その他
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
赤い髪の毛が重力に従って、たくましい肩からするりと落ちる。長くつややかな毛先が肌をくすぐる感覚に、現実感は伴わない。弧を描く唇に反して、ただ機械的に細められただけのアイスブルーの瞳が、言いようのない焦燥を煽る。
ほんの5秒前まで、私たちは楽しく笑い合っていたはずだった。
夕食後の、寝るまでの暇をつぶす少しの時間。何とはなしに見始めた青春ドラマにつられてか、彼はふらりと入室し、そのまま私の隣に座った。自分で運んできたビーズクッションに身を沈め、刀剣男士と一緒にドラマや映画を楽しむことは珍しくない。週に何回かは集まってきた誰かと一緒にコメントを交わし合いながら、物語を楽しんでいた。隣にいるのが誰なのかというのは私にとってさほど重要ではなかったし、後家の方も気にしてはいなかっただろう。そのくらい、なんでもないひとときだった。
彼の様子が変わったのは、キスシーンのあとだった。
誰と誰がキスしただの、それはファーストキスだっただの、学生らしい話題で盛り上がる登場人物たちに自分の思い出を重ね、頬を緩める。
「かわいいよね、学生っぽくて」
「ふぅん? これって学生あるある、みたいな感じ?」
「半分くらいの人は経験あるんじゃない?」
「主はその半分ってわけだ」
「そだねー」
恋愛トークは学生にとって最もセンセーショナルな話題のひとつと言ってもいい。今にして思えば誰が誰と付き合おうが自分とはまったく関係がないことであったし、寧ろ放っておいてあげた方がいいだろうとすら思う。しかしあのころは友人たちの恋愛に我がことのように一喜一憂し、次は自分の番なのではないかと心をときめかせていた。
「ファーストキスとかしがちな年代だしね。なんかすごく……ドキドキしてたな」
「あはは、そこまではかわいいね。そこまでは」
「今はかわいくないってこと?」
「いやいや、主はいっつもかわいいよ。口いっぱいにごはん詰め込んでるとことか、少しでも大きいおやつ選ぼうとするところとか、すごくいいと思う。でもこのあとの展開次第では一時的にかわいくなくなる可能性もあるね」
「ええ? どういうこと?」
冗談好きな後家らしいよく分からないおしゃべりに話半分に耳を傾けつつ、笑いを零す。学生たちが織り成すストーリーは私の意識と視線を奪うには十分で、あまり深く考えず、反射のように会話を続けていた。
「で、念願かなってしちゃったの? キス」
「んー……え、あの子かわいい。アイドルかな……」
「主? ボクの話、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる……キスだっけ?」
「そ。主の初めてのキス、いつだったの?」
「えっとねー……学生のときの彼氏」
「ちゃんと覚えてるんだ」
「ちゃんとっていうか……あんまり良い思い出でもないし……ねえ、やっぱりあの子かわいくない? あの子と主人公くっつかないかな」
「うん、かわいいかわいい。それでどの辺が良い思い出じゃないの?」
「えー? なんか相手も余裕なくて無理矢理だったし……それが原因で別れたし……やり直せるものならやり直したいっていうか……」
「そっかそっか。主もボクと同じ気持ちだって分かって良かったよ」
「え、ごっちんもファーストキス失敗したの? 天下の長船の打刀が?」
「主が長船派をなんだと思ってるのかは置いといて、ざーんねん。ボクのファーストキスはまだここに取ってあるよ」
「だよね」
長船の刀が色恋沙汰で失敗するところなど想像できないし、そもそも後家に関して浮いた噂を聞いたことはない。妙に納得しながら浮きかけた体をもう一度ビーズクッションに沈め、意識をテレビに戻す。ドラマはもう佳境に入っていた。なんと先ほどのキスシーンに登場していた女子が、別の男子生徒のことを誘惑しているようなシーンが映る。もしや今週はここで終わってしまうのか。手に汗を握りながらテレビに見入っていると、隣から喉を鳴らすような音が聞こえた。
