陰日向の攻防(笹貫→主←治金丸)
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肌を焼くような日差しに秋の気配がにじみ始めた。心地よさを感じる爽やかな風に誘われるように執務室の窓から外を眺めれば、心なしか空の位置が高く見える。夏の間浮いていた大きな入道雲もいつの間にか解けて、水色の空の中にバラバラと浮いていた。どうやらすぐそこまで秋が来ているらしい。
一人きりであるのをいいことに、座布団を枕に執務室の中央に横になる。目を閉じれば、暑さに辟易しながらもはしゃぎまわった夏の思い出が蘇る。
今年の夏も楽しかった。ほんの数日間の夏休みは現世の友人と旅行に行けたし、その後の戦績も悪くない。刀たちは嬉々として連隊戦に出かけて毎日ずぶ濡れになって帰ってきた。すっかり水砲戦のなんたるかを心得た治金丸はほとんど戦に出ずっぱりだったが、これも役割だから気にするなと頼もしく笑ってくれた。結果的には新しい刀を迎えることもできたし、戦果は上々だろう。治金丸たち兄弟3振りは功労者ということで、夏の最後の宴会兼歓迎会では盛大に接待されていた。
(楽しかったな……)
日が少し陰った執務室の気温は快適だった。少し火照ったような手足が別の種類の熱をもって、眠気を訴える。確かな形を保っていた意識は雲のようにバラバラと解け、気がつけば眠りに落ちていた。
「おはよ」
ぱち、とまばたきをひとつ。それから落とされた言葉の意味を考えて、反射のように同じ言葉を返す。畳に直接腰を下ろし、真上から私を見下ろす笹貫は、くすぐっそうに笑ってみせた。
「あんまり気持ち良さそうに寝てるもんだから、起こすの忘れてつい見とれちゃったよ」
「……寝てた?」
まさか。ふわふわと辺りに散らばっていた意識が急速に元に形に戻り、全身から血の気が引く。ほんの少しの休憩のつもりだったのに、彼が執務室に入ってきたことにも気が付かないとは何事か。勢いよく体を起こし時計を見る。最後に見たときから経過したのはおよそ15分。眠りすぎということはなかったらしい。ほっと息を吐くと、隣から忍び笑いが聞こえた。
「……ごめん、用だった?」
「遠征の報告に来ただけ。って言っても資材は蔵に入れたし記録も済んでるけど」
「なのにわざわざ来てくれたの?」
「そ。主に会う口実を逃す手はないだろ?」
「またそういうことを……」
夏の戦場から治金丸たちが連れ帰ったのがこの笹貫という刀だ。言動は若いが実年齢は刀剣男士たちの中でもかなり上の方になるらしい。飄々として掴みどころのない刀だが、こうして冗談も交えながら親愛を示してくれる姿に悪い気はしていなかった。
「あ、冗談だと思ってる?」
わずかに口を尖らせた笹貫に、今度は私が笑いを漏らした。
「本気にする方がどうかしてると思うけど」
「ひど。オレってこう見えてかなり一途よ?」
「はいはい。……仕事戻らなきゃ」
両手を上げて背中をそらし、凝り固まった筋肉をほぐす。まだ不服そうにしている笹貫に少しだけ笑えば、いよいよ彼は不機嫌を隠すことなく子どものようにぶすくれて見せた。刀として重ねてきた年月が長くとも、体を得たのはつい最近。ここまで素直に感情を示されるといっそかわいらしさすら感じ、からかってやろうかと口を開きかけた、次の瞬間。
私は畳の上に逆戻りし、再び笹貫の顔を見上げていた。
「……え?」
間の抜けた声を漏らし、パチパチと無意味なまばたきを繰り返す。何が起こったのか、咄嗟に理解できなかった。ただ呆然と、曇ったアイスブルーを見上げる。彼に押し倒されたのだと気がついたのは数秒後で、しかしそのときにはもう、遅かった。
「じゃあさ、どうにかなっちゃったら、オレの本気、理解してくれんの?」
「は……、っ!?」
