陰日向の攻防(笹貫→主←治金丸)
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残暑と呼ぶには酷なほどの熱を帯びた風が吹き抜けた。顕現から数日経過したが、未だに全貌を把握しきれていない広い本丸の一角。庭に面した一室で一生懸命うちわを動かす主の前髪がふわりと揺れる。反射的にぎゅうと目を閉じる仕草は、いっそ幼い。しかし彼女はまぎれもなく数多の刀剣男士を従える審神者であって、自分もまた、彼女のための一振りであった。
「笹貫、暑くないの?」
「ほどほどってとこかな。日陰に入れば、耐えられないほどじゃない」
信じられないと目で語る主に苦笑を返せば、彼女はよりいっそううちわを振って涼を求めた。その行動により余計に体温が上がっているのではと思わないでもないが、何せこちらは人の身を得てまだ数日。余計な口出しはせずに、口をつけていなかった麦茶を譲ってやった。
「ここの生活、ちょっとは慣れた?」
躊躇なく一気に麦茶を飲み干してから、主は唐突に言った。
「それもほどほど。とりあえず、悪い場所ではなさそうだ」
「困ったこととかない?」
「今のところは。強いて言うなら、思ったように体が動かないときがあるのが面倒ってくらいかな」
眠くなったり空腹になったり怪我をしたり、ちょっとしたことでこの体は言うことをきかなくなる。刀であった頃は疲労という感覚すら無縁であったから、手足の重さや思考の鈍さを感じるたびにうんざりした気分になった。
「物相手なんだから、その辺もうまいこと調整すれば良かったのに。ちょっと疲れただけで本領発揮できないなんてさ、あんたも面倒だろ?」
「あはは、やっぱり最初はみんな言うんだね、それ」
「そりゃ当然。だってオレたちは人じゃなくて物だ」
「人でも物でも変わらないよ」
「というと?」
「ただ大切にしたいっていうだけ」
なんてお気楽な、とは口に出さなかった。笑うような仕草をして、緑が青々と茂る庭に視線を移す。
この本丸の審神者は、他と比べてもいくらか楽観的なようだった。自分が置かれた状況を深くは気にせず、それが仕事だからというだけで、政府に言われるがまま刀たちを戦場に送る。刀剣男士が物であるということも忘れ、まるで人間にするように接する姿も幾度も見た。もしかしたらこの本丸を統べる存在であるという自覚すら欠如しているのではないかと思うほど、目の前のことしか見えていない。今日は顕現してから初めての呼び出しだが、日々の生活のことを問うばかりで、戦で役立つのか見極める、などという意識は毛頭なさそうだった。
(ま、悪い気はしないけど)
物は持ち主を選ぶことはできない。刀剣男士とてそれは同じだ。自分を顕現させた主に従うほか、道はない。どうせ折れるまで戦場に送り込まれ、いらなくなれば捨てられるような生活をさせられるのだろうと考えていたし、実際そのような本丸もあるのだと聞く。その点、彼女はお気楽ではあるものの人格に問題があるわけではない。他の刀たちの様子を見ても、彼女に大切にされてきたのだろうということが一目で知れる。
(ほどほどに戦働きして、ほどほどにこの身体での生活を楽しんで。思ったよりもぬるそうだけど、思ったよりも悪くはない。当たりを引いたって感じだな)
真夏の日差しを受けてまぶしいほどに輝く草木を眺めながら口角を上げる。熱がそのまま押し寄せるような風は不快だが、心が波立つこともない。穏やかな、ただの夏の日。盗み見るように視線だけを横に流せば、ちょうどこちらを向いた主としっかり目が合った。わずかに胸の内がざわめくが、平静を装ってそのまま目を細める。彼女はくすぐったそうに笑いながら、自分の目元を指さした。
「笹貫の目は青いんだね」
「ああ、これね」
鏡の中の自分の姿を思い起こし、わざと右側の口角を持ち上げる。
