その他
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
いったい何がトリガーだったのは、よく分からなかった。
執務室で二人きり。書類仕事を止めて楽しくおしゃべりしていた最中、ふと沈黙の時が落ちた。縁側に吊るされた風鈴が障子越しに風の流れを教えてチリンと鳴る。クーラーが効いているとはいえ少し汗ばむくらいの室温に少し襟元を緩め息を吐きながら、そういえばこの恋人は戦装束をしっかりと着こんでいたなと思い出した。
別に出陣中でもないのだから、上着くらい脱いだ方がいい。
そう声をかけようと開きかけた口に、彼の冷えた唇が重なった。
別に初めてのキスというわけではない。唇を重ね合わせたことは、これまでもある。今も実休はちゅ、ちゅと、ある意味かわいらしい音とともに、かわいらしく唇を寄せては離すを繰り返している。文字通り目前に迫った紫色が、まぶたに隠されることがないのはいつものこと。座ってもなお高く伸びていた背を丸め、ほんの少し目を細めながらキスを降らせる恋人を微笑ましく思いながらその行為を受け入れていた、その最中。
ぺろりと、生ぬるい感触が唇を伝い、反射的に後ろの飛びのいてしまった。
「あ……」
「! ご、ごめん……!」
先ほどまで私の頬に添えられていた両手を中途半端に宙に浮かせたまま固まる実休に、慌てて謝罪の言葉を重ねる。きっと拒まれたと思ったのだろう、もし彼が犬だったならば両耳としっぽが地面にめり込むほど垂れていたのではないかと思うほど、実休はしょんぼりと眉を下げた。
「ごめん、嫌だったよね」
「ちち違うよ、びっくりしちゃっただけ!」
「本当?」
「ほんと!」
「良かったぁ。じゃあもう一度しようか」
「そっそうだね! ……うん?」
「おいで」
「うん……?」
しおらしく落ち込んでいた実休がパッと顔を明るくさせたことにほっとして思わず頷いてしまったが、なんだか今、口車に乗せられはしなかっただろうか。ニコニコといやらしさなど少しも感じさせない笑みに聞き間違いかと思いながら、私の手を優しくつかみ、体を引き寄せる恋人に従う。
あぐらをかく実休の足の上に正面から向かい合うように座らされてもなお、彼の瞳に情欲は見えない。どちらかと言えばお気に入りのペットを膝に乗せて毛並みを楽しむような、ただそれだけの行為に思える。一応私たちの関係性には「恋人」という名前がつけられてはいるが、曲がりなりにも相手は神で私は人間。どこか感覚が違っていたとしても不思議はない。唇を舐めたのもかわいがる行為の延長線上のものであって、それほど深い意味はなかったのかもしれない。心の底からそう思えるくらい、ぽやぽやと微笑む実休には、下心めいたものを感じなかった。
「次は逃げないでもらえるとうれしいな」
「う、うん……?」
もう一度というのは、やはり聞き間違いではなかったのだろうか。ふにゃりと微笑む恋人に曖昧に頷く。足の上に座ってようやく同じ高さになった視線をしっかりと交えさせながら、実休はゆっくりと私を引き寄せる。後頭部を優しく固定する手のひらは大きく、もう片方の手は腰に回され、強い力はこめられていないものの、がっちりと抱え込まれているような感覚に陥った。
宣言通り再度重なった唇は、やはりいつも通り、軽いキスをもたらした。戯れのように唇だけを触れ合わせ、気まぐれに小さな音を立てながら、角度や場所を少しずつ変えて乾いたキスを繰り返す。子どもっぽいと言えば確かにそうだが、欲が薄く、ぼんやりとしたところがある実休の愛情表現だと思うとどうしたって微笑ましさが勝ってしまう。私自身、こうして触れ合うことは嫌いではないし心地よい。キスの間、絶対に閉じることはない双眸がじっとこちらの反応を見ていることだけは毎回気にかかるが咎めるほどではなく、しばらく彼の好きなようにさせていた。
湿りけを帯びた舌が再び唇を舐めあげたのは、おそらく数分後のことだった。
先ほどと同様、突然の感触にびくりと肩を震わせて目を見開く。眼前の紫色には、相も変わらず情欲など浮いてはいない。しかし思わず距離を取ろうとした私の頭を後ろから押さえこみ引き寄せる手のひらに、躊躇はなかった。
体格に似つかわしい分厚い舌が下唇を伝い、唇の隙間をゆっくりと撫ぜていく。毛穴がすべて開くようなぞわぞわとした感覚が全身を駆け抜け、びしりと体が硬直した。その隙を突くように、これ幸いと唇の合間を縫って舌が差し込まれた。
「ん……!?」
つつ、と彼の舌が上あごをなであげる。端から端まで、あますことなく這わせたかと思えば、奥の方で縮こまっていた私の舌を舐めとり、ゆっくりとすり合わせ、力が抜けたところで軽く唇で吸い上げる。そのままわずかに距離が空いたのも束の間、私たちの間にできた空間を食べるように、甘く下唇に噛みついてくる。
(な、な、な、何事……!?)
