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「僕のだよ」
障子越しに聞こえた声が誰のものなのか、一瞬判別がつかなかった。まったく感情が読み取れない声音。取り繕われることがなかったのだろう低い声には、ぞっと背筋を震わせる重みを感じる。月明かりが切り抜いた影絵がなければ、その声の持ち主を知ることはできなかっただろう。
「髭切……?」
狼狽えつつも障子を開くべく立ち上がりかけた私の腕を掴んだのは膝丸だった。火急の事態によって力加減は失われているらしく、乱雑に私を引き戻す仕草に気遣いはない。膝丸は私の方を見ないまま、じっと障子を見据えていた。
* * * * *
事の発端は今日の夕方、私が現世から持ち帰ってしまったお土産だった。
「おや。随分変わったお土産を持ってきたねえ」
玄関の顔を合わせて開口一番、髭切は私――というよりは私の後ろを見てそう言い放った。最初は疑問符を浮かべるしかなかったが、ぞろぞろと自発的に集まってきた石切丸やにっかり青江、鬼丸国綱に膝丸といった顔ぶれを見れば、自ずと髭切の呆れ顔の理由は知れる。おずおずと振り返ろうとした私の顔面をがしりとわし掴み、「よしよし、いい子だから前だけ見て歩こうね」とありがたい助言をくださった髭切に従い、震える足で屋内へと向かった。
「心当たりは?」
本丸の最奥、執務室周りを掠めないルートで縁側を進み適当な空き部屋に入る。単刀直入に問うてきたのは膝丸だった。もう振り向いてもいいという髭切に少し緊張感を緩めながら後ろを見れば、膝丸が障子を隙間なく閉ざしたところだった。障子越しに見える影は石切丸と青江だろう。ひとまずといった様子で外側から数枚のお札を貼り付けているのが見えた。
「こ、心当たりって言っても……普通に買い物してきただけで……あ、これお土産」
「今夜の兵糧はドーナツかぁ。足りるかな」
「100個もあれば十分だろう。……よくこんなに持ち帰ったな」
「うん……やっぱ100個って重いなって思ってはいたんだよね……でも全部置いたのにまだ重いんだよね、肩……」
「そりゃあ憑いてるからね」
許可もなく箱を開けてドーナツを食べ始めた髭切に怒る気力も湧かなかった。はあと重く息を吐き、背中を丸めて畳の上に座り込む。そうしている合間にも部屋の外には鬼丸がどかりと座り込み、その周囲に怪異に明るい刀たちが集まってきているのを感じる。髭切の言う「憑いている」という言葉の信憑性が増してきていた。
「心当たり……心当たり……? 余計なことなんてしてないと思うんだけど……」
「本当か? 事故死した童の遺体を粗末に扱ったり、どこぞで墓石を蹴り倒したりはしていないか?」
「膝丸の中の私ってそんな治安悪いことするの?」
「しないとは言い切れんだろう」
「は? 言い切れよ。こちとら主だよ?」
「それ見たことか。君は自分で思っているよりもだいぶ治安が悪いぞ」
「お前たち、仲が良いのは良いことだけれど、早く本題にお入り」
「む、すまない」
「なんか髭切に言われるの屈辱……」
ドーナツにまぶしてあったチョコスプレーをパラパラと零しながら苦言を呈する髭切に複雑な気分になりつつ、再度現世での出来事を振り返る。本丸を出てからまっすぐにショッピングモールに向かい、半日かけてすべての店をブラブラと巡った。最後に、注文していた大量のドーナツを受け取り、その店の向かい側で、迷子のような子どもを見つけた。たくさんの人が行き交う中でぽつりと一人で座り込み、泣きそうな顔で俯く小学生くらいの子どもを捨て置けず声をかけ、しかし一言も反応が返らなかったものだから恥ずかしくなってそそくさと本丸に逃げ帰ってきた。そして髭切に不穏な出迎えをされ、今に至る。
ところどころ記憶を思い出しながら本日の行動を口に出して並べると、最後の辺りで膝丸が「それではないか」とため息混じりに言った。
「それ」
「最後の」
「うん……?」
「……童」
「ああ……やっぱり不審者に思われちゃったかな……」
「兄者、この人間、察しが悪すぎるのだが?」
「主を人間呼ばわりしないでくれます?」
「噛みつくべきはそちらでは……いや、もういい。君に付き合っていたら日が暮れる。その童、人ではなくあやかしだ」
「おう……」
なるほど、これは確かに私の察しが悪すぎた。恥じ入る気持ちを誤魔化すようにドーナツを取り、もそもそと頬張る。気がつけば髭切は3個目のドーナツを手に取ったところで、膝の上をシュガーパウダーやチョコスプレーまみれにさせていた。
「……つまり私は幽霊的なお子さまにうっかり声をかけて無視されたくせに何故だかそれをお持ち帰りをしてしまったってこと?」
「そうだ」
「……迷子かなって思って」
「ほう」
「周りに大人いなかったし」
「ふむ」
「顔色すごく悪くて、死人かってくらい真っ青だったし」
「だろうな」
「確かにちょっとぎょろっとした目だったから怖いなっても思ってたけど!」
「君の眼球自体は正常に作動しているのだな。問題はその先にあるということか」
「髭切くん! 君の弟すっごい辛辣だよ!?」
「さて」
6個目のドーナツを食べ終えた髭切は涙目の私など目に入っていないのか、手についた砂糖を払って手袋をはめる。嫌そうな顔をしたきれい好きの膝丸のことも丸きり無視した瞳は私の肩から障子に向かい、縁側を行き交ういくつもの影を認めると少しだけ細められた。
「気圧されて一度は退いたようだけど、完全に縁が断ち切れたわけではないみたいだ」
「うむ。本丸から締め出すことは容易だが、あやかし自体を退治するほかあるまい」
「知能も高くはなさそうだし、通り道を作ってもらうとしようか」
「兄者が残るか?」
「いや、ドーナツは持っていけばいいし、籠城はお前に任せるよ。子どもの相手は、お前よりも僕の方が得意だろう?」
「同意はしかねるが…承知した。……というわけだ、主。構わないな?」
「えっ、何が?」
「君……」
「説明省いたのそっちなくせに正気疑うみたいな顔やめていただける?」
「兄者、やはり役割を交換しないか? 確かに俺は童の相手は不得手だが、主の相手となると壊滅的だ」
「オイ」
「ほらほら、仲良くしないと鬼が来てしまうよ。じゃあ主、弟の言うことをよく聞いて、いい子でいるんだよ」
「え、う、うん……」
私の曖昧な返事に満足そうに頷くと、髭切は膝の上のパウダーシュガーたちを畳の上に落とし、ドーナツを三箱小脇に抱えて障子戸から出ていった。続けて「作戦が決まったよ」というのんびりとした声が聞こえ、それを受けた影たちは髭切に続いておそらく広間へ移動する。
「……もしかしてだけど、私このままずっとここにいる感じ?」
「それくらいは理解してくれていて助かった。兄者のためにも、おとなしくしていてくれ」
「なんで髭切のため?」
「あれでかなりお怒りのようだからな」
「髭切が?」
「縄張り意識が強いのだ、兄者は」
「もう私に話を理解させるつもりないよね」
「分かっているのなら問答は不要だな。眠ってくれて構わないぞ。布団を敷こう」
「いやいらんし。コミュニケーション放棄しないでよ」
ディスコミュニケーションが過ぎる膝丸に口をとがらせながら、ひとまずドーナツの箱を開けてみる。よくは分からないがとにかくこの部屋でおとなしく過ごしていればみんなが解決してくれるということなのだろう。ならばドーナツを食べながら待つのみ。解決した暁には倍量のドーナツを本丸中に配り歩こう。
