一次創作まとめ
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
彼女に恋をしたのはいつからだっただろう。
季節は暖かな空気を残しつつ、冷たい空気が時折肌を撫で笑い過ぎ去って行くようになった頃、昨年の竜よりもひと足早く目を覚ましたのが今年の秋から冬を知らせる私という竜だった。
生まれながらに、獣は本来の役目を本能的に理解し、遂行するように組み込まれていることも、自身が幾千もの輪廻を繰り返し巡ってきていることさえも、とうに理解していた。
記録は受け継がれていても、自我の記憶として残るかといえば違う。繰り返し世渡りをしている私という存在は所謂本来の私の一部の分身に過ぎず、本来の私は、世の環を外れた場所で静かに佇み、分身から伝達される世の情報を記憶し、記録していく。ただ、それだけ。
_ふと目を覚ますと、辺りは凍てつく空気が漂っていた。
ああ、漸く起きたのかと枯れ朽ちた木々を見つめ、ふっと吐息を風に乗せると瞬く間にパキパキと氷が蛇のように木々へ這い回った。
秋は終わりを告げ冬へ向かう準備をする、それは生物にとって備えるべきことが終わったことを合図する。
丸めていた身体を伸ばし、しっかりと四肢で身体を支えながら起こせば目線はぐんと高くなる。改めて辺りを見渡し、鼻腔に匂いを取り込むとつんと冷たい冬の香りがした。
凍りついている自身の翼をゆっくりと動かし、軽く羽ばたかせると葉のついていない木々から伸びる枝ががさがさと風圧で揺れ動く。
一連の動作を確認したことで、溜め込んでいた息を吐き出すと白く輝きふわりと空気に融けた。
それからしばらく、冬を見ていた。雨が冬の冷気に影響され、ちらちらと雪となり、雪が降り積もって銀世界になり、私が伏せれば雪は遠慮なく身体に付着し、保護色となった。
降り積もる雪の隙間から小さな蕾も覗いている。
毎年、毎年、どうしてもこの冬の風物詩には心躍るものがある。分身とて感じ、考えることが出来るのは一種の個体として成り立っている故だろう。
私が息を吹き出せば雪は凍りついて小さな鏡となり白く冷たいカーペットにとすとすと落ちるさまを、ひとりの人間がじっと見ていた。
流石の私も驚いた、これまで人間を見守りはしても関わろうとはしたことがなかったからだ。
だが瞬きをすれば一瞬で思考回路は切り替わり、現状を確認して落ち着きを取り戻す。
改めて人間の顔や体をじっと見る。至近距離で見る人間とは、随分小さく私が軽く前脚で転がしたつもりであろうと柔らかそうな皮膚はあっという間に裂けてしまうだろう。大袈裟に言うが私の皮膚と人間の皮膚では比べ物にならない。
顔には困惑、恐怖、好奇が混じりあって浮かんでいる。今まで生きてきた中で突然人間より巨大な生物を見てそう驚くのは正しい人間の感じ方である。
「随分と大きいの」
「あなたもしかして神体かなにか?」
人間は顔色をすぐに切り替え、私の目をまっすぐ捉えて口を開いた。そんなに見上げては首が疲れるであろうに。しかし、遥か昔からの人間の礼儀を重んじているようだ。なるほど。私と同じく切り替えの速さ、肝も度胸も持ち合わせているようだった。
体を折り曲げ、なるべく体勢を低くする。相手が丁寧に目を見て話すという礼儀を重んじているならば私も人間を愛するものとしてその人間の礼儀をしばし借りよう。
『可愛らしいお嬢さん、私は冬を知らせる竜だ。』
私が喋ると可愛らしいお嬢さんは口を開けてぽかんとした、それはそう。喋るだなんて思ってもみなかったのだろう。こちらをじっと凝視してはしきりにジェスチャーを通して私に伝えようとしていて少し微笑ましくも面白可笑しい。
