破鏡再び照らす
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同日 午後4時35分
地方裁判所 第4法廷
扉を開いた瞬間、扉越しだった声が一気に空気に乗って耳に届く。
みぞおち辺りが縄で締め上げられる。
人の声と匂いのあとに、視界に大量の目玉が飛び込んできた。
意識を人間たちの視線以外に向けようと、必死で目の前に広がる光景に目を向ける。
下へと続く階段のすぐ先に半円型の台のようなものがある。
柵のようになっているそれが、なんだか囚人を入れる檻みたいだと思ってしまった。
ふと、指先を見ると案の定小刻みに震えていた。
ため息をこぼしたくなるのを、ぐっと堪える。
最後の一段から足を下ろし
ダァーン!!
……転んだ。
足がもつれてしまったようで、両手を前に投げ出し、顔は地面とキスをしていて……
……要するに、頭から盛大にこけた。
恥ずかしさで一瞬、うつ伏せの状態から立ち上がれなかったが、何事もなかったかのようにすぐに立ち上がる。
周りの空気が変化したような気がするが、全力でその変化に気がつかないようにした。
うわああああああお家に帰りたいいいいいいいいいい!!!!
逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ
と心の中で魔法の言葉を強く言い聞かせる。
いや、逆に考えろ。
こんな大失態を犯したのだから、もうこれ以上は起きないと。
あぁ……そう言って……大体、もっとひどい目に遭うのがお約束なんだよな。
あたしの場合。
前の職場だって……
さっきの転倒がどうか底辺でありますようにと全身全霊で祈りつつ、柵のような台にたどり着いた。
「証人。名前と職業を」
髭の老人があたしに質問を投げかけてくる。
口を開けるが、キュッと喉が締まった。
「証人?」
やばいやばいやばい答えないと答えないと答えないと
だが、喉がとじていて声が出ない。
「枯山さん」
聞き覚えのある声に、はっと振り向く。
牙琉検事さんが柔らかな笑みを口元に添えて、真夏の海のような青瞳が優しげに細まる。
「リラックスして……と言っても難しいかな」
サラリとした滑らかな低い声が耳に心地よく響く。
「僕にしてくれたときのように、自己紹介をしてくれればいいいよ」
見知った人物に、少しだけだが、安心した。
そのおかげか、裁判長らしき人からの質問よりはすぐに言葉を飲み込むことができた。
声を出すのは難しいので、何度も首を縦に振って了解の意を伝えた。
ぐっと証言台の手すりを掴み、声を前に飛ばす。
「わたっわたっわ…たーし、は、枯山、実吹です。……」
職業の紹介をしようとして、言葉が紡げず黙ってしまった。
だが、パチンと牙琉検事さんが指を鳴らす。
「OK!完璧だ。それじゃ、証言に入ろうか」
その言葉にホッとした。
「待ってください。職業について答えてませんよ」
牙琉さんとは反対側から聞こえた男の声に、ビシッと体が硬直したのが嫌でもわかった。
「おデコくん。そこは大した問題じゃないよ。
大事なのは、彼女が何を見たのか。
そうだろう?」
「ふむ。そうですな。
今回はこの証人がなにを目撃したかが重要です」
「まぁ、確かに、そうですね」
ほっと息を吐き出した。
助かった。
しょうがないこととはいえ、今のあたしにとって大勢の前で"無職"と答えるのは、RPGで"ヒノキの棒"の装備でラスボスに挑むのと等しいぐらい恐ろしいことだった。
牙琉さんの助けに感謝しきれない。
彼も仕事でしているのだろうが、それでも彼のおかげで逃げ出さないでいられるのは確かだった。
「あの、その……」
冤罪符にしていると言われてしまうかもしれないが、やはり言わずにはいられなかった。
「き聞きっとり、にくー、い……すすすすっみ、ませ、ん」
白い髭の男性はきょとんとした顔をしている。
「僕から説明してもいいかい?」
ちらっと検事さんがこちらに視線を送った。
あたしは彼の目を見ながら、コクッと強く頷く。
「彼女は"吃音症"でね。
言葉を発音するのが苦手なんだ。
彼女の言う通り、聞き取りにくい部分があるかもしれない。
けど、証言の内容に問題はないよ」
「しかし、大丈夫なのですか。そのような人を証言台に立たせて」
「担当医の許可は貰っている。
さっきのタバコの香りを纏わせていたドクターがそうさ」
「……ますます不安になりましたぞ」
どういう意味だそれは!と隅の席でなにか言っている白衣の男が居たが、見なかったことにしよう。
……ムマ先生。
我が担当医ながら、あの人の頼りなさはどのドクターよりもずば抜けているからそう言われるのもしょうがない。
「わっわたっ私が、おっおおお願いして、むむむ無理を……いいいい言いました」
「ほう。では、あなたの意思で証言台に立ったのですか」
「殺害されたドクターが、彼女の担当医だったんだ。
だから、裁判に協力したいと証人になってくれたんだよ。
それじゃ、証言してもらおうか。
彼女も長く法廷にいるのは辛いだろうし」
あたしは口を震わせながら、証言をはじめる。
「じっじーけ、んが、はじまって……ちがっう。じ、じけん、がはっ発生すっする前
……えっと、ぜぜぜぜ前日……です……」
聞くに耐えない自分の喋り方に、耳を塞いでしまいたくなる。
だが、証言すると言ったので、相手がやめろと言うまで私はしゃべるのをやめようとは思わなかった。
「みっ見まーし…た」
「誰をですか!?」
その音量にびくっと肩が跳ねる。
耳元で風船が割れたような大声に心臓が縮んだ。
「まだ証言しているよ。おデコくん」
「すっすみません!」
「続けて」
ハァーと呼吸を吐く。
なるだけ細く吐き出す。
すぅっと軽く息を吸った。
「そっそこーのおおおお男、が、……殴ってーる……のをみみ見ました」
ぐっと息が詰まり、肩に手を置きながら、ハッキリと次の言葉を空気に乗せる。
「イザヨイ先生を……」
「でたらめだ!!」
ガタンッ!!と被告席が倒れ、そちらの方にバッと振り向いた。
