小竜さに
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眠れない夜は、不安に満ち溢れていた。
風の音も聞こえない春の夜は、自分の寝息すらかき消して、ぼんやりとした月明かりだけを地上に降らせる。布団の隙間で寝返りを繰り返しては、障子越しに届く月光に眠気を溶かされ、ぎゅうと目を閉じて暗闇に意識を沈めようとしても、おぼろ雲の端に引っかかったそれは、体の奥に落ちてきてはくれない。自分の中にあるべきものが遠く手の届かない場所にいってしまったことにそわそわと落ち着かない気分になり、そうなればより、目が冴える。そうしているうちに時計の針は明日に向けてどんどんと走り出し、今度は焦燥が湧いてくる。翌日に備えて早く眠らなければと、体の向きを変えたり布団の量を調整したり試行錯誤してみても、不思議なほどに視界は明瞭なままだった。
とうとう眠ることを諦めて、のそりと体を起こす。頭と異なり眠気を訴える体は火照っていた。涼を求めて障子戸を開け、縁側に足を踏み出す。予想通りの朧月夜が、ぼんやりと春の庭に横たわっていた。
縁側の柱に寄りかかるようにして、熱を持った手足を夜風に晒す。春とはいえ、まだ夜は肌寒い。今の私にはそれが心地よく、ふうと一息ついて目を伏せた。
しばらくの間、相変わらずの無音が、薄明るい暗闇に満ちた。
眠気は一向に訪れない。そればかりか、さらに思考が速度を増したように思える。眠れないことに対する不安が、何故かこれまでの人生の中で積み重なってきた失敗を思い起こさせ、それを繰り返すのではないかという漠然とした不安に変わり、降り積もる。ざわざわと背筋の辺りが落ち着かなくなってきたのは、涼しさのせいではないだろう。何せ手足は未だ熱く、頭や耳の辺りも熱をもってきた。
(やだなぁ)
自分で拵えた暗がりの中、意味も形も持たない不安に襲われ、ただただ「嫌だ」と、それだけを思う。忘れたいのに忘れられない。見ないふりをしたいのに嫌な記憶がリフレインする。ただ少し眠れないというだけだったのに、不快感を増していくこの夜が、憎らしく思えてくる。何より、後ろ向きな自分が、嫌になる。
こみ上げる不安を、あるいはそれ以上の何かを誤魔化すように、わざと息を吸って、大きく吐き出す。それからゆっくりとまぶたを持ち上げると、澄んだ紫色がふたつ、不思議そうに私の顔を覗き込んでいた。
「っ!? いたっ」
柱に背を預けていたのも忘れ、思わず息をのんで後ずさる。ごつんと鈍い音を立ててぶつかった後頭部を片手でおさえると、「大丈夫?」と、社交辞令のような言葉が、声を潜めて落とされた。
「だ、大丈夫……何してるの……?」
「こちらのセリフさ。どうしたんだい? こんな時間に」
質問を質問で返しながら、小竜景光はわずかに首を傾げて見せた。すぐ隣にしゃがみこみ、大きな体を丸めるようにして私の顔を覗き込む彼は、その仕草に違わず、まるで初めて見る動物を観察するかのように不思議そうな顔をしている。普段はハーフアップにしている髪の毛はすべて下ろされ、寝間着に身を包んでいるところを見るにつけ、彼も夜中に目覚めてしまった口なのだろう。
「……ちょっと眠れなくて」
突然のことに跳ね上がった心臓を落ち着けながら手短に説明すると、小竜は「ふぅん?」といかにも彼らしい相槌と共に、そのまま縁側に腰を下ろした。胡坐をかいた膝に肘を置き、頬杖をついて庭を見下ろす姿は、やけに様になる。ぼうっと横顔を眺めていると、紫色の視線がちらりとこちらを向いて、それからすぐに庭の方へと戻っていった。
「俺も、似たようなものだよ」
脈絡なく紡がれた言葉の意味を解するのに、少しだけ時間を要した。口を半開きにしたままその意味を考え、30秒程を経てから、ああ、彼も眠れなかったのかと理解する。その原因はともあれ、この夜についていけずにいるのが私一人ではなかったことに、少しだけ不安が和らいだ気がした。
「……早く眠らなきゃいけないのにね。困っちゃう」