自分の口の中で起こっていることに思考が追いつかず、ただ目を見開いて実休を見つめる。彼はやわらかく両目を細めながら、しかし躊躇なく人様の口内を荒らしていった。
頬が熱い。耳も、頭も。これまでのキスとはまったく異なる口づけが、目の奥側を揺さぶって涙を浮かせる。思考が端から溶かされる。実休が吐き出す吐息に甘さが混じっていることに気が付き、どんどん体温が上がっていく。
「気持ち良いね、主」
キスの合間の落とされる甘ったるい声音と、形の良い唇から漏れ出す彼の体温に、足の指がぎゅうと丸まる。
「もっと気持ち良くなろうね……一緒に」
明け透けな物言いに羞恥心をかきたてられ、ぎゅっと心臓の辺りが熱くなった。実休はそんなことはお構いなしに、鼻先に口づけてからキスを再開する。
かわいらしいと思っていたリップ音が重なるたび、聞き慣れたそれが何かもっと別の意味を帯びていく。少しずつ体の力が抜けていくのが怖くなり、咄嗟に広い背中に両手を伸ばした。舌の先にしつこいくらいに吸いつかれ、両手の指先が縋るものを求めて丸まる。ピンと張りつめた固いジャケットを掴むほどの握力は今の私には残されておらず、それでも何かを握ろうとする爪が何度も、彼の背中をジャケット越しに引っかいた。唾液が立てるいやらしい音に混じって聞こえるカリという小さな音が、混乱する私をさらに落ち着かなくさせた。
「じ、っきゅう」
「ん」
「ちょ、と、まって、んっ」
鼻から抜けるような甘ったるい声が漏れ、恥ずかしくなってぎゅうと目をつぶる。すると後頭部に回された手の小指がすりと首筋をなでるものだから、大袈裟なほどに肩が跳ねた。次いで開いた瞳の先、ふたつの紫が、何かのメッセージを込めて静かに細められている。目をそらすことは許さない。きっとそう語ったのだと思う。そのわがままで傲慢な視線にすら、ぞくりと背筋が震えた。
脱力した体は、油断すれば後ろ向きに倒れてしまいそうだった。少しずつ反ってきた背中に合わせて下がる唇に追いすがるように、実休は体を丸めてキスを続ける。最初は同じ高さだった目線はとうに私の方が下になり、彼に後頭部と腰を支えられ抱き込まれながら、今度は太い首筋に腕を回した。そのままゆっくりと、重心を後ろに移される。ほとんど衝撃を感じないまま横たえられた畳の上、ようやく一息つけるかと恋人を見上げるも、閉じ込めるように覆いかぶさってきた体に、早とちりだったと早々に悟った。
(ま、長い……)
もう何度目かも分からないが、またしても唇同士が触れ合う。実休の表情は最初からあまり変わらないが、さすがに少し汗ばんで首筋が濡れていた。私の方はとっくに全身が汗で濡れており、呼吸など乱れすぎて苦しいほどだ。苦しさによるものか快楽によるものかは分からないが、薄く涙も浮かんでいる。余裕のある実休の涼しげな様子が悔しくもあり、ぞっとするものも感じた――もしやこの行為は、彼が満足するまで終われないのではないだろうか。
先ほどよりも遠慮なく体重をかけることができるせいか、実休はもっと深くまで入り込もうとしていた。舌をすくい上げるように裏側をなぞり、そのまま付け根の方まで舌を這わせる。呼吸を圧迫されるような苦しさに眉を寄せて胸元を叩くと、すぐに舌を引っ込めて唇に歯を立ててきた。
決して性急ではないが、ゆるゆると、確実に獲物を追いつめていくような口づけが止まる気配はない。彼をどう止めようかと考えようとすると、それを見越したかのように深いキスに襲われ、思考の余白をなくされてしまう。
(なんで急に……)
最早何分こうしているのかも分からないが、そもそも何かきっかけがあったのだろうか。キスされたときは、私は何をしていたのだろう。何も思い出すことができない。それくらい、なんということもない日常風景が広がっていたはずだ。
(こんなこと考えても仕方ないか……)
きっかけが何であろうとも、終わりが見えないこの行為が起こってしまった事実は変わらない。
とにかく実休はキスがしたい。私も激しく拒否はしていない。気持ち良いのはお互い様。舌の奥には喉しかないのでそれ以上先まで侵入しようとすることだけはやめてほしいが、それ以外のキスならば、別にもう少しくらいこうして過ごしていてもいい。
半分以上諦めのような気持ちで、荒い呼吸を繰り返しながら大きな恋人を見上げる。私の息が上がっていることに気がついたのか実休は少しだけ唇を離し、労わるようにすりと額をすり合わせた。大きな体とかわいくない行為に反した愛らしい仕草に、きゅんと胸の辺りが締めつけられる。大丈夫だという意味を込めて左頬の傷跡をそっとなでると、実休はきゅうと目を細めて距離を縮めた。
(気持ち良い)
長すぎるキスも、慣れてくればうまく快楽だけを拾うことができる。数回に1回、もうそれ以上はありませんと言いたくなるくらい奥まで舌を入れられかけるが、それ以外の口づけは心地よく、だんだんと理性までもが解かれていく。こちらから応えるようにちろりと舌先を舐めてやると、実休は少しだけ肩を揺らしたあと、眉尻を下げて笑った。
「君が積極的になってくれるなんて、うれしいな」
「ん……」
「舌を出して。もっと気持ち良くなろうね」
言われるがまま少しだけ出した舌を何度か唇で挟むようにして、舌先をすり合わせる。ぞくぞくと震えるのは背筋だけではない。まぶたも、指先も、心臓も。快感が走り抜けるように順繰りに震え、やがて下腹の辺りが熱くなる。無意識のうちにすりあわせていた膝に気が付いたのだろう、実休は私の体をまたいだまま後ろ手に私の膝を軽くなで、服越しに内ももに指を這わせた。
「待った、実休、それは」
ダメ、と続けたはずの拒否は、大きな口の中に消えてしまった。キスをしながら何度もなでられる太ももに、危機感と背徳感、それに期待を、煽られる。
(いやいやいや、これ以上はまずい。ここ執務室だし。まだ昼間だし!)
