陰日向の攻防(笹貫→主←治金丸)
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連隊戦も最終日となった。これまで兄弟たちと代わる代わる部隊長に任じられていたが、ついに次が最後の出陣だ。中庭に集まった面々は、この夏ですっかり馴染みとなった顔ぶれだ。すでに全員そろっており、あとは主が来ればいつでも出陣は可能だった。
それぞれに談笑しながら主の到着を待つ。何とはなしに執務室の方向を見れば、遠くの縁側を歩く主と、その隣で翻る青色の装束が目についた。さすがに会話の内容までは分からないが、性能が良い耳はふたりの楽しげな笑い声を拾った。途端にちくりと、心臓の辺りに違和感を感じる。
「……」
「おや、小鬼の気配」
じっとふたりの様子を目で追っていると、不意に隣からやわらかい声をかけられた。見れば近頃親しくなった髭切が、存外真剣な表情でこちらを見下ろしていた。
「……オレのことか?」
「うん。悪いことは言わないから、そんなものさっさと飲み込んでおしまいよ。でないと、角が生えてくるかもよ」
人差し指を頭の上に立てて脅すように言う髭切に思わず笑いがこみ上げる。真剣に取り合っていないと感じたのか、彼はゆるやかな口調のまま「本気だよ?」と付け加えた。
「すまない、だがあまり意味が分からなくて。オレは何を飲み込めばいいんだ?」
「今さっき、君が抱えていた感情さ」
「感情」
「そう。人の子は、嫉妬とか悋気とか呼ぶ」
ぎくりと、肩の代わりに心臓が跳ねた。
「……そんなおこがましい思い、オレが持つわけないよ」
喉の奥から絞り出した声は、思っていたよりもずっと低く重かった。呆れた様子の金色の瞳から逃れるように、視線を別の方向に移す。
あの日以降も、笹貫は折に触れて主に声をかけているようだった。主と親しくなりたい刀は大勢いるから、それ自体は珍しいことではない。けれどあの刀はどうにも信用がおけなかった。
戦働きはする。内番もこなす。役割をまっとうするという点においては信用してもいいと判断した。しかし主を見るあの目だけは、どうにも受け入れがたい。いつも妙な湿度と熱を帯び、それを覆い隠して軽薄に笑う様が、気味が悪くて仕方がない。主と笹貫が共にいる姿を目にするたび、ざわりざわりと背筋の辺りが落ち着かなくなった。
(それは主の身が心配だからというだけ)
たとえばあれが浦島やこの髭切だったならば、こんなに警戒することなどなかっただろう。彼らは信頼がおける。主を傷つけることはないし、きっと彼女を幸せにできる。他の刀であっても、素直に認めることができたはずだ――ほんの少しの痛みを、伴ったとしても。きっと、耐えることができた。
しかし笹貫に関してはそうはいかなかった。彼が主のそばにいるというだけで心がささくれだつ。ダメだと思う。常に優勢な理性が、感情に負ける。ダメだというその思いだけで、すぐに主の元に駆け出したくなってしまう。その目に写すのはあの青色であってほしくないと、願ってしまう。
その思いの根源にも、心当たりはあった。ずっと前から、知っていた。
(……影が主に、恋慕など)
身の程知らずも、いいところだ。刀が主に恋など――安らかに眠る彼女のそばに留まり、無防備な頬に触れたいと願うなど。ましてやそれを剥き出しにして嫉妬するなど、ありえてはならない。
(オレは影だ。私情は持たない。意思もない。ただ、操られるのみ)
何度も自分にそう言い聞かせては、感情を心の底の方へと押し込めてきた。そのたびに、主が幸福ならばそれでいいはずだと納得もした。しかし主がまぶしいほどの笑顔を浮かべるたび、笹貫が、主のそばでほんの少し、満たされたような顔をするたび、胸の内で心が暴れようとする。なんとか見ないふりをしてしのいできたが、髭切はそれを察していたのだろう。そういうところが良くないのだと、少しだけ口をとがらせた。
「必要なのは我慢じゃないよ。見ないふりをするから、制御できなくなってしまうんだ」
「……だから、飲み込めと?」
「そう。自分のものにしてしまえば、いくらでも制御できるだろう? あるいは、どうでもよくなってしまうかも」
