カプなし
ポメラニアントーンに猛烈にあこがれていた。同人誌で「ほわほわした空気感」を出すときに多用される、あの、ポメラニアントーンだ。初めて読んだ同人誌『きゅあっと!』では、『せんとれあ』の推しキャラがポメラニアンを操る魔法戦士になっていた。本屋さんでたまたま見かけた、いつも買っている『せんとれあ』とは違う版型の時点で気づくべきだったのだけれど、なんだか表紙を手に取ってしまったら最後、レジで会計をしてしまっていた。吸引力が違った。表紙の背景に散らされた、ポメラニアンの引力なのかもしれない。それから私は、同人誌というものを知るようになり、漫画は自分で作ることができることを理解した。漫画のための原稿用紙、ペンの種類、そしてトーンのことを勉強した。
東京ビッグサイトや流通センターに通いつめる日々、同人誌を手あたり次第試し読みして、ポメラニアントーンがないか、探してしまう。きっと、サークルを縦断して同人誌をひととおり目を通す様は、現代だったら「脈絡なく試し読みする不審者!」とTwitterで大拡散されていただろう。まあ、そんなことはない。だって、今から十年は前の話だから。ポメラニアントーンを発見してほくそ笑むのは、どう考えても不審者のふるまいという自覚はあった。だからこそこそと活動するようになった。余計に、不審者になっていた。
「ポメラニアントーンが使いたくて、同人誌を初めて作りました!」とあとがきで書いてあると、「私の先輩だ……!」と思って、声を掛けたくなってしまうが、そもそもサークル主と私は「接点なしカプ」である。ポメラニアントーンはどう考えても「接点なし」判定だ。不審者ムーブが漫画になっているなら、同じコマに入っているか入っていないかどうかも怪しい。オタクの言う、「同じコマにふたりがいるから、同じ空気を吸っている! カプじゃん!」も通用しない。私は、モブだから。そもそも、サークル主とは逆カプだった。
しかし、声を掛けてくれた。あまりにじっくり、ポメラニアントーンのコマと、あとがきを繰り返し見ていたからだろう。
「どこか、気になるところ……ありますか? 私、同人誌初めて出したし、誤植とかトーンの貼り間違いがあるかもしれなくて……!」
ちょっと身体が震えるサークル主に、私は「えっと……トーンが」と口火を切る。
「あ、やっぱり! 間違ってましたか? 教えてくださると、うれしいです……」
声が徐々に尻すぼみになっていくのを見ているのが、あまりに申し訳ない。正直漫画自体は拙いところはあると思うけれど、私はただのモブ、創作者でもないのに指摘するほどのことはない。
「あ、犬のトーンが好きで、つい見ちゃうんです……」
私も声が尻すぼみになってしまった。一世一代の告白だ。いや、もっと違うところで告白をすべきだと思ったけれど、顔から火が出そうなほど恥ずかしかったのは、あの時だけだ。
「え、あ! そうなんですね! 私も、好きです! 初めて言われたかも……!」
そりゃそうだろう、とキートン山田の声が天から聞こえてきそうだったが、私も私で初めて「同志」と出会い、固い握手を交わした。そして私は、おずおずと尋ねた。
「あの、ポメラニアントーンってどこで売ってますか? 世界堂に行っても、トゥールズに行っても見つからなくて……!」
「同志」であり、「先輩」は、軽やかに言った。
「パソコンは持ってる?」
「えっと、家族みんなで使っているのなら……」
「クリップスタジオというソフトを買ってきて、インストールしないと、まずポメラニアントーンは使えないから」
「え、パソコンで漫画が描けるんですか?」
「イマドキの同人誌、いや商業の本もたぶん大体パソコンで描いていると思うけど」
「マウスとキーボードで?」
「うーん、マウスで描いている人もいるけれど、基本的には板タブじゃないかな」
なにもわからないので、専門用語が全部ちゃんと聞き取れなかったので、メアドを交換して、後日詳しく説明してくれることになった。距離を縮めるのが、圧倒的スピードで進められた。ナンパだってこんなスムーズにいかないだろう。「同志」であることだけが、私とサークル主を結び付けた。「ポメラニアントーン」は「接点あり」だった!
