誰がくれたのかは分からないんだけど……すごくうれしかったから、栞にして返すことにしたの。手紙も書いて、これと一緒に置いておけば、きっと贈ってくれた人には伝わるだろうから」
「……」
「あ、でも栞だとあんまり喜ばないかな。短刀とか……歌仙とか古今辺りだったら喜んでくれそうだけど」
「……喜ぶと思うよ。キミが返してくれるものなら、なんでも」
「そう?」
「ああ、そうじゃなきゃ、そんなにたくさん花を置いていったりしないさ」
「……小竜って意外と優しいんだね」
思わず漏れた本音が、口の端からぽろりと零れた。ハッと慌てて口をつぐむも、時すでに遅し。あまりにも失礼な感想に気を悪くしたかと恐る恐る小竜を見上げると、紫色の瞳がもう一度ぱちりとまたたき、それからからかうように細められた。
「なるほど? どうやら俺は血も涙もない、冷えたなまくらだと思われていたようだ」
「そんなんじゃないけど……あんまり話したこともなかったから」
怒っているふうではなかったことに胸をなでおろし、言い訳じみた言葉をもごもごと返す。他の刀たちと比べ、小竜とは任務のこと以外で言葉を交わしたことが極端に少ない。任務が終われば最低限の報告を残してすぐさま姿をくらましてしまうし、それ以外の時間はそもそも私のそばに寄ろうとしない。だから会話が続いたというだけで少し驚いていたのに、まさか優しく背中を押すような言葉ややわらかな笑顔を向けてくれるだなんて思いもしなかったのだ。
「……そうだ、このこと、秋田以外には秘密ね? 贈り主さんは正体知られたくないみたいだから」
「キミの頼みだ。断る理由もない。それじゃ、邪魔になる前に退散しよう」
あからさまに話をそらした私に追及することなく、小竜は存外あっさりと頷いてゆったりと縁側を歩いていった。なんとなく執務室から身を乗り出して、その背中を見送る。あたたかさを帯びてきた春の風に合わせてひらひらと揺れる外套は、まるでとらえどころがない彼の人となりを表しているようだ。
(今度、もうちょっと話しかけてみようかな)
これまでは本人が嫌がるだろうからとこちらからのコミュニケーションは控えていたが、今日の様子を見るに彼は存外気安い性格をしているのかもしれない。早速夕飯のときにでも声をかけてみようか。思わぬ収穫に口元を緩ませながら縁側にはみだしていた上半身を元の位置に戻そうとして、ふと、床に小さな花びらを見つけた。何とはなしに指先でつまみあげた薄いピンク色には覚えがある。
「……桜?」
図鑑がなくともさすがに分かる、日本人の大半が親しむ花。小さな桜の花びらがひとつきり、私の指先に収まっている。
(まだ時期じゃないのに?)
首を傾げながら庭を見やる。本格的な春が来れば見事に咲き誇るソメイヨシノは未だ花をつけず、寒々しい枝ばかりが空に向かって伸びている。今、花びらを散らしているのは白梅だ。ならばこの桜はいったいどこから現れたのだろうか。
「主君ー!」
不思議に思いながら執務室に引っ込んだところで、出て行ったときと同じくらいのにぎやかさで秋田が戻ってきた。桜よりも濃い桃色の髪の毛は少し乱れ、空よりも澄んだ青い瞳はキラキラと輝いている。秋田は抱えていた道具箱とポスターのように丸めた紙を畳の上に置くと、大変なことに気が付いたのだと興奮しきった様子で私につめよった。
「な、なに?」
「気づいたんです! 贈り主さんは、見つけてくれって言ってるんですよ!」
「? どういうこと?」
「これ、見てください!」
筒のように丸まっていた紙を開くと、秋田は一点を指さした。
その紙は本丸の地図のようだった。私が所持している事務的な図面ではなく、色鉛筆を駆使して描かれた手書きの地図。私たちがいる母屋を中心に、畑や道場、鍛刀場、広大な裏山等、敷地の端から端までがデフォルメしたイラストで記されている。おそらく最近作られたものではない。元は白かったのだろう紙が少し黄ばんでいるし、全体的にハリがなくくったりしている。どうやら秋田が顕現当初からこつこつと作った地図のようだった。
