D.O.G
一心の興奮は収まるところを知らない。散歩だ。陸がリードを手に、一心が引っ掻くせいで多少ボロが出始めているソファに腰掛けたのを見たせいだ。
飛び跳ねるように後をついて歩いていた一心は、尻尾の回転で空が飛べるのではと思うほどぶんぶんと激しく喜びを表している。リビングの中央にあるソファの周りを駆け回り、リードをつけようとしてくれている陸の邪魔をしているようにしか見えない。
「散歩かぁ! ご主人、散歩に行くのかぁ! そうかぁ! 散歩だな!」
「一心……一心……いつものことだけど落ち着いて。ほら、止まって、頼むから」
がちゃり。
首輪にリードが繋がる音がした。硬い感触のバベル・フレンズとかいう首輪に苦い顔をして、陸は立ち上がった。リビングと庭を繋ぐ大きな窓から差し込む太陽光を睨む。木陰を歩くつもりでいた。
キャップを目深に被り、家のドアを開ける。ドアが開いても一心が飛び出していかないのは陸がきちんと躾をしたおかげだ。ハスキー犬に引きずられたら抵抗もできず、好き勝手に走り回られてしまうからである。
いつも通り人通りの少ない道を選んで、いつも通り木陰を歩いていく。多少坂や歩きにくいでこぼこした道にあたるが、陸にとっては人と出会うよりも遥かにましらしい。
後ろを振り返りながら一心が呟いた。
「あっちに公園があるんだがな……」
「……公園?」
「ああ。ご主人のおっかさんに連れられて行った事があるんだ。楽しいぞ、公園。犬がいっぱいだ」
「犬がいっぱいって事は、飼い主もいっぱいって事だよね、それ」
「そりゃあな」
地獄だろう、それは。陸は引きつった顔で無視を決め込もうとした。したのだが。
一心の顔を見てしまった。
木陰だからか冷えたアスファルトの上を心細そうに歩き、時折振り向いては公園のあるほうをちらちらと見る一心を。
前からそんな動作はしていたが、犬友達が欲しかったのかと今になって気づいた陸の胸に、若干の罪悪感が湧き上がってきた。
大きな街路樹が並ぶ坂道の途中で立ち止まる。一心が何事かと陸を見る。
陸は。
一心が大好きだ。
「……人は嫌いなんだけどな……」
ユーターンして坂道を下っていく陸に何かを察したらしい。一心が嬉しそうに足元に擦り寄ってくる。木陰だらけの此方の道とは違い、公園に向かう道は太陽光に照らされて真っ白だった。
まるで夢と希望に溢れた景色のように。
人間との付き合いを嫌う陸にとっては、ただの絶望だったが。
坂を下りきると、それだけで人の話し声が聞こえる。陸の表情が若干不機嫌そうになる。不機嫌そうではない、不機嫌そのものなのだ。しかし文句を言わずに公園へ向かって歩いていた。
足元の一心が嬉しそうにしているからだ。
中学でいじめられ人間不信になった時。不登校になって家で泣き暮らしていたとき。いつだって傍にいてくれた愛犬のためを思えば、多少の苦行など。
坂ノ下フレンドリー公園。
ふざけた名前の石碑を見て思わず舌打ちしそうになったが、陸はぐっと堪えた。そのまま足を踏み入れて、愕然とする。
犬、犬、犬、犬、犬、犬、犬、ハト、犬、猫、犬。
飼い主、飼い主、飼い主、飼い主、ハトに餌をやる老人、飼い主、猫を眺めるサラリーマン、飼い主。
コミュニケーションが苦手極まりない陸にとって正に地獄絵図。言葉を失うほかない。それから真昼間にサラリーマンがいていいのか。
思考がぐるぐると回転する。三つあるブランコに小型犬を抱いた女性三人が座っている謎の光景や、グラウンドで走り回るコーギーを追いかける飼い主の男性をスルーしたかった。
「うおぉー! 初めましてぇ! 俺は一心だ!」
足元で嬉しそうにしている一心を見てしまっては、逃げることもできない。
「でっかいなー君! よろしく! 僕ポン太郎!」
「あたしミルク。あなたも例の首輪を買ってもらったのね、愛されてるわねー!」
わらわらと寄ってくる犬たち。それに伴い寄ってくる飼い主たち。一心を一心不乱に見つめることで視線を合わさないようにするしかない陸が冷や汗をかく。一心は気づかない。お友達ができてそれどころではない。
リードを長く持ってやれば、途端に一心はポン太郎やミルクとじゃれあい始めるではないか。お利口なハスキーね、と声をかけられ、ええ、はい、どうも、しか返せない陸が異様に浮いていた。
「こんにちは」
公園の中央にそびえる巨大な樹木の根元で休んでいた時の事だ。
こげ茶色の長い髪をなびかせた、爽やかな女性に声をかけられたのは。
女性はパグをつれていた。パグは一心に近づくとしきりに匂いをかぎ、危険はない事を確認している。
「こ……こんにちは……」
あまりの緊張に声がかすれる陸が辛うじて挨拶を交わしたのを見て、動いた影があった。
一心だった。
「こんにちは! 俺は一心だ。こっちは俺のご主人だ。あんたらは誰だ? 仲良くしてくれるのか?」
何というコミュニケーション能力。陸を遥かに凌駕する友好的な態度。まさしく相棒だ。
「こんにちは、一心くん。私は百合子。こちらはハナ」
一心が代わりに会話をしてくれる。