警備員に両脇から押さえつけられながら、男がこちらを睨んでいる。
「ふざけんじゃねえ!クソアマ!デタラメ言いやがって!!ブッ殺すぞ!!」
「被告人!それ以上発言するのであれば即刻退廷していただきますぞ!」
席から立ちあがりこちらに向かってこようとした男に、裁判長が鋭い声を投げかけた。
「棒さん!今は大人しくしていてください!」
黄色いスーツの少女に言われ、こちらを睨む目はそのままに男が席に座る。
あたしはその目をまっすぐ受け止めた。
……別にいいさ。
憎みたければ憎めばいい。
あたしも許すつもりはないのだから。
相手から目をそらされ、あたしも正面に顔を戻す。
「証人。続けてください」
サイバンチョの言葉に頷く。
「びっ病院の……かかっかいかい階段をおっおおお降りてととととき」
聞くに堪えない酷い音の連続だったが、法廷の人たちは静かに耳を傾けてくれた。
あたしはありのままに話した。
ただひとつの言葉……"誰"を殴ったか、そのことを除いて。
きっとあたしを殴ったってだけじゃ、彼の殺人の動機は弱くなる。
幸い、あたしの顔はマスクで隠れていて、殴られた頬は見えない。
彼が被害者を殴った前科があれば……それがつい最近起こったものなら、動機の裏付けは確実になるはずだ。
彼は確かにイザヨイ先生を殴ろうとしていた。
だが、それをあたしが邪魔した。
結果的には、彼はイザヨイ先生を殴っていないが、危害を加えようとしたのは事実だ。
被告人だって完全に否定はできないはず。
否定したとしても、歯切れの悪いものになるだろう。
「それではあなたは偶然、被害者が被告人に殴られているのを見てしまったわけですな」
全身に走る緊張をなくそうと、あたしはじぶんの肩を掴む。
「……はい」
「なっ!?」
突如、弁護士の席からダンッと机を殴るような音がして、顔を横に向ける。
赤いスーツの青年が顔面を蒼白にして、唇まで白くしていた。
まるで化け物でも見たような顔でこちらを見ている。
「オドロキ……センパイ?」
黄色いスーツの少女が心配そうに隣の赤いチョッキの弁護士を覗き込む。
"驚き"って……驚いたことをわざわざ口に出さなくてもいいのに。
黄色い少女を変な子だなぁと思いつつ、赤い弁護士をじっと見る。
なんだ?
その表情がタダごとじゃないと思い、思わず訊いてしまった。
「あああっあの…………大っ丈、夫ですか?」
特徴的な前髪の青年にそう声をかけた。
よく見てみると、弁護席に立っているのはまだ若い男の子だった。
ぶっちゃけると学生のような顔つきをしている。
彼がこちらを見た。
その瞬間、刺すような顫動があたしの背中を駆け巡った。
思わず首をすくめながら、立ちすくんでしまう。
……なんで……?
彼からのその焼け付くような視線を向けられ、あたしは怯んでしまった。
真黒い眼の光りの強烈さ、
怒った猛獣かと思われる凄じさ、
思わず息を呑む獰猛さが彼の目に備わっていた。
夜空のような黒い瞳から放たれる一筋の強い光。
その眩しさに目がくらんで、思わず目をそらしてしまう。
怖い。
彼のすべてを焼き尽くすような眼差しに、恐怖しか感じられなかった。
彼の目は男性にしては黒目がちな瞳で、どんぐり眼と言われるような愛らしいものだった。
別に刃物のような鋭い目つきでもなければ、人を殺すようなぎらついた眼差しをしているわけでもない。
だけど……。
ただただ、あたしはその黒褐色の瞳が怖くて、しょうがなかった。
逃げ出さなければいけない。
そう思った。
脳裏で、背後の扉から外に出てそのまま駆けだすイメージが浮かぶ。
でも、それは実行できなかった。
そんなことはしちゃいけないという理性もあった。
けど、それ以上にチリチリと焦がすような鋭い眼差しに体を拘束されていて動けなかったのもある。
「―――ん。―――うにん。
――――証人!!」
ハッと呼ばれていることに気づき、顔を正面に戻す。
「尋問をされますがよいですね?」
「っはあははいっ」
コクッと頷いた。
「わたっわたっ私は……」
階段を降りたときに、被告人と被害者の口論しているところを偶然発見した。
そして、被告人がイザヨイ先生を殴った。
以上のことをたどたどしく、噛みまくりながら証言した。
最初は何も言われなかったので、ホッとした。
だが、その静けさに嫌な予感もした。
あの弁護士になにを言われるのかと、心臓が嫌な音をさせている。
冬の夜空で星が瞬くように、彼の眼光が鋭くなっている。
黒と褐色の混じった瞳を見て、顔をしかめてしまう。
「そして、あの男がイザヨイ先生を」
体が硬直した。
「あなたは被害者が殴られているとき、なにをしていたんですか?」
「えっと、それは」
「まさかボーッと立っていたんですか?」
「あっそのそっそそそ、それは……」
「助けを呼びに行ったり……止めに入ったりすることができたんじゃないんですか!?」
「あっその、あの、そうです。
そそそそっそう、したっかった……
でででも、でっできなくて、すすすっすみません」
「本当は、"できた"けど"しなかった"だけなんじゃないんですか」
弁護人の言葉にぐっと胸をえぐられ、背中を丸めた。
あたしが答えたくないところばかりを、この弁護士はやけに詳しく訊いてくる。
まるで、"ウソ"のポイントがわかっているかのように。
「すっすみません、……こっ怖くて……」
「混乱していた割には、被告人がどんな風に殴ったのか細かく覚えているんですね。
なぜですか?」
「えっと、あの、その、えっと」
ダンッ!と机を叩く音がして、ビクッと体を地面から浮かせてしまう。
「ハッキリ答えたらどうなんですか!!」
投げつけられる言葉に、向けられる声に、体を殴られているみたいだった。
目から零れ落ちそうな涙をごまかすために、顔を俯かせた瞬間
「センパイ!!」
少女の声が法廷に響いた。
目に浮かんだ涙を地面にこっそりと落とし切ってから、顔をあげる。
弁護士の席では、黄色い少女が彼の体を横から止めていた。
その声にハッと赤い青年が黄色い少女の方に顔を向ける。
「そんな責めるような尋問の仕方、センパイらしくありません!
