小竜さに
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ピロリン。聞き覚えのない軽快なポップ音に首を傾げながら見やったパソコンのディスプレイは、これまた見慣れない状態になっていた。一瞬前まで打ち込んでいたはずの報告書は消え去り、ブルー1色の背景の上に飾り気のない白いゴシック体が浮いている。その文字列を端から端まで目で追いかけ――思わず悲鳴ともうめき声ともつかない妙な声とともにその場から飛びのいた。
「? どうしたんだい、ある……じ……」
ちょうど執務室に入ってきたところだった小竜が不思議そうにパソコンを覗き込み、ピシリと固まる。それと入れ違いに私は立ち上がり、彼が几帳面に閉ざした障子戸に手をかけ力いっぱい横に引いた。普段ならばきっと障子が外れて庭に飛んでいきそうなほどの乱暴さだったはずだが、何故か障子戸はピタリと閉ざされたまま、私が指先を痛めただけで終わった。
(キッ、キキキキスしないと出られない部屋?)
ゴシック体が綴っていた文字に動揺を隠しきれず障子にガンと額を打ちつけてみるが、やはり目の前のそれはびくともしない。しかも指がけっこう痛いから白昼夢ではない。理由は不明だが、どうやらこの執務室はほんの一瞬で、見たことも聞いたこともない、私以外の誰も得をしないおかしな部屋に変わってしまったらしかった。
(神様? こんな私の欲望を形にしたみたいな部屋が存在していいんですか?)
ドキドキを通り越してバクバクと鳴っている心臓の上で自分の手を握りしめながら、落ち着きを取り戻すべく深く息を吐き出す。渾身の深呼吸は少々深すぎたらしく、唾液がのどに絡んであまり美しくない咳が口から出ていった。目じりに涙を浮かべながらゴホゴホと咳込みながらも、実のところ、内心は浮かれきっている。
(合法的に小竜とキスができる……!?)
背後の刀からは見えないよう、熱を持ってにやけた顔を斜め下に向ける。
小竜景光と私は5カ月ほど前から恋人関係にある。彼は見た目から想像するよりもずっと気遣いができるとても優しい刀だったし、私も良い恋人であろうとできる限りの努力はしてきた。その甲斐あって交際は順調だったが、唯一の悩みがこれ――小竜景光は一切、多少不安になるほど、私に手を出そうとはしなかった。
(小竜、あれでかなり硬派な男だから)
付き合った翌日にはキスくらいされるだろうと思って1日中一生懸命歯みがきに努めていた私をよそに、小竜は私との物理的距離をまったくと言ってもいいほど詰めようとしなかった。最初のうちは手が触れ合うことすらなく、2週間ほど過ぎたころにようやく初めて手をつないだ。中学生か。いや、今日日中学生でもお付き合い翌日には恋人つなぎをする。奥手なのかと言えば、おそらくそれは違う。小竜はただ純粋に、私に気をつかってくれているのだ。
(好き……!)
心の声が口から漏れそうになって、慌てて口元を片手で覆う。
私が驚くといけないから、怖がるといけないから。そう考えて様子を見ながら少しずつ距離を詰めようとしてくれている小竜の気遣いがうれしくて、私もついそれに乗っかってしまったのがいけなかった。おかげさまで付き合い始めて5カ月。とっくにやることは済ませているカップルもいるだろうに、私たちときたらついこの間、ようやくハグをしたところだ。そのときの小竜の満たされたような顔といったら、思わずこちらが真顔になってしまうほどに幸せそうだった。
(ささやかな幸せを噛みしめるみたいな笑顔が好き~!)
とはいえ、私とて人並みに欲はある。もっと小竜に触れたいし、もっと彼に近づきたい。けれど最初のころに小竜に合わせてかまととぶっていた手前、今さらこちらから手を出すわけにもいかず。ならば小竜の方から手を出させようと全力で隙を見せ続けてきたが、彼は色ごとに興味がないのではと訝しむほどそれらをすべて跳ねのけてきた。いくら恋人であっても一方的に自分の欲望をぶつけてはいけないと、小竜はよく理解しているのだ。
(そういうところが好き~!)
