君恋いわたる今日のながめ(般若さに)
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大般若が案内してくれた店は私好みの喫茶店で、程よく混雑していたものの待たされることなくすんなり席に着くことができた。洋食メニューが主であったため、和食を好む彼にはあまり合わない店だったのではないかと不安になるも、当の本人は終始機嫌よく過ごしていた。気まずいのは私の方で、廊下でのやりとりを噛み砕き、飲み込むことができない。彼の言葉や態度をどう理解すべきか分からず、しかし目の前の大般若がこれほどご機嫌であることから、心の端に期待がにじむ。それはじわじわと心臓の中心まで達し、血液に乗って全身に回っていく。その感覚がこそばゆく、そわそわと落ち着かなくなった私は、結局食事が運ばれてきてからは大般若の顔を見ることができなくなってしまった。それでも彼は声だけでも分かるほど気持ちが弾んでいるようだった。
ランチが終わり、地下通路を通って研修室に戻ってきても変に目を泳がせる私を、大般若が咎めることはなかった。
「午後も励んできてくれ。終わる頃、迎えにくるよ」
ぽんと肩に手を置いてから、大般若は研修室をあとにした。ほんの数秒手が置かれただけの場所に、いつまでもその感覚が残っている。右肩だけが重たいような、熱いような、妙な感覚。明らかに浮き足立っている自分が恥ずかしくて朝のようにテーブルに突っ伏すと、隣の席の審神者が「大丈夫ですか?」と声をかけてきた。10代後半に見える女性の審神者は、朝から様子がおかしい私を心配してくれていたらしい。他人にしょうもない奇行を見られていたことからより一層恥ずかしさが増し、愛想笑いを浮かべて背筋を伸ばした。
午後の研修中も、講義の内容は一切頭に入ってこなかった。今朝からのやりとりと、今後のことを想像しては青くなったり赤くなったりを繰り返す。桜を降らせるほど喜んでくれたのは、彼も少なからず私を思ってくれている証だろう。しかしその愛情が主に対するものなのか、それとももっと特別な何かなのか、判断することができない。
彼に直接答えを聞いてしまってもいいのだろうか。私が自分の思いを伝えることが先なのか。彼は大人だから、あまり直接的なやりとりは好まないかもしれない。もっと大人びた駆け引きを楽しむべきなのだろうか。私にそんなことができるのか。そもそも、この期待をぶつけて砕け散ることはないのか。
思考がぐるぐると同じところを行き来しては、小さなため息となって音も立てずに口から出ていく。隣の審神者が私の体調を気にしてチラチラとこちらを見ていたが、それも気にならないほど頭の中は大般若のことでいっぱいだった。
「……?」
研修も半ばを過ぎた頃だった。
不意に違和感を覚えて顔を上げる。特に何かが聞こえたわけでも、見えたわけでもない。しかしどこかに何か、違和感がある。他にも何人かの審神者が周囲をキョロキョロと見回しているのが見え、私だけではなかったのかと改めて視線を巡らせる。
言い様のない違和感だ。例えば遥か遠くから聞こえるわずかな犬の遠吠え。あるいは床下を通り抜けるネコの気配。そんな程度の、何か。それをどこからか、感じる。正体は分からない。良いものなのか、悪いものなのかの区別も、私にはできない。
しかし2、3人の審神者が顔を真っ青にして立ち上がったのを目にした瞬間。
鼓膜が破れそうなほどのサイレンが、研修室に響き渡った。
途端にざわついた審神者たちが不安そうに顔を見合わせる。無意味に辺りを見回したり、立ち上がってドアの方を見つめたり、若い審神者同士で身を寄せ合っている姿も見える。やがてサイレンにまぎれて、おそらく政府職員によるアナウンスが流れた。
「緊急事態です。研修棟裏手に時間遡行軍が現れました。職員の指示に従って、速やかに避難してください。職員は周囲を確認し――」
悲鳴にも似た声がアナウンスをかき消した。
政府が管理する建物に時間遡行軍が現れる。時折注意喚起の回覧が回ってくることはあったが、まさか自分がそれを体験することになるとは誰も考えてはいなかっただろう。半分以上の審神者がパニック状態になり、研修室のドアに向かって走り出す。周囲のことなど気にしてはいられないのだろう、ある審神者は荷物を抱え、ある審神者はパイプ椅子をなぎ倒しながら、逃げ道へと向かう。
(え、え、どうしたらいいの? 職員さんが誘導してくれるって言ってなかった?)
