君恋いわたる今日のながめ(般若さに)
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軒先にしとしとと垂れる雨粒が、地面で弾けて波紋を作った。一度波立った水たまりは次の雨粒にまた揺らされ、少しずつ淵を広げていく。朝食に向かうときはまだ手のひら程度の大きさだった水たまりは、いつの間にか私一人くらいなら簡単に沈んでしまいそうなほどに育っていた。
「こんな日に研修とは、災難だなぁ」
近侍の大般若長光がしっとりと濡れた縁側からわずかに顔を出し、どんよりとした雨雲を見上げた。当然のように彼の頬を濡らした雨粒は、すぐに黒い手袋に包まれた指先に吸い込まれて姿を消す。連れ立って向かった玄関はすでに水と泥で汚れており、これから外出を控えている身としてはげんなりとした気分になった。
「パンプス、汚れちゃうな……」
「そうだなぁ。だが現世に行ってしまえば、屋内の移動だけだろう?」
「あっちはね。でも本丸の門に着くまでに全部水没しそう」
「それは大問題だ。俺の足に乗せていってやろうか?」
「大般若が潰れちゃうよ」
冗談めかして言う大般若に私も笑って返す。
服装の指定がある研修ではないが、大半の審神者はスーツか和装で参加する。私はと言えば目立つことよりも周囲に溶け込むことを選ぶタイプであったので、無難にパンツスーツを選択した。全体のバランスを考えると足元はパンプスを履きたいところ。短距離とはいえ屋外を歩けば濡れるのは必然だが、それでも今日はお気に入りのパンプスを履いて、ピシッと背筋を伸ばしたい気分だった。
下駄箱から取り出した一足に爪先を通す。少しだけ大人ぶったベージュと黒のツートンのパンプスは、フロントにリボンと、その中央にキラキラと輝くビジューがついている。ヒールの高さは5cm。普段はスニーカーやローヒールの靴しか履かない私にしてみれば、この5cmは少しの冒険だ。座ったまま片足ずつかかとを収め、違和感がないか確かめる。意を決して立ち上がろうとしたタイミングで、すっと目の前に手が差し出された。顔を上げれば、いつの間にか靴を履き、私のバッグを片手に持った大般若が、少し体を屈めて微笑んでいた。
「……ありがとう」
「お安い御用さ」
彼の手に自分の手を重ねれば、立ち上がるのを助けるようにわずかに手を引かれる。そのまま離れるかと思った布越しの体温は予想に反し、軽く私の手を握ったまま歩き始めた。
「少し強くなったかな」
器用にも片手にバッグを引っかけたまま傘を開き、それを私の方に傾けて大般若は玄関を出る。慌てて傘を奪おうとしたが、大般若は握った手に力を込めて、機嫌よくそれを制止した。
「せっかくのかわいいパンプスだ。汚れないように注意して歩きな」
玄関から門までは飛び石が続いている。ヒールで転ばないように歩くのは確かに多少の集中力が必要で、彼の言葉に従うのが合理的ではあった。
雨粒に混じって、自分のヒールが奏でるコツコツという軽やかな音が聞こえる。ずっと足元を見ていても、雨が私に触れることはない。少し距離がある飛び石も、握った手に体重をかければ簡単に飛び越えることができた。けれどその代償に、スマートなエスコートをしてくれる彼の右肩がびっしょりと濡れていることを、私は知っている。平気な顔をしているけれど、ぬかるみのなかを躊躇なく歩く革靴が泥にまみれてしまったことも、知っている。それでもこの男は、完璧な姿で政府にたどり着いた私を見て、満足そうに笑うのだ。
「あんたはいつも愛らしいが、今日は特別別嬪さんだ。エスコートできて光栄だったよ」
照れくさくなって笑うことしかできない私に、大般若はやはり満足そうに口角を上げた。それから少しの水滴もついていないトートバッグを手渡され、研修室へと送り出される。色が変わってしまうほど濡れていた彼の右肩が気にかかったが、先手を打って「あとはゆっくり待たせてもらうさ」と手を振られてしまえば言及もできない。ならばせめてと背筋を伸ばし、乾いたままのパンプスで、ゆっくりと廊下を進むことにした。それが彼の望むことなのだと、よく分かっていたから。
