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顕現してから初めて目にするような小綺麗な小箱を持ち上げ、表や裏側、側面にまで丹念に視線を走らせた。大きさはおよそ手のひらを広げた程度だろうか。包装紙は上品なグレー。ぐるりと箱の全面に回された光沢感のあるリボンは淡い茶色ともベージュとも言いがたい色味だが、包装紙とよく調和している。美しく結ばれたそれはまるで蝶のようだと考えた。
(もらっちゃった)
いつも賑わっている本丸の廊下は今に限って静かで、ぐるぐると無意味に小箱を回す自分を不審に思う刀はいない。足を止めてその箱を観察し、考えごとをするには最適な空間だった。
(チョコだよな、これ)
軽く上下に揺らしても、箱の中から音は聞こえない。無粋な成分表記も包装紙に覆われたままだ。それでも中身に当たりをつけることができたのは、今日が2月14日だったからだ。
顕現して浅い身ではあるが、バレンタインについての知識は持っている。意中の相手や友人、家族に職場の同僚等、周囲の人間にチョコレートを贈る日。テレビでも特集をしていたり、万屋街の一部がチョコレートに浸食されていたりと、世間的には一大イベントのようだとはすぐに察した。現世の風習を本丸に持ち込むか否かは審神者の裁量によるところが大きく、審神者が刀剣男士に一人ひとりにチョコを渡すような本丸もあれば、特別なことはしない本丸もあるらしい。バレンタインが待ち遠しいと語った演練で出会った刀は、言葉の通り浮き足立った様子だった。
(……うちの雇い主もイベント事にはのっかるタイプか。意外)
年の割に落ち着きがあり、どちらかと言えばドライな印象を与える審神者の顔を思い返す。先ほど、後ろから呼び止められたときも、この箱を手渡されたときも、彼女からは浮き足立った雰囲気などひとかけらも感じなかった。
「あげる」
ただ一言そう言って、俺が礼を言いながら箱を受け取るとそのままきびすを返し、あっさりとどこかに行ってしまった。考えるまでもなく、上司から部下への義理チョコというやつなのだろう。
(悪い気はしないけど、準備も渡すのも大変だったろうな)
改めて手元の小箱を見る。包装からして、きっと安物ではない。新入りの自分にすらこのようなチョコを渡すのだ、他の男士は同等か、もっとグレードが高いものを受け取ったことだろう。100振り近い刀剣男士のためにチョコを選び、購入し、手渡すまでにかかった金額と手間を考え、思わず苦笑が浮かんだ。
(なんかなー……ほんと悪い気はしないんだけど、こっちが気遣うっていうか。そこまでしなくてもいいんじゃない?)
彼女の心配りを否定するようだが、たかが刀一振りにそこまでの労力を割く必要はないのではないかと現実的なことを考えてしまう。審神者と刀は家族や友人などではない。ただの使い、使われる関係だ。必要以上に自分たちに心を割く理由などないし、俺はそんな大層な関係など望んでもいない。その点、彼女のドライな面は自分には好印象だったのだが、どうやら目論見違いだったらしい。
(……付き合いやすそうって思ったんだけどな)
何が入っているかも定かではない箱に向けて、小さく息を吐き出す。自分勝手なため息を受け止めてくれる相手などいない。一方的に期待を寄せておいて勝手に落胆するというのも失礼な話だ。軽く頭を振って思考を切り替えた。
(みんな、お返しとかどうすんのかな。誰かに聞いとかないと)
ひとりで準備をして他の刀から抜け駆けだと思われるのも、全員から個別にお返しを渡し主に負担をかけるのもよろしくない。ここは古くからいる刀に便乗するのが得策だろう。ではいったいどの刀を頼るかと考え、いくつかの候補の中からあまり面倒がなさそうなふたりを選択した。
「古備前の兄さんがた~、ちょっと聞いてもいい?」
同じ刀派の刀たちは、そろって自室でくつろいでいた。どちらも非番のようで内番着でこたつに入り、茶をすすりながら談笑していたのだろう。食べかけのみかんの皮が、こたつの上で少しだけ乾いているのが見えた。
「八丁念仏か。どうした」
直前まで曲げていたのだろう背筋をピシリと伸ばし、刀剣の横綱とまで言われる名刀が問うてきた。
「まあ入れ。茶を淹れてやろう」