この研修室にも政府の職員はいる。前方の端の方に座っていた男性と女性が「落ち着いて!」と声を張り上げているのが見えた。きっと彼らがそうだ。しかし混乱状態の審神者たちの耳に、彼らの指示は入っていかない。入っている私とて冷静ではなく、どうすればいいのか分からずに佇んでいるだけだ。逃げようとしない半数は私と同じ状態なのだろう。困惑した様子で周囲を窺っていた。
「ど、どうすればっ……えっ、逃げちゃっていいんですか!? 残ってればいいんですか!?」
私と同じく立ったまま佇んでいた隣の審神者が、泣きそうな声を張り上げた。誰に対して言ったものでもなかったのだろう、ただ狼狽えて、スマホを握りしめている。
(あ、あれ? 確か前の研修で、こういうときの対処って聞いたよね? 敵の進軍方向とは逆に逃げるから、えっと、今は裏口から入ってきてるから、逆、逆? 逆ってどこ? 正面玄関? あれ?)
頭の中が無意味にぐるぐると回転する。自分もすっかり混乱しきっていることには気がついていたが、それでも冷静さを保つことが難しい。あちこちから聞こえる悲鳴や泣き声に、少しずつ怒声が混じり始める。一層掻き立てられた不安が次々と審神者の間に伝播し、パニックを煽る。
足が動かない。頭の動きも鈍い。どうすればいいのかが分からない。完全にパニックに飲まれてしまった。ただ立ちすくみ、成り行きを見守ることしかできない。
(怖い)
手が、足が、震え始める。
自分たちが戦の最前線にいることは、理屈では分かっていた。しかし実感が伴っていたわけではないのだと、痛いほどに理解する。遠くから、大きな音が聞こえた。悲鳴が上がる。床から伝わるわずかな振動に、足がすくむ。職員が何かを叫ぶ声が、うまく聞き取れない。
(どうしよう。どうしたら)
混乱のあまり、意識がどこかに遠退いていたのだろう。ハッと目の前に明瞭になったのは、誰かに肩を揺さぶられたからだった。
「逃げましょう! 急いで!」
昼前に話をした、男性審神者だった。小豆長光とやりとりをしていたときの頼りない姿はどこへ行ったのか、焦りは滲ませているものの、そのまなざしは冷静だ。彼は私の肩を押し、隣の女性審神者の手を掴むと政府職員の方へ向かって走り始める。
「あの人たちの指示に従えば多分大丈夫! 下から来るみたいだから上に逃げてください!」
言われるがまま、人だかりが解消されてきた研修室の入り口に向かう。彼が言う通り、確かに職員たちは階段で上に避難するよう指示していた。外に出る順番を待つ間、男性審神者は「俺、3回目なんです」と、不穏なことを言って苦笑する。
「子どもの頃から何回も政府に来てたから、襲撃に合う確率も高くて」
「でっ、でも、ここにいるってことは、逃げられたってことですよね!?」
「基本的には指示を守れば大丈夫。政府所属の男士たちが戦ってるはずだし、みんなが連れてきた近侍もすぐに追いついてくれる」
「良かった……!」
涙混じりではあったが顔を明るくさせる少女に、彼はそれ以上は言わなかった。
基本的には、彼が言う通りなのだろう。しかし戦には例外がつきもの。何が起こるかは分からないし、それが誰に降りかかるものなのかも分からない。
(とにかく逃げて、生き延びなきゃ)
男性審神者のおかげで冷静さを取り戻した頭が、ようやく周囲の様子を背景ではなく情報として認識する。まもなく廊下に出られそうだが、依然パニック状態の審神者たちはてんでバラバラの方向に逃げている。上階に続く階段がどこにあるのか、私もすべてを把握できているわけではない。職員は左手奥の階段から逃げるよう誘導しているが、きっとそれより近い場所にも階段があるのだろう。多くの審神者はその場所に向かおうとしている。
「ど、どこに行けば……?」