「ここ、これが母屋です。目の前のお庭に白梅があります」
「うん」
「それで、建物をこちら側に回ると菜の花畑が」
「誰かさんは、敷地内で花を摘んでくれてたんだね」
「はい。でもそれだけじゃないんです」
好奇心旺盛な彼は、四季折々の本丸の様子をよく観察し記憶していた。声を弾ませながら、秋田は地図の上に押し花を置いていく。
「道すがら、ふと思ったんです。ここにあるのと同じ花が本丸中、バラバラの場所にあって……でもこの色、この形の紫陽花は、本丸にはひとつしかないんです。それに今日いただいた白梅は、よく見ると1年前のものと品種が違います。僕が把握している限りでは2本しかありません」
白梅、菜の花、コスモス、サルスベリ、紫陽花。実際にそれらが生えている場所に配置されていく花々を見て、私もあっと声を上げる。庭先から建物をぐるりと回って菜の花畑を抜け、裏庭の曲がりくねった道を進み――白梅から、白梅へと到達する。1年分の押し花は地図の上で、美しい1本の道を描いていた。
「贈り主さんは見つけてほしいんですよ、主君に」
幾分か落ち着いた様子で、秋田は繰り返す。
「隠れているから追っておいでって、そう言ってるんです」
返す言葉が見つからず、手製の地図と美しい道しるべを無言で見下ろす。ただ、私の心を慰めるために届けてくれていたのだろうと思い込んでいた花々に、こんな意味があっただなんて。もし秋田が気づかなければ埋もれていたメッセージ。きっとそれでもいいからと道しるべを置き続けた贈り主の心情を、私でははかることができない。
いったい何故、こんなにもすてきな贈り物をしてくれたのだろう。秋田が言うことが正しいのならば、どうして私に見つけてほしいと思ってくれたのだろう。
「ちょっと出てくる」
何か明確な答えが出る前に、かき集めた押し花を優しく両手で握りしめ、執務室を飛び出していた。
「いってらっしゃい、主君」
近侍の声を背中で受け止め、縁側を駆ける。玄関に回ってもたもたと靴を履き、外を通って執務室の前の庭へ。秋田が描いた1本道と手の中の花々を頼りに、目的地を目指す。ただごとではない様子の私に刀たちはぎょっとしていたが、今は咲いていない花の場所を尋ねれば快く教えてくれた。
こうして外を歩き回るのは久しぶりのことだった。生活は母屋の中で完結するし、畑や鍛刀場には行っても目的が達成すれば長居はしない。出かけるとしてもせいぜい万屋くらいで、広大な敷地の中をつぶさに観察しながら歩くのは、おそらく審神者就任以来だろう。
花を咲かせるにはまだ遠い紫陽花を横目に坂道を登る。この小高い丘とも山とも言いがたい場所に来るのは初めてだ。かろうじてできている獣道のような狭い道を小走りで進み、つるりとした木肌のサルスベリの横を抜け、すっかり息が上がったころ。
ひらりと目の前を横切った白い花びらに誘われるように上げた視線の、その先。鬱蒼と茂る木々の合間に、ふわりと揺れる金の糸を見つけた。
「おや。さっきぶりだね、主」
ゆるやかな春風を受けてこぼれる白梅の下。紫色の瞳が私を見つけて細められた。
「小竜……?」
「今日はキミと縁がある日のようだ。ずいぶんと急いでいるようだけど……何か探しものかい?」
私の手元をちらりと見てから、小竜は視線を元の位置に戻した。呼吸を整えながら歩み寄れば、彼が座る場所には畳2枚分程度の小さなスペースが空いている。まるで秘密基地のような、秋田が好みそうな場所だった。
「……そうだね、探しもの。無事、見つかったよ」
「それは何より。我が本丸の近侍殿は優秀なようで安心したよ」
「……ねえ、小竜。どうして?」
「何が?」
「いろいろ。どうしてかなって思うことがたくさんありすぎて、困ってる」
梅の木を挟んで、外套に包まれた背中をじっと見つめる。
