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笑うように息だけを漏らす音が、薄暗い室内にやたらと大きく響き渡った。
手早くデスクを片付け華麗に定時ダッシュをキメたのは、5分程前のこと。このあとの予定が詰まっているわけではない。ここのところ避けている相手がいるからだ。それも人間ではなく刀剣男士。同じ政府、違う部署に所属している刀だ。
彼への印象は冷徹、高慢、完璧主義。どちらかと言わなくても雲の上の人。いや刀。3週間前から追う・追われるの間柄で、本日は私の定時ダッシュとほぼ同時に彼も我が部署に現れた。引きつった愛想笑いを横目に無言で廊下に飛び出したのも、仕方がないこと。何せ彼は3週間前、私にとんでもない言葉を投げかけたのだ。
「君が好きだ」
あの日、ノーモーションで突然繰り出された謎発言が再び鼓膜を揺らし、びくりと肩が跳ね上がった。何も考えずに逃げ込んだ資料室の棚と棚の間。慌てて息を殺し、身を小さくする。
「俺はそう言ったつもりだったのだけれど……もしや、ぶった切ってやるとでも聞こえてしまったのかな? だとしたらやり直すチャンスをいただきたいものだが」
口調は穏やかに。カツンカツンと鳴らす革靴も優雅にゆったりと。しかしきっと額には青筋を浮かべて、山姥切長義はこちらに近づいてくる。
「3週間、その機会すら与えられなかった哀れな刀に、慈悲を賜りたい。いいだろう?」
私の場所などとうに気がついているのだろう。その足取りに迷いはない。それから返事を聞くまで逃さないという言外の圧も感じる。声にならない悲鳴を喉の奥に押し戻し、膝を抱えて縮こまる。
山姥切長義は怒っていた。無論、私に。彼が言う通り、突然の告白を受けた10秒後からこの方、返事をすることもなくただただ逃げ回っていたからだ。
(でもまさか、あの長義が私に告白するなんて思わないじゃん!)
私は彼の主ではない。政府によくいるただの審神者。特別な能力がなければ、特段仕事ができないというわけでもない、平均的な人間。長義とは部署が違うし、かなり前に一緒に仕事をして以来、一応あいさつは交わす程度の浅い仲だ。先月末に久しぶりに同じ仕事を担当したものの――まさかそのあと告白されるなんて、誰が想像しただろう。真っ直ぐに私を見る真剣な瞳と、ほんのり赤く染まったまなじりに、ドキドキなどというかわいい表現は似つかわしくないほど、心臓が上下したのを覚えている。今もまた、そのときを再現するかの如く、鼓動が早まっていくのを感じた。
「さて」
一際大きく鳴った革靴の音に、びくりと肩が跳ねる。
「鬼事は終わりということで、構わないかな?」
恐る恐る視線を持ち上げる。山姥切長義は強気なことを口にしながらも礼儀正しく2メートルほどの距離を保ち、表面上は穏やかに私を見下ろしていた。表面上は。その奥に隠された感情は、言葉尻と同じく強気な瞳が雄弁に語っている。口の端から漏れかけた悲鳴は、すずめの涙ほどしか分泌されていない唾液と一緒に無理矢理飲み込んだ。
「すでに定時は過ぎているし、君にもアフターファイブを楽しむ権利はある。もちろん、俺にも。だから手短に済ませよう」
「……」
「もう一度言う。君が、好きだ」
「!」
ドンと、胸の内側を誰かが叩き、その衝撃に息が止まった。口を半開きにして呆然と目の前の刀を見上げる私に、青い瞳が不敵に笑む。
「何故逃げたのか、とか、よくもまあ3週間も逃げることができたな、とか。言いたいことは山のようにある。だが俺が心底伝えたかったことはそれではないし、君から聞きたいのも、つまらない言い訳や薄っぺらい弁明ではない」
「う……」
「些末なことだ、どれもこれも。今この場において重要なのは、俺が君を特別に思っているということ、そして君が俺を、どう思っているのかということ。それだけだ。それだけだから……どうか教えてほしい、君の、本心を」