メアドを教えあっても、私はサークル主と逆カプであることを伝えられなかった。
***
「同人の先輩」なので、サークル主のことを「センパイ」と呼ぶようになった。サークル名もペンネームも、なんなら本名も知っている関係になってしまったが、どれで呼ぶのも気恥ずかしく、「センパイ」と呼ぶことにしたのだ。私にはまだ、ペンネームがなかった。
「ねえ、私のことはセンパイと呼ぶけれど、あなたはなんて呼ばれたい? いや、本名は知っているけれど……」
センパイの方も、本名で呼ぶのは気恥ずかしいらしい。
「センパイ、そしたら、ペンネームつけてもらえますか!」
センパイは一瞬かたまって、そして動き始めると今度は挙動不審に揺れた。
「え、いいの?」
私は、こくんと頷いた。ポメ、とセンパイは私を呼んだ。今日から、私は「ポメ」だ。
漫画の描き方が分からないわけではない。ただ、板タブをセンパイに勧められて買ってみて、操作に慣れるところから始まった。安物じゃなくて、しっかりとメーカーを確認するように言われ、実際触ってみようと思っても親の寝た深夜にそおっとパソコンを略奪し、自室で上に妹がぐうすか寝ているのを邪魔しないように、どうにか作業する。まだ、クリップスタジオは入れていない。高いから。もともとWindowsにはいっているペイントソフトでは不十分らしく、犬のアイコンの無料ソフトで練習してみな、と教えてもらったので、そのとおりにしている。犬、私の同人人生には、犬がついてまわるらしい。
マウスで絵を描く修行に比べたら幾分かマシだろう板タブへの慣れも、だんだんとついてきた。よし! バイトはじめて、お金貯めて、すこし同人誌即売会を諦めたら、たぶんクリップスタジオも買えるはず! 同人誌即売会は一般参加だと同人誌数冊分の入場料をとられることが多い。今度は、文学フリマだけにしておこう、と決意していた。
***
クリップスタジオを買ったときの高揚感はすごかった! そもそもソフトの大きな箱を買う日が来るとは思っていなかった。初音ミクとか欲しかった時期もあったけれど、絵より音楽のほうがわけがわからない。ゆっくりボイスはパソコンに基本搭載されていたから、ひととおり遊んだけれど。
「クリップスタジオ買いました!」
その頃には、ガラケーからスマホに変わっていて、センパイとTwitterで相互フォローの関係だった。もっとも、同人アカウントではセンパイとつながっていない。逆カプだと知られるのが怖かったから。まっさきにセンパイはふぁぼを飛ばしてくれた。ふぁぼだ、断じて「いいね」ではない。センパイがリプライで、「そしたら、同人誌作れるね! ポメちゃんの自カプ本欲しいなあ……!」と返事をくれる。恥ずかしい、そして、いたたまれない。
「使い方、教えてください!」
これは懇願だ、悲願だ! センパイに会うのが楽しみでならなかった。
***
センパイの部屋はいつ見ても奇麗で、センパイのノートパソコンもデコっているのがかわいくて好きだ。推しカプのシールを自分で作って貼っているらしい。センパイは、絵も漫画もすっかりうまくなっていた。センパイというより、師匠という感じだ。好きだ、センパイはずうっと私の新刊を待っている。
クリップスタジオの操作と、ポメラニアントーンの手に入れ方をレクチャーしてもらう。その頃には自分用のノートパソコンがあり(大学生二年目になっていた)、クリップスタジオをその場で入れて教えを乞うことができた。
「これが、ポメラニアントーン!」
「やったね、ポメちゃん! 同人イベント申し込もう!」
そういえば、私はサークル参加はしたことがない。センパイの売り子として参加したことがあるから、サークルチケットで早く入ることができるのは知っていたけれど、同人イベントの申し込み方がわからない。センパイは「そっかぁ……」と言いながら、三か月後のイベントを申し込むことにした。センパイと私の自ジャンルはすっかり斜陽で、ジャンルオンリーが開催されている会場は流通センターしかないらしかった。
「アットホームな感じだから、最初はこっちでいいんだよ! 私も隣接サークルにできるし!」
「りんせ、つ?」
「そうそ、同じカプで申し込むと隣にサークルスペースを配置してもらえるんだよねー、楽しみだなあ! 自カプの本!」
満面の笑みでセンパイは私にサークル申し込みをさせようとする。ジャンル名までは下記込めた、けれど、カップリング表記のところで私の手は止まった。もう、白状するしかないらしい。
「あの……私、センパイと逆カプ、ですよ……?」
かれこれ五年の付き合いだ、今更言うことではない。センパイの顔を見るのが怖い。怖すぎる。
「え、私はリバっていうか、どっちも読むし、描くよ? だから、自カプ」
あっけにとられたのは私の方だ。ずっと煩悶していた私の葛藤の処理に困る。え、なんで言ってくれなかったの?
「な、なんで言ってくれなかったんですか?」
「ポメちゃんが動揺しているところ、かわいかったから」
かわいいセンパイに言われてしまうと、私の気持ちはぐちゃぐちゃになってしまう。
「え、私をもてあそんだんですか! ずるい!」
けらけらとセンパイは笑いながら、「うん!」とにこにこしている。 私の猛然たる抗議を受け流す。
そして、私ははたと気付く。
「ってことは、私はセンパイの本を半分しか持ってないってこと……?」
センパイは「そうだね、読む?」と言いながら、隠していた私の自カプ本を出してきた。悔しい、でも、好き! センパイのせいで逆カプもいけるようになったのに、やっぱり自カプは最高だ!