いかにも彼らしい考えだった。それは髭切だけだとからかえば、彼はようやく普段通りの温和な笑みを浮かべる。
「別に君が幸せになったって、誰も責めたりはしないよ」
「……オレ自身が、それを許せないとしても?」
「うーん……じゃあ、自分に認めてもらえるような自分になればいいんじゃない?」
「髭切は前向きだなぁ」
「いやいや、これはなけなしの兄心というやつさ。君ときたら、うちの堅物な弟よりもずっとお堅いんだから」
「……よそに兄に心配かけてしまったか?」
「いや? どちらかと言えば応援かな」
「髭切が、オレを?」
「まあ僕は主が幸せならばなんでもいいのだけれど、この夏の苦楽を共にしたうえに、同じ重宝のよしみだ。鬼になってしまったらスパッと切ってあげるから、安心してぶつかっておいで」
「それは……あまり安心できないな」
「そうかな。ええと……保険? とやらがかかっていると思えば、いくらか気楽に過ごせるかと」
「兄者、刀装を忘れているぞ」
「ありゃ」
件の弟に呼ばれ、髭切はふらふらと離れていった。髭切はおおらかで抜けたところが目立つが、打たれてから長いこともあって、なかなかどうして侮れない。すべてを見透かしたような話しぶりに不快にならないのも、彼の性格あってのことだろう。彼らしい不穏な激励に、固くなっていた表情も少し和らいだのを感じた。
(飲み込む、か)
見て見ぬふりをするのではなく、この心ごと受け入れてしまえ。髭切の言葉は的を射ている。もし他の刀が自分の立場にあったなら、自分も同じような言葉をかけたかもしれない。しかしこれは自分事だ。そう簡単に受け入れていい類のものではないのだと、自分自身が一番よく理解している。ここで髭切の優しさに甘えられるほど、子どもではない。
(ああ、でも、ひとつだけ認めても、いいだろうか。ダメなのは、笹貫じゃない)
彼が主のそばにいることをダメだと感じていても、決して、笹貫だけを否定したいわけではない――本当は誰に対しても、この心は「ダメ」だと言っている。
(本当は、笹貫だけじゃない。誰であってもダメなんだ)
笹貫のこととて、主に従う者として許せないのではない。ただ、自分が嫌だと感じているだけ。笹貫だって心根が悪い刀ではないのだ。きっとその気になれば主を幸せにできるだろうとも分かっているのに、どうにも納得できない。痛みや不快感を耐えることができない。どうしようもなく主観的で感情的な動機だ。
(……これは、最も醜い感情だ)
しかしこの、影らしからぬ醜い思いを、認めたい。認めてしまえば、ひた隠すことはできるかもしれないから。だからこれだけは、この思いを持つことだけは、許してほしい。そうすれば、なんとか耐えられる。影のままで、いられる。だから、どうか。誰に対してかも分からない無様な願いを、晴れ渡る夏空にかける。
「ごめん、お待たせ」
長い縁側を渡ってきた主が、慌てた様子で駆け寄ってくるのが見えた。ずっと隣を歩いてきたのだろう笹貫は、少し離れた日陰で足を止める。主はオレの姿を認めると、パッと顔を輝かせて口角を上げた。
「最後だけど、がんばってね」
「……ああ、みんなに助けてもらうよ」
「そのみんなも、治金丸を頼りにしてると思うけど……今夜はおいしいもの出してくれるって当番の子たちが張り切ってたから楽しみにしててね。北谷菜切もさっきの出陣で終わりだから、治金丸の好きなもの作るって」
「そうか。じゃあオレも活躍しないとだな」
「期待してる。みんなもよろしくね」
主がオレの後ろに向けて声をかけると、まばらな返事が返された。一見あまりまとまりがない部隊だが、今夏最後の戦を前に彼らなりに気は昂っている。普段から暑さが苦手だと言っているのにわざわざこうして庭まで降り、激励の言葉をかけてくれる主の姿を見れば、なおのこと気合も入っただろう。振り向けば頼もしく頷く面々に、主も満足げに笑顔を浮かべた。
(やっぱり主は、太陽の下が似合う)
幼さすら感じる笑顔はこれから敵を屠りに行く刀に向ける表情ではない。しかしそれでも、この明るい夏の庭が、よく似合う。笑顔だけではない。彼女の存在自体が、目を引き、パッと周りを明るくさせる。それはまるで、夏の間、庭や畑で咲き誇っていた花のようだった。
