D.O.G

 キッチンでカフェオレを作りソファに戻ってきた陸は、足元で寝そべっている一心の頭をわしわしと撫でた。小さく尻尾が揺れるのを見て頬を緩める。
「お前のことは好きだよ、一心」
 くうん、と甘えるような声が一心から聞こえる。
「犬は真心を込めれば裏切らないからね……」
 更に強く撫でてやり、ソファに座ろうと腰を落とした。ちょうどその時だった。

「いやあ、照れるね」

 野太いおっさんの声がしたのは。
 びっくりして固まる陸が、恐る恐る声のした方向を見る。一心だ。間違いなく一心から聞こえてきた。
「どうした、ご主人?」
 渋めのテノールが耳に心地よい。いや、そんな事を言っている場合ではない。
 思わずカフェオレ入りのマグカップを床に思いきり落とした陸が、わなわなと震える体に鞭打ち一心の元へ歩み寄る。カフェオレでびしょびしょの床を震える足取りで進むその姿は正に泥水を踏みしめ生還した兵士のようだ。
 床を拭け。
「一心……一心……お前、まさか……」
 怯えたような眼差しを愛犬に向けて、陸は一心の首元に指を這わせた。
 かつん、とあたる首輪の感触。違う。自分が買い与えたものじゃない。
 急いで首の毛を掻き分けて確認する。テレビの向こうで爆発していた商品だ。それが一身の首に絡みつき、存在を爆発的に主張しているではないか。
 お値段、なんと。
 カルガモの赤ちゃんの行進で覚えていないが、結構お高かった気がする。
 それがどうして一心に?
 固まっている陸の姿を見て首を傾げる一心。傾げたいのはこっちのほうだと一心を見つめる陸。
「あら、ちょっと! こぼしたんなら拭いといてね!」
 二者に声がかかったのは、直後のことだった。
「……母さん! どういうこと!? どうして一心にこんな首輪が!」
「え? ああ、それ? 母さんが買っておいたのよ。あなた友達いないでしょ? 一心で練習でもしたらー? って思ってね」
 陸に雑巾を手渡しながら、陸の母が言う。受け取りながら呆然とする陸は、思わず雑巾を一心に手渡した。
「エサか?」
「違う」
 呆然としたまま床を拭く。何が起こったか未だに理解できていない。
 一心で練習したら。何を? 会話を? 人の言葉を話す犬と、人の言葉の練習を?
 ぞわりと背筋が凍りついた。クラスで浴びせられた罵声、からかい、誹謗中傷、笑い声。投げつけられるごみと仏花。帰れのコール。
 練習を、一心と。
 人の言葉を、一心と。
「あ……あ……ああぁぁあ!」
 パニックが起こった。
 首輪を外さなければならない。バベル・フレンズという名のエネミーを取り除かなければならない。人間の言葉が好きな者ばかりではないのだ。なんて余計な事をしてくれた!
 一生懸命に一心の首元を弄る陸の手が首輪を取り外そうと右往左往するたびに、一心の表情がとろけていく。
 首を、顎を、背中をがしがしと撫でられている状態なのだろう。しまいには舌を出してリラックスし始めた一心がぶんぶんと尻尾を振っていた。
「ご主人、俺ぁ幸せだぜぇ……もっと、もっと撫でてくれよ」
 首元をこすりつけ、最大限甘えてくる愛犬。
 腹まで見せて嬉しそうにしている愛犬。
 陸の手が止まった。
「どうした、ほら、いつもみたいに腹を撫でてくれ、ご主人」
「……お前、一心なんだね」
「そうだが、それがどうした? ……撫でてくれないのか?」
 尻尾の動きが止まる。
 此方を伺う表情はおやつを目の前に「待て」と言われてしょげていた、いつもの残念そうな顔つきだ。
 陸は一度大きく息を吸うと、鷲掴みするように一心の腹を掴んだ。いつものように大きくわしわしと撫でてやる。途端に、うおー! という興奮した声があがり、尻尾がマックスで振られる。
 人間の言葉を話すといっても首輪が翻訳しているだけだ。元は一心なのだ。変わっているはずがないじゃないか。
 陸は自分の気持ちを落ち着かせようと一心の腹を撫で続けていた。
 そのせいで一心の方は興奮し続けていく。尻尾がはちきれそうだ。
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