どうしちゃったんですか!?」
「っ」
「あの人、今の先輩のこと怖がってます。
あんな怖い尋問してたら、なにも証言できなくなっちゃいますよ」
恥ずかしいが、彼女の言う通りだった。
自分でも彼に質問されるたびに、頭の中が真っ白になって、何も言えなくなっていたから。
「君らしくないぜ」
牙琉検事が口元の微笑を消し、真剣な表情で赤い青年を見据える。
「っっ」
「彼女は証人であって犯人じゃない。
君の尋問の仕方はまるで、チンピラの恐喝だ」
裁判長が牙琉検事さんの言葉に頷いた。
「牙琉検事の言う通りです。
わたしにもあなたの尋問の仕方はいつもと違うように見えます」
「……」
「先ほどのような尋問をまたするようならば、
その時点で尋問をやめてもらいます」
赤い弁護士が両拳をギュッと握った。
「……すみません」
「もし、彼女の証言がムジュンしているというのなら、その証拠を見せてもらおうか」
「弁護人。証拠を提示できますか?」
「はい」
証拠?
そんなのあるはずない。
そう思っていた。
弁護士からつきつけられたのは……
「"解剖記録"ですか?」
イザヨイ先生の死亡した時の状況が書かれた紙だった。
「枯山さん」
男の弁護士の方にバッと振り返る。
まだ怖い顔つきをしていたが、声のボリュームは抑えめだった。
だからこそ、先ほどと違うその静かな声色が怖かった。
「棒さんは十六夜さんのどこを殴っていましたか?」
「……“頬”です」
「その証言に間違いはありませんか?」
「なっななないです」
「この解剖記録をよく見てください。
被害者の遺体には
『"額を殴られた傷"と
致命傷である"コメカミを刺された傷"の
"二つ"しか"外傷"はなかった』と書かれています。
もし、彼女の証言通りに殴られたのなら、遺体の頬に殴られた傷が残っているはず。
つまり、あなたの証言はムジュンしているんです!」
「僕も教えて欲しいな」
「!」
弁護席から反対の席から声がした。
「一体、なんでそんなウソをついたのかを」
後ろめたい気持ちがあり、牙琉検事さんの顔をまっすぐ受け止められなかった。
まさか、こんなに早くバレるとは思わなかったから、弁解する言葉を考えていなかった。
「この証人の証言は信憑性がありません!被告人が殴ったというのもでたらめの可能性があります!」
“でたらめ”という言葉に、思わず口を開く。
「たったしかに、いいいっイザっヨイ、先っ生を、殴ってはいない!
でも、このっ人、が殺、したっの、は間っ違、いな、いです!」
「オレは殺してねえ!」
「……そそそ、それ、ほほほっ本、当ですか?」
男が何か言うが、あたしは無視して、裁判長に顔を向ける。
「わっ私、みっ見ました。こここの人が、せせ先生と口論して、せっ先生をなな殴ろうとしていたところを」
「だから!"殴った"という証拠がないんですよ!」
弁護士の言葉に、あたしはある決意をした。
「……証拠……ですか……」
あたしは耳に手をかけ、マスクを取った。
「ひえっ!」
サイバンチョが悲鳴をあげた。
頬にこぶがついてるかのような大きな腫れ。
自分の変形した顔を法廷の人々の前で晒した。
「いいいっ一応、ここここれが、そそそこの男に殴られた跡です。しょ証拠になりますか?」
「どうして、それを言わなかったんだい?」
牙琉検事さんの言葉に、答えることができなかった。
あの男を確実に有罪にするために、イザヨイ先生が殴られたと嘘をついたことを。
そんなことを正直には言えなかった。
「……この顔を……人に見せたくなかったからです……」
「うーむ、確かに女性ならばその腫れは見せなくないでしょうな」
「……て手当てしてくれた人も証言してくれると思います。だ誰に殴られてできた跡かは」
「どうして殴られたんですか?」
「な殴られたっていうか……そそそその……」
今さら信用なんかしてもらえないと思ったが、素直に理由を口にした。
「……ふふふふ二人の、ここ口論を、ととと止めようとしたから……」
嘘だ と弁護士から言われるかと身構えたが、不思議なことに何も言われなかった。
「でででも、失敗して……このザマです」
ぐっと喉に力をいれる。
「ここここれだけは、言えます。ほほほほ本当は私が殴られました。
だだだけど、ここここの人はイザヨイ先生を殴る気でした」
「確かに、あのとき、伊代に手が出そうになった。
そして、その女をオレは殴った。
けど!オレは伊代を殺してない!」
被告人席にいる男が立ちあがりながら、涙声でしゃべりだす。
「殴りたくなんかなかった!だが、あいつが勝手なことばかり言うから。
オレはちゃんと伊代のことを愛していたんだ!」
男の言葉に思わず吹き出した。
つい、声を出して笑ってしまう。
棒 陸夫が警備員を振り切って、こちらにやってきた。
「嘘吐き女!!なにがおかしい!?」
棒 陸夫にぐいっと胸倉を掴まれた。
不快な熱が胸の奥から瞬時に湧き上がる。
「"愛していた"?"殴りたくなかった"?……嘘吐きはあんたでしょ」
睨むというよりはあたしは淡々と相手を見ていた。
「もし、その言葉が本当なら、あんたのするべきことなんて一つじゃないんですか」
殺気を孕んだ視線で睨まれているが、不思議と怖いと思わなかった。
むしろ、その醜く歪んだ男の表情に、笑いがこみあげてくる。
唇に浮かびかけた笑いを我慢しながら、吐き捨てる。
「アンタがさっさと彼女の前からいなくなればよかったんですよ。
本当に“殴りたくない”“自分を止めたい”。
それ……どうせ本気で思ってなかったでしょ?」
吃音がでない。
流暢な言葉が続き、醜い人間の本性をこの身で実感して、反吐がでそうだった。
「本当に彼女を愛して、彼女の幸せを願ってたんなら
彼女の元からさっさと離れられたはずですよ」
思わず、ふっと鼻を鳴らしてしまう。
「あんたはただ、自分の“独占欲”を満たしたかっただけでしょ?