笹貫がゆっくりと右側の口角を持ち上げるのが見えた。続いて見えたのは屋内にあってなお鈍く光る、抜身の刀。悲鳴を上げる間も、恐怖を感じる間すらなく、鋭い切っ先が躊躇なく振り下ろされた。ざくりと、何かが切れる音が左耳のすぐそばで聞こえる。首のすぐ横に突き立てられた刀身の先で、笹貫は口元だけで笑った。
「大丈夫、殺さないよ」
いっそうっとりと語る男に、安心感など抱くはずもない。ただただ瞠目して、自身の刀を見上げる。何が起きているのか分からない。この刀の意図が読めない。けれど危険が迫っていることは、分かる。うるさいくらいに心臓が鳴る。呼吸が荒い。機械的に細められたアイスブルーから目を離したら、次の瞬間には喉をかき切られてしまうのではないかと、恐怖が心を埋め尽くす。
「かわいそうに、こんなに怯えちゃって」
指の1本すら動かすことができない私に、笹貫は上辺だけの同情とともに手を伸ばした。刀が迫るのとは反対側の首筋をそっと撫でる指先は、熱い。もしやこのまま首を締め殺されるのか。ドクドクと脈打つ血管の上を、笹貫は指の腹で確かめるようになぞる。
「やわいねぇ。同じ人の身でも、やっぱり鍛えてない体は筋肉も肌も柔らかい。スパッと落とせたら、かなりアガるだろうな」
冷え切っていたアイスブルーの中に、ちりと、小さな炎が揺れ動く。きっと真っ青になっているであろう私とは対象的に、彼の頬はうっすらと赤がさし始めている。首筋を這う指先の熱が温度を増している。「アガる」という言葉の通り、彼が徐々に高揚しているのだと気が付き、背筋がぞっと震えた。
「はは、震えてんの? かわいいね、その、何されるか全然分かってない顔」
「こ、殺すの……?」
「まさか、そんなもったいないことしないよ。ただちょっと、思っただけ。……どっちの方が気持ち良いのかなって」
「は……?」
「あるんでしょ? この身体じゃないとできない高まり方。……ね、試してみない? このまま、ここで」
「っ!?」
鼻先が触れそうな距離までアイスブルーが迫る。話が読めない。行動はもっと読めない。ただ、動けば触れる。私と笹貫も。ふたつの首筋と鈍く光る刃も。少しでも間違えば、触れて、切れる。
「大丈夫、痛くないよ。切れ味だけはいいから、オレ」
「そ、そういうことじゃない……!」
「ええ? でも痛い思いさせたいわけじゃないからさぁ」
「じゃあなんなの……!?」
「すっごいんだよ、命のやり取りするときの、興奮。頭沸騰するんじゃないかって、いつも思う。だから……このまましたら、主もきっと、すっごいアガるよ」
「するって、なに、なんの話を」
「分かんない? じゃあこれから教えてあげる。そんでわけ分かんないくらい良くなって、頭どうにかなって……オレの本気、受け取って」
まずいと、咄嗟に思った。焦らすように近くなるアイスブルーも、じっと動かず首筋に添えられた刀身も、このままではまずい。とにかく逃げなければならない。どうにかしなければ。けれどどうやって。力でかなう相手ではない。そもそも上からのしかかられているのだ、自力では逃げようもない。ならば。
「た……」
「た?」
「助けて治金丸ぅー!!!!!」
「げっ」
自分で出せる最も大きな声を、お腹の底から張り上げる。笹貫はぎょっとして目を丸くし、しかしすぐに慌てた様子で口元に人差し指を当てた。
「ちょっ……冗談だよ、冗談! よりによってガチ中のガチのやつ呼んでくれちゃって……!」
「ちちち治金丸が笹貫に何かされたらすぐ呼べって……治金丸ー! 早く来てー!!!!」
「しー! オレが悪かったから静かにっ……!」
「呼んだか?」
「げっ……!」
音もなく障子戸が開き、よく知った朗らかな声が隙間から聞こえた。それと同時、室内の温度がぐっと下がる。目で追えたのは、笹貫が畳に刺さったままだった刀を掴んだところまで。気がつけば障子は大きく開け放たれ、笹貫が庭の中央に転がっていた。
「ひええ……」
「主、大丈夫か?」
「! っ、はい!?」
