君恋いわたる今日のながめ(般若さに)
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
資料を読み上げるだけの研修が終わり、ざわつき始めた研修室で小さなチョコを口に放り込む。噛み砕いてしまわないようコロコロと舌の上を転がせば、あっという間に口の中がチョコまみれになってしまった。座り続けることに疲れたこの身には、しっかりとした甘味がありがたい。これから昼食を控えていたが、大般若の読み通り、彼の到着が待ち遠しいほどに私は空腹だった。
いち早く近侍と合流した審神者や、知り合い同士であいさつを交わしている審神者をぼんやりと見つめる。政府内の食堂は一般にも開放されているため、私たちも使うことができる。しかしせっかく現世まで来たのだ、彼と一緒にランチに出かけたい気持ちもある。かと言って外に出てしまえば、土砂降りの雨が私たちを出迎えることだろう。本丸までの転送ゲートはこの建物直通だから、一度帰宅することもできる。どうしたものかと思案にくれていると、ふと視界に陰がかかった。
「お久しぶりです」
「あ、どうも」
何かの折に言葉を交わしたことがある男性審神者が、愛想よく私を見下ろしていた。私だけ座っているのは失礼な気がして、事務的に立ち上がる。おそらくあちらも近侍を待っている間に暇を持て余していたのだろう、ありきたりなあいさつのあとは、この辺りで良い店は知らないかと情報交換が始まる。お互いにあまり外に出歩くタイプではなかったため実のある話にはならなかったが、適度な時間潰しにはなっていた。
「今日は誰と一緒に?」
「小豆長光と。甘いものだけじゃなくて、食事にもうるさくて」
「長船はこだわりが強い刀が多いから」
「あなたは? 前は大般若長光を連れていたような」
「よく覚えてますね。今日も大般若と来たんです。なんでも食べる刀だから、そちらよりは楽に店を決められそう」
「え、あんな高級フレンチ以外食べなさそうな顔なのに?」
「オフィス街のスピード命! みたいな店のでっかいとんかつとか好きですよ」
以前、書類提出のために政府の窓口を訪問したときは、近くの定食屋でサラリーマンに混じって食事をした。大般若は喜んで日替わり定食を食べていたように思う。勇んで挑戦したわりに胃は大きくないようで途中でギブアップしてしまい、残りを私が平らげたのは良い思い出だ。自分の分も含めて完食した私をまじまじと見て、大般若は「本当に今の量がその体に収まったのかい?」と不思議そうな顔をしていた。
くすくすと笑い合いながら、雑談に花を咲かせる。彼の小豆長光は食に相当なこだわりがあるようで、最終的には一度本丸に戻って燭台切の食事を食べさせた方が良いのではないかと結論が出そうになった、そのとき。ふと、こちらに向かってくる足音が聞こえた。振り向けば私の大般若長光が歩いてくるところで、視線がぶつかると彼は少し目を丸くする。しかしすぐに気を取り直したのか、「待たせたね」と薄く笑みを浮かべた。さりげなく確認した右肩は、乾いているように見えた。
「全然待ってないよ。あの、チョコとか、いろいろありがとう」
「礼には及ばないさ。そちらは?」
「前にお話したことある審神者さん。小豆長光を待ってるんだって」
「へえ? ……主人が世話になったようだ。礼を言おう」
「へっ!? い、いや別に、そんなたいしたことは……?」
大般若は狼狽える審神者にポケットから取り出したチョコを握らせると、今度は私の方へと向き直る。
「さて、忙しなくて悪いが、休憩時間は短いんだろう? 近くに良い店があるようだから、少し外に出ないか?」
「調べてくれたの?」
「時間を潰しているときにたまたま聞いてね。この建物から地下通路を通って行けるようだから、雨に濡れることもない」