急激に意識を取り戻した理性が、この大男を止めろと頭で叫んだ。
「ん、じっきゅう、ん、んー!!!!!!」
わりと容赦なく後ろ髪を引っ張ったり、太ももを這う手を払い落としたり、お美しいお顔を押しのけたり。今さらになっての抵抗は、大きな手に両手首を握りこまれて頭上に固定されることで呆気なく抑え込まれてしまう。せめて言葉で、と思っても、物理的に唇を塞がれる。足をばたつかせても、またがられている以上、意味はない。何より平然と続けられるキスが、一瞬で退いた血の気を呼び戻し、思考を放棄させようとする。
「ちょっ……と、まってってば……!」
「どうしたの? もしかして、怖くなった?」
「ちが、んっ、そうじゃ、なくて」
「良かった。大丈夫、怖いことはしないから……続きをしよう?」
「いやそれ今じゃなくて、っ……!」
太ももをゆるくなで上げていた手が、そのまま左足を外側に押した。そうして空いた隙間に、実休の右膝が入り込む。膝先は拒否する間も止める間もなく足の間にぐいと押し当てられ、びくんと全身が跳ねた。明らかな意図を持った動きに、目を見開いて恋人を見上げる。涼しい顔は相変わらずだが、余裕を携えていたはずのぼんやりとした瞳に、何か違和感を見つける。少しの鋭さと、ほんのわずかな冷ややかさを帯びた視線は、初めて見るものだった。
「今がいい」
私の言わんとするところを察した、端的な回答が落とされる。
「僕は今がいいんだ、主」
子どものわがまま。圧倒的強者の高慢。どちらとも取れそうな一言を投げて寄越すのに、そのくせ眉尻はいつも通りに下がり、ゆるやかに持ち上げられた口角が寂しさに似た感情を訴える。けれど未だ私の手首を拘束する片手の力が弱まる気配はない。縋るような視線の陰に、威圧感か、あるいは情欲めいた何かが見え隠れする。いったい何が彼の本心なのか、分からない。混乱する。乱れた呼吸のせいで上下する胸元を、彼の右手の指先が、すっとなぞる。それが望むものが分からないほど子どもではないし、それを拒否できないほど無責任でもない。ひくりと喉が震え、何事かを言おうとした、そのとき。実休がふと表情を変えて、彼の後ろを振り向いた。次いで障子戸の向こうから聞こえた声に、あからさまに安堵した自分がいた。
「主、いるかな。おやつを持ってきたよ」
福島光忠。実休の兄弟の声だった。
(そっか、おやつの時間)
時計を見れば、短針は3を指している。今日のおやつは彼が準備してくれたのだろう。
「実休」
未だ私の上に覆いかぶさったまま、考えるようにして障子戸を見る実休の名前を小さく呼ぶ。さすがの彼も、この状態で兄弟を出迎えることも、追い返すこともしないだろう。ひとまずどいてほしいと言おうとして。
「入るよ」
「!?」
すっと、障子戸が開いた。
「……」
「……」
「……」
まず、福島と目が合った。普段であれば執務室を開けるときに私の返事を待つことはない。彼としてはいつも通りの行動をとったまでのこと。しかし中に広がる光景は、日常ではない。
主を押し倒し、覆いかぶさる兄弟。その兄弟に片手を拘束されながら、呼吸を乱している私。
福島は笑顔のままピタリと固まり、しかし不思議そうな顔をした彼らの弟がひょこと室内を覗き込もうとしたのを見て意識を取り戻し、高速で障子戸を閉ざした。
「えっ、何? どうしたの?」
「なんでもないよ、光忠。一度出直そうか」
「え、でもアイス溶けちゃうし」
「冷凍庫に入れておけばいいだけだろう?」
「というか実休さんも中にいない? 今日、近侍だったっけ?」
「いや? まあ、何か用事があったんじゃないか? 邪魔しちゃ悪いし、お兄ちゃんと一緒に厨に戻ろう」
「何隠そうとしてるの」
「おいおい、お兄ちゃんを疑うのか?」
縁側から聞こえる兄弟のやりとりをBGMに、私の方も固まったまま閉ざされた障子をただただ見つめる。見られてしまった。しかもよりによって実休の兄弟に。別に関係性を隠していたわけではないが、単純に気まずいし恥ずかしい。執務中だったという後ろめたさもある。
(ど、どうしよう)
あわあわと慌てて実休に視線を動かす。彼は彼で私を見下ろしていたが、散々私を蹂躙していた口から出てきたのは「おやつ食べたい?」という、場にそぐわないなんとものんびりとした問いかけだった。実休らしいと言えば実休らしい。意図は読めないながらひとまず頷くと、彼は「分かった」と頷いて、私を抱え起こしてくれる。それから立ち上がると畳の上を静かに横切り、実休自ら障子戸を開いた。福島に詰め寄る燭台切と、冷や汗をだらだらと流しながら弟をいなす福島が、実休を見てわずかに目を丸くした。
「おやつ、食べるそうだよ」
「お前ね……時と場所くらい考えなさいよ」
呆れたように言う福島に、実休が小首を傾げる。
「どうして?」
「集団生活、たった一人の主。配慮すべきことなんて山のようにあるでしょうが」
「そういうものか。……ありがとう。おいしくいただくよ」
「う、うん……」
実休は特に動揺した様子もなく、福島からアイスを、燭台切からお茶を冷静に受け取った。燭台切は状況を掴めないながらも、何か異常を感じ取っているのだろう、少しだけ困惑した様子で、ちらりと私に視線を寄越した。
「主、大丈夫? 顔赤いけど……熱中症じゃないよね?」
「だ、大丈夫。違うよ。ちょっと……暑くて」