「全然興味ないって感じだね」
「興味しかないよ。あの子、たぶん誰かに嵌められてこんなことに……」
「じゃなくて。ボクのこと」
「後家のなに?」
「ファーストキスの話。主のためにずっとキープしてるのに、当の本人が見向きもしてくれないから、さすがに焦れてきちゃったな」
「えー、なにそれ。さすが長船」
口説き文句めいた冗談はいつものこと。それにいちいち反応していては身も心ももたないとは、彼が顕現する前から本丸で生活する長船の刀たちに嫌というほど思い知らされた。彼らにとって、これはコミュニケーション以上の意味は持たない。後家にとってもそれは同様だろう。
くすくすと笑みを零しつつリモコンを手に取る。ワクワクと胸を躍らせる人間模様の結末は来週に持ち越されるらしく、テレビではエンドロールが流れ始めていた。手元を見ないまま赤いボタンに指をかけ、押す。次回予告がちょうど終了したタイミングで暗転したテレビは、機嫌よく笑う自分と、同じく口元を緩めている後家を映し出した。リラックスしきっていた体はすっぽりと沈み込んでいたため簡単に起き上がることができず、助けを求めて隣に視線を送る。後家は視線が交わると、人好きがする顔でにっこりと笑った。
「ね、主。もう一回言ってもいい?」
「? 何を?」
「ファーストキスの話」
「もっとすごい口説き文句とか出てくるの? それは聞いてみたいかも」
「それは全然口説かれる気がない人のセリフだなぁ」
「本当に口説きたいなら、本命相手にやらないと」
「うん。実は現在進行形で一生懸命やってるとこ」
「あはは、今日は随分食い下がるね」
「あっはは! だって本命と対峙してるからね」
「この部屋のどこにそんな人が……、っ!?」
耳元で、破裂音にも似た鈍い音が聞こえた。これが床か、あるいは壁であったなら、建物が揺れていただろうと思うほどの音。次いで衝撃。全身を捉えて離さないビーズクッションに吸い込まれた振動は、鈍く私の鼓膜を揺らす。天井が映るはずの視界には、赤い髪の毛と小さな折り鶴が揺れている。直前まで声を上げて笑っていたはずの男はすっかり表情をなくし、覆いかぶさるようにして私を見下ろしていた。
「目の前」
目を白黒させている合間に、普段の軽快さが失せた低い声が落とされる。
「ボクの本命、目の前にいるんだけど」
肩から滑り落ちた赤髪が私の鎖骨をなであげ、その場に溜まる。
「それ踏まえて、もう一回言ってみてもいい?」
なめらかに弧を描く口元に反して、アイスブルーの瞳は熱を伴わず、笑うような形だけを作って少しずつ距離をなくしていく。それに伴って低くなる声に危機感を覚えた頃には遅かった。ふたり分の体重を受けて沈むクッションから起き上がることはできない。顔の両側を塞ぐように置かれた手も、真っ直ぐに覗き込んでくる瞳も、逃げることを許そうとしない。ただ彼になされるがまま、ごくりと喉を鳴らす。
「ファーストキス、まだここに残ってるんだけど。やり直さない? ボクと」
黒い指先が、彼の唇をゆっくりとなぞる。その形を、その熱を確かめるように自身の唇をなで上げた人差し指が、同じスピードで私の眼前に迫り、口元にひやりとした感覚が落とされる。彼の唇に触れたのと同じ場所が、先ほどよりもゆっくりと、私の唇の上を這っていく。手袋のつるりとした感触は心地の良いものではなかったが、それでも何か――情欲めいたものを、煽って離れる。
目じりが熱い。もしかしたら耳も、手足も。冷えているのは背筋だけだろうか。冷たい汗が服にしみこんで、必死に熱を奪って空気に溶ける。しかしそれを許すまいと一気に距離を詰めるアイスブルーが、まつげが触れ合いそうな距離で、ピタリと止まる。こんなにも熱を伴う距離感にあって、彼の声はやたらと冷静だった。
「ああ、無理矢理は、嫌なんだっけ?」