外に出ると言われた時点で当然雨のことは頭によぎっていたが、さすが大般若長光。抜け目ない。内心で胸をなでおろしながら手荷物をまとめ、男性審神者に会釈をしてから大般若の後ろに続く。普段はゆったりと隣を歩いてくれるはずの彼が、少し足早に前を行くのは珍しい。立ち止まっている審神者や刀剣男士の合間を縫ってなんとかすぐ後ろまで追いついたとき、ふと、銀髪の合間から覗く首筋に、汗が伝っているのを見つけた。
「大般若、外って暑かった?」
「うん?」
斜め後ろから問いかけると、大般若は少し首を傾げて私を見下ろした。さらさらと肩から流れ落ちる銀の髪の毛は、高級な糸の束のように美しく、目を奪われる。当の大般若は自身がやや汗ばんでいる自覚はないようで、「むしろ涼しいくらいだったよ」と続けた。
「じゃあ、急いで来てくれたの?」
「そりゃあ……主人を待たせるわけにはいかないからなぁ」
研修室を出て廊下を歩きだした頃には、大般若は歩くペースを落としてゆったりとした足取りで隣に並んだ。あまり腑に落ちなかったので、曖昧な相槌だけを打って前を向く。
審神者と刀剣男士で溢れかえる廊下は賑やかだった。刀剣男士の存在そのものが華やかで、それが動き、言葉を交わし、笑っていれば、無機質な廊下のそこここに花が咲いたように明るい雰囲気が作られる。一緒に過ごしている審神者たちも多くは朗らかで善良に振る舞っている。審神者同士で諍いが起こることもあるとは聞くが、私はそのような現場に出くわしたことはない。わいわいと楽しげに過ごす刀と人の間を、ふたりで歩む。
「確かに急いではいたんだが」
人の壁が途切れた辺りで、ぽつりと言葉が落ちてきた。反射的に隣を見上げれば、赤い双眸も私を見下ろしている。珍しくやや下がった眉尻に少しだけ疲労感を感じたが、彼は疲れではなく別の何かを訴えた。
「妬けちまってな」
「……うん?」
話の流れが読めず、眉を寄せる。
妬けた。
誰が、誰に、いつ?
大般若の言わんとするところが分からず眉を寄せると、彼は今度こそはっきりと眉を下げ、「あの審神者に」と、背後の喧騒にまぎれそうな声で言った。
「あんたがやたら楽しそうに話してるもんだから、年甲斐もなく慌てちまった」
大般若長光は顔にかかった前髪をかき上げながら、首元を少しだけ緩めるような仕草をする。指の隙間から零れた銀の糸が苦く笑う横顔に垂れ、その隙間から見える赤い瞳が横目でこちらの様子を窺っていた。ふうと小さく吐き出された息がなんだかいたたまれなくて、こちらが慌てて視線を外す。真っ直ぐ前、廊下のつきあたりにある窓には、予報以上に強い雨がざあざあと打ちつけられていた。
(何か、何か言わなきゃ)
何か言葉を返さなければ不自然だ。彼は本心で言っているわけではない。黙り込んでしまっては、私が本気で受け止めたように見えるだろう――実際、本気で受け止めようとしている心を理性がつなぎとめている状態ではあるが、それでも表面上は私も冗談として受け流すべきところだ。
しかしうまく言葉が出てこない。思いがけない発言に、頭が真っ白に染まっている。
(ほんとに、本当に妬いてくれたってことは、ないのかな)
心臓が、妙な具合に脈打つ。
私が他の男性と楽しそうに話していたから、靴音を立てることも厭わず慌てて駆け寄ってきてくれた。だから汗をかいていたし、今も少しだけ疲れている。
それが冗談ではなく事実だということは、本当にありえないのだろうか。
期待が、胸に咲く。
それが大人っぽい切り返しではなく、私自身の本心を、舌に乗せようとする。
恐る恐る、視線をもう一度、斜め上に移す。
おもしろそうに細められているはずの赤い瞳は予想に反し、丸く開いて私の視線を受け止めた。
「主人――」
