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夕食も終わりが近づいたころ、大広間の喧騒の合間を縫って「贋作」という言葉が耳に届いた。反射的に顔を上げたのは私だけではない。正面の席で傾けていた日本酒の瓶をピタリと止めて、源清麿も広間の奥に目をやる。案の定というべきか、口を引き結んだいかにも不機嫌そうな蜂須賀虎徹が、長曽祢虎徹に何か小言を言っているようだった。
「なんだろ」
「さあ……でも大丈夫じゃないかな。彼、笑っているし」
清麿が言う通り、長曽祢虎徹はお猪口を片手に笑いながら蜂須賀に言葉を返していた。よくよく見れば蜂須賀の方も本気で怒っているようではなく、どちらかと言えば呆れているように見える。どうやら長曽祢に飲みすぎではないかと忠告しているらしかった。確かに長曽祢が座っている座卓の上には、空になった徳利が所せましと並んでいた。
「蜂須賀虎徹は優しい刀だね。なんだかんだと、彼のことをよく見ている。仲睦まじいようで何よりだ」
ガラスのコップに日本酒をなみなみと注ぎながら清麿は口の端を上げた。
彼が言う通り、蜂須賀は本来優しい刀だ。刺々しい態度を取るのは長曽祢に対してだけだし、その理由だってまったく理解できないようなものではない。内心では長曽祢を認めているのだということも、私は知っている。
だけどこの刀がそれを口に出すと、どうにも落ち着かない気持ちになった。
だって人間に例えるならば、長曽祢の本当の家族は清麿だ。長曽祢にそういう関係性を求めても、あるいは蜂須賀の言動に怒りを覚えても不思議ではない立場に、彼はいる。実際、清麿がこの本丸に来た当初は蜂須賀や長曽祢も含めた全男士たちが、清麿はどう出るのかと様子を窺っていた。
けれどふたを開けてみれば、彼らの邂逅はかなりあっけなく終わった。長曽祢とは個別に何か話したようだが、それだけ。清麿は彼らの関係性に干渉するようなことをせず、それどころかほとんど話題にだって上げない。時折遠巻きに彼らを見ていることはあるが、静かな微笑みは、自分にはそれだけでも十分なのだと語っていた。
「見て。たぶん長曽祢も蜂須賀に、飲みすぎだって言っているよ」
「……」
「浦島もだけど、3振りとも兄弟思いで優しいよね。兄弟を名乗っていると、本当に似てくるのかな」
今もまた、目元をやわらかく緩ませながら、清麿は長曽祢と蜂須賀のやり取りを眺めるだけだ。その視線に否定的な色はない。他人事といえば他人事のような雰囲気で、ごくごくと日本酒を胃に流し込んでいる。
(寂しかったりしないのかな)
本来ならば自分の一部であるはずの存在が分かたれ、そのうえ清麿ではなく虎徹を名乗って顕現している。それがあの刀剣男士を形作る物語なのだから当然のこととはいえ、こんなに穏やかに飲み込める状況なのだろうか。私なんて、清麿の気持ちを想像するだけでなんとなく寂しい気分になってくるというのに――いつもなら微笑ましく見守れるはずの兄弟喧嘩から、無理やり視線を引きはがす。折よく、厨当番の男士たちがデザートを持って座卓を回り始めた。水を飲むように日本酒を干していた清麿も、パッと顔を輝かせて私を見た。
「水心子が教えてくれたんだけど、今日のデザートはケーキらしいよ。みかんの皮が入ってるチーズケーキか、お酒がたっぷり入ったチョコケーキ」
「みかんの皮……? オレンジピール……?」
「そういう名前なのかい? あとで水心子に教えてあげよう」
「清麿は絶対チョコケーキでしょ?」
「よく分かったね。実は昼くらいから楽しみで……主はどちらにする?」
「私も今日はチョコかな。コーヒー淹れてこよ。清麿は……焼酎でチョコケーキを食べるのかな……?」
「そのつもりだけど……ちゃんぽんは良くないよね。何のお酒が入ってるか分かってから決めようかな」
お菓子に入っている程度のアルコールではちゃんぽんしたことにはならないのではと思いはしたが、口には出さなかった。甘いものに興味を示さない彼がキラキラと目を輝かせ、配膳中の親友を今か今かと待ち構えているのだ。よほど楽しみだったに違いない。ならば水を差すのは野暮というもの。黙って立ち上がった私を、清麿は機嫌よく送り出した。
清麿に頼まれた水心子用の緑茶と自分のコーヒーを淹れて席に戻ると、ちょうど水心子がケーキを運んできたところだった。何故か水心子は暗い陰を背負っていた。