「もう少しクーラーの温度下げてもいいからね。君、熱中症になりやすいんだから」
「ねっちゅうしょう?」
「あ、実休さんは知らないか。暑いところで運動したり水分を取らないでいると、体温が上がって体調を崩しちゃうんだ」
「それは室内にいても起こるのかな」
「たまにね。基本的には涼しいところにいて、水分をよくとれば大丈夫だよ」
「そうか、気をつけよう。……冷たいお茶、少し多めにもらえるかな」
「そうだね。ピッチャーで持ってくるよ」
待っていて、と言い残して、燭台切は厨へと戻っていった。残された福島はじっと実休を見つめたあと、私の方を見て眉尻を下げる。その笑い方は、燭台切とよく似ていた。
「ごめんね、主。うちのでかいのが、迷惑かけて」
「え、い、いや……」
「本気で嫌なときは大声で呼んで。すぐ駆けつける」
「頼もしいね、福島は」
「はー……ほどほどにしとけよ?」
何があったのか察している福島の釘を刺すような一言に、実休は何も返さなかった。私からは見えないが、きっといつも通り笑いでもしたのだろう、福島は肩をすくめて去っていく。振り向いた実休はやはり普段と同じ穏やかな笑みを携えて、アイスとお茶をお盆ごと机に置いた。アイスが乗ったガラスの容器が触れ合う軽快な音が室内に響き、チリンと、障子越しの風鈴の音が戻ってくる。福島たちが来る前の妙な空気が霧散したことに安堵しながらアイスに手を伸ばすと、実休も隣に座ってスプーンを手渡してくれた。
(ありがとう福島。ありがとう燭台切)
彼らが来たことで、なんとかこの意外にもしつこい恋人から逃れることができた。内心では泣いて喜びながら、ようやく落ち着いてきた呼吸と心音をさらに整えるように小さく息を吐き出す。実休も先ほどまでとはまるで別人のように、無邪気にアイスを口に運んでいた。
「冷たくておいしいね。これは何の味かな」
「バ、バニラかな」
「主のは? 色が違うけど」
「これはいちご」
「いろんな味があるんだね。はい、お茶も飲んで」
「あ、ありがとう」
氷が入った麦茶を手渡され、促されるまま口に運ぶ。あまりの余韻のなさに困惑するが、きっと実休の方も兄弟たちの登場によって気分が削がれたのだろう。アイスを少しずつ口の中で溶かしていく私をニコニコと見守りながら――なんだかよく分からないことを、言ってのけた。
「おやつを食べて、たっぷりお茶を飲んだら、続きをしようか」
「えっ?」
続き。それが先ほどまでのキスの続きを指していることは疑いようもない。
しかしそれを、おやつのあとに再開しようとするとは、夢にも思っていなかった。ぽかんと口を開けた私に、実休は「かわいい顔だね」と口角を上げて見せる。
「えっ……す、するの……?」
「するよ?」
「え、で、でも」
「安心して。今ので人払いは済んだ」
「しょ、燭台切が、お茶持ってくるし」
「お茶を持ってくるのは福島だよ。ああ見えて、気がきくんだ」
「でも、でもまだ昼だし、仕事あるし」
「それも福島がうまくやるよ」
「福島に対して雑すぎない!?」
「信頼しているんだ、できた兄弟のこと」
にっこりと笑いながらじりじりと距離を詰めてくる恋人に、引いたはずの汗がだらだらと流れ始める。このまま押し切られるのは、さすがにまずい。いったいどうすればいいのだろうか。いっそ福島が来たときに逃げるというのはどうだろう。しかし私のそんな浅はかな発想はお見通しなのか、眉を八の字にして「逃げないでって、もう一度お願いした方がいいかな」としょんぼりしながら言われてしまえば、慌てて否定するほかない。
「で、でもせめて、夜にしない?」
「何度も言って申し訳ないけど、今がいいんだ」
「何故!?」
「そうしたいから」
「いや、その、でも、大人なので……ちょっと我慢してもらって……」
「昨日今日始まった我慢ならできるけれど、これは違うから難しいんだ」
「そっ、それはー……大変でしたね……」
「分かってくれるんだ。優しいんだね」
「そ、それほどでも……?」
「好きだな、君のそういうところ」
「ありがとう……?」
なんだこの会話はと思いつつ、あれよあれよという間に実休のペースに乗せられていく。そうこうしている間に福島が麦茶入りのピッチャーを持ってきたが、私がヘルプを出す前にとびきり同情したような顔をして颯爽と退室していった。すぐ駆けつけるとはいったいなんだったのか。大声を出さなかったのがいけなかったのか。唇を噛んでスプーンをぎっと握りしめる。私の心境を知ってか知らずか、実休はくいと軽く髪の毛を引っ張った。
「止まっているよ、スプーン」
「……うん」
「ゆっくりおやつを味わってほしいけれど、早く食べ終わってほしい気持ちもある。難しいものだね」
勝手に私の髪の毛をくるくるといじりながら、実休は照れくさそうにそう言った。彼の中では、これからすることを覆すつもりはほんの少しもないのだろう。短い付き合いではあるが、私も彼の隠れた頑固さはなんとなく察してきている。福島もそれを分かっているからこそ、余計なことを言わずにさっさと立ち去ったのだ。となると、私に残された道はひとつしかない。早急に、覚悟を決めることだ。
(……別に、嫌なわけではないし)