初めて鏡を見たとき、意図せずこぼれた笑いは思いのほか乾いていた。刀剣男士の容姿は、名前や逸話によって構成されることが多い。自分もその一例だ。黒髪に混ざる緑は、名前の通り笹の色。瞳の青は、深く暗い、海の色。見てすぐに気が付いた。どちらも捨てられた場所だ、と。
(それがオレの物語、だからな。当然、こうなる)
この逸話があったからこそ、今こうして身体を得ることができたのだ。特に不満はない。ただ、皮肉だと考えた。それだけ。それ以上のことも、それ以下のこともなかった。
しかしこの楽観的な主は易々と、それ以外の答えを出して見せる。
「空の色だね」
「……空?」
思いがけない言葉に、意図せずまぶたがゆっくりと上下した。主はこちらの様子など気にもせず、冗談交じりに笑いながら続ける。
「刀だったとき、たくさん見てたんじゃない? とんぼのめがねは~って歌、あるし」
「とんぼ?」
「とんぼのめがねが青いのは、青い空を飛んだからってやつ。刀は飛ばないから、見てたんだよ、たぶん」
不意に、覚えのない記憶が蘇る。
ざわざわと木々がささやく竹やぶの中。高くそびえるような幹と、刀のように鋭利な葉。その合間をすべて染め上げる、抜けるような青色。
深い深い水の中。波の音すら聞こえない海の底は、限りなく黒に近い場所だった。そこから見上げた、遠く水面で揺らめく太陽の光と、その周囲に透けて見える、淡い水色。
手があれば伸ばしていたかもしれない。喉があれば声を上げたかもしれない。自分はここにいるのだと訴えかけ――実際は届きもしなかった、遥か彼方の、空の色。
この瞳はそれを映しているのだと、彼女は言う。
(……バカバカしい)
漏れ出そうになった皮肉げな笑いを、口元を隠すことで喉の奥に押し戻した。
ずっと見ていたから、その色が移った。いかにもお気楽な主らしい、夢のような話だ。おとぎ話にすらならない。だいたい、これが空の色ならば、髪の緑は何の色だというのだ。こちらだけは捨てられた場所の色なのだと言われてもバランスがとれない。緑は竹やぶ、青は海。それしかない。それでいい。別に何とも思ってはいない。単純な事実に傷つくほど青くはない。それなのに――口角が上向くのを、止められない。
「……確かに見てたよ、空」
「え、ほんとに?」
「あんま覚えてないけど、見てた。それ以外に見るもの、なかったから」
「そんなことないでしょ」
「そんなことあったんだな、これが。バカバカしいけど」
本当に心底、どうしようもないほどバカバカしい。海の青だろうが空の青だろうが何も変わりはないと思う反面、何とも形容しがたい感情が腹の底から湧いてくる。それの正体は、分からない。けれど心のどこかがすっと軽くなったのは、気のせいではない。
(主のお気楽ちゃんが伝染したな)
不思議そうに首を傾げる主には、やはり少しの幼さを感じる。楽観的なところも、幼稚と言えば幼稚だ。
(でも、当たりだ)
刀は持ち主を選べない。しかし早くも彼女の刀で良かったと考え始めている自分がいる。彼女の手に振るわれたい。戻るならば、彼女の手の中がいい。いつか捨てられたとしても、喜んで自らこの場所に戻るだろう――たとえ彼女が、望まなくとも。じわじわと、心の端に欲が滲み始める。
丸く黒い瞳が、ふとオレを映して意味もなく細められた。例えばその瞳が、長く映し続けたものの色に染まるのだとしたら、いつか青に染まればいい。海の色でも空の色でもない。
この瞳の色に、染まってしまえ。
(……なんて、ジョーダン)
今度は隠すことなく浮かべた苦笑いに、主は訝しげに眉を寄せる。しかし庭からやってきた熱風に気を取られ、情けないうめき声を上げながら再びうちわで顔をあおぎ始めた。
*****
厨を出て廊下を進み、縁側に出る。途端に降ってきた蝉しぐれに、げっそりとした気分で空を見上げた。
本土の夏はとにかく湿度が高い。じりじりと照る日差しはともかく、まとわりつくような暑さにはどうにも慣れない。水を浴びられるという点では、ここのところ出陣している海辺の方がまだマシだろう。誰もいないのをいいことにため息を吐き出し、縁側を歩く。