昂った気持ちを抑えるため、再び深呼吸を繰り返す。
何故このような状況に置かれているのかは分からない。本当にキスをすればこの部屋から出られるのかも確証はない。けれどこれはまたとないチャンスだ。だって私は小竜とキスがしたい。
(絶対に小竜の唇を奪ってここを出る!)
固く心に誓って、顔を上げる。未だ障子戸はピクリとも動かず、まるで壁のように私の目の前に佇んでいた。お題をクリアするまでは逃がさないという強い意思を感じる。なんて頼もしいのだろうと、そっと障子に触れようとした手は――後ろから伸びてきた手に捕まった。
「下がってて」
短く低い声に促されるまま2、3歩後退する。視界の端で揺れた金の髪の毛にあっと思ったのも束の間、ガキンと、鈍い音が室内に響き渡った。続けて聞こえた忌々しげな舌打ちに、ハッとして状況を理解する。小竜が彼の本体である刀を思いきり、障子に向けて振り下ろしたようだった。
「……こ、小竜?」
「結界みたいなものが張ってあるな」
言いながら障子を切り捨てようと刀を振るう小竜の横顔は、浮かれていた私と正反対に真剣そのものだった。苦々しさすら感じるのは、気のせいではないだろう。仇を前にしたかのように鋭い視線は、私には絶対に見せない表情だ。
(かっこよ~!)
決して顔には出ないように、心の中ではうっとりとその横顔を見つめる。刀剣男士はみなそれぞれに美しいが、小竜は特別に美しく、かっこいい。断言するが惚れた欲目だ。忌々しそうなお顔すらかっこいい。立ちすくんで我が恋人に見とれていると、視線に気が付いたらしい小竜がじんわりとにじんだ汗をぬぐいながらこちらを向いた。
「すぐには出られないかもしれないけど、なんとかするから。心配は無用だよ」
「う、うん……でも、キ、キスするだけでいいなら、その……試してみるのも、いいんじゃないかな……?」
にやけないように必死で表情筋を抑えつけながら、ストレートにキスのお誘いをしてみる。けれど小竜は間髪入れず、きっぱりと「ダメだ」と断言した。
「本丸から移動したわけじゃないとは思うけど……あんな低俗な指示が出たってことは、この状況は誰かの意思によるものだ。ならその誰かに見られてる可能性が高い」
「そ……れは、確かに……でも別に、キスするくらい……」
「もし撮影でもされてたら? 動画だの写真だのが妙なことに使われて、キミの名誉が傷つくようなことがあったら……俺は犯人を殺すだろうし、自分のことが許せなくなる」
「……」
「それにキミとのファーストキスは、もっとロマンチックに決めたいしね」
それまでの真剣な表情から一変、パチンと片目をつぶって空気を和ませようとする小竜にこくりと頷く。彼は安心したように頬を緩ませ、しかしすぐに表情を引き締めて執務室の中を見回した。対する私はおとなしく執務室の端に寄り、ぐっと服の端を握りしめてうつむく。
(す、好き~!!!)
チャラついた見た目や煙に巻くような言動に反して、有事の際にはこうして主の身を最優先に合理的な判断をしつつ、こちらの心情にも配慮する。こんなに真面目でかっこいい刀が他にいるだろうか。いや、いない。
(でも、小竜には悪いけどそんな大変なことじゃない気がする~!)
おそらく敵襲ではない。そして政府が何か妙な画策をしているわけでもない。だって小竜は気が付いていないが、先ほどからパソコンのディスプレイに何度も同じ指示がポップアップされ続けている。どう見てもエラーだ。ならば力ずくで出るよりは、エラーが解消されるのを待つ方がおそらく早い。
(……エラーなら、キスしても出られないかもなぁ。でも試すだけなら……ねえ?)
