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言葉が息をしたがっている

「私、空が青くて本当に良かったって心底思うわ。」
真っ白な布と壁に覆われた場所で、彼女は僕の瞳をまじまじと眺めながら呟いた。
「何だい、藪から棒に。」
己が瞳に穴が空く前にと、手元の林檎に視線を戻す。ナイフを滑らせるその都度緩やかに落ちて行く紅と、漂う甘い香りに深く息を吸い込んだ。
「例えばその林檎、私大嫌いよ。」
リリィは細く白い指先で林檎の皮を手繰り寄せ、眉尻を落とした。
「どうして?君は好きだろう、果物。」
「果物は好きよ、美味しいもの。でも貴方にそんな顔させるなんて、嫉妬しちゃう。」
その声色は怖いくらいに穏やかで、僕はナイフを手放した指先で彼女の頬をそっと撫ぜた。
「僕が君にナイフを向けたことがあったかい?」
「いいえ。」
「なら、誰かに食べさせようとしたことは?」
「馬鹿。」
こんな他愛の無い冗談だけが、彼女の表情を綻ばせた。
「貴方の瞳が綺麗な青でよかった。そうじゃなくちゃ、私はもうすぐ逝く場所さえもを拒んでいたかもしれないもの。」
僅かに伏せた睫毛が震える。白い部屋で反射を繰り返す日の光は、長い長い彼女の金色の髪をも眩しく染め上げた。下唇を噛んだ拍子に纏わり付いたその1束ごと、僕は彼女の唇に柔く噛み付くように口付けて告げる。
「昔話は嫌いだろうけど、敢えて言わせてもらうよ、リリィ。君はこの真っ白な部屋に入る前、沢山の色に溢れたこの世界が愛おしいと、いつもそう言っていたね。僕はそんな君が愛おしかった。だからどうか、君の逝く先がこの世界よりもずっと鮮やかで美しい事を願わずにはいられないんだよ。」
錆び付いたパレットみたいな、君の心が再び潤いを取り戻す。その日はそう遠くはなくて、ただその場所は手が届かないほどに、とても遠くて。少なくとも僕には、まだ辿り着けない場所だ。
「今の綺麗な私の事は、どうかその瞳の奥に生かしておいて頂戴。これから先この世界で私の生きる場所は、そこ以外要らないから。」
君は僕を遺して逝く。それならもういっそ、溢れる涙を全部飲み干して逝っておくれ。君を生かすこの瞳が、君を想って泣く事がもう、ないように。
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