「どうしたの?」
「! わっ、我が主……! すまない!」
「え、なに?」
「守りきれなかった……!」
水心子が絶望的な表情で視線を落とした先にあったのはチーズケーキが2皿、そしてチョコケーキが1皿。なるほど、私たちが端の方に座っていたため、ここに至るまでにチョコケーキが売り切れてしまったのだろう。床にめり込みそうな勢いで水心子は落ち込んでいた。
「清麿からの合図で残すべき数は分かっていたのに……!」
「まあまあ、仕方ないよ、水心子。今日は辛党たちの気を引くデザートだったんだ。一皿残っただけでも上等じゃないか」
「清麿……い、いや、しかし新々刀の祖の矜持にかけてこのままでは……待っていてくれ、誰かに交渉を試みよう!」
「気持ちはうれしいけど、みんなもあれが食べたくて手に取ったんだ。それを譲ってもらうのは悪いよ」
「で、でも、あんなに楽しみにしてたのに……」
「大丈夫だよ、子どもじゃないんだから」
「昼から晩酌用のお酒を決めて、3時のおやつのときから量の調整してたのに……」
「チーズケーキだっておいしそうじゃないか」
気のせいでなければ泣きそうになっている水心子とは対照的に、清麿は始終落ち着いていた。席を立つ前の浮かれた姿は鳴りを潜め、すっかり落ち込んでいる水心子を励まそうと優しい言葉をかけている。その微笑みの中に、表情や言葉に反する感情は見つけられない。そもそも清麿はたかがデザートひとつにそこまで感情を揺さぶられるような刀ではないだろう。
(……そうかな。水心子がこんなに動揺してるのに)
だって昼から楽しみにしていたはずなのだ。水心子の言葉が正しければ、おやつやお酒の量を調整するほどに、この瞬間を待ちわびていた。あまり彼のイメージにはない行動だが、だからこそ、いかに清麿がこのケーキを楽しみにしていたのかが分かる。そして彼があっさりとその楽しみを諦め、私に譲ってしまおうとしていることも、分かる。
(ああ、なんかそれって……寂しいな)
ケーキと清麿の間でうろうろと視線をさ迷わせている水心子をなだめている清麿に、言いようのない感情がこみ上げる。けれど何をどう言えばいいのか分からなくて、無言のまま席に戻る。水心子も似たような様子でとぼとぼと清麿の横に座ったが、まだ納得できていないようだった。
「それじゃあ、水心子が守ってくれたチョコケーキは主に贈呈しよう」
「……清麿は、それでいいの?」
素に戻っている水心子の問いかけに、清麿はもちろんと頷く。
「僕は納得できないことはしないからね」
「……」
「チョコケーキが食べたかったのは本当だけど、ひとつしかないなら仕方ないさ。独り占めしてしまうより、主がおいしく食べてる姿を見る方がうれしいし」
虚勢とか、ごまかしとか、そんなものは感じない清麿の本心が、私の中の寂しい気持ちを濃くさせた。まったく関係ないはずなのに、何故だか先ほどの、長曽祢を見守る優しげな微笑みが頭をよぎる。
優しい刀なのだ。
自分の気持ちや欲望を一番前に掲げて押し通すのではなくて、それを律して周囲の気持ちを優先できてしまう。それが苦ではないのはきっと、彼がなんでもかんでも受け入れる性質を持っているからだ。自分にとっては最善の結果でなくとも、誰かにとっての最善ならば納得できるし、それでいいと思える。その根源がなんなのかは、私には推し量ることができない。でもとにかくこの源清麿という刀は優しくて、どこか寂しい。
(たぶん、自己犠牲とかではない。本当に清麿は納得してるし、うそは全然言ってない。でもなんか、いやだ)
目の前に置かれたチョコケーキをじっと見る。
たかがケーキ。されどケーキ。
清麿がこのケーキを食べたかったのは本当。だけど私に食べてほしいと思っていることも、きっと本当。全部尊重するには、どうすればいいのだろう。少しの間、考える。
「……水心子は、どっちが食べたかった?」
「僕? 僕は……こほん。私も、チョコケーキには少し興味があった。だがみかんの皮の味にも興味があるから、どちらでも……」
「じゃあ3等分しようか」
「えっ?」
「……さすがだ、我が主。そうしよう!」
素っ頓狂な声を上げたのは、意外にも清麿だった。チーズケーキに突き刺そうとしていたフォークをギリギリのところで止めて、ぽかんと口を開けたまま私と水心子を交互に見る。そんなことはおかまいなしに、私は倒したフォークで躊躇なくチョコケーキを分断した。