いつの間にかすぐそばに治金丸がしゃがみこんでいた。表情はかなり険しい。普段の柔和なお顔はどこへやら、眉根を寄せて私を支え起こし、頭の先からじっと視線を走らせる。途中、首の辺りで動きが止まり、ぴくりと片眉が跳ねたのが見えた。
「な、なに……?」
「……」
「治金丸……うわっ!?」
不意に襲ってきた浮遊感に、慌てて目の前の何かにしがみつく。次いで感じたのは規則的な振動。反射的に下ろしたまぶたをそろそろと開けばそこは執務室ではなく、執務室に続く縁側だった。とんとんと軽いテンポで床を踏む音と膝裏と背中に回った腕に、自分が誰かに横抱きにされているのだと理解する。恐る恐る視線を持ち上げれば、依然顔を強張らせたままの治金丸が、感情が見えない瞳で、睨むように真っ直ぐ前を見据えていた。
「ち、治金丸……?」
「……そのまま掴まってて。すぐ医務室だから」
言われて初めて、自分がしがみついているものの正体に気がついた。無意識に伸びていた両手はぐるりと治金丸の首に回り、すぐ目の前に存外たくましい首筋が迫る。視界の端で揺れる黄色の髪とやわらかな羽根かざりにぎょっとして離れようとしたが、念を押すように腕に力を込めた治金丸によって、それはかなわなかった。
無人の医務室に着くと治金丸は私をイスに座らせ、テキパキと治療の準備を始めた。犯人の言葉の通りまったく痛みを感じなかったため自覚はなかったが、どうやら首に切り傷ができていたらしい。消毒液を染み込ませたガーゼを当てられて、ようやくピリと小さな痛みが走る。少しだけ顔を歪めると、正面のイスに座る治金丸は、ひどく痛ましそうに眉尻を下げた。
「ごめん、一人にして」
「ううん、来てくれて助かった」
「……」
「だ、大丈夫だよ。そんなに落ち込まないで」
「……気をつけてたんだ。主とあいつが、ふたりきりにならないように」
「え、なんで?」
初めて聞く事実に目を丸くすると、彼は眉根を寄せたまま、斜め下に視線を落とした。
「……あいつのこと、信用しなくちゃならないのは分かってる。もちろん、使命をまっとうするという一点については、今のところ疑ってはいない。でも……オレが嫌だったから」
「? それって、どういう……?」
「ダメなんだ、主」
肩に軽い感触が降ってきた。正面に見えていたはずの苦い顔は姿を消し、代わりにぴょんぴょんと跳ねるやわらかな髪の毛が、視界の端から見え隠れする。少し遅れて、治金丸が正面から私の肩口に額を寄せたのだと理解した。
「治金丸……?」
「頭では分かっている。でも信用できない。不安で仕方ない。あいつを主に、近づかせられない。それだけは、絶対にダメなんだ」
「な、なんで……」
「……オレが、主を」
「すみませーん、湿布くださーい」
切実さすら感じる治金丸の声を、やたらと気が抜けた間延びした声が遮った。医務室の入り口を見れば右頬を真っ赤にした笹貫が私を見つけて「奇遇だね」と微笑む。治金丸はしばらく動きを止めていたがのそりと体を起こし、ひどく冷えた目を入り口に向けた。
「あれ、お邪魔だったかな」
笹貫がニヤリと口角を上げる。治金丸はすっかり感情が消え失せた声音でそれに応じた。
「ああ、邪魔だな。どこぞの不届き者のせいで主が負傷した」
「それは大変。どこの不届き者か知らないけど、オレが診てあげるよ」
「必要ない。とっくにオレが処置した。湿布でもなんでも持ってさっさと出ていくといい」
「たはは、嫌われてんのね、オレ」
「好かれているとでも思っていたのか?」
「まさか。でもオレは治金丸くんのこと嫌いじゃないよ? かわいいよね、いっつも必死で」
いつも温厚で優しい治金丸の額に、びしりと青筋が浮いたのが見えた。空気がピリついているのが分かる。まるでいつ爆発するかも分からない、限界まで膨らんだ風船が目の前にあるかのような緊張感。ひっと悲鳴を漏らしたのは私だけで、笹貫は器用にも口元だけに笑みを貼り付け、治金丸は相変わらず険しい表情のまま、しかしふたりとも据わった目で、お互いを睨むように見ていた。
(ど、どうすれば……?)