彼が言葉を紡ぐたび、唇に落とされる吐息に、肌が粟立つ。
「じゃあ、キミからしてよ、主。まだボクにも、少しくらい待つ余裕はあるよ」
ふっと、わざとらしく息を吐くように笑う後家に、思考が追いつかない。自分が置かれた状況が理解できず、身じろぐことすらかなわずに、口を半開きにしてただただ眼前の瞳を見上げる。焦りなのか不安なのか、自分を襲うものの正体も分からないまま、呼吸が乱れてくるのが分かる。熱いのか寒いのかも判断できない。
「うん、やっぱり主はかわいいね」
今度こそ感情を伴って細められた瞳に、熱が浮く。
「そうやってボクだけを見てくれる主が、一番かわいい」
うっとりとしたつぶやきが、ほんの数センチの距離から落とされた。それを追うように、たっぷりと時間をかけて下りてきた双眸がぼやけて、形をなくす。
――キスされる。
ハッと息をのんで体を強張らせた、そのときだった。
「主、いる?」
何の遠慮もなく開いた障子戸の音と、投げられた声。
「は?」
それから、ものすごく、ものすごく低い、地を這うようなお声。
それが誰のものか判断する間もなく、「うぐ」といううめき声とともに、赤い髪の毛が残像となって飛んでいった。
「何してんの、ごっちん」
視界の端に入り込んだ片足と、だるそうな口調。毛先にかけてグラデーションを描く長い髪の毛に、その持ち主の正体を知る。ガチリと固まったまま動くことができずにいた私に気がつくと、姫鶴一文字は普段通りの少し気だるい表情で、ビーズクッションと私の背中の間に手を差し込み、体を起こしてくれた。
「だいじょぶ? 怖かったね」
「ひっど……てかいったい……」
「ひどいのはごっちんでしょ。こんなに怯えさせて」
隣にしゃがみこんでよしよしと頭をなでてくれる姫鶴に言われて、初めて自分の手が、ほんの少しだけ震えていることに気が付いた。怖いと、はっきりそう思ったわけではない。ただ突然のことに驚いて、頭がついていかなかっただけ。今もまだ、何が起こっていたのか飲み込みきれず、キャパオーバーを起こしている。何を感じればいいのかもすら分からない。
恐る恐る視線を横にずらせば、姫鶴に蹴り飛ばされたのだろう脇腹をなでながら、後家は緊張を感じさせない顔でヘラヘラと笑っていた。姫鶴がムッと口を引き結んでも彼の表情は変わらない。もしかしたらあえてそう振る舞っているのかもしれないと、頭の片隅で考えた。
「無理に迫るとか、ひどい通り越してださいんだけど」
「勝機ありと見極めたから攻め込んだまで。それに無理矢理じゃなかったよ。ね、主?」
「この状態の女の子に選択肢与えたって、無理矢理と変わんねーから。行こ、主」
「待って待って、ボクも行く」
「ごっちんから離れるために出てくのについてくんのおかしいっしょ」
優しく手を引いてくれる姫鶴に従い立ち上がると、すかさず後家も私たちの後ろをついて歩いてくる。人懐っこい表情で寄ってくる姿は、私がよく知る後家兼光のものだ。先ほどまでの、不安を駆り立て、威圧感をもって人を誘惑しようとする男とは、まるで別物のように感じる。それでも距離が近づくにつれ落ち着かない気分にさせられるのは、まぎれもなく、彼らが同一の存在であることの証明なのだろう。
さっと姫鶴を挟んで反対側に逃れると、後家はきょとんと眼を丸くしたあと、心底うれしそうに破顔して見せた。
「あ、やっと意識してくれた? うれしいな」
「うっざ……」
「嫉妬は良くないよ、おつう」
「してねーから。主、しばらくはおれのそばにいな。虫よけ役、したげる」
こくこくと頷いて、白い内番着の端をぎゅっと握る。何が何やらよく分からなかったが、後家のことを警戒しなければならないということはよく分かった。姫鶴の提案に甘え、しばらくは彼を遠ざけてもらうのが吉なのだろう。しかし当の本人はご機嫌な様子で口角を上げるのだから、私は頭を抱えるしかない。
「とか言いつつ、主ってば顔真っ赤。かーわいー」
「……」