思い通りにならない自分の女を暴力で言う事きかせようとした。
あぁ、別に男尊女卑を言うつもりはないですから。
女だろうと男だろうと、力を使って人を支配してやろうと思う人が……
……大ッ嫌いなだけなんですよ」
男が拳を振り上げた。
その拳を睨む。
だが、拳はカカリカンに掴まれた。
「カカリカン!!ただちに被告人を退廷させなさい!!」
「放せ!!放せ!!あのアマぶっ殺してやる!」
パッと男に掴まれた胸倉の皺を伸ばす。
……やな奴。
相手を貶す言葉だけは一度も噛まずに言えたことに、気分が悪くなる。
「証人。ほかになにか証言することはありますか」
白い髭の老人の顔を見た瞬間、ふっと先ほどの怒りが消え、いつもの緊張が戻ってきてしまう。
「ととと特には。あっ」
「どうしましたか?」
大したことではないが、一応話しておくべきだろうか。
すでに知っているだろうが、念のため言っておこう。
「えっと、じじじ事件のあと、ひっ被告人が、ゲゲ現場か、から、逃げる、とき、置き物を持ってました」
あれはたしか耳がやたらに短い……
「うううっウサギ、の、置き、物です」
その瞬間、法廷がざわつく。
空気が嫌なモノに変わった。
心臓が鼓動するたびにチクンチクンと刺すように胸が痛む。
背筋に嫌な熱が駆け上がり、背中や脇から汗がぶわっと出た。
そして、奇妙な寒気を感じ体が震え出す。
知ってる。
この体を、まとわりつく鎖のような、重苦しさを。
返事をしようとして、声が出なくなる。
「枯山さん」
名を呼ばれ、勢いよく顔を向けた。
地平線に浮かぶ朝焼けに似た、鮮やかな赤が目に飛び込んでくる。
目が痛くなるような赤のスーツの男性が、こちらを睨むように見据えていた。
「どうして"ウサギ"だと知ってるんですか?
あの置き物は耳が取れて、短くなっていました。
そのせいで、皆"ネズミ"の置き物だと思っていたんです」
みぞおちに氷の棒で刺されような冷たく鈍い痛みが走る。
なにそれ……
赤い弁護士からの言葉に何も言えなくなってしまった。
そのとき、傍聴席からとある声が耳に入ってくる。
「あの人、被告の男に対しては普通にしゃべってたわよね」
「本当は喋れるのに、わざと喋れないフリをしてるんじゃないの?」
「そうそう。さっきだって嘘をついてたしね」
肺の中が凍り付いた。
「……あの置き物がウサギなんてわかるってことは……あのオバサンが犯人なんじゃないの?」
呼吸が震える。
「ししし知ら……!あああた、っまた、ま、ううウっサ、だと、おおおっ…て……!」
「だったら、答えてください!!なんでそう思ったんですか!?」
あの弁護士の燃えるような瞳が、炎のような声が、あたしの中心を刺し貫いた。
身体に、焼け火箸で刺されたような熱い痛みが走る。
「もしや、この犯行を実行したのは……」
降ってきたしわがれた声に、情景すべてがぐらぐらと揺れて輪郭が崩れた。
「残念だけど、それはありえないよ。
彼女にはアリバイがあるか……!?」
立っていられず床にしゃがみこむ。
息が詰まり、顔が風船のように膨張して破裂しそうだった。
手足がしびれていて、その部分の血液が炭酸水になってるように泡立っている。
視界は地面しか見えず、額を床につけているしかなかった。
身体を起こされ、視界が法廷に戻る。
抱え起こしてくれた人物をちらりと横目で見る。
「裁判長。これ以上の証言はやめさせてくれ」
土気色の顔をした医者の横顔が目に入る。
無間、先生……。
手足は材木のように固まり、動かせない。
「ゆっくりでいい。無理に呼吸をしてはいけない」
できたらやってる……・!
話しかけられても何も応えられず激しく息をするしかできない。
「弁護側は乱暴な尋問で、彼女を精神的に追い詰めたとしか思えない」
無間先生のその言葉を聞いた瞬間
"答えてください!!"
脳裏に先ほどのセリフと男から向けられた熱が蘇る。
怒りとも悔しさとも言える不思議な熱が胸に灯った。
ダンッ!!!!
「っーーーーーーっーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!」
私は証言台にすがりつくように、体を当てる。
口元も痺れ、人間の言葉を発することも危うい。
視界が霞む。
顔が熱い。
顔を滑る目からの水滴が火照った頬を冷やす。
「 っ!!!! っ!!!!」
肩と顎だけで、証言台をよじ登る。
そして、なんとか証言台に乗った。
証言台に顔を乗せながら、裁判長の顔を睨みあげる。
「しゃべれ、ますっ!!!!!」
―――――――――――出た。
あれほど喉から出てきてくれなかった声が、やっと口から出てきた。
これなら大丈夫。
そう安堵した瞬間、プツンッとテレビの画面のように、視界が真っ暗になってしまった。
地方裁判所 第4法廷
扉を開いた瞬間、扉越しだった声が一気に空気に乗って耳に届く。
みぞおち辺りが縄で締め上げられる。
人の声と匂いのあとに、視界に大量の目玉が飛び込んできた。
意識を人間たちの視線以外に向けようと、必死で目の前に広がる光景に目を向ける。
下へと続く階段のすぐ先に半円型の台のようなものがある。
柵のようになっているそれが、なんだか囚人を入れる檻みたいだと思ってしまった。
ふと、指先を見ると案の定小刻みに震えていた。
ため息をこぼしたくなるのを、ぐっと堪える。
最後の一段から足を下ろし
ダァーン!!
……転んだ。
足がもつれてしまったようで、両手を前に投げ出し、顔は地面とキスをしていて……
……要するに、頭から盛大にこけた。
恥ずかしさで一瞬、うつ伏せの状態から立ち上がれなかったが、何事もなかったかのようにすぐに立ち上がる。
周りの空気が変化したような気がするが、全力でその変化に気がつかないようにした。
うわああああああお家に帰りたいいいいいいいいいい!!!!
逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ
と心の中で魔法の言葉を強く言い聞かせる。
いや、逆に考えろ。
こんな大失態を犯したのだから、もうこれ以上は起きないと。
あぁ……そう言って……大体、もっとひどい目に遭うのがお約束なんだよな。
あたしの場合。
前の職場だって……
さっきの転倒がどうか底辺でありますようにと全身全霊で祈りつつ、柵のような台にたどり着いた。
「証人。名前と職業を」
髭の老人があたしに質問を投げかけてくる。
口を開けるが、キュッと喉が締まった。
「証人?」
やばいやばいやばい答えないと答えないと答えないと
だが、喉がとじていて声が出ない。
「枯山さん」
聞き覚えのある声に、はっと振り向く。
牙琉検事さんが柔らかな笑みを口元に添えて、真夏の海のような青瞳が優しげに細まる。
「リラックスして……と言っても難しいかな」
サラリとした滑らかな低い声が耳に心地よく響く。
「僕にしてくれたときのように、自己紹介をしてくれればいいいよ」
見知った人物に、少しだけだが、安心した。
そのおかげか、裁判長らしき人からの質問よりはすぐに言葉を飲み込むことができた。
声を出すのは難しいので、何度も首を縦に振って了解の意を伝えた。
ぐっと証言台の手すりを掴み、声を前に飛ばす。
「わたっわたっわ…たーし、は、枯山、実吹です。……」
職業の紹介をしようとして、言葉が紡げず黙ってしまった。
だが、パチンと牙琉検事さんが指を鳴らす。
「OK!完璧だ。それじゃ、証言に入ろうか」
その言葉にホッとした。
「待ってください。職業について答えてませんよ」
牙琉さんとは反対側から聞こえた男の声に、ビシッと体が硬直したのが嫌でもわかった。
「おデコくん。そこは大した問題じゃないよ。
大事なのは、彼女が何を見たのか。
そうだろう?」
「ふむ。そうですな。
今回はこの証人がなにを目撃したかが重要です」
「まぁ、確かに、そうですね」
ほっと息を吐き出した。
助かった。
しょうがないこととはいえ、今のあたしにとって大勢の前で"無職"と答えるのは、RPGで"ヒノキの棒"の装備でラスボスに挑むのと等しいぐらい恐ろしいことだった。
牙琉さんの助けに感謝しきれない。
彼も仕事でしているのだろうが、それでも彼のおかげで逃げ出さないでいられるのは確かだった。
「あの、その……」
冤罪符にしていると言われてしまうかもしれないが、やはり言わずにはいられなかった。
「き聞きっとり、にくー、い……すすすすっみ、ませ、ん」
白い髭の男性はきょとんとした顔をしている。
「僕から説明してもいいかい?」
ちらっと検事さんがこちらに視線を送った。
あたしは彼の目を見ながら、コクッと強く頷く。
「彼女は"吃音症"でね。
言葉を発音するのが苦手なんだ。
彼女の言う通り、聞き取りにくい部分があるかもしれない。
けど、証言の内容に問題はないよ」
「しかし、大丈夫なのですか。そのような人を証言台に立たせて」
「担当医の許可は貰っている。
さっきのタバコの香りを纏わせていたドクターがそうさ」
「……ますます不安になりましたぞ」
どういう意味だそれは!と隅の席でなにか言っている白衣の男が居たが、見なかったことにしよう。
……ムマ先生。
我が担当医ながら、あの人の頼りなさはどのドクターよりもずば抜けているからそう言われるのもしょうがない。
「わっわたっ私が、おっおおお願いして、むむむ無理を……いいいい言いました」
「ほう。では、あなたの意思で証言台に立ったのですか」
「殺害されたドクターが、彼女の担当医だったんだ。
だから、裁判に協力したいと証人になってくれたんだよ。
それじゃ、証言してもらおうか。
彼女も長く法廷にいるのは辛いだろうし」
あたしは口を震わせながら、証言をはじめる。
「じっじーけ、んが、はじまって……ちがっう。じ、じけん、がはっ発生すっする前
……えっと、ぜぜぜぜ前日……です……」
聞くに耐えない自分の喋り方に、耳を塞いでしまいたくなる。
だが、証言すると言ったので、相手がやめろと言うまで私はしゃべるのをやめようとは思わなかった。
「みっ見まーし…た」
「誰をですか!?」
その音量にびくっと肩が跳ねる。
耳元で風船が割れたような大声に心臓が縮んだ。
「まだ証言しているよ。おデコくん」
「すっすみません!」
「続けて」
ハァーと呼吸を吐く。
なるだけ細く吐き出す。
すぅっと軽く息を吸った。