ごくりと息を呑んでふたりのやり取りを見つめる。背後に竜と虎でも見えそうなほどの気迫に押され、動くことができない。仲裁したくとも、下手な言葉をかければ悪化するのは目に見えている。おろおろと視線を行き来させる間にも、あまり聞きたくないようなふたりのやりとりは続いている。トゲしかない会話を一時的に止め、張り詰めた空気を緩ませたのは、室外からの来訪者だった。
「主さん、いる……?」
笹貫が閉ざしたドアからひょっこりと顔を出したのは浦島虎徹だった。恐る恐る入室してきた浦島は、室内にいたのが笹貫と治金丸であるのを認めると納得したように肩から力を抜いた。
「びっくりした。すごい殺気だったから何事かと思ったよ」
「浦島、主に何か用か?」
「うん、遠征の報告。……執務室でした方がいいよね? 行こ、主さん」
おそらく空気を読んで私を助けてくれたのだろう。未だビリビリと肌を刺す緊張感などものともせず、浦島は早歩きで私のそばまで来て手を引く。突然のことにされるがまま立ち上がり入り口に向かうも、治金丸と笹貫が止める気配はなかった。その代わりと言わんばかりに、言葉での攻防が始まる。
「彼なら安心して任せられるよね、主のこと」
「珍しく気が合うな。オレも浦島なら心から信用できる」
「へえ、まるで信用できないやつがいるみたいな話しぶりだね」
「自覚がないとは重症だな。主を傷つけるようなやつを、どうやって信用しろと?」
「青いねえ。傷つけるのとかわいがるのは紙一重、だと思うけど」
「ふたりとも、程々にしときなよ……?」
呆れた様子の浦島にふたりが口の端だけを上げて笑って見せたのを最後に、パタンとドアが閉ざされた。途端に隠す気がなくなったヒリつく空気――おそらく殺気がドアの向こうで膨れ上がり、ぞっと全身の肌が粟立つ。
「う、浦島。あれ大丈夫なの? なんか……ヤバいんじゃない……!?」
「うーん……なんだかんだ、折れるまではやらないんじゃないかな」
「折れる直前まではいく可能性があるの……!?」
「ちょっとくらい平気平気! 頭冷えるまでやらせてあげよ?」
楽観的な浦島に促されるまま、振り返り振り返り廊下を進む。縁側に出ると庭から吹き込んだ風が髪を揺らしたが、不思議と暑さも涼しさも感じない。というか、それどころではない。
「なんか全然分からないんだけど、私は何に巻き込まれてたの……!?」
「やだなぁ、主さん。主さんは巻き込まれたんじゃなくて、渦中の人でしょ?」
私の動揺を冗談と受け取ったらしい浦島がケラケラと笑う。分からない。もう何も分からない。私はただ楽しかった夏の思い出を振り返っていただけなのだ。それなのに、何故こんなことに。低い声で呻く私を見て、浦島は不思議そうに首を傾げる。穏やかでない秋の訪れは、すぐそばまでせまっていた。
一人きりであるのをいいことに、座布団を枕に執務室の中央に横になる。目を閉じれば、暑さに辟易しながらもはしゃぎまわった夏の思い出が蘇る。
今年の夏も楽しかった。ほんの数日間の夏休みは現世の友人と旅行に行けたし、その後の戦績も悪くない。刀たちは嬉々として連隊戦に出かけて毎日ずぶ濡れになって帰ってきた。すっかり水砲戦のなんたるかを心得た治金丸はほとんど戦に出ずっぱりだったが、これも役割だから気にするなと頼もしく笑ってくれた。結果的には新しい刀を迎えることもできたし、戦果は上々だろう。治金丸たち兄弟3振りは功労者ということで、夏の最後の宴会兼歓迎会では盛大に接待されていた。
(楽しかったな……)