女性審神者が迷うように男性審神者を見た。彼は前方を見据えたまま「指示に従いましょう」と短く答えた。
私たちの後ろにはまだ逃げられていない審神者がいた。戦闘をしているのだろう、物が壊れるような音や怒号が、少しずつ近づいてくるように感じる。焦った審神者たちは後ろから前方の審神者を押し、間にいた私たちは圧迫されて苦しさを感じるほどだった。
ややあって、ようやく研修室を出ることができた。押し出されるように飛び出した廊下は引き続きパニック状態で、悲鳴や泣き声が飛び交っている。件の男性審神者は人の波に飲まれて押し流されてしまったようで、同じく流されそうになっていた女性審神者の腕を引っ張って廊下の端に寄せた。特に縁や責任があるわけではなかったが、ここまで来たからには一緒に逃げるべきだと思った。
「一緒に行きましょう。職員さんが言う通り、あっちの階段に」
「で、でもみんな、別の方に行って……」
「わ、分からないけど、職員さんの指示には意味があるはずだから……!」
それ以外の根拠はなかったが、彼女の手を引いて走り出す。私よりもずっと年下であろう彼女は、迷いつつもそれに従ってくれた。
お互いにスーツにパンプスを着用していたため、走ること自体が困難を極めた。スニーカーのように全力で走ることはもちろんできないし、ちょっとした段差や障害物で躓きそうになる。いっそ裸足で走ることも考えたが、もし逃げた先で戦闘が起こっていれば、足元にも危険がある。靴はあった方がマシだろう。肩で息をしながら、少女を励ましつつ階段を上る。
研修室近くの階段は別の階から避難してきた人々でひしめき合っていたらしく、少しずつこちらの階段にも人が流れてきた。息も切れ切れなのは皆同じだ。身軽さは個人差としか言い様がない。軽々と私たちを抜いていく人も、私たちが追い越した人たちもいた。
「このまま屋上まで逃げてください!」
職員の指示に絶望的な気分になった。正直なところ、今の時点で体力は限界に近い。気管の奥は燃えるように熱く、慣れないパンプスで走り続けてきた足は痛みを訴え始めている。後ろの少女も疲れと恐怖を訴え、さめざめと泣き始めてしまった。それなのに屋上まではあと半分以上ある。
(いやいや、逃げなくてどうする。生きて逃げてれば……大般若が来てくれる。絶対に。信じよう)
乾いてきた喉をごくりと鳴らし、座りこんだ少女の手を引く。彼女も死にたくはないのだろう、泣きながら重たい腰を上げた。
「近侍が迎えに来てくれる。がんばろう」
こくりと頷く彼女に笑いかけ、次の階段を見据える。今まで上がってきたのと同じ段数しかないはずだが、それよりもずっと長い道のりに思えた。それでも足を止めるという選択肢は、ない。覚悟を決めて足を一歩踏み出す。しかしそこで、足を止めた。
「お姉さん……?」
少女が不思議そうに私を呼び――短い悲鳴を上げた。
階段の上。次のフロアに進むための狭い踊り場。
そこに、異形の者がいる。
天井に届きそうなほどの大きい体躯。黒く長い髪の毛の合間から伸びる2本の角は鬼そのもの。胴体にぐるりと巻き付く骨はまるで蛇だ。わずかに見える顔はおそろしく歪んで見える。赤く光る眼は近侍と同じ色をしているはずなのに、禍々しさだけを感じさせる。肩に担いだ彼の本体の先からは、赤い液体が滴っていた。
時間遡行軍。大太刀。
きっと上階を蹂躙してきたのだろう彼は、私たちを見ると低い唸り声を上げた。
「こっち!」
少女の手を引いて踵を返す。下に降りるわけにはいかない。どこに続くかも分からない廊下に飛び出し、避難誘導を続けていた職員の横をすり抜けてまっすぐに駆ける。気管が熱いだの足が痛いだの言っている場合ではない。遠く後ろから聞こえた悲鳴に振り向き、怯えている場合でもない。とにかく逃げなければ。
(なんで、上に逃げろって言ってたくせに! 嘘じゃん!)