「はい、これ清麿の。これ水心子の」
小さくなったチョコケーキをそれぞれのチーズケーキの皿に乗せる。水心子は素直に礼を口にしたが、清麿は未だ困惑したように私と水心子とケーキの間で視線をさ迷わせている。
「では私のチーズケーキを半分、主にあげよう」
「半分は多くない?」
「しかし3分の1では主のケーキの総量が少なくなってしまう」
「じゃあ水心子も清麿も3分の1ずつちょうだい。そしたら全員同じ量でしょ?」
「名案だ。清麿もいいだろう?」
「え、あ、ああ……えーと……もしかして、気をつかわせてしまったかな?」
首筋の辺りをなでながら、口だけは笑みの形を作って、しかし気まずそうに清麿は言った。常に悠然と構えている彼には珍しい姿に少し驚く。しかしすぐに気を取り直して、コーヒーカップに手を伸ばした。
「そんなんじゃないよ。だって清麿、別にうそついたわけじゃないんでしょ?」
「もちろん。……でもじゃあ、どうして?」
「納得はしてても、チョコケーキが食べたいって思った気持ちは消えないじゃん」
「それは……」
「ならみんなで食べた方がいいなって思っただけ」
ブラックコーヒーを一口飲み込み、両手を合わせてケーキを口に運ぶ。予想以上のおいしさに頬を緩ませると、水心子も追うようにフォークに手を伸ばした。それから几帳面に3等分したうちのひとつを私の皿に、そしてもうひとつを清麿の皿に乗せる。
「我が主の言う通りだ。清麿の優しさは美徳だが、なんでもかんでも譲ればいいというものではない。こうして、清麿だけでなくて全員が納得できる答えを出せることもあるのだから」
清麿はわずかに目を丸くしたまま、言葉をなくして水心子を見ていた。虚を突かれたような顔はそろそろと下を向き、きれいに切り分けられたままのケーキと、ひとかけらずつになったふたつのケーキをじっと見つめる。ややあって、清麿はぽつりと「そうだね」と零した。
「君から感想を聞ければいいと思ったけれど、確かにこうして分け合った方が楽しい気分だ。……まだまだ、学ぶことが多いね。ありがとう、主、水心子」
お礼とともに向けられた笑顔に、私の頬も自然と緩んだ。いつも冷静でゆるぎなく、悠然と微笑みを浮かべている清麿とは、少しだけ違う。まるで緊張が解けたように、顔全体でくしゃりと笑う様はどこか幼さを感じる。わずかに紅潮した頬がその印象を強めていた。隣の水心子まで同じような顔で笑っていたから、空間全体がどこかふわふわしている。
(良かった)
これで楽しいデザートの時間が遅れそうだ。内心安堵しながらコーヒーカップを取ると、ふと清麿が、にっこり笑って私を見ていることに気が付いた。にっこりと。それはもう、にっこりと。周囲にお花が飛んで見えるほどにっこりと笑っている。どうしたのだろうかと思いつつ、私の方も笑ってみる。清麿はさらに笑みを深め――すっと、チーズケーキが乗ったフォークをこちらに差し出した。それは私の目の前、正確には口元で動きを止める。
「じゃあ、はい、主」
「ん?」
「あーん」
「……ん?」
「げほっ」
「大丈夫? 水心子」
むせた親友を心配しながらも、清麿はフォークを引っ込めようとはしない。寧ろ心なしかフォークの位置が近づいた気がする。これは、どういう状況なのか。頭も体もガチリとフリーズした私に代わって、目じりに涙を浮かべた水心子が清麿に詰め寄った。
「な、なにしてるんだ、こんなところで!」
「え? 僕のチーズケーキ、あげようと思って」
「そういうことではなく! 皿に置けばいいじゃないか!」
「そうかもしれないね。でも、うれしかったから」
「うれしかったから!?」
「せっかくだし、食べさせてあげたいなって思って」
「何がせっかくなのかよく分からないんだが!?」
「せっかくだから、自分の気持ちに素直になってもいいかなって思えたんだ。……水心子はさっき、そう言ってくれたんだよね?」
「うぐっ」
これは完全に水心子のせい。さっと視線を向ければ、水心子はぎくりとして明後日の方を見る。それでも清麿が引き下がる様子はない。にっこりと頬杖をついたまま、じりじりとフォークを近づけてくる。これはきっと私が口を開けるまで終わらないのだろう。清麿はこれでかなり頑固だ。
(……えーい! 主に任せとけ、水心子!)