曲がりなりにも恋人同士。これまではキスだけでも満足していたが、それ以上に触れあいたい気持ちがないわけではない。それが今、この場になるだけという話。覚悟さえ決めてしまえば、実休の一方的な押しつけではなくなる。
「……」
すでに溶け始めているアイスを少しずつ、ちまちまとスプーンに乗せる。私がこの冷たい菓子を完食するのを待つ恋人は、まるで遠足前夜の子ども。あるいは散歩直前の犬。そのくらいかわいらしく目を輝かせている。しかしやろうとしていることはかわいくない。まったくもってかわいくない。けれどそんな男を好ましく思い、好き勝手に髪や頬や手を触らせている時点で、きっと私の負けなのだろう。
また少し、アイスが減る。
タイムリミットまで、あと3口。
執務室で二人きり。書類仕事を止めて楽しくおしゃべりしていた最中、ふと沈黙の時が落ちた。縁側に吊るされた風鈴が障子越しに風の流れを教えてチリンと鳴る。クーラーが効いているとはいえ少し汗ばむくらいの室温に少し襟元を緩め息を吐きながら、そういえばこの恋人は戦装束をしっかりと着こんでいたなと思い出した。
別に出陣中でもないのだから、上着くらい脱いだ方がいい。
そう声をかけようと開きかけた口に、彼の冷えた唇が重なった。
別に初めてのキスというわけではない。唇を重ね合わせたことは、これまでもある。今も実休はちゅ、ちゅと、ある意味かわいらしい音とともに、かわいらしく唇を寄せては離すを繰り返している。文字通り目前に迫った紫色が、まぶたに隠されることがないのはいつものこと。座ってもなお高く伸びていた背を丸め、ほんの少し目を細めながらキスを降らせる恋人を微笑ましく思いながらその行為を受け入れていた、その最中。
ぺろりと、生ぬるい感触が唇を伝い、反射的に後ろの飛びのいてしまった。
「あ……」
「! ご、ごめん……!」
先ほどまで私の頬に添えられていた両手を中途半端に宙に浮かせたまま固まる実休に、慌てて謝罪の言葉を重ねる。きっと拒まれたと思ったのだろう、もし彼が犬だったならば両耳としっぽが地面にめり込むほど垂れていたのではないかと思うほど、実休はしょんぼりと眉を下げた。
「ごめん、嫌だったよね」
「ちち違うよ、びっくりしちゃっただけ!」
「本当?」
「ほんと!」
「良かったぁ。じゃあもう一度しようか」
「そっそうだね! ……うん?」
「おいで」
「うん……?」
しおらしく落ち込んでいた実休がパッと顔を明るくさせたことにほっとして思わず頷いてしまったが、なんだか今、口車に乗せられはしなかっただろうか。ニコニコといやらしさなど少しも感じさせない笑みに聞き間違いかと思いながら、私の手を優しくつかみ、体を引き寄せる恋人に従う。
あぐらをかく実休の足の上に正面から向かい合うように座らされてもなお、彼の瞳に情欲は見えない。どちらかと言えばお気に入りのペットを膝に乗せて毛並みを楽しむような、ただそれだけの行為に思える。一応私たちの関係性には「恋人」という名前がつけられてはいるが、曲がりなりにも相手は神で私は人間。どこか感覚が違っていたとしても不思議はない。唇を舐めたのもかわいがる行為の延長線上のものであって、それほど深い意味はなかったのかもしれない。心の底からそう思えるくらい、ぽやぽやと微笑む実休には、下心めいたものを感じなかった。
「次は逃げないでもらえるとうれしいな」
「う、うん……?」
もう一度というのは、やはり聞き間違いではなかったのだろうか。ふにゃりと微笑む恋人に曖昧に頷く。足の上に座ってようやく同じ高さになった視線をしっかりと交えさせながら、実休はゆっくりと私を引き寄せる。後頭部を優しく固定する手のひらは大きく、もう片方の手は腰に回され、強い力はこめられていないものの、がっちりと抱え込まれているような感覚に陥った。
宣言通り再度重なった唇は、やはりいつも通り、軽いキスをもたらした。戯れのように唇だけを触れ合わせ、気まぐれに小さな音を立てながら、角度や場所を少しずつ変えて乾いたキスを繰り返す。子どもっぽいと言えば確かにそうだが、欲が薄く、ぼんやりとしたところがある実休の愛情表現だと思うとどうしたって微笑ましさが勝ってしまう。私自身、こうして触れ合うことは嫌いではないし心地よい。キスの間、絶対に閉じることはない双眸がじっとこちらの反応を見ていることだけは毎回気にかかるが咎めるほどではなく、しばらく彼の好きなようにさせていた。
湿りけを帯びた舌が再び唇を舐めあげたのは、おそらく数分後のことだった。
先ほどと同様、突然の感触にびくりと肩を震わせて目を見開く。眼前の紫色には、相も変わらず情欲など浮いてはいない。しかし思わず距離を取ろうとした私の頭を後ろから押さえこみ引き寄せる手のひらに、躊躇はなかった。
体格に似つかわしい分厚い舌が下唇を伝い、唇の隙間をゆっくりと撫ぜていく。毛穴がすべて開くようなぞわぞわとした感覚が全身を駆け抜け、びしりと体が硬直した。その隙を突くように、これ幸いと唇の合間を縫って舌が差し込まれた。
「ん……!?」
つつ、と彼の舌が上あごをなであげる。端から端まで、あますことなく這わせたかと思えば、奥の方で縮こまっていた私の舌を舐めとり、ゆっくりとすり合わせ、力が抜けたところで軽く唇で吸い上げる。そのままわずかに距離が空いたのも束の間、私たちの間にできた空間を食べるように、甘く下唇に噛みついてくる。
(な、な、な、何事……!?)