きっと職員たちも混乱していたのだろうことは想像できるが、それでも心の中で叫ばずにはいられなかった。指示に従って逃げたのに、何故こんな目に合わなければならないのだろう。壁や天井を破壊しながら私たちを追ってくる恐ろしい気配が、少しずつ近づいてくる。私たちが向かう方向にいる審神者や職員も悲鳴を上げて逃げ惑っていた。おそらく私たちの後ろには誰もいない。いたとしても、あの分厚く長い大太刀に、切り裂かれてしまったのだろう。刃を伝っていた血液が頭をよぎり、ぞっと背筋が震え――足元に転がっていた誰かの靴の存在に、気がつくのが遅れた。
「うわっ」
パンプスの先を靴に引っかけ、体のバランスが崩れる。咄嗟に少女の手を離せたことだけは良い判断だっただろう。私だけが正面から転び、腕と胴体をしたたかに床に打ちつける。胸から強制的に吐き出された息が苦しい。体の下敷きになった腕には鈍い痛みが宿り、抜けていってはくれない。もう片方の手で体を支えて起き上がると、少女が隣から体を支えて立ち上がらせてくれた。
「大丈夫!? 走れますか!?」
ほとんど泣きながら叫ぶ少女に頷き、後方に視線をやる。大太刀は少しずつこちらに迫っている。おそらくあと5メートルと少し。いずれ追いつかれるかもしれないが、まだ逃げる余地はあるだろう。再び少女の手を取り、足を踏み出す。その瞬間、右足に激痛が走った。思わずうずくまり、歯を食いしばって痛みをやりすごす。転んだときに捻ったのかもしれない。手で触れると、再び激痛が走り抜けた。
(このままじゃ走れない)
しかし走れなければ、ここで死ぬだけ。それだけはまっぴらごめんだ。
しゃがんだまま、ツートーンのパンプスを見下ろす。この先のことよりも目先の命を取るべき場面だ。迷っている暇はない。足の裏が傷つこうが、このパンプスを失おうが、それは些細なことだ。
(一生懸命選んだのに。かわいいって思ってほしくて。素敵だって褒めてほしくて。今朝も、せっかく彼がきれいに守ってくれたのに)
脳裏によぎった感傷を切り捨て、パンプスを脱ぐ。気づかわしげな少女に「大丈夫」と笑いかけ、再び立ち上がった。
足を踏み出すたび、右足は痛んだ。走り方がおかしかったから、きっと少女も怪我を負ったことを察していただろう。しかし彼女は何も言わず、隣を走り続ける。最早周囲に人の気配はなかった。私の耳に入ってはいなかったが、避難経路を変更するアナウンスでも入っていたのかもしれない。助けを求めたところで無意味だが、心の中ではひたすらに祈り続けていた。
(大丈夫。生き残れる。助けは来る。絶対大丈夫。言ってたもの。……迎えに来るって)
走るスピードが徐々に落ちていくのが分かる。少女も体力の限界なのだろう、泣きじゃくりながら、近侍なのであろう謙信景光の名を繰り返しつぶやいていた。
後ろから迫る物音が近い。
呼吸が苦しい。
足が痛い。
でも足を止めたくはない。最後まで諦めたくない。
(大丈夫。まだ生きてる。生きてる限りは、見つけてくれる)
根拠のない期待を胸に抱き、ただただ、真っ直ぐ前を見据える。
時間遡行軍はかなり間近に迫っている。刀を振り回し、壁や天井を砕く音が聞こえる。飛び散った破片が背中に当たり、飛び出そうになった悲鳴を押し殺す。
幸いなことに廊下はずっと続いていた。あと数メートルで角があるが、きっとその先にも続いている。逃げ続けていれば、その分だけ生きられるのだ。だから道が続いていることが、何よりも重要なのだと自分を励ます。
(まずはあの角。あそこまでは絶対に逃げる)
ちらりと見えた右足首は、赤黒く腫れあがっていた。走れていることが不思議なくらいだと、頭のどこかで考える。きっと一度でも足を止めたら、次は走り出すことはできないだろう。だから止まらない。走り続ける。
(でも、止まったら楽だろうなぁ)
足や肺の痛みとも、後ろを直視できないほどの恐怖とも、別れることができる。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、それが魅力的に思えたが、それでもまた次の一歩を踏み出すことができたのは――廊下の角から見えた美しい銀の糸と、それを束ねるピンク色のリボンのおかげだった。
「主人!」
見たことがないくらいに赤い双眸を見開いた大般若長光が、数メートル先にいる。
まぎれもない、私の刀。待ち望んでいた存在。
視線がぶつかり、彼が私を呼んだその瞬間。遠のいていた現実感が眼前に迫り、急激に視界と意識が明瞭になった気がした。