日が少し陰った執務室の気温は快適だった。少し火照ったような手足が別の種類の熱をもって、眠気を訴える。確かな形を保っていた意識は雲のようにバラバラと解け、気がつけば眠りに落ちていた。
「おはよ」
ぱち、とまばたきをひとつ。それから落とされた言葉の意味を考えて、反射のように同じ言葉を返す。畳に直接腰を下ろし、真上から私を見下ろす笹貫は、くすぐっそうに笑ってみせた。
「あんまり気持ち良さそうに寝てるもんだから、起こすの忘れてつい見とれちゃったよ」
「……寝てた?」
まさか。ふわふわと辺りに散らばっていた意識が急速に元に形に戻り、全身から血の気が引く。ほんの少しの休憩のつもりだったのに、彼が執務室に入ってきたことにも気が付かないとは何事か。勢いよく体を起こし時計を見る。最後に見たときから経過したのはおよそ15分。眠りすぎということはなかったらしい。ほっと息を吐くと、隣から忍び笑いが聞こえた。
「……ごめん、用だった?」
「遠征の報告に来ただけ。って言っても資材は蔵に入れたし記録も済んでるけど」
「なのにわざわざ来てくれたの?」
「そ。主に会う口実を逃す手はないだろ?」
「またそういうことを……」
夏の戦場から治金丸たちが連れ帰ったのがこの笹貫という刀だ。言動は若いが実年齢は刀剣男士たちの中でもかなり上の方になるらしい。飄々として掴みどころのない刀だが、こうして冗談も交えながら親愛を示してくれる姿に悪い気はしていなかった。
「あ、冗談だと思ってる?」
わずかに口を尖らせた笹貫に、今度は私が笑いを漏らした。
「本気にする方がどうかしてると思うけど」
「ひど。オレってこう見えてかなり一途よ?」
「はいはい。……仕事戻らなきゃ」
両手を上げて背中をそらし、凝り固まった筋肉をほぐす。まだ不服そうにしている笹貫に少しだけ笑えば、いよいよ彼は不機嫌を隠すことなく子どものようにぶすくれて見せた。刀として重ねてきた年月が長くとも、体を得たのはつい最近。ここまで素直に感情を示されるといっそかわいらしさすら感じ、からかってやろうかと口を開きかけた、次の瞬間。
私は畳の上に逆戻りし、再び笹貫の顔を見上げていた。
「……え?」
間の抜けた声を漏らし、パチパチと無意味なまばたきを繰り返す。何が起こったのか、咄嗟に理解できなかった。ただ呆然と、曇ったアイスブルーを見上げる。彼に押し倒されたのだと気がついたのは数秒後で、しかしそのときにはもう、遅かった。
「じゃあさ、どうにかなっちゃったら、オレの本気、理解してくれんの?」
「は……、っ!?」
笹貫がゆっくりと右側の口角を持ち上げるのが見えた。続いて見えたのは屋内にあってなお鈍く光る、抜身の刀。悲鳴を上げる間も、恐怖を感じる間すらなく、鋭い切っ先が躊躇なく振り下ろされた。ざくりと、何かが切れる音が左耳のすぐそばで聞こえる。首のすぐ横に突き立てられた刀身の先で、笹貫は口元だけで笑った。
「大丈夫、殺さないよ」
いっそうっとりと語る男に、安心感など抱くはずもない。ただただ瞠目して、自身の刀を見上げる。何が起きているのか分からない。この刀の意図が読めない。けれど危険が迫っていることは、分かる。うるさいくらいに心臓が鳴る。呼吸が荒い。機械的に細められたアイスブルーから目を離したら、次の瞬間には喉をかき切られてしまうのではないかと、恐怖が心を埋め尽くす。
「かわいそうに、こんなに怯えちゃって」