「そっそこーのおおおお男、が、……殴ってーる……のをみみ見ました」
ぐっと息が詰まり、肩に手を置きながら、ハッキリと次の言葉を空気に乗せる。
「イザヨイ先生を……」
「でたらめだ!!」
ガタンッ!!と被告席が倒れ、そちらの方にバッと振り向いた。
警備員に両脇から押さえつけられながら、男がこちらを睨んでいる。
「ふざけんじゃねえ!クソアマ!デタラメ言いやがって!!ブッ殺すぞ!!」
「被告人!それ以上発言するのであれば即刻退廷していただきますぞ!」
席から立ちあがりこちらに向かってこようとした男に、裁判長が鋭い声を投げかけた。
「棒さん!今は大人しくしていてください!」
黄色いスーツの少女に言われ、こちらを睨む目はそのままに男が席に座る。
あたしはその目をまっすぐ受け止めた。
……別にいいさ。
憎みたければ憎めばいい。
あたしも許すつもりはないのだから。
相手から目をそらされ、あたしも正面に顔を戻す。
「証人。続けてください」
サイバンチョの言葉に頷く。
「びっ病院の……かかっかいかい階段をおっおおお降りてととととき」
聞くに堪えない酷い音の連続だったが、法廷の人たちは静かに耳を傾けてくれた。
あたしはありのままに話した。
ただひとつの言葉……"誰"を殴ったか、そのことを除いて。
きっとあたしを殴ったってだけじゃ、彼の殺人の動機は弱くなる。
幸い、あたしの顔はマスクで隠れていて、殴られた頬は見えない。
彼が被害者を殴った前科があれば……それがつい最近起こったものなら、動機の裏付けは確実になるはずだ。
彼は確かにイザヨイ先生を殴ろうとしていた。
だが、それをあたしが邪魔した。
結果的には、彼はイザヨイ先生を殴っていないが、危害を加えようとしたのは事実だ。
被告人だって完全に否定はできないはず。
否定したとしても、歯切れの悪いものになるだろう。
「それではあなたは偶然、被害者が被告人に殴られているのを見てしまったわけですな」
全身に走る緊張をなくそうと、あたしはじぶんの肩を掴む。
「……はい」
「なっ!?」
突如、弁護士の席からダンッと机を殴るような音がして、顔を横に向ける。
赤いスーツの青年が顔面を蒼白にして、唇まで白くしていた。
まるで化け物でも見たような顔でこちらを見ている。
「オドロキ……センパイ?」
黄色いスーツの少女が心配そうに隣の赤いチョッキの弁護士を覗き込む。
"驚き"って……驚いたことをわざわざ口に出さなくてもいいのに。
黄色い少女を変な子だなぁと思いつつ、赤い弁護士をじっと見る。
なんだ?
その表情がタダごとじゃないと思い、思わず訊いてしまった。
「あああっあの…………大っ丈、夫ですか?」
特徴的な前髪の青年にそう声をかけた。
よく見てみると、弁護席に立っているのはまだ若い男の子だった。
ぶっちゃけると学生のような顔つきをしている。
彼がこちらを見た。
その瞬間、刺すような顫動があたしの背中を駆け巡った。
思わず首をすくめながら、立ちすくんでしまう。
……なんで……?
彼からのその焼け付くような視線を向けられ、あたしは怯んでしまった。
真黒い眼の光りの強烈さ、
怒った猛獣かと思われる凄じさ、
思わず息を呑む獰猛さが彼の目に備わっていた。
夜空のような黒い瞳から放たれる一筋の強い光。
その眩しさに目がくらんで、思わず目をそらしてしまう。
怖い。
彼のすべてを焼き尽くすような眼差しに、恐怖しか感じられなかった。
彼の目は男性にしては黒目がちな瞳で、どんぐり眼と言われるような愛らしいものだった。
別に刃物のような鋭い目つきでもなければ、人を殺すようなぎらついた眼差しをしているわけでもない。
だけど……。
ただただ、あたしはその黒褐色の瞳が怖くて、しょうがなかった。
逃げ出さなければいけない。
そう思った。
脳裏で、背後の扉から外に出てそのまま駆けだすイメージが浮かぶ。
でも、それは実行できなかった。
そんなことはしちゃいけないという理性もあった。
けど、それ以上にチリチリと焦がすような鋭い眼差しに体を拘束されていて動けなかったのもある。
「―――ん。―――うにん。
――――証人!!」
ハッと呼ばれていることに気づき、顔を正面に戻す。
「尋問をされますがよいですね?」
「っはあははいっ」
コクッと頷いた。
「わたっわたっ私は……」
階段を降りたときに、被告人と被害者の口論しているところを偶然発見した。
そして、被告人がイザヨイ先生を殴った。
以上のことをたどたどしく、噛みまくりながら証言した。
最初は何も言われなかったので、ホッとした。
だが、その静けさに嫌な予感もした。
あの弁護士になにを言われるのかと、心臓が嫌な音をさせている。
冬の夜空で星が瞬くように、彼の眼光が鋭くなっている。
黒と褐色の混じった瞳を見て、顔をしかめてしまう。
「そして、あの男がイザヨイ先生を」
体が硬直した。
「あなたは被害者が殴られているとき、なにをしていたんですか?」
「えっと、それは」
「まさかボーッと立っていたんですか?」
「あっそのそっそそそ、それは……」
「助けを呼びに行ったり……止めに入ったりすることができたんじゃないんですか!?」
「あっその、あの、そうです。
そそそそっそう、したっかった……
でででも、でっできなくて、すすすっすみません」
「本当は、"できた"けど"しなかった"だけなんじゃないんですか」
弁護人の言葉にぐっと胸をえぐられ、背中を丸めた。
あたしが答えたくないところばかりを、この弁護士はやけに詳しく訊いてくる。
まるで、"ウソ"のポイントがわかっているかのように。
「すっすみません、……こっ怖くて……」
「混乱していた割には、被告人がどんな風に殴ったのか細かく覚えているんですね。
なぜですか?」
「えっと、あの、その、えっと」
ダンッ!と机を叩く音がして、ビクッと体を地面から浮かせてしまう。
「ハッキリ答えたらどうなんですか!!」
投げつけられる言葉に、向けられる声に、体を殴られているみたいだった。
目から零れ落ちそうな涙をごまかすために、顔を俯かせた瞬間
「センパイ!!」
少女の声が法廷に響いた。
目に浮かんだ涙を地面にこっそりと落とし切ってから、顔をあげる。
弁護士の席では、黄色い少女が彼の体を横から止めていた。
その声にハッと赤い青年が黄色い少女の方に顔を向ける。
「そんな責めるような尋問の仕方、センパイらしくありません!