続けて春告げ鳥の名を冠する太刀が当然のように急須とポットを引き寄せたものだから慌てて止める。たいした用事でもなかったから、長居するつもりはなかった。
「すぐ済むからお構いなくー。ここの本丸ってさ、ホワイトデーとかどうしてる感じ?」
「ほわいとでー?」
半分ほど開いた戸の隙間から問えばふたりはきょとんと目を丸くしてから顔を見合わせた。おや、と思ったのも束の間、「そんなものはない」という返答に今度はこちらが首を傾げることになった。
「ないの?」
「ああ、ない。そもそもうちには、ばれんたいんがないからな。捕らぬ狸の皮算用というやつだ」
「……えっ?」
「うちの審神者は、行事という行事をすべて無視する。やっても節分だけだぞ」
「大包平が暦に書き込んでやっても、自分の誕生日すら忘れたからな。主のあれはもう才能だろう。……期待していたなら、残念だったな」
憐れむようなふたつの視線を向けられ、咄嗟に返答ができなかった。頭の中が真っ白に染まり、息が止まる。
バレンタインが、ない。
では今、自分の左手にあるこれは、いったい。
「……そっか、確認しといてよかった! いらない恥かかないで済んだしっ。じゃ、お邪魔しました~」
バクバクと鳴りだした心臓と全身から吹き出した冷や汗を悟られないよう、できるだけ自然に、できるだけすばやく襖を閉じた。大きく息を吸って、吐き出す。何度か深呼吸を繰り返し、恐る恐る自分の左手を見下ろせば、そこには小綺麗な小箱が乗っていた。
(……えっ? これ……えっ? ……もらったの、俺だけ?)
喉の奥からひゅっと、声にならない悲鳴のような音が抜けていった。それから急いで周囲を見回し、注意深く気配を探る。幸いなことに感じとることができたのは目の前の襖を隔てた向こう側にいるふたりだけで、他に誰かがいる様子はない。古備前の2振りからは襖の陰になっていたから、この箱は誰にも見られてはいないだろう。
(……どうしよ)
バレンタイン制度がないこの本丸で、チョコをもらったが自分だけなのだとして。考えられる理由はそう多くない。ストレートに考えれば、自分が雇い主にとって特別な存在だということだ。本命に渡すにしてはあまりに素っ気ない態度だったが、彼女の普段の様子を考えればそこまで不自然なわけでもない。何も考えずに受け取ってしまったこのチョコには、雇い主の思いが込められていた。このチョコと、彼女の思い。左手の中に収まっているそれらをどうすべきか。急激に冷えた頭は、考えるまでもなく答えを導き出していた。
(返さなきゃ)
廊下を戻り、審神者の執務室を目指す。
この美しい箱は、彼女の手元に戻さなければならない。そもそも自分が受け取っていいものではなかった。知らないふりで処分するのも適切ではない。
何せこの箱には、彼女の思いが詰まっている。
自分にとって、彼女はあくまで雇い主だ。それ以上の関係は望んでいない。望む予定もない。この思いに応えることはできない――人間ではない、いつ消え去るのかも分からないようなものが、持っていてはいけないものだ。
(……傷つけるよな)
もしも彼女に喜びや安堵を抱かせてしまったのならば、心苦しい。しかし中途半端に期待させるよりは、傷が浅いうちにはっきりとこちらの思いを告げた方がいいだろう。自分の軽率な行動を後悔しつつ、執務室への廊下を急ぐ。なんの偶然か、その道すがらばったりと彼女と出くわした。
「八丁」
普段通り、少しだけ目を丸くしながらも、雇い主は冷静な口調で俺の名を呼んだ。やはり特別浮かれた様子はない。しかしだからといって、内心までそうだとは限らない。道中で少しだけ乱れた呼吸を整えてから、まっすぐに彼女を見下ろす。その最中、視界の端に入ったグレーの包装紙は少しだけ皺が寄っていた。
「あのさ、これなんだけど」
「うん?」
「1回もらっといてあれなんだけど……やっぱ受け取れないかなって思って」
「? なんで?」
「な、なんでって……」
心底不思議そうにこちらを見上げる両目から逃げるように、視線を宙にさ迷わせる。
(あなたのことは雇い主としてしか見れません、なんて言えるわけないでしょ……)
チョコを返す時点でそこまで察してもよさそうなものだが、彼女は本当に理由が分からないようだった。古備前のふたりのようにきょとんと目を丸めて詳細な説明を待っている。傷つけることは想定していたが、困惑させることになるとは予想外。なるべく直接的な表現はしないようにと、必死になって他の言葉を探す。どうせ傷がつくならば、浅い方がいい。
