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幻寂SS

人は私を、愚かだと思うだろう。私だって、愚かだと思う。あの頃が、恋しいなんて。
恋しいとは少し違うかもしれない。しかし毎日緊張感の中、前に進んでいる充足感に囚われていたあの頃ほどの情熱を今、持ち合わせているだろうか。
今度のテリトリーバトルに手を抜くつもりは一切ない。もちろん、勝つつもりだ。それが一二三君と独歩君を巻き込んだ私の責任であるし、飴村君に対する贖罪でもある、と考えている。
彼と、相対することになるとは。
そして、彼の傍らにあの時の少年が佇んでいるとは。全くの偶然か、それとも神の導いた必然か。
あの少年を、私は知っている。

今でも覚えている、ちょうど五年前の七月一日。梅雨明けすぐの、理不尽なほどによく晴れた夏の日だった。私はまだやっと医師として独り立ちに歩み始めたころで、壁にぶつかっていた。
回復する患者、しない患者。退院していく患者、入院してくる患者。生き残る患者、死にゆく患者。あまりにも、たくさんの患者を見ていた。
治療方針について、私は必死に悩んだ。毎日毎日、最先端の治療はもちろん既存の治療や論文にも目を通し、一人一人に真摯に向き合っているつもりだった。しかしそんな医師ばかりではなかった。
適当にやっておけ。病院の利益になる治療を優先しろ。いちいち悩むなんて時間の無駄。患者はヒトじゃなくてモノだ、効率よく処理しろ。
そんなことを毎日言われていた。
そして私自身、だんだんと悩むことが悪いことのように思えてきていた。

突然激しい夕立が襲いかかった。
傘も持たずに帰り道の途中の私はあわてて目の前にあった店に駆け込んだ。そこは今や珍しいほどにクラシックな、古書店だった。毎日通っている通勤路なのに、こんな店があったことをその時私は初めて知った。古書特有の紙の香りが心地よく全身を包み込む。
「いらっしゃい、災難でしたね」
カウンターの中から癖のついた淡い色の髪を揺らす少年が声をかけた。
「雨宿りでしょう。せっかくなのでゆっくりしていってくださいな。お医者様なら突き当りを右に曲がると医学書がありますよ」
「なぜ医者だと…」
「何となく、ですよ。年齢の割りにいいものをお持ちだし、微かに消毒液の匂いがする。それと、死体のね」
ハッとして思わず目を見開くと、少年はふわりと笑って嘘ですよ、と囁いた。
バカバカしいこととは思いながら、聞かずにはいられなくて私は口を開いた。
「君は…何でもわかるのかい」
「まさか。私はしがない古本屋の店員ですよ?でもあなたが悩んでいることはわかる。悩むこと自体に罪悪感を抱えているのもね。もうおよしなさい。こんな豪雨の中悩んでいると、消えたくなりますよ。悩むことは悪いことじゃない。雨が降らなければ虹は出ないのと同じ、悩みがなければ輝かないものがあるんですよ」
彼の言葉は何処か詩的で、穏やかだった。受け入れられているという、安心感があった。
「そう、か…そうだね。ありがとう」
「おや、あまり真に受けないでください。誰だって悩みくらいあると思って適当に言ったんです。私は大ウソつきでね」
「それでも、ありがとう。随分と救われたよ。私も虹を見つけなければならないね」
少年は、何やらカサカサとメモを取りながら曖昧に返事をした。
「ほら、晴れてきましたよ。虹を探しに行ってはどうです?」
「あぁ」
短く返事をして店を後にした私は、何週間も見上げていなかった空を見た。
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