ド正論によって私の低俗な欲望は飲み込まざるを得なかったが、それはまだ消化されずにお腹の辺りでくすぶっている。なんとかこの状況を利用して、関係を一気に進めたい。
(小竜の言うロマンチックな状況ってたぶん5年に1回しか咲かない花が私たちの目の前で見事に開いた瞬間とかだろうからな……)
そんなものを待っていてはいつまで経ってもキスなどできやしない。そんなのはいやだ。私は小竜とキスがしたい。何が何でもこの部屋でキスをしてみせる。決意も新たに顔を上げる。麗しきターゲットは障子戸を諦めて反対側の襖を蹴破ろうとしていたが、何度刀で切りつけようとも、何度長いおみ足で蹴りつけようとも、襖はびくりともしなかった。
(……少し小竜を休ませないと)
息が切れ始めているのはもちろんだが、妙にイラついているようなのが気になって声をかける。飲み物でもあればと室内を見回すと、いつの間にか座卓の端にコーヒーメーカーとマグカップが置いてあった。
「なんで?」
素直な疑問が口をついて出ていった。どれほど長居しても構わないからキスをしろということだろうか。それともおせんべいを食べたばかりだからキスの前にコーヒーでも飲んでおけということだろうか。よく分からないがコーヒーが飲みたいと思っていたところだからちょうどいい。何の躊躇もなくボタンを押すと、すぐにスモーキーな香りが執務室に広がる。
(おいしそう)
あっという間にコーヒーで満たされたマグカップを手に取り、口に運ぶ直前。
「あっ、コラ!」
小竜が慌てた様子でマグカップを奪い去った。見上げれば疲れと呆れをにじませたお顔が、ひきつった笑みを浮かべている。
「なに、これ」
「コーヒー。淹れてみた」
「コーヒーメーカー、前からあったっけ」
「ううん。たぶん閉じ込められたときに出てきたんだと思う」
「……主を窘めるのも部下の役目だからはっきり言うけど、もう少し深く物事を考えてくれても罰は当たらないんじゃないかな?」
「と言うと?」
「世の中はキミが思っているよりも優しくないってこと」
小さなため息を吐いてから、小竜はマグカップを鼻先に運んだ。しばらく匂いを確かめ、慎重にマグカップに口をつけてほんの少しのコーヒーを舌の上で転がしている。なるほど、毒が混入している可能性を考えたらしい。
(真面目~!!!!)
きゅんとときめいた胸元に手をやって、まじまじと小竜を見上げる。不機嫌そうに眉根を寄せ、「ただでさえ隙だらけなんだから」などとブツブツ言っている様子すらかっこいいとはどういう仕組みなのだろう。好きな気持ちが大きすぎて動悸がする。こんなにかっこよくて素敵な刀の恋人が私で大丈夫なのだろうか。告白してきたのはあちらだからきっと大丈夫だ。
(私も好き~!!!!)
心の声が出ていかないように奥歯をぐっと噛みしめる。やがて異常なしと判断されたコーヒーは、ため息と共に私の手の中に戻された。お礼を言って苦いコーヒーを飲み込みながら、ふと、間接キスだなと考える。小竜の基準では、キスはNGだが間接キスは許容範囲内らしかった。さすがにそこまで思春期に寄っているわけではないのかと感心しつつ、後学のためにしっかりと頭にインプットしておく。
「まったく、どこの誰がこんなくだらないこと……」
隣に腰を下ろしてぼやく小竜からは、冗談や軽口の気配は感じなかった。彼は本当にこの状況を嫌がっている。清廉潔白を求める彼らしいと頬を緩ませながら、からかうように口を開いた。
「小竜にとっては、私とキスするのはくだらなくて低俗なことなの?」
「……本気で言ってる? 俺が気に食わないのは、今のこの状況だよ。こんな、キミのことを侮辱したような命令に従えるわけ……」
ふと、小竜は言葉を切った。どうしたのかと彼の視線を追えば、その先では未だにパソコンがポップアップを出し続けている。あ、と思ったときにはすでに遅し。「エラー……?」という小さなつぶやきが落とされたのとほぼ同時、部屋の外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「あっ、本当に開かない! 主、無事!?」
「燭台切?」
「良かった、声は聞こえるんだね」
ほっと息を吐いて、燭台切は外側から障子をガタガタと揺らした。地震の真っ最中のような激しさだが、彼の力を持ってしても障子が開く気配はない。それでも諦めずに障子をこじ開けようと奮闘しながら、燭台切は政府からの入電があったのだと告げた。
「この辺りの本丸でエラーが起きてるらしいんだ。なんでも本丸の主の一番の欲望を叶えないと部屋から出られないとか」
「へっ……へえ……?」
ビクリと体ごと心臓が跳ねた。
主の一番の欲望を叶えないと部屋から出られないエラー。
主とはすなわち私であり、つまりこの部屋から出る条件は、私の欲望を叶えること。
(それは、つまり?)