「主はひまわりみたいだなぁ」
「ひまわり?」
心の声で済ませるはずが、思わず口から漏れ出ていた。まずいと思ったときにはすでに遅く、主は「私が?」と不思議そうに首を傾げている。もう誤魔化すことはできない。かと言って、何か言葉を付け加えるのも決まりが悪い。照れくささから宙に視線を泳がせると、「あ」と何かに気が付いたような声が正面から聞こえた。
「目の話?」
「え、目?」
「違った? この前の、笹貫の。ひまわりの真ん中って茶色いでしょ?」
「あ、ああ……」
言われてみれば、そのような話もしたかもしれない。縁側に留まっている笹貫に目をやれば、彼は彼できょとんとした様子でこちらを見ていた。背を向けている主は当然それには気が付かず、うんうんと頷いていた。
「ひまわりかぁ。確かに夜空よりは近いかもね」
「何の話だい?」
「目の色が何に似てるかって話」
話題に興味を引かれたのか、髭切が主に声をかけた。なるほどと頷いてから、髭切は何故かじっとこちらを見る。あまりにまじまじと見つめてくるものだから思わず少し身を引くと、こちらの思いを知ってか知らずか、髭切は主へと視線を移して思いがけないことを平然と口にした。
「じゃあ、彼の瞳はひまわりの花ということかな」
「オ、オレか?」
「うん、ひまわりって黄色でしょ? 君たちふたりで、ひまわりの完成だ」
髭切のことだ、特に他意などなかったのだろう。思ったままを口にしたような口調で「お似合いだね」などと続けるものだから、自然と主と顔を見合わせる。
こちらには気まずさしかなかった。たかが刀一振りが、唯一の主とお似合いなどと、冗談でも言うことはできない。しかしどうにも、口元が緩む。喜びめいた思いが、腹の底からじわじわと湧き上がる。他意がなかったのだとしても、そこに別の意味を見出してしまう。
「……なんだか照れくさいなぁ」
「確かに」
浮かれてはならないと自分を律する理性と、胸の内に少しずつ溜まっていく感情の両方を誤魔化すように笑うと、主もつられるように笑いかけてくれた。その奥に控える刀の表情は、今は見えない。気分が高揚しているのが分かる。真正面からオレだけに向けて笑ってくれるその人に、意識のすべてが集中する。それを遮り現実に引き戻してくれたのは膝丸で「兄者はまた異なことを」と、冷静に指摘を入れた。
「我らの瞳とて、見ようによっては黄色ではないか」
「おや、では僕たちも主とお似合いということかな。花びらはたくさんあるものね」
「それに、ひまわりは夏の青空が映えるというもの」
切れ長の瞳が、主の頭上を通り越して日陰の中を見た。その先でわずかに丸くなった青色に、上がっていた口角が少し下がる。膝丸の意図は伝わった。兄に対し、どちらかに肩入れはするなと釘を刺したのだ。賢明な判断だった。
「ふぅん? お前はあちらにつくのかい?」
「何を言う。我ら兄弟、誰につくかと問われれば、答えはひとつしかないだろう」
「あはは、その通り。では主、君の重宝たちはがんばって水遊びしてくるよ」
「あ、うん……よろしく……え? 今って何の話してた? よく分からなかったんだけど……」
「……君はもう少し自分の状況に自覚的になるべきでは」
「こらこら、弟。これから出陣なのだから、馬に蹴られるようなことは控えなさい」
「先に首を突っ込んだのは兄者ではないか」
ぽんぽんと調子よく会話を弾ませながら、部隊長を置いて隊員たちは門の方へ向かって歩き始めてしまった。主は未だ混乱した様子で、髭切と膝丸の背中を指さしながらこちらを見る。
「……治金丸、今の分かった?」
「ああ、なんとなく」
「刀たちの会話、ときどき難しくて分からない」
「主はそれでいいんだ。じゃあオレも行ってくる」
「いってらっしゃい……」
腑に落ちていないのだろう、とぼとぼと縁側に戻る主に小さく笑みを浮かべ、背を向ける。しかし耳だけはしっかりと、後ろを向いていた。
「笹貫は理解できた?」
「当然。弟くんに応援されちゃった」
「ええ? そんなタイミングあった?」
「言ってたじゃん、お似合いだって」
「それは髭切が」
「いやいや、弟くんが。ね、治金丸くん」