高圧的だった物言いがやわらかさを帯び、張りつめていた空気がわずかに緩む。あの日と同じ、じんわりと赤く染まるまなじりを誤魔化すように浮かんだ笑みは、戦場での彼からは想像もつかないほどに優しい。まるで春の日だまりの中で目を細めるような仕草――彼をそうさせているのが自分なのだと考えて、高揚感と、どこか信じられないような気持ちが半々に心を染める。するとどうすればいいのかが分からなくてなって、たまらず逃げ出したくなるのだ。
しかし今、すでに退路は塞がれている。残されていたとしても、逃してはくれないだろう。無駄だと分かりつつ、体が無意識にじりと後退する。真正面からつぶさに私の様子を観察していた刀は呆れた顔をするかと思いきや、眉根を寄せてすっと膝を折った。
「……すまない、怯えさせたいわけではないんだ」
2メートルの距離は保ったまま片膝を床につけ、おずおずと言う長義に、なんとなく胸が苦しくなる。そういうことではないのだ。怖いわけではない。ただただ、戸惑っているだけ。思考の整理がしきれず、脳みその許容量を超え、逃げ出しているだけ。そう伝えたいのに、気の利いた表現が浮かばない。
言葉を探してうろうろと視線をさまよわせる私を勘違いしたのだろう、いよいよ長義は少しだけ悲しそうな顔をして、小さなため息を零した。
「……いや、そうだな。元々逃げていたところを捕まえたんだ、怖がるなという方が無理な話か」
「そ、れは……その……」
「すまない、気が急いてしまった。もう3週間待ったんだ、それが一月になろうが半年になろうが同じこと。そもそも、これを自覚したのだって相当前だしね。だから……いつかでいい、君の心の準備ができたら、返事を聞かせてくれ」
もう一度すまなかったと繰り返し、安心させるような微笑みと共に長義は立ち上がる。違うのだと言いかけて、しかしそれが彼の言うつまらない言い訳だと気がつき、口を閉ざす。形の良い眉尻が下がったかと思えば、それはすぐに普段通りの勝ち気な表情に塗り替えられた。
「では、良いアフターファイブを」
夕暮れに染まる資料室。古びた書類が収められた段ボールの合間で、橙に濡れた白い布がひらりと翻る。同じ色に染められた横顔が完全に見えなくなる、その瞬間。痛みを耐えるように細められた青色が目にとまり――気がついたときには、身を乗り出して手触りの良いタッセルをわし掴んでいた。
「は?」
「ちっ、違うの!」
「何が……」
「そういう、そういうのじゃないの……!」
「……落ち着いて。別に怒っているわけではないから」
床に膝をついたままの私に合わせるようにしゃがみこみ、あまつさえ優しく笑いかけてくれるこの刀を高慢と評したのは、いったい誰だったのだろう。冷静で理性的。確かに偉そうに見える振る舞いは多々あるし、相手次第ではトゲのある言葉を吐いたりもする。けれどその実、山姥切長義はこんなにも優しい。スマートに見えて実直。冷たく見えて情にあふれている。たいした付き合いがない私ですら、たったこれだけのやり取りからそれを感じることができる。
(分かってたの)
最初から、分かっていた。冗談や酔狂ではないと。彼が心ないいたずらや一時の感情で告白などするわけがないと。心底本気なのだと、それだけは分かっていたから。だから動揺して、逃げ出した。その感情と、どのように向き合えば良いのか分からなかったのだ。
「ねえ、違うの。私、怖いとかじゃない。どうすればいいのか分からなくて、ただそれだけで」
「……うん」
「さっき追いかけられたときはちょっと……かなり……まあまあ……怖かったけど、最初のときはそうじゃなくて、本当にびっくりして」
「突然思いを伝えたのは俺だ。君に非はない」
「誰が悪いとか、そういうのじゃないの。ただ、なんか、なんで私なんだろうって、思って」