「センパイ、隣接サークル申し込みしましょう!」
私は意気揚々と叫ぶ。私の同人人生は、始まったばかりだ!
東京ビッグサイトや流通センターに通いつめる日々、同人誌を手あたり次第試し読みして、ポメラニアントーンがないか、探してしまう。きっと、サークルを縦断して同人誌をひととおり目を通す様は、現代だったら「脈絡なく試し読みする不審者!」とTwitterで大拡散されていただろう。まあ、そんなことはない。だって、今から十年は前の話だから。ポメラニアントーンを発見してほくそ笑むのは、どう考えても不審者のふるまいという自覚はあった。だからこそこそと活動するようになった。余計に、不審者になっていた。
「ポメラニアントーンが使いたくて、同人誌を初めて作りました!」とあとがきで書いてあると、「私の先輩だ……!」と思って、声を掛けたくなってしまうが、そもそもサークル主と私は「接点なしカプ」である。ポメラニアントーンはどう考えても「接点なし」判定だ。不審者ムーブが漫画になっているなら、同じコマに入っているか入っていないかどうかも怪しい。オタクの言う、「同じコマにふたりがいるから、同じ空気を吸っている! カプじゃん!」も通用しない。私は、モブだから。そもそも、サークル主とは逆カプだった。
しかし、声を掛けてくれた。あまりにじっくり、ポメラニアントーンのコマと、あとがきを繰り返し見ていたからだろう。
「どこか、気になるところ……ありますか? 私、同人誌初めて出したし、誤植とかトーンの貼り間違いがあるかもしれなくて……!」
ちょっと身体が震えるサークル主に、私は「えっと……トーンが」と口火を切る。
「あ、やっぱり! 間違ってましたか? 教えてくださると、うれしいです……」
声が徐々に尻すぼみになっていくのを見ているのが、あまりに申し訳ない。正直漫画自体は拙いところはあると思うけれど、私はただのモブ、創作者でもないのに指摘するほどのことはない。
「あ、犬のトーンが好きで、つい見ちゃうんです……」
私も声が尻すぼみになってしまった。一世一代の告白だ。いや、もっと違うところで告白をすべきだと思ったけれど、顔から火が出そうなほど恥ずかしかったのは、あの時だけだ。
「え、あ! そうなんですね! 私も、好きです! 初めて言われたかも……!」
そりゃそうだろう、とキートン山田の声が天から聞こえてきそうだったが、私も私で初めて「同志」と出会い、固い握手を交わした。そして私は、おずおずと尋ねた。
「あの、ポメラニアントーンってどこで売ってますか? 世界堂に行っても、トゥールズに行っても見つからなくて……!」
「同志」であり、「先輩」は、軽やかに言った。
「パソコンは持ってる?」
「えっと、家族みんなで使っているのなら……」
「クリップスタジオというソフトを買ってきて、インストールしないと、まずポメラニアントーンは使えないから」
「え、パソコンで漫画が描けるんですか?」
「イマドキの同人誌、いや商業の本もたぶん大体パソコンで描いていると思うけど」
「マウスとキーボードで?」
「うーん、マウスで描いている人もいるけれど、基本的には板タブじゃないかな」
なにもわからないので、専門用語が全部ちゃんと聞き取れなかったので、メアドを交換して、後日詳しく説明してくれることになった。距離を縮めるのが、圧倒的スピードで進められた。ナンパだってこんなスムーズにいかないだろう。「同志」であることだけが、私とサークル主を結び付けた。「ポメラニアントーン」は「接点あり」だった!