どうしちゃったんですか!?」
「っ」
「あの人、今の先輩のこと怖がってます。
あんな怖い尋問してたら、なにも証言できなくなっちゃいますよ」
恥ずかしいが、彼女の言う通りだった。
自分でも彼に質問されるたびに、頭の中が真っ白になって、何も言えなくなっていたから。
「君らしくないぜ」
牙琉検事が口元の微笑を消し、真剣な表情で赤い青年を見据える。
「っっ」
「彼女は証人であって犯人じゃない。
君の尋問の仕方はまるで、チンピラの恐喝だ」
裁判長が牙琉検事さんの言葉に頷いた。
「牙琉検事の言う通りです。
わたしにもあなたの尋問の仕方はいつもと違うように見えます」
「……」
「先ほどのような尋問をまたするようならば、
その時点で尋問をやめてもらいます」
赤い弁護士が両拳をギュッと握った。
「……すみません」
「もし、彼女の証言がムジュンしているというのなら、その証拠を見せてもらおうか」
「弁護人。証拠を提示できますか?」
「はい」
証拠?
そんなのあるはずない。
そう思っていた。
弁護士からつきつけられたのは……
「"解剖記録"ですか?」
イザヨイ先生の死亡した時の状況が書かれた紙だった。
「枯山さん」
男の弁護士の方にバッと振り返る。
まだ怖い顔つきをしていたが、声のボリュームは抑えめだった。
だからこそ、先ほどと違うその静かな声色が怖かった。
「棒さんは十六夜さんのどこを殴っていましたか?」
「……“頬”です」
「その証言に間違いはありませんか?」
「なっななないです」
「この解剖記録をよく見てください。
被害者の遺体には
『"額を殴られた傷"と
致命傷である"コメカミを刺された傷"の
"二つ"しか"外傷"はなかった』と書かれています。
もし、彼女の証言通りに殴られたのなら、遺体の頬に殴られた傷が残っているはず。
つまり、あなたの証言はムジュンしているんです!」
「僕も教えて欲しいな」
「!」
弁護席から反対の席から声がした。
「一体、なんでそんなウソをついたのかを」
後ろめたい気持ちがあり、牙琉検事さんの顔をまっすぐ受け止められなかった。
まさか、こんなに早くバレるとは思わなかったから、弁解する言葉を考えていなかった。
「この証人の証言は信憑性がありません!被告人が殴ったというのもでたらめの可能性があります!」
“でたらめ”という言葉に、思わず口を開く。
「たったしかに、いいいっイザっヨイ、先っ生を、殴ってはいない!
でも、このっ人、が殺、したっの、は間っ違、いな、いです!」
「オレは殺してねえ!」
「……そそそ、それ、ほほほっ本、当ですか?」
男が何か言うが、あたしは無視して、裁判長に顔を向ける。
「わっ私、みっ見ました。こここの人が、せせ先生と口論して、せっ先生をなな殴ろうとしていたところを」
「だから!"殴った"という証拠がないんですよ!」
弁護士の言葉に、あたしはある決意をした。
「……証拠……ですか……」
あたしは耳に手をかけ、マスクを取った。
「ひえっ!」
サイバンチョが悲鳴をあげた。
頬にこぶがついてるかのような大きな腫れ。
自分の変形した顔を法廷の人々の前で晒した。
「いいいっ一応、ここここれが、そそそこの男に殴られた跡です。しょ証拠になりますか?」
「どうして、それを言わなかったんだい?」
牙琉検事さんの言葉に、答えることができなかった。
あの男を確実に有罪にするために、イザヨイ先生が殴られたと嘘をついたことを。
そんなことを正直には言えなかった。
「……この顔を……人に見せたくなかったからです……」
「うーむ、確かに女性ならばその腫れは見せなくないでしょうな」
「……て手当てしてくれた人も証言してくれると思います。だ誰に殴られてできた跡かは」
「どうして殴られたんですか?」
「な殴られたっていうか……そそそその……」
今さら信用なんかしてもらえないと思ったが、素直に理由を口にした。
「……ふふふふ二人の、ここ口論を、ととと止めようとしたから……」
嘘だ と弁護士から言われるかと身構えたが、不思議なことに何も言われなかった。
「でででも、失敗して……このザマです」
ぐっと喉に力をいれる。
「ここここれだけは、言えます。ほほほほ本当は私が殴られました。
だだだけど、ここここの人はイザヨイ先生を殴る気でした」
「確かに、あのとき、伊代に手が出そうになった。
そして、その女をオレは殴った。
けど!オレは伊代を殺してない!」
被告人席にいる男が立ちあがりながら、涙声でしゃべりだす。
「殴りたくなんかなかった!だが、あいつが勝手なことばかり言うから。
オレはちゃんと伊代のことを愛していたんだ!」
男の言葉に思わず吹き出した。
つい、声を出して笑ってしまう。
棒 陸夫が警備員を振り切って、こちらにやってきた。
「嘘吐き女!!なにがおかしい!?」
棒 陸夫にぐいっと胸倉を掴まれた。
不快な熱が胸の奥から瞬時に湧き上がる。
「"愛していた"?"殴りたくなかった"?……嘘吐きはあんたでしょ」
睨むというよりはあたしは淡々と相手を見ていた。
「もし、その言葉が本当なら、あんたのするべきことなんて一つじゃないんですか」
殺気を孕んだ視線で睨まれているが、不思議と怖いと思わなかった。
むしろ、その醜く歪んだ男の表情に、笑いがこみあげてくる。
唇に浮かびかけた笑いを我慢しながら、吐き捨てる。
「アンタがさっさと彼女の前からいなくなればよかったんですよ。
本当に“殴りたくない”“自分を止めたい”。
それ……どうせ本気で思ってなかったでしょ?」
吃音がでない。
流暢な言葉が続き、醜い人間の本性をこの身で実感して、反吐がでそうだった。
「本当に彼女を愛して、彼女の幸せを願ってたんなら
彼女の元からさっさと離れられたはずですよ」
思わず、ふっと鼻を鳴らしてしまう。
「あんたはただ、自分の“独占欲”を満たしたかっただけでしょ?