「……」
「本気で言ってくれてるの分かったし、ちゃんと返事しなきゃっても思ってたけど、それどころじゃなくて。心臓爆発するかもってくらいドキドキしてたし、私のことちゃんと認識してくれてたなんて思ってなかったし」
「……これで、物覚えは良い方だと自負しているけれど」
「だって私なんて、その他大勢でしかないじゃない」
「……それは聞き捨てならないな」
まくしたてるように思った端から言葉を連ねる。静かにうなずきながら止めるでも宥めるでもなくそれを受け止めてくれていた長義が、さっと表情を変えた。固く強張った表情の意味が分からず、くるくると無秩序に回っていた舌を止める。それまで適度に保っていた距離を乗り越えて、青い瞳が真っ直ぐに私の顔の覗き込んだ。
「君の代わりなどどこにもいない。そうだろう」
「えっ、で、でも別に、私、普通だし、特別なところとか、ないし……」
「それが? 普通だろうが特別だろうが、君は君だろう。君自身の価値をおとしめるようなことを、他ならぬ君自身が簡単に口にしてはいけない」
「……でも正直、なんで長義が私を好きになったのか、よく分からないし……」
「それは……」
「それは……?」
「それ、は……」
「……」
「……」
「……」
「……かわいかったから」
「は?」
あまりにも思いがけない一言が、美しい刀の口から放たれた。それもぽそりと。あれほど力強くこちらに向けていた眼差しを床に落として。消え入りそうな声で、ともすれば幼稚にも聞こえる一言を、聡明で理知的な男が紡ぐ。ぽかんと口が開いてしまうのも仕方がないこと。言葉をなくした私に、長義は顔に真っ赤にさせて「だから、かわいかったから! 笑顔が!」とヤケクソ気味に続けたものだから、思わずそれを復唱してしまった。
「かわいい。笑顔が」
「そうだ! 最初に一緒に仕事をしたときに笑顔がかわいらしい人だと思って! それからもなんとなく目で追っていたら、だんだん……くそっ、こんなこと言うつもりじゃ……!」
「……見てたの、私のこと」
「うぐっ……不躾に視線を向けてしまっていたことは謝る。気味が悪いと思ったのなら、いっそそう言ってくれ。良くない行いだった自覚はある……」
「でも、やめなかったの」
「……出るところに出てもらっても抵抗はしない……」
「……ふふ」
先程までの勢いはどこへやら、今度はしょんぼりと肩を落とす姿に込み上げてきたのは、不快感や怒りではなく、笑いだった。唇の隙間から漏れ出したそれは資料室の無機質な床に落ち、そこからどんどんと広がっていく。笑っては悪いと思いつつも止められない。右手で口を、左手でお腹を抑えて一生懸命抑えようとするが制御がきかず、それどころか大きくなる一方。とうとうはっきりとした笑い声が飛び出し、先ほどの私のようにぽかんとしている長義の耳を打った。
「ふ、ふふ、あはは」
「な、何を笑って……」
「ふふふ、その顔、ふふ、そんな顔、できたんだ」
「は……? 俺は今、馬鹿にされているのか……?」
「あはは」
「笑うところではないのだが……?」
「ごめん、でも、おもしろくて」
「やはり馬鹿に……?」
「ううん、違うの。全然、雲の上の人……刀じゃなかったなって」
「まさかとは思うが、それは俺のことかな?」
「ふふふ」
「それで身構えて、怯えていたと?」
「そこまでじゃないけど……はあ、笑った笑った」
目じりに浮いた涙をぬぐい、胸に手を当て呼吸を整える。落ち込んでいたはずの長義はいささか調子を取り戻したのか、わざとらしい咳払いをしてから居住まいを正した。
「……まあいい。冷たい印象を与えている自覚はある」
「でも今日、分かったよ。全然そんなことないって。そういう長義の方が、私は好きだな」
「! それは……君からの返事と取っていいのかな」