「膝丸も食べるよね? 誰かにお茶とおしぼり持ってきてもらお」
「……俺が行く。皆の手を煩わせるわけにはいかん」
「え、ありがと! なんだかんだ優しいとこあるよね~」
「これは優しさではなくてだな……いや他の刀への気遣いと言えば確かにそうなのだが決して君のためではなく……はあ、もういい。しばし外すが誰が来ても招き入れてはならない。いいな?」
「はぁい」
やってはいけないと言われたことを実行するほどおバカではない。元気よくお返事すれば、膝丸はこめかみを押さえながら部屋を出て行った。
* * * * *
髭切と膝丸の作戦は、この部屋まであの子どもをおびき寄せて叩き切るという単純明快なものだった。狙いは私だが、一応本丸に悪さをされないよう結界を駆使して門からここまでの道を作ってやるようだが、それが済めばあとは兄弟ふたりで対処するという結論になったらしい。他の刀も時折様子を見に来てはくれるが室内には立ち入らず、日が暮れると訪問者はいなくなった。どうやら出入りができるのはこの兄弟のみという取り決めになっているらしい。そのうえ髭切は近くに身を隠しているようで、基本的に縁側は無人のようだった。
「膝丸さあ、髭切が怒ってるって言ってたじゃん?」
「ああ」
「それってそのー……私が軽率なことしたから?」
膝丸は本日何度目かも分からない呆れた顔でドーナツを飲み込んだ。積極的に話しかけてはこないものの、私から話題を振れば応じてはくれる。今もまた膝丸は数秒視線を宙に泳がせたあと、ゆっくりと首を振った。
「それはどちらかと言えば俺だ」
「私って、私に対してキレてる人とずっと一緒にいたの……?」
「君がそこに気づいていなかったことに心底驚いている」
「……でも髭切は違うんだ?」
「多少思うところはあったようだがな。それよりも兄者は、自分のものに手を出されることを何より嫌う」
「へー、そんなにここに愛着持ってくれてたんだ」
「君、鈍感とか野暮天とか言われるだろう」
「よく分かったね。大正解。このもちもちのドーナツをあげよう」
おしぼりで拭いたばかりの手でドーナツを受け取る膝丸は複雑そうな顔をした。食べること自体は嫌いではなさそうだが、おそらくそれ以上に私の鈍感ぶりに頭を痛めているのだろう。詳細は分からないまでも自分が原因ではあるようだったから多少申し訳ないような気もしたが、謝罪したところで私の察しが良くなるわけでもなかったのでそのまま話を進めることにした。
「自分のものねえ……髭切ってものに執着するタイプには見えないけど、そうでもないの? 嫉妬したら鬼になる、でしょ?」
「……兄者のお心を正しく推し量るには俺もまだ未熟。ただ、兄者にとって君が特別であるということは分かる」
「まあ主だからね」
「……なんであれ特別だという自覚があるのならそれでいい」
「いいって……何が?」
「振る舞いに気を付けろということだ。兄者は分かりにくいところもあるが、ある意味かなり分かりやすい」
「意味分からん。ていうかなんで私が気を付けなくちゃならないの? 私に何かしてほしいならまず髭切がお願いすべきじゃない?」
「……君は稀に核心を突くな」
正論だと感慨深げに頷く膝丸だが、私は何ひとつ理解も納得もできていない。何故私が髭切のお気持ちを察して言動に気を付けなければならないのだろう。よく分からない。ついでにいつまでこうしていなければならないのかも分からない。この部屋に閉じこもったのは夕方より前だったが、すでに時計の針は深夜を指している。合間に夕飯を届けてもらったり膝丸同伴でお手洗いに行ったりはしたものの、さすがに少し飽きてきた。ついでに緊張感も薄れている。護衛をしてくれているふたりには悪いが、膝丸の最初のご提案通りに寝てしまってもいいだろうか。こみ上げてきたあくびを噛み殺し、押し入れに視線を移す。視線が障子戸を横切る最中――どこからか、何かが聞こえた気がして動きを止めた。
「膝丸、何か言った?」
「? いや、何も。君の幻聴だな」
「最初から私の異常を決めつけるの何?」
膝丸からの失礼極まりない返しの合間にも、何かの音がどこからか聞こえる。口を閉ざして集中すると、それは部屋の外から届く音のようだった。
「ほら、やっぱり聞こえるよ」
何の音、とはやはり名状しがたい。ず、ず、とものを引きずるような音。ガリガリと、固いものをかじるような音。合間に聞こえるのは、音ではなく声だろうか。ともすればかき消されてしまいそうなか細い声が、何事かをつぶやいている。
「ちょうだい」
そう言っているのだと認識した途端、爪の先で心の端を引っかかれるような不快感に襲われた。
少しずつ、少しずつ、音が言葉を形作る。
ちょうだい。ほしい。そう繰り返すこれは、子どもの声だろうか。膝丸に目をやると、彼は右手を柄に添え、片膝を立てて私を見ていた。
「俺には何も聞こえない」
「ちょうだい、ほしいって言ってる。マジであの子かも。ドーナツほしいか聞いたけどガン無視だったからあげなかったんだよね。仕方ないからオールドファッションあげちゃう?」
膝丸とふたり、食べ散らかしたドーナツは残り一箱。10個ほど残っているものの、うちひとつは私と膝丸がお互いに牽制しあっていたさつまいも味のオールドファッションだ。このとびきりの一品をあげられなくもないが、今さら遅いだろうか。
どうする。視線で膝丸に問えば、「分かった。君の意見は二度と求めない」とまったく噛み合わない回答が寄越された。
「主に意見求めないってどういうことだよ」
「無駄口を叩くな。まだ声は遠いか」
「無駄口じゃないから言うけど私主だからね、主! あと声は近くなってる! 音も!」
「音」
「なんか引きずるみたいな……引っかくみたいな、がじがじやってるみたいな……? ……嫌な予感してきたけど、そういえばあの子座り込んでたんだよね……お約束の展開だとあれだね、ずりばい……匍匐前進? で来てくれたのかな……あー、あげたくないな、オールドファッション」
「君には緊張感や恐怖心というものは備わっていないのか?」
「ここまで来ちゃったらもうね」
帰宅当初は訳も分からず怯えていたが、この状況になってしまえばかえって開き直れるというもの。ドーナツひとつで解決できるのならばそれで構わないし、それが難しくとも髭切と膝丸がそろっている状況で必要以上に怯えることもない。
「あやかしであろうと恐るるに足らず、なんちゃってー」
「不快だから二度と言ってくれるな。話しかけられても応えるなよ」
「ドーナツ投げるのは?」
「食べ物を無駄にするな。あとそのオールドファッションは俺のものだ。手を出すことは許さん」
「はー? これは私のですが?」
「満腹だと言っていただろう。食い意地を張るんじゃない」
「そろそろ満腹って言ったの。勝手に食べたらガチめにキレるからよく覚えとけよ」
わりと本気めの口論をしながらじりじりと後退する私と反対に、膝丸はじりじりと前進していく。あまり意味はないだろうが、天井から垂れた紐を引いて電気を消すと、月光が思いのほか明るく障子を照らした。これで外側からはこちらの様子が見えにくく、こちらからは外の様子が分かりやすい。もちろんあやかしとやらが視覚情報に頼っていたら、という前提はあるが、外にいるはずの髭切に異常を知らせることもできただろう。あとはふたりを信じて息を殺すのみ。相変わらず音と声は、徐々に近づいてきている。焦らすようなスピードがもどかしい。