「その……俺みたいな新参だけがもらうの、どうかなって思うんだけど」
「ああ、そういう? 大丈夫だよ、気にしなくて。みんなも気にしないと思う」
「そっ、そう? 俺、今まさに、全員から刺されるんじゃないかって怯えてるよっ?」
これだけ刀がいるなかで、顕現してから日が浅い自分だけが唯一の審神者からチョコをもらった挙げ句それを突き返そうとしている。この本丸の刀たちは主に似てさっぱりしているが、それを差し引いても恨みを買うには十分だ。あまりにも危険な状況。しかし彼女はピンときていないらしい。「みんなそこまで子どもじゃないよ」などとのんきなことを言って、差し出した箱に視線を移した。
「開けてないよね? 中身、分かったの?」
「それは……まあ、なんとなく……」
「じゃあなおのこと、もらっちゃえばいいのに」
「……そんな簡単なことじゃないっていうか」
「ふーん? よく分かんないけど、分かった。じゃあクーリングオフということで」
思いのほかあっさりと、それでいてけろりとした様子で、彼女は箱を受け取った。雇い主からは傷ついたような雰囲気も感じない。思いをそのまま返されたのだからもっと動揺してもよさそうなものだが、深く傷つけずに済んだのならばそれでいい。軽くなった左手に安堵して、真剣な顔を作る。
「ごめん、せっかくくれたのに」
「いいよ、別に。気つかわせたよね」
「あー……そういうのはいいんだけど……」
「今回は真に受けた私が悪かった。てっきり本心だったんだと思って」
「……俺、勘違いさせるようなこと言っちゃってた?」
「勘違いっていうか……ただの世間話? それで現世に行ったとき見かけたから、つい」
「……見かけた?」
「まあ私も食べてみたかったし、誰か誘ってお茶にしようかな」
「そっか……?」
「八丁も来る?」
「えっ? そ、それってさすがに、こっちが気まずくない……?」
「そんなの気にしなくて大丈夫だってば。これ食べなくても、お茶は飲めるでしょ?」
「そういう問題……?」
「? 食べたくなったら食べていいよ」
「うん……うん……?」
「古備前の部屋にしよう。今の時間なら、お茶飲んでる気がする」
会話をしながら、妙な違和感を感じた。会話が成立してはいるが、どこか噛み合っていない。同じことを話しているようで、まったく別のことを話しているような感覚。いったいどこがずれているのかと探ろうとした口は、珍しく苦笑いを浮かべる主によってぽかんとマヌケに開くこととなった。
「ノリだったんだろうけど……実物見てみたいって言ってたでしょ?」
「……へ?」
「見てみたら食べたいって思うかもしれないし」
「……ごめん、あのさ……俺、その世間話のとき、なんて言ってたっけ?」
「え? だから実物見てみたいって」
「実物」
「ほら、テレビでバレンタイン特集してたとき」
「……ああー!」
何かスイッチでも入れたかのように、唐突にそのときの記憶が蘇った。
先週の水曜日のこと。朝の情報番組を見ている際に、バレンタインの特集が組まれていた。現世のデパートにずらりと並ぶチョコレートの中からいくつかをピックアップして紹介しており、そのなかのひとつに自分は興味を引かれた。小さな正方形のチョコレート。表面のくぼみの中は小さな青い花が描かれ、そのうえに流し込まれた透明なジュレと銀色のラメが、まるで天の川のようで美しかった。ほかにもさまざまな意匠のチョコレートがちょこんと収まった箱はとてもきれいで、食べ物というよりは宝石箱のように見えた。
そのとき、確かに自分は言った。
本物はどれほどきれいなのだろうか、と。
(ああー……あんなの覚えてくれちゃってたのかー……)
とんでもない勘違いから真っ赤になった顔を片手で覆い、俯く。
自分ひとりで勘違いをしたうえに、あまりにもうぬぼれた勘違いだったことが恥ずかしいし、照れくさいし、気まずい。
あんななんでもないつぶやきを覚えてくれていたことがうれしく、しかし不用意な一言で彼女に気をつかわせてしまったことが申し訳ない。
特別な意味がなかったことに安堵する反面、どこか落胆している自分もいる。
さまざまな感情と思考が絡み合い、最早自分がどのような顔をしているのか、よく分からなかった。
「ちょっと噛み合ってないような気はしてたんだけど、やっぱり忘れてた?」