あのディスプレイに映し出されていることが、私の、一番の欲望。
恐る恐る視線をやれば、パソコンをじっと見る小竜の肩が小さく動いたのが分かった。
「大変なことになってる本丸も多いらしくて、政府の担当者がかなり焦ってたよ。まあキミは小心者だからそんな大それた欲望なんかないと思うけど」
「あ、ははは……」
全身からダラダラと冷や汗が噴き出る。
(大それてる……大それちゃってるよ燭台切……!)
私と小竜の間柄において、これほどセンシティブな状況もない。何せ私が一番叶えたい欲望は、小竜とキスをすることだと判断されたのだ。単純に気まずい。しかも彼がこれ以上はないほど大切に丁寧に扱ってくれていた張本人がこんなことを一番に望んでいるなんて――失望されたって不思議はない。
「とにかく欲望が満たされれば解決するらしいから無理がない範囲で実行に移してほしいって言付かったんだけど、どう? 大丈夫そう?」
「大丈夫そうではないです」
「えっ」
こんなに冷や汗が流れていて大丈夫も何もない。しかも小竜がずっと押し黙ったままなのも不安を煽る。
(どうしよう、絶対引かれた。それに横顔がかっこいい)
状況報告を求める燭台切に乾いた笑いだけを返して、じりじりと小竜から距離を取る。わずかに揺れたマグカップから零れたコーヒーが少しだけ指に跳ねたが、冷や汗のおかげで熱さも感じない。どうしようという言葉だけが頭を巡り、小竜にかける言葉のひとつも見つけることができない。分かりやすく動揺しきった私に、ついと、紫色の双眸が向けられた。
「! ……あっつ!」
大げさなほどに体が跳ね上がり、とうとうコーヒーが派手に手の甲を濡らした。さすがに熱くて顔をしかめる。小竜は取り立てて慌てた様子もなく冷静にマグカップを私の手から座卓に移動させ、愛用のマントで優しくコーヒーにまみれた私の手をぬぐい――流れるように、手の甲に唇を寄せた。
「……えっ」
「まさかキミが抱く一番大きな欲望の行き先が俺で、そのうえ、こんなに慎ましくてかわいらしい願い事を隠してたなんてね」
「こ、小竜?」
「目利きは得意なつもりだけど、俺もまだまだだね。それにこれからは、手加減は必要なさそうだ」
「手加減って……」
唇が触れた部分を指先でそっと撫でる小竜の表情は、初めてみる類のものだった。もしや彼の方も、あの穏やかな微笑みの下に自分の欲を隠していたのではないかと思わせる、どこか飢えた視線。名前を呼べば、透き通った紫が真正面から私を見る。それは一呼吸を置く間もなく眼前に迫り、唇にやわらかな感触が落とされる。軽いリップ音が鼓膜を叩き、それを合図に、頭にじわじわと熱が集まり始める。息をのんで、目の前の紫苑を見つめる。彼はふっと吐息を零すように微笑み、余韻を断ち切るようにさっと立ち上がった。呼び止める間もなく彼が引いた障子はあまりにあっけなく開き、外の空気を招き入れる。
「あれ、小竜くんもいたんだ」
「ちょうど執務室に入ったときに閉じ込められてね。主、よっぽどコーヒーが飲みたかったみたいだよ」
心なし早口でそう言って、小竜は振り返ることなくすたすたと縁側を歩いていってしまった。燭台切は不思議そうな顔で彼の背中を見送ったが、やがて私の方を見てさらに首を傾げる。
「何かあった?」
「なっ、何かって?」
「いや、キミも大概だけど……小竜くんの顔も真っ赤だったから」
「……」
「コーヒー、そんなに熱かった?」
「……」
「主?」
「100点満点……!」
「そんなにおいしいコーヒーだったんだ」
良かったねと笑う燭台切にこくこくと必死で頷き、ポップアップが止まったパソコンに両手を合わせてエラーを巻き起こしてくれたことへの心からの感謝をお伝えする。燭台切がドン引きしている空気は肌でひしひしと感じていたが、気にするようなことではない。かくして私の恋人が最高にかっこよくて真面目で素敵でキュートだということが証明された「キスしないと出られない部屋事件」は幕を閉じたのだった。
「? どうしたんだい、ある……じ……」
ちょうど執務室に入ってきたところだった小竜が不思議そうにパソコンを覗き込み、ピシリと固まる。それと入れ違いに私は立ち上がり、彼が几帳面に閉ざした障子戸に手をかけ力いっぱい横に引いた。普段ならばきっと障子が外れて庭に飛んでいきそうなほどの乱暴さだったはずだが、何故か障子戸はピタリと閉ざされたまま、私が指先を痛めただけで終わった。
(キッ、キキキキスしないと出られない部屋?)