「えっ? ……あ、ごめん、えっと……それはちょっと気が早いっていうか……?」
「……」
「えっと……そのー……いきなりお付き合いは……ちょっと……」
「……では、俺にチャンスをくれないか」
「チャンス」
「君が抱いている様々な誤解を解き……俺という存在について正しく理解してもらう、機会がほしい。返事をもらうのは、そのあとでも……遅くない。どうかな」
自身の胸元に手を当て、真摯に問うてくる刀を拒否する理由を、私は持ち合わせてはいない。少しこそばゆくて小さく頷くだけに留めたが、それだけで長義はほっと息を吐き、初めて見る表情を浮かべた。
いつもキリと吊り上がっている眉を下げ、ふにゃりと溶けるような笑み。心からの安堵をにじませ、同時に期待に胸を膨らませる、子どものような笑い方。
(こんな顔もできるんだ……)
普段よりも格段にあどけない笑顔に、まじまじと見入る。当の本人は一瞬だけ虚を突かれたような顔をしたが、すぐにおなじみの不敵な笑みをその上に乗せ、「この顔がお気に召したのなら何よりだ」と、いかにも山姥切長義らしい一言を口にする。これまでの私ならばそこに高慢さを見出したかもしれない。けれど生憎今の私には、それがかわいらしく見えてしまう。ついでに再びこみ上げてきた笑いを抑えきれず口元を覆う私に何かを察し、憮然とする姿すら、どこか愛おしい。
「まったく……どうやら俺の方も、君を少々誤解していたのかもしれないな……」
「ふふふ、告白、取り消す?」
「残念ながら、簡単に自分の言動の責任を放棄できるほど不誠実ではなくてね」
「あはははは」
「……よく笑う人だとは思っていたが、そのうち本当に笑いながら転がっていきそうだな……」
何かを諦めたように露骨に息を吐きながら、長義はすっと立ち上がり、私に手を差し伸べる。その手を取るか否か少しだけ迷ったが、何の含みもない不思議そうな表情を見てしまえば、拒否などする気もなくなってしまう。この短時間にずいぶんとほだされたらしい単純な自分に呆れつつ、私の手を優しく引き上げる感触とふんわりと浮かべられた微笑みに、自然と口元が緩んでいった。
手早くデスクを片付け華麗に定時ダッシュをキメたのは、5分程前のこと。このあとの予定が詰まっているわけではない。ここのところ避けている相手がいるからだ。それも人間ではなく刀剣男士。同じ政府、違う部署に所属している刀だ。
彼への印象は冷徹、高慢、完璧主義。どちらかと言わなくても雲の上の人。いや刀。3週間前から追う・追われるの間柄で、本日は私の定時ダッシュとほぼ同時に彼も我が部署に現れた。引きつった愛想笑いを横目に無言で廊下に飛び出したのも、仕方がないこと。何せ彼は3週間前、私にとんでもない言葉を投げかけたのだ。
「君が好きだ」
あの日、ノーモーションで突然繰り出された謎発言が再び鼓膜を揺らし、びくりと肩が跳ね上がった。何も考えずに逃げ込んだ資料室の棚と棚の間。慌てて息を殺し、身を小さくする。
「俺はそう言ったつもりだったのだけれど……もしや、ぶった切ってやるとでも聞こえてしまったのかな? だとしたらやり直すチャンスをいただきたいものだが」
口調は穏やかに。カツンカツンと鳴らす革靴も優雅にゆったりと。しかしきっと額には青筋を浮かべて、山姥切長義はこちらに近づいてくる。
「3週間、その機会すら与えられなかった哀れな刀に、慈悲を賜りたい。いいだろう?」
私の場所などとうに気がついているのだろう。その足取りに迷いはない。それから返事を聞くまで逃さないという言外の圧も感じる。声にならない悲鳴を喉の奥に押し戻し、膝を抱えて縮こまる。
山姥切長義は怒っていた。無論、私に。彼が言う通り、突然の告白を受けた10秒後からこの方、返事をすることもなくただただ逃げ回っていたからだ。
(でもまさか、あの長義が私に告白するなんて思わないじゃん!)