「そこのきみたち」
「っ、はいっ!?」
すぐそばで聞こえた第三者の声に、思わず大きな声が出た。ほとんど飛び跳ねるように大袈裟に振り向けば、1メートルも離れていない場所に立つ小豆長光がにこやかに私たちを見ていた。大きな体躯の後ろからちらりと見えた顔には覚えがある。先ほどの審神者と、彼が待っていた刀だった。
「主がかしをもらったときいて、おれいを」
「あ、小豆~……大丈夫だよ~……子どもじゃないんだから~……」
「本丸の主として、近侍として、れいぎをかくことはできない。そうおしえただろう?」
「そうだけど~……邪魔しない方がいいよ~」
たったそれだけの会話で彼らのパワーバランスを悟って笑みがこぼれる。
おそらく彼は幼少期から本丸で過ごしてきた審神者なのだろう。そういう本丸の場合、どうしても刀剣男士は保護者のようになってしまいがちだ。大般若もそれを察したのか「彼の礼儀正しさは父上譲りだったようだな」とからかうように小豆長光に笑みを向けた。小豆は怒るでもなく「そうであればいいんだが」と本当に保護者のようなことを言う。
「あまりそとにでたがらないこだから、またあったときはこえをかけてくれるとうれしい」
「覚えておくよ。うちの主人も、楽しく過ごさせてもらったようだから」
「主にじょせいをたのしませるさいのうがあったとは、はつみみだな」
「いつまでも子どものままじゃないだろうさ。主人なんて少し妬けるくらい笑っていて」
「わたしはにんしきをあらためなければいけないようだ。すまなかった、主」
「違うって~……あれはあちらの大般若の話をしてたからで~……」
「ちょっ」
「おや」
「へっ?」
へにゃへにゃと情けない声を出しながら小豆の袖を引き退散しようとしている審神者が、とんでもない爆弾を投下した。
確かに大般若の話はしていた。それは事実だ。笑っていたことも、また事実。しかしそれをこのタイミングで、そのように言われてしまっては、まるで私が大般若のことを思い出してニヤニヤと笑っていたように聞こえてしまうではないか。そのうえ大般若が冗談でも「妬いた」と言うくらい楽しそうにしていたということは、つまり、私が大般若を特別に思っているかのように見えてしまう。
(いや事実なんですけども)
事実ではあるが、それは大般若本人に告げていいことではない。
大般若がどのような顔をしているのか、見ることができない。かろうじて視界の範囲内に収まっている小豆長光は意外そうにまばたきをしたあと、片方の口角だけを上げて「はるとはいいものだな」と、私の隣に視線を送っている。男性審神者は自分の発言が場にそぐわないものであったと悟ったのだろう、顔面を蒼白にさせておろおろと私と大般若の間で視線を泳がせていた。
当の大般若長光は、無言だった。
(何か言ってよ……)
先ほどとは真逆の立ち位置になったが、一連のやりとりはすべて冗談だと受け止めてほしい。私の本心なんて、彼はまだ知らなくていい。自分のジャケットの裾をぎゅっと握り、完全に俯く。耳に熱を集まっていることは、今もまた気づかれてはいないだろう。まずは私の方が冷静になって、この場を切り抜ければいい。自慢の刀なのだと、そこに下心など少しだってないように笑ってみせればいい。それだけで終わりだ。
それなのに、はらりと舞い落ちた花びらが、喉の奥に言葉を押し戻してしまった。
たった一枚。足元に落ちた桜色の花弁が、床に触れる前にすっと消える。かと思えばまた一枚、また一枚と、はらはら落ちては消える花びらを追って、視線を上げる。
花びらの出どころたる男は口元をおさえ、私とは反対側に視線をやっていた。指の隙間から見える白い肌は、彼から落ちる花びらと同じ色に染まっていた。
「これは参ったな……」