ゴシック体が綴っていた文字に動揺を隠しきれず障子にガンと額を打ちつけてみるが、やはり目の前のそれはびくともしない。しかも指がけっこう痛いから白昼夢ではない。理由は不明だが、どうやらこの執務室はほんの一瞬で、見たことも聞いたこともない、私以外の誰も得をしないおかしな部屋に変わってしまったらしかった。
(神様? こんな私の欲望を形にしたみたいな部屋が存在していいんですか?)
ドキドキを通り越してバクバクと鳴っている心臓の上で自分の手を握りしめながら、落ち着きを取り戻すべく深く息を吐き出す。渾身の深呼吸は少々深すぎたらしく、唾液がのどに絡んであまり美しくない咳が口から出ていった。目じりに涙を浮かべながらゴホゴホと咳込みながらも、実のところ、内心は浮かれきっている。
(合法的に小竜とキスができる……!?)
背後の刀からは見えないよう、熱を持ってにやけた顔を斜め下に向ける。
小竜景光と私は5カ月ほど前から恋人関係にある。彼は見た目から想像するよりもずっと気遣いができるとても優しい刀だったし、私も良い恋人であろうとできる限りの努力はしてきた。その甲斐あって交際は順調だったが、唯一の悩みがこれ――小竜景光は一切、多少不安になるほど、私に手を出そうとはしなかった。
(小竜、あれでかなり硬派な男だから)
付き合った翌日にはキスくらいされるだろうと思って1日中一生懸命歯みがきに努めていた私をよそに、小竜は私との物理的距離をまったくと言ってもいいほど詰めようとしなかった。最初のうちは手が触れ合うことすらなく、2週間ほど過ぎたころにようやく初めて手をつないだ。中学生か。いや、今日日中学生でもお付き合い翌日には恋人つなぎをする。奥手なのかと言えば、おそらくそれは違う。小竜はただ純粋に、私に気をつかってくれているのだ。
(好き……!)
心の声が口から漏れそうになって、慌てて口元を片手で覆う。
私が驚くといけないから、怖がるといけないから。そう考えて様子を見ながら少しずつ距離を詰めようとしてくれている小竜の気遣いがうれしくて、私もついそれに乗っかってしまったのがいけなかった。おかげさまで付き合い始めて5カ月。とっくにやることは済ませているカップルもいるだろうに、私たちときたらついこの間、ようやくハグをしたところだ。そのときの小竜の満たされたような顔といったら、思わずこちらが真顔になってしまうほどに幸せそうだった。
(ささやかな幸せを噛みしめるみたいな笑顔が好き~!)
とはいえ、私とて人並みに欲はある。もっと小竜に触れたいし、もっと彼に近づきたい。けれど最初のころに小竜に合わせてかまととぶっていた手前、今さらこちらから手を出すわけにもいかず。ならば小竜の方から手を出させようと全力で隙を見せ続けてきたが、彼は色ごとに興味がないのではと訝しむほどそれらをすべて跳ねのけてきた。いくら恋人であっても一方的に自分の欲望をぶつけてはいけないと、小竜はよく理解しているのだ。
(そういうところが好き~!)
昂った気持ちを抑えるため、再び深呼吸を繰り返す。
何故このような状況に置かれているのかは分からない。本当にキスをすればこの部屋から出られるのかも確証はない。けれどこれはまたとないチャンスだ。だって私は小竜とキスがしたい。
(絶対に小竜の唇を奪ってここを出る!)