本当に、頭を抱えるしかない。言葉をなくして俯く私を隠すように姫鶴が内番着の端を持ち上げると、その向こう側から、まるで恋する相手を見つけた子どものような笑い声が上がった。
ほんの5秒前まで、私たちは楽しく笑い合っていたはずだった。
夕食後の、寝るまでの暇をつぶす少しの時間。何とはなしに見始めた青春ドラマにつられてか、彼はふらりと入室し、そのまま私の隣に座った。自分で運んできたビーズクッションに身を沈め、刀剣男士と一緒にドラマや映画を楽しむことは珍しくない。週に何回かは集まってきた誰かと一緒にコメントを交わし合いながら、物語を楽しんでいた。隣にいるのが誰なのかというのは私にとってさほど重要ではなかったし、後家の方も気にしてはいなかっただろう。そのくらい、なんでもないひとときだった。
彼の様子が変わったのは、キスシーンのあとだった。
誰と誰がキスしただの、それはファーストキスだっただの、学生らしい話題で盛り上がる登場人物たちに自分の思い出を重ね、頬を緩める。
「かわいいよね、学生っぽくて」
「ふぅん? これって学生あるある、みたいな感じ?」
「半分くらいの人は経験あるんじゃない?」
「主はその半分ってわけだ」
「そだねー」
恋愛トークは学生にとって最もセンセーショナルな話題のひとつと言ってもいい。今にして思えば誰が誰と付き合おうが自分とはまったく関係がないことであったし、寧ろ放っておいてあげた方がいいだろうとすら思う。しかしあのころは友人たちの恋愛に我がことのように一喜一憂し、次は自分の番なのではないかと心をときめかせていた。
「ファーストキスとかしがちな年代だしね。なんかすごく……ドキドキしてたな」
「あはは、そこまではかわいいね。そこまでは」
「今はかわいくないってこと?」
「いやいや、主はいっつもかわいいよ。口いっぱいにごはん詰め込んでるとことか、少しでも大きいおやつ選ぼうとするところとか、すごくいいと思う。でもこのあとの展開次第では一時的にかわいくなくなる可能性もあるね」
「ええ? どういうこと?」
冗談好きな後家らしいよく分からないおしゃべりに話半分に耳を傾けつつ、笑いを零す。学生たちが織り成すストーリーは私の意識と視線を奪うには十分で、あまり深く考えず、反射のように会話を続けていた。
「で、念願かなってしちゃったの? キス」
「んー……え、あの子かわいい。アイドルかな……」
「主? ボクの話、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる……キスだっけ?」
「そ。主の初めてのキス、いつだったの?」
「えっとねー……学生のときの彼氏」
「ちゃんと覚えてるんだ」
「ちゃんとっていうか……あんまり良い思い出でもないし……ねえ、やっぱりあの子かわいくない? あの子と主人公くっつかないかな」
「うん、かわいいかわいい。それでどの辺が良い思い出じゃないの?」
「えー? なんか相手も余裕なくて無理矢理だったし……それが原因で別れたし……やり直せるものならやり直したいっていうか……」
「そっかそっか。主もボクと同じ気持ちだって分かって良かったよ」
「え、ごっちんもファーストキス失敗したの? 天下の長船の打刀が?」
「主が長船派をなんだと思ってるのかは置いといて、ざーんねん。ボクのファーストキスはまだここに取ってあるよ」
「だよね」
長船の刀が色恋沙汰で失敗するところなど想像できないし、そもそも後家に関して浮いた噂を聞いたことはない。妙に納得しながら浮きかけた体をもう一度ビーズクッションに沈め、意識をテレビに戻す。ドラマはもう佳境に入っていた。なんと先ほどのキスシーンに登場していた女子が、別の男子生徒のことを誘惑しているようなシーンが映る。もしや今週はここで終わってしまうのか。手に汗を握りながらテレビに見入っていると、隣から喉を鳴らすような音が聞こえた。
「全然興味ないって感じだね」