まさかこの花々の贈り主が小竜だとは思いもしなかった。だって彼は一度だって、私のことを特別気にかけているような振る舞いはしていなかったのだ。いつも彼は私から距離を置いていたし、きちんと会話をしたことすらほとんどない。さっきだって、目の前にいるのが渦中の刀だなどと、少しも感じさせなかった。
どうして彼は1年もの間、このささやかな贈り物を続けてくれたのか。秋田の言うことを信じるならば、どうしてこのかくれんぼのようなことを始めたのか――どうして、この場所で私を待ち続けてくれたのか。
知りたいことがたくさんある。けれどミステリアスを自称する彼はあいまいな笑い声を漏らすばかりで、はっきりとした答えを示してはくれない。
「小竜」
困り果てて名前を呼べば、彼は少しだけ振り向いて私を手招いた。拒否する理由もなかったので、誘われるがまま彼が座る白梅の下に立つ。
眼下には、美しい景色が広がっていた。
遠くまで広がる山々に、春の気配が芽生えている。やわらかな緑色の合間をほころび始めた白や桃色が彩り、春告鳥がのんびりとさえずる。その中心に構える本丸からは、誰かの笑い声が聞こえてくる。畑では誰かが土を耕し、縁側では馴染みの面々が茶を楽しみ、身軽な刀たちが寝転ぶ屋根は陽光を受けてキラキラと輝いていた。呼吸も忘れて、美しい景色に見入る。
「俺はキミが何をそんなに困っているのかは知らないし、いつも忙しなく、目の下を真っ黒にしてまで働いている理由もさっぱり分からないけれど」
この光景を独り占めしていた刀が、口調に反してやわらかな声音で言う。
「キミが守っているものの美しさは、きっと誰よりも知っているだろうね」
まるで春の日だまりのような答えだった。執務室から握りしめてきたこの小さな花たちを贈ってくれた誰かを思い起こす、何の打算もない、ただただ優しいだけの言葉。
(いつもここにいたの? ここに来て、そんなことを考えていてくれたの?)
この場所から本丸を見下ろし、私にも同じものを見せてやろうと思ってくれたのだろうか。ここは、私が必死になって守っているものはこんなにも美しいのだと、それを私自身に伝えようとしてくれたのだろうか。
日差しにさらされた耳がじんわりと熱い。一生懸命坂道を駆けてきたから、体中の体温も上がっている。この体温も、上向いた口角も、ぬくもりを元にして膨らんでいくようなぽかぽかとした気持ちも――それを与えてくれたのは、目元をゆるませて本丸を見下ろす、この刀だ。
「……手紙、書かなくちゃ」
「ああ、栞と一緒にね」
「うん。1年間のお礼と……今度から花は直接渡してほしいし、私にも分かるような方法で散歩に誘ってほしいって、書いておく」
「相手が素直にお願いを聞いてくれる優しい刀であることを祈っておいてあげようか」
「大丈夫。たぶんこの本丸で、一番優しい刀だから」
余裕をにじませていた瞳がかすかに丸くなって私を見上げた。少しやり返せたような気になって、ニヤリと笑んできびすを返す。遅れて聞こえてきた笑い声が意味するところは、やはりよく分からない。けれどきっと次も、彼は私がいない間に執務室に忍び込み、正体を知られないまま春の花を文机に添えていくのだろう。なんとなく、お願いは聞いてもらえない気がした。
来たときよりもゆっくりと丘を下る。その最中、ざあと強い風が吹いた。押し花たちが飛んでいってしまわないよう背中を丸めて花散らしの風をやりすごす。荒々しい春風は小竜の頭上でひらひらと舞っていた白梅をさらって、獣道を駆け抜けていった。背後から飛んできた花びらをもったいなく思いながら眺めていると、ふとその中に、いくつかの薄桃色を見つける。
(桜だ)
遠目に見ても分かる、縁側に落ちていたのと同じ花びら。辺りを見回しても、早咲きの桜は見当たらない。いったいどこから飛んできたものなのか見当もつかないが、別に悪いものでもないだろう。
(秋田と……小竜に、聞いてみようかな)