自分の口の中で起こっていることに思考が追いつかず、ただ目を見開いて実休を見つめる。彼はやわらかく両目を細めながら、しかし躊躇なく人様の口内を荒らしていった。
頬が熱い。耳も、頭も。これまでのキスとはまったく異なる口づけが、目の奥側を揺さぶって涙を浮かせる。思考が端から溶かされる。実休が吐き出す吐息に甘さが混じっていることに気が付き、どんどん体温が上がっていく。
「気持ち良いね、主」
キスの合間の落とされる甘ったるい声音と、形の良い唇から漏れ出す彼の体温に、足の指がぎゅうと丸まる。
「もっと気持ち良くなろうね……一緒に」
明け透けな物言いに羞恥心をかきたてられ、ぎゅっと心臓の辺りが熱くなった。実休はそんなことはお構いなしに、鼻先に口づけてからキスを再開する。
かわいらしいと思っていたリップ音が重なるたび、聞き慣れたそれが何かもっと別の意味を帯びていく。少しずつ体の力が抜けていくのが怖くなり、咄嗟に広い背中に両手を伸ばした。舌の先にしつこいくらいに吸いつかれ、両手の指先が縋るものを求めて丸まる。ピンと張りつめた固いジャケットを掴むほどの握力は今の私には残されておらず、それでも何かを握ろうとする爪が何度も、彼の背中をジャケット越しに引っかいた。唾液が立てるいやらしい音に混じって聞こえるカリという小さな音が、混乱する私をさらに落ち着かなくさせた。
「じ、っきゅう」
「ん」
「ちょ、と、まって、んっ」
鼻から抜けるような甘ったるい声が漏れ、恥ずかしくなってぎゅうと目をつぶる。すると後頭部に回された手の小指がすりと首筋をなでるものだから、大袈裟なほどに肩が跳ねた。次いで開いた瞳の先、ふたつの紫が、何かのメッセージを込めて静かに細められている。目をそらすことは許さない。きっとそう語ったのだと思う。そのわがままで傲慢な視線にすら、ぞくりと背筋が震えた。
脱力した体は、油断すれば後ろ向きに倒れてしまいそうだった。少しずつ反ってきた背中に合わせて下がる唇に追いすがるように、実休は体を丸めてキスを続ける。最初は同じ高さだった目線はとうに私の方が下になり、彼に後頭部と腰を支えられ抱き込まれながら、今度は太い首筋に腕を回した。そのままゆっくりと、重心を後ろに移される。ほとんど衝撃を感じないまま横たえられた畳の上、ようやく一息つけるかと恋人を見上げるも、閉じ込めるように覆いかぶさってきた体に、早とちりだったと早々に悟った。
(ま、長い……)
もう何度目かも分からないが、またしても唇同士が触れ合う。実休の表情は最初からあまり変わらないが、さすがに少し汗ばんで首筋が濡れていた。私の方はとっくに全身が汗で濡れており、呼吸など乱れすぎて苦しいほどだ。苦しさによるものか快楽によるものかは分からないが、薄く涙も浮かんでいる。余裕のある実休の涼しげな様子が悔しくもあり、ぞっとするものも感じた――もしやこの行為は、彼が満足するまで終われないのではないだろうか。
先ほどよりも遠慮なく体重をかけることができるせいか、実休はもっと深くまで入り込もうとしていた。舌をすくい上げるように裏側をなぞり、そのまま付け根の方まで舌を這わせる。呼吸を圧迫されるような苦しさに眉を寄せて胸元を叩くと、すぐに舌を引っ込めて唇に歯を立ててきた。
決して性急ではないが、ゆるゆると、確実に獲物を追いつめていくような口づけが止まる気配はない。彼をどう止めようかと考えようとすると、それを見越したかのように深いキスに襲われ、思考の余白をなくされてしまう。
(なんで急に……)
最早何分こうしているのかも分からないが、そもそも何かきっかけがあったのだろうか。キスされたときは、私は何をしていたのだろう。何も思い出すことができない。それくらい、なんということもない日常風景が広がっていたはずだ。
(こんなこと考えても仕方ないか……)
きっかけが何であろうとも、終わりが見えないこの行為が起こってしまった事実は変わらない。
とにかく実休はキスがしたい。私も激しく拒否はしていない。気持ち良いのはお互い様。舌の奥には喉しかないのでそれ以上先まで侵入しようとすることだけはやめてほしいが、それ以外のキスならば、別にもう少しくらいこうして過ごしていてもいい。
半分以上諦めのような気持ちで、荒い呼吸を繰り返しながら大きな恋人を見上げる。私の息が上がっていることに気がついたのか実休は少しだけ唇を離し、労わるようにすりと額をすり合わせた。大きな体とかわいくない行為に反した愛らしい仕草に、きゅんと胸の辺りが締めつけられる。大丈夫だという意味を込めて左頬の傷跡をそっとなでると、実休はきゅうと目を細めて距離を縮めた。
(気持ち良い)
長すぎるキスも、慣れてくればうまく快楽だけを拾うことができる。数回に1回、もうそれ以上はありませんと言いたくなるくらい奥まで舌を入れられかけるが、それ以外の口づけは心地よく、だんだんと理性までもが解かれていく。こちらから応えるようにちろりと舌先を舐めてやると、実休は少しだけ肩を揺らしたあと、眉尻を下げて笑った。
「君が積極的になってくれるなんて、うれしいな」
「ん……」
「舌を出して。もっと気持ち良くなろうね」
言われるがまま少しだけ出した舌を何度か唇で挟むようにして、舌先をすり合わせる。ぞくぞくと震えるのは背筋だけではない。まぶたも、指先も、心臓も。快感が走り抜けるように順繰りに震え、やがて下腹の辺りが熱くなる。無意識のうちにすりあわせていた膝に気が付いたのだろう、実休は私の体をまたいだまま後ろ手に私の膝を軽くなで、服越しに内ももに指を這わせた。
「待った、実休、それは」
ダメ、と続けたはずの拒否は、大きな口の中に消えてしまった。キスをしながら何度もなでられる太ももに、危機感と背徳感、それに期待を、煽られる。
(いやいやいや、これ以上はまずい。ここ執務室だし。まだ昼間だし!)