「っ、この子を!」
左手でつかんでいた手を引っ張り、無理やり前に押し出した。
最初からそうしようと思っていたわけではない。ただ彼の顔を見た瞬間、まるでそうすることが決まっていたかのように、体が動いてしまった。
前に向かって押し出された少女は、その勢いのまま大般若の元まで走り抜ける。彼は彼女の体を受け止めるとすぐさま後ろに押しやり、抜刀しながら足を踏み出す。
いつだって冷静な彼が歯を食いしばるようにして顔を歪めているのが見えた。焦燥を、隠せずにいたのだと思う。
理由は私だ。
少女の背を押した瞬間に足が止まり、崩れ落ちてしまった。
それでも諦める姿を近侍に見せたくはなくて、這いつくばるようにして、前に進む。
振り向かなくても分かるほど近くに、禍々しい気配を感じた。大きく踏み込んだ大般若が大太刀を砕くのが先か、私の首が飛ぶのが先か――おそらく後者だろう。だとしても、必死に手を動かして、進む。
ひゅっと、鋭い刃が空気を裂く音が耳元で聞こえた。
ランチが終わり、地下通路を通って研修室に戻ってきても変に目を泳がせる私を、大般若が咎めることはなかった。
「午後も励んできてくれ。終わる頃、迎えにくるよ」
ぽんと肩に手を置いてから、大般若は研修室をあとにした。ほんの数秒手が置かれただけの場所に、いつまでもその感覚が残っている。右肩だけが重たいような、熱いような、妙な感覚。明らかに浮き足立っている自分が恥ずかしくて朝のようにテーブルに突っ伏すと、隣の席の審神者が「大丈夫ですか?」と声をかけてきた。10代後半に見える女性の審神者は、朝から様子がおかしい私を心配してくれていたらしい。他人にしょうもない奇行を見られていたことからより一層恥ずかしさが増し、愛想笑いを浮かべて背筋を伸ばした。
午後の研修中も、講義の内容は一切頭に入ってこなかった。今朝からのやりとりと、今後のことを想像しては青くなったり赤くなったりを繰り返す。桜を降らせるほど喜んでくれたのは、彼も少なからず私を思ってくれている証だろう。しかしその愛情が主に対するものなのか、それとももっと特別な何かなのか、判断することができない。
彼に直接答えを聞いてしまってもいいのだろうか。私が自分の思いを伝えることが先なのか。彼は大人だから、あまり直接的なやりとりは好まないかもしれない。もっと大人びた駆け引きを楽しむべきなのだろうか。私にそんなことができるのか。そもそも、この期待をぶつけて砕け散ることはないのか。
思考がぐるぐると同じところを行き来しては、小さなため息となって音も立てずに口から出ていく。隣の審神者が私の体調を気にしてチラチラとこちらを見ていたが、それも気にならないほど頭の中は大般若のことでいっぱいだった。
「……?」
研修も半ばを過ぎた頃だった。
不意に違和感を覚えて顔を上げる。特に何かが聞こえたわけでも、見えたわけでもない。しかしどこかに何か、違和感がある。他にも何人かの審神者が周囲をキョロキョロと見回しているのが見え、私だけではなかったのかと改めて視線を巡らせる。
言い様のない違和感だ。例えば遥か遠くから聞こえるわずかな犬の遠吠え。あるいは床下を通り抜けるネコの気配。そんな程度の、何か。それをどこからか、感じる。正体は分からない。良いものなのか、悪いものなのかの区別も、私にはできない。
しかし2、3人の審神者が顔を真っ青にして立ち上がったのを目にした瞬間。
鼓膜が破れそうなほどのサイレンが、研修室に響き渡った。
途端にざわついた審神者たちが不安そうに顔を見合わせる。無意味に辺りを見回したり、立ち上がってドアの方を見つめたり、若い審神者同士で身を寄せ合っている姿も見える。やがてサイレンにまぎれて、おそらく政府職員によるアナウンスが流れた。
「緊急事態です。研修棟裏手に時間遡行軍が現れました。職員の指示に従って、速やかに避難してください。職員は周囲を確認し――」
悲鳴にも似た声がアナウンスをかき消した。
政府が管理する建物に時間遡行軍が現れる。時折注意喚起の回覧が回ってくることはあったが、まさか自分がそれを体験することになるとは誰も考えてはいなかっただろう。半分以上の審神者がパニック状態になり、研修室のドアに向かって走り出す。周囲のことなど気にしてはいられないのだろう、ある審神者は荷物を抱え、ある審神者はパイプ椅子をなぎ倒しながら、逃げ道へと向かう。
(え、え、どうしたらいいの? 職員さんが誘導してくれるって言ってなかった?)