指の1本すら動かすことができない私に、笹貫は上辺だけの同情とともに手を伸ばした。刀が迫るのとは反対側の首筋をそっと撫でる指先は、熱い。もしやこのまま首を締め殺されるのか。ドクドクと脈打つ血管の上を、笹貫は指の腹で確かめるようになぞる。
「やわいねぇ。同じ人の身でも、やっぱり鍛えてない体は筋肉も肌も柔らかい。スパッと落とせたら、かなりアガるだろうな」
冷え切っていたアイスブルーの中に、ちりと、小さな炎が揺れ動く。きっと真っ青になっているであろう私とは対象的に、彼の頬はうっすらと赤がさし始めている。首筋を這う指先の熱が温度を増している。「アガる」という言葉の通り、彼が徐々に高揚しているのだと気が付き、背筋がぞっと震えた。
「はは、震えてんの? かわいいね、その、何されるか全然分かってない顔」
「こ、殺すの……?」
「まさか、そんなもったいないことしないよ。ただちょっと、思っただけ。……どっちの方が気持ち良いのかなって」
「は……?」
「あるんでしょ? この身体じゃないとできない高まり方。……ね、試してみない? このまま、ここで」
「っ!?」
鼻先が触れそうな距離までアイスブルーが迫る。話が読めない。行動はもっと読めない。ただ、動けば触れる。私と笹貫も。ふたつの首筋と鈍く光る刃も。少しでも間違えば、触れて、切れる。
「大丈夫、痛くないよ。切れ味だけはいいから、オレ」
「そ、そういうことじゃない……!」
「ええ? でも痛い思いさせたいわけじゃないからさぁ」
「じゃあなんなの……!?」
「すっごいんだよ、命のやり取りするときの、興奮。頭沸騰するんじゃないかって、いつも思う。だから……このまましたら、主もきっと、すっごいアガるよ」
「するって、なに、なんの話を」
「分かんない? じゃあこれから教えてあげる。そんでわけ分かんないくらい良くなって、頭どうにかなって……オレの本気、受け取って」
まずいと、咄嗟に思った。焦らすように近くなるアイスブルーも、じっと動かず首筋に添えられた刀身も、このままではまずい。とにかく逃げなければならない。どうにかしなければ。けれどどうやって。力でかなう相手ではない。そもそも上からのしかかられているのだ、自力では逃げようもない。ならば。
「た……」
「た?」
「助けて治金丸ぅー!!!!!」
「げっ」
自分で出せる最も大きな声を、お腹の底から張り上げる。笹貫はぎょっとして目を丸くし、しかしすぐに慌てた様子で口元に人差し指を当てた。
「ちょっ……冗談だよ、冗談! よりによってガチ中のガチのやつ呼んでくれちゃって……!」
「ちちち治金丸が笹貫に何かされたらすぐ呼べって……治金丸ー! 早く来てー!!!!」
「しー! オレが悪かったから静かにっ……!」
「呼んだか?」
「げっ……!」
音もなく障子戸が開き、よく知った朗らかな声が隙間から聞こえた。それと同時、室内の温度がぐっと下がる。目で追えたのは、笹貫が畳に刺さったままだった刀を掴んだところまで。気がつけば障子は大きく開け放たれ、笹貫が庭の中央に転がっていた。
「ひええ……」
「主、大丈夫か?」
「! っ、はい!?」
いつの間にかすぐそばに治金丸がしゃがみこんでいた。表情はかなり険しい。普段の柔和なお顔はどこへやら、眉根を寄せて私を支え起こし、頭の先からじっと視線を走らせる。途中、首の辺りで動きが止まり、ぴくりと片眉が跳ねたのが見えた。
「な、なに……?」
「……」
「治金丸……うわっ!?」