そのまま腕を組み考えるように目を瞑ってしまったが数分経つとお嬢さんは目を開いた。
「驚いた、あなたが書に記されている冬の竜だったんだ」
『私のことを知っているんだね。中々博識なお嬢さんだ』
「私よく神話や伝記を大学で調べているの。その時に逸話で見かけたのよ」
腕を組んだお嬢さんの血色の良い唇が言葉を発する度に形を変える。焦りも迷いもない言葉はきっと先程整理された頭で予め練ってあったものだろう。
耳を傾けていれば、お嬢さんは大学生というものらしく、私が見てきた人の成り立ちや、未だ謎めく神秘を研究しているそうだ。
私という存在を知っている数少ない人間の一人、ということだ。その事実に私の心臓はとくりと鼓動を速めた。何故だかは理解し難いものだった。
「あら、もうこんな時間なのね」
段々と口を閉じていった私には特に気にも留めず、腕についた小物を横目でちらりと確認して空を見上げた。視線に釣られて私も空を見やれば今まで何度も何度も目に焼き付けてきた冬の空。うろこのような雲がふわふわと漂っていてまるで同胞が泳いでいるようだ。
流れる雲をただ何も思わず眺めているだけで刻一刻と時は過ぎ去る。
時間にすればほんの少しだが冬の景色は暗闇が徐々に包み始める。私たちを取り巻く空気はつんと冷たくなっていく。
それじゃあ私、もう帰るわ。またね。
下から聞こえる声に何故だか心に蟠りが出来た。
もう帰ってしまうのか。そう喉に突っかえて引っ込んだ。
幾千もの年を観てきた私が言葉に詰まるとは珍しい。片隅でぽつりとこぼした。
うむ。…また来るが良い。
苦し紛れに出た言葉がそれだった。
__あれからお嬢さんは時間を見つけては私の元へ今日あった出来事や育てている花が小さく咲いたと嬉々として話しては私の身体に身を寄せて目を伏せ、耳を塞ぎ、口をきゅうと結び閉じる。私はそれを真似てお嬢さんの冷ややかな風に当てられ冷たくなった体を包み込むように寄せた。
「あなたの体はひんやりとしているのに何処か暖かいわ」
こぼした一言と不思議ね。とゆるりと笑ってからまた口を閉じて眠った。
私はその何気ない一言に救われた気がして、眠るお嬢さんの額に軽く鼻を押し付けた。
そうしてはお嬢さんと会う度あの時感じた蟠りが大きくなっていくのがありありと感じ取れたがそれと同時に幸福感という喜の感情で満たされては中和されを繰り返していた。
春の兆しが随分と姿を見せるようになった頃、お嬢さんは随分と近くなった距離で今日も綺麗に花弁を広げて咲いていたとたわいの無い話などをしては私の身体に身を寄せる。
それは今まで通り、というわけでもない。
お嬢さんは頻繁に甘えを出してはぽろぽろと涙をこぼすことが増えた。それに帰り際、お嬢さんは何かを言いたげに口を開くが薄く開いた隙間からは溜息ばかりですぐに口を閉ざし、何ともなかったかのようにぺたりと笑顔を貼り付けてはまたねと帰っていく。
きっと、彼女は気付いている。
文書では描かれていない私の始終を。
くありと欠伸をこぼし、脳を覚醒させれば一番に強い春の香がする。
特に焦ることもなく、待機の体制をとって辺りを見渡す。
昨晩まで薄く残っていた雪はだいぶ溶け、草花が天然の雪解けを被り暖かな陽射しを浴びてのびのびと育っている。
上を見やれば太陽がさんさんと辺りを照らしている。そう言えばお嬢さんが今日は春一番だと昨日言っていたことを思い出す。その横顔は暖かな日差しに照らされ涼し気な風に揺られた髪が反射し遮って見ることは叶わなかったな。と独りごちる。
生憎にもお嬢さんはなにやら用事とこれからの準備で一日潰れそうで、ここへは来られないかもしれないという。
「もう卯月か、暖かいはずだ」
日が段々と登る度、眠気が襲う。その正体は言わずもがな解っている。
