しかし、いつまで経っても死の女神はハーデスの首を描き切る様な真似はしなかった。

その手はガタガタと震え、…やがて大地に大鎌が落ちる金属音が響き渡る。

その音を聞いたハーデスが目を開けると、目の前では酷く辛そうに涙を流す死の女神が居た。


冥王「何故、余を殺さぬ…。お前には余を殺める正当な理由があるというのに…。」

《…出来るわけが無い。ハーデスを殺す事なんて、他の者を殺す事も出来るわけが無いっ…！　お前達に殺された過去を忘れたわけではない、こんな気持ちになる事は矛盾しているのも分かっているっ…！　この上なく恨んでいるのに、憎いのに、受け入れて欲しいと望んでしまうの…？　どうして、未だに貴方達を愛しいと思ってしまうの…！》


悔しそうに唇をかみ締めて涙を流し、心の内を吐露する死の女神をもう誰も恐れる事は無かった。

彼女は涙を拭うと、今だ出血をしているハーデスの傷口に手をかざし、ヒーリングを施した。

その小宇宙は、春の女神ペルセフォネの小宇宙と何ら変わらぬ優しさに満ちた小宇宙。


《…痛かったでしょう？　ごめんなさい、ハーデス…！》


葵とは姿形が異なっていても、心にある物は同じ慈しみに溢れている。

感極まったハーデスは、ペルセフォネを抱きしめる。


冥王「お前はやはり我が最愛の妻…！　私こそすまなかった、ずっとお前の気持ちに気付いてやれず、すまなかった！　ペルセフォネ…。」


沙織達はその微笑ましい抱擁を見ながらも、心の中では、

『役得じゃねぇか、ハーデスの野郎め。』

と思っていたが、この雰囲気をぶち壊すほど無粋でもないので心の中に閉まっておく。


クロ《下らぬ茶番よな…？》


その場に降り注いだ冷たい声に、皆が振り向いた。

クロノスは冷淡な笑みを浮かべながら、ペルセフォネを見つめている。


クロ《それで良いのか、ペルセフォネ？　お前はそやつらに騙されて、傷付く事になるかもしれん。オリンポスは猜疑と謀略の塊の集団である事、よもや忘れてはおるまいな？》


口にする言葉は何処までも冷たい。

だが、誰も気付いていなかった。

クロノスの瞳の奥に、言葉とは裏腹に慈愛の光が宿っている事に…。