審神者だけが通される大きな研修室で、指定の席に座る。これから半日と少し、ここに缶詰め状態にされる。その間、同伴した近侍は待合スペースで待つもよし、外出するもよし。きっと大般若は、どこかでお茶でもして時間を潰すことだろう。
(……ネイルもしてくれば良かったな)
何とはなしに見下ろした右手は、何の飾り気もない。
大般若が見抜いていた通り、今日のメイクは普段よりも気合を入れていた。スーツも手持ちの中では最も高級なものを選んだし、パンプスは言わずもがな。さすがの大般若長光も、その理由までもを見抜くことができなかっただろう。
(研修だけど……一緒に出掛けられるからって、浮かれちゃって)
飛び石の上を歩いていたとき、頬が赤くなっていたことは、チークが隠してくれていただろうか。熱が集まっていた耳は、髪の毛が隠してくれていただろうか。立ち上がるとき、ほんの数秒その手を取ることを躊躇したことは、彼には伝わらなかっただろうか。
(少しでもかわいく思われたい、なんて)
年頃の少女のような願望に、自分自身が気恥ずかしくなってくる。気分を変えようとバッグから飲み物を取り出すと、その拍子に何かが外にこぼれ落ちた。拾い上げたそれに、見覚えはない。透明なセロハンに包まれた、四角形のチョコレート。バッグの中をよく見れば、同じものが何個か見つかった。誰かが入れてくれたのだろうか。不思議に思いながらタンブラーの口を開けようとして、蓋に貼られた付箋に気が付いた。こちらもまた覚えはない。流れるような字で書かれたメッセージは、記名こそないものの、すぐに近侍によるものだと知れた。
――昼は一緒に。迎えに行くまで、そいつらで気を紛らわせていてくれ。
「……」
無意識に止まった息を、お腹の底からゆっくりと吐き出す。そのままずるずるとテーブルに突っ伏して、騒ぎ始めた心臓を押さえるように手を当てた。
(好きだ~……)
彼の方に特別な意図があるとは思えない。気遣いができる刀だから、この程度はコミュニケーションの一環でしかないだろう。しかしそのひとつひとつに、どうしようもなく胸を打たれる。鼓動が早まり、頬が熱くなる。ドキドキと心臓が鳴るたびに、自覚する。
私は大般若長光が、好きなのだ。
「こんな日に研修とは、災難だなぁ」
近侍の大般若長光がしっとりと濡れた縁側からわずかに顔を出し、どんよりとした雨雲を見上げた。当然のように彼の頬を濡らした雨粒は、すぐに黒い手袋に包まれた指先に吸い込まれて姿を消す。連れ立って向かった玄関はすでに水と泥で汚れており、これから外出を控えている身としてはげんなりとした気分になった。
「パンプス、汚れちゃうな……」
「そうだなぁ。だが現世に行ってしまえば、屋内の移動だけだろう?」
「あっちはね。でも本丸の門に着くまでに全部水没しそう」
「それは大問題だ。俺の足に乗せていってやろうか?」
「大般若が潰れちゃうよ」
冗談めかして言う大般若に私も笑って返す。
服装の指定がある研修ではないが、大半の審神者はスーツか和装で参加する。私はと言えば目立つことよりも周囲に溶け込むことを選ぶタイプであったので、無難にパンツスーツを選択した。全体のバランスを考えると足元はパンプスを履きたいところ。短距離とはいえ屋外を歩けば濡れるのは必然だが、それでも今日はお気に入りのパンプスを履いて、ピシッと背筋を伸ばしたい気分だった。
下駄箱から取り出した一足に爪先を通す。少しだけ大人ぶったベージュと黒のツートンのパンプスは、フロントにリボンと、その中央にキラキラと輝くビジューがついている。ヒールの高さは5cm。普段はスニーカーやローヒールの靴しか履かない私にしてみれば、この5cmは少しの冒険だ。座ったまま片足ずつかかとを収め、違和感がないか確かめる。意を決して立ち上がろうとしたタイミングで、すっと目の前に手が差し出された。顔を上げれば、いつの間にか靴を履き、私のバッグを片手に持った大般若が、少し体を屈めて微笑んでいた。
「……ありがとう」
「お安い御用さ」