待て。まだ眠ってはいけないのだ。お嬢さんにまだ言っていないことがあるのだから。まだ冬でいさせておくれ。
何処か、水の跳ねる音がした気がした。
今年、新社会人となる大学生たちが集まって最後に皆とのお別れ会ということで打ち上げで締められた。
それぞれの道に進むみんなを見て嬉しくも寂しくも思う、だけどまたいつか会えるだろう。
日付を跨ぐ頃、どんちゃん騒ぎになっていた打上から解放され、またねーと飛び交う声に手を振り返すと同時に私の胸は心中穏やかではなくなっていった。皆ちりちりになる頃、私もその場を後にした。
順路を外れ、複雑なけもの道をすいすいと進めばぽつんとひとつ、真っ赤な鳥居が目に入る。
いつも、私が訪れると誘うように門が開いている気がして、甘えに乗って真ん中を潜ればふわりとどこからともなく冷たい風が笑いながら私の髪を攫っていく。
道のない道を進めば進むほど、開けた空間になっていく。
春になるにつれ、新緑芽ばゆる地面を軽く踏み鳴らしてゆくにつれて心臓はうるさく暴れ出す。
昨日までは、確かに美しい白色のスイセンが高く、雪のように咲き詰まっていた中央に静かに白銀の竜は佇んでいたはずだった。
その竜と話し、触れ合った場所には何も存在しなかった。
しかし、枯れて項垂れたスイセンを掻き分け進むとぽっかりと空いた空間の真ん中にきらきらと月の光を浴びて反射する一輪の真っ白なスイセンを見つけた。
「氷の中にスイセン…?」
それは、向こう側がハッキリと見通せるほど透き通って綺麗な形をした氷の中にラッパのような白く大きな花弁をめいいっぱい咲かせたスイセンが一枚だけ花弁を散らし、花弁に水滴が乗って、跳ねて、まさに生きた瞬間を切り取った美しくも儚い氷の世界。
この氷は私が持っても溶ける事もなく、冷たくもない、不思議な性質だった。
しばらくドライフラワーをぎゅっと抱えてうずくまっていたが顔を上げた途端一瞬だけ強い風が吹いて反射的に目を瞑る。
暗転した世界でなんとなく、察しはついていた。うっすらと目を開けてスイセンの花弁が深夜の景色に舞うのを見ながら、また強くなる風と共に舞い散る白と茶色のコントラストの後ろに、ぼんやりと朧気に輝く白銀が見えてじわりと涙が浮かんだ。
お別れだ、お嬢さん。
独特な聞き慣れた声に不釣り合いに動く口元。霧がかったようにしか見えないけれど、竜は困ったような雰囲気を醸し出して笑みになっていない笑みを浮かべていた。
私ね、貴方が好きだったよ、お嬢さん。
私は目を瞑って、耳を塞いで、口を閉じる。
何も見えぬよう。何も聞かぬよう。何も言わぬよう。
座り込む足腰に力を入れて立ち上がる。くるりと来た道に向き直り、小さな氷の世界を抱かえなおして歩いていく。けもの道を下って真っ赤な鳥居についたと同時に後一歩というところで足が止まった。
鳥居を抜ければ、二度とここへは来られなくなる気がしてしまって、少しだけ嫌だった。
腕の中にあるつるりとした質感の氷の中を覗き込んで一息をつく。
数秒間心を落ち着かせ、後ろを振り返らずに鳥居を通り抜ける。
ひたすらに走り続け目に涙が溜まってぼやける視界を乱雑に洋服の袖で拭って、走る速度が落ちるにつれ、また頬に涙が一筋通って化粧が落ちるのも構わず静かに涙を流していた。
ああ、冬の香りがする。
横たえた体が融けゆくのを何の感情もなくただ見ていた。こうして冬を振り返ってみると、随分と短いものだった。
ひとつ心残りがあるとすれば、答えを聞いていないという点かな。思い出して少し口角を上げた。
今年も皆に幸あらんことを。…願わくば彼女の行先に、冬の加護あらん事を。そう一心に思い、冬を見守る竜は冷たい息を吐き出して満足気に眠った。