意を決してぱかりと口を開けた。すかさずケーキが口の中に押し込まれたので口を閉じると、ゆっくりとフォークだけが引き抜かれる。恥ずかしさから黙り込んでもぐもぐと口を動かす私に、清麿は満足そうに微笑んだ。こちらの気も知らないでと、内心で文句を連ねる。ふわりと香るオレンジピールのさわやかな香りに少し気分がやわらいだのも束の間、清麿がそのフォークにチョコケーキを突き刺し自分の口に運んだのを見て、変な声が口の端から漏れた。
「どうしたの、主。大丈夫?」
「フォ、フォーク、替えてよ!」
「? なんで?」
「なんでって……ねえ、水心子!?」
「あ、ああ……? 我が主が望むなら、そうすべきでは……?」
「何も分かってないね!?」
「……すまない。どこに問題が?」
「だって、か、かか間接……!」
「ああ、間接キス? 主が使うわけじゃないからいいかなって思ったんだけど……今度からは気を付けるよ」
「良くないしそもそも今度はないよ!?」
「……清麿、私も同じ過ちを繰り返さないように聞いておきたいのだが、かんせつきすとは?」
「そこは真面目出さなくていいから!」
「君たちの会話っておもしろいね」
ご指摘虚しく同じフォークを使い続ける清麿にこちらの方が妙にドキドキするような、申し訳ないような気分になる。新しいフォークを持ってこようかとも思ったが、その前に清麿はぺろりとケーキを平らげてしまった。
「ああ……もう……」
「おいしかったよ。ごちそうさま」
「なんだか私は疲れちゃったよ……」
「かんせつきすのせいか?」
「水心子、そのワード早く忘れた方が身のためだよ。あとで思い出して恥ずかしくなるから」
「大丈夫、水心子はそういう失敗も飲み込んで前に進める刀剣男士だよ。……僕もお茶淹れてこようかな」
「……珍しいな。酒はいいのか?」
「うん。素面で2人とおしゃべりしたい気分になったんだ」
言いながら清麿は席を立った。それなりに体にアルコールを入れていたはずなのに、足取りにおぼつかなさはない。道中で長曽祢と蜂須賀がぐだぐだと話しているそばを通るときに、珍しく清麿の方から二言三言、声をかけているのが見えた。長曽祢は一瞬目を丸くしたが、すぐに表情を崩して言葉を返す。清麿は楽しげに笑ってその場を去った。
「……我が主」
「うん?」
「感謝する」
「……押しつけがましくなかったかな」
「ああ。あんなに機嫌がいい清麿は久しぶりだ」
お茶を淹れて戻ってくる清麿を見つめる水心子の視線はあたたかった。親友と言うだけあって、彼らはお互いのことをよく分かっている。その水心子が言うのだから、きっと清麿も不快に思ったわけではないのだろう。胸をなでおろして食べかけのケーキに視線を落とす。
大切に残したチョコレートケーキを、半分だけ口に運ぶ。鼻に抜けるようなリキュールの香りと、想像よりもずっと苦いビターチョコレートの味が舌の上で混ざり合い、しかし不思議と後味を残さずにすっと消えていく。水心子の口には合わなかったらしく急いで緑茶を流し込んでいたが、私には好みの味だ。残りもさらに半分に分けて、少しずつ口の中で溶かしていく。
(……もうちょっと、わがままとか言ってもいいのに)
今回は分け合えるものだったから良かった。けれどそうじゃないときは、やはり清麿は自分の気持ちを押し殺し、自分以外の誰かに譲ってしまうのだろう。誰かが幸せにしている姿を見られれば幸せだからと達観したことを言って――それを求めた気持ちが消えるわけではないのに、納得して、受け入れてしまうのだろう。そう考えると件の寂しさにも似た感情が、また少し濃くなった気がした。
「なんだろ」
「さあ……でも大丈夫じゃないかな。彼、笑っているし」
清麿が言う通り、長曽祢虎徹はお猪口を片手に笑いながら蜂須賀に言葉を返していた。よくよく見れば蜂須賀の方も本気で怒っているようではなく、どちらかと言えば呆れているように見える。どうやら長曽祢に飲みすぎではないかと忠告しているらしかった。確かに長曽祢が座っている座卓の上には、空になった徳利が所せましと並んでいた。
