小竜さに
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少し冷える夜だった。
小さく寝息を立てる恋人の腕の中から抜け出して、少しだけ障子を開く。墨で染めたような空に、月はない。月明かりのない夜空でのびのびと輝く星々は、いつもよりも明るく感じられた。
障子の前にぺたりと座り込み、ひとり、ぼんやりと宙を見る。
一度は恋人の隣でささやかな幸福を感じながら目を閉じた。わずかな眠気もあったはずだが、なんとなく考えごとをしている間に恋人が先に眠りに落ち、私ひとりがこの夜の中に取り残されている。眠れない日に限って、夜は長い。確かめるように空を見るが、神話を描いた星座たちは先ほどと少しも変わらない位置で瞬いていた。
――ふと背後から、わずかな衣擦れの音が聞こえた。
振り返らずにいると、直前まで布団の中で温められていた体温が背中を包み、たくましい腕が優しく腹部に回される。頭頂部にすり寄せられたのは彼の頬か、それとも額か。かすれた声が眠気を伴って「……眠れない?」と問いかけた。
「うん。なんとなく、目が冴えて」
「まだ朝には遠いだろう?」
「そうだね、嫌になるくらい」
起き抜けで脱力しているのだろうか。あるいは眠気を追い払おうとしているのかもしれない。私の背中に体重を預けて何度もぐりぐりと頬か額をすり寄せる様は、大きい犬のようでかわいらしい。腕を伸ばして軽く頭をなでてやると、くすぐったそうな笑い声が漏らされた。
「長い夜は嫌い?」
「嫌いってほどじゃないけど……永遠に夜が終わらないんじゃないかって気分になってくる」
「キミには悪いけれど、それはそれで悪くない。我らが主を独り占めできるのなんて、夜くらいだからね」
「でも朝が来なきゃ、戦には行けないよ」
「それは困るな」
ようやく頭が覚醒したのか、小竜が顔を上げた気配がした。それから私の頭に顎を乗せ、お腹に回った腕に少し力を込める。
「新月か」
障子戸の隙間から暗い夜空が見えたのだろう、小竜がぽつりとつぶやいた。
「知ってるかい? 月の光っていうのは結構強力で、星の光をかき消してしまうんだ。だから新月の夜は、普段は見えない小さな星までよく見える」
「へえ……じゃあ小竜、これは知ってる? 眠れない夜は、どこかの木に月が引っ掛かってるっていう話」
「月が?」
「うん。子どもの頃に見たプラネタリウムで、そういう話があった。男の子とお父さんが、森に月を探しに行くの」
なんだか眠れない、長い夜。森の中の高い木に月が引っ掛かってしまったせいで、夜空は回転を止めてしまう。森で暮らす親子は、月を外しに出かけるのだ。
「今夜におあつらえ向きのおとぎ話だね」
すでにおぼろげになった物語のあらすじを聞いて、小竜はおもしろそうに笑った。
「今日もどこかに月が、引っかかっているのかも」
言いながら、背後で恋人が立ち上がる気配がした。密着していた空が離れひやりと震えた背中は、すぐに別のぬくもりに包まれる。寝る前に脱いだ羽織をかけてくれたようだった。先に眠るのかと振り向くと、小竜は小竜で自分の羽織に袖を通している。意図が分からず見守っていると、大きな手が差し出された。
「俺たちも行ってみようか。はた迷惑な月を探しに」
真夜中の本丸を息を殺して通り抜け、静まり返った玄関から外に出る。小竜は下駄を、私はサンダルを引っかけただけだから、足元は少し心もとない。月明かりがない夜だからなおさら。歩き始めてすぐに段差に躓いた小竜を慌てて支え、いつもとは逆に私が彼の手を引いた。
「キミにエスコートされるのも悪くないね」
斜め後ろでケラケラと笑う小竜に私も笑いながら、夜の庭を抜けていく。
日中は花々が美しく咲き誇り、虫や鳥が飛び交う庭も、夜になれば静かなものだ。小竜の下駄が奏でるカラコロという軽快な音と、ふたり分の息づかい。ぽつぽつと交わす会話以外に聞こえるものは、何もない。暗闇に慣れてきた目は少しずつ夜の庭の輪郭を捉え始め、池に浮いた小さな花びらがゆらゆらと体を揺らして遊んでいるのが見えた。
「今夜のガイドさんは、俺をどこに連れていってくれるのかな」
斜め後ろからのからかうような声に、私も冗談めかして答える。
「月が引っ掛かりそうな、高い木があるところ。そういうのは、流浪の旅人さんの方が場所を知っていそうだけど」
「じゃあ畑の奥にある丘に行こうか。あそこには立派な桜がある」