きっと彼らは他にも、私が知らないこの本丸のことをたくさん知っている。素直に答えてくれるかどうかは置いておいて、どこからやってくるの分からない桜の正体も、きっと知っているに違いない。風に注意しながらそっと手を開き、押し花と一緒に握ったままにしていた縁側の桜を見下ろす。この花びらも辞書に挟み、押し花にしよう。まぶたの裏から離れない美しい景色と、それを見守る優しいすみれ色を、少しでも長く心に留めておけるように――この春の陽気のようなあたたかな気持ちを、いつかもう一度、共有できるように。
たった1枚の花びらたちをそっと、けれどしっかりと、握りこむ。
あたたかい空気を逃がさぬよう、しっかりと閉めきっていたはずの執務室。書類が重なる文机の上で静かに横たわるその花弁は、風に流され自然に入り込んだものではない。ほんの10分程度席を外している間に現れた花の名前すら知らなかった私は、通りかかった小夜左文字に声をかけられるまで、慎重に手のひらの上に運んだそれを無意味に眺め続けることしかできなかった。
その後も似たようなことが何度かあった。まぶしいくらい鮮やかな黄色の菜の花や青と紫がまざりあったような紫陽花の花びら。やわらかなオフホワイトのコスモスに、サルスベリの名前からは想像できないかわいらしい桃色の花弁。秋田藤四郎から借りた植物図鑑を一生懸命めくりながら花々の名前を探し、まったく使っていない辞書の間にそれを挟み込むということを続けてまもなく1年。今日もまた、最初と同じ白梅を一枝、文机の上で見つけた。
「贈り主がどなたなのか、主君はご存知なんですか?」
一輪挿しを準備してくれた秋田に首を振ると、知りたくはないのかと彼はわずかに首を傾けた。
「そういうわけじゃないけど、知られたくないならそれでいいかなって思って。……見て、秋田。きれいにできてる」
1年間溜め続けた押し花を見て、秋田は「わあ!」と目を輝かせた。少し退色しているものの、きれいに水分が抜けてぺちゃんこになった草花を白い紙の上に丁寧に並べていく。春の花、夏の花、秋の花、冬の花。およそ1カ月に1回届けられた花ひとつひとつを見れば、容易にこれらを見つけた瞬間を思い出すことができる。それは秋田も同じようで、桃色の花びらを指先で慎重につまみながら口元をほころばせた。
「サルスベリがこんな花を咲かせるなんて、知りませんでした。梅の花の甘い香りも、紫陽花の色が土地によって違う理由も……この1年間で、もっと花に詳しくなったような気がします」
「私も。……ずっと、花を見る余裕なんかなかったもんね」
1年前といえば刀剣男士の数がぐっと増え、本丸運営の方法を大幅に見直していた時期だった。出陣や遠征に加えて書類整理やマニュアルの作成、本丸の配置変更や大掃除等、古参の刀たちの手も借りて毎日遅くまで作業していた。目の下に隈をこさえて「遠くに行きたい」とぼやくのが口癖のようになっていた時期でもあり、今思うと、それを聞いていた誰かが慰めに四季折々の贈り物をしてくれたのだろう。
「誰かさんに、お礼ができたらいいんだけど」
届いたばかりの梅の花を1つだけ枝から外し、空になった辞書にはさんでそっと閉じる。
定期的に届く花の贈り物は、慌ただしく過ぎる日常の中でささやかな楽しみになっていた。文机の上に鮮やかな色彩を見つけると心がパッと明るくなったし、きっと出陣先で見つけたのだろう花を私のために持ち帰り、言葉もなく置いていくというだけのささやかな気遣いがうれしかった。
贈り主が誰なのかは、別に知らなくともいい。それでもこの誰かが与えてくれた感情のあたたかさを、お礼とともに伝えたい。
「何かいい方法ないかな」
辞書を元の場所に戻し、一輪挿しを文机の端に寄せる。その間、腕を組んでむむむと唸っていた短刀は、パッと空色の目を開いて手紙を書くのはどうかと言った。妙案に思えたが、唯一にして最大の課題がすぐに浮かぶ。
「手紙かぁ……どうやって渡せばいいのかな」
「うーん……あっ、文机に置いたままにしておくというのはどうでしょうか」
「それだと自分宛てだって分からないかも。それに、他の子が開けちゃうかもしれない」