「蜂須賀虎徹は優しい刀だね。なんだかんだと、彼のことをよく見ている。仲睦まじいようで何よりだ」
ガラスのコップに日本酒をなみなみと注ぎながら清麿は口の端を上げた。
彼が言う通り、蜂須賀は本来優しい刀だ。刺々しい態度を取るのは長曽祢に対してだけだし、その理由だってまったく理解できないようなものではない。内心では長曽祢を認めているのだということも、私は知っている。
だけどこの刀がそれを口に出すと、どうにも落ち着かない気持ちになった。
だって人間に例えるならば、長曽祢の本当の家族は清麿だ。長曽祢にそういう関係性を求めても、あるいは蜂須賀の言動に怒りを覚えても不思議ではない立場に、彼はいる。実際、清麿がこの本丸に来た当初は蜂須賀や長曽祢も含めた全男士たちが、清麿はどう出るのかと様子を窺っていた。
けれどふたを開けてみれば、彼らの邂逅はかなりあっけなく終わった。長曽祢とは個別に何か話したようだが、それだけ。清麿は彼らの関係性に干渉するようなことをせず、それどころかほとんど話題にだって上げない。時折遠巻きに彼らを見ていることはあるが、静かな微笑みは、自分にはそれだけでも十分なのだと語っていた。
「見て。たぶん長曽祢も蜂須賀に、飲みすぎだって言っているよ」
「……」
「浦島もだけど、3振りとも兄弟思いで優しいよね。兄弟を名乗っていると、本当に似てくるのかな」
今もまた、目元をやわらかく緩ませながら、清麿は長曽祢と蜂須賀のやり取りを眺めるだけだ。その視線に否定的な色はない。他人事といえば他人事のような雰囲気で、ごくごくと日本酒を胃に流し込んでいる。
(寂しかったりしないのかな)
本来ならば自分の一部であるはずの存在が分かたれ、そのうえ清麿ではなく虎徹を名乗って顕現している。それがあの刀剣男士を形作る物語なのだから当然のこととはいえ、こんなに穏やかに飲み込める状況なのだろうか。私なんて、清麿の気持ちを想像するだけでなんとなく寂しい気分になってくるというのに――いつもなら微笑ましく見守れるはずの兄弟喧嘩から、無理やり視線を引きはがす。折よく、厨当番の男士たちがデザートを持って座卓を回り始めた。水を飲むように日本酒を干していた清麿も、パッと顔を輝かせて私を見た。
「水心子が教えてくれたんだけど、今日のデザートはケーキらしいよ。みかんの皮が入ってるチーズケーキか、お酒がたっぷり入ったチョコケーキ」
「みかんの皮……? オレンジピール……?」
「そういう名前なのかい? あとで水心子に教えてあげよう」
「清麿は絶対チョコケーキでしょ?」
「よく分かったね。実は昼くらいから楽しみで……主はどちらにする?」
「私も今日はチョコかな。コーヒー淹れてこよ。清麿は……焼酎でチョコケーキを食べるのかな……?」
「そのつもりだけど……ちゃんぽんは良くないよね。何のお酒が入ってるか分かってから決めようかな」
お菓子に入っている程度のアルコールではちゃんぽんしたことにはならないのではと思いはしたが、口には出さなかった。甘いものに興味を示さない彼がキラキラと目を輝かせ、配膳中の親友を今か今かと待ち構えているのだ。よほど楽しみだったに違いない。ならば水を差すのは野暮というもの。黙って立ち上がった私を、清麿は機嫌よく送り出した。
清麿に頼まれた水心子用の緑茶と自分のコーヒーを淹れて席に戻ると、ちょうど水心子がケーキを運んできたところだった。何故か水心子は暗い陰を背負っていた。
「どうしたの?」
「! わっ、我が主……! すまない!」
「え、なに?」
「守りきれなかった……!」
水心子が絶望的な表情で視線を落とした先にあったのはチーズケーキが2皿、そしてチョコケーキが1皿。なるほど、私たちが端の方に座っていたため、ここに至るまでにチョコケーキが売り切れてしまったのだろう。床にめり込みそうな勢いで水心子は落ち込んでいた。
「清麿からの合図で残すべき数は分かっていたのに……!」
「まあまあ、仕方ないよ、水心子。今日は辛党たちの気を引くデザートだったんだ。一皿残っただけでも上等じゃないか」