不意に襲ってきた浮遊感に、慌てて目の前の何かにしがみつく。次いで感じたのは規則的な振動。反射的に下ろしたまぶたをそろそろと開けばそこは執務室ではなく、執務室に続く縁側だった。とんとんと軽いテンポで床を踏む音と膝裏と背中に回った腕に、自分が誰かに横抱きにされているのだと理解する。恐る恐る視線を持ち上げれば、依然顔を強張らせたままの治金丸が、感情が見えない瞳で、睨むように真っ直ぐ前を見据えていた。
「ち、治金丸……?」
「……そのまま掴まってて。すぐ医務室だから」
言われて初めて、自分がしがみついているものの正体に気がついた。無意識に伸びていた両手はぐるりと治金丸の首に回り、すぐ目の前に存外たくましい首筋が迫る。視界の端で揺れる黄色の髪とやわらかな羽根かざりにぎょっとして離れようとしたが、念を押すように腕に力を込めた治金丸によって、それはかなわなかった。
無人の医務室に着くと治金丸は私をイスに座らせ、テキパキと治療の準備を始めた。犯人の言葉の通りまったく痛みを感じなかったため自覚はなかったが、どうやら首に切り傷ができていたらしい。消毒液を染み込ませたガーゼを当てられて、ようやくピリと小さな痛みが走る。少しだけ顔を歪めると、正面のイスに座る治金丸は、ひどく痛ましそうに眉尻を下げた。
「ごめん、一人にして」
「ううん、来てくれて助かった」
「……」
「だ、大丈夫だよ。そんなに落ち込まないで」
「……気をつけてたんだ。主とあいつが、ふたりきりにならないように」
「え、なんで?」
初めて聞く事実に目を丸くすると、彼は眉根を寄せたまま、斜め下に視線を落とした。
「……あいつのこと、信用しなくちゃならないのは分かってる。もちろん、使命をまっとうするという一点については、今のところ疑ってはいない。でも……オレが嫌だったから」
「? それって、どういう……?」
「ダメなんだ、主」
肩に軽い感触が降ってきた。正面に見えていたはずの苦い顔は姿を消し、代わりにぴょんぴょんと跳ねるやわらかな髪の毛が、視界の端から見え隠れする。少し遅れて、治金丸が正面から私の肩口に額を寄せたのだと理解した。
「治金丸……?」
「頭では分かっている。でも信用できない。不安で仕方ない。あいつを主に、近づかせられない。それだけは、絶対にダメなんだ」
「な、なんで……」
「……オレが、主を」
「すみませーん、湿布くださーい」
切実さすら感じる治金丸の声を、やたらと気が抜けた間延びした声が遮った。医務室の入り口を見れば右頬を真っ赤にした笹貫が私を見つけて「奇遇だね」と微笑む。治金丸はしばらく動きを止めていたがのそりと体を起こし、ひどく冷えた目を入り口に向けた。
「あれ、お邪魔だったかな」
笹貫がニヤリと口角を上げる。治金丸はすっかり感情が消え失せた声音でそれに応じた。
「ああ、邪魔だな。どこぞの不届き者のせいで主が負傷した」
「それは大変。どこの不届き者か知らないけど、オレが診てあげるよ」
「必要ない。とっくにオレが処置した。湿布でもなんでも持ってさっさと出ていくといい」
「たはは、嫌われてんのね、オレ」
「好かれているとでも思っていたのか?」
「まさか。でもオレは治金丸くんのこと嫌いじゃないよ? かわいいよね、いっつも必死で」
いつも温厚で優しい治金丸の額に、びしりと青筋が浮いたのが見えた。空気がピリついているのが分かる。まるでいつ爆発するかも分からない、限界まで膨らんだ風船が目の前にあるかのような緊張感。ひっと悲鳴を漏らしたのは私だけで、笹貫は器用にも口元だけに笑みを貼り付け、治金丸は相変わらず険しい表情のまま、しかしふたりとも据わった目で、お互いを睨むように見ていた。
(ど、どうすれば……?)
