短編

それは凍てつく冬と染み付いた熱



 私の好きな物。光が降り注ぐ朝にも永遠の夜が閉じ込められた場所。そんな夜を照らす星やお月様みたいに、きらきらひかるもの。私の愛する家族、そう……。

「エルヴィン」
「……」
「聞いてる?もう、エルヴィン!」

 向かいの椅子に座る彼の頬を抓って、やっと意識をこちらに引き戻したエルヴィンは、ひりひりと痛むはずの自分の頬は捨ておき私の頭をそっと優しく撫で付ける。深遠の愛の瞳に私が映されて、舌に溶ける砂糖よりも甘い胸の音が大きく高鳴った気がした。

「ごめんね、少し呆けていたみたい。さぁ、可愛いいたずらっ子のお話を聞こうか?」
「何も、ないよ。ただ、エルヴィンがちょっと辛そうに見えたの」
「そう見えたかい?アプリコットがここに居るのに辛いことなんてないよ。いつも通りの変わらない僕だ」
「嘘つき。いつものエルヴィンならお行儀が悪いとか、乱暴なことはしちゃダメって怒るもん……」

 冬を前に肌寒くなる秋の頃から、毎年エルヴィンはこうして先にある冬を見据えるように、意識を遠くへと向けることが増える。外套を羽織れば凍えるような気温では無いものの、エルヴィンの手は小さく震えていた。眉間に皺を寄せ瞼を伏せるその表情は、彼が自覚するよりもずっと悲しそうで、けれど私を再び視界に入れた時には先程の陰りなんてまるで無かったみたいに、本当に幸せだと伝えるように微笑んでいる。
 だけれど、きっと雲が晴れたわけではないから。アップルティーを優雅に口に運ぶエルヴィンを標的を定めるようにじとりと睨む。模範的な貴族の彼が、故意で起こしたマナー違反を見逃すだなんてことは、どう考えたっておかしいのだから!



 
「寒いの苦手なのかな?」
「うーん、ふふ。そうかもしれませんねぇ。誰だって苦手なものを前にしたらずんと、うーんと憂鬱になりますもの」
「暖炉、十分暖かいのに。さては相当な寒がり屋さんなのかも……」

 私の膝に赤いブランケットを静かにかけて、メアリーさんは本に出てくる優しいお母さんのように、小さく控えめに微笑んだ。
 貴族の家に生まれたエルヴィンは、他者よりも感情の抑制に馴れている。それは社交の場におけるマナーであり、処世術でもあるのだと、複雑な貴族社会のことは未だ分からないけれど……兎も角、辛い時に辛いのだと声に出せないことがどれほど悲しいことであるのか、それくらいは賢くない私にも理解出来るのだ。
 エルヴィンが寒さに特別弱いのだと仮定する。暖炉に手を近づけ、じりじりと染み入るような熱を感じた。……寒いのって、私は好きかも。だって、冬が訪れなければ私は轟々と燃え上がる火を忌避していたかもしれない。火の放つ熱を疎ましく感じたかもしれない。寒さが与える幸福があるのだと、彼にも伝えてあげたい。
 
「……マフラーを編んだら、暖かいかも。うん、メアリーさん、私マフラーを作りたい!」
「編み物ですか、いいですねぇ。でしたらお嬢様、私がお教えしましょうか?」
「うん、よろしくお願いします!あっ、街にお買い物に行きたいけど、エルヴィン、私一人でお出かけなんて許してくれるかな……?」

 折角なら、何歳になっても心躍るであろうサプライズを計画したい。けれど、君は好奇心旺盛で目を離したら何処までも駆けていってしまうから絶対一人にはさせられないだとか、そう言って外出の度に手をぎゅっと握るエルヴィンが私を一人にするだろうか?おまけに最近は目眩や息切れを起こすことが増えて、彼はその度に泣きそうな顔をして、以前よりいっそう過保護になった。
 考え込む私を見て、メアリーさんは少し冷えた指で、私の手にそっと触れた。
 
「私が居れば大丈夫ですよぉ。護衛に、口の堅い騎士も連れていきましょう。主のためのサプライズだと説明したなら、きっと喜んで手を貸してくださるはずですわ」

 コーリングと言えど、孤児に仕える貴族だなんて通常では不名誉なのだから、眉を顰められることがあってもそれは普通のことなのだと受け入れられる。つい最近まで厳しい目を向けられる孤児であったのに、突如世界で一番尊い存在だなんて告げられたって、当の私ですらただの一度も自覚したことはない。
 愛されなくても愛しているし、ごめんねって、きみの思いを尊重するよって、手放す準備だって出来ている。それでも、出会った時から変わらず親切に振舞ってくれるメアリーさんの好意は心地が良くて嬉しかった。愛が温もりと共に伝わるよう、冷たい彼女の手を両手で包み込んだ。子供体温だねって、エルヴィンのお墨付きだ。
 
「メアリーさん、いつもありがとう」
「いいえ、私のお嬢様。愛する人に渡す愛の籠ったプレゼント。まぁ、なんて夢みたいなことかしら!」



 
 日が差し込む午前中。約束のデートの日。白いワンピースの裾を意味もなく弄る。大好きな赤色を纏うかぎ編みのカーディガンが視界に入る度、脱ぎ捨ててしまいたくなった。メアリーさんが丁寧に髪を編み込んでせっかく可愛くしてくれたのに、今日の気分ではとても喜べそうにない。
 準備を終えたエルヴィンが小さな合図と共に部屋に足を踏み入れる。卑しいことなんて何も無いのに、悪いことを仕出かしたみたいに、肩が大きく揺れた。
 