「……」
足を止め、振り返る。日差しが入り込み始めた縁側で、笹貫はまっすぐにこちらを見ていた。青い瞳を細める姿は、やはり少しの不快感を煽る。無視して行ってしまおうかとも考えたが、主がいる手前、そのようなこともできない。主の隣で優位を示す笑みに、こちらもできる限り挑発的に――彼の神経を逆なでするように、口角を上げて見せた。
「そうだな。だが空はひまわりに触れることなどできない。逆もしかりだ」
「はは、言うねぇ。でもオレ、幸いなことに刀だし」
「そうだな、オレもだ」
お前にとっては不幸なことに、という言葉は口には出さず、視線に乗せる。
(主に妙なことをしたら、すぐにでも切り捨ててやる)
夏空に似つかわしくない冷えた視線に返ったのは、やや引きつった苦笑だった。こちらの意図は伝わっただろうと判断し、今度こそきびすを返して足早に門へと向かう。
(……影には、思考も感情も決断も、見返りも不要)
自分が分不相応なことを考え、行動している自覚はある。それでいいとは、思えていない。
(でも、やっぱりダメなものはダメだ)
主には日向で笑っていてほしい。隣に立つのは他の誰でもない――自分であってほしい。あの桃色の頬に、触れたい。
その醜悪な欲望は認めよう。飲み込もう。
(ただ、見返りはいらない。思いが成就しなくてもいい)
彼女が幸せに笑っていられるのならば、相手が誰であろうと構わない。私を滅し、彼女の幸福に尽くそう。たとえ最後に主のそばで笑っているのが、笹貫であろうとも。この恋心を、完全に、殺しきってみせる。
ただもし、彼女が傷つけようとするならば、そのときは。
「やる気十分だね、隊長殿。僕も小鬼を切らずに済みそうかな」
いつの間にか到着していた門前で、髭切がからかうように笑った。膝丸は咎めるように髭切を制したが、問題ないと口の端を上げて前に進む。
「最後の連隊戦だ。主に良い結果を持ち帰ろう」
やるべきことも、見極めるべきことも多くあるが、まずは目の前の戦から。夜には宴もあるというのだから、気合を入れないわけにはいかない。それに本丸ではできなくとも、戦場でならば、私情を滅することができる。今の妙に昂った心の内を沈めるためにも、この出陣はおあつらえ向きだった。
それぞれに談笑しながら主の到着を待つ。何とはなしに執務室の方向を見れば、遠くの縁側を歩く主と、その隣で翻る青色の装束が目についた。さすがに会話の内容までは分からないが、性能が良い耳はふたりの楽しげな笑い声を拾った。途端にちくりと、心臓の辺りに違和感を感じる。
「……」
「おや、小鬼の気配」
じっとふたりの様子を目で追っていると、不意に隣からやわらかい声をかけられた。見れば近頃親しくなった髭切が、存外真剣な表情でこちらを見下ろしていた。
「……オレのことか?」
「うん。悪いことは言わないから、そんなものさっさと飲み込んでおしまいよ。でないと、角が生えてくるかもよ」
人差し指を頭の上に立てて脅すように言う髭切に思わず笑いがこみ上げる。真剣に取り合っていないと感じたのか、彼はゆるやかな口調のまま「本気だよ?」と付け加えた。
「すまない、だがあまり意味が分からなくて。オレは何を飲み込めばいいんだ?」
「今さっき、君が抱えていた感情さ」
「感情」
「そう。人の子は、嫉妬とか悋気とか呼ぶ」
ぎくりと、肩の代わりに心臓が跳ねた。
「……そんなおこがましい思い、オレが持つわけないよ」
喉の奥から絞り出した声は、思っていたよりもずっと低く重かった。呆れた様子の金色の瞳から逃れるように、視線を別の方向に移す。
あの日以降も、笹貫は折に触れて主に声をかけているようだった。主と親しくなりたい刀は大勢いるから、それ自体は珍しいことではない。けれどあの刀はどうにも信用がおけなかった。
戦働きはする。内番もこなす。役割をまっとうするという点においては信用してもいいと判断した。しかし主を見るあの目だけは、どうにも受け入れがたい。いつも妙な湿度と熱を帯び、それを覆い隠して軽薄に笑う様が、気味が悪くて仕方がない。主と笹貫が共にいる姿を目にするたび、ざわりざわりと背筋の辺りが落ち着かなくなった。
(それは主の身が心配だからというだけ)