融けた竜は春へと繋がれる。
その竜は、ひとりの人間に恋をしていた。
季節は暖かな空気を残しつつ、冷たい空気が時折肌を撫で笑い過ぎ去って行くようになった頃、昨年の竜よりもひと足早く目を覚ましたのが今年の秋から冬を知らせる私という竜だった。
生まれながらに、獣は本来の役目を本能的に理解し、遂行するように組み込まれていることも、自身が幾千もの輪廻を繰り返し巡ってきていることさえも、とうに理解していた。
記録は受け継がれていても、自我の記憶として残るかといえば違う。繰り返し世渡りをしている私という存在は所謂本来の私の一部の分身に過ぎず、本来の私は、世の環を外れた場所で静かに佇み、分身から伝達される世の情報を記憶し、記録していく。ただ、それだけ。
_ふと目を覚ますと、辺りは凍てつく空気が漂っていた。
ああ、漸く起きたのかと枯れ朽ちた木々を見つめ、ふっと吐息を風に乗せると瞬く間にパキパキと氷が蛇のように木々へ這い回った。
秋は終わりを告げ冬へ向かう準備をする、それは生物にとって備えるべきことが終わったことを合図する。
丸めていた身体を伸ばし、しっかりと四肢で身体を支えながら起こせば目線はぐんと高くなる。改めて辺りを見渡し、鼻腔に匂いを取り込むとつんと冷たい冬の香りがした。
凍りついている自身の翼をゆっくりと動かし、軽く羽ばたかせると葉のついていない木々から伸びる枝ががさがさと風圧で揺れ動く。
一連の動作を確認したことで、溜め込んでいた息を吐き出すと白く輝きふわりと空気に融けた。
それからしばらく、冬を見ていた。雨が冬の冷気に影響され、ちらちらと雪となり、雪が降り積もって銀世界になり、私が伏せれば雪は遠慮なく身体に付着し、保護色となった。
降り積もる雪の隙間から小さな蕾も覗いている。
毎年、毎年、どうしてもこの冬の風物詩には心躍るものがある。分身とて感じ、考えることが出来るのは一種の個体として成り立っている故だろう。
私が息を吹き出せば雪は凍りついて小さな鏡となり白く冷たいカーペットにとすとすと落ちるさまを、ひとりの人間がじっと見ていた。
流石の私も驚いた、これまで人間を見守りはしても関わろうとはしたことがなかったからだ。
だが瞬きをすれば一瞬で思考回路は切り替わり、現状を確認して落ち着きを取り戻す。
改めて人間の顔や体をじっと見る。至近距離で見る人間とは、随分小さく私が軽く前脚で転がしたつもりであろうと柔らかそうな皮膚はあっという間に裂けてしまうだろう。大袈裟に言うが私の皮膚と人間の皮膚では比べ物にならない。
顔には困惑、恐怖、好奇が混じりあって浮かんでいる。今まで生きてきた中で突然人間より巨大な生物を見てそう驚くのは正しい人間の感じ方である。
「随分と大きいの」
「あなたもしかして神体かなにか?」
人間は顔色をすぐに切り替え、私の目をまっすぐ捉えて口を開いた。そんなに見上げては首が疲れるであろうに。しかし、遥か昔からの人間の礼儀を重んじているようだ。なるほど。私と同じく切り替えの速さ、肝も度胸も持ち合わせているようだった。
体を折り曲げ、なるべく体勢を低くする。相手が丁寧に目を見て話すという礼儀を重んじているならば私も人間を愛するものとしてその人間の礼儀をしばし借りよう。
『可愛らしいお嬢さん、私は冬を知らせる竜だ。』
私が喋ると可愛らしいお嬢さんは口を開けてぽかんとした、それはそう。喋るだなんて思ってもみなかったのだろう。こちらをじっと凝視してはしきりにジェスチャーを通して私に伝えようとしていて少し微笑ましくも面白可笑しい。
そのまま腕を組み考えるように目を瞑ってしまったが数分経つとお嬢さんは目を開いた。
「驚いた、あなたが書に記されている冬の竜だったんだ」