難儀な体だと零す声は、少しだけ上擦って聞こえた。普段の冷静な彼からは程遠い姿に、ぽかんと口を開けて、見入る。頬の桜色は目じりに広がり、耳を染め上げ、首元まで浸食していく。銀の髪をくくるリボンが鮮やかに揺れ、ようやく視線だけが、私の方を向いた。
「浮かれるには十分な口説き文句だった」
「くっ……わ、私は何も、言ってないっていうか……!」
「目は口ほどに、ってやつかな。あんな顔で語ってもらえるとは男冥利に尽きる」
「かたなみょうり、ではなく?」
余計な茶々を入れる小豆長光を思わずにらむように見る。小豆は私のことなど視界に入っていないのか一切動じることなく、ただおもしろがるように大般若の返事を待っていた。
「言い違えたつもりはないよ」
「そうか。よいものをみさせてもらった。べんきょうになったぞ、主の」
「あんた、うちの小豆よりだいぶ良い性格をしてるなぁ」
「そういうきみも、うちの大般若長光よりもおくてなようだ」
別の本丸同士とはいえ同じ刀工が打った刀として通じ合うところがあるのか、ふたりは顔を見合わせるとからりと笑ってそれぞれの審神者を見下ろした。大般若は機嫌よく笑いながら私の背中に手を回し、触れるか触れないかの距離で先に進むよう促す。
「急ごうか。主人に昼食ひとつ満足に食べさせられないなんて、近侍の名折れだ」
「え、う、うん……」
「さて主、わたしたちのちゅうしょくをどうするか、きめることはできたかな?」
「ええ~……どうせ小豆が行きたいとこ行くんだろ~……?」
お互い別の方向に歩き出したのだろう、背後から聞こえた会話はあっという間に遠ざかっていった。
隣を歩く大般若の歩みは穏やかだ。朝、玄関を出たときと同じ。しかし距離が、違う。
今朝は手を引かれるだけだった。その分だけ距離も空いていた。けれど今は背中に手が回されてる。すぐそばに肌触りが良いジャケットが迫り、その奥にある体温を、意識せざるを得ない。
心臓が、大きくなっては小さくなってを、やたら大袈裟に繰り返す。胸の上に手を置かれれば、きっとすぐにでも分かるほど、鼓動がうるさい。隣の刀からこぼれ落ちていたはずの花びらはとうに止まっていたから、きっと彼はすでに平静を保てているのだろう。それが悔しくもあり、安堵も誘う。
窓から見える雨脚は、弱まることを知らずに新緑の木々を打ちつけていた。
いち早く近侍と合流した審神者や、知り合い同士であいさつを交わしている審神者をぼんやりと見つめる。政府内の食堂は一般にも開放されているため、私たちも使うことができる。しかしせっかく現世まで来たのだ、彼と一緒にランチに出かけたい気持ちもある。かと言って外に出てしまえば、土砂降りの雨が私たちを出迎えることだろう。本丸までの転送ゲートはこの建物直通だから、一度帰宅することもできる。どうしたものかと思案にくれていると、ふと視界に陰がかかった。
「お久しぶりです」
「あ、どうも」
何かの折に言葉を交わしたことがある男性審神者が、愛想よく私を見下ろしていた。私だけ座っているのは失礼な気がして、事務的に立ち上がる。おそらくあちらも近侍を待っている間に暇を持て余していたのだろう、ありきたりなあいさつのあとは、この辺りで良い店は知らないかと情報交換が始まる。お互いにあまり外に出歩くタイプではなかったため実のある話にはならなかったが、適度な時間潰しにはなっていた。
「今日は誰と一緒に?」
「小豆長光と。甘いものだけじゃなくて、食事にもうるさくて」
「長船はこだわりが強い刀が多いから」
「あなたは? 前は大般若長光を連れていたような」
「よく覚えてますね。今日も大般若と来たんです。なんでも食べる刀だから、そちらよりは楽に店を決められそう」
「え、あんな高級フレンチ以外食べなさそうな顔なのに?」