ごくりと息を呑んでふたりのやり取りを見つめる。背後に竜と虎でも見えそうなほどの気迫に押され、動くことができない。仲裁したくとも、下手な言葉をかければ悪化するのは目に見えている。おろおろと視線を行き来させる間にも、あまり聞きたくないようなふたりのやりとりは続いている。トゲしかない会話を一時的に止め、張り詰めた空気を緩ませたのは、室外からの来訪者だった。
「主さん、いる……?」
笹貫が閉ざしたドアからひょっこりと顔を出したのは浦島虎徹だった。恐る恐る入室してきた浦島は、室内にいたのが笹貫と治金丸であるのを認めると納得したように肩から力を抜いた。
「びっくりした。すごい殺気だったから何事かと思ったよ」
「浦島、主に何か用か?」
「うん、遠征の報告。……執務室でした方がいいよね? 行こ、主さん」
おそらく空気を読んで私を助けてくれたのだろう。未だビリビリと肌を刺す緊張感などものともせず、浦島は早歩きで私のそばまで来て手を引く。突然のことにされるがまま立ち上がり入り口に向かうも、治金丸と笹貫が止める気配はなかった。その代わりと言わんばかりに、言葉での攻防が始まる。
「彼なら安心して任せられるよね、主のこと」
「珍しく気が合うな。オレも浦島なら心から信用できる」
「へえ、まるで信用できないやつがいるみたいな話しぶりだね」
「自覚がないとは重症だな。主を傷つけるようなやつを、どうやって信用しろと?」
「青いねえ。傷つけるのとかわいがるのは紙一重、だと思うけど」
「ふたりとも、程々にしときなよ……?」
呆れた様子の浦島にふたりが口の端だけを上げて笑って見せたのを最後に、パタンとドアが閉ざされた。途端に隠す気がなくなったヒリつく空気――おそらく殺気がドアの向こうで膨れ上がり、ぞっと全身の肌が粟立つ。
「う、浦島。あれ大丈夫なの? なんか……ヤバいんじゃない……!?」
「うーん……なんだかんだ、折れるまではやらないんじゃないかな」
「折れる直前まではいく可能性があるの……!?」
「ちょっとくらい平気平気! 頭冷えるまでやらせてあげよ?」
楽観的な浦島に促されるまま、振り返り振り返り廊下を進む。縁側に出ると庭から吹き込んだ風が髪を揺らしたが、不思議と暑さも涼しさも感じない。というか、それどころではない。
「なんか全然分からないんだけど、私は何に巻き込まれてたの……!?」
「やだなぁ、主さん。主さんは巻き込まれたんじゃなくて、渦中の人でしょ?」
私の動揺を冗談と受け取ったらしい浦島がケラケラと笑う。分からない。もう何も分からない。私はただ楽しかった夏の思い出を振り返っていただけなのだ。それなのに、何故こんなことに。低い声で呻く私を見て、浦島は不思議そうに首を傾げる。穏やかでない秋の訪れは、すぐそばまでせまっていた。
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