「興味しかないよ。あの子、たぶん誰かに嵌められてこんなことに……」
「じゃなくて。ボクのこと」
「後家のなに?」
「ファーストキスの話。主のためにずっとキープしてるのに、当の本人が見向きもしてくれないから、さすがに焦れてきちゃったな」
「えー、なにそれ。さすが長船」
口説き文句めいた冗談はいつものこと。それにいちいち反応していては身も心ももたないとは、彼が顕現する前から本丸で生活する長船の刀たちに嫌というほど思い知らされた。彼らにとって、これはコミュニケーション以上の意味は持たない。後家にとってもそれは同様だろう。
くすくすと笑みを零しつつリモコンを手に取る。ワクワクと胸を躍らせる人間模様の結末は来週に持ち越されるらしく、テレビではエンドロールが流れ始めていた。手元を見ないまま赤いボタンに指をかけ、押す。次回予告がちょうど終了したタイミングで暗転したテレビは、機嫌よく笑う自分と、同じく口元を緩めている後家を映し出した。リラックスしきっていた体はすっぽりと沈み込んでいたため簡単に起き上がることができず、助けを求めて隣に視線を送る。後家は視線が交わると、人好きがする顔でにっこりと笑った。
「ね、主。もう一回言ってもいい?」
「? 何を?」
「ファーストキスの話」
「もっとすごい口説き文句とか出てくるの? それは聞いてみたいかも」
「それは全然口説かれる気がない人のセリフだなぁ」
「本当に口説きたいなら、本命相手にやらないと」
「うん。実は現在進行形で一生懸命やってるとこ」
「あはは、今日は随分食い下がるね」
「あっはは! だって本命と対峙してるからね」
「この部屋のどこにそんな人が……、っ!?」
耳元で、破裂音にも似た鈍い音が聞こえた。これが床か、あるいは壁であったなら、建物が揺れていただろうと思うほどの音。次いで衝撃。全身を捉えて離さないビーズクッションに吸い込まれた振動は、鈍く私の鼓膜を揺らす。天井が映るはずの視界には、赤い髪の毛と小さな折り鶴が揺れている。直前まで声を上げて笑っていたはずの男はすっかり表情をなくし、覆いかぶさるようにして私を見下ろしていた。
「目の前」
目を白黒させている合間に、普段の軽快さが失せた低い声が落とされる。
「ボクの本命、目の前にいるんだけど」
肩から滑り落ちた赤髪が私の鎖骨をなであげ、その場に溜まる。
「それ踏まえて、もう一回言ってみてもいい?」
なめらかに弧を描く口元に反して、アイスブルーの瞳は熱を伴わず、笑うような形だけを作って少しずつ距離をなくしていく。それに伴って低くなる声に危機感を覚えた頃には遅かった。ふたり分の体重を受けて沈むクッションから起き上がることはできない。顔の両側を塞ぐように置かれた手も、真っ直ぐに覗き込んでくる瞳も、逃げることを許そうとしない。ただ彼になされるがまま、ごくりと喉を鳴らす。
「ファーストキス、まだここに残ってるんだけど。やり直さない? ボクと」
黒い指先が、彼の唇をゆっくりとなぞる。その形を、その熱を確かめるように自身の唇をなで上げた人差し指が、同じスピードで私の眼前に迫り、口元にひやりとした感覚が落とされる。彼の唇に触れたのと同じ場所が、先ほどよりもゆっくりと、私の唇の上を這っていく。手袋のつるりとした感触は心地の良いものではなかったが、それでも何か――情欲めいたものを、煽って離れる。
目じりが熱い。もしかしたら耳も、手足も。冷えているのは背筋だけだろうか。冷たい汗が服にしみこんで、必死に熱を奪って空気に溶ける。しかしそれを許すまいと一気に距離を詰めるアイスブルーが、まつげが触れ合いそうな距離で、ピタリと止まる。こんなにも熱を伴う距離感にあって、彼の声はやたらと冷静だった。
「ああ、無理矢理は、嫌なんだっけ?」
彼が言葉を紡ぐたび、唇に落とされる吐息に、肌が粟立つ。
「じゃあ、キミからしてよ、主。まだボクにも、少しくらい待つ余裕はあるよ」