「縁側の端くらいまで来た」
「もう一度確認するが、俺がしてはいけないと言ったことはなんだ?」
「オールドファッションに手を出すこと」
「兄者よ、何故この人間はこんなにもアホなのだ……」
「なに嘆いてるんだよ。そう言ったでしょ」
「確かに言ったが……あやかしの声に応えるなと言ったのだ。分かったら分かったと言え」
「分かったけど膝丸の態度が気に食わない」
「よし、では不愉快だから速やかに黙れ」
「これが片付いたら覚えてろよ」
ず、ず、ず。
障子の向こう側から聞こえてくる音に、さすがに私も口を閉ざす。オールドファッションには手を出さない。あれの声にも応えない。膝丸くんからの生意気かつありがたい助言を胸に両手を口に当て、余計な声が漏れないよう身構える。
ちょうだい。ちょうだい。
最早耳を澄まさずともはっきりと聞こえるとの言葉は、思っていたよりもずっとおぞましい声音をしていた。子どもの声ではある。比較的高く、舌足らずにも聞こえる。それなのに墓の中から這い出てきたような得体の知れない物体が発する音にも、ひたすらに苦痛を訴えるうめき声にも似ていた。膝丸や髭切がいなければ、きっと激しい動悸に襲われて酸欠で倒れていたことだろう。ふたりがいると分かっている今でもなお、不快感から肌が粟立ち、かすかに呼吸が乱れている。自ら閉ざしていた口を開き、少しだけ膝丸の服の端を引っ張った。
「膝丸ぅ……私にも恐怖心備わってたぁ……」
「そうか、一応人間ではあるようで安心した」
「もうちょっと不安に寄り添ってよ」
「我ら兄弟がいて何の不安がある」
「ああ、うん、まあそうなんですけどね……」
膝丸が言わんとすることは分かるし私もふたりを信頼してはいるが、本能的な恐怖や不安を紛らわすのは容易ではない。それも自分にしか聞こえない音が原因だ。くそうと悪態をつき、再び口を塞ぐ。
引きずるような音も、何かをかじるような音も、気色の悪い声も、長い時間をかけて障子の前まで近づいてきた。膝丸がまとう空気が徐々に鋭さを増していくのが分かる。障子1枚隔てているせいか、髭切の気配はまるで感じられない。月明かりはまぶしく縁側を照らしているはずなのに、心細さは増していく一方だった。
(……来た)
ず、ず、ず。
音と声が、障子戸の正面に迫って止んだ。影は、見えない。ただ美しい月光が降り注ぐ庭が、薄い障子の向こう側に佇んでいる。まるで膝丸の言う通り、本当にすべて幻聴だったのではないかと思うほどの静寂。けれどここで気を緩めてはならない。身じろぎひとつしない膝丸の斜め後ろ、口を覆う両手にぎゅっと力をこめ、にらむように障子を見る。
やがてカリと、小さな音が聞こえた。
今度は膝丸も認識できたのだろう、黒い肩がわずかに揺れる。最初は1回きりだったそれは、間を空けて再度聞こえた。それから2回、3回と回数を増していく。外から障子の木枠を引っかくような音だと思った。
カリ、カリ、カリ。
急かすようではない。何度も何度も障子に爪を立てる音だけが室内に響く。そこに件の声が、混じり始めた。
「ちょうだい」
「……」
「ほしい、ほしいの」
「……」
「ちょうだい」
そんなにもドーナツがほしいのかと言いたくなったが、膝丸の助言というか最早命令めいたお言葉を思い出しなんとか耐えた。あれに応えたときにどうなってしまうのかは分からない。けれど良いことにはならないから、わざわざ膝丸は止めたのだ。それをみすみす実行する必要はないだろう。改めて唇を引き結ぶ。それと同時に引っかくような音が止み――次いで破裂音にも似た大きな音が耳の中に広がった。
「!」
まるで腹の底まで突き抜けるような大音。地面に突き刺さった雷鳴にも似ている。ドン、ドン、ドンと響く音に肩を震わせ、それでもなんとか視線を障子戸に固定する。そこでは月明かりが、縁側の光景を映していた。
まず認識できたのは手のひらだった。予想通り、私より一回りか二回り小さい程度の子どもの手。それが障子を叩いては離れ、叩いては離れを繰り返し、あの大きな音を生み出している。下の方は腰板に隠されているため見えないが、あやかしの頭部と肩も認識できた。耳が見えるようなショートカットは、ドーナツ屋の前で見たあの子どもを思い出させる。異様だと思ったのは、その高さだ。頭があるのは腰板のすぐ上。床から60cm程度の場所で、推定される身長からは著しく低い。予想通り、何らかの理由で地面を這いずったままここにたどり着き、頭をもたげて障子戸を叩いているのだろう。その姿を想像して、おぞましいような悲しいような、妙な気分に陥った。
「どうやら入ってはこられないようだな」
膝丸が冷静に現状を分析する。
「力は弱そうだが、ああいった手合いを侮るのも得策ではない。兄者は何をしている?」
「ちょうだい。ほしいの」
「ふん、こんなポンコツの何を欲しているのやら。取り込んだところで口と頭が悪くなるだけだ。うぐっ」
私が口を開けないのをいいことに好き放題言っている膝丸の背中を拳で軽く小突いた。いらだちから緊張感が和らいだが、それでも音と声は続いている。
(髭切、早くしてよ……!)
届くわけもないのに心の中で何度も髭切に願う。外にいる彼が終わらせねば、いつまでもこの状況は続くだろう。このあやかしを放っておく理由などないだろうに、彼はどこで何をしているのか。鼓膜が破れそうなほどの大きな音と、地震にも似た震動が、緊張感を呼び戻す。あんな薄っぺらい障子など、私の力でも押し倒せるのだ。この調子では壊れてしまうかもしれない。
(髭切……!)
――願いが通じたわけでは、なかったのだろう。しかし月明かりが待ち望んでいたシルエットを映し出したのは、その直後だった。
ちょうだい。ほしい。
同じことを何度も繰り返していた声が、違う言葉を紡いだとき。
「かえして」
「む?」
「かえして、かえして。それはぼくの――」
それ以上の言葉は続かなかった。肩にかけたジャケットが翻り、すらりと伸びた足が上から降ってくる。それと重なるようにして縁側に突き立てられたのは、彼の本体だろう。私の耳が拾えたのは刃が床に吸い込まれたときのさくりという小さな音だけで、そのすぐあと、障子戸を叩く音と不快な声音がピタリと止んだ。
「ぼくの、何?」
続けざまに聞こえたのは、知っている男の声――の、はずだった。
「何を勘違いしたのか知らないけど……僕のだよ」
見間違いでなければ、突き刺した刀をそのままぐりと回したように見えた。痛めつけるような仕草に、先ほどまでとは別の意味でぞっと背筋が震える。
その声に覚えはある。しかし、誰のものなのかが分からない。感情が抜け落ちた低い声に動揺する。しかし障子越しに見えるシルエットと気配はまごうことなく私の刀のもので、その名を呼びながら立ち上がろうとする。障子戸を開けようとしていた。そこにいるのはあやかしではないのだと、確かめたかったのだと思う。しかし膝丸が、それを妨げた。未だ警戒を緩めず、私を元の場所に引き戻すと再び刀に手をかけて、戦闘の準備を整える。
(髭切じゃないの……?)