固く心に誓って、顔を上げる。未だ障子戸はピクリとも動かず、まるで壁のように私の目の前に佇んでいた。お題をクリアするまでは逃がさないという強い意思を感じる。なんて頼もしいのだろうと、そっと障子に触れようとした手は――後ろから伸びてきた手に捕まった。
「下がってて」
短く低い声に促されるまま2、3歩後退する。視界の端で揺れた金の髪の毛にあっと思ったのも束の間、ガキンと、鈍い音が室内に響き渡った。続けて聞こえた忌々しげな舌打ちに、ハッとして状況を理解する。小竜が彼の本体である刀を思いきり、障子に向けて振り下ろしたようだった。
「……こ、小竜?」
「結界みたいなものが張ってあるな」
言いながら障子を切り捨てようと刀を振るう小竜の横顔は、浮かれていた私と正反対に真剣そのものだった。苦々しさすら感じるのは、気のせいではないだろう。仇を前にしたかのように鋭い視線は、私には絶対に見せない表情だ。
(かっこよ~!)
決して顔には出ないように、心の中ではうっとりとその横顔を見つめる。刀剣男士はみなそれぞれに美しいが、小竜は特別に美しく、かっこいい。断言するが惚れた欲目だ。忌々しそうなお顔すらかっこいい。立ちすくんで我が恋人に見とれていると、視線に気が付いたらしい小竜がじんわりとにじんだ汗をぬぐいながらこちらを向いた。
「すぐには出られないかもしれないけど、なんとかするから。心配は無用だよ」
「う、うん……でも、キ、キスするだけでいいなら、その……試してみるのも、いいんじゃないかな……?」
にやけないように必死で表情筋を抑えつけながら、ストレートにキスのお誘いをしてみる。けれど小竜は間髪入れず、きっぱりと「ダメだ」と断言した。
「本丸から移動したわけじゃないとは思うけど……あんな低俗な指示が出たってことは、この状況は誰かの意思によるものだ。ならその誰かに見られてる可能性が高い」
「そ……れは、確かに……でも別に、キスするくらい……」
「もし撮影でもされてたら? 動画だの写真だのが妙なことに使われて、キミの名誉が傷つくようなことがあったら……俺は犯人を殺すだろうし、自分のことが許せなくなる」
「……」
「それにキミとのファーストキスは、もっとロマンチックに決めたいしね」
それまでの真剣な表情から一変、パチンと片目をつぶって空気を和ませようとする小竜にこくりと頷く。彼は安心したように頬を緩ませ、しかしすぐに表情を引き締めて執務室の中を見回した。対する私はおとなしく執務室の端に寄り、ぐっと服の端を握りしめてうつむく。
(す、好き~!!!)
チャラついた見た目や煙に巻くような言動に反して、有事の際にはこうして主の身を最優先に合理的な判断をしつつ、こちらの心情にも配慮する。こんなに真面目でかっこいい刀が他にいるだろうか。いや、いない。
(でも、小竜には悪いけどそんな大変なことじゃない気がする~!)
おそらく敵襲ではない。そして政府が何か妙な画策をしているわけでもない。だって小竜は気が付いていないが、先ほどからパソコンのディスプレイに何度も同じ指示がポップアップされ続けている。どう見てもエラーだ。ならば力ずくで出るよりは、エラーが解消されるのを待つ方がおそらく早い。
(……エラーなら、キスしても出られないかもなぁ。でも試すだけなら……ねえ?)