「そっか、贈り主は正体を知られたくないわけだから……贈り主だけに伝わるようにお手紙を置いておく方法……」
自分のことのように考え込む秋田にくすりと笑みをこぼして、畳の上の懐紙に並んだ押し花をひとつずつ手に取る。朽ちてしまうことが惜しくて押し花にしてみたが、特に使い道を考えていたわけではない。栞にするのが定番だが、残念ながら私はほとんど本を読まない。作ったところで引き出しの肥やしになるだけだろう。ならばフォトフレームでも買ってきて、机の上にかざってみようか。それともやはり栞にして、誰かのプレゼントしてもいいかもしれない。
「……あ、そうか。ねえ、秋田。こういうのはどうかな」
押し花の使い道をあれこれと検討しているうちに思いついたアイディアを、早速近侍に提案してみる。彼は顔を明るくさせて「とても良いお考えです!」と全面的に同意を示し、兄弟から道具を借りてくると言ってすぐさま執務室を飛び出した。
「あっ、秋田」
急に飛び出したうえに走っては危ない。制止しようとしたが時すでに遅く、私が障子戸の間から顔を出したときには衝突事故が起きていた。縁側の角から現れた小竜景光に、秋田が真正面からぶつかったようだった。
「おっと」
「わっ、す、すみません、小竜さん……!」
「別に構わないよ。随分とお急ぎのようだね、近侍殿」
「はい! 主君と贈り主のために、大切なお仕事があるんです!」
「ふうん? よく分からないけど、がんばって」
「ありがとうございます!」
使命感に燃えている秋田は元気よく礼を言って、小竜が来た道を駆けていった。その背中を見送ったあと、ゆるんだ口元はそのままに小竜はこちらに視線を寄越す。人懐こい秋田とは正反対に、小竜は私とは距離を置いた付き合いを好んでいる。そのままどこかに行ってしまうだろうと見越して手を振ってから引っ込んだが、意外にも彼はひょこと執務室を覗き込んできた。
「ずいぶんと張り切っていたね」
「うん、栞づくりを手伝ってくれるって」
「栞?」
「そう。押し花がたくさんできたから」
視線で文机を指すと、小竜は紫色の瞳をぱちりとまたたかせた。気のせいでなければ、少し呆気にとられているようにも見える。常に余裕たっぷりな笑みを携え、怪我を負ったときですら隙を見せない彼には珍しい表情だった。私が押し花を作るのがそれほど予想外だったのだろうか。そう考えると、多少おもしろくない気持ちになる。
「私だって、たまにはこういうこともするよ」
「え? ……ああ、違う違う。キミにこんな趣味があるだなんて夢にも思わなかった、なんて思ったわけじゃないさ。またたくさん集めたなと……驚いてね」
「全部もらったの。プレゼントは大切にするものでしょう?」
「プレゼント? そんな、花びら1枚が?」
「花びら1枚でも、もらえばうれしいじゃない」
理解できないとでも言いたげな小竜から視線を外し、彼が言う花びら1枚を手のひらに乗せる。ちょうど1年程前、この梅花のかけらを同じように見つめた。あのときは本当にうれしかったのだ。誰かが私を思ってこの花びらを拾い上げ、ここまで届けてくれたことが。直接手渡すことだってできたのに、ただ文机の上にこれを残した――きっと打算も何もなく、ただ私のことだけを思ってしてくれたこの行為が、心の底からうれしかった。今も、この白い花びらを見ているだけであたたかい気持ちが蘇る。じんわりとゆるんだ頬も、わずかに上がった体温も、顔も知らない贈り主がくれたものだ。
「誰がくれたのかは分からないんだけど……すごくうれしかったから、栞にして返すことにしたの。手紙も書いて、これと一緒に置いておけば、きっと贈ってくれた人には伝わるだろうから」
「……」
「あ、でも栞だとあんまり喜ばないかな。短刀とか……歌仙とか古今辺りだったら喜んでくれそうだけど」
「……喜ぶと思うよ。キミが返してくれるものなら、なんでも」
「そう?」
「ああ、そうじゃなきゃ、そんなにたくさん花を置いていったりしないさ」