「オフィス街のスピード命! みたいな店のでっかいとんかつとか好きですよ」
以前、書類提出のために政府の窓口を訪問したときは、近くの定食屋でサラリーマンに混じって食事をした。大般若は喜んで日替わり定食を食べていたように思う。勇んで挑戦したわりに胃は大きくないようで途中でギブアップしてしまい、残りを私が平らげたのは良い思い出だ。自分の分も含めて完食した私をまじまじと見て、大般若は「本当に今の量がその体に収まったのかい?」と不思議そうな顔をしていた。
くすくすと笑い合いながら、雑談に花を咲かせる。彼の小豆長光は食に相当なこだわりがあるようで、最終的には一度本丸に戻って燭台切の食事を食べさせた方が良いのではないかと結論が出そうになった、そのとき。ふと、こちらに向かってくる足音が聞こえた。振り向けば私の大般若長光が歩いてくるところで、視線がぶつかると彼は少し目を丸くする。しかしすぐに気を取り直したのか、「待たせたね」と薄く笑みを浮かべた。さりげなく確認した右肩は、乾いているように見えた。
「全然待ってないよ。あの、チョコとか、いろいろありがとう」
「礼には及ばないさ。そちらは?」
「前にお話したことある審神者さん。小豆長光を待ってるんだって」
「へえ? ……主人が世話になったようだ。礼を言おう」
「へっ!? い、いや別に、そんなたいしたことは……?」
大般若は狼狽える審神者にポケットから取り出したチョコを握らせると、今度は私の方へと向き直る。
「さて、忙しなくて悪いが、休憩時間は短いんだろう? 近くに良い店があるようだから、少し外に出ないか?」
「調べてくれたの?」
「時間を潰しているときにたまたま聞いてね。この建物から地下通路を通って行けるようだから、雨に濡れることもない」
外に出ると言われた時点で当然雨のことは頭によぎっていたが、さすが大般若長光。抜け目ない。内心で胸をなでおろしながら手荷物をまとめ、男性審神者に会釈をしてから大般若の後ろに続く。普段はゆったりと隣を歩いてくれるはずの彼が、少し足早に前を行くのは珍しい。立ち止まっている審神者や刀剣男士の合間を縫ってなんとかすぐ後ろまで追いついたとき、ふと、銀髪の合間から覗く首筋に、汗が伝っているのを見つけた。
「大般若、外って暑かった?」
「うん?」
斜め後ろから問いかけると、大般若は少し首を傾げて私を見下ろした。さらさらと肩から流れ落ちる銀の髪の毛は、高級な糸の束のように美しく、目を奪われる。当の大般若は自身がやや汗ばんでいる自覚はないようで、「むしろ涼しいくらいだったよ」と続けた。
「じゃあ、急いで来てくれたの?」
「そりゃあ……主人を待たせるわけにはいかないからなぁ」
研修室を出て廊下を歩きだした頃には、大般若は歩くペースを落としてゆったりとした足取りで隣に並んだ。あまり腑に落ちなかったので、曖昧な相槌だけを打って前を向く。
審神者と刀剣男士で溢れかえる廊下は賑やかだった。刀剣男士の存在そのものが華やかで、それが動き、言葉を交わし、笑っていれば、無機質な廊下のそこここに花が咲いたように明るい雰囲気が作られる。一緒に過ごしている審神者たちも多くは朗らかで善良に振る舞っている。審神者同士で諍いが起こることもあるとは聞くが、私はそのような現場に出くわしたことはない。わいわいと楽しげに過ごす刀と人の間を、ふたりで歩む。
「確かに急いではいたんだが」
人の壁が途切れた辺りで、ぽつりと言葉が落ちてきた。反射的に隣を見上げれば、赤い双眸も私を見下ろしている。珍しくやや下がった眉尻に少しだけ疲労感を感じたが、彼は疲れではなく別の何かを訴えた。
「妬けちまってな」
「……うん?」
話の流れが読めず、眉を寄せる。
妬けた。
誰が、誰に、いつ?