向かう先は主が気に入っている一室。北側にあるためほとんどの時間で陰がさす、本丸の中でも比較的涼しい場所だ。彼女は夏の間、一時的にそこをし執務室代わりにしていた。
(起きているだろうか)
部隊が出陣している間は気が張りつめているのだろう、休憩時間に入ると主は短い仮眠を取ることが多かった。固い畳の上で体を丸めて眠る姿は小動物のようで、見つけるたびに微笑ましい気分にさせられる。出陣の予定表を見ながら程よい頃合いに起こしてやるのは、いつの間にか自分の役割のひとつになっていた。
(主のそばは、穏やかな時間が流れている。あの人は、陽だまりの中を生きている)
今代の主は、戦を知らない人だった。
この本丸の主として多くの刀たちを統べ、刀剣男士たちを幾度となく戦場に送り出していても、本人は戦の凄惨さを知らない。部隊が血まみれで戻ってくれば心を痛め、刀たちが少しでも快適に過ごせるようあれこれ気を配ってくれるような優しさを持ち合わせてはいるが、敵を殲滅するというのがどういうことなのかは、本質的には分かっていない。
戦の前線に立つ者であるはずなのに、いつまで経っても、彼女からは血のにおいがしなかった。
(それは、責められるようなことではない)
寧ろ守られるべきものだと、強く思う。
未だ続く夏の連隊戦を楽しいなどと言えるのは、彼女が戦から遠い場所に立てていることの証左だ。自分たちの活躍を、後ろ暗さを感じずに手放しで褒めたたえてくれるのは、命を脅かされたことがないことの証明だ。
(それでいい。主は、それでいい)
彼女は、戦のなんたるかなど知る必要はない。あの人がただ、堂々と太陽の下を歩いていてくれたら、それだけでいい。心から、そう思う。
(血にまみれ、泥にまみれ、刃を振るうのは影の役目)
影はただ主が思うまま、動くのみ。思考も感情も決断もない。見返りも不要だ。ただ、もし何かを求めることが許されるのならば――静かに寝息を立てる彼女のそばに留まることを、あの穏やかで優しい10分間を共にすることを、望むだろう。
「……主、いるか?」
蝉しぐれが降らせた汗をぬぐい、扉越しに一声かける。きっと眠っているだろうという予想に反して返ってきた声と、室内に感じるもうひとつに気配に、落胆しなかったと言えばうそになる。しかし努めていつも通りに扉を開くと、青い双眸がこちらを見て細められた。
「……お前もいたのか」
「主にご招待いただいたものでね」
なるほど、新入りの面談の最中だったらしい。笹貫は常に浮かべている薄ら笑いを顔に貼りつけ、ちらりと視線だけを主に送った。
かの刀に思うところは大いにある。彼自身というよりは、過去の歴史によるもの。彼に対するこの複雑な思いは、きっと本能に近い。しかし今は同じ主のもとに集った刀同士だ。私情を挟むつもりもない。牽制と忠告もすでに済ませた。だからなるべく他の刀たちにするのと同じように、努めて柔らかい口調を心がけた。
「そうか。邪魔してすまない。あとで出直す」
「あ、大丈夫大丈夫。もう終わったから」
主は暑くて仕方がないと全身から伝わるほど気だるげに姿勢を崩した。夏が苦手な彼女らしい。対する笹貫は多少汗ばんではいるものの涼しい顔で薄く笑みを浮かべている。ふたつのコップは空になり、まとっていただろう水滴もとうに蒸発していた。
「何か用だった?」
「おやつの準備ができたと、ちい兄が。今日はかき氷だよ」
「なんてありがたい……」
「それっておいしいの?」
「冷たくておいしいよ。笹貫も行こう」
「……それよりさ、主。さっきの、治金丸くんにも聞いてみたら?」
「目の話?」
「そ」
主を映していた青色が、他意を伴ってちらりとこちらを見た。話が読めずに視線で続きを促すと、代わりに主が答えをくれる。
「目の色は長く見ていたものと同じ色になるんじゃないかっていう、とんぼのめがね理論の話をしてたんだけど」
「とんぼ?」
