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カプなし

 小さいころから、パンが好きだった。比較的都心に住んでいたこともあって、有名店はだいたい近所で買うことができたし、最近は「メロンパン」「高級食パン」「クリームパン」「あんバターサンド」などの流行をぐるぐると観測するのは、楽しかった。デパートや駅ビルの一角で、朝からぴかぴかした光とおいしそうな匂いに包まれる空間が好きで、昼ご飯は大抵パン。ドイツ系、イギリス系、デンマーク系、フランス系。この時点でだいぶパン生地の感触が違う。そのうえで、なにを追加して総菜パンやスイーツパンにするか、創意工夫が試される。先述の「あんバター」然り、「塩」へのこだわりをアピールしたシンプルな商品が流行ったこともある。アップルパイだけでも、具材に使われるりんごの品種ごとで味わいが変わるのも面白い。しっかりした食感のもの、甘さがひきたつもの、パンは単なる主食ではなく、総合芸術なのだと思う。
 そんな話を、はじめてできた恋人に滔々と語ってしまった。相手方の「趣味ってなにかある?」とただの雑談程度の切り口に、「強いて言うなら……」と前置きしながら、結局熱弁をふるってしまった。すると、相手は言ったのだ。「連れていきたいところがあるんだけど」と。
 恋人が今までパンに造詣が深いことを示す要素は特になかった、と思う。ただ、大学のサークルでなんとなく仲良くなって、なんとなく付き合いはじめた、その程度の距離感だ。「飲み会の時に何を最初に注文するか」、「から揚げにレモンをかけるかどうか」は知っているけれど、相手の趣味は実は知らない、みたいな距離感。特別変わったことなんて、ない。当たり前の付き合いたてのカップル。
 連れてこられたのは、渋谷駅。渋谷駅なら地下街にたくさんのパン屋がある激戦区だ。他にも、横浜駅の高島屋もパン屋の多さを売りにしている一角があるなあ、とぼんやり考えながら、手をひかれて到着したのは、東急百貨店。見ると、相手は美術展のチケットをこちらに渡してくる。かこさとし展、と書かれていた。絵本作家らしいが、正直本に興味がないので、誰だかピンとこない。
 しかし、展示室の入り口のモニュメントを見た途端理解した。パンがたくさん並んでいる! さまざまなかたちをしたパンがカラスとともに鎮座しているのだ。おいしそうな小麦色が、なんともたまらない。呆気にとられている私を見た恋人は、少しふふっと笑って、「そんなに驚かれると思わなかった!」とはしゃいだ。「絵本なんて読んだことなかったから……」と言うと、「確かにそうでもないと、ここまで驚かないよね」と返された。
 絵本作家・かこさとしの代表作のひとつが、『からすのパンやさん』だ。恋人が言うには、幼いころに大型絵本で見たパンに心奪われてから、かこさとしのファンだという。パンにときめいたのはあの時が初めてだ、と恋人はうっとりする目で語った。かこさとし自身が、慈善事業を熱心にしていたことから、大学サークルでボランティアをやろうと思ったのだという。特になにも考えず、「就職に有利そう」と漠然と選んだ自分との意識の落差を、思い知らされる。
 貧困の戦中戦後を生き抜いたかこさとしにとって、「パン」は、私が思い描いている以上の何か強いものがあったのかもしれない、と展示を見ながら思った。科学や歴史を愛した中に、ふと日常的な「パン」が現れるのは、なんだか不思議でもあり、当然な気もした。
 帰り道も、ふたりでパンの話をした。恋人は、パン屋さんのパンより、スーパーやコンビニで売られているパンに愛着があるらしかった。ポケモンのステッカーや、白い皿を集めるために、パンを食べていた話。パンの賞味期限ぎりぎりで「見切れ品」になっているのを見ると、かわいそうだなと思って買い、その日のうちに胃袋に収めてしまう話。
 住んでいる世界が違いすぎて、逆になんだかおもしろかった。パンひとつで、話せることがあまりに多い。違うからこそ、楽しいことがあるなんて、今まで考えたことがなかった。おんなじものが好きな人同士で話している方が、気が楽だろう、と思っていたのに。すべて覆された気持ちだった。ふたりで駆け込みで地下街のパン屋さんに入り、気になるパンを物色した。バターの香りでより一層幸せな気持ちになりながら、会計にならんで、明日の朝ごはんとなるパンに期待する。さようなら、と駅で別れても、明日の朝には、「同じパンを食べる」という共犯者になる。ひそやかな楽しみが、私の心を満たした。
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