この研修室にも政府の職員はいる。前方の端の方に座っていた男性と女性が「落ち着いて!」と声を張り上げているのが見えた。きっと彼らがそうだ。しかし混乱状態の審神者たちの耳に、彼らの指示は入っていかない。入っている私とて冷静ではなく、どうすればいいのか分からずに佇んでいるだけだ。逃げようとしない半数は私と同じ状態なのだろう。困惑した様子で周囲を窺っていた。
「ど、どうすればっ……えっ、逃げちゃっていいんですか!? 残ってればいいんですか!?」
私と同じく立ったまま佇んでいた隣の審神者が、泣きそうな声を張り上げた。誰に対して言ったものでもなかったのだろう、ただ狼狽えて、スマホを握りしめている。
(あ、あれ? 確か前の研修で、こういうときの対処って聞いたよね? 敵の進軍方向とは逆に逃げるから、えっと、今は裏口から入ってきてるから、逆、逆? 逆ってどこ? 正面玄関? あれ?)
頭の中が無意味にぐるぐると回転する。自分もすっかり混乱しきっていることには気がついていたが、それでも冷静さを保つことが難しい。あちこちから聞こえる悲鳴や泣き声に、少しずつ怒声が混じり始める。一層掻き立てられた不安が次々と審神者の間に伝播し、パニックを煽る。
足が動かない。頭の動きも鈍い。どうすればいいのかが分からない。完全にパニックに飲まれてしまった。ただ立ちすくみ、成り行きを見守ることしかできない。
(怖い)
手が、足が、震え始める。
自分たちが戦の最前線にいることは、理屈では分かっていた。しかし実感が伴っていたわけではないのだと、痛いほどに理解する。遠くから、大きな音が聞こえた。悲鳴が上がる。床から伝わるわずかな振動に、足がすくむ。職員が何かを叫ぶ声が、うまく聞き取れない。
(どうしよう。どうしたら)
混乱のあまり、意識がどこかに遠退いていたのだろう。ハッと目の前に明瞭になったのは、誰かに肩を揺さぶられたからだった。
「逃げましょう! 急いで!」
昼前に話をした、男性審神者だった。小豆長光とやりとりをしていたときの頼りない姿はどこへ行ったのか、焦りは滲ませているものの、そのまなざしは冷静だ。彼は私の肩を押し、隣の女性審神者の手を掴むと政府職員の方へ向かって走り始める。
「あの人たちの指示に従えば多分大丈夫! 下から来るみたいだから上に逃げてください!」
言われるがまま、人だかりが解消されてきた研修室の入り口に向かう。彼が言う通り、確かに職員たちは階段で上に避難するよう指示していた。外に出る順番を待つ間、男性審神者は「俺、3回目なんです」と、不穏なことを言って苦笑する。
「子どもの頃から何回も政府に来てたから、襲撃に合う確率も高くて」
「でっ、でも、ここにいるってことは、逃げられたってことですよね!?」
「基本的には指示を守れば大丈夫。政府所属の男士たちが戦ってるはずだし、みんなが連れてきた近侍もすぐに追いついてくれる」
「良かった……!」
涙混じりではあったが顔を明るくさせる少女に、彼はそれ以上は言わなかった。
基本的には、彼が言う通りなのだろう。しかし戦には例外がつきもの。何が起こるかは分からないし、それが誰に降りかかるものなのかも分からない。
(とにかく逃げて、生き延びなきゃ)
男性審神者のおかげで冷静さを取り戻した頭が、ようやく周囲の様子を背景ではなく情報として認識する。まもなく廊下に出られそうだが、依然パニック状態の審神者たちはてんでバラバラの方向に逃げている。上階に続く階段がどこにあるのか、私もすべてを把握できているわけではない。職員は左手奥の階段から逃げるよう誘導しているが、きっとそれより近い場所にも階段があるのだろう。多くの審神者はその場所に向かおうとしている。
「ど、どこに行けば……?」
女性審神者が迷うように男性審神者を見た。彼は前方を見据えたまま「指示に従いましょう」と短く答えた。
私たちの後ろにはまだ逃げられていない審神者がいた。戦闘をしているのだろう、物が壊れるような音や怒号が、少しずつ近づいてくるように感じる。焦った審神者たちは後ろから前方の審神者を押し、間にいた私たちは圧迫されて苦しさを感じるほどだった。
ややあって、ようやく研修室を出ることができた。押し出されるように飛び出した廊下は引き続きパニック状態で、悲鳴や泣き声が飛び交っている。件の男性審神者は人の波に飲まれて押し流されてしまったようで、同じく流されそうになっていた女性審神者の腕を引っ張って廊下の端に寄せた。特に縁や責任があるわけではなかったが、ここまで来たからには一緒に逃げるべきだと思った。