「あれ、治金丸も知らない? そういう歌があって……まあいいか。で、笹貫の青は空かなって話になって、じゃあ私の目は何かなって」
「オレは夜空の色って言ったんだけど、黒じゃなくてこげ茶だって言って聞かなくてさ」
「本当だってば。私の目、太陽の下で見たら結構明るい茶色だよ?」
ほらと言いながら、主はさらに窓際に寄って自分の瞳を指さした。本人の言う通り、光がさす場所では明るいこげ茶色に見える。間違っても黒ではないだろう。同意を示すと主はうれしそうに頷き――しかしふと、その横顔に影が差した。
「へえ、ホントだ」
笹貫が、主のそばに立っていた。羽織ったままの青い着物の端を持ち上げ、幕のようにして主の上に影を作る。
「光の入り方で、こんなに違って見えるんだな」
まるで、そのまま羽織の中に主を閉じ込め隠してしまいそうな、あるいは太陽の光が届かない場所に彼女を引き込んでしまいそうな、どこか不穏な、笑み。
「でもオレは、こっちのが好きかな」
軽い調子の中ににじむ妙な湿度と、一瞬だけこちらに流された、余裕ぶった青色の視線。ざわりと背筋が震え、無意識のうちに鞘を掴んでいた。遅れて頭が、あれは危険だと信号を発する。心が、赤く染まるような感覚に襲われる。
(あれは、ダメだ。主のそばに、置いてはおけない)
理屈よりも感情が優先していた。とにかくダメだと、そればかりが頭を巡る。
(あれはきっと簡単に主を傷つけることができる刀だ)
自分が良しとすれば主の意思など捨て置き、自分が思うようにしてしまうに違いない。良心の呵責などない。心を抉ることにも、太陽の下からこちら側に――暗い陰の中へ引きずり込むことにも、躊躇はしない。そう思わせるような底が見えない暗い目が、形だけは笑んで主を見下ろす様が、気味が悪い。
(危険だ)
本能が、そう訴える。手がそっと柄を握り、少しずつ体が戦闘準備を整える。もし指一本でも彼女に触れようものならば、その手ごと落とす。それくらいやらねば、きっとこの刀は引いたりはしない。
意識的に貼り付けたはずの温厚さなど、とうに剥がれ落ちていたのだろう。笹貫はもう一度こちらに目を向けると、苦笑にも似た表情を浮かべて両手を挙げた。その拍子にばさりと羽織が元の場所に落ち、きょとんと丸くなっていた主の瞳に明るさが戻る。
「ジョーダン、ではないけど。別に取って食いやしないよ」
「……」
「……えっ? なに? どういうこと?」
オレと笹貫の間で、主がうろうろと視線をさ迷わせた。何が起こっていたのかは理解していないが、不穏な空気であることは察したのだろう。眉尻を下げてどうしたのかと問うてくる主に、なんでもないと笑って柄を離す。けれど鞘はそのまま、視線もあの刀から引きはがすことはできなかった。
「かき氷、だっけ? 早く食べに行こ」
笹貫は今度こそ正真正銘の苦笑いを見せ、ゆるやかな仕草で前髪をかきあげながら軽い口調で言った。それから主の返答を待つでも、オレの様子を窺うでもなく、「先に行ってる」とひらひらと手を振って部屋を出ていった。廊下の角を曲がるまでその背をじっと見据えるが、とうとう笹貫は振り向くこともせず姿を消した。
「ごめん、もしかして私、悪いことしちゃった?」
気まずそうな声音に室内を見れば、よろよろと立ち上がった主が笹貫を追うように廊下まで出てきた。部屋から体を乗り出して無人の廊下を認めると、「大丈夫かな」と不安そうにつぶやく。
「……暑いからな。さすがに笹貫も疲れているんじゃないか?」
うそをつきたいわけではなかったが、彼女に不要な心配をさせるわけにもいかない。本意ではなかったがそれらしい言葉を連ねれば、主は納得したように頷いて廊下に出た。その後ろに続きながら、考える。
心根が優しい彼女は、きっとあの刀の本質には気が付くことができない。
(ならば、オレが守らねば)