膝丸のそれは味方、それも敬愛する兄への態度ではない。混乱する私をよそに落ち着いた様子で障子の向こう側を見据える膝丸は、気のせいでなければ先ほどよりも殺気立って見えた。
室内の様子を知ってか知らずか、髭切と思しきそれは刀を鞘に収めると迷うことなく障子戸を開いた。大きな月を背に負って顔を見せたのはやはり私の刀そのもので、緊張を隠しきれないでいた私と臨戦態勢の膝丸を認めると「ありゃ?」といつも通りのやわらかい声を出して首を傾げてみせる。
「もう終わったよ?」
「……ああ、そのようだな」
ふうと張りつめていた息を吐き出して柄から手を離した膝丸を見て、私もようやく、同じように深く息を吐いた。すると上がっていた肩がぐだりと下に落ち、それによってどれだけ全身に力が入っていたのかを知る。口を覆っていた手のひらには汗がにじみ、髭切が開け放した戸から入り込んだ風がひやりと背中を撫でていった。自覚していたよりもずっと緊張していたらしい自分に呆れながら、ほっとしてふたりを見上げる。
「良かったぁ。なんかよく分かんなかったけど助かったよ。ありがと」
「どういたしまして。どうやら勘違いをした子どもがついてきてしまったようだね」
「勘違い?」
「君を、自分の何かだと思い込んでしまったのだろう」
「え、原因ってドーナツじゃないの?」
「そうであれば君がドーナツを投げるのを止めはしなかった」
「そうなんだ……」
場合によってはドーナツ投げを推奨する膝丸が見られたのかと、少しずれた方向からがっかりする。きっとそれを察知したのだろう膝丸は乾いたため息とともに最後のドーナツの箱を拾い上げ、「先に休ませてもらう」と縁側に向かった。
「え、ちょっと! その中のオールドファッション、私の!」
「快く譲ってくれて感謝する」
「耳イカレてんの!?」
「そうか、君が食べ散らかしたドーナツの片づけまでしてくれるのか。重ね重ね感謝する」
「これ食べたの8割膝丸では!? えっ、この部屋私が片付けるの!?」
「主よ、今は深夜だ。皆が起きてしまうから大声は控えてくれ。では失礼する」
「は? おまっ、はあ~~~!?」
「主と弟は本当に仲良しだねえ」
すたすたと無慈悲に去っていく膝丸をおもしろそうに眺めながら、髭切は私の前にしゃがみこんだ。表情も声音も、普段の髭切と何ら変わりはない。少し抜けたところはあるがおおらかで自然体な、優しい太刀。障子越しに覚えた違和感は、とうに霧散していた。
「? どうしたの? 顔に何かついてる?」
「ううん、なんかさっきの髭切……ちょっと怖かったかも~って思って」
「僕が?」
きょとんと目を丸くする髭切に、こくりと頷く。
「なんとなく、いつもと違う気がして。戦ってるところって、いつもは直接は見ないからかな」
「今は怖くない?」
「うん。普通」
「そう、なら良かったよ。ところでいつまでここにいるんだい?」
「え? あー……ちょっと落ち着くまで?」
安堵から力が抜けきってしまったのか、実のところ、手足にうまく力が入らなかった。おそらく膝丸はそれに気がついていたからあんなにも堂々とドーナツを持ちされたのだろう。悔しさと情けなさが入り混じった気分で、無意味にもじもじと指先をこすり合わせる。きっと髭切もすぐに事情を察したのだろう、得心した様子で「それなら」と手を叩き――次の瞬間、体がふわりと宙に浮くような感覚に襲われた。
「おわぁ!?」
「ほら、怖いなら掴まっておいで」
くすくすと笑いながら取った私の手を、髭切は自身の首の後ろに回させる。体のどこも床に触れていない。それどころかいつもより視線が高く、体は支えられているもののどこか心もとない。髭切に横抱きにされたのだと気が付いたのは彼が灯りのない室内を大股で歩き出してからで、縁側に出た辺りで慌てて下ろすようにお願いした。
「何故?」
「さっきの部屋片づけてないし! ちょっと待ってれば歩けるようになるし……!」
「でもこうしてしまえば、待つ必要はないだろう?」
「いやいやいや、普通に恥ずかしいし……!」
「じゃあ慣れてもらわないと。本当は前からこうしたかったんだから」
「ん?」
「ん?」
「……なんて言った?」
「前からこうしたかったし、これからもこういうことしたいんだよね、僕」
「な、なんで?」
「君に触れたいと思うのに理由って必要なの?」
「え、ひ、必要だと思うけど……」
「ええ……? じゃあ君が好きだから」
「この刀は何を言っているんだ……?」
お互いに怪訝な顔をしながら、月明かりが照らす縁側を進んでいく。
髭切が何を言っているのか、なんだかまるで理解ができない。なんだ、こうしたかったって。なんだ、触れたいって。なんだ、じゃあ好きって。
もし言葉のまま――私に好意を抱いているのだとすれば、あまりに表現が軽すぎやしないか。せめてもう少し照れるなり言いよどむなりしてくれれば信憑性はあるものの、髭切は驚くほどけろりとしている。けろりとしたまま「ああいう手合いが君に手を出すのもおもしろくないし」と、これまたよく分からないことを付け足している。
「大抵のことはどうでもいいんだけど、こればかりは譲れないなぁ」
「え? なに? 全然分かんない。嫉妬してんの?」
「あはは、僕が? 君っておもしろいことを思いつくよね」
「そうかな……」
「そうだよ。あんなあやかしに情けをかけて、勘違いまでさせて」
「んんん? なんか話ずれてない?」
「まあ細かいことはいいじゃないか。おおらかにいこう、おおらかに」
「それで全部丸め込めると思ってるのがもうおかしい」
「とにかく心配したから、そばを離れないでほしいという意味さ」
「う、うーん? なんか違うような気が……?」
「何も違わないよ。僕のそばにいれば、こんなことは二度と起きないんだから」
髭切の言う「こんなこと」の意味は図りかねたが、これ以上問答したところで彼から明確な答えを引き出すことは不可能だろう。こうなれば明日膝丸を捕まえて髭切の言動を洗いざらい伝え、解説をしてもらうしかない。
「かわいそうな膝丸……兄がこんなに分かりにくいせいで巻き込まれて……」
「むむ、それは心外だな。君だって鈍感とか野暮天とか言われるだろう?」
「すごい、髭切も正解。じゃあお互い様ということで、間に膝丸置いてもう1回話すことにしよ」
「分かった。じゃあとりあえず今夜は僕の部屋で寝るということでいいかな?」
「ん? なんだ? なんか今全然分からない話の曲がり方したな?」
「あ、その前に歯磨きだね。洗面所経由僕の部屋ということで」
「いや洗面所で解散ということで……」
「え、どうして?」
「そんな不思議そうな顔されても……」
「だって君は僕のだってもう決めたし」
「いや違うし……」
「ええ……? 嫌なの……?」
「嫌とか嫌じゃないとかいう次元の話じゃなくない……?」
何を考えているんだ、この刀。あちらも私に対して同じようなことを思っていそうなところがなんだか腹立たしい。しかし「でも一人で寝るのは怖いだろう?」などと図星をさされてしまえば、ぐっと言葉に詰まるほかない。そこに隙を見出したらしい髭切は「うんうん、やっぱりそうだと思ったよ」とやはりご機嫌な様子で、足早に洗面所への道を進む。私への思いやりなのか自分の思いを貫き通しているだけなのかも分からないが、こうなれば髭切が止まることはないだろう。それに今夜助けてもらったのは私の方だ。お礼というわけでもなかったが、多少この意味不明な言動に付き合ってあげてもいいだろうと無理矢理自分を納得させ、あれよあれよと髭切のペースに巻き込まれていった。