わざとらしくならない程度に苦笑を作り、冗談めかして言葉を返す。同意が返ってくるものだと思っていたが、予想に反して、小竜は「どうして?」と疑問を口にした。
「明日は休みだろう?」
「休みだけど……寝坊はできないし。やることだって、たくさんあるし」
「やることって?」
「ご飯作ったり、掃除したり……いろいろ、あるでしょう?」
「そんなの誰かに任せればいいじゃないか」
「私がサボった分を、他の人にやらせるわけにはいかないよ」
「そういうものか。キミらしいと言えば、キミらしい」
口では納得したようなことを言いつつも、月明かりに照らされた横顔は不服そうに見えた。
きれいごとだと思われただろうか。自分のキャパシティを分かっていない、要領の悪い人間だと思われたかもしれない。
これだから私はダメなのだ。何もできやしないのに口ばかり立派で、結果がひとつも伴わない。私が何もしなくても、本丸の日常は滞りなく回っていく。寝坊したところで誰も困りはしない。そんなことは私も、小竜だって分かっている。口にした思いは決して嘘ではなかったが、我ながら薄っぺらい、意味を持たない言葉に思えた。
常ならば考えないようなネガティブな考えが頭の中を駆け巡り、制御できないまま重みを増して渦を巻く。重力に負けた視線は、抗いもせず床に向いた。もじもじと動かしていた両足の指先が目にとまり、なんだかさらにみじめな気分になった。
(もう、戻ろう)
今の自分の思考が正常ではないことは分かっている。何せこの夜が、私を眠らせてくれないのだ。だから気持ちが暗くなる。この薄明るい春の夜が、どんよりと体にまとわりつき、前向きな思いを奪っていく。部屋に戻ったところで眠れる気はまったくしなかったが、このまま小竜と会話を続け、妙なことを口走ってしまうよりは一人でいる方がよほどマシだった。
「キミにとって、眠れない夜は苦痛なようだけれど」
会話を切り上げるタイミングを探す私をよそに、小竜は口の端を上げてさらに続けた。
「俺は、キミがここにいて良かったと思っているよ」
またしても思いがけない言葉に、何を返せば良いのか分からなくなった。何せ小竜が言っていることの意味が、いまひとつ分からない。彼が「良かった」と思える理由が、私にはひとつも思い浮かばないのだ。時間を持て余した夜に話し相手を見つけてラッキーだったということだろうか。そのわりに、積極的に会話を広げるような気配もない。
返す言葉を探す私に、またしても紫色の瞳が向けられた。細められてなおキラキラと透き通るような瞳は、まるで夜空と、夜空に浮かぶ星々のようだった。
「意味が分からない、と言いたげな顔だね」
「……ごめん」
「謝る必要なんてないさ。寧ろ、謝るのは俺の方かな。今のキミは良い気分ではないだろうに、俺の方は、どちらかといえば浮かれている」
「どうして?」
「さて、それを俺が語るのは、野暮な気もするけれど。あえて言うなら、特別な人と過ごす春の夜は、ことのほか心地よくて、華やいだ気分になる……といったところかな」
「……ごめん、本当によく分からない」
肩を落とす私に、小竜は笑ったようだった。漏れ出たような笑い声は決して不快感をにじませてはおらず、どちらかと言えば楽しんでいるように聞こえる。バカにしているようでも諦めているようでもないのがまだ救いだが、頭の回転がよろしくない自分が恥ずかしくて、膝を抱き寄せて背中を丸めた。それでも小竜はなお、瞳の奥を輝かせたまま、私を見ていた。
「答えが気になる?」
「……そうだね、ちゃんと理解したいなって、思う」
「それでこそキミだ。じゃあ、ひとつ約束をしようか」
「約束」
小竜の言葉をそのまま繰り返すと、彼は「ああ」と小さく頷く。
「次の眠れない夜、この場所で、答え合わせをしよう。それまでにキミは、この謎にもならない謎の答えを考えておくこと。俺は、キミがここにいる夜を、見逃さないこと。お互いにそれを、約束しよう」
「……それって、小竜に何かメリットがあるの?」