たとえばあれが浦島やこの髭切だったならば、こんなに警戒することなどなかっただろう。彼らは信頼がおける。主を傷つけることはないし、きっと彼女を幸せにできる。他の刀であっても、素直に認めることができたはずだ――ほんの少しの痛みを、伴ったとしても。きっと、耐えることができた。
しかし笹貫に関してはそうはいかなかった。彼が主のそばにいるというだけで心がささくれだつ。ダメだと思う。常に優勢な理性が、感情に負ける。ダメだというその思いだけで、すぐに主の元に駆け出したくなってしまう。その目に写すのはあの青色であってほしくないと、願ってしまう。
その思いの根源にも、心当たりはあった。ずっと前から、知っていた。
(……影が主に、恋慕など)
身の程知らずも、いいところだ。刀が主に恋など――安らかに眠る彼女のそばに留まり、無防備な頬に触れたいと願うなど。ましてやそれを剥き出しにして嫉妬するなど、ありえてはならない。
(オレは影だ。私情は持たない。意思もない。ただ、操られるのみ)
何度も自分にそう言い聞かせては、感情を心の底の方へと押し込めてきた。そのたびに、主が幸福ならばそれでいいはずだと納得もした。しかし主がまぶしいほどの笑顔を浮かべるたび、笹貫が、主のそばでほんの少し、満たされたような顔をするたび、胸の内で心が暴れようとする。なんとか見ないふりをしてしのいできたが、髭切はそれを察していたのだろう。そういうところが良くないのだと、少しだけ口をとがらせた。
「必要なのは我慢じゃないよ。見ないふりをするから、制御できなくなってしまうんだ」
「……だから、飲み込めと?」
「そう。自分のものにしてしまえば、いくらでも制御できるだろう? あるいは、どうでもよくなってしまうかも」
いかにも彼らしい考えだった。それは髭切だけだとからかえば、彼はようやく普段通りの温和な笑みを浮かべる。
「別に君が幸せになったって、誰も責めたりはしないよ」
「……オレ自身が、それを許せないとしても?」
「うーん……じゃあ、自分に認めてもらえるような自分になればいいんじゃない?」
「髭切は前向きだなぁ」
「いやいや、これはなけなしの兄心というやつさ。君ときたら、うちの堅物な弟よりもずっとお堅いんだから」
「……よそに兄に心配かけてしまったか?」
「いや? どちらかと言えば応援かな」
「髭切が、オレを?」
「まあ僕は主が幸せならばなんでもいいのだけれど、この夏の苦楽を共にしたうえに、同じ重宝のよしみだ。鬼になってしまったらスパッと切ってあげるから、安心してぶつかっておいで」
「それは……あまり安心できないな」
「そうかな。ええと……保険? とやらがかかっていると思えば、いくらか気楽に過ごせるかと」
「兄者、刀装を忘れているぞ」
「ありゃ」
件の弟に呼ばれ、髭切はふらふらと離れていった。髭切はおおらかで抜けたところが目立つが、打たれてから長いこともあって、なかなかどうして侮れない。すべてを見透かしたような話しぶりに不快にならないのも、彼の性格あってのことだろう。彼らしい不穏な激励に、固くなっていた表情も少し和らいだのを感じた。
(飲み込む、か)
見て見ぬふりをするのではなく、この心ごと受け入れてしまえ。髭切の言葉は的を射ている。もし他の刀が自分の立場にあったなら、自分も同じような言葉をかけたかもしれない。しかしこれは自分事だ。そう簡単に受け入れていい類のものではないのだと、自分自身が一番よく理解している。ここで髭切の優しさに甘えられるほど、子どもではない。
(ああ、でも、ひとつだけ認めても、いいだろうか。ダメなのは、笹貫じゃない)
彼が主のそばにいることをダメだと感じていても、決して、笹貫だけを否定したいわけではない――本当は誰に対しても、この心は「ダメ」だと言っている。
(本当は、笹貫だけじゃない。誰であってもダメなんだ)
笹貫のこととて、主に従う者として許せないのではない。ただ、自分が嫌だと感じているだけ。笹貫だって心根が悪い刀ではないのだ。きっとその気になれば主を幸せにできるだろうとも分かっているのに、どうにも納得できない。痛みや不快感を耐えることができない。どうしようもなく主観的で感情的な動機だ。