「ごめん……」
「いいよ。思い出したんでしょ?」
「それはもう、隅々までも……」
「お茶、一緒に行く?」
「お供しまっす……」
「あと、こういうのはみんなに平等にやってるから安心して」
「早とちり恥ずかしい限りです……」
無表情が多い雇い主がくすくすと笑いを零す音が耳に届いた。少しだけ顔を上げれば、緊張と共に駆けてきた廊下をゆっくりと歩き始めた小さな背中が見える。
この雇い主は一見冷たく見えるがその実、誠実で優しい人だ。
チョコを突き返しても、交わしたはずの会話を忘れていても、声を荒げることも責めることもしない。ただ受け止めて、小さく笑ってくれる。たったあれだけの会話を心に留めて、大勢の中の一振りにも心を割いてくれる。それも自分だけでなく、すべての刀に。それでもあのからりとした距離感が、彼女には主従の一線を越えるつもりはないのだと、教えてくれる。
そう考えると、爆発物のように思えていた小箱が急に惜しくなってきた。自分の手で丁寧に包装紙を開き、キラキラと輝くチョコレートの美しさを独り占めしたい。一粒一粒を手に取り、見た目も味も堪能したい――彼女と、共に。
(……は? なにそれ)
妙なことを考えていた自分にハッと驚くと同時に、まったく論理的でない思考に呆れかえる。
チョコの味など誰と食べても同じだ。しかも独占などしては、他の刀との間に不要な摩擦を生むことにもなりかねない。彼女の提案通り、他の刀とともに味見をするくらいが適切だろう。
(独り占めとか、そういう面倒なのは、なしなし)
灰色の小箱に未練がましく貼りついた視線を引きはがし、早足で雇い主の背を追う。彼女の隣に並ぶのと同時、普段の笑みを顔に貼りつけ、他愛もない世間話を始めた。そうしていれば気がまぎれ、このバカバカしい思考も消え去ってくれるだろうと期待したが――気を抜けば目は彼女の手の中に吸い寄せられ、口は何か軽率なことを言い出しそうになる。それらを実行に移せば胸中のモヤモヤとした気持ちが薄れることはなんとなく分かっていたが、それでも必死になって廊下の先に視線を固定し、当たり障りのない話題を並べ続けた。それが今の自分にとっての最善だった。
(もらっちゃった)
いつも賑わっている本丸の廊下は今に限って静かで、ぐるぐると無意味に小箱を回す自分を不審に思う刀はいない。足を止めてその箱を観察し、考えごとをするには最適な空間だった。
(チョコだよな、これ)
軽く上下に揺らしても、箱の中から音は聞こえない。無粋な成分表記も包装紙に覆われたままだ。それでも中身に当たりをつけることができたのは、今日が2月14日だったからだ。
顕現して浅い身ではあるが、バレンタインについての知識は持っている。意中の相手や友人、家族に職場の同僚等、周囲の人間にチョコレートを贈る日。テレビでも特集をしていたり、万屋街の一部がチョコレートに浸食されていたりと、世間的には一大イベントのようだとはすぐに察した。現世の風習を本丸に持ち込むか否かは審神者の裁量によるところが大きく、審神者が刀剣男士に一人ひとりにチョコを渡すような本丸もあれば、特別なことはしない本丸もあるらしい。バレンタインが待ち遠しいと語った演練で出会った刀は、言葉の通り浮き足立った様子だった。
(……うちの雇い主もイベント事にはのっかるタイプか。意外)
年の割に落ち着きがあり、どちらかと言えばドライな印象を与える審神者の顔を思い返す。先ほど、後ろから呼び止められたときも、この箱を手渡されたときも、彼女からは浮き足立った雰囲気などひとかけらも感じなかった。
「あげる」
ただ一言そう言って、俺が礼を言いながら箱を受け取るとそのままきびすを返し、あっさりとどこかに行ってしまった。考えるまでもなく、上司から部下への義理チョコというやつなのだろう。
(悪い気はしないけど、準備も渡すのも大変だったろうな)
改めて手元の小箱を見る。包装からして、きっと安物ではない。新入りの自分にすらこのようなチョコを渡すのだ、他の男士は同等か、もっとグレードが高いものを受け取ったことだろう。100振り近い刀剣男士のためにチョコを選び、購入し、手渡すまでにかかった金額と手間を考え、思わず苦笑が浮かんだ。
(なんかなー……ほんと悪い気はしないんだけど、こっちが気遣うっていうか。そこまでしなくてもいいんじゃない?)