私は彼の主ではない。政府によくいるただの審神者。特別な能力がなければ、特段仕事ができないというわけでもない、平均的な人間。長義とは部署が違うし、かなり前に一緒に仕事をして以来、一応あいさつは交わす程度の浅い仲だ。先月末に久しぶりに同じ仕事を担当したものの――まさかそのあと告白されるなんて、誰が想像しただろう。真っ直ぐに私を見る真剣な瞳と、ほんのり赤く染まったまなじりに、ドキドキなどというかわいい表現は似つかわしくないほど、心臓が上下したのを覚えている。今もまた、そのときを再現するかの如く、鼓動が早まっていくのを感じた。
「さて」
一際大きく鳴った革靴の音に、びくりと肩が跳ねる。
「鬼事は終わりということで、構わないかな?」
恐る恐る視線を持ち上げる。山姥切長義は強気なことを口にしながらも礼儀正しく2メートルほどの距離を保ち、表面上は穏やかに私を見下ろしていた。表面上は。その奥に隠された感情は、言葉尻と同じく強気な瞳が雄弁に語っている。口の端から漏れかけた悲鳴は、すずめの涙ほどしか分泌されていない唾液と一緒に無理矢理飲み込んだ。
「すでに定時は過ぎているし、君にもアフターファイブを楽しむ権利はある。もちろん、俺にも。だから手短に済ませよう」
「……」
「もう一度言う。君が、好きだ」
「!」
ドンと、胸の内側を誰かが叩き、その衝撃に息が止まった。口を半開きにして呆然と目の前の刀を見上げる私に、青い瞳が不敵に笑む。
「何故逃げたのか、とか、よくもまあ3週間も逃げることができたな、とか。言いたいことは山のようにある。だが俺が心底伝えたかったことはそれではないし、君から聞きたいのも、つまらない言い訳や薄っぺらい弁明ではない」
「う……」
「些末なことだ、どれもこれも。今この場において重要なのは、俺が君を特別に思っているということ、そして君が俺を、どう思っているのかということ。それだけだ。それだけだから……どうか教えてほしい、君の、本心を」
高圧的だった物言いがやわらかさを帯び、張りつめていた空気がわずかに緩む。あの日と同じ、じんわりと赤く染まるまなじりを誤魔化すように浮かんだ笑みは、戦場での彼からは想像もつかないほどに優しい。まるで春の日だまりの中で目を細めるような仕草――彼をそうさせているのが自分なのだと考えて、高揚感と、どこか信じられないような気持ちが半々に心を染める。するとどうすればいいのかが分からなくてなって、たまらず逃げ出したくなるのだ。
しかし今、すでに退路は塞がれている。残されていたとしても、逃してはくれないだろう。無駄だと分かりつつ、体が無意識にじりと後退する。真正面からつぶさに私の様子を観察していた刀は呆れた顔をするかと思いきや、眉根を寄せてすっと膝を折った。
「……すまない、怯えさせたいわけではないんだ」
2メートルの距離は保ったまま片膝を床につけ、おずおずと言う長義に、なんとなく胸が苦しくなる。そういうことではないのだ。怖いわけではない。ただただ、戸惑っているだけ。思考の整理がしきれず、脳みその許容量を超え、逃げ出しているだけ。そう伝えたいのに、気の利いた表現が浮かばない。
言葉を探してうろうろと視線をさまよわせる私を勘違いしたのだろう、いよいよ長義は少しだけ悲しそうな顔をして、小さなため息を零した。
「……いや、そうだな。元々逃げていたところを捕まえたんだ、怖がるなという方が無理な話か」
「そ、れは……その……」
「すまない、気が急いてしまった。もう3週間待ったんだ、それが一月になろうが半年になろうが同じこと。そもそも、これを自覚したのだって相当前だしね。だから……いつかでいい、君の心の準備ができたら、返事を聞かせてくれ」
もう一度すまなかったと繰り返し、安心させるような微笑みと共に長義は立ち上がる。違うのだと言いかけて、しかしそれが彼の言うつまらない言い訳だと気がつき、口を閉ざす。形の良い眉尻が下がったかと思えば、それはすぐに普段通りの勝ち気な表情に塗り替えられた。