(……これは、最も醜い感情だ)
しかしこの、影らしからぬ醜い思いを、認めたい。認めてしまえば、ひた隠すことはできるかもしれないから。だからこれだけは、この思いを持つことだけは、許してほしい。そうすれば、なんとか耐えられる。影のままで、いられる。だから、どうか。誰に対してかも分からない無様な願いを、晴れ渡る夏空にかける。
「ごめん、お待たせ」
長い縁側を渡ってきた主が、慌てた様子で駆け寄ってくるのが見えた。ずっと隣を歩いてきたのだろう笹貫は、少し離れた日陰で足を止める。主はオレの姿を認めると、パッと顔を輝かせて口角を上げた。
「最後だけど、がんばってね」
「……ああ、みんなに助けてもらうよ」
「そのみんなも、治金丸を頼りにしてると思うけど……今夜はおいしいもの出してくれるって当番の子たちが張り切ってたから楽しみにしててね。北谷菜切もさっきの出陣で終わりだから、治金丸の好きなもの作るって」
「そうか。じゃあオレも活躍しないとだな」
「期待してる。みんなもよろしくね」
主がオレの後ろに向けて声をかけると、まばらな返事が返された。一見あまりまとまりがない部隊だが、今夏最後の戦を前に彼らなりに気は昂っている。普段から暑さが苦手だと言っているのにわざわざこうして庭まで降り、激励の言葉をかけてくれる主の姿を見れば、なおのこと気合も入っただろう。振り向けば頼もしく頷く面々に、主も満足げに笑顔を浮かべた。
(やっぱり主は、太陽の下が似合う)
幼さすら感じる笑顔はこれから敵を屠りに行く刀に向ける表情ではない。しかしそれでも、この明るい夏の庭が、よく似合う。笑顔だけではない。彼女の存在自体が、目を引き、パッと周りを明るくさせる。それはまるで、夏の間、庭や畑で咲き誇っていた花のようだった。
「主はひまわりみたいだなぁ」
「ひまわり?」
心の声で済ませるはずが、思わず口から漏れ出ていた。まずいと思ったときにはすでに遅く、主は「私が?」と不思議そうに首を傾げている。もう誤魔化すことはできない。かと言って、何か言葉を付け加えるのも決まりが悪い。照れくささから宙に視線を泳がせると、「あ」と何かに気が付いたような声が正面から聞こえた。
「目の話?」
「え、目?」
「違った? この前の、笹貫の。ひまわりの真ん中って茶色いでしょ?」
「あ、ああ……」
言われてみれば、そのような話もしたかもしれない。縁側に留まっている笹貫に目をやれば、彼は彼できょとんとした様子でこちらを見ていた。背を向けている主は当然それには気が付かず、うんうんと頷いていた。
「ひまわりかぁ。確かに夜空よりは近いかもね」
「何の話だい?」
「目の色が何に似てるかって話」
話題に興味を引かれたのか、髭切が主に声をかけた。なるほどと頷いてから、髭切は何故かじっとこちらを見る。あまりにまじまじと見つめてくるものだから思わず少し身を引くと、こちらの思いを知ってか知らずか、髭切は主へと視線を移して思いがけないことを平然と口にした。
「じゃあ、彼の瞳はひまわりの花ということかな」
「オ、オレか?」
「うん、ひまわりって黄色でしょ? 君たちふたりで、ひまわりの完成だ」
髭切のことだ、特に他意などなかったのだろう。思ったままを口にしたような口調で「お似合いだね」などと続けるものだから、自然と主と顔を見合わせる。
こちらには気まずさしかなかった。たかが刀一振りが、唯一の主とお似合いなどと、冗談でも言うことはできない。しかしどうにも、口元が緩む。喜びめいた思いが、腹の底からじわじわと湧き上がる。他意がなかったのだとしても、そこに別の意味を見出してしまう。
「……なんだか照れくさいなぁ」
「確かに」
浮かれてはならないと自分を律する理性と、胸の内に少しずつ溜まっていく感情の両方を誤魔化すように笑うと、主もつられるように笑いかけてくれた。その奥に控える刀の表情は、今は見えない。気分が高揚しているのが分かる。真正面からオレだけに向けて笑ってくれるその人に、意識のすべてが集中する。それを遮り現実に引き戻してくれたのは膝丸で「兄者はまた異なことを」と、冷静に指摘を入れた。