「……小竜って意外と優しいんだね」
思わず漏れた本音が、口の端からぽろりと零れた。ハッと慌てて口をつぐむも、時すでに遅し。あまりにも失礼な感想に気を悪くしたかと恐る恐る小竜を見上げると、紫色の瞳がもう一度ぱちりとまたたき、それからからかうように細められた。
「なるほど? どうやら俺は血も涙もない、冷えたなまくらだと思われていたようだ」
「そんなんじゃないけど……あんまり話したこともなかったから」
怒っているふうではなかったことに胸をなでおろし、言い訳じみた言葉をもごもごと返す。他の刀たちと比べ、小竜とは任務のこと以外で言葉を交わしたことが極端に少ない。任務が終われば最低限の報告を残してすぐさま姿をくらましてしまうし、それ以外の時間はそもそも私のそばに寄ろうとしない。だから会話が続いたというだけで少し驚いていたのに、まさか優しく背中を押すような言葉ややわらかな笑顔を向けてくれるだなんて思いもしなかったのだ。
「……そうだ、このこと、秋田以外には秘密ね? 贈り主さんは正体知られたくないみたいだから」
「キミの頼みだ。断る理由もない。それじゃ、邪魔になる前に退散しよう」
あからさまに話をそらした私に追及することなく、小竜は存外あっさりと頷いてゆったりと縁側を歩いていった。なんとなく執務室から身を乗り出して、その背中を見送る。あたたかさを帯びてきた春の風に合わせてひらひらと揺れる外套は、まるでとらえどころがない彼の人となりを表しているようだ。
(今度、もうちょっと話しかけてみようかな)
これまでは本人が嫌がるだろうからとこちらからのコミュニケーションは控えていたが、今日の様子を見るに彼は存外気安い性格をしているのかもしれない。早速夕飯のときにでも声をかけてみようか。思わぬ収穫に口元を緩ませながら縁側にはみだしていた上半身を元の位置に戻そうとして、ふと、床に小さな花びらを見つけた。何とはなしに指先でつまみあげた薄いピンク色には覚えがある。
「……桜?」
図鑑がなくともさすがに分かる、日本人の大半が親しむ花。小さな桜の花びらがひとつきり、私の指先に収まっている。
(まだ時期じゃないのに?)
首を傾げながら庭を見やる。本格的な春が来れば見事に咲き誇るソメイヨシノは未だ花をつけず、寒々しい枝ばかりが空に向かって伸びている。今、花びらを散らしているのは白梅だ。ならばこの桜はいったいどこから現れたのだろうか。
「主君ー!」
不思議に思いながら執務室に引っ込んだところで、出て行ったときと同じくらいのにぎやかさで秋田が戻ってきた。桜よりも濃い桃色の髪の毛は少し乱れ、空よりも澄んだ青い瞳はキラキラと輝いている。秋田は抱えていた道具箱とポスターのように丸めた紙を畳の上に置くと、大変なことに気が付いたのだと興奮しきった様子で私につめよった。
「な、なに?」
「気づいたんです! 贈り主さんは、見つけてくれって言ってるんですよ!」
「? どういうこと?」
「これ、見てください!」
筒のように丸まっていた紙を開くと、秋田は一点を指さした。
その紙は本丸の地図のようだった。私が所持している事務的な図面ではなく、色鉛筆を駆使して描かれた手書きの地図。私たちがいる母屋を中心に、畑や道場、鍛刀場、広大な裏山等、敷地の端から端までがデフォルメしたイラストで記されている。おそらく最近作られたものではない。元は白かったのだろう紙が少し黄ばんでいるし、全体的にハリがなくくったりしている。どうやら秋田が顕現当初からこつこつと作った地図のようだった。
「ここ、これが母屋です。目の前のお庭に白梅があります」
「うん」
「それで、建物をこちら側に回ると菜の花畑が」
「誰かさんは、敷地内で花を摘んでくれてたんだね」
「はい。でもそれだけじゃないんです」
好奇心旺盛な彼は、四季折々の本丸の様子をよく観察し記憶していた。声を弾ませながら、秋田は地図の上に押し花を置いていく。