彼女の心配りを否定するようだが、たかが刀一振りにそこまでの労力を割く必要はないのではないかと現実的なことを考えてしまう。審神者と刀は家族や友人などではない。ただの使い、使われる関係だ。必要以上に自分たちに心を割く理由などないし、俺はそんな大層な関係など望んでもいない。その点、彼女のドライな面は自分には好印象だったのだが、どうやら目論見違いだったらしい。
(……付き合いやすそうって思ったんだけどな)
何が入っているかも定かではない箱に向けて、小さく息を吐き出す。自分勝手なため息を受け止めてくれる相手などいない。一方的に期待を寄せておいて勝手に落胆するというのも失礼な話だ。軽く頭を振って思考を切り替えた。
(みんな、お返しとかどうすんのかな。誰かに聞いとかないと)
ひとりで準備をして他の刀から抜け駆けだと思われるのも、全員から個別にお返しを渡し主に負担をかけるのもよろしくない。ここは古くからいる刀に便乗するのが得策だろう。ではいったいどの刀を頼るかと考え、いくつかの候補の中からあまり面倒がなさそうなふたりを選択した。
「古備前の兄さんがた~、ちょっと聞いてもいい?」
同じ刀派の刀たちは、そろって自室でくつろいでいた。どちらも非番のようで内番着でこたつに入り、茶をすすりながら談笑していたのだろう。食べかけのみかんの皮が、こたつの上で少しだけ乾いているのが見えた。
「八丁念仏か。どうした」
直前まで曲げていたのだろう背筋をピシリと伸ばし、刀剣の横綱とまで言われる名刀が問うてきた。
「まあ入れ。茶を淹れてやろう」
続けて春告げ鳥の名を冠する太刀が当然のように急須とポットを引き寄せたものだから慌てて止める。たいした用事でもなかったから、長居するつもりはなかった。
「すぐ済むからお構いなくー。ここの本丸ってさ、ホワイトデーとかどうしてる感じ?」
「ほわいとでー?」
半分ほど開いた戸の隙間から問えばふたりはきょとんと目を丸くしてから顔を見合わせた。おや、と思ったのも束の間、「そんなものはない」という返答に今度はこちらが首を傾げることになった。
「ないの?」
「ああ、ない。そもそもうちには、ばれんたいんがないからな。捕らぬ狸の皮算用というやつだ」
「……えっ?」
「うちの審神者は、行事という行事をすべて無視する。やっても節分だけだぞ」
「大包平が暦に書き込んでやっても、自分の誕生日すら忘れたからな。主のあれはもう才能だろう。……期待していたなら、残念だったな」
憐れむようなふたつの視線を向けられ、咄嗟に返答ができなかった。頭の中が真っ白に染まり、息が止まる。
バレンタインが、ない。
では今、自分の左手にあるこれは、いったい。
「……そっか、確認しといてよかった! いらない恥かかないで済んだしっ。じゃ、お邪魔しました~」
バクバクと鳴りだした心臓と全身から吹き出した冷や汗を悟られないよう、できるだけ自然に、できるだけすばやく襖を閉じた。大きく息を吸って、吐き出す。何度か深呼吸を繰り返し、恐る恐る自分の左手を見下ろせば、そこには小綺麗な小箱が乗っていた。
(……えっ? これ……えっ? ……もらったの、俺だけ?)