急激に意識を取り戻した理性が、この大男を止めろと頭で叫んだ。
「ん、じっきゅう、ん、んー!!!!!!」
わりと容赦なく後ろ髪を引っ張ったり、太ももを這う手を払い落としたり、お美しいお顔を押しのけたり。今さらになっての抵抗は、大きな手に両手首を握りこまれて頭上に固定されることで呆気なく抑え込まれてしまう。せめて言葉で、と思っても、物理的に唇を塞がれる。足をばたつかせても、またがられている以上、意味はない。何より平然と続けられるキスが、一瞬で退いた血の気を呼び戻し、思考を放棄させようとする。
「ちょっ……と、まってってば……!」
「どうしたの? もしかして、怖くなった?」
「ちが、んっ、そうじゃ、なくて」
「良かった。大丈夫、怖いことはしないから……続きをしよう?」
「いやそれ今じゃなくて、っ……!」
太ももをゆるくなで上げていた手が、そのまま左足を外側に押した。そうして空いた隙間に、実休の右膝が入り込む。膝先は拒否する間も止める間もなく足の間にぐいと押し当てられ、びくんと全身が跳ねた。明らかな意図を持った動きに、目を見開いて恋人を見上げる。涼しい顔は相変わらずだが、余裕を携えていたはずのぼんやりとした瞳に、何か違和感を見つける。少しの鋭さと、ほんのわずかな冷ややかさを帯びた視線は、初めて見るものだった。
「今がいい」
私の言わんとするところを察した、端的な回答が落とされる。
「僕は今がいいんだ、主」
子どものわがまま。圧倒的強者の高慢。どちらとも取れそうな一言を投げて寄越すのに、そのくせ眉尻はいつも通りに下がり、ゆるやかに持ち上げられた口角が寂しさに似た感情を訴える。けれど未だ私の手首を拘束する片手の力が弱まる気配はない。縋るような視線の陰に、威圧感か、あるいは情欲めいた何かが見え隠れする。いったい何が彼の本心なのか、分からない。混乱する。乱れた呼吸のせいで上下する胸元を、彼の右手の指先が、すっとなぞる。それが望むものが分からないほど子どもではないし、それを拒否できないほど無責任でもない。ひくりと喉が震え、何事かを言おうとした、そのとき。実休がふと表情を変えて、彼の後ろを振り向いた。次いで障子戸の向こうから聞こえた声に、あからさまに安堵した自分がいた。
「主、いるかな。おやつを持ってきたよ」
福島光忠。実休の兄弟の声だった。
(そっか、おやつの時間)
時計を見れば、短針は3を指している。今日のおやつは彼が準備してくれたのだろう。
「実休」
未だ私の上に覆いかぶさったまま、考えるようにして障子戸を見る実休の名前を小さく呼ぶ。さすがの彼も、この状態で兄弟を出迎えることも、追い返すこともしないだろう。ひとまずどいてほしいと言おうとして。
「入るよ」
「!?」
すっと、障子戸が開いた。
「……」
「……」
「……」
まず、福島と目が合った。普段であれば執務室を開けるときに私の返事を待つことはない。彼としてはいつも通りの行動をとったまでのこと。しかし中に広がる光景は、日常ではない。
主を押し倒し、覆いかぶさる兄弟。その兄弟に片手を拘束されながら、呼吸を乱している私。
福島は笑顔のままピタリと固まり、しかし不思議そうな顔をした彼らの弟がひょこと室内を覗き込もうとしたのを見て意識を取り戻し、高速で障子戸を閉ざした。
「えっ、何? どうしたの?」
「なんでもないよ、光忠。一度出直そうか」
「え、でもアイス溶けちゃうし」
「冷凍庫に入れておけばいいだけだろう?」
「というか実休さんも中にいない? 今日、近侍だったっけ?」
「いや? まあ、何か用事があったんじゃないか? 邪魔しちゃ悪いし、お兄ちゃんと一緒に厨に戻ろう」
「何隠そうとしてるの」
「おいおい、お兄ちゃんを疑うのか?」
縁側から聞こえる兄弟のやりとりをBGMに、私の方も固まったまま閉ざされた障子をただただ見つめる。見られてしまった。しかもよりによって実休の兄弟に。別に関係性を隠していたわけではないが、単純に気まずいし恥ずかしい。執務中だったという後ろめたさもある。
(ど、どうしよう)
あわあわと慌てて実休に視線を動かす。彼は彼で私を見下ろしていたが、散々私を蹂躙していた口から出てきたのは「おやつ食べたい?」という、場にそぐわないなんとものんびりとした問いかけだった。実休らしいと言えば実休らしい。意図は読めないながらひとまず頷くと、彼は「分かった」と頷いて、私を抱え起こしてくれる。それから立ち上がると畳の上を静かに横切り、実休自ら障子戸を開いた。福島に詰め寄る燭台切と、冷や汗をだらだらと流しながら弟をいなす福島が、実休を見てわずかに目を丸くした。
「おやつ、食べるそうだよ」
「お前ね……時と場所くらい考えなさいよ」
呆れたように言う福島に、実休が小首を傾げる。
「どうして?」
「集団生活、たった一人の主。配慮すべきことなんて山のようにあるでしょうが」
「そういうものか。……ありがとう。おいしくいただくよ」
「う、うん……」
実休は特に動揺した様子もなく、福島からアイスを、燭台切からお茶を冷静に受け取った。燭台切は状況を掴めないながらも、何か異常を感じ取っているのだろう、少しだけ困惑した様子で、ちらりと私に視線を寄越した。
「主、大丈夫? 顔赤いけど……熱中症じゃないよね?」
「だ、大丈夫。違うよ。ちょっと……暑くて」
「もう少しクーラーの温度下げてもいいからね。君、熱中症になりやすいんだから」
「ねっちゅうしょう?」
「あ、実休さんは知らないか。暑いところで運動したり水分を取らないでいると、体温が上がって体調を崩しちゃうんだ」
「それは室内にいても起こるのかな」