鞘を掴む手のひらに、さらに力をこめる。彼女のことは誰にも傷つけさせたりはしない。彼女が誰かの悪意にさらされることなど、あってはならない。この人は影の中の冷ややかさなど知らないまま、ただ穏やかに、あたたかな日差しの中だけを歩いていくのだ。その道行きを妨げようとする者がいるならば、たとえそれが仲間であっても、許すことは、できない。
「笹貫、暑くないの?」
「ほどほどってとこかな。日陰に入れば、耐えられないほどじゃない」
信じられないと目で語る主に苦笑を返せば、彼女はよりいっそううちわを振って涼を求めた。その行動により余計に体温が上がっているのではと思わないでもないが、何せこちらは人の身を得てまだ数日。余計な口出しはせずに、口をつけていなかった麦茶を譲ってやった。
「ここの生活、ちょっとは慣れた?」
躊躇なく一気に麦茶を飲み干してから、主は唐突に言った。
「それもほどほど。とりあえず、悪い場所ではなさそうだ」
「困ったこととかない?」
「今のところは。強いて言うなら、思ったように体が動かないときがあるのが面倒ってくらいかな」
眠くなったり空腹になったり怪我をしたり、ちょっとしたことでこの体は言うことをきかなくなる。刀であった頃は疲労という感覚すら無縁であったから、手足の重さや思考の鈍さを感じるたびにうんざりした気分になった。
「物相手なんだから、その辺もうまいこと調整すれば良かったのに。ちょっと疲れただけで本領発揮できないなんてさ、あんたも面倒だろ?」
「あはは、やっぱり最初はみんな言うんだね、それ」
「そりゃ当然。だってオレたちは人じゃなくて物だ」
「人でも物でも変わらないよ」
「というと?」
「ただ大切にしたいっていうだけ」
なんてお気楽な、とは口に出さなかった。笑うような仕草をして、緑が青々と茂る庭に視線を移す。
この本丸の審神者は、他と比べてもいくらか楽観的なようだった。自分が置かれた状況を深くは気にせず、それが仕事だからというだけで、政府に言われるがまま刀たちを戦場に送る。刀剣男士が物であるということも忘れ、まるで人間にするように接する姿も幾度も見た。もしかしたらこの本丸を統べる存在であるという自覚すら欠如しているのではないかと思うほど、目の前のことしか見えていない。今日は顕現してから初めての呼び出しだが、日々の生活のことを問うばかりで、戦で役立つのか見極める、などという意識は毛頭なさそうだった。
(ま、悪い気はしないけど)
物は持ち主を選ぶことはできない。刀剣男士とてそれは同じだ。自分を顕現させた主に従うほか、道はない。どうせ折れるまで戦場に送り込まれ、いらなくなれば捨てられるような生活をさせられるのだろうと考えていたし、実際そのような本丸もあるのだと聞く。その点、彼女はお気楽ではあるものの人格に問題があるわけではない。他の刀たちの様子を見ても、彼女に大切にされてきたのだろうということが一目で知れる。
(ほどほどに戦働きして、ほどほどにこの身体での生活を楽しんで。思ったよりもぬるそうだけど、思ったよりも悪くはない。当たりを引いたって感じだな)
真夏の日差しを受けてまぶしいほどに輝く草木を眺めながら口角を上げる。熱がそのまま押し寄せるような風は不快だが、心が波立つこともない。穏やかな、ただの夏の日。盗み見るように視線だけを横に流せば、ちょうどこちらを向いた主としっかり目が合った。わずかに胸の内がざわめくが、平静を装ってそのまま目を細める。彼女はくすぐったそうに笑いながら、自分の目元を指さした。
「笹貫の目は青いんだね」
「ああ、これね」
鏡の中の自分の姿を思い起こし、わざと右側の口角を持ち上げる。
初めて鏡を見たとき、意図せずこぼれた笑いは思いのほか乾いていた。刀剣男士の容姿は、名前や逸話によって構成されることが多い。自分もその一例だ。黒髪に混ざる緑は、名前の通り笹の色。瞳の青は、深く暗い、海の色。見てすぐに気が付いた。どちらも捨てられた場所だ、と。
(それがオレの物語、だからな。当然、こうなる)