ド正論によって私の低俗な欲望は飲み込まざるを得なかったが、それはまだ消化されずにお腹の辺りでくすぶっている。なんとかこの状況を利用して、関係を一気に進めたい。
(小竜の言うロマンチックな状況ってたぶん5年に1回しか咲かない花が私たちの目の前で見事に開いた瞬間とかだろうからな……)
そんなものを待っていてはいつまで経ってもキスなどできやしない。そんなのはいやだ。私は小竜とキスがしたい。何が何でもこの部屋でキスをしてみせる。決意も新たに顔を上げる。麗しきターゲットは障子戸を諦めて反対側の襖を蹴破ろうとしていたが、何度刀で切りつけようとも、何度長いおみ足で蹴りつけようとも、襖はびくりともしなかった。
(……少し小竜を休ませないと)
息が切れ始めているのはもちろんだが、妙にイラついているようなのが気になって声をかける。飲み物でもあればと室内を見回すと、いつの間にか座卓の端にコーヒーメーカーとマグカップが置いてあった。
「なんで?」
素直な疑問が口をついて出ていった。どれほど長居しても構わないからキスをしろということだろうか。それともおせんべいを食べたばかりだからキスの前にコーヒーでも飲んでおけということだろうか。よく分からないがコーヒーが飲みたいと思っていたところだからちょうどいい。何の躊躇もなくボタンを押すと、すぐにスモーキーな香りが執務室に広がる。
(おいしそう)
あっという間にコーヒーで満たされたマグカップを手に取り、口に運ぶ直前。
「あっ、コラ!」
小竜が慌てた様子でマグカップを奪い去った。見上げれば疲れと呆れをにじませたお顔が、ひきつった笑みを浮かべている。
「なに、これ」
「コーヒー。淹れてみた」
「コーヒーメーカー、前からあったっけ」
「ううん。たぶん閉じ込められたときに出てきたんだと思う」
「……主を窘めるのも部下の役目だからはっきり言うけど、もう少し深く物事を考えてくれても罰は当たらないんじゃないかな?」
「と言うと?」
「世の中はキミが思っているよりも優しくないってこと」
小さなため息を吐いてから、小竜はマグカップを鼻先に運んだ。しばらく匂いを確かめ、慎重にマグカップに口をつけてほんの少しのコーヒーを舌の上で転がしている。なるほど、毒が混入している可能性を考えたらしい。
(真面目~!!!!)
きゅんとときめいた胸元に手をやって、まじまじと小竜を見上げる。不機嫌そうに眉根を寄せ、「ただでさえ隙だらけなんだから」などとブツブツ言っている様子すらかっこいいとはどういう仕組みなのだろう。好きな気持ちが大きすぎて動悸がする。こんなにかっこよくて素敵な刀の恋人が私で大丈夫なのだろうか。告白してきたのはあちらだからきっと大丈夫だ。
(私も好き~!!!!)
心の声が出ていかないように奥歯をぐっと噛みしめる。やがて異常なしと判断されたコーヒーは、ため息と共に私の手の中に戻された。お礼を言って苦いコーヒーを飲み込みながら、ふと、間接キスだなと考える。小竜の基準では、キスはNGだが間接キスは許容範囲内らしかった。さすがにそこまで思春期に寄っているわけではないのかと感心しつつ、後学のためにしっかりと頭にインプットしておく。
「まったく、どこの誰がこんなくだらないこと……」
隣に腰を下ろしてぼやく小竜からは、冗談や軽口の気配は感じなかった。彼は本当にこの状況を嫌がっている。清廉潔白を求める彼らしいと頬を緩ませながら、からかうように口を開いた。
「小竜にとっては、私とキスするのはくだらなくて低俗なことなの?」
「……本気で言ってる? 俺が気に食わないのは、今のこの状況だよ。こんな、キミのことを侮辱したような命令に従えるわけ……」
ふと、小竜は言葉を切った。どうしたのかと彼の視線を追えば、その先では未だにパソコンがポップアップを出し続けている。あ、と思ったときにはすでに遅し。「エラー……?」という小さなつぶやきが落とされたのとほぼ同時、部屋の外から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「あっ、本当に開かない! 主、無事!?」
「燭台切?」
「良かった、声は聞こえるんだね」
ほっと息を吐いて、燭台切は外側から障子をガタガタと揺らした。地震の真っ最中のような激しさだが、彼の力を持ってしても障子が開く気配はない。それでも諦めずに障子をこじ開けようと奮闘しながら、燭台切は政府からの入電があったのだと告げた。
「この辺りの本丸でエラーが起きてるらしいんだ。なんでも本丸の主の一番の欲望を叶えないと部屋から出られないとか」
「へっ……へえ……?」
ビクリと体ごと心臓が跳ねた。
主の一番の欲望を叶えないと部屋から出られないエラー。
主とはすなわち私であり、つまりこの部屋から出る条件は、私の欲望を叶えること。
(それは、つまり?)