「道すがら、ふと思ったんです。ここにあるのと同じ花が本丸中、バラバラの場所にあって……でもこの色、この形の紫陽花は、本丸にはひとつしかないんです。それに今日いただいた白梅は、よく見ると1年前のものと品種が違います。僕が把握している限りでは2本しかありません」
白梅、菜の花、コスモス、サルスベリ、紫陽花。実際にそれらが生えている場所に配置されていく花々を見て、私もあっと声を上げる。庭先から建物をぐるりと回って菜の花畑を抜け、裏庭の曲がりくねった道を進み――白梅から、白梅へと到達する。1年分の押し花は地図の上で、美しい1本の道を描いていた。
「贈り主さんは見つけてほしいんですよ、主君に」
幾分か落ち着いた様子で、秋田は繰り返す。
「隠れているから追っておいでって、そう言ってるんです」
返す言葉が見つからず、手製の地図と美しい道しるべを無言で見下ろす。ただ、私の心を慰めるために届けてくれていたのだろうと思い込んでいた花々に、こんな意味があっただなんて。もし秋田が気づかなければ埋もれていたメッセージ。きっとそれでもいいからと道しるべを置き続けた贈り主の心情を、私でははかることができない。
いったい何故、こんなにもすてきな贈り物をしてくれたのだろう。秋田が言うことが正しいのならば、どうして私に見つけてほしいと思ってくれたのだろう。
「ちょっと出てくる」
何か明確な答えが出る前に、かき集めた押し花を優しく両手で握りしめ、執務室を飛び出していた。
「いってらっしゃい、主君」
近侍の声を背中で受け止め、縁側を駆ける。玄関に回ってもたもたと靴を履き、外を通って執務室の前の庭へ。秋田が描いた1本道と手の中の花々を頼りに、目的地を目指す。ただごとではない様子の私に刀たちはぎょっとしていたが、今は咲いていない花の場所を尋ねれば快く教えてくれた。
こうして外を歩き回るのは久しぶりのことだった。生活は母屋の中で完結するし、畑や鍛刀場には行っても目的が達成すれば長居はしない。出かけるとしてもせいぜい万屋くらいで、広大な敷地の中をつぶさに観察しながら歩くのは、おそらく審神者就任以来だろう。
花を咲かせるにはまだ遠い紫陽花を横目に坂道を登る。この小高い丘とも山とも言いがたい場所に来るのは初めてだ。かろうじてできている獣道のような狭い道を小走りで進み、つるりとした木肌のサルスベリの横を抜け、すっかり息が上がったころ。
ひらりと目の前を横切った白い花びらに誘われるように上げた視線の、その先。鬱蒼と茂る木々の合間に、ふわりと揺れる金の糸を見つけた。
「おや。さっきぶりだね、主」
ゆるやかな春風を受けてこぼれる白梅の下。紫色の瞳が私を見つけて細められた。
「小竜……?」
「今日はキミと縁がある日のようだ。ずいぶんと急いでいるようだけど……何か探しものかい?」
私の手元をちらりと見てから、小竜は視線を元の位置に戻した。呼吸を整えながら歩み寄れば、彼が座る場所には畳2枚分程度の小さなスペースが空いている。まるで秘密基地のような、秋田が好みそうな場所だった。
「……そうだね、探しもの。無事、見つかったよ」
「それは何より。我が本丸の近侍殿は優秀なようで安心したよ」
「……ねえ、小竜。どうして?」
「何が?」
「いろいろ。どうしてかなって思うことがたくさんありすぎて、困ってる」
梅の木を挟んで、外套に包まれた背中をじっと見つめる。
まさかこの花々の贈り主が小竜だとは思いもしなかった。だって彼は一度だって、私のことを特別気にかけているような振る舞いはしていなかったのだ。いつも彼は私から距離を置いていたし、きちんと会話をしたことすらほとんどない。さっきだって、目の前にいるのが渦中の刀だなどと、少しも感じさせなかった。
どうして彼は1年もの間、このささやかな贈り物を続けてくれたのか。秋田の言うことを信じるならば、どうしてこのかくれんぼのようなことを始めたのか――どうして、この場所で私を待ち続けてくれたのか。