大般若の言わんとするところが分からず眉を寄せると、彼は今度こそはっきりと眉を下げ、「あの審神者に」と、背後の喧騒にまぎれそうな声で言った。
「あんたがやたら楽しそうに話してるもんだから、年甲斐もなく慌てちまった」
大般若長光は顔にかかった前髪をかき上げながら、首元を少しだけ緩めるような仕草をする。指の隙間から零れた銀の糸が苦く笑う横顔に垂れ、その隙間から見える赤い瞳が横目でこちらの様子を窺っていた。ふうと小さく吐き出された息がなんだかいたたまれなくて、こちらが慌てて視線を外す。真っ直ぐ前、廊下のつきあたりにある窓には、予報以上に強い雨がざあざあと打ちつけられていた。
(何か、何か言わなきゃ)
何か言葉を返さなければ不自然だ。彼は本心で言っているわけではない。黙り込んでしまっては、私が本気で受け止めたように見えるだろう――実際、本気で受け止めようとしている心を理性がつなぎとめている状態ではあるが、それでも表面上は私も冗談として受け流すべきところだ。
しかしうまく言葉が出てこない。思いがけない発言に、頭が真っ白に染まっている。
(ほんとに、本当に妬いてくれたってことは、ないのかな)
心臓が、妙な具合に脈打つ。
私が他の男性と楽しそうに話していたから、靴音を立てることも厭わず慌てて駆け寄ってきてくれた。だから汗をかいていたし、今も少しだけ疲れている。
それが冗談ではなく事実だということは、本当にありえないのだろうか。
期待が、胸に咲く。
それが大人っぽい切り返しではなく、私自身の本心を、舌に乗せようとする。
恐る恐る、視線をもう一度、斜め上に移す。
おもしろそうに細められているはずの赤い瞳は予想に反し、丸く開いて私の視線を受け止めた。
「主人――」
「そこのきみたち」
「っ、はいっ!?」
すぐそばで聞こえた第三者の声に、思わず大きな声が出た。ほとんど飛び跳ねるように大袈裟に振り向けば、1メートルも離れていない場所に立つ小豆長光がにこやかに私たちを見ていた。大きな体躯の後ろからちらりと見えた顔には覚えがある。先ほどの審神者と、彼が待っていた刀だった。
「主がかしをもらったときいて、おれいを」
「あ、小豆~……大丈夫だよ~……子どもじゃないんだから~……」
「本丸の主として、近侍として、れいぎをかくことはできない。そうおしえただろう?」
「そうだけど~……邪魔しない方がいいよ~」
たったそれだけの会話で彼らのパワーバランスを悟って笑みがこぼれる。
おそらく彼は幼少期から本丸で過ごしてきた審神者なのだろう。そういう本丸の場合、どうしても刀剣男士は保護者のようになってしまいがちだ。大般若もそれを察したのか「彼の礼儀正しさは父上譲りだったようだな」とからかうように小豆長光に笑みを向けた。小豆は怒るでもなく「そうであればいいんだが」と本当に保護者のようなことを言う。
「あまりそとにでたがらないこだから、またあったときはこえをかけてくれるとうれしい」
「覚えておくよ。うちの主人も、楽しく過ごさせてもらったようだから」
「主にじょせいをたのしませるさいのうがあったとは、はつみみだな」
「いつまでも子どものままじゃないだろうさ。主人なんて少し妬けるくらい笑っていて」
「わたしはにんしきをあらためなければいけないようだ。すまなかった、主」
「違うって~……あれはあちらの大般若の話をしてたからで~……」
「ちょっ」
「おや」
「へっ?」
へにゃへにゃと情けない声を出しながら小豆の袖を引き退散しようとしている審神者が、とんでもない爆弾を投下した。
確かに大般若の話はしていた。それは事実だ。笑っていたことも、また事実。しかしそれをこのタイミングで、そのように言われてしまっては、まるで私が大般若のことを思い出してニヤニヤと笑っていたように聞こえてしまうではないか。そのうえ大般若が冗談でも「妬いた」と言うくらい楽しそうにしていたということは、つまり、私が大般若を特別に思っているかのように見えてしまう。