ふっと、わざとらしく息を吐くように笑う後家に、思考が追いつかない。自分が置かれた状況が理解できず、身じろぐことすらかなわずに、口を半開きにしてただただ眼前の瞳を見上げる。焦りなのか不安なのか、自分を襲うものの正体も分からないまま、呼吸が乱れてくるのが分かる。熱いのか寒いのかも判断できない。
「うん、やっぱり主はかわいいね」
今度こそ感情を伴って細められた瞳に、熱が浮く。
「そうやってボクだけを見てくれる主が、一番かわいい」
うっとりとしたつぶやきが、ほんの数センチの距離から落とされた。それを追うように、たっぷりと時間をかけて下りてきた双眸がぼやけて、形をなくす。
――キスされる。
ハッと息をのんで体を強張らせた、そのときだった。
「主、いる?」
何の遠慮もなく開いた障子戸の音と、投げられた声。
「は?」
それから、ものすごく、ものすごく低い、地を這うようなお声。
それが誰のものか判断する間もなく、「うぐ」といううめき声とともに、赤い髪の毛が残像となって飛んでいった。
「何してんの、ごっちん」
視界の端に入り込んだ片足と、だるそうな口調。毛先にかけてグラデーションを描く長い髪の毛に、その持ち主の正体を知る。ガチリと固まったまま動くことができずにいた私に気がつくと、姫鶴一文字は普段通りの少し気だるい表情で、ビーズクッションと私の背中の間に手を差し込み、体を起こしてくれた。
「だいじょぶ? 怖かったね」
「ひっど……てかいったい……」
「ひどいのはごっちんでしょ。こんなに怯えさせて」
隣にしゃがみこんでよしよしと頭をなでてくれる姫鶴に言われて、初めて自分の手が、ほんの少しだけ震えていることに気が付いた。怖いと、はっきりそう思ったわけではない。ただ突然のことに驚いて、頭がついていかなかっただけ。今もまだ、何が起こっていたのか飲み込みきれず、キャパオーバーを起こしている。何を感じればいいのかもすら分からない。
恐る恐る視線を横にずらせば、姫鶴に蹴り飛ばされたのだろう脇腹をなでながら、後家は緊張を感じさせない顔でヘラヘラと笑っていた。姫鶴がムッと口を引き結んでも彼の表情は変わらない。もしかしたらあえてそう振る舞っているのかもしれないと、頭の片隅で考えた。
「無理に迫るとか、ひどい通り越してださいんだけど」
「勝機ありと見極めたから攻め込んだまで。それに無理矢理じゃなかったよ。ね、主?」
「この状態の女の子に選択肢与えたって、無理矢理と変わんねーから。行こ、主」
「待って待って、ボクも行く」
「ごっちんから離れるために出てくのについてくんのおかしいっしょ」
優しく手を引いてくれる姫鶴に従い立ち上がると、すかさず後家も私たちの後ろをついて歩いてくる。人懐っこい表情で寄ってくる姿は、私がよく知る後家兼光のものだ。先ほどまでの、不安を駆り立て、威圧感をもって人を誘惑しようとする男とは、まるで別物のように感じる。それでも距離が近づくにつれ落ち着かない気分にさせられるのは、まぎれもなく、彼らが同一の存在であることの証明なのだろう。
さっと姫鶴を挟んで反対側に逃れると、後家はきょとんと眼を丸くしたあと、心底うれしそうに破顔して見せた。
「あ、やっと意識してくれた? うれしいな」
「うっざ……」
「嫉妬は良くないよ、おつう」
「してねーから。主、しばらくはおれのそばにいな。虫よけ役、したげる」
こくこくと頷いて、白い内番着の端をぎゅっと握る。何が何やらよく分からなかったが、後家のことを警戒しなければならないということはよく分かった。姫鶴の提案に甘え、しばらくは彼を遠ざけてもらうのが吉なのだろう。しかし当の本人はご機嫌な様子で口角を上げるのだから、私は頭を抱えるしかない。
「とか言いつつ、主ってば顔真っ赤。かーわいー」
「……」
本当に、頭を抱えるしかない。言葉をなくして俯く私を隠すように姫鶴が内番着の端を持ち上げると、その向こう側から、まるで恋する相手を見つけた子どものような笑い声が上がった。