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長曾我部元親

夜の帳が降りきった頃。夜に咲く華と呼ばれるこの街は眠ることを知らず、提灯や店の明かりがぎらぎらと眩しく輝いている。
男の手を引く女や、格子越しに客引きをする遊女。女を品定めするように見つめている男。様々な人間がこの街には居る。

そんな賑やかな街の中、一際目立つ女が一人。

どの男に声をかける訳でもなく、男を連れている訳でもない。かと言って店に並んでる女に目をやるわけでもない。

女はただ真っ直ぐに、もう行く場所が決まっているようなしっかりとした足取りで煌びやかな街の中を歩いていく。長く伸びた黒髪を靡かせながら。

数分ほど歩いたところで、女は顔を上げて一軒の店を見上げる。その店は大通りから少し離れた店。大きくはないが、今にでも潰れてしまいそうな程でも無い。裏通りに出ている店の中では比較的"まとも"な様相を呈している。店先に蓙が敷かれて居ないし、病気持ちの女や男がその辺に転がっている訳でも無い。


女がその店へ立ち入ろうとした時、裏通りをフラフラと歩いていた男がその女の腕を掴んで声をかけてきた。

「姉ちゃん、この店の子かい?もし良けりゃあ俺とどうだい」
見たところ客が取れなかったんだろ?と付け足しながら、男は女の腕を引き寄せて自分の元へと抱き寄せようとした。

が、女はその腕を力強く振り払うように解く。

「私は遊女では無い。女を買いたければ他を当たってくれ」
想定していたよりも遥かに冷たい声が返ってきた事に驚いた男は、思わず一歩退いて腕を掴んでいた手を離した。

「あ、あぁ。そうかい。悪いことをしたな」
「別にいいさ。私は急ぐから」
女はそう言うと、男の方へ振り返ることも無く店の中へと消えていった。


「こんばんは。遅くなって申し訳ない」
女が、長年楼主の代わりを務めている老年の女……遣手と呼ばれる役職の女に声をかけると、その女は受付台帳から顔を上げてその女に駆け寄った。

「これはこれは……お待ちしておりました。どうぞ此方へ」

遣手は、店を訪れた女を客の入る部屋とは別の奥の部屋へと案内するように襖を開いた。女は「どうも」とだけ言ってその部屋へと足を踏み入れた。
その部屋は客間と言うには小さく、四つほどの箪笥が並べられている酷く窮屈な印象のある部屋であった。

「それで、経過はどうです?何か変わった様子はありましたか」

女が遣手へそう声を投げると、遣手は首を横へ数回振り、「何も。誰もみな"酷く楽になった"と感謝していました」とそう言った。

「それは何より。あぁ、数は足りていますか?足りなくなったら言って欲しい。どうせ何度も来ますから」
「えぇ、えぇ。まだ数は足りています。本当にありがとうございます薬師様……何せ、男娼であれば、と手荒い扱いをする方が多く……」
「様と言われる程立派な薬師ではないですよ。少しでも楽になって貰えたのなら何より」

遣手と女はそんな会話を交わし、女はその途中に箪笥の中にある軟膏を手に取ってその量を確認していた。

(軟膏も大丈夫、丸薬も……大丈夫そう。この量ならばこの楼全員にも行き渡るだろう……)

女はそこで薬の事を考えるのをやめ、遣手へと目を向けた。
「あぁ、ところで、今日も……」
女がそこまで言ったところで、遣手は女の言わんとしていることを察し、そそくさと受付台帳へと目を通す。
「えぇ、空いております。……何度もお訊ねする様ですが、本当にあの男で宜しいので?」
「勿論。あの人が良いんですよ」
少し困ったような顔をする遣手とは対称的に、女はニコリと微笑んでみせた。
「……分かりました。ご案内します」
その女の笑みを見て、遣手は女を客間のある二階へと案内し始めた。


「……正直に申しますと」
二階へと続く階段を上がっている時、女の前を歩く遣手が口を開いた。
「薬師様も御存知の通り、この……この様な楼では、十二、三歳程の男が人気でして」
「彼はその、二十歳を過ぎているので……」
遣手の切れの悪い言葉を聞いていた女は、一瞬階段を昇る足を止めて遣手を見上げた。
「その事で、少しお話があって」