この逸話があったからこそ、今こうして身体を得ることができたのだ。特に不満はない。ただ、皮肉だと考えた。それだけ。それ以上のことも、それ以下のこともなかった。
しかしこの楽観的な主は易々と、それ以外の答えを出して見せる。
「空の色だね」
「……空?」
思いがけない言葉に、意図せずまぶたがゆっくりと上下した。主はこちらの様子など気にもせず、冗談交じりに笑いながら続ける。
「刀だったとき、たくさん見てたんじゃない? とんぼのめがねは~って歌、あるし」
「とんぼ?」
「とんぼのめがねが青いのは、青い空を飛んだからってやつ。刀は飛ばないから、見てたんだよ、たぶん」
不意に、覚えのない記憶が蘇る。
ざわざわと木々がささやく竹やぶの中。高くそびえるような幹と、刀のように鋭利な葉。その合間をすべて染め上げる、抜けるような青色。
深い深い水の中。波の音すら聞こえない海の底は、限りなく黒に近い場所だった。そこから見上げた、遠く水面で揺らめく太陽の光と、その周囲に透けて見える、淡い水色。
手があれば伸ばしていたかもしれない。喉があれば声を上げたかもしれない。自分はここにいるのだと訴えかけ――実際は届きもしなかった、遥か彼方の、空の色。
この瞳はそれを映しているのだと、彼女は言う。
(……バカバカしい)
漏れ出そうになった皮肉げな笑いを、口元を隠すことで喉の奥に押し戻した。
ずっと見ていたから、その色が移った。いかにもお気楽な主らしい、夢のような話だ。おとぎ話にすらならない。だいたい、これが空の色ならば、髪の緑は何の色だというのだ。こちらだけは捨てられた場所の色なのだと言われてもバランスがとれない。緑は竹やぶ、青は海。それしかない。それでいい。別に何とも思ってはいない。単純な事実に傷つくほど青くはない。それなのに――口角が上向くのを、止められない。
「……確かに見てたよ、空」
「え、ほんとに?」
「あんま覚えてないけど、見てた。それ以外に見るもの、なかったから」
「そんなことないでしょ」
「そんなことあったんだな、これが。バカバカしいけど」
本当に心底、どうしようもないほどバカバカしい。海の青だろうが空の青だろうが何も変わりはないと思う反面、何とも形容しがたい感情が腹の底から湧いてくる。それの正体は、分からない。けれど心のどこかがすっと軽くなったのは、気のせいではない。
(主のお気楽ちゃんが伝染したな)
不思議そうに首を傾げる主には、やはり少しの幼さを感じる。楽観的なところも、幼稚と言えば幼稚だ。
(でも、当たりだ)
刀は持ち主を選べない。しかし早くも彼女の刀で良かったと考え始めている自分がいる。彼女の手に振るわれたい。戻るならば、彼女の手の中がいい。いつか捨てられたとしても、喜んで自らこの場所に戻るだろう――たとえ彼女が、望まなくとも。じわじわと、心の端に欲が滲み始める。
丸く黒い瞳が、ふとオレを映して意味もなく細められた。例えばその瞳が、長く映し続けたものの色に染まるのだとしたら、いつか青に染まればいい。海の色でも空の色でもない。
この瞳の色に、染まってしまえ。
(……なんて、ジョーダン)
今度は隠すことなく浮かべた苦笑いに、主は訝しげに眉を寄せる。しかし庭からやってきた熱風に気を取られ、情けないうめき声を上げながら再びうちわで顔をあおぎ始めた。
*****
厨を出て廊下を進み、縁側に出る。途端に降ってきた蝉しぐれに、げっそりとした気分で空を見上げた。
本土の夏はとにかく湿度が高い。じりじりと照る日差しはともかく、まとわりつくような暑さにはどうにも慣れない。水を浴びられるという点では、ここのところ出陣している海辺の方がまだマシだろう。誰もいないのをいいことにため息を吐き出し、縁側を歩く。
向かう先は主が気に入っている一室。北側にあるためほとんどの時間で陰がさす、本丸の中でも比較的涼しい場所だ。彼女は夏の間、一時的にそこをし執務室代わりにしていた。
(起きているだろうか)