障子越しに聞こえた声が誰のものなのか、一瞬判別がつかなかった。まったく感情が読み取れない声音。取り繕われることがなかったのだろう低い声には、ぞっと背筋を震わせる重みを感じる。月明かりが切り抜いた影絵がなければ、その声の持ち主を知ることはできなかっただろう。
「髭切……?」
狼狽えつつも障子を開くべく立ち上がりかけた私の腕を掴んだのは膝丸だった。火急の事態によって力加減は失われているらしく、乱雑に私を引き戻す仕草に気遣いはない。膝丸は私の方を見ないまま、じっと障子を見据えていた。
* * * * *
事の発端は今日の夕方、私が現世から持ち帰ってしまったお土産だった。
「おや。随分変わったお土産を持ってきたねえ」
玄関の顔を合わせて開口一番、髭切は私――というよりは私の後ろを見てそう言い放った。最初は疑問符を浮かべるしかなかったが、ぞろぞろと自発的に集まってきた石切丸やにっかり青江、鬼丸国綱に膝丸といった顔ぶれを見れば、自ずと髭切の呆れ顔の理由は知れる。おずおずと振り返ろうとした私の顔面をがしりとわし掴み、「よしよし、いい子だから前だけ見て歩こうね」とありがたい助言をくださった髭切に従い、震える足で屋内へと向かった。
「心当たりは?」
本丸の最奥、執務室周りを掠めないルートで縁側を進み適当な空き部屋に入る。単刀直入に問うてきたのは膝丸だった。もう振り向いてもいいという髭切に少し緊張感を緩めながら後ろを見れば、膝丸が障子を隙間なく閉ざしたところだった。障子越しに見える影は石切丸と青江だろう。ひとまずといった様子で外側から数枚のお札を貼り付けているのが見えた。
「こ、心当たりって言っても……普通に買い物してきただけで……あ、これお土産」
「今夜の兵糧はドーナツかぁ。足りるかな」
「100個もあれば十分だろう。……よくこんなに持ち帰ったな」
「うん……やっぱ100個って重いなって思ってはいたんだよね……でも全部置いたのにまだ重いんだよね、肩……」
「そりゃあ憑いてるからね」
許可もなく箱を開けてドーナツを食べ始めた髭切に怒る気力も湧かなかった。はあと重く息を吐き、背中を丸めて畳の上に座り込む。そうしている合間にも部屋の外には鬼丸がどかりと座り込み、その周囲に怪異に明るい刀たちが集まってきているのを感じる。髭切の言う「憑いている」という言葉の信憑性が増してきていた。
「心当たり……心当たり……? 余計なことなんてしてないと思うんだけど……」
「本当か? 事故死した童の遺体を粗末に扱ったり、どこぞで墓石を蹴り倒したりはしていないか?」
「膝丸の中の私ってそんな治安悪いことするの?」
「しないとは言い切れんだろう」
「は? 言い切れよ。こちとら主だよ?」
「それ見たことか。君は自分で思っているよりもだいぶ治安が悪いぞ」
「お前たち、仲が良いのは良いことだけれど、早く本題にお入り」
「む、すまない」
「なんか髭切に言われるの屈辱……」
ドーナツにまぶしてあったチョコスプレーをパラパラと零しながら苦言を呈する髭切に複雑な気分になりつつ、再度現世での出来事を振り返る。本丸を出てからまっすぐにショッピングモールに向かい、半日かけてすべての店をブラブラと巡った。最後に、注文していた大量のドーナツを受け取り、その店の向かい側で、迷子のような子どもを見つけた。たくさんの人が行き交う中でぽつりと一人で座り込み、泣きそうな顔で俯く小学生くらいの子どもを捨て置けず声をかけ、しかし一言も反応が返らなかったものだから恥ずかしくなってそそくさと本丸に逃げ帰ってきた。そして髭切に不穏な出迎えをされ、今に至る。
ところどころ記憶を思い出しながら本日の行動を口に出して並べると、最後の辺りで膝丸が「それではないか」とため息混じりに言った。
「それ」
「最後の」
「うん……?」
「……童」
「ああ……やっぱり不審者に思われちゃったかな……」
「兄者、この人間、察しが悪すぎるのだが?」
「主を人間呼ばわりしないでくれます?」
「噛みつくべきはそちらでは……いや、もういい。君に付き合っていたら日が暮れる。その童、人ではなくあやかしだ」
「おう……」
なるほど、これは確かに私の察しが悪すぎた。恥じ入る気持ちを誤魔化すようにドーナツを取り、もそもそと頬張る。気がつけば髭切は3個目のドーナツを手に取ったところで、膝の上をシュガーパウダーやチョコスプレーまみれにさせていた。
「……つまり私は幽霊的なお子さまにうっかり声をかけて無視されたくせに何故だかそれをお持ち帰りをしてしまったってこと?」
「そうだ」
「……迷子かなって思って」
「ほう」
「周りに大人いなかったし」
「ふむ」
「顔色すごく悪くて、死人かってくらい真っ青だったし」
「だろうな」
「確かにちょっとぎょろっとした目だったから怖いなっても思ってたけど!」
「君の眼球自体は正常に作動しているのだな。問題はその先にあるということか」
「髭切くん! 君の弟すっごい辛辣だよ!?」
「さて」
6個目のドーナツを食べ終えた髭切は涙目の私など目に入っていないのか、手についた砂糖を払って手袋をはめる。嫌そうな顔をしたきれい好きの膝丸のことも丸きり無視した瞳は私の肩から障子に向かい、縁側を行き交ういくつもの影を認めると少しだけ細められた。
「気圧されて一度は退いたようだけど、完全に縁が断ち切れたわけではないみたいだ」
「うむ。本丸から締め出すことは容易だが、あやかし自体を退治するほかあるまい」
「知能も高くはなさそうだし、通り道を作ってもらうとしようか」
「兄者が残るか?」
「いや、ドーナツは持っていけばいいし、籠城はお前に任せるよ。子どもの相手は、お前よりも僕の方が得意だろう?」
「同意はしかねるが…承知した。……というわけだ、主。構わないな?」
「えっ、何が?」
「君……」
「説明省いたのそっちなくせに正気疑うみたいな顔やめていただける?」
「兄者、やはり役割を交換しないか? 確かに俺は童の相手は不得手だが、主の相手となると壊滅的だ」
「オイ」
「ほらほら、仲良くしないと鬼が来てしまうよ。じゃあ主、弟の言うことをよく聞いて、いい子でいるんだよ」
「え、う、うん……」
私の曖昧な返事に満足そうに頷くと、髭切は膝の上のパウダーシュガーたちを畳の上に落とし、ドーナツを三箱小脇に抱えて障子戸から出ていった。続けて「作戦が決まったよ」というのんびりとした声が聞こえ、それを受けた影たちは髭切に続いておそらく広間へ移動する。
「……もしかしてだけど、私このままずっとここにいる感じ?」
「それくらいは理解してくれていて助かった。兄者のためにも、おとなしくしていてくれ」
「なんで髭切のため?」
「あれでかなりお怒りのようだからな」
「髭切が?」
「縄張り意識が強いのだ、兄者は」
「もう私に話を理解させるつもりないよね」
「分かっているのなら問答は不要だな。眠ってくれて構わないぞ。布団を敷こう」
「いやいらんし。コミュニケーション放棄しないでよ」