「では、ごゆっくりお楽しみください」
そう言い残し、襖を閉めた遣手は足早にパタパタと足音を立てて一階へと降りていった。

「久しぶり……!」
女はその足音が消えた瞬間、目の前に座っていた藤色の着物を着た男に向かって駆け寄って座り込んだ。

足を立てて布団の上に座り込む男は、客を饗す様な態度では無かった。が、女はそんな態度を気にすることも無く、男の目をじっと見てふわりと優しげに微笑んだ。が、そんな女とは対称的に、男はじっと静かに自分に微笑む女の事を見つめていた。

「あぁ、久しぶり。また来たんだな」
「うん!……あぁそうだ、この前の傷はもう大丈夫?」

女が、男の腕にそっと触れる。少し薄い痣の残るその腕を見ながら、女は眉を下げて男の手を包むように握った。

「……。あぁ、もう痛くねぇよ」
女の手をゆるりと握り返しながら、男はぶっきらぼうにそう答えた。
「……そっか」

男の手を握る女に向かって、男はまた低い声でこう声を投げた。


「アンタ、何時まで俺のとこに来るつもりだ?」
「え?」
「アンタが俺を買うような物好きな女ってのは分かったが、何時までこんな事を続けるつもりだって聞いてんだ」
「そ、れは……」
「……あの楼主から聞いたんだろ。もう時期新しい奴らが入ってくるんだとよ」
「……うん」
「薬師のアンタが俺を買っていたから俺はこの楼に居られたが、もう限界だろうな」
「……」
「俺が今更、表の店に出られると思うか?」
「……」
「分かってんだろ。俺みたいな奴が店に入ったところで、この前みてぇな事になるのがオチだ。ガキじゃねぇ男娼を買う理由なんざ、憂さ晴らしが殆どだろ?」


だから、と次の言葉を紡ごうとした男の口を、女は自身の唇を押し当てて塞いだ。吐き出した言葉を喉奥へと押し込むように、舌をねじ込んで。
突然の事にビクリと跳ねた男の手を強く握り、女はしばらく舌を絡めた後にようやく唇を離した。

「っは、あ……んだよ、急に……」

上がった息を整えながらそう言った男は、女の顔を見つめた。少し赤らんだ頬の男にもう一度軽い口付けを落とした女は、男の胸に擦り寄るように身体を寄せた。

「……」
男は少し躊躇ったが、いつもそうしている様に女の背中に手を回して抱きしめる。男の腕の中で目を閉じた女は、男の藤色の着物をぎゅっと握りしめて小さな声で囁いた。

「……元親」

男はその名を呼んだ声に少し顔をしかめる。源氏名では無く、男の本当の名前を呼ぶ声。女はいつからか男の事を源氏名では無く本当の名で呼ぶようになっていた。男は、それが苦手だった。この地獄のような場所で、希望を目の前に吊り下げられて本当の名前を呼ばれると、まるで本当にいつか救われるような気分になってしまうから。

「愛してる」
女はそんな言葉で、男の頬に手を添える。それが二人の始まりの合図だった。


日の昇る頃。
女は乱れた着物を肩にかけ、重い身体をずるりと布団から起こす。それと同時に、すぐ隣で眠っていた男も目を覚まし、身体を起こした女のことを見上げる。

眠たげに目を擦る女は、同じく少し気だるげな男に向かって「おはよう」と朝の挨拶を投げた。

「ん、あぁ、おはよう」

女の着物の隙間からは白い肌が見えて、その所々に疎らな赤い点が散らばっている。女は、そのどれもがもどかしくて仕方が無かった。金で手に入れた痕、欲なんて微塵も無い印。これは所有者の証なんて物では無く、ただの赤い鬱血痕。愛おしさなんて微塵も感じない。