部隊が出陣している間は気が張りつめているのだろう、休憩時間に入ると主は短い仮眠を取ることが多かった。固い畳の上で体を丸めて眠る姿は小動物のようで、見つけるたびに微笑ましい気分にさせられる。出陣の予定表を見ながら程よい頃合いに起こしてやるのは、いつの間にか自分の役割のひとつになっていた。
(主のそばは、穏やかな時間が流れている。あの人は、陽だまりの中を生きている)
今代の主は、戦を知らない人だった。
この本丸の主として多くの刀たちを統べ、刀剣男士たちを幾度となく戦場に送り出していても、本人は戦の凄惨さを知らない。部隊が血まみれで戻ってくれば心を痛め、刀たちが少しでも快適に過ごせるようあれこれ気を配ってくれるような優しさを持ち合わせてはいるが、敵を殲滅するというのがどういうことなのかは、本質的には分かっていない。
戦の前線に立つ者であるはずなのに、いつまで経っても、彼女からは血のにおいがしなかった。
(それは、責められるようなことではない)
寧ろ守られるべきものだと、強く思う。
未だ続く夏の連隊戦を楽しいなどと言えるのは、彼女が戦から遠い場所に立てていることの証左だ。自分たちの活躍を、後ろ暗さを感じずに手放しで褒めたたえてくれるのは、命を脅かされたことがないことの証明だ。
(それでいい。主は、それでいい)
彼女は、戦のなんたるかなど知る必要はない。あの人がただ、堂々と太陽の下を歩いていてくれたら、それだけでいい。心から、そう思う。
(血にまみれ、泥にまみれ、刃を振るうのは影の役目)
影はただ主が思うまま、動くのみ。思考も感情も決断もない。見返りも不要だ。ただ、もし何かを求めることが許されるのならば――静かに寝息を立てる彼女のそばに留まることを、あの穏やかで優しい10分間を共にすることを、望むだろう。
「……主、いるか?」
蝉しぐれが降らせた汗をぬぐい、扉越しに一声かける。きっと眠っているだろうという予想に反して返ってきた声と、室内に感じるもうひとつに気配に、落胆しなかったと言えばうそになる。しかし努めていつも通りに扉を開くと、青い双眸がこちらを見て細められた。
「……お前もいたのか」
「主にご招待いただいたものでね」
なるほど、新入りの面談の最中だったらしい。笹貫は常に浮かべている薄ら笑いを顔に貼りつけ、ちらりと視線だけを主に送った。
かの刀に思うところは大いにある。彼自身というよりは、過去の歴史によるもの。彼に対するこの複雑な思いは、きっと本能に近い。しかし今は同じ主のもとに集った刀同士だ。私情を挟むつもりもない。牽制と忠告もすでに済ませた。だからなるべく他の刀たちにするのと同じように、努めて柔らかい口調を心がけた。
「そうか。邪魔してすまない。あとで出直す」
「あ、大丈夫大丈夫。もう終わったから」
主は暑くて仕方がないと全身から伝わるほど気だるげに姿勢を崩した。夏が苦手な彼女らしい。対する笹貫は多少汗ばんではいるものの涼しい顔で薄く笑みを浮かべている。ふたつのコップは空になり、まとっていただろう水滴もとうに蒸発していた。
「何か用だった?」
「おやつの準備ができたと、ちい兄が。今日はかき氷だよ」
「なんてありがたい……」
「それっておいしいの?」
「冷たくておいしいよ。笹貫も行こう」
「……それよりさ、主。さっきの、治金丸くんにも聞いてみたら?」
「目の話?」
「そ」
主を映していた青色が、他意を伴ってちらりとこちらを見た。話が読めずに視線で続きを促すと、代わりに主が答えをくれる。
「目の色は長く見ていたものと同じ色になるんじゃないかっていう、とんぼのめがね理論の話をしてたんだけど」
「とんぼ?」
「あれ、治金丸も知らない? そういう歌があって……まあいいか。で、笹貫の青は空かなって話になって、じゃあ私の目は何かなって」
「オレは夜空の色って言ったんだけど、黒じゃなくてこげ茶だって言って聞かなくてさ」