彼の手に自分の手を重ねれば、立ち上がるのを助けるようにわずかに手を引かれる。そのまま離れるかと思った布越しの体温は予想に反し、軽く私の手を握ったまま歩き始めた。
「少し強くなったかな」
器用にも片手にバッグを引っかけたまま傘を開き、それを私の方に傾けて大般若は玄関を出る。慌てて傘を奪おうとしたが、大般若は握った手に力を込めて、機嫌よくそれを制止した。
「せっかくのかわいいパンプスだ。汚れないように注意して歩きな」
玄関から門までは飛び石が続いている。ヒールで転ばないように歩くのは確かに多少の集中力が必要で、彼の言葉に従うのが合理的ではあった。
雨粒に混じって、自分のヒールが奏でるコツコツという軽やかな音が聞こえる。ずっと足元を見ていても、雨が私に触れることはない。少し距離がある飛び石も、握った手に体重をかければ簡単に飛び越えることができた。けれどその代償に、スマートなエスコートをしてくれる彼の右肩がびっしょりと濡れていることを、私は知っている。平気な顔をしているけれど、ぬかるみのなかを躊躇なく歩く革靴が泥にまみれてしまったことも、知っている。それでもこの男は、完璧な姿で政府にたどり着いた私を見て、満足そうに笑うのだ。
「あんたはいつも愛らしいが、今日は特別別嬪さんだ。エスコートできて光栄だったよ」
照れくさくなって笑うことしかできない私に、大般若はやはり満足そうに口角を上げた。それから少しの水滴もついていないトートバッグを手渡され、研修室へと送り出される。色が変わってしまうほど濡れていた彼の右肩が気にかかったが、先手を打って「あとはゆっくり待たせてもらうさ」と手を振られてしまえば言及もできない。ならばせめてと背筋を伸ばし、乾いたままのパンプスで、ゆっくりと廊下を進むことにした。それが彼の望むことなのだと、よく分かっていたから。
審神者だけが通される大きな研修室で、指定の席に座る。これから半日と少し、ここに缶詰め状態にされる。その間、同伴した近侍は待合スペースで待つもよし、外出するもよし。きっと大般若は、どこかでお茶でもして時間を潰すことだろう。
(……ネイルもしてくれば良かったな)
何とはなしに見下ろした右手は、何の飾り気もない。
大般若が見抜いていた通り、今日のメイクは普段よりも気合を入れていた。スーツも手持ちの中では最も高級なものを選んだし、パンプスは言わずもがな。さすがの大般若長光も、その理由までもを見抜くことができなかっただろう。
(研修だけど……一緒に出掛けられるからって、浮かれちゃって)
飛び石の上を歩いていたとき、頬が赤くなっていたことは、チークが隠してくれていただろうか。熱が集まっていた耳は、髪の毛が隠してくれていただろうか。立ち上がるとき、ほんの数秒その手を取ることを躊躇したことは、彼には伝わらなかっただろうか。
(少しでもかわいく思われたい、なんて)
年頃の少女のような願望に、自分自身が気恥ずかしくなってくる。気分を変えようとバッグから飲み物を取り出すと、その拍子に何かが外にこぼれ落ちた。拾い上げたそれに、見覚えはない。透明なセロハンに包まれた、四角形のチョコレート。バッグの中をよく見れば、同じものが何個か見つかった。誰かが入れてくれたのだろうか。不思議に思いながらタンブラーの口を開けようとして、蓋に貼られた付箋に気が付いた。こちらもまた覚えはない。流れるような字で書かれたメッセージは、記名こそないものの、すぐに近侍によるものだと知れた。
――昼は一緒に。迎えに行くまで、そいつらで気を紛らわせていてくれ。
「……」
無意識に止まった息を、お腹の底からゆっくりと吐き出す。そのままずるずるとテーブルに突っ伏して、騒ぎ始めた心臓を押さえるように手を当てた。
(好きだ~……)
彼の方に特別な意図があるとは思えない。気遣いができる刀だから、この程度はコミュニケーションの一環でしかないだろう。しかしそのひとつひとつに、どうしようもなく胸を打たれる。鼓動が早まり、頬が熱くなる。ドキドキと心臓が鳴るたびに、自覚する。
私は大般若長光が、好きなのだ。
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