なんとなく歩いてきた飛び石から降りて、畑の方へと進路を変える。明かりがなくても道をたどることができるのは、立ち上げ当時から何度も本丸中を歩き回ってきたからだろう。小竜と恋人関係になってからはなおさら。本当の旅行に行くことはできずとも、旅好きの彼に付き合って敷地内を散歩する回数がぐんと増えた。
池の淵をゆっくりと辿り、小さな橋を越えて母屋に沿って裏に回る。裏庭に入ってすぐに鼻に届いたのはバラの香りだ。早咲きのものから少しずつ花開くバラに最も喜んでいたのは福島だ。今朝、小さなブーケを早速自室に届けてくれた。春の庭は、香りだけでも華やかだ。しかしいくら周囲を見回しても、月を捕らえてしまった木々は見当たらなかった。
少しぬかるんだ畑に入り、土に沈むサンダルがすっぽ抜けていかないよう慎重に歩く。小竜も下駄のせいでうまく歩けないのだろう、ふたりそろってモタモタと土の上を進んでいく。広大になってきた畑を抜け、石造りの階段を上れば、目的地はすぐそこだ。夜目がきかない小竜が転ばないよう声をかけながら、一段ずつ踏みしめるように階段を上った。
「おや、ここはハズレか」
階段を上りきった丘の上、いくつかの木々の中心に、飛びぬけて高い桜の木が、夜空に向けて無数の枝を伸ばしていた。花びらはすでに散ってしまい、代わりにやわらかそうな青葉が枝の先で揺れている。どれだけ目を凝らしても、枝の隙間に月が引っ掛かっている様子はなかった。
「どこに行ってしまったんだろうね、お月さまは」
言いながら、小竜は私を追い抜いて歩き始めた。つないだままの手を引かれ、私も桜の木に向けて足を動かす。小竜ですらが首を直角にして見上げるほど大きな桜の根元には、ごつごつと波打つ根っこが顔を出していた。小竜に促されるまま、ふたりで肩を並べて根の上に座る。光源がない本丸の敷地は暗闇に飲まれ、今まで歩いてきた場所すら見えやしない。かろうじて見えるのは桜の若葉と、視界の端で揺れる金色の髪の毛だけだった。
「ここから探しても見つからないということは、月は裏山の木にでも引っかかっていたのかな」
「残念。他の誰かが外してくれるといいな」
「その誰かとやらがいなければ、まだまだこの夜の旅を続けられるということかな」
「気に入ったの? 夜の旅」
「俺が転んでしまわないよう一生懸命なガイドさんに心打たれてね」
いつもは逆だろうと続ける小竜に苦笑とともに頷き、枝の合間から夜空を見上げる。
自室を出てきたときから、どれだけ時間が進んだのだろう。時計は置いてきてしまったから、明確な時間は分からない。月が浮いていればその高さで時間の経過くらいは読み取れただろうが、それもない。唯一、星座の位置だけが頼りだが、若葉に遮られた夜空から星の形を捉えることは難しかった。
「今、何時くらいだと思う?」
「さあ? 少なくとも、まだ朝は遠そうだ」
「……小竜、本当に楽しそうだね」
「そういうキミも、なんだかんだと楽しそうにしていたじゃないか」
彼なりの励ましなのだろう、楽しい時間はあっという間に過ぎるものだと小竜は笑う。結ばれたままの手のぬくもりが、冷えた夜には心地よい。頬を撫でていく夜風に体を震わせると、すぐに肩を抱き寄せて羽織の中に招き入れてくれる優しさが、自然と頬を緩ませてくれる。我ながら単純なもので、短時間の散歩と隣のぬくもりのおかげか、小さなあくびが口から漏れた。あたたかい体に寄りかかると、遠慮のない笑い声が降ってくる。
「ガイドさんがおねむになってしまったら、帰り道が恐ろしいな」
「それなら朝まで、ここにいるしかないね」
「キミが起きていてくれるなら、それも悪くないけれど」
「約束はできなさそう。……もう戻ろうか」
「いや、もう少し、このままで」
私を抱き寄せる左手に力を込めて、小竜は小さく願いを口にする。それきり彼は口を閉ざしてしまったから、私も無言で、ぼんやりと宙を見つめることにした。
墨で染めたような空に、月はない。月明かりから解放された星々はチカチカと輝き、何億光年も先からその生を教えてくれる。膝の上で私の手を握ってくれる彼の右手が離れる気配も、力を緩める気配もない。起き抜けとは異なり彼の手は少しだけ冷えていたが、それがまた、眠気を誘う。
「おやすみ、主」
沈み始めた意識は、恋人のささやきに言葉を返す余裕を奪って眠気に飲まれる。唐突に始まった月探しの旅は目的を達することはなかったが、この夜を、ほんの少しだけ短くしてくれたようだった。