知りたいことがたくさんある。けれどミステリアスを自称する彼はあいまいな笑い声を漏らすばかりで、はっきりとした答えを示してはくれない。
「小竜」
困り果てて名前を呼べば、彼は少しだけ振り向いて私を手招いた。拒否する理由もなかったので、誘われるがまま彼が座る白梅の下に立つ。
眼下には、美しい景色が広がっていた。
遠くまで広がる山々に、春の気配が芽生えている。やわらかな緑色の合間をほころび始めた白や桃色が彩り、春告鳥がのんびりとさえずる。その中心に構える本丸からは、誰かの笑い声が聞こえてくる。畑では誰かが土を耕し、縁側では馴染みの面々が茶を楽しみ、身軽な刀たちが寝転ぶ屋根は陽光を受けてキラキラと輝いていた。呼吸も忘れて、美しい景色に見入る。
「俺はキミが何をそんなに困っているのかは知らないし、いつも忙しなく、目の下を真っ黒にしてまで働いている理由もさっぱり分からないけれど」
この光景を独り占めしていた刀が、口調に反してやわらかな声音で言う。
「キミが守っているものの美しさは、きっと誰よりも知っているだろうね」
まるで春の日だまりのような答えだった。執務室から握りしめてきたこの小さな花たちを贈ってくれた誰かを思い起こす、何の打算もない、ただただ優しいだけの言葉。
(いつもここにいたの? ここに来て、そんなことを考えていてくれたの?)
この場所から本丸を見下ろし、私にも同じものを見せてやろうと思ってくれたのだろうか。ここは、私が必死になって守っているものはこんなにも美しいのだと、それを私自身に伝えようとしてくれたのだろうか。
日差しにさらされた耳がじんわりと熱い。一生懸命坂道を駆けてきたから、体中の体温も上がっている。この体温も、上向いた口角も、ぬくもりを元にして膨らんでいくようなぽかぽかとした気持ちも――それを与えてくれたのは、目元をゆるませて本丸を見下ろす、この刀だ。
「……手紙、書かなくちゃ」
「ああ、栞と一緒にね」
「うん。1年間のお礼と……今度から花は直接渡してほしいし、私にも分かるような方法で散歩に誘ってほしいって、書いておく」
「相手が素直にお願いを聞いてくれる優しい刀であることを祈っておいてあげようか」
「大丈夫。たぶんこの本丸で、一番優しい刀だから」
余裕をにじませていた瞳がかすかに丸くなって私を見上げた。少しやり返せたような気になって、ニヤリと笑んできびすを返す。遅れて聞こえてきた笑い声が意味するところは、やはりよく分からない。けれどきっと次も、彼は私がいない間に執務室に忍び込み、正体を知られないまま春の花を文机に添えていくのだろう。なんとなく、お願いは聞いてもらえない気がした。
来たときよりもゆっくりと丘を下る。その最中、ざあと強い風が吹いた。押し花たちが飛んでいってしまわないよう背中を丸めて花散らしの風をやりすごす。荒々しい春風は小竜の頭上でひらひらと舞っていた白梅をさらって、獣道を駆け抜けていった。背後から飛んできた花びらをもったいなく思いながら眺めていると、ふとその中に、いくつかの薄桃色を見つける。
(桜だ)
遠目に見ても分かる、縁側に落ちていたのと同じ花びら。辺りを見回しても、早咲きの桜は見当たらない。いったいどこから飛んできたものなのか見当もつかないが、別に悪いものでもないだろう。
(秋田と……小竜に、聞いてみようかな)
きっと彼らは他にも、私が知らないこの本丸のことをたくさん知っている。素直に答えてくれるかどうかは置いておいて、どこからやってくるの分からない桜の正体も、きっと知っているに違いない。風に注意しながらそっと手を開き、押し花と一緒に握ったままにしていた縁側の桜を見下ろす。この花びらも辞書に挟み、押し花にしよう。まぶたの裏から離れない美しい景色と、それを見守る優しいすみれ色を、少しでも長く心に留めておけるように――この春の陽気のようなあたたかな気持ちを、いつかもう一度、共有できるように。
たった1枚の花びらたちをそっと、けれどしっかりと、握りこむ。