「本当だってば。私の目、太陽の下で見たら結構明るい茶色だよ?」
ほらと言いながら、主はさらに窓際に寄って自分の瞳を指さした。本人の言う通り、光がさす場所では明るいこげ茶色に見える。間違っても黒ではないだろう。同意を示すと主はうれしそうに頷き――しかしふと、その横顔に影が差した。
「へえ、ホントだ」
笹貫が、主のそばに立っていた。羽織ったままの青い着物の端を持ち上げ、幕のようにして主の上に影を作る。
「光の入り方で、こんなに違って見えるんだな」
まるで、そのまま羽織の中に主を閉じ込め隠してしまいそうな、あるいは太陽の光が届かない場所に彼女を引き込んでしまいそうな、どこか不穏な、笑み。
「でもオレは、こっちのが好きかな」
軽い調子の中ににじむ妙な湿度と、一瞬だけこちらに流された、余裕ぶった青色の視線。ざわりと背筋が震え、無意識のうちに鞘を掴んでいた。遅れて頭が、あれは危険だと信号を発する。心が、赤く染まるような感覚に襲われる。
(あれは、ダメだ。主のそばに、置いてはおけない)
理屈よりも感情が優先していた。とにかくダメだと、そればかりが頭を巡る。
(あれはきっと簡単に主を傷つけることができる刀だ)
自分が良しとすれば主の意思など捨て置き、自分が思うようにしてしまうに違いない。良心の呵責などない。心を抉ることにも、太陽の下からこちら側に――暗い陰の中へ引きずり込むことにも、躊躇はしない。そう思わせるような底が見えない暗い目が、形だけは笑んで主を見下ろす様が、気味が悪い。
(危険だ)
本能が、そう訴える。手がそっと柄を握り、少しずつ体が戦闘準備を整える。もし指一本でも彼女に触れようものならば、その手ごと落とす。それくらいやらねば、きっとこの刀は引いたりはしない。
意識的に貼り付けたはずの温厚さなど、とうに剥がれ落ちていたのだろう。笹貫はもう一度こちらに目を向けると、苦笑にも似た表情を浮かべて両手を挙げた。その拍子にばさりと羽織が元の場所に落ち、きょとんと丸くなっていた主の瞳に明るさが戻る。
「ジョーダン、ではないけど。別に取って食いやしないよ」
「……」
「……えっ? なに? どういうこと?」
オレと笹貫の間で、主がうろうろと視線をさ迷わせた。何が起こっていたのかは理解していないが、不穏な空気であることは察したのだろう。眉尻を下げてどうしたのかと問うてくる主に、なんでもないと笑って柄を離す。けれど鞘はそのまま、視線もあの刀から引きはがすことはできなかった。
「かき氷、だっけ? 早く食べに行こ」
笹貫は今度こそ正真正銘の苦笑いを見せ、ゆるやかな仕草で前髪をかきあげながら軽い口調で言った。それから主の返答を待つでも、オレの様子を窺うでもなく、「先に行ってる」とひらひらと手を振って部屋を出ていった。廊下の角を曲がるまでその背をじっと見据えるが、とうとう笹貫は振り向くこともせず姿を消した。
「ごめん、もしかして私、悪いことしちゃった?」
気まずそうな声音に室内を見れば、よろよろと立ち上がった主が笹貫を追うように廊下まで出てきた。部屋から体を乗り出して無人の廊下を認めると、「大丈夫かな」と不安そうにつぶやく。
「……暑いからな。さすがに笹貫も疲れているんじゃないか?」
うそをつきたいわけではなかったが、彼女に不要な心配をさせるわけにもいかない。本意ではなかったがそれらしい言葉を連ねれば、主は納得したように頷いて廊下に出た。その後ろに続きながら、考える。
心根が優しい彼女は、きっとあの刀の本質には気が付くことができない。
(ならば、オレが守らねば)
鞘を掴む手のひらに、さらに力をこめる。彼女のことは誰にも傷つけさせたりはしない。彼女が誰かの悪意にさらされることなど、あってはならない。この人は影の中の冷ややかさなど知らないまま、ただ穏やかに、あたたかな日差しの中だけを歩いていくのだ。その道行きを妨げようとする者がいるならば、たとえそれが仲間であっても、許すことは、できない。