小さく寝息を立てる恋人の腕の中から抜け出して、少しだけ障子を開く。墨で染めたような空に、月はない。月明かりのない夜空でのびのびと輝く星々は、いつもよりも明るく感じられた。
障子の前にぺたりと座り込み、ひとり、ぼんやりと宙を見る。
一度は恋人の隣でささやかな幸福を感じながら目を閉じた。わずかな眠気もあったはずだが、なんとなく考えごとをしている間に恋人が先に眠りに落ち、私ひとりがこの夜の中に取り残されている。眠れない日に限って、夜は長い。確かめるように空を見るが、神話を描いた星座たちは先ほどと少しも変わらない位置で瞬いていた。
――ふと背後から、わずかな衣擦れの音が聞こえた。
振り返らずにいると、直前まで布団の中で温められていた体温が背中を包み、たくましい腕が優しく腹部に回される。頭頂部にすり寄せられたのは彼の頬か、それとも額か。かすれた声が眠気を伴って「……眠れない?」と問いかけた。
「うん。なんとなく、目が冴えて」
「まだ朝には遠いだろう?」
「そうだね、嫌になるくらい」
起き抜けで脱力しているのだろうか。あるいは眠気を追い払おうとしているのかもしれない。私の背中に体重を預けて何度もぐりぐりと頬か額をすり寄せる様は、大きい犬のようでかわいらしい。腕を伸ばして軽く頭をなでてやると、くすぐったそうな笑い声が漏らされた。
「長い夜は嫌い?」
「嫌いってほどじゃないけど……永遠に夜が終わらないんじゃないかって気分になってくる」
「キミには悪いけれど、それはそれで悪くない。我らが主を独り占めできるのなんて、夜くらいだからね」
「でも朝が来なきゃ、戦には行けないよ」
「それは困るな」
ようやく頭が覚醒したのか、小竜が顔を上げた気配がした。それから私の頭に顎を乗せ、お腹に回った腕に少し力を込める。
「新月か」
障子戸の隙間から暗い夜空が見えたのだろう、小竜がぽつりとつぶやいた。
「知ってるかい? 月の光っていうのは結構強力で、星の光をかき消してしまうんだ。だから新月の夜は、普段は見えない小さな星までよく見える」
「へえ……じゃあ小竜、これは知ってる? 眠れない夜は、どこかの木に月が引っ掛かってるっていう話」
「月が?」
「うん。子どもの頃に見たプラネタリウムで、そういう話があった。男の子とお父さんが、森に月を探しに行くの」
なんだか眠れない、長い夜。森の中の高い木に月が引っ掛かってしまったせいで、夜空は回転を止めてしまう。森で暮らす親子は、月を外しに出かけるのだ。
「今夜におあつらえ向きのおとぎ話だね」
すでにおぼろげになった物語のあらすじを聞いて、小竜はおもしろそうに笑った。
「今日もどこかに月が、引っかかっているのかも」
言いながら、背後で恋人が立ち上がる気配がした。密着していた空が離れひやりと震えた背中は、すぐに別のぬくもりに包まれる。寝る前に脱いだ羽織をかけてくれたようだった。先に眠るのかと振り向くと、小竜は小竜で自分の羽織に袖を通している。意図が分からず見守っていると、大きな手が差し出された。
「俺たちも行ってみようか。はた迷惑な月を探しに」
真夜中の本丸を息を殺して通り抜け、静まり返った玄関から外に出る。小竜は下駄を、私はサンダルを引っかけただけだから、足元は少し心もとない。月明かりがない夜だからなおさら。歩き始めてすぐに段差に躓いた小竜を慌てて支え、いつもとは逆に私が彼の手を引いた。
「キミにエスコートされるのも悪くないね」
斜め後ろでケラケラと笑う小竜に私も笑いながら、夜の庭を抜けていく。
日中は花々が美しく咲き誇り、虫や鳥が飛び交う庭も、夜になれば静かなものだ。小竜の下駄が奏でるカラコロという軽快な音と、ふたり分の息づかい。ぽつぽつと交わす会話以外に聞こえるものは、何もない。暗闇に慣れてきた目は少しずつ夜の庭の輪郭を捉え始め、池に浮いた小さな花びらがゆらゆらと体を揺らして遊んでいるのが見えた。
「今夜のガイドさんは、俺をどこに連れていってくれるのかな」
斜め後ろからのからかうような声に、私も冗談めかして答える。
「月が引っ掛かりそうな、高い木があるところ。そういうのは、流浪の旅人さんの方が場所を知っていそうだけど」
「じゃあ畑の奥にある丘に行こうか。あそこには立派な桜がある」