「もちろん。というか、メリットは俺にしかないかもしれない。それが何かっていうのは、次回までのお楽しみだけれどね」
「いつ、眠れない夜が来るのかも、分からないし」
「ああ、それは確かに問題だけれど、鼻はきく方でね。見逃さないよう、努力しよう。なんなら明日の夜、君の眠気がどこか遠くに旅立ってくれることを祈ってるよ」
「……」
なんだか腑に落ちなくて、頷くことを躊躇する。しかしいつもつかず離れずな距離を保つ小竜には珍しく、彼は「そう深く考えるようなことじゃない」と食い下がった。
「たまたま、この夜をキミと俺が一緒に過ごせた。キミを眠らせてくれない悪い夜は、月は出ているのに霞んで見えて、いかにも春らしい朧月夜という風体だ。俺はそれが悪くないと思えたし、もう一度キミと同じように、違う夜を過ごしたいと思った。それで、キミもそうであればいいと、思っただけ。ただ、それだけの話だ」
「なんだかそれって、告白でもされてるみたい」
「だとしたら?」
「……違うでしょ?」
「さて、答え合わせは次の夜と、もう決めてしまったから」
いたずらっぽく笑う刀の真意は、私にはうまく汲み取れなかった。頭にクエスチョンマークを浮かべる私に気がついているのだろう、小竜はただ笑みを深め、試すように目を細める。まるでヒントは出揃っているとでも言いたげな表情は、うそをついているようには見えない。一生懸命に答えとやらを考えようとも、思考の回転はかなり鈍く、小竜には悪意がないことと、彼が本心からこの夜を楽しんでいることだけしか分からなかった。
(……それならそれで良かったって思おうかな)
真剣な思考を放棄して、投げやりなことを考える。
漠然とした不安に駆られてこの場所にいただけだが、小竜にとってはなにやらそれが良いことだった。よく分からないが、何かしらの役に立てたということだろう。それならば、この夜も決して悪いことだけではない。意味がなかったわけでもない。強引ではあるが、そう考えれば多少は疑問や不安がやわらいでくる気もした。
単純な自分に、思わず笑いがこみ上げる。続いて浮かび上がってきたのは、なんと欠伸だった。両手で口元を覆い、数秒かけて深く息を吐き出す。自分の呼吸音に混じって、噛み殺し損ねたような笑い声が聞こえたものだから、恥ずかしさにたちまち耳が熱くなった。
「お役御免のようだし、今夜は退散するとしよう」
わざとらしく笑いながら立ち上がる小竜に小さく謝るも、彼はくすりと笑うだけで何も言わなかった。小竜はすぐには立ち去らず、縁側の天井に届きそうなほどに高い位置から、遠く霞む空を見上げる。釣られるように私も視線を持ち上げれば、思いのほか時計の針は進んでいなかったようで、満ち欠けが始まったばかりの月が高い位置に浮いていた。やわらかな月明かりは、私と小竜を優しく包み込む。
「……夜が短くなる前に、またここで」
短くそう告げて、小竜は小さな足音とともに遠ざかっていった。ふわふわと揺れる金色の髪の毛が見えなくなるのを見届けて、私も立ち上がって部屋に入る。障子戸を閉めて布団にもぐれば、少しだけひやりとした感覚に襲われ、次いで布団の重みに安心感を覚える。あれほど不快に火照っていた手足は、いつの間にか正常な体温を取り戻していた。
(なんだか、眠れそう)
誰もいないのをいいことに、大きなあくびを漏らして目を伏せる。ぼんやりとした春の夜は、変わらず障子戸の外に広がっているはずなのに、あんなにも満ち溢れていた不安が、いつの間にか霧散し始めている。まぶたの裏に、月明かりは届かない。自分の呼吸音すら聞こえない。穏やかな春の夜に横たわるのは、ほんの少しの心もとなさと、正体不明の優しい約束。それから、また眠れない夜がやってきても、もしかしたらまた、彼がそばにいてくれるのかもしれないという、わずかな期待。
(ありがとう、小竜)
わずかに、春風が木々を揺らす音が聞こえた。おぼろ雲から振り落とされた意識が体の中心に深く沈み、ようやくあるべき場所に収まったような感覚に、安堵する。分かりにくい刀に「おやすみなさい」と言い損ねたことだけが少し悔やまれたが、それは彼が言う次の夜まで、大切にしまっておくことにした。