「おや、可愛い。小さな林檎のお姫様みたいだ」
「えへへ……ありがとう。エルヴィンはいつも王子さまみたいにかっこいいよ」
「それも、星の国の王子さまだろう?ありがとう。準備が出来たならそろそろ行こうか?」
「あ……」
 
 ドレッサーの前に置かれた椅子をそっと盗み見る。そこには可愛くラッピングされたマフラーが置かれている。プレゼントがあるのだと、告げようとした声は喉で留まった。
 精一杯、不器用なりに彼を思って編んだつもりだ。懸命に取り組んだのだから、気持ちは十分に籠っている。しかしその出来栄えは、想いと釣り合うものでは無かった。
 袋の中に収められた、完成したマフラーを思い浮かべる。穴が目立つかと思えば糸がぎゅうぎゅうに詰まっていたり、更にその糸が飛び出していたりなんかして、不均一な編み目がぼこぼことしている。達成感からその場では気にも留めなかったが、常に一級品ばかりを目にして生きてきた彼に素人の手作りを渡そうとした事実に直面すると途端に恥ずかしさが込み上げ、とても渡そうだなんて思えなかった。
 こんな事なら、初めから買ったら良かった。優しい彼なら、量産された既製品だって一点物の貴重な商品と同じくらい喜んでくれたはずだから。
 
「……もしかして、また体調が悪いの?」

 愛する人の優しい顔が曇って、血の気が引くような感覚で我に返る。そうだ、笑って欲しくて計画したのに。勝手な意地で悲しませてしまったなら、それこそ本末転倒だろう。
 
「あっ、ち、違うよ、元気だよ。じゃなくて、マフラーを。エルヴィンに作ったんだけど、その……」
「マフラー?」
 
 焦燥感の中で、ぐちゃぐちゃの編み目みたいに言葉を紡ぐ。こんなつもりじゃなかったのに。
 普段の私であれば、これほどまで不安になる事なんてなかった。だって、愛してるから。これは愛が生んだものだから。恥じることなんて無いはずだ。例え気に入らないと処分されることがあっても、愛が手招くままに起こした行動なのだから。拒絶さえ包み込む、それが愛だから。
 しかし彼を前にすると、簡単に心がかき乱された。彼が私に向ける愛が、教えてくれた初めての愛が少しでも損失することを恐れた。決してマフラーひとつで揺らぐような人ではないと、頭では理解していても。

「アプリコットが編んだのかい?」
「う、うん。でも、メアリーさんも手伝ってくれたけど、あんまり、格好良くは編めなくて……」
 
 それでも、いい?問いかけた声が窄んでいく。嬉しい、見せてみてって、言ってくれることはとっくに知っていた。椅子の影に隠していた袋を手渡す。彼がリボンを解く音が緊張感を走らせる。羞恥が追いかけてきて、エルヴィンの顔は見られなかった。

「巻いてくれる?」

 声に導かれるまま無意識に顔を上げると彼と目線が交わって、結婚式みたいだと、ふと思った。指輪は交換したから、ベールアップかな。なら、誓いのキスは必須かも。
 繊細なベールの代わりに、不格好なマフラーを巻く。少し屈んだエルヴィンの肩を支えにして、背伸びをしてキスを贈る。そっと顔を離すと、エルヴィンは私の心に触れるみたいに微笑んだ。

「暖かいね。林檎色も君らしい……本当に嬉しいよ、僕のためにありがとう」

 細まった目尻と紅潮した頬、いつもより僅かに高いその声が、心からの喜びを物語っている。気持ちが高揚した今なら、彼に伝えられる気がした。
 
「あのね、暖炉の火って、寒いからこそ嬉しいんだよ。だからそのマフラーも、エルヴィンが冬が近くなる度に早く付けたいなって、冬が早く来ないかなって、楽しみになったらいいなぁって、思ったの」

 結局のところ、あまり上手くいかなかったけど。それでもエルヴィンは、宝物を得たみたいに幸福をその優しい顔に示してくれた。

「アプリコット」
 
 腕を広げたエルヴィンの胸に飛び込んだ。名前を呼ばれるのが好きだ。貴方に出会ったあの日から、貴方が呼んでくれたから。
 
「そうだね、アプリコットが、マフラーがあれば、寒さが与えるものが痛みだけじゃないはずだ……」

 抱きしめる腕の強さが増して、エルヴィンの顔を見上げることは叶わないから、代わりに彼を強く抱き締めた。
 ――いつか、私が彼の隣に居られなくなる未来が来るとして。この熱を忘れないでいて欲しいと思う。巻を焚べ続けないと燃え尽きて消えてしまう暖炉とは違い、私が捧げる愛が彼にとって永遠であることを切に願う。
 その愛が、マフラーが。巡り来る冬の日、直接貴方を抱き締めることが叶わなくなった私の代わりに、凍えそうになる彼を暖めてくれることを祈っている。だって、もうどこかで知っている、祈る他、無いのだと。
 ねぇ、エルヴィン。来年の今頃、きみはまだ震えてる?
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