あのディスプレイに映し出されていることが、私の、一番の欲望。
恐る恐る視線をやれば、パソコンをじっと見る小竜の肩が小さく動いたのが分かった。
「大変なことになってる本丸も多いらしくて、政府の担当者がかなり焦ってたよ。まあキミは小心者だからそんな大それた欲望なんかないと思うけど」
「あ、ははは……」
全身からダラダラと冷や汗が噴き出る。
(大それてる……大それちゃってるよ燭台切……!)
私と小竜の間柄において、これほどセンシティブな状況もない。何せ私が一番叶えたい欲望は、小竜とキスをすることだと判断されたのだ。単純に気まずい。しかも彼がこれ以上はないほど大切に丁寧に扱ってくれていた張本人がこんなことを一番に望んでいるなんて――失望されたって不思議はない。
「とにかく欲望が満たされれば解決するらしいから無理がない範囲で実行に移してほしいって言付かったんだけど、どう? 大丈夫そう?」
「大丈夫そうではないです」
「えっ」
こんなに冷や汗が流れていて大丈夫も何もない。しかも小竜がずっと押し黙ったままなのも不安を煽る。
(どうしよう、絶対引かれた。それに横顔がかっこいい)
状況報告を求める燭台切に乾いた笑いだけを返して、じりじりと小竜から距離を取る。わずかに揺れたマグカップから零れたコーヒーが少しだけ指に跳ねたが、冷や汗のおかげで熱さも感じない。どうしようという言葉だけが頭を巡り、小竜にかける言葉のひとつも見つけることができない。分かりやすく動揺しきった私に、ついと、紫色の双眸が向けられた。
「! ……あっつ!」
大げさなほどに体が跳ね上がり、とうとうコーヒーが派手に手の甲を濡らした。さすがに熱くて顔をしかめる。小竜は取り立てて慌てた様子もなく冷静にマグカップを私の手から座卓に移動させ、愛用のマントで優しくコーヒーにまみれた私の手をぬぐい――流れるように、手の甲に唇を寄せた。
「……えっ」
「まさかキミが抱く一番大きな欲望の行き先が俺で、そのうえ、こんなに慎ましくてかわいらしい願い事を隠してたなんてね」
「こ、小竜?」
「目利きは得意なつもりだけど、俺もまだまだだね。それにこれからは、手加減は必要なさそうだ」
「手加減って……」
唇が触れた部分を指先でそっと撫でる小竜の表情は、初めてみる類のものだった。もしや彼の方も、あの穏やかな微笑みの下に自分の欲を隠していたのではないかと思わせる、どこか飢えた視線。名前を呼べば、透き通った紫が真正面から私を見る。それは一呼吸を置く間もなく眼前に迫り、唇にやわらかな感触が落とされる。軽いリップ音が鼓膜を叩き、それを合図に、頭にじわじわと熱が集まり始める。息をのんで、目の前の紫苑を見つめる。彼はふっと吐息を零すように微笑み、余韻を断ち切るようにさっと立ち上がった。呼び止める間もなく彼が引いた障子はあまりにあっけなく開き、外の空気を招き入れる。
「あれ、小竜くんもいたんだ」
「ちょうど執務室に入ったときに閉じ込められてね。主、よっぽどコーヒーが飲みたかったみたいだよ」
心なし早口でそう言って、小竜は振り返ることなくすたすたと縁側を歩いていってしまった。燭台切は不思議そうな顔で彼の背中を見送ったが、やがて私の方を見てさらに首を傾げる。
「何かあった?」
「なっ、何かって?」
「いや、キミも大概だけど……小竜くんの顔も真っ赤だったから」
「……」
「コーヒー、そんなに熱かった?」
「……」
「主?」
「100点満点……!」
「そんなにおいしいコーヒーだったんだ」
良かったねと笑う燭台切にこくこくと必死で頷き、ポップアップが止まったパソコンに両手を合わせてエラーを巻き起こしてくれたことへの心からの感謝をお伝えする。燭台切がドン引きしている空気は肌でひしひしと感じていたが、気にするようなことではない。かくして私の恋人が最高にかっこよくて真面目で素敵でキュートだということが証明された「キスしないと出られない部屋事件」は幕を閉じたのだった。