「清麿……い、いや、しかし新々刀の祖の矜持にかけてこのままでは……待っていてくれ、誰かに交渉を試みよう!」
「気持ちはうれしいけど、みんなもあれが食べたくて手に取ったんだ。それを譲ってもらうのは悪いよ」
「で、でも、あんなに楽しみにしてたのに……」
「大丈夫だよ、子どもじゃないんだから」
「昼から晩酌用のお酒を決めて、3時のおやつのときから量の調整してたのに……」
「チーズケーキだっておいしそうじゃないか」
気のせいでなければ泣きそうになっている水心子とは対照的に、清麿は始終落ち着いていた。席を立つ前の浮かれた姿は鳴りを潜め、すっかり落ち込んでいる水心子を励まそうと優しい言葉をかけている。その微笑みの中に、表情や言葉に反する感情は見つけられない。そもそも清麿はたかがデザートひとつにそこまで感情を揺さぶられるような刀ではないだろう。
(……そうかな。水心子がこんなに動揺してるのに)
だって昼から楽しみにしていたはずなのだ。水心子の言葉が正しければ、おやつやお酒の量を調整するほどに、この瞬間を待ちわびていた。あまり彼のイメージにはない行動だが、だからこそ、いかに清麿がこのケーキを楽しみにしていたのかが分かる。そして彼があっさりとその楽しみを諦め、私に譲ってしまおうとしていることも、分かる。
(ああ、なんかそれって……寂しいな)
ケーキと清麿の間でうろうろと視線をさ迷わせている水心子をなだめている清麿に、言いようのない感情がこみ上げる。けれど何をどう言えばいいのか分からなくて、無言のまま席に戻る。水心子も似たような様子でとぼとぼと清麿の横に座ったが、まだ納得できていないようだった。
「それじゃあ、水心子が守ってくれたチョコケーキは主に贈呈しよう」
「……清麿は、それでいいの?」
素に戻っている水心子の問いかけに、清麿はもちろんと頷く。
「僕は納得できないことはしないからね」
「……」
「チョコケーキが食べたかったのは本当だけど、ひとつしかないなら仕方ないさ。独り占めしてしまうより、主がおいしく食べてる姿を見る方がうれしいし」
虚勢とか、ごまかしとか、そんなものは感じない清麿の本心が、私の中の寂しい気持ちを濃くさせた。まったく関係ないはずなのに、何故だか先ほどの、長曽祢を見守る優しげな微笑みが頭をよぎる。
優しい刀なのだ。
自分の気持ちや欲望を一番前に掲げて押し通すのではなくて、それを律して周囲の気持ちを優先できてしまう。それが苦ではないのはきっと、彼がなんでもかんでも受け入れる性質を持っているからだ。自分にとっては最善の結果でなくとも、誰かにとっての最善ならば納得できるし、それでいいと思える。その根源がなんなのかは、私には推し量ることができない。でもとにかくこの源清麿という刀は優しくて、どこか寂しい。
(たぶん、自己犠牲とかではない。本当に清麿は納得してるし、うそは全然言ってない。でもなんか、いやだ)
目の前に置かれたチョコケーキをじっと見る。
たかがケーキ。されどケーキ。
清麿がこのケーキを食べたかったのは本当。だけど私に食べてほしいと思っていることも、きっと本当。全部尊重するには、どうすればいいのだろう。少しの間、考える。
「……水心子は、どっちが食べたかった?」
「僕? 僕は……こほん。私も、チョコケーキには少し興味があった。だがみかんの皮の味にも興味があるから、どちらでも……」
「じゃあ3等分しようか」
「えっ?」
「……さすがだ、我が主。そうしよう!」
素っ頓狂な声を上げたのは、意外にも清麿だった。チーズケーキに突き刺そうとしていたフォークをギリギリのところで止めて、ぽかんと口を開けたまま私と水心子を交互に見る。そんなことはおかまいなしに、私は倒したフォークで躊躇なくチョコケーキを分断した。
「はい、これ清麿の。これ水心子の」
小さくなったチョコケーキをそれぞれのチーズケーキの皿に乗せる。水心子は素直に礼を口にしたが、清麿は未だ困惑したように私と水心子とケーキの間で視線をさ迷わせている。