風の音も聞こえない春の夜は、自分の寝息すらかき消して、ぼんやりとした月明かりだけを地上に降らせる。布団の隙間で寝返りを繰り返しては、障子越しに届く月光に眠気を溶かされ、ぎゅうと目を閉じて暗闇に意識を沈めようとしても、おぼろ雲の端に引っかかったそれは、体の奥に落ちてきてはくれない。自分の中にあるべきものが遠く手の届かない場所にいってしまったことにそわそわと落ち着かない気分になり、そうなればより、目が冴える。そうしているうちに時計の針は明日に向けてどんどんと走り出し、今度は焦燥が湧いてくる。翌日に備えて早く眠らなければと、体の向きを変えたり布団の量を調整したり試行錯誤してみても、不思議なほどに視界は明瞭なままだった。
とうとう眠ることを諦めて、のそりと体を起こす。頭と異なり眠気を訴える体は火照っていた。涼を求めて障子戸を開け、縁側に足を踏み出す。予想通りの朧月夜が、ぼんやりと春の庭に横たわっていた。
縁側の柱に寄りかかるようにして、熱を持った手足を夜風に晒す。春とはいえ、まだ夜は肌寒い。今の私にはそれが心地よく、ふうと一息ついて目を伏せた。
しばらくの間、相変わらずの無音が、薄明るい暗闇に満ちた。
眠気は一向に訪れない。そればかりか、さらに思考が速度を増したように思える。眠れないことに対する不安が、何故かこれまでの人生の中で積み重なってきた失敗を思い起こさせ、それを繰り返すのではないかという漠然とした不安に変わり、降り積もる。ざわざわと背筋の辺りが落ち着かなくなってきたのは、涼しさのせいではないだろう。何せ手足は未だ熱く、頭や耳の辺りも熱をもってきた。
(やだなぁ)
自分で拵えた暗がりの中、意味も形も持たない不安に襲われ、ただただ「嫌だ」と、それだけを思う。忘れたいのに忘れられない。見ないふりをしたいのに嫌な記憶がリフレインする。ただ少し眠れないというだけだったのに、不快感を増していくこの夜が、憎らしく思えてくる。何より、後ろ向きな自分が、嫌になる。
こみ上げる不安を、あるいはそれ以上の何かを誤魔化すように、わざと息を吸って、大きく吐き出す。それからゆっくりとまぶたを持ち上げると、澄んだ紫色がふたつ、不思議そうに私の顔を覗き込んでいた。
「っ!? いたっ」
柱に背を預けていたのも忘れ、思わず息をのんで後ずさる。ごつんと鈍い音を立ててぶつかった後頭部を片手でおさえると、「大丈夫?」と、社交辞令のような言葉が、声を潜めて落とされた。
「だ、大丈夫……何してるの……?」
「こちらのセリフさ。どうしたんだい? こんな時間に」
質問を質問で返しながら、小竜景光はわずかに首を傾げて見せた。すぐ隣にしゃがみこみ、大きな体を丸めるようにして私の顔を覗き込む彼は、その仕草に違わず、まるで初めて見る動物を観察するかのように不思議そうな顔をしている。普段はハーフアップにしている髪の毛はすべて下ろされ、寝間着に身を包んでいるところを見るにつけ、彼も夜中に目覚めてしまった口なのだろう。
「……ちょっと眠れなくて」
突然のことに跳ね上がった心臓を落ち着けながら手短に説明すると、小竜は「ふぅん?」といかにも彼らしい相槌と共に、そのまま縁側に腰を下ろした。胡坐をかいた膝に肘を置き、頬杖をついて庭を見下ろす姿は、やけに様になる。ぼうっと横顔を眺めていると、紫色の視線がちらりとこちらを向いて、それからすぐに庭の方へと戻っていった。
「俺も、似たようなものだよ」
脈絡なく紡がれた言葉の意味を解するのに、少しだけ時間を要した。口を半開きにしたままその意味を考え、30秒程を経てから、ああ、彼も眠れなかったのかと理解する。その原因はともあれ、この夜についていけずにいるのが私一人ではなかったことに、少しだけ不安が和らいだ気がした。
「……早く眠らなきゃいけないのにね。困っちゃう」
わざとらしくならない程度に苦笑を作り、冗談めかして言葉を返す。同意が返ってくるものだと思っていたが、予想に反して、小竜は「どうして?」と疑問を口にした。