「では、良いアフターファイブを」
夕暮れに染まる資料室。古びた書類が収められた段ボールの合間で、橙に濡れた白い布がひらりと翻る。同じ色に染められた横顔が完全に見えなくなる、その瞬間。痛みを耐えるように細められた青色が目にとまり――気がついたときには、身を乗り出して手触りの良いタッセルをわし掴んでいた。
「は?」
「ちっ、違うの!」
「何が……」
「そういう、そういうのじゃないの……!」
「……落ち着いて。別に怒っているわけではないから」
床に膝をついたままの私に合わせるようにしゃがみこみ、あまつさえ優しく笑いかけてくれるこの刀を高慢と評したのは、いったい誰だったのだろう。冷静で理性的。確かに偉そうに見える振る舞いは多々あるし、相手次第ではトゲのある言葉を吐いたりもする。けれどその実、山姥切長義はこんなにも優しい。スマートに見えて実直。冷たく見えて情にあふれている。たいした付き合いがない私ですら、たったこれだけのやり取りからそれを感じることができる。
(分かってたの)
最初から、分かっていた。冗談や酔狂ではないと。彼が心ないいたずらや一時の感情で告白などするわけがないと。心底本気なのだと、それだけは分かっていたから。だから動揺して、逃げ出した。その感情と、どのように向き合えば良いのか分からなかったのだ。
「ねえ、違うの。私、怖いとかじゃない。どうすればいいのか分からなくて、ただそれだけで」
「……うん」
「さっき追いかけられたときはちょっと……かなり……まあまあ……怖かったけど、最初のときはそうじゃなくて、本当にびっくりして」
「突然思いを伝えたのは俺だ。君に非はない」
「誰が悪いとか、そういうのじゃないの。ただ、なんか、なんで私なんだろうって、思って」
「……」
「本気で言ってくれてるの分かったし、ちゃんと返事しなきゃっても思ってたけど、それどころじゃなくて。心臓爆発するかもってくらいドキドキしてたし、私のことちゃんと認識してくれてたなんて思ってなかったし」
「……これで、物覚えは良い方だと自負しているけれど」
「だって私なんて、その他大勢でしかないじゃない」
「……それは聞き捨てならないな」
まくしたてるように思った端から言葉を連ねる。静かにうなずきながら止めるでも宥めるでもなくそれを受け止めてくれていた長義が、さっと表情を変えた。固く強張った表情の意味が分からず、くるくると無秩序に回っていた舌を止める。それまで適度に保っていた距離を乗り越えて、青い瞳が真っ直ぐに私の顔の覗き込んだ。
「君の代わりなどどこにもいない。そうだろう」
「えっ、で、でも別に、私、普通だし、特別なところとか、ないし……」
「それが? 普通だろうが特別だろうが、君は君だろう。君自身の価値をおとしめるようなことを、他ならぬ君自身が簡単に口にしてはいけない」
「……でも正直、なんで長義が私を好きになったのか、よく分からないし……」
「それは……」
「それは……?」
「それ、は……」
「……」
「……」
「……」
「……かわいかったから」
「は?」
あまりにも思いがけない一言が、美しい刀の口から放たれた。それもぽそりと。あれほど力強くこちらに向けていた眼差しを床に落として。消え入りそうな声で、ともすれば幼稚にも聞こえる一言を、聡明で理知的な男が紡ぐ。ぽかんと口が開いてしまうのも仕方がないこと。言葉をなくした私に、長義は顔に真っ赤にさせて「だから、かわいかったから! 笑顔が!」とヤケクソ気味に続けたものだから、思わずそれを復唱してしまった。
「かわいい。笑顔が」
「そうだ! 最初に一緒に仕事をしたときに笑顔がかわいらしい人だと思って! それからもなんとなく目で追っていたら、だんだん……くそっ、こんなこと言うつもりじゃ……!」