(いや事実なんですけども)
事実ではあるが、それは大般若本人に告げていいことではない。
大般若がどのような顔をしているのか、見ることができない。かろうじて視界の範囲内に収まっている小豆長光は意外そうにまばたきをしたあと、片方の口角だけを上げて「はるとはいいものだな」と、私の隣に視線を送っている。男性審神者は自分の発言が場にそぐわないものであったと悟ったのだろう、顔面を蒼白にさせておろおろと私と大般若の間で視線を泳がせていた。
当の大般若長光は、無言だった。
(何か言ってよ……)
先ほどとは真逆の立ち位置になったが、一連のやりとりはすべて冗談だと受け止めてほしい。私の本心なんて、彼はまだ知らなくていい。自分のジャケットの裾をぎゅっと握り、完全に俯く。耳に熱を集まっていることは、今もまた気づかれてはいないだろう。まずは私の方が冷静になって、この場を切り抜ければいい。自慢の刀なのだと、そこに下心など少しだってないように笑ってみせればいい。それだけで終わりだ。
それなのに、はらりと舞い落ちた花びらが、喉の奥に言葉を押し戻してしまった。
たった一枚。足元に落ちた桜色の花弁が、床に触れる前にすっと消える。かと思えばまた一枚、また一枚と、はらはら落ちては消える花びらを追って、視線を上げる。
花びらの出どころたる男は口元をおさえ、私とは反対側に視線をやっていた。指の隙間から見える白い肌は、彼から落ちる花びらと同じ色に染まっていた。
「これは参ったな……」
難儀な体だと零す声は、少しだけ上擦って聞こえた。普段の冷静な彼からは程遠い姿に、ぽかんと口を開けて、見入る。頬の桜色は目じりに広がり、耳を染め上げ、首元まで浸食していく。銀の髪をくくるリボンが鮮やかに揺れ、ようやく視線だけが、私の方を向いた。
「浮かれるには十分な口説き文句だった」
「くっ……わ、私は何も、言ってないっていうか……!」
「目は口ほどに、ってやつかな。あんな顔で語ってもらえるとは男冥利に尽きる」
「かたなみょうり、ではなく?」
余計な茶々を入れる小豆長光を思わずにらむように見る。小豆は私のことなど視界に入っていないのか一切動じることなく、ただおもしろがるように大般若の返事を待っていた。
「言い違えたつもりはないよ」
「そうか。よいものをみさせてもらった。べんきょうになったぞ、主の」
「あんた、うちの小豆よりだいぶ良い性格をしてるなぁ」
「そういうきみも、うちの大般若長光よりもおくてなようだ」
別の本丸同士とはいえ同じ刀工が打った刀として通じ合うところがあるのか、ふたりは顔を見合わせるとからりと笑ってそれぞれの審神者を見下ろした。大般若は機嫌よく笑いながら私の背中に手を回し、触れるか触れないかの距離で先に進むよう促す。
「急ごうか。主人に昼食ひとつ満足に食べさせられないなんて、近侍の名折れだ」
「え、う、うん……」
「さて主、わたしたちのちゅうしょくをどうするか、きめることはできたかな?」
「ええ~……どうせ小豆が行きたいとこ行くんだろ~……?」
お互い別の方向に歩き出したのだろう、背後から聞こえた会話はあっという間に遠ざかっていった。
隣を歩く大般若の歩みは穏やかだ。朝、玄関を出たときと同じ。しかし距離が、違う。
今朝は手を引かれるだけだった。その分だけ距離も空いていた。けれど今は背中に手が回されてる。すぐそばに肌触りが良いジャケットが迫り、その奥にある体温を、意識せざるを得ない。
心臓が、大きくなっては小さくなってを、やたら大袈裟に繰り返す。胸の上に手を置かれれば、きっとすぐにでも分かるほど、鼓動がうるさい。隣の刀からこぼれ落ちていたはずの花びらはとうに止まっていたから、きっと彼はすでに平静を保てているのだろう。それが悔しくもあり、安堵も誘う。
窓から見える雨脚は、弱まることを知らずに新緑の木々を打ちつけていた。