「明日は休みだろう?」
「休みだけど……寝坊はできないし。やることだって、たくさんあるし」
「やることって?」
「ご飯作ったり、掃除したり……いろいろ、あるでしょう?」
「そんなの誰かに任せればいいじゃないか」
「私がサボった分を、他の人にやらせるわけにはいかないよ」
「そういうものか。キミらしいと言えば、キミらしい」
口では納得したようなことを言いつつも、月明かりに照らされた横顔は不服そうに見えた。
きれいごとだと思われただろうか。自分のキャパシティを分かっていない、要領の悪い人間だと思われたかもしれない。
これだから私はダメなのだ。何もできやしないのに口ばかり立派で、結果がひとつも伴わない。私が何もしなくても、本丸の日常は滞りなく回っていく。寝坊したところで誰も困りはしない。そんなことは私も、小竜だって分かっている。口にした思いは決して嘘ではなかったが、我ながら薄っぺらい、意味を持たない言葉に思えた。
常ならば考えないようなネガティブな考えが頭の中を駆け巡り、制御できないまま重みを増して渦を巻く。重力に負けた視線は、抗いもせず床に向いた。もじもじと動かしていた両足の指先が目にとまり、なんだかさらにみじめな気分になった。
(もう、戻ろう)
今の自分の思考が正常ではないことは分かっている。何せこの夜が、私を眠らせてくれないのだ。だから気持ちが暗くなる。この薄明るい春の夜が、どんよりと体にまとわりつき、前向きな思いを奪っていく。部屋に戻ったところで眠れる気はまったくしなかったが、このまま小竜と会話を続け、妙なことを口走ってしまうよりは一人でいる方がよほどマシだった。
「キミにとって、眠れない夜は苦痛なようだけれど」
会話を切り上げるタイミングを探す私をよそに、小竜は口の端を上げてさらに続けた。
「俺は、キミがここにいて良かったと思っているよ」
またしても思いがけない言葉に、何を返せば良いのか分からなくなった。何せ小竜が言っていることの意味が、いまひとつ分からない。彼が「良かった」と思える理由が、私にはひとつも思い浮かばないのだ。時間を持て余した夜に話し相手を見つけてラッキーだったということだろうか。そのわりに、積極的に会話を広げるような気配もない。
返す言葉を探す私に、またしても紫色の瞳が向けられた。細められてなおキラキラと透き通るような瞳は、まるで夜空と、夜空に浮かぶ星々のようだった。
「意味が分からない、と言いたげな顔だね」
「……ごめん」
「謝る必要なんてないさ。寧ろ、謝るのは俺の方かな。今のキミは良い気分ではないだろうに、俺の方は、どちらかといえば浮かれている」
「どうして?」
「さて、それを俺が語るのは、野暮な気もするけれど。あえて言うなら、特別な人と過ごす春の夜は、ことのほか心地よくて、華やいだ気分になる……といったところかな」
「……ごめん、本当によく分からない」
肩を落とす私に、小竜は笑ったようだった。漏れ出たような笑い声は決して不快感をにじませてはおらず、どちらかと言えば楽しんでいるように聞こえる。バカにしているようでも諦めているようでもないのがまだ救いだが、頭の回転がよろしくない自分が恥ずかしくて、膝を抱き寄せて背中を丸めた。それでも小竜はなお、瞳の奥を輝かせたまま、私を見ていた。
「答えが気になる?」
「……そうだね、ちゃんと理解したいなって、思う」
「それでこそキミだ。じゃあ、ひとつ約束をしようか」
「約束」
小竜の言葉をそのまま繰り返すと、彼は「ああ」と小さく頷く。
「次の眠れない夜、この場所で、答え合わせをしよう。それまでにキミは、この謎にもならない謎の答えを考えておくこと。俺は、キミがここにいる夜を、見逃さないこと。お互いにそれを、約束しよう」
「……それって、小竜に何かメリットがあるの?」
「もちろん。というか、メリットは俺にしかないかもしれない。それが何かっていうのは、次回までのお楽しみだけれどね」