喉の奥からひゅっと、声にならない悲鳴のような音が抜けていった。それから急いで周囲を見回し、注意深く気配を探る。幸いなことに感じとることができたのは目の前の襖を隔てた向こう側にいるふたりだけで、他に誰かがいる様子はない。古備前の2振りからは襖の陰になっていたから、この箱は誰にも見られてはいないだろう。
(……どうしよ)
バレンタイン制度がないこの本丸で、チョコをもらったが自分だけなのだとして。考えられる理由はそう多くない。ストレートに考えれば、自分が雇い主にとって特別な存在だということだ。本命に渡すにしてはあまりに素っ気ない態度だったが、彼女の普段の様子を考えればそこまで不自然なわけでもない。何も考えずに受け取ってしまったこのチョコには、雇い主の思いが込められていた。このチョコと、彼女の思い。左手の中に収まっているそれらをどうすべきか。急激に冷えた頭は、考えるまでもなく答えを導き出していた。
(返さなきゃ)
廊下を戻り、審神者の執務室を目指す。
この美しい箱は、彼女の手元に戻さなければならない。そもそも自分が受け取っていいものではなかった。知らないふりで処分するのも適切ではない。
何せこの箱には、彼女の思いが詰まっている。
自分にとって、彼女はあくまで雇い主だ。それ以上の関係は望んでいない。望む予定もない。この思いに応えることはできない――人間ではない、いつ消え去るのかも分からないようなものが、持っていてはいけないものだ。
(……傷つけるよな)
もしも彼女に喜びや安堵を抱かせてしまったのならば、心苦しい。しかし中途半端に期待させるよりは、傷が浅いうちにはっきりとこちらの思いを告げた方がいいだろう。自分の軽率な行動を後悔しつつ、執務室への廊下を急ぐ。なんの偶然か、その道すがらばったりと彼女と出くわした。
「八丁」
普段通り、少しだけ目を丸くしながらも、雇い主は冷静な口調で俺の名を呼んだ。やはり特別浮かれた様子はない。しかしだからといって、内心までそうだとは限らない。道中で少しだけ乱れた呼吸を整えてから、まっすぐに彼女を見下ろす。その最中、視界の端に入ったグレーの包装紙は少しだけ皺が寄っていた。
「あのさ、これなんだけど」
「うん?」
「1回もらっといてあれなんだけど……やっぱ受け取れないかなって思って」
「? なんで?」
「な、なんでって……」
心底不思議そうにこちらを見上げる両目から逃げるように、視線を宙にさ迷わせる。
(あなたのことは雇い主としてしか見れません、なんて言えるわけないでしょ……)
チョコを返す時点でそこまで察してもよさそうなものだが、彼女は本当に理由が分からないようだった。古備前のふたりのようにきょとんと目を丸めて詳細な説明を待っている。傷つけることは想定していたが、困惑させることになるとは予想外。なるべく直接的な表現はしないようにと、必死になって他の言葉を探す。どうせ傷がつくならば、浅い方がいい。
「その……俺みたいな新参だけがもらうの、どうかなって思うんだけど」
「ああ、そういう? 大丈夫だよ、気にしなくて。みんなも気にしないと思う」
「そっ、そう? 俺、今まさに、全員から刺されるんじゃないかって怯えてるよっ?」
これだけ刀がいるなかで、顕現してから日が浅い自分だけが唯一の審神者からチョコをもらった挙げ句それを突き返そうとしている。この本丸の刀たちは主に似てさっぱりしているが、それを差し引いても恨みを買うには十分だ。あまりにも危険な状況。しかし彼女はピンときていないらしい。「みんなそこまで子どもじゃないよ」などとのんきなことを言って、差し出した箱に視線を移した。
「開けてないよね? 中身、分かったの?」
「それは……まあ、なんとなく……」
「じゃあなおのこと、もらっちゃえばいいのに」
「……そんな簡単なことじゃないっていうか」
「ふーん? よく分かんないけど、分かった。じゃあクーリングオフということで」
思いのほかあっさりと、それでいてけろりとした様子で、彼女は箱を受け取った。雇い主からは傷ついたような雰囲気も感じない。思いをそのまま返されたのだからもっと動揺してもよさそうなものだが、深く傷つけずに済んだのならばそれでいい。軽くなった左手に安堵して、真剣な顔を作る。
「ごめん、せっかくくれたのに」
「いいよ、別に。気つかわせたよね」
「あー……そういうのはいいんだけど……」
「今回は真に受けた私が悪かった。てっきり本心だったんだと思って」
「……俺、勘違いさせるようなこと言っちゃってた?」
「勘違いっていうか……ただの世間話? それで現世に行ったとき見かけたから、つい」
「……見かけた?」
「まあ私も食べてみたかったし、誰か誘ってお茶にしようかな」
