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幻寂SS

いつからかはわからない。小生は時たま、溺れていく夢を見る。
階段を下っていくといつの間にか水面にたどり着く。そのまま階段を下る。しばらくは何事もないように海の中をじっくりと見物する。色とりどりの熱帯魚やサンゴ礁はとても美しく、好ましい。そのままさらに階段を下る。するといつしか太陽の光が届かなくなり、薄暗い景色に染まっていく。鮮やかなエメラルドブルーがゆっくりと漆黒に染まっていく様は、危険であるとわかっていても足を進めずにはいられないほどの美しさだ。
深く深く、完全な漆黒に染まる寸前ではたと気付く。
息が、できない。
小生は必死で来た道を引き返す。下ってきたただ一つの階段を駆け上がる。しかし不思議といつまでも水面にはたどり着かない。全身に酸素を送ろうと心臓が収縮を繰り返すが、時すでに遅し。
そして小生が死を受け入れた瞬間に、目を覚ます。

(――また、この夢か)

ゆっくりと布団から起き上がる。朝餉には昨日乱数が置いて行ったスコーンをいただこうかと、ぼんやり考えながら小生は台所へ向かう。
湯を沸かしながら一日の予定を確認する。なんてことのない、平凡な朝だ。
カーテンを引くと出窓に飾られた花瓶に朝日が差す。
紫色の花は、想い人の様に愛らしい。
彼は今頃、何をしているのだろう。どんな音の中で、どんな光を見て、どんな気持ちで過ごしているのだろう。会えない時間は小生の恋慕を受け入れてくれる。

いつの間にこんなにも彼に想いを寄せてしまうようになったのか。
はじめはただ、綺麗な人だと感じた。長い髪が垂れる様が、膜の張ったような揺らぐ瞳が、ややかさついた頬のアンバランスさが、美しいと感じた。
徐々に彼の内面を見た。綺麗なだけではなく、人間らしい後悔や憎悪も持っている彼を知ったとき、ますます魅力的だと思った。
しかしやがて、この想いは取り返しのつかない顛末を迎えることに気付いたとき、目の前が真っ暗になる思いをした。
諦めきれぬこの恋慕は、会えない時間だけにこっそりと一人で楽しむ蜜にとどめようと誓った。

さて、そろそろ労働に勤しまなければなるまい。
窓辺に佇む一輪の花は、悲しんでいる小生を愛してくれるだろうか。
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