このときは。
このときばかりは、バベル・フレンズに感謝してもしきれなかった。
飛び跳ねるように後をついて歩いていた一心は、尻尾の回転で空が飛べるのではと思うほどぶんぶんと激しく喜びを表している。リビングの中央にあるソファの周りを駆け回り、リードをつけようとしてくれている陸の邪魔をしているようにしか見えない。
「散歩かぁ! ご主人、散歩に行くのかぁ! そうかぁ! 散歩だな!」
「一心……一心……いつものことだけど落ち着いて。ほら、止まって、頼むから」
がちゃり。
首輪にリードが繋がる音がした。硬い感触のバベル・フレンズとかいう首輪に苦い顔をして、陸は立ち上がった。リビングと庭を繋ぐ大きな窓から差し込む太陽光を睨む。木陰を歩くつもりでいた。
キャップを目深に被り、家のドアを開ける。ドアが開いても一心が飛び出していかないのは陸がきちんと躾をしたおかげだ。ハスキー犬に引きずられたら抵抗もできず、好き勝手に走り回られてしまうからである。
いつも通り人通りの少ない道を選んで、いつも通り木陰を歩いていく。多少坂や歩きにくいでこぼこした道にあたるが、陸にとっては人と出会うよりも遥かにましらしい。
後ろを振り返りながら一心が呟いた。
「あっちに公園があるんだがな……」
「……公園?」
「ああ。ご主人のおっかさんに連れられて行った事があるんだ。楽しいぞ、公園。犬がいっぱいだ」
「犬がいっぱいって事は、飼い主もいっぱいって事だよね、それ」
「そりゃあな」
地獄だろう、それは。陸は引きつった顔で無視を決め込もうとした。したのだが。
一心の顔を見てしまった。
木陰だからか冷えたアスファルトの上を心細そうに歩き、時折振り向いては公園のあるほうをちらちらと見る一心を。
前からそんな動作はしていたが、犬友達が欲しかったのかと今になって気づいた陸の胸に、若干の罪悪感が湧き上がってきた。
大きな街路樹が並ぶ坂道の途中で立ち止まる。一心が何事かと陸を見る。
陸は。
一心が大好きだ。
「……人は嫌いなんだけどな……」
ユーターンして坂道を下っていく陸に何かを察したらしい。一心が嬉しそうに足元に擦り寄ってくる。木陰だらけの此方の道とは違い、公園に向かう道は太陽光に照らされて真っ白だった。
まるで夢と希望に溢れた景色のように。
人間との付き合いを嫌う陸にとっては、ただの絶望だったが。
坂を下りきると、それだけで人の話し声が聞こえる。陸の表情が若干不機嫌そうになる。不機嫌そうではない、不機嫌そのものなのだ。しかし文句を言わずに公園へ向かって歩いていた。
足元の一心が嬉しそうにしているからだ。
中学でいじめられ人間不信になった時。不登校になって家で泣き暮らしていたとき。いつだって傍にいてくれた愛犬のためを思えば、多少の苦行など。
坂ノ下フレンドリー公園。
ふざけた名前の石碑を見て思わず舌打ちしそうになったが、陸はぐっと堪えた。そのまま足を踏み入れて、愕然とする。
犬、犬、犬、犬、犬、犬、犬、ハト、犬、猫、犬。
飼い主、飼い主、飼い主、飼い主、ハトに餌をやる老人、飼い主、猫を眺めるサラリーマン、飼い主。
コミュニケーションが苦手極まりない陸にとって正に地獄絵図。言葉を失うほかない。それから真昼間にサラリーマンがいていいのか。
思考がぐるぐると回転する。三つあるブランコに小型犬を抱いた女性三人が座っている謎の光景や、グラウンドで走り回るコーギーを追いかける飼い主の男性をスルーしたかった。
「うおぉー! 初めましてぇ! 俺は一心だ!」
足元で嬉しそうにしている一心を見てしまっては、逃げることもできない。
「でっかいなー君! よろしく! 僕ポン太郎!」
「あたしミルク。あなたも例の首輪を買ってもらったのね、愛されてるわねー!」
わらわらと寄ってくる犬たち。それに伴い寄ってくる飼い主たち。一心を一心不乱に見つめることで視線を合わさないようにするしかない陸が冷や汗をかく。一心は気づかない。お友達ができてそれどころではない。
リードを長く持ってやれば、途端に一心はポン太郎やミルクとじゃれあい始めるではないか。お利口なハスキーね、と声をかけられ、ええ、はい、どうも、しか返せない陸が異様に浮いていた。
「こんにちは」
公園の中央にそびえる巨大な樹木の根元で休んでいた時の事だ。
こげ茶色の長い髪をなびかせた、爽やかな女性に声をかけられたのは。
女性はパグをつれていた。パグは一心に近づくとしきりに匂いをかぎ、危険はない事を確認している。
「こ……こんにちは……」
あまりの緊張に声がかすれる陸が辛うじて挨拶を交わしたのを見て、動いた影があった。
一心だった。
「こんにちは! 俺は一心だ。こっちは俺のご主人だ。あんたらは誰だ? 仲良くしてくれるのか?」
何というコミュニケーション能力。陸を遥かに凌駕する友好的な態度。まさしく相棒だ。
「こんにちは、一心くん。私は百合子。こちらはハナ」
一心が代わりに会話をしてくれる。
このときは。
このときばかりは、バベル・フレンズに感謝してもしきれなかった。