愛が欲しいなんて強欲なこと、と自分を嘲笑いながら女は着物の帯をゆるりと締めた。

「……もう行くのか」

そう言った男を見下ろしながら、女は「まだもう少し居る」と微笑んで、男の銀髪に指を絡めるように撫でながら軽い口付けを落とす。

その少し後、階段を上がる足音が聞こえ、二人のいる部屋の目の前でその音が止まる。そして、遣手の女の声が女の名を呼んだ。

「薬師様、宜しいでしょうか」
「んん。……はい、どうぞ。構いません」

女は男と話していた声よりも少し低い声でそう返す。身体を布団から引きずり出した女は、ささっと服装を整えて襖の前に立った。

「おはようございます薬師様」

襖の前に立っていた遣手は、女に向かって深々と頭を下げている。

「おはようございます。……それで、どうでしたか」

男に聞こえないような声の大きさで、女は静かにそう訊ねた。

「……楼主の許可は降りましたが……その、値段がですね」
「……本当に?それで?」
「はい……」

男は、なんだか嫌な予感がしていた。楼主や遣手がこうして客と話していた後は、大概遣手からの鬱陶しい説教ばかりだったから。
薬師の女が来てからは頻度は下がっていたが、やはりこうなってしまったか。所詮遊郭に来る人間などその程度なのだろう。

そう思いながら、男は遣手と薬師の女をぼんやりと眺めていた。
すると、不意に遣手の女がもう一度頭を下げて階段を降りていった。

「お待たせ。……ねぇ、元親。話したいことがあるんだけど」
「……ん」

女は横になっている男の顔を優しげな表情で見下ろしながら、男の頬を手の甲で撫でるようにするりと手を寄せた。
これまで男が見てきたどんな表情よりも、穏やかな顔をしていた。

「……元親、身請け、って興味ある?」

男はその言葉に、思わず身体を勢いよく起こした。その勢いで、女の額と男の額がゴツンと音を立ててぶつかった。

「あいたぁ!」

女はそう声をあげたが、どこか楽しげに笑っていた。それとは対称的に、男は酷く動揺したような顔をしている。

「はァ!?アンタ正気か?!」

そう声を張り上げた男は、起き上がった勢いのまま立ち上がって女のことを見下ろした。震える手をギュッと強く握りながら。

「っ……言っとくけどな、身請けってどんだけかかるか知ってんのか!?」
「俺を揶揄いたいだけならもっとマシな嘘でも用意してくるんだな!」
「中途半端な同情なら要らねぇ、辞めてくれ」

そんな言葉を吐き捨てる男を見上げながら、女は声をあげて笑った。
女はひとしきり笑ったあと、男の顔をじっと見上げてこう言った。

「私が、同情なんて軽い感情で身請け話を持ちかけたと思ったの?」
「……私が、ただの仕事の延長線上で元親を買ってると思った?」

女のその言葉にグッと息を呑んだ男は、女の言葉の続きをただ静かに待った。

「元親が居たから、私はこの店に来たの。元親が居なかったらこの店に薬をわざわざ持ってきたりしなかった」

女も立ち上がり、男の胸に飛び込むようにそっと抱きついた。

「……私、本気なの。……だから……元親が嫌じゃなかったら」
「私に、買われてくれない?」

少しの沈黙。表通りから聞こえる遠い賑わいを背景に、男は戸惑っていた。この女の手を取って本当にいいのか?本当にこの女は俺を買うつもりなのか?

「……本気で言ってんのか?」
「うん」

あまりにも穏やかな顔でそう言うものだから、男もすっかり毒気を抜かれてしまっていた。

「……人一人を身請けすんのに、いくらかかるか知ってんのか……」
「知ってるよ」
「……アンタ、本当に物好きだな……」
「はは、知ってる」

男は、胸の中で笑っている女をそっと抱き締めた。これまでの金の関係では無く、もっと、純粋な何か。

「三日後迎えに行くから、待ってて」
「……あぁ」



三日後、満月の美しい夜のこと。雲ひとつ無く、普段ギラギラと明るいこの街もいつもより一際輝いている。
そんな賑やかな街の中、一際目立つ女が一人。
数人の護衛を引き連れて、表通りを闊歩する一人の女。
太夫でも無く、花魁でも無い。長い黒髪を一つに纏めた女は、ただ真っ直ぐと前を見つめて、とある場所へと向かっていた。
華々しい表通りを抜けて、月明かりが照らす裏通りへと足を運ぶ。
女は、裏通りのとある店の前で立ち止まる。そして、こう声をあげた。


「元親!迎えに来たよ!」
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