『私のことを知っているんだね。中々博識なお嬢さんだ』
「私よく神話や伝記を大学で調べているの。その時に逸話で見かけたのよ」
腕を組んだお嬢さんの血色の良い唇が言葉を発する度に形を変える。焦りも迷いもない言葉はきっと先程整理された頭で予め練ってあったものだろう。
耳を傾けていれば、お嬢さんは大学生というものらしく、私が見てきた人の成り立ちや、未だ謎めく神秘を研究しているそうだ。
私という存在を知っている数少ない人間の一人、ということだ。その事実に私の心臓はとくりと鼓動を速めた。何故だかは理解し難いものだった。
「あら、もうこんな時間なのね」
段々と口を閉じていった私には特に気にも留めず、腕についた小物を横目でちらりと確認して空を見上げた。視線に釣られて私も空を見やれば今まで何度も何度も目に焼き付けてきた冬の空。うろこのような雲がふわふわと漂っていてまるで同胞が泳いでいるようだ。
流れる雲をただ何も思わず眺めているだけで刻一刻と時は過ぎ去る。
時間にすればほんの少しだが冬の景色は暗闇が徐々に包み始める。私たちを取り巻く空気はつんと冷たくなっていく。
それじゃあ私、もう帰るわ。またね。
下から聞こえる声に何故だか心に蟠りが出来た。
もう帰ってしまうのか。そう喉に突っかえて引っ込んだ。
幾千もの年を観てきた私が言葉に詰まるとは珍しい。片隅でぽつりとこぼした。
うむ。…また来るが良い。
苦し紛れに出た言葉がそれだった。
__あれからお嬢さんは時間を見つけては私の元へ今日あった出来事や育てている花が小さく咲いたと嬉々として話しては私の身体に身を寄せて目を伏せ、耳を塞ぎ、口をきゅうと結び閉じる。私はそれを真似てお嬢さんの冷ややかな風に当てられ冷たくなった体を包み込むように寄せた。
「あなたの体はひんやりとしているのに何処か暖かいわ」
こぼした一言と不思議ね。とゆるりと笑ってからまた口を閉じて眠った。
私はその何気ない一言に救われた気がして、眠るお嬢さんの額に軽く鼻を押し付けた。
そうしてはお嬢さんと会う度あの時感じた蟠りが大きくなっていくのがありありと感じ取れたがそれと同時に幸福感という喜の感情で満たされては中和されを繰り返していた。
春の兆しが随分と姿を見せるようになった頃、お嬢さんは随分と近くなった距離で今日も綺麗に花弁を広げて咲いていたとたわいの無い話などをしては私の身体に身を寄せる。
それは今まで通り、というわけでもない。
お嬢さんは頻繁に甘えを出してはぽろぽろと涙をこぼすことが増えた。それに帰り際、お嬢さんは何かを言いたげに口を開くが薄く開いた隙間からは溜息ばかりですぐに口を閉ざし、何ともなかったかのようにぺたりと笑顔を貼り付けてはまたねと帰っていく。
きっと、彼女は気付いている。
文書では描かれていない私の始終を。
くありと欠伸をこぼし、脳を覚醒させれば一番に強い春の香がする。
特に焦ることもなく、待機の体制をとって辺りを見渡す。
昨晩まで薄く残っていた雪はだいぶ溶け、草花が天然の雪解けを被り暖かな陽射しを浴びてのびのびと育っている。
上を見やれば太陽がさんさんと辺りを照らしている。そう言えばお嬢さんが今日は春一番だと昨日言っていたことを思い出す。その横顔は暖かな日差しに照らされ涼し気な風に揺られた髪が反射し遮って見ることは叶わなかったな。と独りごちる。
生憎にもお嬢さんはなにやら用事とこれからの準備で一日潰れそうで、ここへは来られないかもしれないという。
「もう卯月か、暖かいはずだ」
日が段々と登る度、眠気が襲う。その正体は言わずもがな解っている。
待て。まだ眠ってはいけないのだ。お嬢さんにまだ言っていないことがあるのだから。まだ冬でいさせておくれ。