なんとなく歩いてきた飛び石から降りて、畑の方へと進路を変える。明かりがなくても道をたどることができるのは、立ち上げ当時から何度も本丸中を歩き回ってきたからだろう。小竜と恋人関係になってからはなおさら。本当の旅行に行くことはできずとも、旅好きの彼に付き合って敷地内を散歩する回数がぐんと増えた。
池の淵をゆっくりと辿り、小さな橋を越えて母屋に沿って裏に回る。裏庭に入ってすぐに鼻に届いたのはバラの香りだ。早咲きのものから少しずつ花開くバラに最も喜んでいたのは福島だ。今朝、小さなブーケを早速自室に届けてくれた。春の庭は、香りだけでも華やかだ。しかしいくら周囲を見回しても、月を捕らえてしまった木々は見当たらなかった。
少しぬかるんだ畑に入り、土に沈むサンダルがすっぽ抜けていかないよう慎重に歩く。小竜も下駄のせいでうまく歩けないのだろう、ふたりそろってモタモタと土の上を進んでいく。広大になってきた畑を抜け、石造りの階段を上れば、目的地はすぐそこだ。夜目がきかない小竜が転ばないよう声をかけながら、一段ずつ踏みしめるように階段を上った。
「おや、ここはハズレか」
階段を上りきった丘の上、いくつかの木々の中心に、飛びぬけて高い桜の木が、夜空に向けて無数の枝を伸ばしていた。花びらはすでに散ってしまい、代わりにやわらかそうな青葉が枝の先で揺れている。どれだけ目を凝らしても、枝の隙間に月が引っ掛かっている様子はなかった。
「どこに行ってしまったんだろうね、お月さまは」
言いながら、小竜は私を追い抜いて歩き始めた。つないだままの手を引かれ、私も桜の木に向けて足を動かす。小竜ですらが首を直角にして見上げるほど大きな桜の根元には、ごつごつと波打つ根っこが顔を出していた。小竜に促されるまま、ふたりで肩を並べて根の上に座る。光源がない本丸の敷地は暗闇に飲まれ、今まで歩いてきた場所すら見えやしない。かろうじて見えるのは桜の若葉と、視界の端で揺れる金色の髪の毛だけだった。
「ここから探しても見つからないということは、月は裏山の木にでも引っかかっていたのかな」
「残念。他の誰かが外してくれるといいな」
「その誰かとやらがいなければ、まだまだこの夜の旅を続けられるということかな」
「気に入ったの? 夜の旅」
「俺が転んでしまわないよう一生懸命なガイドさんに心打たれてね」
いつもは逆だろうと続ける小竜に苦笑とともに頷き、枝の合間から夜空を見上げる。
自室を出てきたときから、どれだけ時間が進んだのだろう。時計は置いてきてしまったから、明確な時間は分からない。月が浮いていればその高さで時間の経過くらいは読み取れただろうが、それもない。唯一、星座の位置だけが頼りだが、若葉に遮られた夜空から星の形を捉えることは難しかった。
「今、何時くらいだと思う?」
「さあ? 少なくとも、まだ朝は遠そうだ」
「……小竜、本当に楽しそうだね」
「そういうキミも、なんだかんだと楽しそうにしていたじゃないか」
彼なりの励ましなのだろう、楽しい時間はあっという間に過ぎるものだと小竜は笑う。結ばれたままの手のぬくもりが、冷えた夜には心地よい。頬を撫でていく夜風に体を震わせると、すぐに肩を抱き寄せて羽織の中に招き入れてくれる優しさが、自然と頬を緩ませてくれる。我ながら単純なもので、短時間の散歩と隣のぬくもりのおかげか、小さなあくびが口から漏れた。あたたかい体に寄りかかると、遠慮のない笑い声が降ってくる。
「ガイドさんがおねむになってしまったら、帰り道が恐ろしいな」
「それなら朝まで、ここにいるしかないね」
「キミが起きていてくれるなら、それも悪くないけれど」
「約束はできなさそう。……もう戻ろうか」
「いや、もう少し、このままで」
私を抱き寄せる左手に力を込めて、小竜は小さく願いを口にする。それきり彼は口を閉ざしてしまったから、私も無言で、ぼんやりと宙を見つめることにした。
墨で染めたような空に、月はない。月明かりから解放された星々はチカチカと輝き、何億光年も先からその生を教えてくれる。膝の上で私の手を握ってくれる彼の右手が離れる気配も、力を緩める気配もない。起き抜けとは異なり彼の手は少しだけ冷えていたが、それがまた、眠気を誘う。
「おやすみ、主」
沈み始めた意識は、恋人のささやきに言葉を返す余裕を奪って眠気に飲まれる。唐突に始まった月探しの旅は目的を達することはなかったが、この夜を、ほんの少しだけ短くしてくれたようだった。
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