「そっか……?」
「八丁も来る?」
「えっ? そ、それってさすがに、こっちが気まずくない……?」
「そんなの気にしなくて大丈夫だってば。これ食べなくても、お茶は飲めるでしょ?」
「そういう問題……?」
「? 食べたくなったら食べていいよ」
「うん……うん……?」
「古備前の部屋にしよう。今の時間なら、お茶飲んでる気がする」
会話をしながら、妙な違和感を感じた。会話が成立してはいるが、どこか噛み合っていない。同じことを話しているようで、まったく別のことを話しているような感覚。いったいどこがずれているのかと探ろうとした口は、珍しく苦笑いを浮かべる主によってぽかんとマヌケに開くこととなった。
「ノリだったんだろうけど……実物見てみたいって言ってたでしょ?」
「……へ?」
「見てみたら食べたいって思うかもしれないし」
「……ごめん、あのさ……俺、その世間話のとき、なんて言ってたっけ?」
「え? だから実物見てみたいって」
「実物」
「ほら、テレビでバレンタイン特集してたとき」
「……ああー!」
何かスイッチでも入れたかのように、唐突にそのときの記憶が蘇った。
先週の水曜日のこと。朝の情報番組を見ている際に、バレンタインの特集が組まれていた。現世のデパートにずらりと並ぶチョコレートの中からいくつかをピックアップして紹介しており、そのなかのひとつに自分は興味を引かれた。小さな正方形のチョコレート。表面のくぼみの中は小さな青い花が描かれ、そのうえに流し込まれた透明なジュレと銀色のラメが、まるで天の川のようで美しかった。ほかにもさまざまな意匠のチョコレートがちょこんと収まった箱はとてもきれいで、食べ物というよりは宝石箱のように見えた。
そのとき、確かに自分は言った。
本物はどれほどきれいなのだろうか、と。
(ああー……あんなの覚えてくれちゃってたのかー……)
とんでもない勘違いから真っ赤になった顔を片手で覆い、俯く。
自分ひとりで勘違いをしたうえに、あまりにもうぬぼれた勘違いだったことが恥ずかしいし、照れくさいし、気まずい。
あんななんでもないつぶやきを覚えてくれていたことがうれしく、しかし不用意な一言で彼女に気をつかわせてしまったことが申し訳ない。
特別な意味がなかったことに安堵する反面、どこか落胆している自分もいる。
さまざまな感情と思考が絡み合い、最早自分がどのような顔をしているのか、よく分からなかった。
「ちょっと噛み合ってないような気はしてたんだけど、やっぱり忘れてた?」
「ごめん……」
「いいよ。思い出したんでしょ?」
「それはもう、隅々までも……」
「お茶、一緒に行く?」
「お供しまっす……」
「あと、こういうのはみんなに平等にやってるから安心して」
「早とちり恥ずかしい限りです……」
無表情が多い雇い主がくすくすと笑いを零す音が耳に届いた。少しだけ顔を上げれば、緊張と共に駆けてきた廊下をゆっくりと歩き始めた小さな背中が見える。
この雇い主は一見冷たく見えるがその実、誠実で優しい人だ。
チョコを突き返しても、交わしたはずの会話を忘れていても、声を荒げることも責めることもしない。ただ受け止めて、小さく笑ってくれる。たったあれだけの会話を心に留めて、大勢の中の一振りにも心を割いてくれる。それも自分だけでなく、すべての刀に。それでもあのからりとした距離感が、彼女には主従の一線を越えるつもりはないのだと、教えてくれる。
そう考えると、爆発物のように思えていた小箱が急に惜しくなってきた。自分の手で丁寧に包装紙を開き、キラキラと輝くチョコレートの美しさを独り占めしたい。一粒一粒を手に取り、見た目も味も堪能したい――彼女と、共に。
(……は? なにそれ)
妙なことを考えていた自分にハッと驚くと同時に、まったく論理的でない思考に呆れかえる。
チョコの味など誰と食べても同じだ。しかも独占などしては、他の刀との間に不要な摩擦を生むことにもなりかねない。彼女の提案通り、他の刀とともに味見をするくらいが適切だろう。
(独り占めとか、そういう面倒なのは、なしなし)
灰色の小箱に未練がましく貼りついた視線を引きはがし、早足で雇い主の背を追う。彼女の隣に並ぶのと同時、普段の笑みを顔に貼りつけ、他愛もない世間話を始めた。そうしていれば気がまぎれ、このバカバカしい思考も消え去ってくれるだろうと期待したが――気を抜けば目は彼女の手の中に吸い寄せられ、口は何か軽率なことを言い出しそうになる。それらを実行に移せば胸中のモヤモヤとした気持ちが薄れることはなんとなく分かっていたが、それでも必死になって廊下の先に視線を固定し、当たり障りのない話題を並べ続けた。それが今の自分にとっての最善だった。