何処か、水の跳ねる音がした気がした。
今年、新社会人となる大学生たちが集まって最後に皆とのお別れ会ということで打ち上げで締められた。
それぞれの道に進むみんなを見て嬉しくも寂しくも思う、だけどまたいつか会えるだろう。
日付を跨ぐ頃、どんちゃん騒ぎになっていた打上から解放され、またねーと飛び交う声に手を振り返すと同時に私の胸は心中穏やかではなくなっていった。皆ちりちりになる頃、私もその場を後にした。
順路を外れ、複雑なけもの道をすいすいと進めばぽつんとひとつ、真っ赤な鳥居が目に入る。
いつも、私が訪れると誘うように門が開いている気がして、甘えに乗って真ん中を潜ればふわりとどこからともなく冷たい風が笑いながら私の髪を攫っていく。
道のない道を進めば進むほど、開けた空間になっていく。
春になるにつれ、新緑芽ばゆる地面を軽く踏み鳴らしてゆくにつれて心臓はうるさく暴れ出す。
昨日までは、確かに美しい白色のスイセンが高く、雪のように咲き詰まっていた中央に静かに白銀の竜は佇んでいたはずだった。
その竜と話し、触れ合った場所には何も存在しなかった。
しかし、枯れて項垂れたスイセンを掻き分け進むとぽっかりと空いた空間の真ん中にきらきらと月の光を浴びて反射する一輪の真っ白なスイセンを見つけた。
「氷の中にスイセン…?」
それは、向こう側がハッキリと見通せるほど透き通って綺麗な形をした氷の中にラッパのような白く大きな花弁をめいいっぱい咲かせたスイセンが一枚だけ花弁を散らし、花弁に水滴が乗って、跳ねて、まさに生きた瞬間を切り取った美しくも儚い氷の世界。
この氷は私が持っても溶ける事もなく、冷たくもない、不思議な性質だった。
しばらくドライフラワーをぎゅっと抱えてうずくまっていたが顔を上げた途端一瞬だけ強い風が吹いて反射的に目を瞑る。
暗転した世界でなんとなく、察しはついていた。うっすらと目を開けてスイセンの花弁が深夜の景色に舞うのを見ながら、また強くなる風と共に舞い散る白と茶色のコントラストの後ろに、ぼんやりと朧気に輝く白銀が見えてじわりと涙が浮かんだ。
お別れだ、お嬢さん。
独特な聞き慣れた声に不釣り合いに動く口元。霧がかったようにしか見えないけれど、竜は困ったような雰囲気を醸し出して笑みになっていない笑みを浮かべていた。
私ね、貴方が好きだったよ、お嬢さん。
私は目を瞑って、耳を塞いで、口を閉じる。
何も見えぬよう。何も聞かぬよう。何も言わぬよう。
座り込む足腰に力を入れて立ち上がる。くるりと来た道に向き直り、小さな氷の世界を抱かえなおして歩いていく。けもの道を下って真っ赤な鳥居についたと同時に後一歩というところで足が止まった。
鳥居を抜ければ、二度とここへは来られなくなる気がしてしまって、少しだけ嫌だった。
腕の中にあるつるりとした質感の氷の中を覗き込んで一息をつく。
数秒間心を落ち着かせ、後ろを振り返らずに鳥居を通り抜ける。
ひたすらに走り続け目に涙が溜まってぼやける視界を乱雑に洋服の袖で拭って、走る速度が落ちるにつれ、また頬に涙が一筋通って化粧が落ちるのも構わず静かに涙を流していた。
ああ、冬の香りがする。
横たえた体が融けゆくのを何の感情もなくただ見ていた。こうして冬を振り返ってみると、随分と短いものだった。
ひとつ心残りがあるとすれば、答えを聞いていないという点かな。思い出して少し口角を上げた。
今年も皆に幸あらんことを。…願わくば彼女の行先に、冬の加護あらん事を。そう一心に思い、冬を見守る竜は冷たい息を吐き出して満足気に眠った。
融けた竜は春へと繋がれる。
その竜は、ひとりの人間に恋をしていた。
1/1ページ