メアドを教えあっても、私はサークル主と逆カプであることを伝えられなかった。
***
「同人の先輩」なので、サークル主のことを「センパイ」と呼ぶようになった。サークル名もペンネームも、なんなら本名も知っている関係になってしまったが、どれで呼ぶのも気恥ずかしく、「センパイ」と呼ぶことにしたのだ。私にはまだ、ペンネームがなかった。
「ねえ、私のことはセンパイと呼ぶけれど、あなたはなんて呼ばれたい? いや、本名は知っているけれど……」
センパイの方も、本名で呼ぶのは気恥ずかしいらしい。
「センパイ、そしたら、ペンネームつけてもらえますか!」
センパイは一瞬かたまって、そして動き始めると今度は挙動不審に揺れた。
「え、いいの?」
私は、こくんと頷いた。ポメ、とセンパイは私を呼んだ。今日から、私は「ポメ」だ。
漫画の描き方が分からないわけではない。ただ、板タブをセンパイに勧められて買ってみて、操作に慣れるところから始まった。安物じゃなくて、しっかりとメーカーを確認するように言われ、実際触ってみようと思っても親の寝た深夜にそおっとパソコンを略奪し、自室で上に妹がぐうすか寝ているのを邪魔しないように、どうにか作業する。まだ、クリップスタジオは入れていない。高いから。もともとWindowsにはいっているペイントソフトでは不十分らしく、犬のアイコンの無料ソフトで練習してみな、と教えてもらったので、そのとおりにしている。犬、私の同人人生には、犬がついてまわるらしい。
マウスで絵を描く修行に比べたら幾分かマシだろう板タブへの慣れも、だんだんとついてきた。よし! バイトはじめて、お金貯めて、すこし同人誌即売会を諦めたら、たぶんクリップスタジオも買えるはず! 同人誌即売会は一般参加だと同人誌数冊分の入場料をとられることが多い。今度は、文学フリマだけにしておこう、と決意していた。
***
クリップスタジオを買ったときの高揚感はすごかった! そもそもソフトの大きな箱を買う日が来るとは思っていなかった。初音ミクとか欲しかった時期もあったけれど、絵より音楽のほうがわけがわからない。ゆっくりボイスはパソコンに基本搭載されていたから、ひととおり遊んだけれど。
「クリップスタジオ買いました!」
その頃には、ガラケーからスマホに変わっていて、センパイとTwitterで相互フォローの関係だった。もっとも、同人アカウントではセンパイとつながっていない。逆カプだと知られるのが怖かったから。まっさきにセンパイはふぁぼを飛ばしてくれた。ふぁぼだ、断じて「いいね」ではない。センパイがリプライで、「そしたら、同人誌作れるね! ポメちゃんの自カプ本欲しいなあ……!」と返事をくれる。恥ずかしい、そして、いたたまれない。
「使い方、教えてください!」
これは懇願だ、悲願だ! センパイに会うのが楽しみでならなかった。
***
センパイの部屋はいつ見ても奇麗で、センパイのノートパソコンもデコっているのがかわいくて好きだ。推しカプのシールを自分で作って貼っているらしい。センパイは、絵も漫画もすっかりうまくなっていた。センパイというより、師匠という感じだ。好きだ、センパイはずうっと私の新刊を待っている。
クリップスタジオの操作と、ポメラニアントーンの手に入れ方をレクチャーしてもらう。その頃には自分用のノートパソコンがあり(大学生二年目になっていた)、クリップスタジオをその場で入れて教えを乞うことができた。
「これが、ポメラニアントーン!」
「やったね、ポメちゃん! 同人イベント申し込もう!」
そういえば、私はサークル参加はしたことがない。センパイの売り子として参加したことがあるから、サークルチケットで早く入ることができるのは知っていたけれど、同人イベントの申し込み方がわからない。センパイは「そっかぁ……」と言いながら、三か月後のイベントを申し込むことにした。センパイと私の自ジャンルはすっかり斜陽で、ジャンルオンリーが開催されている会場は流通センターしかないらしかった。
「アットホームな感じだから、最初はこっちでいいんだよ! 私も隣接サークルにできるし!」
「りんせ、つ?」
「そうそ、同じカプで申し込むと隣にサークルスペースを配置してもらえるんだよねー、楽しみだなあ! 自カプの本!」
満面の笑みでセンパイは私にサークル申し込みをさせようとする。ジャンル名までは下記込めた、けれど、カップリング表記のところで私の手は止まった。もう、白状するしかないらしい。
「あの……私、センパイと逆カプ、ですよ……?」
かれこれ五年の付き合いだ、今更言うことではない。センパイの顔を見るのが怖い。怖すぎる。
「え、私はリバっていうか、どっちも読むし、描くよ? だから、自カプ」
あっけにとられたのは私の方だ。ずっと煩悶していた私の葛藤の処理に困る。え、なんで言ってくれなかったの?
「な、なんで言ってくれなかったんですか?」
「ポメちゃんが動揺しているところ、かわいかったから」
かわいいセンパイに言われてしまうと、私の気持ちはぐちゃぐちゃになってしまう。
「え、私をもてあそんだんですか! ずるい!」
けらけらとセンパイは笑いながら、「うん!」とにこにこしている。 私の猛然たる抗議を受け流す。
そして、私ははたと気付く。
「ってことは、私はセンパイの本を半分しか持ってないってこと……?」
センパイは「そうだね、読む?」と言いながら、隠していた私の自カプ本を出してきた。悔しい、でも、好き! センパイのせいで逆カプもいけるようになったのに、やっぱり自カプは最高だ!
「センパイ、隣接サークル申し込みしましょう!」
私は意気揚々と叫ぶ。私の同人人生は、始まったばかりだ!
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