ディスコミュニケーションが過ぎる膝丸に口をとがらせながら、ひとまずドーナツの箱を開けてみる。よくは分からないがとにかくこの部屋でおとなしく過ごしていればみんなが解決してくれるということなのだろう。ならばドーナツを食べながら待つのみ。解決した暁には倍量のドーナツを本丸中に配り歩こう。
「膝丸も食べるよね? 誰かにお茶とおしぼり持ってきてもらお」
「……俺が行く。皆の手を煩わせるわけにはいかん」
「え、ありがと! なんだかんだ優しいとこあるよね~」
「これは優しさではなくてだな……いや他の刀への気遣いと言えば確かにそうなのだが決して君のためではなく……はあ、もういい。しばし外すが誰が来ても招き入れてはならない。いいな?」
「はぁい」
やってはいけないと言われたことを実行するほどおバカではない。元気よくお返事すれば、膝丸はこめかみを押さえながら部屋を出て行った。
* * * * *
髭切と膝丸の作戦は、この部屋まであの子どもをおびき寄せて叩き切るという単純明快なものだった。狙いは私だが、一応本丸に悪さをされないよう結界を駆使して門からここまでの道を作ってやるようだが、それが済めばあとは兄弟ふたりで対処するという結論になったらしい。他の刀も時折様子を見に来てはくれるが室内には立ち入らず、日が暮れると訪問者はいなくなった。どうやら出入りができるのはこの兄弟のみという取り決めになっているらしい。そのうえ髭切は近くに身を隠しているようで、基本的に縁側は無人のようだった。
「膝丸さあ、髭切が怒ってるって言ってたじゃん?」
「ああ」
「それってそのー……私が軽率なことしたから?」
膝丸は本日何度目かも分からない呆れた顔でドーナツを飲み込んだ。積極的に話しかけてはこないものの、私から話題を振れば応じてはくれる。今もまた膝丸は数秒視線を宙に泳がせたあと、ゆっくりと首を振った。
「それはどちらかと言えば俺だ」
「私って、私に対してキレてる人とずっと一緒にいたの……?」
「君がそこに気づいていなかったことに心底驚いている」
「……でも髭切は違うんだ?」
「多少思うところはあったようだがな。それよりも兄者は、自分のものに手を出されることを何より嫌う」
「へー、そんなにここに愛着持ってくれてたんだ」
「君、鈍感とか野暮天とか言われるだろう」
「よく分かったね。大正解。このもちもちのドーナツをあげよう」
おしぼりで拭いたばかりの手でドーナツを受け取る膝丸は複雑そうな顔をした。食べること自体は嫌いではなさそうだが、おそらくそれ以上に私の鈍感ぶりに頭を痛めているのだろう。詳細は分からないまでも自分が原因ではあるようだったから多少申し訳ないような気もしたが、謝罪したところで私の察しが良くなるわけでもなかったのでそのまま話を進めることにした。
「自分のものねえ……髭切ってものに執着するタイプには見えないけど、そうでもないの? 嫉妬したら鬼になる、でしょ?」
「……兄者のお心を正しく推し量るには俺もまだ未熟。ただ、兄者にとって君が特別であるということは分かる」
「まあ主だからね」
「……なんであれ特別だという自覚があるのならそれでいい」
「いいって……何が?」
「振る舞いに気を付けろということだ。兄者は分かりにくいところもあるが、ある意味かなり分かりやすい」
「意味分からん。ていうかなんで私が気を付けなくちゃならないの? 私に何かしてほしいならまず髭切がお願いすべきじゃない?」
「……君は稀に核心を突くな」
正論だと感慨深げに頷く膝丸だが、私は何ひとつ理解も納得もできていない。何故私が髭切のお気持ちを察して言動に気を付けなければならないのだろう。よく分からない。ついでにいつまでこうしていなければならないのかも分からない。この部屋に閉じこもったのは夕方より前だったが、すでに時計の針は深夜を指している。合間に夕飯を届けてもらったり膝丸同伴でお手洗いに行ったりはしたものの、さすがに少し飽きてきた。ついでに緊張感も薄れている。護衛をしてくれているふたりには悪いが、膝丸の最初のご提案通りに寝てしまってもいいだろうか。こみ上げてきたあくびを噛み殺し、押し入れに視線を移す。視線が障子戸を横切る最中――どこからか、何かが聞こえた気がして動きを止めた。
「膝丸、何か言った?」
「? いや、何も。君の幻聴だな」
「最初から私の異常を決めつけるの何?」
膝丸からの失礼極まりない返しの合間にも、何かの音がどこからか聞こえる。口を閉ざして集中すると、それは部屋の外から届く音のようだった。
「ほら、やっぱり聞こえるよ」
何の音、とはやはり名状しがたい。ず、ず、とものを引きずるような音。ガリガリと、固いものをかじるような音。合間に聞こえるのは、音ではなく声だろうか。ともすればかき消されてしまいそうなか細い声が、何事かをつぶやいている。
「ちょうだい」
そう言っているのだと認識した途端、爪の先で心の端を引っかかれるような不快感に襲われた。
少しずつ、少しずつ、音が言葉を形作る。
ちょうだい。ほしい。そう繰り返すこれは、子どもの声だろうか。膝丸に目をやると、彼は右手を柄に添え、片膝を立てて私を見ていた。
「俺には何も聞こえない」
「ちょうだい、ほしいって言ってる。マジであの子かも。ドーナツほしいか聞いたけどガン無視だったからあげなかったんだよね。仕方ないからオールドファッションあげちゃう?」
膝丸とふたり、食べ散らかしたドーナツは残り一箱。10個ほど残っているものの、うちひとつは私と膝丸がお互いに牽制しあっていたさつまいも味のオールドファッションだ。このとびきりの一品をあげられなくもないが、今さら遅いだろうか。
どうする。視線で膝丸に問えば、「分かった。君の意見は二度と求めない」とまったく噛み合わない回答が寄越された。
「主に意見求めないってどういうことだよ」
「無駄口を叩くな。まだ声は遠いか」
「無駄口じゃないから言うけど私主だからね、主! あと声は近くなってる! 音も!」
「音」
「なんか引きずるみたいな……引っかくみたいな、がじがじやってるみたいな……? ……嫌な予感してきたけど、そういえばあの子座り込んでたんだよね……お約束の展開だとあれだね、ずりばい……匍匐前進? で来てくれたのかな……あー、あげたくないな、オールドファッション」
「君には緊張感や恐怖心というものは備わっていないのか?」
「ここまで来ちゃったらもうね」
帰宅当初は訳も分からず怯えていたが、この状況になってしまえばかえって開き直れるというもの。ドーナツひとつで解決できるのならばそれで構わないし、それが難しくとも髭切と膝丸がそろっている状況で必要以上に怯えることもない。
「あやかしであろうと恐るるに足らず、なんちゃってー」
「不快だから二度と言ってくれるな。話しかけられても応えるなよ」
「ドーナツ投げるのは?」
「食べ物を無駄にするな。あとそのオールドファッションは俺のものだ。手を出すことは許さん」
「はー? これは私のですが?」
「満腹だと言っていただろう。食い意地を張るんじゃない」
「そろそろ満腹って言ったの。勝手に食べたらガチめにキレるからよく覚えとけよ」