「我らの瞳とて、見ようによっては黄色ではないか」
「おや、では僕たちも主とお似合いということかな。花びらはたくさんあるものね」
「それに、ひまわりは夏の青空が映えるというもの」
切れ長の瞳が、主の頭上を通り越して日陰の中を見た。その先でわずかに丸くなった青色に、上がっていた口角が少し下がる。膝丸の意図は伝わった。兄に対し、どちらかに肩入れはするなと釘を刺したのだ。賢明な判断だった。
「ふぅん? お前はあちらにつくのかい?」
「何を言う。我ら兄弟、誰につくかと問われれば、答えはひとつしかないだろう」
「あはは、その通り。では主、君の重宝たちはがんばって水遊びしてくるよ」
「あ、うん……よろしく……え? 今って何の話してた? よく分からなかったんだけど……」
「……君はもう少し自分の状況に自覚的になるべきでは」
「こらこら、弟。これから出陣なのだから、馬に蹴られるようなことは控えなさい」
「先に首を突っ込んだのは兄者ではないか」
ぽんぽんと調子よく会話を弾ませながら、部隊長を置いて隊員たちは門の方へ向かって歩き始めてしまった。主は未だ混乱した様子で、髭切と膝丸の背中を指さしながらこちらを見る。
「……治金丸、今の分かった?」
「ああ、なんとなく」
「刀たちの会話、ときどき難しくて分からない」
「主はそれでいいんだ。じゃあオレも行ってくる」
「いってらっしゃい……」
腑に落ちていないのだろう、とぼとぼと縁側に戻る主に小さく笑みを浮かべ、背を向ける。しかし耳だけはしっかりと、後ろを向いていた。
「笹貫は理解できた?」
「当然。弟くんに応援されちゃった」
「ええ? そんなタイミングあった?」
「言ってたじゃん、お似合いだって」
「それは髭切が」
「いやいや、弟くんが。ね、治金丸くん」
「……」
足を止め、振り返る。日差しが入り込み始めた縁側で、笹貫はまっすぐにこちらを見ていた。青い瞳を細める姿は、やはり少しの不快感を煽る。無視して行ってしまおうかとも考えたが、主がいる手前、そのようなこともできない。主の隣で優位を示す笑みに、こちらもできる限り挑発的に――彼の神経を逆なでするように、口角を上げて見せた。
「そうだな。だが空はひまわりに触れることなどできない。逆もしかりだ」
「はは、言うねぇ。でもオレ、幸いなことに刀だし」
「そうだな、オレもだ」
お前にとっては不幸なことに、という言葉は口には出さず、視線に乗せる。
(主に妙なことをしたら、すぐにでも切り捨ててやる)
夏空に似つかわしくない冷えた視線に返ったのは、やや引きつった苦笑だった。こちらの意図は伝わっただろうと判断し、今度こそきびすを返して足早に門へと向かう。
(……影には、思考も感情も決断も、見返りも不要)
自分が分不相応なことを考え、行動している自覚はある。それでいいとは、思えていない。
(でも、やっぱりダメなものはダメだ)
主には日向で笑っていてほしい。隣に立つのは他の誰でもない――自分であってほしい。あの桃色の頬に、触れたい。
その醜悪な欲望は認めよう。飲み込もう。
(ただ、見返りはいらない。思いが成就しなくてもいい)
彼女が幸せに笑っていられるのならば、相手が誰であろうと構わない。私を滅し、彼女の幸福に尽くそう。たとえ最後に主のそばで笑っているのが、笹貫であろうとも。この恋心を、完全に、殺しきってみせる。
ただもし、彼女が傷つけようとするならば、そのときは。
「やる気十分だね、隊長殿。僕も小鬼を切らずに済みそうかな」
いつの間にか到着していた門前で、髭切がからかうように笑った。膝丸は咎めるように髭切を制したが、問題ないと口の端を上げて前に進む。
「最後の連隊戦だ。主に良い結果を持ち帰ろう」
やるべきことも、見極めるべきことも多くあるが、まずは目の前の戦から。夜には宴もあるというのだから、気合を入れないわけにはいかない。それに本丸ではできなくとも、戦場でならば、私情を滅することができる。今の妙に昂った心の内を沈めるためにも、この出陣はおあつらえ向きだった。
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