「では私のチーズケーキを半分、主にあげよう」
「半分は多くない?」
「しかし3分の1では主のケーキの総量が少なくなってしまう」
「じゃあ水心子も清麿も3分の1ずつちょうだい。そしたら全員同じ量でしょ?」
「名案だ。清麿もいいだろう?」
「え、あ、ああ……えーと……もしかして、気をつかわせてしまったかな?」
首筋の辺りをなでながら、口だけは笑みの形を作って、しかし気まずそうに清麿は言った。常に悠然と構えている彼には珍しい姿に少し驚く。しかしすぐに気を取り直して、コーヒーカップに手を伸ばした。
「そんなんじゃないよ。だって清麿、別にうそついたわけじゃないんでしょ?」
「もちろん。……でもじゃあ、どうして?」
「納得はしてても、チョコケーキが食べたいって思った気持ちは消えないじゃん」
「それは……」
「ならみんなで食べた方がいいなって思っただけ」
ブラックコーヒーを一口飲み込み、両手を合わせてケーキを口に運ぶ。予想以上のおいしさに頬を緩ませると、水心子も追うようにフォークに手を伸ばした。それから几帳面に3等分したうちのひとつを私の皿に、そしてもうひとつを清麿の皿に乗せる。
「我が主の言う通りだ。清麿の優しさは美徳だが、なんでもかんでも譲ればいいというものではない。こうして、清麿だけでなくて全員が納得できる答えを出せることもあるのだから」
清麿はわずかに目を丸くしたまま、言葉をなくして水心子を見ていた。虚を突かれたような顔はそろそろと下を向き、きれいに切り分けられたままのケーキと、ひとかけらずつになったふたつのケーキをじっと見つめる。ややあって、清麿はぽつりと「そうだね」と零した。
「君から感想を聞ければいいと思ったけれど、確かにこうして分け合った方が楽しい気分だ。……まだまだ、学ぶことが多いね。ありがとう、主、水心子」
お礼とともに向けられた笑顔に、私の頬も自然と緩んだ。いつも冷静でゆるぎなく、悠然と微笑みを浮かべている清麿とは、少しだけ違う。まるで緊張が解けたように、顔全体でくしゃりと笑う様はどこか幼さを感じる。わずかに紅潮した頬がその印象を強めていた。隣の水心子まで同じような顔で笑っていたから、空間全体がどこかふわふわしている。
(良かった)
これで楽しいデザートの時間が遅れそうだ。内心安堵しながらコーヒーカップを取ると、ふと清麿が、にっこり笑って私を見ていることに気が付いた。にっこりと。それはもう、にっこりと。周囲にお花が飛んで見えるほどにっこりと笑っている。どうしたのだろうかと思いつつ、私の方も笑ってみる。清麿はさらに笑みを深め――すっと、チーズケーキが乗ったフォークをこちらに差し出した。それは私の目の前、正確には口元で動きを止める。
「じゃあ、はい、主」
「ん?」
「あーん」
「……ん?」
「げほっ」
「大丈夫? 水心子」
むせた親友を心配しながらも、清麿はフォークを引っ込めようとはしない。寧ろ心なしかフォークの位置が近づいた気がする。これは、どういう状況なのか。頭も体もガチリとフリーズした私に代わって、目じりに涙を浮かべた水心子が清麿に詰め寄った。
「な、なにしてるんだ、こんなところで!」
「え? 僕のチーズケーキ、あげようと思って」
「そういうことではなく! 皿に置けばいいじゃないか!」
「そうかもしれないね。でも、うれしかったから」
「うれしかったから!?」
「せっかくだし、食べさせてあげたいなって思って」
「何がせっかくなのかよく分からないんだが!?」
「せっかくだから、自分の気持ちに素直になってもいいかなって思えたんだ。……水心子はさっき、そう言ってくれたんだよね?」
「うぐっ」
これは完全に水心子のせい。さっと視線を向ければ、水心子はぎくりとして明後日の方を見る。それでも清麿が引き下がる様子はない。にっこりと頬杖をついたまま、じりじりとフォークを近づけてくる。これはきっと私が口を開けるまで終わらないのだろう。清麿はこれでかなり頑固だ。
(……えーい! 主に任せとけ、水心子!)