「一緒に行きましょう。職員さんが言う通り、あっちの階段に」
「で、でもみんな、別の方に行って……」
「わ、分からないけど、職員さんの指示には意味があるはずだから……!」
それ以外の根拠はなかったが、彼女の手を引いて走り出す。私よりもずっと年下であろう彼女は、迷いつつもそれに従ってくれた。
お互いにスーツにパンプスを着用していたため、走ること自体が困難を極めた。スニーカーのように全力で走ることはもちろんできないし、ちょっとした段差や障害物で躓きそうになる。いっそ裸足で走ることも考えたが、もし逃げた先で戦闘が起こっていれば、足元にも危険がある。靴はあった方がマシだろう。肩で息をしながら、少女を励ましつつ階段を上る。
研修室近くの階段は別の階から避難してきた人々でひしめき合っていたらしく、少しずつこちらの階段にも人が流れてきた。息も切れ切れなのは皆同じだ。身軽さは個人差としか言い様がない。軽々と私たちを抜いていく人も、私たちが追い越した人たちもいた。
「このまま屋上まで逃げてください!」
職員の指示に絶望的な気分になった。正直なところ、今の時点で体力は限界に近い。気管の奥は燃えるように熱く、慣れないパンプスで走り続けてきた足は痛みを訴え始めている。後ろの少女も疲れと恐怖を訴え、さめざめと泣き始めてしまった。それなのに屋上まではあと半分以上ある。
(いやいや、逃げなくてどうする。生きて逃げてれば……大般若が来てくれる。絶対に。信じよう)
乾いてきた喉をごくりと鳴らし、座りこんだ少女の手を引く。彼女も死にたくはないのだろう、泣きながら重たい腰を上げた。
「近侍が迎えに来てくれる。がんばろう」
こくりと頷く彼女に笑いかけ、次の階段を見据える。今まで上がってきたのと同じ段数しかないはずだが、それよりもずっと長い道のりに思えた。それでも足を止めるという選択肢は、ない。覚悟を決めて足を一歩踏み出す。しかしそこで、足を止めた。
「お姉さん……?」
少女が不思議そうに私を呼び――短い悲鳴を上げた。
階段の上。次のフロアに進むための狭い踊り場。
そこに、異形の者がいる。
天井に届きそうなほどの大きい体躯。黒く長い髪の毛の合間から伸びる2本の角は鬼そのもの。胴体にぐるりと巻き付く骨はまるで蛇だ。わずかに見える顔はおそろしく歪んで見える。赤く光る眼は近侍と同じ色をしているはずなのに、禍々しさだけを感じさせる。肩に担いだ彼の本体の先からは、赤い液体が滴っていた。
時間遡行軍。大太刀。
きっと上階を蹂躙してきたのだろう彼は、私たちを見ると低い唸り声を上げた。
「こっち!」
少女の手を引いて踵を返す。下に降りるわけにはいかない。どこに続くかも分からない廊下に飛び出し、避難誘導を続けていた職員の横をすり抜けてまっすぐに駆ける。気管が熱いだの足が痛いだの言っている場合ではない。遠く後ろから聞こえた悲鳴に振り向き、怯えている場合でもない。とにかく逃げなければ。
(なんで、上に逃げろって言ってたくせに! 嘘じゃん!)
きっと職員たちも混乱していたのだろうことは想像できるが、それでも心の中で叫ばずにはいられなかった。指示に従って逃げたのに、何故こんな目に合わなければならないのだろう。壁や天井を破壊しながら私たちを追ってくる恐ろしい気配が、少しずつ近づいてくる。私たちが向かう方向にいる審神者や職員も悲鳴を上げて逃げ惑っていた。おそらく私たちの後ろには誰もいない。いたとしても、あの分厚く長い大太刀に、切り裂かれてしまったのだろう。刃を伝っていた血液が頭をよぎり、ぞっと背筋が震え――足元に転がっていた誰かの靴の存在に、気がつくのが遅れた。
「うわっ」
パンプスの先を靴に引っかけ、体のバランスが崩れる。咄嗟に少女の手を離せたことだけは良い判断だっただろう。私だけが正面から転び、腕と胴体をしたたかに床に打ちつける。胸から強制的に吐き出された息が苦しい。体の下敷きになった腕には鈍い痛みが宿り、抜けていってはくれない。もう片方の手で体を支えて起き上がると、少女が隣から体を支えて立ち上がらせてくれた。
「大丈夫!? 走れますか!?」