「いつ、眠れない夜が来るのかも、分からないし」
「ああ、それは確かに問題だけれど、鼻はきく方でね。見逃さないよう、努力しよう。なんなら明日の夜、君の眠気がどこか遠くに旅立ってくれることを祈ってるよ」
「……」
なんだか腑に落ちなくて、頷くことを躊躇する。しかしいつもつかず離れずな距離を保つ小竜には珍しく、彼は「そう深く考えるようなことじゃない」と食い下がった。
「たまたま、この夜をキミと俺が一緒に過ごせた。キミを眠らせてくれない悪い夜は、月は出ているのに霞んで見えて、いかにも春らしい朧月夜という風体だ。俺はそれが悪くないと思えたし、もう一度キミと同じように、違う夜を過ごしたいと思った。それで、キミもそうであればいいと、思っただけ。ただ、それだけの話だ」
「なんだかそれって、告白でもされてるみたい」
「だとしたら?」
「……違うでしょ?」
「さて、答え合わせは次の夜と、もう決めてしまったから」
いたずらっぽく笑う刀の真意は、私にはうまく汲み取れなかった。頭にクエスチョンマークを浮かべる私に気がついているのだろう、小竜はただ笑みを深め、試すように目を細める。まるでヒントは出揃っているとでも言いたげな表情は、うそをついているようには見えない。一生懸命に答えとやらを考えようとも、思考の回転はかなり鈍く、小竜には悪意がないことと、彼が本心からこの夜を楽しんでいることだけしか分からなかった。
(……それならそれで良かったって思おうかな)
真剣な思考を放棄して、投げやりなことを考える。
漠然とした不安に駆られてこの場所にいただけだが、小竜にとってはなにやらそれが良いことだった。よく分からないが、何かしらの役に立てたということだろう。それならば、この夜も決して悪いことだけではない。意味がなかったわけでもない。強引ではあるが、そう考えれば多少は疑問や不安がやわらいでくる気もした。
単純な自分に、思わず笑いがこみ上げる。続いて浮かび上がってきたのは、なんと欠伸だった。両手で口元を覆い、数秒かけて深く息を吐き出す。自分の呼吸音に混じって、噛み殺し損ねたような笑い声が聞こえたものだから、恥ずかしさにたちまち耳が熱くなった。
「お役御免のようだし、今夜は退散するとしよう」
わざとらしく笑いながら立ち上がる小竜に小さく謝るも、彼はくすりと笑うだけで何も言わなかった。小竜はすぐには立ち去らず、縁側の天井に届きそうなほどに高い位置から、遠く霞む空を見上げる。釣られるように私も視線を持ち上げれば、思いのほか時計の針は進んでいなかったようで、満ち欠けが始まったばかりの月が高い位置に浮いていた。やわらかな月明かりは、私と小竜を優しく包み込む。
「……夜が短くなる前に、またここで」
短くそう告げて、小竜は小さな足音とともに遠ざかっていった。ふわふわと揺れる金色の髪の毛が見えなくなるのを見届けて、私も立ち上がって部屋に入る。障子戸を閉めて布団にもぐれば、少しだけひやりとした感覚に襲われ、次いで布団の重みに安心感を覚える。あれほど不快に火照っていた手足は、いつの間にか正常な体温を取り戻していた。
(なんだか、眠れそう)
誰もいないのをいいことに、大きなあくびを漏らして目を伏せる。ぼんやりとした春の夜は、変わらず障子戸の外に広がっているはずなのに、あんなにも満ち溢れていた不安が、いつの間にか霧散し始めている。まぶたの裏に、月明かりは届かない。自分の呼吸音すら聞こえない。穏やかな春の夜に横たわるのは、ほんの少しの心もとなさと、正体不明の優しい約束。それから、また眠れない夜がやってきても、もしかしたらまた、彼がそばにいてくれるのかもしれないという、わずかな期待。
(ありがとう、小竜)
わずかに、春風が木々を揺らす音が聞こえた。おぼろ雲から振り落とされた意識が体の中心に深く沈み、ようやくあるべき場所に収まったような感覚に、安堵する。分かりにくい刀に「おやすみなさい」と言い損ねたことだけが少し悔やまれたが、それは彼が言う次の夜まで、大切にしまっておくことにした。