わりと本気めの口論をしながらじりじりと後退する私と反対に、膝丸はじりじりと前進していく。あまり意味はないだろうが、天井から垂れた紐を引いて電気を消すと、月光が思いのほか明るく障子を照らした。これで外側からはこちらの様子が見えにくく、こちらからは外の様子が分かりやすい。もちろんあやかしとやらが視覚情報に頼っていたら、という前提はあるが、外にいるはずの髭切に異常を知らせることもできただろう。あとはふたりを信じて息を殺すのみ。相変わらず音と声は、徐々に近づいてきている。焦らすようなスピードがもどかしい。
「縁側の端くらいまで来た」
「もう一度確認するが、俺がしてはいけないと言ったことはなんだ?」
「オールドファッションに手を出すこと」
「兄者よ、何故この人間はこんなにもアホなのだ……」
「なに嘆いてるんだよ。そう言ったでしょ」
「確かに言ったが……あやかしの声に応えるなと言ったのだ。分かったら分かったと言え」
「分かったけど膝丸の態度が気に食わない」
「よし、では不愉快だから速やかに黙れ」
「これが片付いたら覚えてろよ」
ず、ず、ず。
障子の向こう側から聞こえてくる音に、さすがに私も口を閉ざす。オールドファッションには手を出さない。あれの声にも応えない。膝丸くんからの生意気かつありがたい助言を胸に両手を口に当て、余計な声が漏れないよう身構える。
ちょうだい。ちょうだい。
最早耳を澄まさずともはっきりと聞こえるとの言葉は、思っていたよりもずっとおぞましい声音をしていた。子どもの声ではある。比較的高く、舌足らずにも聞こえる。それなのに墓の中から這い出てきたような得体の知れない物体が発する音にも、ひたすらに苦痛を訴えるうめき声にも似ていた。膝丸や髭切がいなければ、きっと激しい動悸に襲われて酸欠で倒れていたことだろう。ふたりがいると分かっている今でもなお、不快感から肌が粟立ち、かすかに呼吸が乱れている。自ら閉ざしていた口を開き、少しだけ膝丸の服の端を引っ張った。
「膝丸ぅ……私にも恐怖心備わってたぁ……」
「そうか、一応人間ではあるようで安心した」
「もうちょっと不安に寄り添ってよ」
「我ら兄弟がいて何の不安がある」
「ああ、うん、まあそうなんですけどね……」
膝丸が言わんとすることは分かるし私もふたりを信頼してはいるが、本能的な恐怖や不安を紛らわすのは容易ではない。それも自分にしか聞こえない音が原因だ。くそうと悪態をつき、再び口を塞ぐ。
引きずるような音も、何かをかじるような音も、気色の悪い声も、長い時間をかけて障子の前まで近づいてきた。膝丸がまとう空気が徐々に鋭さを増していくのが分かる。障子1枚隔てているせいか、髭切の気配はまるで感じられない。月明かりはまぶしく縁側を照らしているはずなのに、心細さは増していく一方だった。
(……来た)
ず、ず、ず。
音と声が、障子戸の正面に迫って止んだ。影は、見えない。ただ美しい月光が降り注ぐ庭が、薄い障子の向こう側に佇んでいる。まるで膝丸の言う通り、本当にすべて幻聴だったのではないかと思うほどの静寂。けれどここで気を緩めてはならない。身じろぎひとつしない膝丸の斜め後ろ、口を覆う両手にぎゅっと力をこめ、にらむように障子を見る。
やがてカリと、小さな音が聞こえた。
今度は膝丸も認識できたのだろう、黒い肩がわずかに揺れる。最初は1回きりだったそれは、間を空けて再度聞こえた。それから2回、3回と回数を増していく。外から障子の木枠を引っかくような音だと思った。
カリ、カリ、カリ。
急かすようではない。何度も何度も障子に爪を立てる音だけが室内に響く。そこに件の声が、混じり始めた。
「ちょうだい」
「……」
「ほしい、ほしいの」
「……」
「ちょうだい」
そんなにもドーナツがほしいのかと言いたくなったが、膝丸の助言というか最早命令めいたお言葉を思い出しなんとか耐えた。あれに応えたときにどうなってしまうのかは分からない。けれど良いことにはならないから、わざわざ膝丸は止めたのだ。それをみすみす実行する必要はないだろう。改めて唇を引き結ぶ。それと同時に引っかくような音が止み――次いで破裂音にも似た大きな音が耳の中に広がった。
「!」
まるで腹の底まで突き抜けるような大音。地面に突き刺さった雷鳴にも似ている。ドン、ドン、ドンと響く音に肩を震わせ、それでもなんとか視線を障子戸に固定する。そこでは月明かりが、縁側の光景を映していた。
まず認識できたのは手のひらだった。予想通り、私より一回りか二回り小さい程度の子どもの手。それが障子を叩いては離れ、叩いては離れを繰り返し、あの大きな音を生み出している。下の方は腰板に隠されているため見えないが、あやかしの頭部と肩も認識できた。耳が見えるようなショートカットは、ドーナツ屋の前で見たあの子どもを思い出させる。異様だと思ったのは、その高さだ。頭があるのは腰板のすぐ上。床から60cm程度の場所で、推定される身長からは著しく低い。予想通り、何らかの理由で地面を這いずったままここにたどり着き、頭をもたげて障子戸を叩いているのだろう。その姿を想像して、おぞましいような悲しいような、妙な気分に陥った。
「どうやら入ってはこられないようだな」
膝丸が冷静に現状を分析する。
「力は弱そうだが、ああいった手合いを侮るのも得策ではない。兄者は何をしている?」
「ちょうだい。ほしいの」
「ふん、こんなポンコツの何を欲しているのやら。取り込んだところで口と頭が悪くなるだけだ。うぐっ」
私が口を開けないのをいいことに好き放題言っている膝丸の背中を拳で軽く小突いた。いらだちから緊張感が和らいだが、それでも音と声は続いている。
(髭切、早くしてよ……!)
届くわけもないのに心の中で何度も髭切に願う。外にいる彼が終わらせねば、いつまでもこの状況は続くだろう。このあやかしを放っておく理由などないだろうに、彼はどこで何をしているのか。鼓膜が破れそうなほどの大きな音と、地震にも似た震動が、緊張感を呼び戻す。あんな薄っぺらい障子など、私の力でも押し倒せるのだ。この調子では壊れてしまうかもしれない。
(髭切……!)
――願いが通じたわけでは、なかったのだろう。しかし月明かりが待ち望んでいたシルエットを映し出したのは、その直後だった。
ちょうだい。ほしい。
同じことを何度も繰り返していた声が、違う言葉を紡いだとき。
「かえして」
「む?」
「かえして、かえして。それはぼくの――」
それ以上の言葉は続かなかった。肩にかけたジャケットが翻り、すらりと伸びた足が上から降ってくる。それと重なるようにして縁側に突き立てられたのは、彼の本体だろう。私の耳が拾えたのは刃が床に吸い込まれたときのさくりという小さな音だけで、そのすぐあと、障子戸を叩く音と不快な声音がピタリと止んだ。
「ぼくの、何?」
続けざまに聞こえたのは、知っている男の声――の、はずだった。
「何を勘違いしたのか知らないけど……僕のだよ」
見間違いでなければ、突き刺した刀をそのままぐりと回したように見えた。痛めつけるような仕草に、先ほどまでとは別の意味でぞっと背筋が震える。
その声に覚えはある。しかし、誰のものなのかが分からない。感情が抜け落ちた低い声に動揺する。しかし障子越しに見えるシルエットと気配はまごうことなく私の刀のもので、その名を呼びながら立ち上がろうとする。障子戸を開けようとしていた。そこにいるのはあやかしではないのだと、確かめたかったのだと思う。しかし膝丸が、それを妨げた。未だ警戒を緩めず、私を元の場所に引き戻すと再び刀に手をかけて、戦闘の準備を整える。
(髭切じゃないの……?)