意を決してぱかりと口を開けた。すかさずケーキが口の中に押し込まれたので口を閉じると、ゆっくりとフォークだけが引き抜かれる。恥ずかしさから黙り込んでもぐもぐと口を動かす私に、清麿は満足そうに微笑んだ。こちらの気も知らないでと、内心で文句を連ねる。ふわりと香るオレンジピールのさわやかな香りに少し気分がやわらいだのも束の間、清麿がそのフォークにチョコケーキを突き刺し自分の口に運んだのを見て、変な声が口の端から漏れた。
「どうしたの、主。大丈夫?」
「フォ、フォーク、替えてよ!」
「? なんで?」
「なんでって……ねえ、水心子!?」
「あ、ああ……? 我が主が望むなら、そうすべきでは……?」
「何も分かってないね!?」
「……すまない。どこに問題が?」
「だって、か、かか間接……!」
「ああ、間接キス? 主が使うわけじゃないからいいかなって思ったんだけど……今度からは気を付けるよ」
「良くないしそもそも今度はないよ!?」
「……清麿、私も同じ過ちを繰り返さないように聞いておきたいのだが、かんせつきすとは?」
「そこは真面目出さなくていいから!」
「君たちの会話っておもしろいね」
ご指摘虚しく同じフォークを使い続ける清麿にこちらの方が妙にドキドキするような、申し訳ないような気分になる。新しいフォークを持ってこようかとも思ったが、その前に清麿はぺろりとケーキを平らげてしまった。
「ああ……もう……」
「おいしかったよ。ごちそうさま」
「なんだか私は疲れちゃったよ……」
「かんせつきすのせいか?」
「水心子、そのワード早く忘れた方が身のためだよ。あとで思い出して恥ずかしくなるから」
「大丈夫、水心子はそういう失敗も飲み込んで前に進める刀剣男士だよ。……僕もお茶淹れてこようかな」
「……珍しいな。酒はいいのか?」
「うん。素面で2人とおしゃべりしたい気分になったんだ」
言いながら清麿は席を立った。それなりに体にアルコールを入れていたはずなのに、足取りにおぼつかなさはない。道中で長曽祢と蜂須賀がぐだぐだと話しているそばを通るときに、珍しく清麿の方から二言三言、声をかけているのが見えた。長曽祢は一瞬目を丸くしたが、すぐに表情を崩して言葉を返す。清麿は楽しげに笑ってその場を去った。
「……我が主」
「うん?」
「感謝する」
「……押しつけがましくなかったかな」
「ああ。あんなに機嫌がいい清麿は久しぶりだ」
お茶を淹れて戻ってくる清麿を見つめる水心子の視線はあたたかった。親友と言うだけあって、彼らはお互いのことをよく分かっている。その水心子が言うのだから、きっと清麿も不快に思ったわけではないのだろう。胸をなでおろして食べかけのケーキに視線を落とす。
大切に残したチョコレートケーキを、半分だけ口に運ぶ。鼻に抜けるようなリキュールの香りと、想像よりもずっと苦いビターチョコレートの味が舌の上で混ざり合い、しかし不思議と後味を残さずにすっと消えていく。水心子の口には合わなかったらしく急いで緑茶を流し込んでいたが、私には好みの味だ。残りもさらに半分に分けて、少しずつ口の中で溶かしていく。
(……もうちょっと、わがままとか言ってもいいのに)
今回は分け合えるものだったから良かった。けれどそうじゃないときは、やはり清麿は自分の気持ちを押し殺し、自分以外の誰かに譲ってしまうのだろう。誰かが幸せにしている姿を見られれば幸せだからと達観したことを言って――それを求めた気持ちが消えるわけではないのに、納得して、受け入れてしまうのだろう。そう考えると件の寂しさにも似た感情が、また少し濃くなった気がした。