「たまにね。基本的には涼しいところにいて、水分をよくとれば大丈夫だよ」
「そうか、気をつけよう。……冷たいお茶、少し多めにもらえるかな」
「そうだね。ピッチャーで持ってくるよ」
待っていて、と言い残して、燭台切は厨へと戻っていった。残された福島はじっと実休を見つめたあと、私の方を見て眉尻を下げる。その笑い方は、燭台切とよく似ていた。
「ごめんね、主。うちのでかいのが、迷惑かけて」
「え、い、いや……」
「本気で嫌なときは大声で呼んで。すぐ駆けつける」
「頼もしいね、福島は」
「はー……ほどほどにしとけよ?」
何があったのか察している福島の釘を刺すような一言に、実休は何も返さなかった。私からは見えないが、きっといつも通り笑いでもしたのだろう、福島は肩をすくめて去っていく。振り向いた実休はやはり普段と同じ穏やかな笑みを携えて、アイスとお茶をお盆ごと机に置いた。アイスが乗ったガラスの容器が触れ合う軽快な音が室内に響き、チリンと、障子越しの風鈴の音が戻ってくる。福島たちが来る前の妙な空気が霧散したことに安堵しながらアイスに手を伸ばすと、実休も隣に座ってスプーンを手渡してくれた。
(ありがとう福島。ありがとう燭台切)
彼らが来たことで、なんとかこの意外にもしつこい恋人から逃れることができた。内心では泣いて喜びながら、ようやく落ち着いてきた呼吸と心音をさらに整えるように小さく息を吐き出す。実休も先ほどまでとはまるで別人のように、無邪気にアイスを口に運んでいた。
「冷たくておいしいね。これは何の味かな」
「バ、バニラかな」
「主のは? 色が違うけど」
「これはいちご」
「いろんな味があるんだね。はい、お茶も飲んで」
「あ、ありがとう」
氷が入った麦茶を手渡され、促されるまま口に運ぶ。あまりの余韻のなさに困惑するが、きっと実休の方も兄弟たちの登場によって気分が削がれたのだろう。アイスを少しずつ口の中で溶かしていく私をニコニコと見守りながら――なんだかよく分からないことを、言ってのけた。
「おやつを食べて、たっぷりお茶を飲んだら、続きをしようか」
「えっ?」
続き。それが先ほどまでのキスの続きを指していることは疑いようもない。
しかしそれを、おやつのあとに再開しようとするとは、夢にも思っていなかった。ぽかんと口を開けた私に、実休は「かわいい顔だね」と口角を上げて見せる。
「えっ……す、するの……?」
「するよ?」
「え、で、でも」
「安心して。今ので人払いは済んだ」
「しょ、燭台切が、お茶持ってくるし」
「お茶を持ってくるのは福島だよ。ああ見えて、気がきくんだ」
「でも、でもまだ昼だし、仕事あるし」
「それも福島がうまくやるよ」
「福島に対して雑すぎない!?」
「信頼しているんだ、できた兄弟のこと」
にっこりと笑いながらじりじりと距離を詰めてくる恋人に、引いたはずの汗がだらだらと流れ始める。このまま押し切られるのは、さすがにまずい。いったいどうすればいいのだろうか。いっそ福島が来たときに逃げるというのはどうだろう。しかし私のそんな浅はかな発想はお見通しなのか、眉を八の字にして「逃げないでって、もう一度お願いした方がいいかな」としょんぼりしながら言われてしまえば、慌てて否定するほかない。
「で、でもせめて、夜にしない?」
「何度も言って申し訳ないけど、今がいいんだ」
「何故!?」
「そうしたいから」
「いや、その、でも、大人なので……ちょっと我慢してもらって……」
「昨日今日始まった我慢ならできるけれど、これは違うから難しいんだ」
「そっ、それはー……大変でしたね……」
「分かってくれるんだ。優しいんだね」
「そ、それほどでも……?」
「好きだな、君のそういうところ」
「ありがとう……?」
なんだこの会話はと思いつつ、あれよあれよという間に実休のペースに乗せられていく。そうこうしている間に福島が麦茶入りのピッチャーを持ってきたが、私がヘルプを出す前にとびきり同情したような顔をして颯爽と退室していった。すぐ駆けつけるとはいったいなんだったのか。大声を出さなかったのがいけなかったのか。唇を噛んでスプーンをぎっと握りしめる。私の心境を知ってか知らずか、実休はくいと軽く髪の毛を引っ張った。
「止まっているよ、スプーン」
「……うん」
「ゆっくりおやつを味わってほしいけれど、早く食べ終わってほしい気持ちもある。難しいものだね」
勝手に私の髪の毛をくるくるといじりながら、実休は照れくさそうにそう言った。彼の中では、これからすることを覆すつもりはほんの少しもないのだろう。短い付き合いではあるが、私も彼の隠れた頑固さはなんとなく察してきている。福島もそれを分かっているからこそ、余計なことを言わずにさっさと立ち去ったのだ。となると、私に残された道はひとつしかない。早急に、覚悟を決めることだ。
(……別に、嫌なわけではないし)
曲がりなりにも恋人同士。これまではキスだけでも満足していたが、それ以上に触れあいたい気持ちがないわけではない。それが今、この場になるだけという話。覚悟さえ決めてしまえば、実休の一方的な押しつけではなくなる。
「……」
すでに溶け始めているアイスを少しずつ、ちまちまとスプーンに乗せる。私がこの冷たい菓子を完食するのを待つ恋人は、まるで遠足前夜の子ども。あるいは散歩直前の犬。そのくらいかわいらしく目を輝かせている。しかしやろうとしていることはかわいくない。まったくもってかわいくない。けれどそんな男を好ましく思い、好き勝手に髪や頬や手を触らせている時点で、きっと私の負けなのだろう。
また少し、アイスが減る。
タイムリミットまで、あと3口。