思い通りにならない自分の女を暴力で言う事きかせようとした。
あぁ、別に男尊女卑を言うつもりはないですから。
女だろうと男だろうと、力を使って人を支配してやろうと思う人が……
……大ッ嫌いなだけなんですよ」
男が拳を振り上げた。
その拳を睨む。
だが、拳はカカリカンに掴まれた。
「カカリカン!!ただちに被告人を退廷させなさい!!」
「放せ!!放せ!!あのアマぶっ殺してやる!」
パッと男に掴まれた胸倉の皺を伸ばす。
……やな奴。
相手を貶す言葉だけは一度も噛まずに言えたことに、気分が悪くなる。
「証人。ほかになにか証言することはありますか」
白い髭の老人の顔を見た瞬間、ふっと先ほどの怒りが消え、いつもの緊張が戻ってきてしまう。
「ととと特には。あっ」
「どうしましたか?」
大したことではないが、一応話しておくべきだろうか。
すでに知っているだろうが、念のため言っておこう。
「えっと、じじじ事件のあと、ひっ被告人が、ゲゲ現場か、から、逃げる、とき、置き物を持ってました」
あれはたしか耳がやたらに短い……
「うううっウサギ、の、置き、物です」
その瞬間、法廷がざわつく。
空気が嫌なモノに変わった。
心臓が鼓動するたびにチクンチクンと刺すように胸が痛む。
背筋に嫌な熱が駆け上がり、背中や脇から汗がぶわっと出た。
そして、奇妙な寒気を感じ体が震え出す。
知ってる。
この体を、まとわりつく鎖のような、重苦しさを。
返事をしようとして、声が出なくなる。
「枯山さん」
名を呼ばれ、勢いよく顔を向けた。
地平線に浮かぶ朝焼けに似た、鮮やかな赤が目に飛び込んでくる。
目が痛くなるような赤のスーツの男性が、こちらを睨むように見据えていた。
「どうして"ウサギ"だと知ってるんですか?
あの置き物は耳が取れて、短くなっていました。
そのせいで、皆"ネズミ"の置き物だと思っていたんです」
みぞおちに氷の棒で刺されような冷たく鈍い痛みが走る。
なにそれ……
赤い弁護士からの言葉に何も言えなくなってしまった。
そのとき、傍聴席からとある声が耳に入ってくる。
「あの人、被告の男に対しては普通にしゃべってたわよね」
「本当は喋れるのに、わざと喋れないフリをしてるんじゃないの?」
「そうそう。さっきだって嘘をついてたしね」
肺の中が凍り付いた。
「……あの置き物がウサギなんてわかるってことは……あのオバサンが犯人なんじゃないの?」
呼吸が震える。
「ししし知ら……!あああた、っまた、ま、ううウっサ、だと、おおおっ…て……!」
「だったら、答えてください!!なんでそう思ったんですか!?」
あの弁護士の燃えるような瞳が、炎のような声が、あたしの中心を刺し貫いた。
身体に、焼け火箸で刺されたような熱い痛みが走る。
「もしや、この犯行を実行したのは……」
降ってきたしわがれた声に、情景すべてがぐらぐらと揺れて輪郭が崩れた。
「残念だけど、それはありえないよ。
彼女にはアリバイがあるか……!?」
立っていられず床にしゃがみこむ。
息が詰まり、顔が風船のように膨張して破裂しそうだった。
手足がしびれていて、その部分の血液が炭酸水になってるように泡立っている。
視界は地面しか見えず、額を床につけているしかなかった。
身体を起こされ、視界が法廷に戻る。
抱え起こしてくれた人物をちらりと横目で見る。
「裁判長。これ以上の証言はやめさせてくれ」
土気色の顔をした医者の横顔が目に入る。
無間、先生……。
手足は材木のように固まり、動かせない。
「ゆっくりでいい。無理に呼吸をしてはいけない」
できたらやってる……・!
話しかけられても何も応えられず激しく息をするしかできない。
「弁護側は乱暴な尋問で、彼女を精神的に追い詰めたとしか思えない」
無間先生のその言葉を聞いた瞬間
"答えてください!!"
脳裏に先ほどのセリフと男から向けられた熱が蘇る。
怒りとも悔しさとも言える不思議な熱が胸に灯った。
ダンッ!!!!
「っーーーーーーっーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!」
私は証言台にすがりつくように、体を当てる。
口元も痺れ、人間の言葉を発することも危うい。
視界が霞む。
顔が熱い。
顔を滑る目からの水滴が火照った頬を冷やす。
「 っ!!!! っ!!!!」
肩と顎だけで、証言台をよじ登る。
そして、なんとか証言台に乗った。
証言台に顔を乗せながら、裁判長の顔を睨みあげる。
「しゃべれ、ますっ!!!!!」
―――――――――――出た。
あれほど喉から出てきてくれなかった声が、やっと口から出てきた。
これなら大丈夫。
そう安堵した瞬間、プツンッとテレビの画面のように、視界が真っ暗になってしまった。