ほとんど泣きながら叫ぶ少女に頷き、後方に視線をやる。大太刀は少しずつこちらに迫っている。おそらくあと5メートルと少し。いずれ追いつかれるかもしれないが、まだ逃げる余地はあるだろう。再び少女の手を取り、足を踏み出す。その瞬間、右足に激痛が走った。思わずうずくまり、歯を食いしばって痛みをやりすごす。転んだときに捻ったのかもしれない。手で触れると、再び激痛が走り抜けた。
(このままじゃ走れない)
しかし走れなければ、ここで死ぬだけ。それだけはまっぴらごめんだ。
しゃがんだまま、ツートーンのパンプスを見下ろす。この先のことよりも目先の命を取るべき場面だ。迷っている暇はない。足の裏が傷つこうが、このパンプスを失おうが、それは些細なことだ。
(一生懸命選んだのに。かわいいって思ってほしくて。素敵だって褒めてほしくて。今朝も、せっかく彼がきれいに守ってくれたのに)
脳裏によぎった感傷を切り捨て、パンプスを脱ぐ。気づかわしげな少女に「大丈夫」と笑いかけ、再び立ち上がった。
足を踏み出すたび、右足は痛んだ。走り方がおかしかったから、きっと少女も怪我を負ったことを察していただろう。しかし彼女は何も言わず、隣を走り続ける。最早周囲に人の気配はなかった。私の耳に入ってはいなかったが、避難経路を変更するアナウンスでも入っていたのかもしれない。助けを求めたところで無意味だが、心の中ではひたすらに祈り続けていた。
(大丈夫。生き残れる。助けは来る。絶対大丈夫。言ってたもの。……迎えに来るって)
走るスピードが徐々に落ちていくのが分かる。少女も体力の限界なのだろう、泣きじゃくりながら、近侍なのであろう謙信景光の名を繰り返しつぶやいていた。
後ろから迫る物音が近い。
呼吸が苦しい。
足が痛い。
でも足を止めたくはない。最後まで諦めたくない。
(大丈夫。まだ生きてる。生きてる限りは、見つけてくれる)
根拠のない期待を胸に抱き、ただただ、真っ直ぐ前を見据える。
時間遡行軍はかなり間近に迫っている。刀を振り回し、壁や天井を砕く音が聞こえる。飛び散った破片が背中に当たり、飛び出そうになった悲鳴を押し殺す。
幸いなことに廊下はずっと続いていた。あと数メートルで角があるが、きっとその先にも続いている。逃げ続けていれば、その分だけ生きられるのだ。だから道が続いていることが、何よりも重要なのだと自分を励ます。
(まずはあの角。あそこまでは絶対に逃げる)
ちらりと見えた右足首は、赤黒く腫れあがっていた。走れていることが不思議なくらいだと、頭のどこかで考える。きっと一度でも足を止めたら、次は走り出すことはできないだろう。だから止まらない。走り続ける。
(でも、止まったら楽だろうなぁ)
足や肺の痛みとも、後ろを直視できないほどの恐怖とも、別れることができる。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、それが魅力的に思えたが、それでもまた次の一歩を踏み出すことができたのは――廊下の角から見えた美しい銀の糸と、それを束ねるピンク色のリボンのおかげだった。
「主人!」
見たことがないくらいに赤い双眸を見開いた大般若長光が、数メートル先にいる。
まぎれもない、私の刀。待ち望んでいた存在。
視線がぶつかり、彼が私を呼んだその瞬間。遠のいていた現実感が眼前に迫り、急激に視界と意識が明瞭になった気がした。
「っ、この子を!」
左手でつかんでいた手を引っ張り、無理やり前に押し出した。
最初からそうしようと思っていたわけではない。ただ彼の顔を見た瞬間、まるでそうすることが決まっていたかのように、体が動いてしまった。
前に向かって押し出された少女は、その勢いのまま大般若の元まで走り抜ける。彼は彼女の体を受け止めるとすぐさま後ろに押しやり、抜刀しながら足を踏み出す。
いつだって冷静な彼が歯を食いしばるようにして顔を歪めているのが見えた。焦燥を、隠せずにいたのだと思う。
理由は私だ。
少女の背を押した瞬間に足が止まり、崩れ落ちてしまった。
それでも諦める姿を近侍に見せたくはなくて、這いつくばるようにして、前に進む。
振り向かなくても分かるほど近くに、禍々しい気配を感じた。大きく踏み込んだ大般若が大太刀を砕くのが先か、私の首が飛ぶのが先か――おそらく後者だろう。だとしても、必死に手を動かして、進む。
ひゅっと、鋭い刃が空気を裂く音が耳元で聞こえた。