「……見てたの、私のこと」
「うぐっ……不躾に視線を向けてしまっていたことは謝る。気味が悪いと思ったのなら、いっそそう言ってくれ。良くない行いだった自覚はある……」
「でも、やめなかったの」
「……出るところに出てもらっても抵抗はしない……」
「……ふふ」
先程までの勢いはどこへやら、今度はしょんぼりと肩を落とす姿に込み上げてきたのは、不快感や怒りではなく、笑いだった。唇の隙間から漏れ出したそれは資料室の無機質な床に落ち、そこからどんどんと広がっていく。笑っては悪いと思いつつも止められない。右手で口を、左手でお腹を抑えて一生懸命抑えようとするが制御がきかず、それどころか大きくなる一方。とうとうはっきりとした笑い声が飛び出し、先ほどの私のようにぽかんとしている長義の耳を打った。
「ふ、ふふ、あはは」
「な、何を笑って……」
「ふふふ、その顔、ふふ、そんな顔、できたんだ」
「は……? 俺は今、馬鹿にされているのか……?」
「あはは」
「笑うところではないのだが……?」
「ごめん、でも、おもしろくて」
「やはり馬鹿に……?」
「ううん、違うの。全然、雲の上の人……刀じゃなかったなって」
「まさかとは思うが、それは俺のことかな?」
「ふふふ」
「それで身構えて、怯えていたと?」
「そこまでじゃないけど……はあ、笑った笑った」
目じりに浮いた涙をぬぐい、胸に手を当て呼吸を整える。落ち込んでいたはずの長義はいささか調子を取り戻したのか、わざとらしい咳払いをしてから居住まいを正した。
「……まあいい。冷たい印象を与えている自覚はある」
「でも今日、分かったよ。全然そんなことないって。そういう長義の方が、私は好きだな」
「! それは……君からの返事と取っていいのかな」
「えっ? ……あ、ごめん、えっと……それはちょっと気が早いっていうか……?」
「……」
「えっと……そのー……いきなりお付き合いは……ちょっと……」
「……では、俺にチャンスをくれないか」
「チャンス」
「君が抱いている様々な誤解を解き……俺という存在について正しく理解してもらう、機会がほしい。返事をもらうのは、そのあとでも……遅くない。どうかな」
自身の胸元に手を当て、真摯に問うてくる刀を拒否する理由を、私は持ち合わせてはいない。少しこそばゆくて小さく頷くだけに留めたが、それだけで長義はほっと息を吐き、初めて見る表情を浮かべた。
いつもキリと吊り上がっている眉を下げ、ふにゃりと溶けるような笑み。心からの安堵をにじませ、同時に期待に胸を膨らませる、子どものような笑い方。
(こんな顔もできるんだ……)
普段よりも格段にあどけない笑顔に、まじまじと見入る。当の本人は一瞬だけ虚を突かれたような顔をしたが、すぐにおなじみの不敵な笑みをその上に乗せ、「この顔がお気に召したのなら何よりだ」と、いかにも山姥切長義らしい一言を口にする。これまでの私ならばそこに高慢さを見出したかもしれない。けれど生憎今の私には、それがかわいらしく見えてしまう。ついでに再びこみ上げてきた笑いを抑えきれず口元を覆う私に何かを察し、憮然とする姿すら、どこか愛おしい。
「まったく……どうやら俺の方も、君を少々誤解していたのかもしれないな……」
「ふふふ、告白、取り消す?」
「残念ながら、簡単に自分の言動の責任を放棄できるほど不誠実ではなくてね」
「あはははは」
「……よく笑う人だとは思っていたが、そのうち本当に笑いながら転がっていきそうだな……」
何かを諦めたように露骨に息を吐きながら、長義はすっと立ち上がり、私に手を差し伸べる。その手を取るか否か少しだけ迷ったが、何の含みもない不思議そうな表情を見てしまえば、拒否などする気もなくなってしまう。この短時間にずいぶんとほだされたらしい単純な自分に呆れつつ、私の手を優しく引き上げる感触とふんわりと浮かべられた微笑みに、自然と口元が緩んでいった。