膝丸のそれは味方、それも敬愛する兄への態度ではない。混乱する私をよそに落ち着いた様子で障子の向こう側を見据える膝丸は、気のせいでなければ先ほどよりも殺気立って見えた。
室内の様子を知ってか知らずか、髭切と思しきそれは刀を鞘に収めると迷うことなく障子戸を開いた。大きな月を背に負って顔を見せたのはやはり私の刀そのもので、緊張を隠しきれないでいた私と臨戦態勢の膝丸を認めると「ありゃ?」といつも通りのやわらかい声を出して首を傾げてみせる。
「もう終わったよ?」
「……ああ、そのようだな」
ふうと張りつめていた息を吐き出して柄から手を離した膝丸を見て、私もようやく、同じように深く息を吐いた。すると上がっていた肩がぐだりと下に落ち、それによってどれだけ全身に力が入っていたのかを知る。口を覆っていた手のひらには汗がにじみ、髭切が開け放した戸から入り込んだ風がひやりと背中を撫でていった。自覚していたよりもずっと緊張していたらしい自分に呆れながら、ほっとしてふたりを見上げる。
「良かったぁ。なんかよく分かんなかったけど助かったよ。ありがと」
「どういたしまして。どうやら勘違いをした子どもがついてきてしまったようだね」
「勘違い?」
「君を、自分の何かだと思い込んでしまったのだろう」
「え、原因ってドーナツじゃないの?」
「そうであれば君がドーナツを投げるのを止めはしなかった」
「そうなんだ……」
場合によってはドーナツ投げを推奨する膝丸が見られたのかと、少しずれた方向からがっかりする。きっとそれを察知したのだろう膝丸は乾いたため息とともに最後のドーナツの箱を拾い上げ、「先に休ませてもらう」と縁側に向かった。
「え、ちょっと! その中のオールドファッション、私の!」
「快く譲ってくれて感謝する」
「耳イカレてんの!?」
「そうか、君が食べ散らかしたドーナツの片づけまでしてくれるのか。重ね重ね感謝する」
「これ食べたの8割膝丸では!? えっ、この部屋私が片付けるの!?」
「主よ、今は深夜だ。皆が起きてしまうから大声は控えてくれ。では失礼する」
「は? おまっ、はあ~~~!?」
「主と弟は本当に仲良しだねえ」
すたすたと無慈悲に去っていく膝丸をおもしろそうに眺めながら、髭切は私の前にしゃがみこんだ。表情も声音も、普段の髭切と何ら変わりはない。少し抜けたところはあるがおおらかで自然体な、優しい太刀。障子越しに覚えた違和感は、とうに霧散していた。
「? どうしたの? 顔に何かついてる?」
「ううん、なんかさっきの髭切……ちょっと怖かったかも~って思って」
「僕が?」
きょとんと目を丸くする髭切に、こくりと頷く。
「なんとなく、いつもと違う気がして。戦ってるところって、いつもは直接は見ないからかな」
「今は怖くない?」
「うん。普通」
「そう、なら良かったよ。ところでいつまでここにいるんだい?」
「え? あー……ちょっと落ち着くまで?」
安堵から力が抜けきってしまったのか、実のところ、手足にうまく力が入らなかった。おそらく膝丸はそれに気がついていたからあんなにも堂々とドーナツを持ちされたのだろう。悔しさと情けなさが入り混じった気分で、無意味にもじもじと指先をこすり合わせる。きっと髭切もすぐに事情を察したのだろう、得心した様子で「それなら」と手を叩き――次の瞬間、体がふわりと宙に浮くような感覚に襲われた。
「おわぁ!?」
「ほら、怖いなら掴まっておいで」
くすくすと笑いながら取った私の手を、髭切は自身の首の後ろに回させる。体のどこも床に触れていない。それどころかいつもより視線が高く、体は支えられているもののどこか心もとない。髭切に横抱きにされたのだと気が付いたのは彼が灯りのない室内を大股で歩き出してからで、縁側に出た辺りで慌てて下ろすようにお願いした。
「何故?」
「さっきの部屋片づけてないし! ちょっと待ってれば歩けるようになるし……!」
「でもこうしてしまえば、待つ必要はないだろう?」
「いやいやいや、普通に恥ずかしいし……!」
「じゃあ慣れてもらわないと。本当は前からこうしたかったんだから」
「ん?」
「ん?」
「……なんて言った?」
「前からこうしたかったし、これからもこういうことしたいんだよね、僕」
「な、なんで?」
「君に触れたいと思うのに理由って必要なの?」
「え、ひ、必要だと思うけど……」
「ええ……? じゃあ君が好きだから」
「この刀は何を言っているんだ……?」
お互いに怪訝な顔をしながら、月明かりが照らす縁側を進んでいく。
髭切が何を言っているのか、なんだかまるで理解ができない。なんだ、こうしたかったって。なんだ、触れたいって。なんだ、じゃあ好きって。
もし言葉のまま――私に好意を抱いているのだとすれば、あまりに表現が軽すぎやしないか。せめてもう少し照れるなり言いよどむなりしてくれれば信憑性はあるものの、髭切は驚くほどけろりとしている。けろりとしたまま「ああいう手合いが君に手を出すのもおもしろくないし」と、これまたよく分からないことを付け足している。
「大抵のことはどうでもいいんだけど、こればかりは譲れないなぁ」
「え? なに? 全然分かんない。嫉妬してんの?」
「あはは、僕が? 君っておもしろいことを思いつくよね」
「そうかな……」
「そうだよ。あんなあやかしに情けをかけて、勘違いまでさせて」
「んんん? なんか話ずれてない?」
「まあ細かいことはいいじゃないか。おおらかにいこう、おおらかに」
「それで全部丸め込めると思ってるのがもうおかしい」
「とにかく心配したから、そばを離れないでほしいという意味さ」
「う、うーん? なんか違うような気が……?」
「何も違わないよ。僕のそばにいれば、こんなことは二度と起きないんだから」
髭切の言う「こんなこと」の意味は図りかねたが、これ以上問答したところで彼から明確な答えを引き出すことは不可能だろう。こうなれば明日膝丸を捕まえて髭切の言動を洗いざらい伝え、解説をしてもらうしかない。
「かわいそうな膝丸……兄がこんなに分かりにくいせいで巻き込まれて……」
「むむ、それは心外だな。君だって鈍感とか野暮天とか言われるだろう?」
「すごい、髭切も正解。じゃあお互い様ということで、間に膝丸置いてもう1回話すことにしよ」
「分かった。じゃあとりあえず今夜は僕の部屋で寝るということでいいかな?」
「ん? なんだ? なんか今全然分からない話の曲がり方したな?」
「あ、その前に歯磨きだね。洗面所経由僕の部屋ということで」
「いや洗面所で解散ということで……」
「え、どうして?」
「そんな不思議そうな顔されても……」
「だって君は僕のだってもう決めたし」
「いや違うし……」
「ええ……? 嫌なの……?」
「嫌とか嫌じゃないとかいう次元の話じゃなくない……?」
何を考えているんだ、この刀。あちらも私に対して同じようなことを思っていそうなところがなんだか腹立たしい。しかし「でも一人で寝るのは怖いだろう?」などと図星をさされてしまえば、ぐっと言葉に詰まるほかない。そこに隙を見出したらしい髭切は「うんうん、やっぱりそうだと思ったよ」とやはりご機嫌な様子で、足早に洗面所への道を進む。私への思いやりなのか自分の思いを貫き通しているだけなのかも分からないが、こうなれば髭切が止まることはないだろう。それに今夜助けてもらったのは私の方だ。お礼というわけでもなかったが、多少この意味不明な言動に付き合ってあげてもいいだろうと無理矢理自分を納得させ、あれよあれよと髭切のペースに巻き込まれていった。